9.



 ええ。先生。もうこれは大丈夫ですよ。今夜にでも試して頂けます。
 しかし――……しかし。理由は聞きませんが。やはり決してよくない心持がしますね。こういうのは。彫師としても。
 昔っから、ごく稀にこういう依頼があるんですがね。信仰を変えるんじゃないが、何かの理由でこっそりと、見えないところに黥を入れるっていうのが。
 まあ、わたしら詳しいことは知りませんが、やはり何か、不道徳なことのような、禁を破ったような感じがしますよ。虫が騒ぐっていうんですか。
 あまり滅多なことは、なさらんで下さいよ。先生。まあ、お一人ではないから、大丈夫でしょうけれど。



 夜更けて、誰もいない学院へ戻り、研究室へ二人で入った。
 目立たぬよう、布をかけたランプを机の上に一つ置いて、互いに勇気を出すために、体を重ねた。
 それでも時間はまだたっぷりとある。二人はてきぱきと実験の準備を始めた。
 男は巻き尺を頼りに、チョークで床に直接目盛りを引いていく。
 正確に、30バルクの重量のある鉄の錘を用意し、それを目盛りに従って移動させる仕事を、実験の一単位とする肚なのである。
 男は実験の人であった。一晩で、可能な限り数をこなし、しかもそれを百夜は繰り返すつもりでいた。誰にも誤魔化せない、否定できない厳密な結果を求めていた。この切りのない、自分たちの疑いを終わらせるためにも。
 女の方は、被検体の各身体データを採るための手筈を整え、最後に記録のための筆記用具と携帯時計を置いた机の前に座った。
「始めるか」
「――ええ」
 短い休憩によって呼吸を整えた後、男は身長、体重、脈拍を記録してから錘の前に立った。
 ンマロの港で調達してきた、直方体の鉄の塊である。問屋が積み荷の測定に使うものだ。側面に持ち手が着いているが、頑丈で重いため、目立たぬよう学内まで持ち込むのも、たった今、定位置へ持ってくるのにも、大変な苦労をした。
 男は運動の得意な人間ではないし、鍛えてもいない。
 それが、術によって、どれだけ違って来るか。
 道徳をもって圧迫しても消しきれない好奇心が、学者の目に、業の光を点す。
 彼は両袖をまくり上げていた。その左腕の内側に、小さな、黒い黥が、刻まれていた。
 床の錘を抱え込み、意識を集中する。
 女は息を凝らして見ている。
 まるで水が染み入っていくかのように、静かに黥が赤く光り始める。
 やがて完全に赤い花輪が浮かび上がった時、錘は――ほぼ、男の身体そのものと同じくらいの重量を持つそれは、床から浮かび上がった。
 男の顔が歪む。手ごたえの、あまりの軽さに。
 彼はそれを目盛りの果てまで簡単に移動し終え、そして、下ろした。再びそれに手をかけ、持ち上げる。数歩移動し、元の位置へ戻す。
 そして言った。
「……一回」



「……なんて力なの」
 魅入られたようになっていた女もまた、感情を捌き切れずに、言葉を漏らす。
 男も未だ信じられないような顔のまま、一つ頷いた。
「ほぼ、三分の一くらいに感じるな。かえって筋や骨を痛めそうだ。――異常な、見も知らない熱量が、脊髄から流れ出てくるような感じだ。その元をたどると、奇妙な場所の気配を感じる。ひどく荒涼としていて、寂しいどこか――」
 夢のようにまとまらない感想を吐き出し、それを上下の歯で噛む。
「なんて簡単なんだ」


 二人の学者は、この作業を反復し、決められた回数が終わったので、身体の各数値を測定した。
 今夜は二十回を一区切りに、これを五度、行う予定だった。
 邪魔するものとてなく、深夜の静寂の中で淡々と実験は続いた。区切りごとに短い休憩を挟む他は、ひたすら作業を反復する。
 女は、黙って男を見守り、測定を引き受けていたが、いつしか、その表情が変わり始めていた。いくら負担が少ないとは言っても、二度目以降、男は上気し汗をかき始めていたが、彼女の目は、もっと遠くを見ていた。
「――ねえ、ガニア」
 とうとう、三度目の測定の直前に彼女は言う。眼鏡の奥の茶色の目を丸く瞠って。何かをこらえるように、顎に手を添えて。
「どうした」
「あのさ、わたし達……避けられてたでしょう。アガタに。あの事件が起きる前……」
 汗で濡れた前髪をかき上げていたガニアの表情が一瞬で曇る。二人の同期生はよくこうやって、十数年の長さを一息で無にした。
「……そんなことはない」
「避けられてたわよ。あの時も、あなたはいやがって否定したけど。……あの子はネコ先生やわたし達との付き合いが煩わしくなって、クローヴィスだけに、のめり込んでいるように見えた。本当に彼に夢中になったみたいに見えた。あなたは、それを認めるのがいやだったんでしょう?」
「そんな話は後でいい」
「わたしだって、そう考えたのよ? そして傷ついたし、分からなかった。どうして、こんなにも心配しているわたし達を無視するのか。あの子は決して極端な性格の子じゃなかったのに。もうすっかり心を奪われたみたいで――。人がまるきり違ってしまったみたいで。分からなかった」
 どうしてあんなことになってしまったのか。
 ちっとも合点がいかなかった。
 クローヴィスが殺したのだと考え、彼を責めても隙間は埋まらない。
 だってアガタもクローヴィスも、そんな性格の人間ではなかったからだ。どう計算しても、どんな陰謀をそこに添加しても、辻褄は合わない。
 だから学者たちはずっとずっと考え続けた。時には地獄の苦しみだった。が。
 ポリネの脳に今、稲妻のように走るものがあったのだ。
「……あの子……」
「ポリネ。集中しろ。次で測定だぞ」
「……ガニア。あの子……」
 ガニアが何かから逃げるように錘を持ち上げたのと、ポリネがこう言ったのは同時だった。
「わたし達と同じことをしたんじゃないかしら」



 その時だった。
 ガニアの細い腕の内側に赤く咲いていたララシアス文様に火が付いたように熱が滲み、生体としての反射に打たれて、彼は錘を放り出した。
 騒音にも構わず、右手で腕を抑えてうめき声をあげる。
「ガニア?!」
 立ち上がったポリネも、うめくガニアも、何かこれまで経験したことのない、苦いような、奥の痺れるような、不思議な味覚を舌に感じた。
 気が付いた時にはすぐそばに来ていた。
 薄い光をまとう、ずんぐりとして、巨大で、不思議な、『何か』が。






 時は、その日の昼に遡る。
 ソラとハンは、揃ってガニアの講義を聴き終え、挨拶をし、授業料を払って教室を出るところだった。
「ねえ、ソラさん。先生、なんだかお疲れじゃないですか」
 ハンの言葉に、ソラは初めてそれに気づく。
「あ……。そうでした?」
「いえ。僕の気のせいかもしれないんですが。どことなくお顔の色がよくないような……」
 ソラは振り返ってみたが、ガニアは身をかがめて帳面に何か書きつけており、あまり変わった様子は見られなかった。
 ふとソラの視線に気づいて顔を上げ、「なんだ?」というような目をする。いつもの苦いような、悲しげなような、正直者の瞳だ。
 ソラはなんでもないことを知らせるために、改めて会釈し、講義室を出た。
「……確かにちょっとお疲れかもしれませんけど、ガニア先生っていつもあんな感じじゃないですか」
「なら、やっぱり気のせいですね。だいたいシギヤ学教授の健康を僕らが心配することもないとは思うんですが」
 シギヤ学は、最も人間の生態に詳しい学問である。
 思わずソラも笑みをこぼした。
「『学者の不養生』って言葉もありますけどね。ハンさん、お優しいから」
「別にそういうことはないんですが」
 たったこれだけのことで耳を赤くして渋面を作る。
「とにかく色々ありましたからね。ご心労があるだろうと思って……。ところで、ソラさんもなんだか、ご様子が変ですね?」
 咄嗟のことで、ソラは、口ごもった。
「そ、そうですか?」
「ええ。講義を聞いているときは普通ですが……今日、僕が下宿に行ったら、扉を開けて下さるまで、なんだかものすごく粘られたじゃないですか」
 今度はソラが耳を赤くする番だった。
 ハンは例によってとっても礼儀正しく、遠慮がちに、それでいてちょっと傷ついたふうに尋ねてくる。
「最近、ちょっと馴れ馴れしくしすぎていましたか。お嫌でしたら、もうお部屋を訪ねるのはやめますが……」
「あ、いえ。ごめんなさい。大丈夫です。ハンさんのことを疑っているわけじゃないんですが……」
 ソラは、二日前のとんでもない時刻に、とんでもない鬼の襲来を受けて以来、完全に警戒体制に入ってしまって、それがなかなか抜けないでいるのだ。
 あれから毎日、彼女は下宿に帰ったらまず人が入っていないか部屋中を確認していたし、夜眠るときには扉の前に椅子と本を積んでから寝ていた。
 今朝はまずハンの正体を糺すのにひと手間かかり、それからその荷物をどかすのにもうひと手間かかって、彼を驚かしたわけである。
 ばかばかしい。自意識過剰だ。何様のつもりだ――と、自分でも思うけれど、一度部屋に泥棒に入られた人間の気持ちは、その経験のない者には分からない。
 まして相手は認定された人殺しで、実質的に誰の支配も受けない、常識も良識もまったく期待できない、ソラの知る限り最強最悪の学者なのである。十七歳の、シギヤ学徒であるところの非力なソラが、扉の前に防壁を築くくらいの児戯に走っても、容赦されるべきだろう。
「ひょっとして、何か、ありましたか?」
「…………」
「また、アルスス学徒の嫌がらせでも?」
 いや。来たのは親玉だ。そして、二度と来ないとは言っていたけれど――。
 ソラはハンに話せなかった。一つには、自分でも自分の慌てっぷり、過剰反応を恥じていたので、総じてうまく説明できる自信がないこと。もう一つには、ハンの反応が怖かったためだ。
 ハンは最近ずっと彼女の味方で、礼儀正しい好青年だが、いかんせん東部の男である。
 彼女はすでにあの夜、ゾンネンに不快な言葉を投げつけられている。一方的に不道徳なことをしていると責められた。現場には二人いたのに。
 礼儀正しいハンがあんな悪罵を言うとは思えない。だが逆に、自分以上に大げさに反応されそうな気がする。ものすごく気を使われ、余計なことをされてかえって気まずくなりそうな予感がする。
 ソラはもうこれ以上、騒ぎにしたくないのだ。事を収めたかった。忘れたかった。無論、話した方がハンは納得するだろうし、彼の友情には報いるだろう。
 だが。しかし――。
 でも。ううん……。



 葛藤していたせいで、ソラにしては珍しく、学内で派手な隙が生じた。
 ところで世の中には、『ごめんなさい。馴れ馴れしすぎましたか』などという奥ゆかしい逡巡とは無縁の人間がいる。
 階段を降り、地上の回廊へ至った時、そういう奴の一人が彼らの背後へ走り寄ったかと思うと、一体に何の躊躇もなく、高低それぞれの首に腕を回して、どーんと体をぶつけてきた。
「うわっ?!」
 全身に響く衝撃、そしてだらんと下りてきた重たい手に、ハンが悲鳴を上げる。首をねじり、驚きと、汗の匂いに顔を歪めながら、その破廉恥漢の名を叫んだ。
「――い、イラカさん?」
「はーい、お二人さん。お久しぶりー。奇遇だね。……って、あれ?」
 砂ぼこりだらけの体。無残な無精ひげ。そしてほつれた髪という異常ないで立ちにもまるで構わず、後ろからべったりと二人にもたれかかったイラカだったが、ふいとソラのほうにその高い鼻筋を向ける。
 ソラは、斜めに彼を見上げたまま身を固くし、まるで人形のように凍りついて、大変に白い顔をしているのだ。
 大きな水色の瞳が、濃い金のまつ毛の間から、彼女の茫然を写す。
「あれ。もしもーし。ソラさん? まさか俺が誰か分かんない? 俺だよ。あなたの、イル・カフカス・イラカ、ですよー」
 目の前で手がひらひら振られた次の瞬間、ソラは胸の前に持っていた書籍を、思い切り振ってその腹部に叩きつけていた。
「ありがとうございます!!」
 イラカはきれいに後ろに吹っ飛んで、一瞬宙を舞った。



「……お気の毒とは思いますが、今のはあなたがいけません。いくらなんでも、女性に対して失礼ですよ」
「うーん。空は青く、世の中は厳しいなあ。十時間耐久に疲れ果てて神階から戻って、思いがけず友達に会えたからちょっとはしゃいじゃっただけなのに」
「十時間耐久? ……本当に潜っているんですね。それでそんな有様なんですか。いつも身だしなみのよい方なのに。……手をどうぞ」
「ありがと……っと。――まあなんか、間が悪かったっぽいね。ごめんごめん、ソラ。あんたが女の子だってことすっかり忘れてたよ」
 相変わらず言いたい放題の男だが、ソラは、反論の言葉もなかった。
 自分の暴力性に自分で赤面し、腰が抜けるかと思うほど恥じ入っていたのである。
 あの夜以来、彼女の体内に蓄積されていた怒りと戸惑い、緊張と不安のすべてが、不用意に近づいてきたイラカに対して思い切り爆発してしまった。これが八つ当たりでなくてなんだろう。
 イラカもハンに起こしてもらうまで地面に完全にひっくり返っていたが、ソラはソラで、武器として使った書籍を頭の上に掲げて顔を隠し、その場にしゃがみこんでいる。
 なんだか他人に説明しにくい修羅場だ。
 ハンはどちらの面倒を見ようか迷った末に、先にイラカの方に身を屈めたのである。
「ソラさんも、立たれて下さい。無理もないですよ、今のは」
「…………ごめん……」
 本の陰から潰れたような声が漏れる。
 ハンがとりなすように、ぽりぽりと顎の無精ひげを掻くイラカに言う。
「ソラさん、もともと朝からちょっと余裕がない感じだったんですよ」
「あ、そうなんだ。なんかあったの?」
「…………ちょっと……」
「また馬鹿な学生に絡まれたとかじゃないよね? だったら言ってよ? 追い払うから」
 似たような事案だが、だから、絡んだのはあんたの親玉なんだと。
 彼らに正直に話せたなら、どれほど気が楽だったろうか。
 とりあえず、恥を忍んで、立ち上がる。通りすがりの学生たちの視線を受け続けるにも限界だったのだ。
 それでもイラカの顔が見れずに手で額を隠す彼女に、いつものように明るく彼は言った。
「悪い悪い。多分今俺、クサいしね。でも、今ので良かったんだよ。嫌だったらぶん殴ってくれりゃいいんだ。別に大して痛くないし」
「……そんな提言がありますか、反省のない。そもそも、女性に暴力を振るわせるようなことをしてはいけません」
「ご愛嬌だよぉ、あれくらい。思わずお礼言っちゃったくらいですよ。何しろ非人間的なところにいたからね。十時間ぶっ通しで人外と戦いっぱなしで。ご褒美ご褒美。ハンさんはまだこの楽しさを知らないのかね?」
「……本当にこたえない方ですねえ」
 どこまでも不真面目を通すイラカに、生真面目なハンは苦笑を漏らす。
 ソラはまだ赤面していたけれど、二人のさりげない気遣いに応えねばならないと思った。恥も罪悪感も、一旦振り払って、顔を上げる。
「やっぱり、霊が、出るの?」
 イラカは合図でも受け取ったように、歯を見せてかちりと笑った。
「もうね、出るなんてもんじゃないよ。第二神階の倍はいる。潜るたびに、出来るだけ奥へ進もうとするんだけどさ、ほんのちょっと距離を稼ぐだけでも、実に大変。見せてあげたいよ。やっぱり一人じゃあ到達不可能かもしれないね」
「僕たちで役に立てることがありますか」
「うーん。ご提案は大いにありがたいんだけど、多分、あんた達だけでも足りないな。選り抜きの学生が十人か二十人集まって挑めば、何とかなるかもしれない」
 ――そんなにか。
 ソラとハンの顔が真剣に曇る。
「無理、しないでよ?」
 思わずソラは言った。
「本当に命に関わると思う」
「うん。俺もここんとこ本気でそう思うようになった。神階で倒れても、誰にも見つけてもらえないしね。――たださあ。楽しいんだよねー。困ったことに」
 イラカは筋肉質で筋張った首を倒した。ほつれた金の髪がその幹にまとわりつく。
「とにかくこれ以上はない実戦じゃない。しかもあの人が確実に通った道、見た光景の中でじゃない。もう楽しくて楽しくて。講義なんて聴いてる場合じゃないねえ」
「でもやっぱり、体力の急な減退があるんでしょ?」
「あるよ。俺の場合、かなり気を付けても二時間を過ぎると明らかに体が重くなってくる。これもさ、講義受けてるだけじゃ分からないことなんだよね。つまり本気で、全力で戦ってて、やっと分かるわけだから」
「その手ごたえさえ、『楽しい』わけですか」
 と、ハン。
「だって事の核心だから。だろ?」
「おっしゃる通りですが。危険なことでもありますよ」
 私達の心配も分かるでしょう? というハンの言葉に、イラカは微笑んだまま、目を伏せた。
「院長の、あんな布告を真に受けて、何も聞かず何も疑わず、許された学問だけをものして未来の危険に目を向けないなんて。俺はそんな『学生』でいるつもりはないなあ。あんたらもそうだったら、嬉しいんだけど」
 二人がちょっと黙っている間に、イラカは別の話を始めた。照れたのかもしれない。
「そういや時々、神階で変な気配を感じることがあるんだ。この間も、それが道を駆け抜けて行って。……あれ、なんだろう。ものすごく大きな何かだと感じるんだけど。誰に聞いても知らないって言うんだよな」
「……イラカ。とりあえず、ちょっと休んだ方がいいと思う。体力の減退を押して、十時間でしょう? 今すぐ休息が必要だし、次に神階に入るまで、ちゃんと間もあけないと駄目よ。薬を作ろうか?」
 笑うと歪む彼の頬の文様も、見慣れてきた。
「ありがと。大人しく帰って休むわ。その後、そっちは何か分かった?」
「まだ調べてる最中。クローヴィスの研究室には、行ったよ」
「行った? すごいでしょー」
 確かにすごかった。
 ハンが言う。
「――あの部屋を見るまでは、あなたとクローヴィスは似ていると思ってたんですよ。でも、違いますね。あなたはあそこまで殺伐とした人じゃない」
「うーん。そーかなあ」
 と、イラカはまた首を傾げた。
「俺は、似たいんだけどなあ。ていうかね、多分、俺がこれくらいで済んでいるのは、あの人が先に道を作ってくれていたからだよ。あの人と同じように、何もないところから完全な解決策を自分で見つけなくちゃいけない立場にあったなら――、生活なんか構っちゃいないよ。俺もあの人みたいに、きっと命がけだったと思うよ。
 どうするのか知りたいなあ。自分の技術に伴う、大きな難を、あの人はこれから一体どうするつもりなのか、本当に知りたい」



 じゃ。帰って寝るわ。お騒がせしましたー。
 再び手を振って、しゃらしゃらと飾りを鳴らし、行こうとしたイラカだが、その足はすぐに止まった。
 中庭がざわめいたかと思うと、場違いな一群が現れて彼の視界を横切ったからである。
 それは色鮮やかな制服を着、鉄兜をかぶり、大きな槍を掲げた二十人程度の軍隊だった。三列縦隊で進む先頭には旗持ちがいて、誰もが知る紋章が描かれた旗を掲げている。
 ンマロ以南を統括する、リミニ公国の旗だ。
 やがて縦隊が途切れたところに、輿に載った隊列の主が現れた。
 講義棟や建物の壁に張り付くようにして見守る生徒らから一つの言葉が繰り返し漏れた。参事。参事だ……。と。
 遠目にも最高品質のグム織と分かる見事な衣を羽織り、帽子をかぶったその男は面白そうに学生らを眺めながら、やがて中庭を通り過ぎて行った。その後ろをやはり同程度の縦隊が固める。
 見ていると彼らは中央聖堂の前で止まり、輿も地面に下ろされたようだ。
 用があるのは聖堂ではないだろう。その奥の中央棟。内乱騒ぎの時には戦場にもなった、院長室だ。
「なるほどねえ」
 イラカの横顔の口元が動き、声がソラの耳に届いた。
「それで布告か」
 生徒らは騒いでいた。高揚していた。
 が、イラカはそうではなかった。
 僅かに、疑るような影をその疲れた額に漂わせ、その眼差しは遠い誰かを追いかけていた。
 知りたいんだな。とソラは思う。
 こうして事態がどんどん滑っていく中で、『あの人』が、どう考えているのか。
 彼は、知りたいのだ。





 クローヴィスは院長室にいた。呼び出された理由を知らなかったが、窓の外の騒ぎに気づいて中庭の軍隊を見咎め、美しい顔を薄くしかめる。
「――なんのつもりだ」
「少しくらい協力して下さってもよいでしょう」
 院長が言うが、答えることもなく立ち上がる。出て行こうとした。
 次の院長の声には、すでに憎しみすら滲んでいた。
「あなたを生かし続けたのは、我々ですぞ! どれほどの手間と費用がかかったと思っておられる! あの件の後始末を引き受けたのも、私です。先代の学院長に命令され、あなたに不利なことはすべてよろしく処理させて頂いた。少しは義理を感じられませぬか。一度くらい、学院のために何かして下さってもよいでしょう! まして、事はアルスス学の未来に関わることですぞ!」
 扉の前でクローヴィスは振り返った。
「頼んではいない」
「――何という言い草だ!」
「私の許可も取らず、勝手に学問を広めたのはお前たちだ。起きている間も、寝ている間も」
「遅かれ早かれ誰かがやったことです。歴史は絶えず動いており、その流れを止めることはできないのですから! 我々はむしろ、あなたが面倒に思って避けた労苦を引き受けたのだ」
 クローヴィスはいよいよ蔑みの表情を濃くする。
「何が『歴史』だ。なんとでも言い訳するがいい。三百代言が。だが貴様らの愚かしさのツケを払うことになるのは貴様ら自身だ。私ではない」
「クローヴィス博士!」
「下らん貴様らのために、下らん反乱を鎮圧してやった。この上縛られる義理などない」
 扉を開けた先に、廊下を進んできた公国の高官がいた。俗界を水でこね上げて薄く延ばし、表面に貼りつけて焼いたような顔をしているその壮年の男は、クローヴィスを見るや、目の色を変えた。
「なんと。これは……」
 クローヴィスは不愉快を隠しもせず、無言のまま脇をすり抜け、去った。
 その後ろから学院長が出てきて客を迎える。
「参事。ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ。お伴の方々も、さあ」
「いや、驚きましたぞ。肖像画と生き写しだ。あれが、英雄クローヴィスですな?!」
「天才の故か、気難しい学者でして。挨拶もせず、失礼しました」
「なんの。間近で見られただけで十分です。――実のところ、小官は彼を見に参ったと申し上げても過言ではありません。
 書簡でもお知らせしたとおり、評議会の議論が停滞しておりましてな。一部の議員が噂を聞きつけ、アルススの術は、力を与える代わりに兵の健康を損なうのではないかと懸念しております。それでせっかくの導入案が足踏みを。私としても、もし事実ならば一時延期をと思っておりましたが……。
 いや、しかし、疑念は晴れました。蘇った英雄! ……しかも、なんと若々しく、美しい。アルススの力は、若ささえ保つのですか?」
 院長が応じるまで半秒あった。
「――そうですな。ええ。まだ探求の途中ではっきりとは致しておりませんが、確かに、若さを保つ効果もあるように思われます。ご覧のとおり、我が学院の生徒らもみな、男はたくましく、女は瑞々しく美しい。健康に優れた若々しい者たちです。参事には、その点にもご興味がおありですかな?」
「うむ――。まあ――。その――」



 クローヴィスがどれほど口汚く罵っても、現世においては、学院長のほうが、何枚も上手である。
 彼の見つけた神は、院長のような仲介者を通じてあっという間に世界に広がり、彼の過去や肉体は院長のような実力者によって保全され、そして彼の生み出した伝説は、院長のような経営者によって、あらゆる場で遺憾なく利用される。
 学問の領域で学院長はクローヴィスには勝てないが、生き抜くという技術においてはクローヴィスはどの学院長、どの学者、そしてひょっとしたらそこらにいる生徒にすら、勝てるものではなかった。
 彼は自分の研究室一つまともに運営することのできない破綻者である。それは彼が、天才だからではなく、幼少期にまともな生活を送った経験がなかったからだ。
 クローヴィスは冷めきった、白けた表情で中央棟から出た。聖堂の前には兵士達がいたので、彼は明らかにそれを避けて回廊を行った。
 ガニアがいた。
 ニキ・スズキリ・アガタと同期であったこの頑固なシギヤ学教授は、当然もう何が起きているかを察知していた。
 眉間を深い縦皺で割って、鉢合わせたクローヴィスを睨みつける。
「許されざる犯罪だ。何も知らない、学識のない兵士たちに、危険な術を撒くとは」
「…………」
「私は死力を尽くしてこの犯罪行為に反対する」
 その場面を多くの学生が見ていた。
 クローヴィスの薄い唇が開いて、刃のような言葉が滑り出るのを。
「お前は誰を相手にしているか分かっていない」
 瞼が見開かれ、ガニアの黒い瞳が光る。
「ただの言葉ではない。引っ込んでいろ。邪魔をするなら、長くはない」


 野次馬として聖堂前へ来ていたソラもその言葉を聞いた。確かに聞いた。
 まるで自分がそう脅迫されたようで、目が回った。






 学院とリミニ公国の間に、正式な技術提供契約が結ばれそうだという噂は、瞬く間に島を駆け抜け、すべての学生に知れ渡った。
 これが成れば、今後は学院の監修の元、公国の兵士の体に黥が刻まれ、アルススの術が教授されることになる。
 理論的には、リミニ公国は群を抜いて強い戦力を持つことになる。が、実はこういった動きは各地の学究組織で、ほぼ同時に進行していることなのだという。
 どこの国でも外交官たちが情報を集めており、自分達だけが無力にならないよう、抜かりなく研究機関に接触を図っている。
 多くのアルスス学者たちが、このままいけば二、三年のうちに、各国の常備軍兵士たちは残らず黥持ちになると予想していた。
 そして、さらに踏み込んで、この軍事力増強のために、かえって世界の平和は保障されるはずだと主張する者もいた。
 つまり、どの軍隊にも強化された兵士が配置されれば、交戦時の被害は、どちらにとっても格段にひどくなる。したがってそれを避けるために、各国が逆に戦争をしなくなるというのだ。
 アルススの力が抑止として働く。
『アルススの脅威の下の平和』、だそうだ。
 世事に疎いソラでも、この構造が学者たちにとって極めて有利だということは分かった。何しろ、世界中の人間が平和のための権利料を永久に学者たちに収め続けることになるのだから。
 なるほど。これが。
 新しい神アルススの定着する場所なのだろうか。
 神には世界に必ず居場所がある。が、アルススは地底から掘り出されたばかりで、まだどこにいる、とも言い得なかった。
 薄く、大気のように、世界に満ちる。あるいは影のように、あらゆる場所で、背後を統べる。
 そういう神に、当たり前の神に、なるのだろうか。
 でも。自分たちはまだ何も知らないのに。
 一体、アルススの力はどこから生まれてくるのか。アルススとはどんな神なのか。どうして、過去の文明は、それを、禁忌としていたのか。
 何も知らないのに。
 ばらまくなんて。
 本当に、学問とは、坂道を転がってゆく石に過ぎないのか。




 考え事をしていたせいで、下宿に戻る時には、例の緊張と警戒を忘れていた。
 ドアを開けると人はいなかったが、机の上に荷物が届いていた。
 丸まったタリン紙だった。
 それを一目見た時、内容はまだ分からなかったのに、何故かソラの頭の中を、ある人間の手の記憶が群れをなして駆け抜けていった。
 それは、肉厚な男の手であって、それが紙の上をなぞる時の、あの腹と爪の感じであり、自分の髪を梳いてくれたあの時の上手さであり、水の中でもがく自分を陸に引き揚げてくれた時の、太く温かい、あの力強さだった。
 それは裏庭のネコの記憶だった。
 そしてその直感は、誤っていなかった。




/




 自分の部屋の寝台で休んでいたイル・カフカス・イラカは、暗闇の中、まるで遠い場所から、誰かに耳打ちされたかのように、音もなく瞼を持ち上げた。

 遠い。遠い。遠い場所を。
 何か大いなるものが移動していく気配がする。
 ああ。まただ。
 これは。あれだ。
 あの時、神階で行き合ったものだ。

 ……あなたが、そうなのか?
 あの人が、世界に解き放った、新しい力、なのか?
 もっと知りたい。近づきたい。
 もう一度身近に現れればいいのに。

 あの人が何を考えているのか知りたい。
 あの人の見ている景色が見たい。
 彼の完全な後継者になりたい。その意思を継ぐ弟子となりたい。

 どうしたら、もっと近づけるだろうか。
 あの時、どうして自分は動けなかったのだろうか。不甲斐ない。

 ……いいや。焦っては駄目だ。辛抱強く挑戦し続けるのだ。
 それでこそ、ようやくこの気配を知ったのではないか。
 そうだろう?
 今はこのやり方を、もう少し続けてみるほかはない。


 今は我慢することを自分に命じて彼はまた瞼を閉じ、なかなか沈むことのできない睡眠への入り口を探って、寝返りを打った。




/




 震える手で明かりを灯し、それから机の中央でリボンを解き、タリン紙を広げると、そこに現れたのは、拓本だった。
 全体に墨で黒い。そこに古代文字が、横に50字、縦に20列ほどの量で、白く浮かび上がっている。無数のひびや欠損がある。それでも、それは確かに一枚の文字板を再現したものであり、ほとんどの文字が、問題なく読み取れるように思われた。
 墨も紙も極めて新しかった。誰かが、彼女のために、ごく最近これを刷り、そしてここへ届けたらしかった。
 ソラは、頭がぼうっとした。
 喜びとも、衝撃とも言えない激しい感情が胸を満たしたが、素晴らしく興奮していたことは、間違いない。
 一体、なんだ? 誰が、どうして、これを私のところに。
 近頃定着した学者の本能で、知らず紙の周辺の状態から観察を始めたソラは、手掛かりをその右隅に見つけた。そこに、早書きだが非常に整った字でこう記してあったのだ。
『ンマロ商館Z家玄関壁面より採取 復元拓本』


 それはソラが夜ごと、必死に写しを取ったあの場所のことだった。
 もちろん破門されたことによって作業は中断し、ソラはその後のことを知らなかった。
 ――ネコだ。ネコが、あの残りの記録を取り、模型を作り、破片を組み直して、全貌を蘇らせたのだ。
 そしてそれを、おそらく人づてに、送り届けてくれたのだ。



 全部が、このためとは思えない。この数日、ソラは緊張をため込み、不眠でもあったし、不安と混乱で疲労困憊していた。
 その全てが涙になって一時にあふれ出た。
 八つ当たりの、亜種である。
 いつもそうだ。
 いつもこの人の前に出ると、自分は泣いてしまう。
 まるで、親の前に出て安心した子どものように。全部を吐き出して取り乱してしまう。そして、落ち着きを取り戻すのだ。
 手拭いを持ってきて、決して拓本に涙を落とさないようにした。
 泣くだけ泣いてやっと気が済むと、ソラは積み上げてある本の中から古語字引を持ち出し、机の上に置いた。
 入学当初よりは、だいぶ読めるようになったが、まだすらすらとは行かない。
 それでも、これは――この拓本だけは、自力で読んでみたかった。
 時間はたっぷりあった。
 ソラは、扉の前に荷物を積むことも忘れて、朝まで、その作業に完全に没入した。





/





 翌朝。
 講義の前に、自分の研究室に入ろうとした教官の一人が、二つ離れたガニア教授の研究室の扉が、廊下側に半開きになっているのに気が付いた。
 奇妙な匂いもした。
 不審に思って声をかけたが、応答も、誰かがいる気配もない。
 仕方なく中を覗いた教官は、凄惨な現場を発見して絶句した。

 研究室の内部はくまなく焼け焦げていた。
 そこに二つの死体が、転がっていた。





(つづく)
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