14.



 何十日ぶりかで、師を仰ぎ見た。
 彼はやはり、素晴らしかった。
 身だしなみがきちんとしていて、服装の趣味がよく、それでいて奇術師めいた不思議な魅力もあって、この人が出てきたら、すべてなんとかなると思えるような頼もしさがあった。
 深い学識と、人間としての技術のかたまり。――そして、残酷のかたまり。
「……せんせ……」
 呼びかけようとして自分のかすれ声にびっくりした。喉がひりひりしてうまく声が出ない。体中の皮膚もひりひりする。さっきの爆風で、あちこち火傷しているのだ。髪の毛も焼けているかもしれない。
 そして地面に這いつくばっている。
 なんだかいつもこうだ。
 この人に会う時は、いつも自分はこうだ。
 ネコは眼鏡をかけている。その弦のためによくは見えなかったが、敢然と前を向いたまま、彼の目だけがきょろりと動き、ソラを一瞬見てまた前に戻った。
 白い丸い手が懐に入り、何か紙を取り出して彼女の方に放った。
 それを最後に、ゆったりと歩き出し、そしてクローヴィスの元へ向かう。
 クローヴィスは彼の到着までもたなかった。一瞬早く、再び地面に崩れ落ちる。
「博士……!」
 イラカの声。
 ソラは、どちらを見るか葛藤しながらも咄嗟に紙を拾い上げ、そこに水の滴でもあるかのように顔を近づけた。同時に左右からどん、どんと体がぶつかってきた。
 ハンとイラカが、同じように紙の中身を読もうと身を寄せたのだ。
 そこには、古代文字があった。



世界の終わりの鐘が鳴り響く その時
すべての形あるもの 崩れ去らん
大水起こり この地のあらゆるものを覆いて
その水面には 神の御顔 あらわれん




「……どういう意味?」
 イラカが眉根を寄せて聞く。ソラとハンが一行ずつ直訳し終わると、三人の間に沈黙が満ちた。
「逃げましょう」
 ハンが最初に言った。その顔の表面は火傷で赤らんでいたのに奥は真っ青だった。
「警告です、これは。もう僕らの手には負えない」
 その判断が正しいことは分かった。そうでなくても命は危機を訴えてさっきから遁走をやかましく言い立てている。悪心を催すほどだ。
 それでも。――足が地に貼りついて動けなくなる情があった。ソラにも、イラカにもだ。
 ……やっと会えたのに。
 やっと、近づけたのに。
 やっと核心に、触れたのに。
「これは僕らの戦いじゃないんです!」
 動き出せない二人に、ハンの押し殺した悲鳴のような声が飛んだ。既に彼は二歩ほど先に行って振り返っていた。
 ソラとイラカは一緒になって前を見た。視線に力のあろうはずはないが、ネコがちらりと後ろを気にするような様子をした。
 横顔が見えた。
 あの程度の角度では、視界にソラが入ったかどうか定かではない。
 それでもソラは食い入るようにその表情を探った。
 ネコは首を戻し、膝を曲げたかと思うと、黒焦げのクローヴィスの傍に膝を落として、何やら探った。
 再び立ち上がると、くるっと軽快に振り返ってイラカの方へ、小さなものを放り出す。それは緩い弧を描いて、上手に、上手に彼のすぐそばまで飛んできた。
 イラカは子供のように反応してそれを受け取った。手を開いて見ると、指輪だった。
 はっとした全員がネコを見た瞬間、白い爆発が起き、それを水の盾が弾いて洞窟中に熱湯の雨がばらまかれる。
「あつ……ッ!」
 水蒸気の煙はすぐに晴れ、当たり前のように、ネコは悠然とそこにいた。
 後ろに組まれた手が、しっしっ、と振られる。まるでマオでも追い払うよう。
 邪魔だ。
「……!!……」
 ソラもイラカも身を翻した。そしてハンと合流してひたすらに出口を目指して走り出した。
 足音が遠くなるまでに、再びアルススから攻撃があった。ネコは小首を返すようにしてそれも即座に跳ねつけた。
「どこの誰から未来を盗んでいるのやら――」
 手を煙渦巻く闇に突き出す。その指にはびっしりと貴石のついた見事な指輪が並んでいる。
 技術者たる彼の人生の、集大成である。
「今頃、上で二、三十人くたばっているんじゃないか? ……まあ、自業自得か? なあ?」
 土の上に横たわったままの黒焦げの友人に皮肉を言う。
「――私も自業自得だ。我々は皆自業自得だ。アルススよ、私はあなたを解体する。あなたの学問はここで終わりにする。いかなる破滅を招こうとも」
 びしゃりと三度ネコが白光に包まれる。だが、決して彼自身には届かない。
「無駄だ」
 老学者は騒ぐ子供を押し返す大人のように言う。
「我が神ミハクは禊の神。すべてを破壊し融かし去り、そして再び作り出す循環の神。その気高さに貴様ごとき人造の神が及ぶと思うか」
 掌が振られる。膨大な冷気が吹き出されて、アルススを取り巻いた。全ての攻撃がその盾を越せなくなる。
 攻撃を封じられたそれめがけて、さらに左右の拳が三度、四度と振られた。そのたびごと空中に長い水の針が現れ、まるで鉄の杭のように四方八方から凄まじい速度で打ち込まれていく。
 何かが音を立てて断裂される手ごたえがあり、洞窟内に、明らかな痛みの雰囲気がふりまかれる。
 まるで人間のような。
 アルススは、身をよじって咆哮した。
 ネコは冷笑する。
「なんだその悲鳴は? ――被害意識があるとは。人間ごときに、傷をつけられる『神』とは。なんと不細工な奴だろう。
 まさしく貴様は似非偽りの神だ。所詮人の作り出すものはたかが知れている。人がお前を頼れば喜び、人がお前を棄てれば恨む。そんな卑小な心根で神などやっていけるものか。
 ――そう、やっていけなかったのだな。憐れな被造物よ。お前は人に似すぎて、神になり損ねたのだ。……無へ戻れ。解放されよ。いつか誰かがお前に課した、下らん永久の苦役からな」
 イラカに与えた指輪は、作り主である彼に十分な距離を知らせ、ネコはもう誰にも頓着する必要がなかった。
 全ての石を空にするまで、千もの杭を作成して容赦なくアルススに打ち込んだ。
 それはすでに解けた隙間からさらに深部へ潜って、結合を裂いていく。
 身動きできないアルススは体を切り刻まれて、少しずつ解体していった。その有様を眺めながら、ネコはつぶやく。長夜に、酒を手に、心を開いた友にでも、話して聞かせるように。
「……以前から気付ぬでもなかった。前文明の遺跡から出てくる神は、我々の知っている神とはいかにも違う。力をほとんど持っていない、世界は丸ごと人間とその技術の支配するものだったようにも思える――前文明人らの自信過剰ぶりを見ているとそんな気がする。
 だとしたら、我々が知っている神は、何故現れたのか? 何故、我々の技術は神なしで動かなくなったのか? 何故世界は、そういう構造に変化したのか?
 ――試しているのかもしれないな。条件を変えて幾度も繰り返し。どの方法が一番長続きするのか。
 人間はのめり込みすぎるから。世界を改造しすぎるから。止まることが出来なかったから、今度は人間でないものを間に挟んで。
 私達こそ実験されているのかもしれない。
 だったらそれに応えなければならない。この実験を、勝ち抜かねばならない。仮にも知性を持って生まれてきて、今回もまた失敗作だなどと思われるのは、癪じゃないか」
 アルススがぐらりと揺らめいたかと思うと、ずるりと体の半分が大きく傾いだ。
 無数の裂傷からは、彼を構成していたものがだらだらと流れだし、一瞬具現化して飛び散った後、雪のように霧散していった。
 もはや解体の進行は後戻りしないことは明白だった。
 だがアルススも自分を壊すものに対して、いつまでも無抵抗ではなかった。彼は体を刻まれながら、中央に力を蓄えて行った。怒りに満ちて、使えるすべてをかき集め、自らの存続のために、最後の反撃を用意していた。
 ――人間は勝手だ。
 彼は知っていた。
 誠に勝手だ。いつの世も。
 いずれ、それに屈するにしても、ただ終わるなど、許せない。貴様ら俺の技術を使って散々楽しんだくせに。今更、俺を厄介者扱いして解体するとはなんという勝手さだ!
 怒りは消えない。ますます沸騰していく。アルススは、自らに回路を開いた人間の未来を吸い付くし、膨大な力に換算して行った。
 ネコはこれを止めようがなかった。黥を持つ人間をこちらで潰すことが出来ない以上、この抵抗も想定の範囲内ではあった。
 しかし、これほど彼の攻撃に耐え、これほどの熱量を一瞬でかき集めてくるとは、正直思っていなかった。
 問題は、機構が完全に解体しきった後、この蓄積された熱量がどこに行くかだ。
 答え。――『どこにも行かない』。
「どうやら、思った以上に楽しい惨事になるな」
 ネコは認めざるを得なかった。だが今更止めるものは何もない。ミハクの力にすがるまでだ。
 解体の進行と同時に、アルススの暴走も昂進した。
 次第に洞窟は明るくなってきた。
 その偽物の太陽の光が、顔をしかめるネコと横たわるクローヴィスを、まるで光量で圧倒しようとでもいうかのように、照らし出す。



 その頃ソラは、学院の中庭へ躍り出たところだった。
 まだ太陽は上っていなかったが、夜は明けつつあった。
「……どうしよう! どうしたらいい?!」
 ソラは連れ二人にかすれ声で叫ぶ。
「誰か、教官に――学院長に知らせるのは?」
 ハンが喘ぎながら言う。
「どこにいるか分からない……時間がかかりすぎる」
「大体、どうするのが正解なの?! 何が起きるの?!」
「……あんたの先生が、示唆しているのは、それだろ」
 イラカがソラの手元を顎で指す。
 ソラはその時まで、自分が紙を手にしていることさえ、忘れていた。
「……」
「『すべての形あるものが、崩れ去る』……」
 ハンが青い顔で呟く。
「……『大水、起こり』……」
 三人の身体の形作る三角形の中央で、時が一瞬、完全に停止した。
 潮騒が聞こえるほどだった。
「……鐘を鳴らそう」
 ソラは言った。
「……みんなを起こさないと……!!」
 それはつまり、ネコの指示通りなのだった。
 鐘が鳴る時それが起こると書いてあるのだから。
 三人はやみくもに駆けて、中央講堂にそびえる鐘楼を目指した。アルススの力は使わず、イラカとハンの力で扉を突破し、階段を駆け上って行った。



 すでに、崩壊は自動で進行し、これ以上手を加える必要はなかった。
 ネコは両手からすべての指輪を重たげに外して捨てた後、煌々と光る世界の中で、自ら信奉する神に最後の祈りを捧げた。
 彼はすべてを神に捧げていた。その知性も、年月も、誠実も。彼はお世辞にも人が好いとは言えなかったが、学問を穢したことはなかった。過ちはたくさん犯したが誤魔化すことはなかった。後年は家族も捨て、残酷なまでにひたすらに学問に専心した。
 彼の神、水神ミハクは彼の捧げた全ての時間を愛した。
 かつて学院の創始者ルル・シル・カントンは地割れを起こして土地の侵略者を全滅させた。歴史に残る大学者の偉業。ネコもまた、そのほど近くまで、肉薄していた。
 アルススの断末魔とは別に、遠い、地の底から、今一つ、地鳴りがし始めた。
 願いが聞き届けられ、それが始まったことを察して神に感謝を捧げた後、ネコはまるで一仕事終えたかのように息を吐き、ぶらぶらと、揺れる地面を踏みながらクローヴィスの元へ行った。
 傍らに腰を下ろす。
 そして、その体の下に腕を入れて、力を込めて、自らの胸に抱き寄せた。
 ため息をつく。
「だから、あれほど言っただろうが。もう止めておけと」
 クローヴィスは応えなかった。
 彼は黒焦げで、年齢不詳の美青年の面影もなかった。
 血と肉のにおいがした。
 それでもネコはその焼け焦げた生え際に唇を当てる。ずれた眼鏡を指で直した。
「どいつもこいつも、言うことを聞かない。アガタも。ソラも。再三言ったのに、田舎に帰れと。学問なんてつまらん。お前を憎めと。そうしたら、安全だったのに。守ってやったのに。――嫌になるな。思ったよりもアルススの抵抗は大きいし。もう、あいつらも助かるかどうか、俺には分からんぞ」
 腕の中でうめき声が聞こえた。
 否とも応とも、判じかねた。
 ネコは腕を緩め、かろうじて唇と分かる場所に耳を近づける。
「なんだ?」
「……離せ……。もう……」
 どうやら彼は、もうそろそろ見苦しいことになるから離せと言っているらしかった。
 ネコは笑った。離さなかった。
 地鳴りが次第に高くなってきた。アルススの融解と崩落、そして膨張も続いていた。
 その中で、クローヴィスの頭がついにごろりと落ち、四肢が分裂して、ネコの衣服の上に粉々に散った。
 ネコは構わず残った欠片を胸に抱いていたが、ソラにも、家族にも、誰にも見せたことのないほど寂しげな表情で、深くうなだれた。
 ……お前が死ぬ姿は見たくなかったな。
 その唇から言葉が漏れる。青年のような声だった。
 分かっていたさ。アガタもお前が死ぬところを見るのは嫌だったんだ。ただお前を助けたかった。弱いくせにな。
 私もそうだ。一体何様のつもりだったのか。学問で問題を解決しようとした。弱者を救おうとした。思い上がって考えた。お前は九歳で一族全員を殺され、出会った時にはすでに発狂寸前だった。そんな人間を救済できなくて何が学問なのかと。
 その筋違いの支払いを、今こうして要求されるわけだ。
 俺も前文明人達と同じ轍を踏んだ。目の前で悲鳴を上げている人間を見捨ててはおけなかった。お前のためなら世界中の書庫を調べたって惜しくはなかった。そのために人生を無駄にしても構わなかった。――俺がもっと間抜けなら良かったな。何も見つけられなければよかった。
 今更言い訳はきかない。お前は俺を翻弄したが、俺もお前を翻弄して悪かった。俺もお前も、もう悪い夢は終わりにしよう。
 最後にお前のために出来ることは、すべてを解放し、解体し、葬り去ることだけだ。
 休むといい。もう何も心配はいらない。アルススもお前も、人間のことは忘れて、ただ静かに、神様のように、眠ればいいんだ。
 洞窟の奥から、地鳴りと共に水がやって来た。水は遺跡の底から吹き出し、洞穴をたどって上ってきたのだ。その力は強く、豊穣であり、あっという間にアルススを、そしてネコとクローヴィスを飲み込み、波の下に隠した。
 ミハクの水はアルススを圧倒し押し流したが、熱のすべてを消尽するには至らなかった。水の先端が、第一神階の入り口付近まで押し寄せたその時、アルススが最期を迎え、そこに集積された膨大な熱量が行き場を失くして爆発した。




 ソラ達は必死で鐘を鳴らしているところだった。
 その音で地鳴りに気付くのが遅れた。
「揺れてる!」
 と、イラカがソラとハンの両方の肩を抱いて有無を言わさず床に押し伏せた。
 次の瞬間。
 天地がひっくり返るようなすさまじい爆音とともに世界が一度上下に大きく揺れた。そして、跳ね上がった大地が下へ戻った時、ソラは、なんだか、これまでよりも深く、世界が沈み込んだような気がした。
 悲鳴が上がったが三人のうち誰が上げたのか、或いは全員だったのかまるで分からなかった。
 目の前で、大きな鐘が左右に揺れ、立っていたら負傷していたのは確実だった。
 ようやく立ち上がって、その反復を全員の手で収めて、それから恐る恐る、窓から下を見る。と。
 中庭に縦に亀裂が走り、この世のものとも思えぬ音を立てて校門へ進んでいくのをソラ達は目の当たりにした。
 ソラは自分で口を覆って、獣じみた悲鳴を握りつぶした。
 まったく追いつかなかった。何も追いつかなかった。矢継ぎ早に次々と事態は進行した。
 次に割れ目から勢いよく水が噴き出してきた。
 それは、木々の梢に降りかかりながら、ほどけた大地を押し広げ、解き崩していく。
 亀裂はどこまでも進んでいった。梢を越して、それどころか、校舎を越し、学院の境さえ越していくのがソラ達には見えた。
 最初に崩れたのは、塀だった。あの、内乱騒ぎの時、あれほど苦労して、乗り越えた壁が、一部の崩壊を皮切りに、次々と、まるでリボンが乱れるように傾き崩れて行った。
 それから建物の崩壊も始まった。砂煙と轟音が方々で立ち上り始める。吹き出す水がそれに加わり、次第に、耳に、人の悲鳴が聞こえ始める。
「危ない! ……降りよう!」
 塔が揺れ始め、イラカが二人の肩を押した。
 三人は上る時も永遠に感じた木製の螺旋階段を、同じくらいの長さで生きた心地もなく駆け降りた。
 何とか降り切った時には、もう地面は地面ではなくなっていた。敷き詰められた石畳は一枚ずつ、うろこのようにズレて地中へと引き込まれていくところだった。
 そこから海水が吹き出し、基礎を次々に崩していく。
「……陥没してる……!」
 ハンが言う。真っ青な顔を引きつらせて。
「神階の天井が抜けたんです! 島全体が陥没してる!! み、水が上がって来る!」
「危ない!!」
 警告に振り向くと、目の前で、鐘楼に、縦にヒビが走った。
 煙と轟音を立てて、砂みたいに、崩れ始める。
 ソラ達は完全に恐慌を来しながら、それぞれ頭を押さえたり、耳を押さえたりして走った。
 幸い鐘楼は彼らの方には倒れなかった。聖堂の上に崩落した。
 聖堂の屋根が破れ、やがて内側から全体が倒壊していった。
 ああ! という悲鳴はその爆音に飲み込まれて耳にも届かない。
 走っている間にも大地がみるみる下降していった。上り坂が平地になり、平地が下り坂になり、いつの間にか、ソラは水に落ちていた。
 痛い水だった。
「……ッ!? な、なにこ……!」
 変な水だった。熱い。そして、痛い。
 溺れないように慌てているうちにイラカやハンともはぐれてしまった。
 足の立たない水の流れに逆らうことは不可能だ。ソラは必死に泳いだが、地面の崩落に従って押されたり引かれたり、いつしかされるがままに流された。
 口や鼻に痛い水が入って来る。それだけではない。砂も土も木材も押し寄せる。彼女にぶつかり、傷を負わせていく。
 次第に抗う力が消えていく。正気も遠のいていく。
 ソラは、最後の本能で突き出した樹木にかろうじてしがみつき、もうそれ以上何もできなくなった。樹木は傾いていたが、梢の間に波を透かし、ソラをからめとったまま保護してくれた。
 その頃には、もう、あたりはすべて、水だった。
 どこを見てもがれきの山が水に浸かって、わずかに残った場所に人が立っていたりした。
 ――学舎はどこに行ったのだろう。あの堂々たる建築達は。聖堂は? ……無数の商店と下宿は? 道は?
 彼女の周りには様々な生活用品や、家の部品や、家具や、荷台や、衣服や、本や、机や、人が、浮かんでいた。
 水は辛くて、肌にぴりぴりした。
 島は沈み、技能工芸学院は崩落し消え失せていた。
 一体、それまでに何分必要だっただろうか。あっという間だった。百年も続いてきた学院が、壊れる時はこんなにも一瞬だなんて。
 幻みたいだと思ったところまで覚えている。彼女はその後、意識を失った。


 いつか東の空に、太陽が昇っていた。
 いつもより白く見えるそれは、がれきの浮かぶ汚れた水面にその完全な円を写し、音もなく揺らめいて、まるで人の世で起きたことを、天の高みからじっと見つめる女神のようだった。









 どれくらい経った頃だったのか。
 気が付くと、ソラはやって来た小舟の上に体を引き上げられているところだった。
 反射的に力を込めて、自分でも這い上がろうとしたが、冷え切った手足はうまく動かず、ほとんど用に足らなかった。
 舟の上には助け出された人間がすでに五人乗っていたが、ハンやイラカの姿はないようだった。
 だが、とん、と肩を突かれて振り向くと、意外な人間がいた。ゾンネンだ。
 彼は小舟のへりにいて、櫂を漕いでいた。運良く無事だったらしい。
「悪運の強い奴だ」
 憎まれ口を叩くが、さすがに彼の顔色も普通ではなかった。
 小舟はンマロの政府が差し向けた救助艇で、煙の立ち込める海上に灯をともして十艘以上が出ていた。
 彼らは明らかな死体は助けなかった。それにはまた別の舟が来るらしい。
 ンマロの港に運ばれると、そこに仮設の救助小屋が出来ていた。無事であったり比較的軽症であった学者や学生が助けられた大勢の人々の世話をしていた。
 ソラは、自力で立てなかった。
 ほぼ力づくのようにしてゾンネンに上陸させてもらうと、布一枚敷かれた地面に倒れ伏し、再び気を失った。




 皮膚が痛い。無数の虫に侵食されるような感じがする。
 なんだろうこれは。かつて感じたことのない。
 全身が痛い。全身に浴びたから。
 先生。――先生。
 先生。




「……ソラさん。……ソラさん」
 揺り動かされて、目を覚ました。もう、夕方だった。辺りは薄暗く、火が方々に燃えていた。
 目を開くと、かなり近くに、ハンの顔があった。
 それが、目に見えて安堵したかと思うと、はーっと息が吐かれて下を向く。
「よかった……。……よかった」
 彼は地面に座り込んで、目元を抑えた。泣いているかと思ったが、違っていた。
 飛び起きたソラに、再び顔を上げた時、ソラは心がさらに深く凍り付くのを感じた。
 ――彼の両の黒目が、曇っている。白目は真っ赤に腫れ上がっている。
「……ハ、ハンさん。……目、何か?」
「ええ……。なんだか、さっきから見えにくくて。何か入ったのかもしれません。それで顔が近くてすみません。……ソラさん、体は大丈夫ですか。舌、痺れてませんか?」
「……」
 言われてみれば、舌の感触が変だった。全体に鈍感で、何か、鉛のような、変な味を感じる。
「みんなそうみたいです。おかしかったら、医者に相談を。……でも、よかった。もう二度とお会いできないかと」
「……イラカは……?」
「大丈夫です。ソラさんより前に見つけました。僕と一緒で元気ですよ。ただ……。落ち込んでいるみたいです。人と顔を合わせられないと言って、今ちょっと、離れています」
「…………」
 夢じゃなかったのか。
 ソラはなんとなく思った後、周囲を見回した。
 あれは夢じゃなかったのか。
 何十人もの生徒達が、茫然とした面持ちでそこに座り込んでいる。
 体のだるさと、気持ちの重さにため息をついたその時、鳥の飛び上がりそうな大きな声が辺り全員をびっくり仰天させた。
「――ソラぁ!!」
 驚いて身をどかせたハンの後ろから、一つの身体が飛び込んできてソラに抱き付いた。



 それはとてもきれいな服を着ていたのに、なんの躊躇もなく泥だらけのソラを抱きしめた。
 この挨拶には覚えがあった。
 それでもまだ涙は出なかった。茫然と名前を呼ぶだけだった。
「……フルカ……」
「あああああ、もう! よかった! ソラ。死んじゃったかと思った!! 島が割れて沈んだとかって、もうなんなの?! 死んじゃっても絶対! 探し出すと思ったけど!! よかった! よかったよ!! ソラ。よかったよお!!」
 熱い人間の情のかたまり。
 それによって、何か異常なところへ行っていたソラの精神も、少しだけ人間に戻ってきた感じがした。それでもまだ、なにか自分に薄い膜がかぶさっているような気がして頭が働かなかったけれど。
 ソラは腕を回して友達の身体を抱き返した。
 その温かさ、柔らかさは、最高に気持ちがよかった。気持ちがよかったのに――。
 なんだかこの世のものではないような気がするのだった。
 そこにやってきたゾンネンが二人を見て、一瞬驚いたように表情を軋ませた。次にわざとらしく冷たい目つきをすると馬鹿にしたように息を吐き、最後には周囲の人に騒ぎを詫び始めた。





 夜になった。
 ンマロの港では全ての灯りが灯され未だに救助作業が続いていたが、涼しい風が渡って、街は昼に比べれば格段に落ち着きを取り戻していた。
 重傷者は街の病院や慈善院に運ばれ、軽症の人間達は港に建てられた幌の下で互いの面倒を見合っていた。
 街の有力者達が衣類を配り、炊き出しを行い、さらに周辺の警備などを行っている。
 その間にも、海上からは続々と遺体が運び込まれ、被害の大きさが膨らみながら理解されて行った。
 判明しているだけでも死者は三十人に上っていた。学院長は未だに行方不明。新しい副学院長や名だたるアルスス学の教授も多くが見つかっていなかった。
 助かった学生の中にも、異常な貧血状態に陥っている者があり、どう考えも水難のためではない著しい体調不良を訴える者も少なくなかった。そして明らかに死者と重症者はアルスス学徒に偏っているのだった。
 生き残った学者達を束ねているのは、偶然にも書院派で議長を務めたあの博士だった。彼自身も負傷をしていたが、ソラとハンが救助されたことを知ると数人で訪ねて来て、何か知っていることはないかと言った。
 二人は、代わる代わる自分たちの経験したことを話した。
 学者達は、疑いと困惑の入り混じったいわく言い難い顔を互いに見合わせた後、礼を述べて帰って行った。
「……信じられない、ですかね」
 乳粥に匙を落としながらソラが言う。ハンの答えはこうだった。
「……寧ろ、責任問題を考えていらっしゃるんだと思いますよ」
 相変わらず彼は辺りが見えにくそうにしている。
「天災じゃない、わけですから。ンマロの市政府にも説明をしなければならないでしょうから」
「そうか……。ですよね」
「技能工芸学院は、最も古い、多分、この世で最も権威と実績のある研究機関でした。……それが、こんな事故を起こした、わけですから……。我々は、信用を大いに失うことになります」
 言葉にすることでかえってその重大さが臓腑に落ちてきた。
 時間が経つごとに体力は少しずつ回復してくるが、頭はまだ追いつかない。ふとするとすぐに沈んで考え込んでしまう。
 ゾンネンは逆のようで、何かかえって活発になってやたら動き回っている。あんな躁状態の彼は見たことがなかったが、あまり健康的な感じはしなかった。彼も自分も、結局は、まだ現実を受け入れられていない気がする。
 ちなみに、フルカには自分の職場に来てはどうかと強く誘われていたが、ソラは逆にここを離れられなかった。まだ動けなかった。自分でも自分の心の動きがよく分からなかったが。フルカは彼女を気にしながら、門限に従って寮に帰った。
 ソラは食器を置いた。
「……ごちそうさまでした。返却しがてら、海の方を、見てきます」
「気を付けてください。……イラカを見かけたら、何か食べるように、言ってください」
「はい」
 風が出て来たので、毛布を肩から掛けたまま、ソラは救護所の幌の下から出た。炊き出しの場所へ食器を戻すと、大勢の学生の間を通って、船着き場へと、行く。
 邪魔にならないように救護艇が出入りする箇所は避けて、小舟の係留されている、静かで暗い堤に立ち、海を見る。
 満潮だった。
 黒い波間に白い波が生き物のように立っては消えて行った。
 海上の道は今や消え失せているが、本来、それをたどって行った先に浮かんでいるべき機械の島は、もうなかった。
 あるはずのところに、なにもない。
 あれほどに意味ありげに存在していたあの城が、今はどこにもない。
 非現実的な、喪失感だった。よく目を凝らせば、波に、ごくわずかに瓦礫がのぞいているのが見えるけれど。
 ああ。どうしよう。
 ソラは思った。
 私達は、学院を失ってしまった。
 私達が愚かだったばかりに。
 危ないと分かっていたのに、やめなかったし、止められなかった。それでこんな人死にまで出してしまって。
 何が学問なの。何が英雄なの。ンマロの人達とどっちが偉いの。……何のために学問をするの。自分で止められないなら、それは犯罪と何が違うの。
 ソラは、こういう疑問を、考えないでいることもできた。
 むやみと明るく、希望をもってまた進もうとうそぶくこともできた。
 けれど、それは犠牲になった人間達への、また知性への冒涜だと思った。
 ここに一つの、巨大な問題があって、それを見てみないふりして学問をすることが学者なら、そんなものは大したものじゃないとソラは思った。
 ――あるいは、もしそれが学問というもので、学者は、その疑問に応えるために存在するのではない、というのなら、ソラは、学者なんて永久に欠けたものだと思うのだ。
 そうだ。多分ソラは、勘違いをしていた。
 田舎に生きにくさを感じ、学問をすれば、道が開けると思った。
 そこには人間として高級な感情、平等とか、自由とかがあり、何が大事で何が大事でないかという人間として理にかなった正しい価値観が身につくと思っていた。間違いない人間になれると思った。
 嘘だ。
 学問はそんなものを保証はしない。学問はただ、反復実験をしながら進んでいく止まらない石なのだ。そんな質問には答えないことこそが学問で、学問を究めたからと言って、人間の傷は癒えず問題は解決しない。
 お前も、学問に期待したな。
 あの人の声が耳朶に蘇る。
 学問をすれば、救われると思ったな。
 ――どれだけの人間が、その勘違いをしないで、学院にいたのか。
 学者先生はみな、賢いと人は思っている。学校はとても知的な場所だと、みんな思って憧れている。自分でも酔っている。
 ソラも、ハンも、生き残った人間はみな、そしてンマロの人々も、もはや幻想は抱けなかった。そこに詰まっているのは所詮人間であって、道徳的には村の学校、街の広場と何らの差もない。
 力がある奴がない奴を抑圧して、権力を取り合い、反目し合い、内乱し、事実から目を反らし続けて自浄できず、そして、崩壊した。
 大崩壊してしまった。
 冷たい潮風を頬に薄く感じながら、じっと海を見ていたら、どこからか、声がした。
「教えてくれる?」
 一瞬、どこいるのか分からなかったが、響きをたどって目を凝らすと、小舟の一つに、イラカがごろんと寝転がっているのだった。
 あんまり静かでまったく気づかなかった。彼の衣服からも髪からもほとんどの飾りが吹っ飛んで、黥がなければ、どの街の青年かという風情だ。
 躊躇しないでもなかったが、ソラは、自分も戸板を踏んで、彼の隣の舟に乗り、座り込んだ。隣の舟で彼が顎を返してソラを見た。
 青い目、頬の黥。何も変わってはいなかったけれど。
「ご飯食べたらって、ハンさんが言ってたよ」
「うん。ありがと」
「――今、なんて言った?」
「……『教えてくれる?』って。約束だったでしょ。なんでアルススが駄目なのか、一緒に調べようって。……知ってるんでしょ?」
 ソラはちょっと言葉を失った。
 まだ何も起きていなかった過去。ほんの一月ほど前に過ぎないのに、限りなく遠い。
 まして、目の前でクローヴィスを失った彼の気持ちを思うと、ちょっと顔を見られなかった。ソラ自身さえ、あの光景を思い出すと意識が遠のくのだ。
「……聞きたいの?」
「約束したじゃない」
 けれど彼がそう言うので、ソラは話した。クローヴィスの言ったことをすべて。
 別々の舟に揺られながら。
 ソラが説明を終えても、イラカは長い間黙ったままだった。ソラは顔を伏せつつも、尋ねずにはいられない。
「後悔してるんじゃないの」
「――知らないよりは良かった」
 大きくはない、だがはっきりした声が、ソラに瞼を開けさせる。
 彼はもう一度言った。
「知らないよりは良かったさ」
「…………ごめんね」
「なんで謝るの?」
「巻き込んだから」
 本来、ソラとイラカは決して交わることのない異なる群に属していた。彼は自分を愛し、クローヴィスを愛し、幸福だった。
「俺が相変わらず女連れてお山の大将やってたほうがよかったって?」
「……分からない」
「だよな。――分からない。アルススなんか、起こさないほうが良かったのか。でもそれで、確かに二つのでかい戦争が止まって、どれくらいの人間が助かったか分からない。でもその代わりに世界中に技術がばら撒かれて今被害が大きくなった。どっちが良かった? ――俺はアルススがなければ、家族が強い奴らに蹂躙されるのを見ていることしかできなかった。それを食い止められて良かったよ。でも引き換えに寿命が縮んだと言ったら家族はなんて思うか? ――あの人たちはこんな方法でアルススを止めないほうがよかったのか。でも次には国という国の軍隊が研究機関と癒着してそれに依存しそうになってた。そうしたらもっとずっとひどいことが起きたかもしれない。どっちが良かった?
 ――分からない。起きちゃったことってそうだよ。どう思うかは、それぞれが、決めるしかない。俺は、あんたと喧嘩してよかったと思ってるし、分かってよかったって思うよ。……そうでないと、申し訳立たないから。あの人達に」
 イラカの目は、遠い海の上を見ていた。
「あの人達のせいで、学院が消えて、人がいっぱい死んだ。でもあの人達は俺を助けてくれた。これも分からない。そうじゃないほうがよかったとは、俺には言えない。ものすごく、痛かったから。俺は――忘れないよ、この分からなさを。あの人、『裏庭のネコ』だっけ。見て、形見の指輪投げてくれたよ。どうなの、あの人。いい人なの、悪い人なの?
 ――田舎に、帰る?」
「……」
 いきなり聞かれてソラは思考をかき集める。
 何を言われたかは分かったが、まだそこまでは、考えていなかった。
 でも、ひとたび問われて突き詰めれば、かなりの確実さでそうなりそうな気がする。
 学院は壊れてしまった。じきこの報せは東部にも届くだろう。ただでさえ懐疑的な両親が、これ以上自分の滞在を許すとは思えない。
 それに正直ソラ自身も、学問に打ち込める心情ではない。今すぐ、ではないがいずれ、一度は帰ることになる気がする。
「……多分。でも、可能なら、ここにいて、やれることはしたいよ」
「そうだよね。……助けなきゃ。救い出せるものは、全部」
「イラカはどうするの」
「俺は、ここに残るかな。多分ね、これからいろんな問題が起きると思う。……黥持ちは、辛くなると思う」
 絶句するソラに、イラカは指輪を指に収めながら笑った。
「俺はそれをどうしたらいいか、考えないと。それが次の研究課題かなあ」
「…………」
「いい知恵が出たら、教えてね」
 栄光と、暴走と、破滅を味わった後で、どう生きて行けばいいか。
 一生消えない黥を、体に入れてしまった人間は。
 イラカはにっこり笑って立ち上がった。背後には広い夜の海と空があった。ソラはその時、冗談でもなんでもなく、彼には、確かに英雄的なところがあると思った。
 二人で救護所へ戻ってハンと合流した。そしてイラカはやっと食事を摂った。





 三日と経たないうちに、事態は、イラカが見越した通りになった。
 学院の崩壊の原因にクローヴィスとアルススが深く関わっていたことが広まるに連れ、人々のアルスス学に対する怒りと非難の声が高まってきた。
 これまでアルスス学徒達が、力を嵩に着て横暴に振る舞っていたことも災いした。
 怪我人に心無い発言をする者は少なかったが、イラカなどは、面と向かって『あんたらのせいなんでしょう』と言われることもあった。
 引き潮を待って、再度捜索が行われ、さらに多くの遺体が回収されていたが、さらに別の、予想外の問題も起きていた。
 海洋で魚が大量死し、その死骸がンマロへ打ち寄せたのだ。異常な状況と見られたので魚は捨てられ、漁民達は海が荒らされたと感じていた。
 大量死の原因ははっきりとは分からなかったが、みな、あの爆発の際の辛い水の流出との関連を疑った。何しろあの水は、人間にも悪影響を及ぼしていたからだ。目を傷めたハンはいつまでも視力が戻らなかったし、二三日経ってから倒れる者もいた。ソラもあちこちの皮膚の一部が妙に荒れて、日焼けをしすぎた時のように痛むのだ。味覚のおかしさも戻らなかった。
 助け出されたアルスス学徒の中には、外傷はさほどないのに回復せぬまま衰弱死するものもあり、あらためてこの事故の影響の甚大さと不気味さが衝撃と共に世界中に浸透していった。
 三人は体力が回復したので、捜索活動や救護活動に参加する側に回っていた。
 怪我や病気云々はもちろん、アルスス学徒達の精神的な落ち込みも問題だった。これまで、ひとたび願いさえすれば、無尽蔵の力が手に入った。ところが、今では呼びかけても呼びかけても回路は開かない。黥は皮膚の上で沈黙するばかりで、これは鳥が翼をもがれたようなものだ。
 その上、アルススが自分たちの未来を引き換えにしていたことを知った彼らは倍増しで沈降した。たとえ節度を保った学徒であっても、これまでの自分の力の使い方を恐怖と共に回想せざるを得なくなった。
 過去も汚され未来も暗くされて、しかも学院も英雄も失って、彼らは喪失感に打ちのめされ、早々に田舎へ逃げ戻る者もあった。この街だけではなく、世界中で同じことが起きていた。アルスス学は、アルススの消滅と共にすべての権威を失ったのだ。
 リミニ公国評議会は、なんとまだ見つかっていない院長を所在不明のまま裁判に掛けると言い出した。公国政府を騙した詐欺容疑だと言うのだ。さすがにこれは一方的だとみな感じたものの、止めようもない。独占されていた力が翻って、似たような逆転現象が方々で次々と起こっていた。
 過去クローヴィスが力をふるって、領主らの横暴を止めた地域では、陰湿な仕返しとして体に黥の入った人間を問答無用で拘束するといった騒ぎも起きていた。
 だったら、アルススを止めず、このまま世界に広げるに任せた方がよかったのか――だからそもそもアルススを起こしたりしなければよかった――だったら、戦争が起きてまた弱いものがさんざん殺されるような世の中のままでよかったというのか――。
 ソラ達は日々入って来る報せに翻弄されながら、目の前の仕事に専心することで何とかやり過ごしていた。
 十日ほどで、行方不明者の捜索と同時に、学問的遺物の捜索も本格的に始まった。学生学者の持ち物をはじめ、大文書館の書物や展示物の他、ルル・シル・カントンの木像なども回収された。
 特に書物は膨大であり、何とか再生を試みようと、ンマロの商工会議所の中庭で大量に陰干しされたりしたが、いたみが激しいものも多くあった。
 ソラは、百冊を超える本の中で番をしがてら休憩を取り、知り合いの司書たちと共に、天幕の間から、青い空を見上げた。




 こうして、あっという間に半月ほどが過ぎた頃、遂に故郷から有無を言わさぬ帰郷命令が出た。
 何しろ町長に命じられた若手の町議員が使いとしてやってきて、さあ帰りましょうと言うのだ。
 ソラも無一文になって、寄付品で生きていたし、分かっていたことでもあったので、逆らえなかった。ハンとイラカ、そしてフルカに詫びて、別れを告げた。
「僕も早晩そうなります。追っかけますよ。また東部でお会いしましょう」
 と、ハン。
「また気が向いたら戻っておいでよ。あと、爆発しそうになったらね」」
 イラカはからかうのも忘れない。
「――『ごめん』は、あたしだね。ソラ。あたしまだ勉強の途中だから、今は一緒に帰れないよ。でも役に立つから。ここで起きたこと、全部手紙で知らせるから。ハライで嫌なことがあったら、全部手紙で教えてね。あたしも書くから。ね」
 言いながらフルカはまた涙でいっぱいになってしまう。
 ソラは首にしがみついてくる彼女の抱擁に応えたが、――泣くことはなかった。
 結構これまでは、自分の暴れる感情に振りまさわれがちだったのに、一体どうしたかな、と自分でも思う。
 性格が変わってしまったのか。
 ソラはゾンネンと、その町議員が用意した車に乗って、故郷に帰った。出発してすぐ街道から、ンマロと海と学院のあった辺りを一望する機会があったが、それでも感慨らしい感慨は湧かなかった。
 心がどこか遠い別の場所にでも、出かけているかのようだった。
 旅の始め、ゾンネンは同行する町議員にいかに大変な事故が起きたかを切れ目なく話し続けていた。ソラを見つけたのは自分だとも言った。しかし、半日で糸が切れたように大人しくなり、その後はほぼずっと眠っていた。
 ソラは、宿でも車でもあまり眠れなかった。
 瞼を閉じるたびに、ンマロで働き続けている仲間たちのことを思った。
 旅は順調に進み、三日が過ぎるころには辺りの光景が完全に内地へ、最後には森林地帯へと移り変わる。
 そして古めかしく懐かしい、木製の門を抜けていよいよハライの町に入った時、――ソラは、これまで味わったことのない暴力的で奇妙な感情が、どういうわけかいきなり牙を剥いて自分に襲い掛かってくるのを感じた。
 家の前に車が付き、門の前で両親に迎えられる。二人の前に降り立ち、全身が緑の香りで包まれたその瞬間、彼女は、自分で覚えている限り、過去にやったことのないことをした。
 両親の前で、声を上げて嗚咽したのだ。
 それまで怒ったような顔をしていた両親はびっくり仰天して腕を伸ばし、泡を食って彼女をなだめてくれた。
 その様子を去っていく車の窓からゾンネンが小馬鹿にしたような目で見ていた。



 こうしてソラは東部の森の都に戻ってきた。
 どうしてもここでは生きていけないと一度は感じた、その地へ。





(第二部 了)
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