5.



 実はこの頃、東部は、古くからある名家の醜聞でもちきりになっていた。
 その家は、記録に残る東部で最も古い家の一つで、現在も間違いなく最大の所領の所有主である。
 土地の散逸を防ぐため、昔は同族内での婚姻しか認めていなかったという伝説の持ち主で、さすがに現在では、意識して他家の血を入れるようにしているというが、その評価の基準が極めて厳しいのは当然のことであった。
 約十年前、この家に嫁いだ女性が、近頃病気になったというのである。それもからだの病気ではなく、あきらかに神経の病であるらしかった。
 女性は何度か錯乱したため家内に閉じ込められ、時に柱に縛られているという噂さえあった。女性の実家は娘を引き取りたがっていたが、醜聞を厭う主家は応じない。
 そもそも女性が発病した原因は、何年もの努力の末にやっとのことで懐胎した子どもが死産であったことを、責められ続けた結果だという。
 あまりのことに女性の実家から悲痛の言葉が外へ漏れ、やがて大きな噂に膨らんでハライにも届いていた。
 この騒ぎがあったおかげで、ソラの祖母は助かった。ソンターク家の娘が、『辛い水』のために縁談を断られた、という手前の醜聞が表沙汰にならずに済んだからである。
 とはいえ、祖母は狼狽した。彼女が見る限りソラは健康体であり、まさかそんな理由を持ち出されるとは思ってもみなかったのだ。
 だいたい祖母には学問は分からない。相場のことは恐ろしく分かるが、学問など、祭事の際子に着せる衣装のようなもの。箔である、という程度の価値しか感じない。
 むろん箔が威力を発揮することがあるから侮ってはいないが、ソラの入った先の学校が事故でつぶれたと聞いた時は、なにか『ほら見たことか』という思いがしたのも事実なのだ。
 世の中を動かすのは学問などではない。学問で食えるものか。
 ところがその学問が得体のしれないかたちで今、彼女の仕事を邪魔するのだ。
 なんということ。こんなことなら、やはり中央になど出さねばよかった。
 ソラは今、十八歳。行き遅れというほどではないが、一番売れるのは十六や十七の娘だ。二年前に縁談を持ち掛けていれば条件ははるかに有利になった。辛い水の問題もなかった。
 そう思うと祖母は、悔やんでも悔やみきれない。
 断りを入れて来た家は一つではなかった。祖母としては、家の格が足らないと感じ、不承不承話を通してみた家からも、次々に『お断り』の返答が届いた。
 祖母は孫が極めて悪い条件に立たされていることを理解せざるを得なかった。
 応じる意志を示した家や、向こうから申し出があった家は三つ、四つあった。が、これらは論外だった。ある家には手癖が悪く、色々なところで現金や品物を盗むので有名な老女がいたし、その他の家はやはりいかにも格下だった。
 断られることも醜聞だが、格下の家に孫が嫁ぐことも同じくらい醜聞である。それは一族の縮小と没落を兆すからだ。
 まして格下の家の連中が、自分のように一族を『運営』していく方法を知っているとは到底思えない。孫が下らない一族に消費され、せせこましい貧乏くさい墓に入ることになってしまう。
 冗談ではない。
 長男の一人娘であるソラの嫁ぎ先を探し始めて一月半。その実、手が詰まり始めていた祖母にしかし、思いがけない場所から意外な提案がなされた。
 なされてみれば、理の当然の成り行きではあった。
 辛い水を浴びたのは、ソラ一人ではない。
 町長から、息子ゾンネンの嫁にどうかと内々で打診があったのである。



 ゾンネンは、アバルの町の町長の娘と婚姻が決まっていたはずだった。
 アバルは近年、林業の発展が目覚ましい町であり、それを牽引しているのが今の町長であった。
 野心家のゾンネンの父親は一族の更なる繁栄を願って、その強力な血筋と縁を結ぼうとしたのであるが、あとは契約書の取り交わしという段になって、先方から破棄の申し入れがあったというのである。
 なんでも、ゾンネンが辛い水をかぶったということを耳にした娘の母親が心配になって調べたところ、ほうぼうから身も凍る恐ろしい逸話をたくさん聞かされた。
 曰く、三つ目の赤子。曰く、三ツ頭の魚。曰く、三つ房の果実。
 みすみす、娘の母胎にそのような不幸を宿らせることは出来ない。健やかなこどもを約束してくれる男は、他にいくらでもいるというのに。
 母親の不安は娘にも感染し、結句二人の愁訴が町長を動かした。
 これは、ゾンネンの父親にとって屈辱の事態であった。ハライを取り仕切る自分が、格下の、田舎町の、どろくさい山男の一族から婚姻を断られたのである。
 醜聞であった。
 幸い、大いなる別の醜聞のためにこれが露見せずに済んでいる間に、次の手を打って事態を収拾させなければならなかった。
 町長はソンタークに目を付けた。もとから、選択肢になかったわけではない。だが、自分の妻がソンターク家をあまり好んでいなかったことと、あまりに町内であり無難すぎ、躍進の余地がないことが、それを採らせなかった。
 しかしもはやそんなことを言っている場合ではない。
 町長とソラの祖母はもともと気の合う同志であった。お互いに一族を運営する者同士として、同じ不文律を重んじ同じ方向性を所持していたので、話が合ったのである。
 町長の提案は、互いに互いを救う策であった。
 これが成れば、少なくとも、両家のハライにおける地位は安泰だった。やがて健康な子供が生まれさえすれば、下らぬ風評も去るだろう。
 ――が。さすがの祖母も、町長の息子の性格については、一旦足を止めて考えざるを得なかった。
 彼女は人を見る目が当然にあった。且つまた冷静で、その点において身びいきなどはしなかった。
 彼女は自分の息子さえ、大人しく従順だが才能に乏しいと見ていた。実権を渡されてもどうしていいか分からない、現状維持より他に取り柄のない人間だと考えていた。彼には一生、小役人が適当だろう。
 その娘ソラは――、愚かではない。自分によく似たところもあり、また極めて違ったところもあるが、いずれにせよ賢いし、下らない人物であるということはない。
 自分のこともまた、逆らわないまま恐れずに、よく見ている。
 それなりによい妻、それなりによい母親になれるだろうし、最終的には、一族を運営することになるだろう。たとえ不承不承だとしても。
 では、あの町長の息子のゾンネンはどうか。
 どういう人物か――。
 実は祖母は、これまで彼のことをあまり考えないようにしてきた。それは多分、正面から見据えれば見据えるほど、難点が目立つからだ。
 無論、彼が持っている一族としての社会的な価値はよく承知している。だが男性としての彼は、決して見やすい人間ではない気がした。
 彼は、なによりもまず、甘やかされている。東部で最も地位の高い家の跡取り息子として、初めから大人たちに特別扱いされて、当人もそれに手なずけられている。
 素直だということもできるだろう。指輪一つもらってもにこりともできないソラに比べれば、それは倍も素直だろう。
 ――しかし、東部で、素直に、甘やかされて育った、男、というものがどういうものか。祖母は骨に染みるほど、よく知っているのだ。
 何故なら、彼女は生涯をかけてその面倒を見させられてきたからである。
 彼女の生家にも才能ある男はいなかった。それはちょうど中央で苛烈な戦役が起きて世が乱れ、東部も作柄悪く貧しかった頃なのだ。彼女は冗談でもなんでもなく、自力で弟妹達を食わせねばならなかった。
 十を越したころから何でもして働いた。十五の時、ソンターク家のしていた商売の手伝いをするようになり、そして、その跡取り息子と結婚することになった。
 苦労の連続だった。
 ゾンネンは、どうにも彼女に自分の夫を思い出させるのだ。その私情が判断を鈍らせる。
 かといって手元には、他にろくな札が残っていない。
 現状では、町長一家との婚姻が、一族にとってもっとも有益であるのは間違いない。
 そして当然時間も無限にあるわけではないのだ。あまりに待たせればこの縁談も消滅する。町長も醜聞を避けるために焦っているはずで、ソンターク家が駄目となれば、次善の策を探すに決まっている。
 ――だが。


 祖母は、迷った。手持ちの情報だけでは結論が出せなかった。
 これまで幾多の縁談を取り仕切ってきて、中には運任せでばくちに出たこともある。
 しかし孫のソラに対してそれは出来なかった。
 祖母は、彼女なりの誠意をもって、やはり孫を愛していたのだ。言うことを聞かない、何を考えているか分からない孫だが、それなりに。――また、それゆえに。
 迷った彼女は、ある親戚を自宅に呼び出した。
 からりと晴れ上がって肌寒い晩秋のある昼下がり。身ぎれいに着飾った若い女の子が、彼女の指定席の前に座った。





 コマイ・ソンターク・フルカは、祖母の眼から見ても百点満点の身だしなみだった。
 ソラがこんな格好で通りを歩いていたらちょっとびっくりするだろうが、ある都会的な美意識を完全に我が物にして使いこなしていることが分かった。
 なんだってうちは、女の子たちばかり元気なんでしょうね……。
 胸の中でため息をついた後、祖母は、にこにこ笑っている彼女にお茶を進め、近況を尋ねた。
 フルカは瞼に乗せた淡い色味を、目を開いて隠したり、伏せて見せたりしながら、商売を始めるつもりだと楽しげに話した。
 町の外に女性向けの美容店を作る。すでに土地の目星もついているという。
「頼もしいことだこと。元手は足りているの?」
「大丈夫です」
 コマイ家の小娘に『大丈夫』なわけがないが。
 彼女一人出奔して、中央で一年以上暮らせたこと自体、どうも筋の通らぬ話であるが。
 噂は種々あるが――。
 祖母はそこには踏み込まないでおいた。
「聞きたいことがあって呼んだのです」
「あら、なんでしょう」
「あなたの眼から見て、町長の息子さんのゾンネンは、どんな青年だと思うかしら」
 十秒ほどの沈黙が流れた。
 きれいに彩られた少女の顔が、変化を見せないままに変化した。
 笑みは決して消えなかったが、少し目の色が、変わる。
「――あら。そういうことに、なりそうなんですか。おばあさま」
「まだ決まったわけじゃありませんよ。誰でもいいってわけじゃないんですからね」
「他ならぬソラのことですものねえ」
 これは反応を見るためのいわゆる『鉤』だったかもしれない。
 だが祖母はもう細かいことに頓着しなかった。フルカのような相手から情報を得ようとするなら、こちらも根こそぎ持ってかれることは大前提だ。
「あなたももう子供ではないのだから、いらぬおしゃべりはせぬでしょうね? フルカ」
「はい。もちろんです。他ならぬソラのことですもの」
「――それで、どうかしら。あなたは同じ学校にいたわけではないから、なんでも知っているわけではないでしょうけど」
「聞いた限りでは、ここにいた時と同じように過ごしていたようですよ。借金とか、悪い遊びをするような人ではありません。寧ろ気難しくて、人と交わらず、たいてい一人でいたみたいです。大事故の後、少し一緒にいましたけど、あたしとはまともに話もしませんでしたわ。
 ――いいえ、違うわね。あたしともしません。そして、ソラの友達とも、話さない。話すときは、ソラとだけ。文句を言うのも、ソラに対してだけ。ある時なんてね、すごく必死にソラを探しているんです。で、途中であたしと目が合ったのに、逃げるように目を反らして。それからやっとソラを見つけて、ほっとした男の子がお母さんに八つ当たりするみたいに、何か言いたいことを言っていました。
 事故の後も、見ていましたけど、別に誰の心配をする様子もなかったですね。ソラも含めて大抵の学生が、知り合いや友達、恩師を探して、再会を喜んだり、時に遺体にぶつかっては嘆き悲しんでいましたけれど――、彼は別に。ほんとうにソラが来るまで、一体どうやって過ごしていたのかしら。不思議なくらいです。
 ゾンネンは、おばあさまがご存じの通りの人ですよ。ご自分の目をお信じになったらよろしいのに」
 祖母は大きなため息を吐いた後で、自分でそれに気付いて、しまったと思った。
「人を見る時には、気をつけて公平にやらなくちゃいけませんからね」
「いつだって公平になれるでしょう? 神様のような炯眼を持っていらっしゃる」
「嫌味を言うのはおやめなさい。私は年寄なのよ。困ったから呼んだというのに」
「…………」
 しばらく、二人の女たちは黙った。
 やがて、フルカが紅を引いた唇を開く。
「おばあさま。あたしはソラの味方です。死ぬまで一番の味方でいることを決めましたの」
「あら、なんだってそうなったの。あなた達はほとんど付き合いがなかったでしょう」
「あっちでそうなったんですわ。あたしはソラが大好きなんです。この辺りで、古くから、『怯えた鳥が懐に飛び込めば猟師もそれを撃たない』というでしょう。ソラはまさにそういう人ですから。どんな境遇になっても彼女は『鳥を撃たない』でしょうけれど、だからこそあたしは、彼女には幸せになってもらいたいと思っているんです」
 祖母の眉がしかめられる。
 不快の表現ではない。例の東部民の、集中の証である。
「何だというの。いったい、何が言いたいの」
「ソラには、別に、彼女と結婚したがっている男性がいます。学院時代の友達で、たしか南部の出身だと聞いていますけれど――、気が利いて、身ぎれいで、仕事が出来て、あたしは割と好きです。ただ、財産はありません。あったとしても東部とは関係ありません。東部の基準で測るすべのない、外の世界の人間です」
「――なんですって?」
 今度は祖母の表情に警戒が忍び入る。
「それは一体なんですか。まさか、ソラが――」
「おばあさま、ソラはあたしとは違います。軽はずみなことはしません。あたしはよくソラの下宿に泊まりに行きました。彼女がこれまで男性とおつきあいしたことはないってことは、あたしが保証します」
「当たり前ですよ。まったく……」
「多分彼は、同じ学び舎で仲間としてつきあううちに、ソラのことが気に入ったんです。最近、機会を見つけてはハライにも来ています。ご存じじゃなかったかしら」
 祖母は無言でいるしかなかった。
 代わりにフルカが首を振る。
「そう。じゃあよほど慎重にやっているのね。あたしが脅かしたから。東部では、外部の人間に馴染みがない。時間をかけてやりなさい、って」
「……あなたが?」
「相談されたんです。東部の女性と結婚するにはどうしたらいいかって。まず周囲の人間に慣れてもらってから、時機を見て、一族の長に会いなさい、と言いました」
 再び短い沈黙が流れた。
 もう、卓の上のお茶からは湯気が途切れて、水面に埃の端が浮いていた。
「なら、あなたは、彼の味方なのね」
「一度会ってみたらよろしいわ。おばあさま。味方にならずにいるのは、なかなか難しい人です。一見軽薄にも見えますけど、あれは相当苦労しているわ。東部の男とは違います」
 どこの言葉に、反応したのか。
 祖母の肺の傍を走る不思議な火花があった。
「どうやって会うというの? まったくご縁のない人ですよ」
「あたしが取り計らってもよろしいわ。次にいつ来るか、あたしならなんとでも知りようがありますから。ここへ連れて参ります。或いは、おばあさまのご都合のよろしいどこにでも。また相談に上がりますわ。よろしいかしら?」
「――あまり頻繁に来るのは困ります。手紙になさい」
 一瞬の間の後、フルカは如才なく頷いた。
「分かりました。お手紙ですね。……では他に御用がなければ、あたしはこれで」
「――あなたは」
 フルカが立ち上がった時の衣類の音がそこで一瞬止まる。
「あなたの結婚相手も、探してあげましょうか」
 皮肉な失笑が、フルカの唇に上る。
「いいえ、結構ですわ、おばあさま。おこぼれが欲しくてやることじゃありません。あたしはただ、ソラに幸せになってもらいたいだけです。
 ……おばあさま。あたしたちは、生意気かもしれませんけど、中央で、自分たちの手で、人脈や、生き方を作って来たんです。事故によって、その場は失われてしまったけれど――あたしはそれを、伸ばしてみたいんです。だから応援致します。おばあさまがそれを分かって下さったら、どれほど嬉しいか。
 あたしはね、ソラは一族の中で、多分一番おばあさまに似ていると思っているんですよ。生まれた時代は違うけれど、もしおばあさまがソラだったら、やっぱりここで浮いて同じように外に飛び出しただろうし、やっぱりあたし達は友達になって、きっと大好きだったに違いないって思うんです」




 裾をしゃかしゃかと言わせて、フルカが出て行って、一人残った居間で、祖母は長い間、考え込んでいた。
 フルカを呼んだことで、論点はかなりはっきりしたが、選択による結果の違いも、また明白になった。
 ソラはまるで山の頂、分岐点にいるかのようだった。支流は左右に別れ、どちらを選んでも後戻りは不可能だ。
 囲われた世界の中での、曖昧な、どちらをとってもほどほどといった従来通りの選択ではなかった。ある側には完全なる東部があり、ある側にはまた完全なる未知がある。ソラ達が自力で作り上げたという――。
 その二つの世界は交信していない。
 百戦錬磨の祖母さえ、この両極端には戸惑わざるを得なかった。
 フルカが揶揄したように、祖母には神のごとき冷徹な判断基準もあった。だがそれは、東部をのみ測ることが出来るものさしだ。それを外部に差して平然と利口を自認していられるほど、彼女は愚かではなかった。
 もはや、損得の勘定では判断できない問題だった。
 問われているのは寧ろ、自分に似ているという孫のために、どちらの世界観を選択するか、ということなのだ。


 祖母はこれほど『自由な』決断を迫られたことはなかった。
 時間的な制約が迫る中で、しばし、彼女は人知れず孫について、考えに沈むことになった。





(つづく)
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