3.


「だからもー。なんで信じちゃうかな。傷が残らないわけないじゃん。顔の皮膚焼いてさ」
「その偽シギヤ医者は北部で逮捕された。元アルスス学徒があちこちでいいカモだ。聞いているだろうが、ボータムでは『入れ墨が消える!』万能薬まで売られている。――イラカ君、明日、現地で被害者の聴取会が予定されているから行ってくれるか。書類をまとめて、市議会に取り締まりを依頼しないとならない。三十人以上集まるはずで人手が足りない」
「やりたい放題やられている感じですね」
「一つずつ潰していくしかない。そんな見え透いた細工に簡単に転んでしまうのもアルスス学徒の悲しさだろう。ただ黥を入れるだけで、力を得た過去が祟るな」
 それ以上の皮肉を拝聴する気もなく、イラカは席を立って再生委員会の集会室を出た。既に夜で、さすがに若いイラカもどっぷり疲労を感じていたが、今ではここに集っている学者の全員がそうだった。
 一晩休んだくらいでは振り払えぬ疲労が蓄積して、みな、ふとした弾みにため息を吐くのが当たり前になっていた。そんな状態で、最も年若くアルスス学徒でもあったイラカが「疲れた」などと言い出せる道理がない。
 何か温かいものでも胃に入れて気を取り直そうと、階段に向けて歩き出すと、途中の廊下に知り合いの学徒がいた。
 彼はぎょろりと大きな目をした青年で、頬にはイラカにも負けず劣らぬ赤いララシアス文様が躍っていた。髪の毛は赤みがかった茶で、癖が強く短く刈り込んでいた。
「ゴンクール」
 彼もかつての学院で有名だった学生の一人だ。イラカがソラと一騎打ちした例の実習の時、聖堂にいて別の神階に潜った――そしてその実習に勝った――そんな実力派の一人だった。
 彼は暗い廊下に立って腕を組み、窓から外の家並みを見つめていた。とはいってもここは郊外なので、赤い瓦を葺いた屋根が見えるばかりだが。
 彼の横顔を一瞥してイラカは、あ、やばいな。と思った。怒りと、屈辱と、先の見えなさで、据わった目をしている。彼は確か、この三日ほど、ンマロ市議会との折衝に随行していたはずだ。相当厳しいやり取りがあったと聞いている。
「ゴンクール。飯でも食いに行かないか。何か言いたいことがあったら聞くぜ」
「――結構だ」
 砥石が取れて削れなくなったヤスリみたいな声でゴンクールは言った。目線をずらしもしなかった。
 俺の権力も弱くなったな、と思いながら肩をすくめたイラカがその後ろを抜けようとした時、別の言葉が耳に届いた。
「別の方法があるはずだ」
 イラカは振り向いた。
「ここでこうやって屈辱に甘んじているだけでなく、他の」
 振り返らない彼の頭の向こうにいびつな形の月が浮かんでいた。






 田舎で生きるためにはいくつか法則がある。
 子どもの頃には分からなかったから、はみ出し放題だった。
 一体みなそれをどこで学ぶのだろう?
 特に女子が空気のような曖昧さで共有している、ある限度。
 ある禁忌。
 昔のソラにはどこに線があるのか全く分からなかった。
 少しばかり、今は、分かる。


 ソラの働いている、中規模の小売業。ちょっとした食料から日用品まで、かなり多種な商品を少しずつ扱う田舎向けの雑多な店だ。
 それでも常時三、四人の手伝いを使っているのだから成功している方である。ソラはその手伝いの一人で、そういう一時雇いは全員が若い女の子だった。
「ねえ、ソラさんも、引き寄せの法則って知ってる?」
 棚を見回りながら、効率の良い品質管理の方法を考えている時だった。帳場の近くで話していた女の子二人が話を振ってきた。
 多分彼女らは、自分達だけが話しているので、なんというか、釣り合いをとろうとしたのだろう。
「『引き寄せ』? どういうもの?」
 ソラが習慣で眉を寄せて尋ねると、彼女らは姉妹のように微笑み合いながら言った。
「幸せを引き寄せる習慣よ。今流行ってるの。目を閉じて、欲しいものとか会いたい人のことを強く強く念じるの。慣れてくると、それがびっくりするくらい頻繁に実現するようになるのよ。西通りに占いの先生がいて、その人がやり方を教えてくれるの。その先生本当にすごいのよ」
「先生には、世界の法則がもう全部見えるんですって。この世界を作っている『気』の流れが分かるから、それを自分のために引き寄せられるんですって。医者が諦めたお子さんの病気も治ったんですって」
 こういう話は、一年のうちに大体四回くらいは聞くことになった。
 だからソラはそれを真っ向から否定しないくらいの知恵はついていた。どのように実験したのかとか、千人が同条件で繰り返して再現可能なのかとか、そういう野暮なことは言いたかったが言わなかった。
 大体、彼女らの望みというのは大それたものではなく、『失くしたものが出てきますように』とか『お金がたまりますように』とか『恋愛運が上がりますように』とか罪のない程度のものに過ぎない。
 少女が願うようなものだから、それについて『馬鹿なことを言うな』とやっつけるのは寧ろ心無いことだろう。
 だが、毎度ソラを地味に困らせるのは、そういう二人の同僚たちが、両方とも結構ちゃんとした家の娘だということだ。
 ここの店主は人を雇い入れる時に制約を設けているらしく、どの女性も育ちがよく、言葉がきれいで品がある。二人とも計算は出来るし、接客もちゃんとしている。ちっとも馬鹿ではない。
 なのに、そんなおまじないに夢中になって、『先生』とやらの『万能性』を何故か易々と信じてしまうらしいのだ。
 同性とは言えソラにそれを話すこと自体も無邪気である。同じことを学院でやったら全体どんな目に遭ったことか――。
 とにかく、こういう、やくたいもないおまじないや迷信の類は、手を変え品を変え繰り返し、当たり前のようにやってきた。いい加減慣れてきたソラが気付いたのは、そのたびごとの『先生』が語る曖昧な世界観が、そもそも受け取る側が持っている曖昧な世界観と最初から通じ合っているということだ。
 『世界には、目には見えない法則があり、それを感じ取ることの出来る感覚のするどい人がいる。その人に倣えば品物やお金や愛情や健康を手に入れることが出来る』
 彼女らの主張はどうもこういうことのようなのだ。
 学問をすれば、初歩の初歩で、世界は人間の細かい感情などとは完全に無関係に出来ていることが分かるし、次の段階では、自分たちが知っている神すらすべてを支配しているわけではないらしい、ということが分かってくる。
 世界を動かす真理に触れるためには、正しい手続きと長い年月の積み重ねが必要で、人生そのものを犠牲にした時、初めて僅かな結果を得る可能性が現れる。
 つまり、世界はそんなに人に都合よくはできていない。結果のためには多大な犠牲が必要な上、安全も保証されておらず極めて危険だという簡単で乾いた現実が分かるわけだが――、そしてそれは反復実験による学問的事実として認定できるわけだが――、ここハライでは、多くの女子には、学問に触れる機会そのものが、制限されている。
 そもそも彼女らが関心をもっているのは実際には『世界』ではなく、『社会』なのだ。自分たちの日常を左右している。
 ところが、彼女らはその社会を動かす事実性から決定的に遠ざけられている。自分たちの運命は何か遠い、大人たちの間で勝手に決められていて、それに従うことがまず幸福の始まりだと教えられて、これまでの人生を過ごしてきた。
 だからこそ、幸運をつかむことが、ことのほか大切なのだ。
 この世を動かしている『気』の流れを読んで、逆らわず、『引き寄せ』なければならないのだ。
 うまく潮に乗って、幸福をつかみ、社会の中で、できるだけ自分のねがいをかなえなくては。
 その度ごとの魔法使いが教え説くのは、そういう剥奪に裏打ちされた感覚だ。だから多くの女性たちに通じるし、流行るのだ。
 ソラは、一度ここから飛び出した人間だから、そしてあの祖母の孫であるから、どうしても、そこへは戻れない。どうしてもこう思ってしまう――幸福になりたいなら祈るよりも先にやることがあるだろうと。自分で自分の運命の手綱を握ったらいいだろうと。そんな迷信に時間を無駄にしていること自体が、都合よく操作される境遇を再生産してしまうことだと。
 もちろん口に出して言うほど世間知らずではないのだが。
 ソラが味方でないことは、同僚らにもさすがに知られていた。学校ではないからいじめだのはなかったが、話はそこで一旦終わって、彼女らはまた別の話を始める。ソラは仕事を続けながら背中で話を聞いていた。
 二人は体のどこかしらがつらい、というこれまた定番の話を始めていた。冷える。痛い。だるい。疲れる。しんどい。怖い病気だったらどうしよう。
 すると一人が言いだす。月光浴がいいよ。月の力を集めると身体の毒素が浄化されるよ。悪い気が抜けて運もよくなるの!
 放っておけばいい。放っておけばいいのだが、ソラはどうしても、どうしても聞いた上に言ってしまうのだ。胸の中で。
 ――それは、気のせいです。
 と。




 閉店際に、町から荷物がどっと届いた。
 本来は昨日届く予定だったのだが、何故か遅れてしまったらしい。
 軒先に積んでおくこともできないから、ソラは誰に言われるでもなく残って、その荷を倉庫に運び入れ、在庫管理をした。
 同僚二人は、「えーソラさん、無理しないで。そんなに働いてもらったら、私達が困っちゃうから」と言っていたが、結局定時に帰って行った。
 つまり、ソラが女の身で重い荷物を運んだり、時間を越して働いたりする前例を作ると、他の女もそれに倣わなければならない雰囲気ができるから、仕事がきつくなって困る、ということなのだろう。
 それくらいハライの女は空気を気にする。
 ――もう私を女だと思わなきゃいいんじゃないのかな。
 はっきり言って、ソラは、その残業をしてもまだ、知力も体力も余っていた。小売りの手伝いは単純労働だ。時間は長くても頭はそれほど使わない。
 そしてソラは彼女らのようには体の不調を感じなかった。あったとしても大して気にしなかった。そもそも、学院にいた頃の方が身体的にも頭脳的にも格段にきつかったからだ。
 彼女は無限に仕事を考え出すことが出来た。倉庫の貯蔵の仕組みも改良できると思っていたし、商品の陳列の仕方を変えたり、棚を造り替えたりしたらもっと利益が上がると思っていた。新商品を入れて、売れるかどうか実験が出来たら面白いとも思っていた。
 多分そのすべてが果たされても、次の仕事や課題をいくらでも見つけることが出来ただろう。
 ソラにとって、それは苦役でも譲歩でも何でもなかった。自分の創造性まで行きつけない仕事を延々とさせられることの方が――そしておしゃべりをして暇な時間をつぶすことの方が――、はるかに無駄で苦痛でつらいと思った。
 祖母は難色を示していたが、ソラはここの仕事にも広がりはあると思った。
 ただ、そこまで行かせてくれるなら、の話だが。
「――なんだか悪いね。すまないね。女の子にこんな大変な仕事をさせちゃって」
 表の戸締りを終えた店主がやって来る。
「いえ、大丈夫です」
「次からは帰っていいよ。自分がやるからね。こんな重い荷物、女の子が持って腰でも痛めたらいけないから」
 ソラはそれから何度も大丈夫ですと言わねばならなかった。
 やがて、繰り返される店主の発言の後ろに別の意味が潜んでいるのが分かって来る。
「いや、女の子はこんなことまでしなくていいんだよ。もう色々やってもらいすぎてて、私の立つ瀬がないくらいだから。ここは私の店だからね。君はあくまで女性で、臨時雇いなんだから。そんな報酬払えないから」



 自分で運命を決めることが出来るなら、祈ったりしなくてもいいはずだ。
 自分で自分の身を立てることができるなら、孤立も怖くはない。自分にとって不利なものははねつけて自分を守ることが出来る。
 だのに、東部には、女のやるべき仕事は用意されていない。
 いや、あるにはあるのだ。妻として家を保ち、子を産み育て、老人の面倒をみることが。
 どれも賃金の出ない仕事で、百年働いても貯金はたまらない。まったく自立性にはつながらない。
 フルカが飛び出してきた理由が分かる気がする。彼女は、東部に女の仕事がないことに気付いて、中央に学びに来たのだ。そして技術を身に着け、東部に戻り、一人で生きて行こうとしている。
 なんて賢いのだろう。
 早くから東部の裏側を覗いていた彼女の、ズルい男どもに騙されては駄目だと言っていた彼女ならではの知見だろうか。
 ともかく、田舎で一年を過ごしてソラの中で問題ははっきりと理解され始めていた。
 ソラにはやる気がある。力も知能も余っている。なのに、打ち込めるものがないのだ。
 商売には確かに面白味がある。だが、なら一から始めたいか、お前は商売人か、店主を押しのけても前に出たいかと言われたら――、『うん』と頷くことまでは、できない。今はたまたま得られた仕事だからやっているだけだ。
 本来であれば、学問が自分の自立の基礎となったはずなのだが――今では思い出すだけで、喉元が締まる始末である。
 あれほど賢い人たちが本気で、人生を賭けたら、果てには暴走と破滅が待っていた。
 学問は間違えた。学問は止まれなかった。学問は人を殺した。
 ソラにはそれが忘れられなかった。
 では、他にどうするのか。
 結婚か。
 ソラは確かに家内にも仕事をたくさん発見できるだろう。それなりに打ち込むこともできるのではないかと思う。よくは分からないが。
 だが、ならばすごく結婚したいか。こどもが欲しいか。それで完全に満足するのかと言われたら――、それは商売と一緒だ。『うん』と本気で頷くほどの、期待は抱けない。
 自分を騙すことはできなかった。どうも自分はそういう東部の人間ではない気がする。
 いかに伝統と常識がそれを示唆しても、ソラはもう何事も鵜呑みにはできないのだ。激しい挫折を味わったから。
 あの日からこの世に確かなものは何もなくなってしまった。
 いつかはこの世で自分がすべき仕事が見つかるだろうか。
 自分を表現し自分を強め自分を守ることが出来るような。
 自分を本気にさせ、本気にさせ、果てしなく本気にするような。
 そんな仕事が。





 とにかく、これが現在の自分の持つ大きな問題であって、これは誰かと結婚したからといって簡単に解決されるようなものではないことに、ソラは気付いた。誰かが自分の代わりに答えを見つけてくれるなどとは思えないではないか。
 たとえ――。


「こんにちはー」
 土産を小脇に挟んで、店に入って来た金髪碧眼の派手な男に、店主も同僚も驚いて息を止めたのが分かった。
「やー。ソラ。遊びに来たよ。元気にしてた?」
 ソラは月締めの計算を行っていた帳簿から目を上げ、ひらひら手を振るその男の頬に踊る黥を見る。


 そう、たとえ。
 この見知った青年と結婚したとしてもだ。




(つづく)
<<戻 次>>