1.


 中途でこまごました用事にそれぞれ箸をつけながら、かえって通常よりも一日早くンマロへ戻ったイラカだが、到着しても休めなかった。
 報告に立ち寄った再生委員会の本部でまた別の問題の発生を告げられたのだ。
「……西部水源を、買収?!」
「昨日現地から報せがあった。ソード財団が地主から権利書を入手し、柵を立てて水源を封鎖しにかかっているそうだ」
「……はああ?!」
「価格を釣り上げて利益を得るためだ」
「分かってますよ! 聞いた瞬間に分かりましたよ! ああもう! 寧ろ分かりたくない!」
 落ち着いた学者達を尻目にわめきながら、彼は一旦背中から下ろした荷物をすぐまた担ぎ直した。
 そして、眉間に皺を寄せ、目をつぶったまま、円卓を囲む上長たちに尋ねる。
「どうすればいいですか!」
「既に財団には書簡を送っている。現地で使者と合流して説得に当たれ。最悪でも解決の糸口となる情報を収集して戻ってほしい。――道中は、くれぐれも気を付けるように」
「了解しました! 行ってきます!」
 結局彼が家に戻ることができたのは、それから二週間後だった。
 都合一月半も留守にしていた計算になった。
 人の通らぬ床には埃がつもり、早朝にも関わらず空気が悪くて息苦しかった。窓を開けると巣を壊された八本足の虫が驚いて逃げていく。
 腹が空いていたが台所は深閑とし、まだ食い物屋はやっていない時間だった。体を洗いたかったが風呂に水を入れる気力もない。
 つまり埃だらけの上着だけ放り出して、平べったい寝床に倒れ込むほかなかったイラカは、しばらく寝台の上で七転八倒した後、やがてごろんと仰向けになり、空に向けて、ある四文字の言葉を呟いた。
 それからまた首を右に反らして呻く。
 誰か嫁に来てー。
 と。




 千客万来だった。
 かつてソラの中学校の先生だった人物が、所用のついでにハライを訪問した。
 天候のいい最後の季節なので、確かに秋口は人の出入りが増えるのだが。
 彼はもう引退していて、中部の故郷の村に妻と住んでいた。今回は世話になった知人の葬式があったため、久しぶりに東部へ入ったらしい。
 彼は直接ソラの働いている店に来て、店主の許可を得て散歩に連れ出した。
 年は取ったが、元気そうだった。
「ついでに君の顔が見たくなってね。本当に無事だったかどうか懸念していたし。――それに、可能であれば、一体技能工芸学院で何があったのか、それも知りたかった」
 彼はかつて、田舎町で浮き上がっていたソラに学院への進学を勧めてくれた人物だった。ソラもいつも思うのだが、彼女はこれまでのところ、教師には恵まれている。
 学問に関わる者の一人として、事故の内実を知りたいという彼の思いは納得できるものだった。だからソラは可能な限りの説明をした。学者達が、必ず知りたいと思う要点を押さえ、学問的な口調で。
 専門的な語も使った。久しぶりだった。難しい言葉を使っても彼はちっとも怯まない。それ以上の知識で応じてくれる。
 やはりそれは楽しくもあった。店勤めでは、得られない楽しさだった。
「――そうか。なるほど。かなり腑に落ちた気がするよ。ありがとう。……何しろ田舎には錯綜した情報ばかりが届くものでね。まあ、英雄が蘇ったり、島が割れたりしたんだから仕方がないが。『栄華繚乱いまいずこ』だね」
 二十年くらい前に流行った詩の一節を口ずさむ。その出典元が、さらにその参照元が分かること。知識に稲妻が走って理路が一瞬浮かび上がること。
 これまた、堪えられない、音もない楽しさだ。
 だからきっとこの引退した教師も、かつての生徒を訪ねるのだ。水槽に飼われた魚が空気の泡を求めるように。
 彼らは異端の食物を嗜む不貞の同族なのである。
 そこには血族にも劣らぬ連帯の情がある。
「それで、君はこれから、どうするつもりだね」
「……はい」
「実はほどなく引退する予定の友人がいる。もし希望するなら、その後に君を推薦してもいい。初等教育だから少し準備すれば対応できるはずだ。君は、悪くない教師になれると思うよ」
「……ありがとうございます」
 実は、これまでにも教師の口なら声掛けがあった。東部には教師が多いとは言えない。まして、女性で、仮にも中央で教育を受けてきた実績のある人間は。
 だが、ソラはそれを断り、代わりに、商店で品物を売る職に就いた。
 これはさっき感じたような教養だのは全く必要とされない仕事である。学問的修養は求められない、いわば『誰にも代替可能』な仕事である――。
「この後もずっとこの仕事をしていくかどうかは分かりません。多分そうではないと思います。臨時雇いと言われていますし」
「町を離れるのが難しいかね?」
「いえ……。一度離れたこともありますし、親を説得することも、できなくはないと思います」
 事実、両親はあの帰還以降ソラに対して気を遣い、おっかなびっくりになっているとも言えるほどだ。
 まさか、ソラがこれほど追い詰められて戻るとは思わなかったらしい。また何か不用意なことをして泣かしてしまったらどうしようと、二人が遠慮をしているのが分かった。
 あの人たちは奇妙で、人が涙を流すまで、その人物が危機にあることが分からないのだ。そして危機に気付いたとしても、次にはその理由が分からない。
 筋は読んでくれるが、個までは読んでくれないのである。
「――先生。私は、学院で、本当の意味で学問を専門に生きる人たちに、たくさん会ったんです」
 ソラが言うのは学者はもちろん、司書や、教師。学院の運営に携わっていた全員のことである。
 思い出すと同時に地鳴りと崩落の音が蘇る。
 幾度繰り返しても同じだけ鮮明に。
「本当に立派な人たちもいて……私に、学問の基礎や、学問的態度、また最先端の知識を惜しみなく教えてくれました。――でもその時から、もう私は、ちょっとずり落ちていました」
「ずり落ちる?」
「学問という車の荷台から」
 いっせんに坂を下って行く車。
 引退した教師はちょっと戸惑ったような顔をした。
 勝手な比喩だから無理もない。
「ここへ戻って、何度も、考えてみたんです。学究機関は一つじゃない。もう一度、学院へ行きたいか? あの中に混じって学問をしたいか? ――あるいは、司書に。教師に。職員に。なりたいか? ……考えると、どうしても、『なりたい』と、思えないんです」
 二人は街のはずれの方まで来ていた。振り向くと、中央広場を挟んだ向こうに中学校の建物が見えた。
「……憧れていたんです。夢だと思ってました。知識に囲まれて、仲間と共に、一生楽しく勉強しながら、生きていく。
 ……でも私は、甘く見ていたんです。
 学問は……、望む場所では止まってくれない。私が怯めば、後は引きずって行かれます。自分を学問そのものに改造していくしかない。生活から離れ、何か異常なものになりながら、生涯終わらない戦いをし続けるほかはない。
 それもいいです。ますます私は学問に畏敬の念を抱きます。とんでもない。無二の価値があると思います。
 ただそれが、自分の人生かと思うと――疑念が、あるんです。
 疑念がある以上、学問は、いつか必ず私を放り出すと思います。それが分かるので、それを誤魔化して、学問に進むことが出来ません。――疑いを持ったまま、子供たちにものを教えることが出来ません。
 先生。先生は信じていらっしゃいましたよね。……先生の授業は楽しかったです」
 引退した教師は、眉を寄せたばかりに三角形になった目で、ソラを見た。
 この人物も東部の生活が長かったためか、何かというと、渋面を作ってしまうのだ。
「――君はいいことを覚えて戻ったね。事実を事実として認めるということを」
「……ありがとうございます」
「東部では、なかなかそれがね。異論を許さぬ雰囲気があるし、精神論がまかり通るから。――では、ともかく、学問を仕事にするつもりはないんだね」
「……学問の世界に戻りたいとは、思わないんです。必ず、自分を曲げねばならないことが分かりますから。――すみません。……私、とんでもない思い上がったことを言っていますね」
 元教師は手袋のはまった手で、彼女の肩を後ろから二度叩き、来た道を一緒に戻り始めた。
 ソラはこぼす。
「……こんなんじゃろくな人間になれないな」
 事実彼女は半端者になりつつあった。普通であれば結婚している時期に学問所に行き、卒業単位を満たす前に町に戻ってきた。その後学問を続けるでなく、商店に勤めているわけだ。
 説明容易な道から完全に外れている。
 ソラ自身も自分の説明に困ることがあるくらいだ。
「君が頑固者であることはみんな昔から知ってたよ」
 ようやく君自身も分かって来たね。
 と、喉の奥でいささか笑ってから、老教師は続けた。
「……一つだけ、助言をしておこう。君が、学問以外の道を探しているのは分かった。君がじっくり考える忍耐強い人間であることは知っている。或いはいつかまた、君の中で学問の心が芽吹くかもしれない。その可能性もあると僕は思う。
 何にせよ君は、何かをつかむまで急げと言われたって急がないだろう。これが答えだと吹き込むことも難しいだろう。君はそうだな――言うことを聞かない野生動物のようだから。幸い、草食だがね」
 さすがに恥入ったソラの顔を見て、教師は優しくまた笑った。それから、言う。
「だがね、周りの人間が君のことをずっと放っておくとは限らないよ。外で生まれ、この東部の社会で十数年過ごした大人として言わざるを得ないが――。
 君が『学者』でも、『教師』でも、そして『商人』でもないなら、いずれ、君は『家庭』に吸収されることになるだろう。
 それも、早いうちだろう。
 東部で、まともなおうちの娘さんが、独身で二十歳を迎えるというのは本当に稀だからね。
 君のおうちの方々はそれを避けようとするだろう。君が、確固とした道を主張し、そこへ避難するなら別だが、そうでなければ、君には夫が宛がわれることになるよ」
「……」
「これもまた事実だ。ソラ。話せてよかった。元気でやりなさい」


 こうして老教師は外部へ戻って行った。
 彼の示唆は当たっていた。
 その翌日、ソラはつまらない用事を理由に本家に呼び出され、祖母に菓子などを与えられた挙句、こう質問をされたのである。
「最近は体の調子はどうなの。毎回の月のものはまともなの。『辛い水』を被ったと聞いてますけど、あなたの身体は女として、健康で不都合なことはないんでしょうね?」



 ソラの脳裏には、数日前のフルカの言葉があった。




(つづく)
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