6.


 冬の海に近づくものは少ない。
 まして、汚染された海には。
 どんよりと曇った昼下がり。
 辺りには生物の気配がない。
 それはかつてソラが迷い込んだ枠の外。
 無人の立ち入り禁止区域だ。


 そこにイラカは立っていた。
 一人ではなく、年上の青年と一緒だった。
 彼は黒い髪の毛をしていて普通だった。
 だが消せない品の良さが誰かに似ていた。
 彼は指輪を振り術を繰った。
 そして波の上に、一年以上隠されていた庵を出現させた。






「すごいじゃないですか」
 腰をかがめ、十ほど二列に並べられた植物の鉢を一つ一つ見ながら、ソラはそう言わざるを得なかった。
 鉢には青々としたジュマという植物が育っていた。二年ほど大きく育てて秋ごろに刈り取り、冬の間に加工して繊維にする。
 夏場、暑気に枯れやすいのが難点なのだが、鉢の植物たちはどれもよく伸び、葉っぱもつやつやしていて極めて良質だった。
「これで一年目なんでしょう。とてもそうは見えませんよ。見事な状態だと思います」
 ソラの心底からの褒め言葉に、斜め後ろに立ったハンは照れた女の子のように体を揺らした。あまり褒めると彼が窮することは知っていたが、ソラは本気で感心したので続ける。
「鍛錬の成果ですね。――シギヤだから、努力と継続は結果に如実に表れる。もう立派な神官じゃないですか」
 神官は共同体にいて、季節ごとの農業祭を取り仕切り、祠を整え、祝詞を唱え、シギヤの恵みを引き寄せる。同時に、学問的な知識を分け与えてより効果的な育成方法を教授したり、新種の導入などを助けたりするのも重要な仕事である。
 不作の責任を追及されることもある、最も古い公職の一つで、ハンは現職の神官の下で現在見習いの最中である。
「まだまだです。なんとか今年は『合格』と言って頂きましたが。簡単だと思ってはいけないと再々釘を刺されていますよ。――確かに、なにしろ給料を頂いてますからね。結果を出さねば許されないわけで。精神的にはけっこう厳しいものがあります。その辺りの苦労がやっと見えてきました」
「そうなんでしょうね」
 ソラは立ち上がって、改めてすべての鉢を見下ろしながら言った。
「でも、ハンさんなら大丈夫ですよ。努力なさるもの。シギヤはそういう人は大切にするものでしょう」
「シギヤが何を真の献身と見るか、それが重要なわけですが」
 まだ慣れないのか、眼鏡を鼻の上で押し上げながらハンは言う。
「――自然は不変の存在ではありません。昔のことを知れば知るほど、今と昔の気候が違うことが分かります。変化を理解し備えることもまた献身なわけで、その点を一般の方々に分かって頂けるかどうかが心配です。何しろ、特にご老人は変化を嫌いますから。手法を変えることはすべからく神の怒りを招くと考えてらっしゃって」
「ああ。よく分かります」
 今までこれで無事にやって来たのだから。
 手法を変える必要などはない。
「ソラさんは今は、学問はなさっていないのですか」
「……ええ。まったくしていません」
「朝夕の祈りは」
「それもしていないですね。型どおり、付き合うことはありますが、――お判りでしょう。真情を込めて神に呼びかけてはいません」
 祈りにも技術がある。
 形だけ真似ても無益で、意識をある一定の高さへ飛ばさなければならない。
 精神状況や身体状況にもよるので、毎回十全に果たせるものではないが、繰り返し訓練することで上手になる。
 ソラはそれを、もう一年半やっていなかった。
「それで生きていけますか?」
 ソラは見えない糸で引かれるようにハンの顔を見た。いつかどこかで、彼が言った言葉そのままだった。
 一瞬にして、共に過ごした学院生活が蘇り、大文書館のあの香り、胸が迫り、苦しくなる。
 顔が歪んだのが分かった。ハンの眉間にもちょっと皺があった。口元は優しく笑っていたが。
「お気持ちは分かります。僕も恐ろしいことがあります。ふと、自分は今また、とんでもないことに足を突っ込んでいるんじゃないかと疑う時もあります。
 ただ最近思うのは、学問というのは、習性で、その習性のある人間にとっては簡単にやめたり捨てたりできないものなんじゃないかということです。学問をやめて、なにかああいう作業や感覚なしに、生きていくことができますか? 勝手に走っちゃうんじゃないですか?」
 図星を突かれてソラは黙った。
 臨時雇いの小売店で、仕事をやりすぎて最近迷惑の領域に近づいている。
「……」
「習性の人は、どこから掘っても、必ず地下で学問とつながってしまうものじゃないでしょうか。これは本当に、森で獣を狩る猟師の方にさえ、天才的な学者肌の人がいるんです。文字の読み書きもできないような人ですよ。でも、創意工夫に富んでいて森を研究し、しかも敬虔でシギヤと仲良しなんです。
 ――あの、別に無理やり学問に戻れと言いたいわけではないんです。ただ、無理に自分の一部を押し殺し続けることは、――なんというかな、自然じゃないと思うんですよ」

 奥へ奥へ、先へ先へ、上へ上へ。
 目指すことが凄まじい破滅を呼ぶ。
 それでもそれが、人間の習性だろうか。
 止めることなど、出来ないものだろうか。

「発展の先に時には確かに破滅の可能性があります。それをどうするかもまた、学問の仕事じゃないでしょうか」
 二秒ほど後、ソラはため息を吐き出した。
 ハンの二の腕をパシンと叩き、言う。
「とにかく分かったのは、ハンさんが立派な学者先生になりつつあるってことです」
「とんでもないことです。奥へどうぞ。お茶をお出しします」




 魔法のように現れ出た庵は、全く当たり前のように無事な顔で、二人を中へ入れた。
 中はさすがに埃が積もっていた。
 一年半だ。
 青年は無言であちこちの窓を開け放し、イラカは言われるより先に手近な布を振ってあちこちの埃を払った。
 機能的で、趣味が良くて、清潔な住まいが水の上を滑っていた。
 ソラもここに来たわけだな。と、玄関先で払った椅子を手に戻りながらイラカは思った。
 ――こりゃあ、幻惑されても無理ないわ。
 しばらく部屋中を白い埃が渦を巻いて飛び散っていたが、一時間ほどすると、海の風がそれをどこかへ押しやってくれた。
 水は多くのものを洗い清めてくれる。
 この海にふりまかれた辛い水も、最後には、なんとかしてくれるだろうか。
 青年に呼ばれて、居間へ戻った。
 やっと座れる状態になった向いの椅子を勧められる。彼が座ると青年は言った。
「何か欲しいものがあったら取ってください。その後はすべて学院に寄付します。価値ある方には、価値のあるものでしょうから。父の、こうした遺品は」




「ソラさん、縁談来てませんか」
「――いえ。なんか気配はあったんですけど、まだ今のところは……。ハンさんには?」
「……あのですね。親類縁者からは特に来ていないんですが……、実は、こういうものが」
 と、ハンが茶碗の脇に出してきたのは手紙だった。手紙の束、だった。
 ソラはからくもお茶を飲み込んでから、声を上げた。
「うわっ! すごい! 三十通くらいありませんか、これ! え、付文? ハンさん、いつのまにそっちの人に!」
「なんですか、『そっちの人』って……」
「女の子からですか」
「そうなんです」
「一人?」
「いや、四、五人の方ですね。だからその眼をやめて下さい。――どうも最近こうしたものを頂くことが多くなってしまって。ここに届くのはもちろん、知らない間に上着のポケットに入ってたりするんですよ。半年くらい、先生の代理であちこちの祠の清掃管理をしに出かけたりしてまして、その途中の村とか町で僕を見かけた方達のようなんですが……」
「なんて書いてあるんですか?」
「読んでいいですよ」
「さすがにそれは行儀が悪いですから」
「……うーん。なんだったかな」
 もうハンの眉間には皺が立ちっぱなしで、眼鏡ごしにでもはっきり見えた。
「僕は外へ出る時はいつも本を持って行くんですが、それを読んでるところを見かけた、とか……。挨拶したら丁寧にあいさつし返してくれた、とか……。遺憾ながらこっちはあまり覚えていないんですが。……いったいこれはなんなんでしょうか。僕は相変わらずどんくさい人間ですよ。学院じゃそんなことは一度もなかったのに。どういう災難なんでしょうか」
 別に災難とまで言わなくてもいいんじゃないかとソラは思ったが、ふと、同じことが自分に起きたらやはりその語彙を使うかもしれないとも考えた。
 いずれ、これは彼にとって喜ばしい事態ではないわけだ。
「眼鏡じゃないですか」
「は?」
「東部で眼鏡をかけている人はほとんどいないでしょう。しかもハンさん、眼鏡かけて神官の服で、青空の下で本読んでるわけでしょう。いかにも学者先生って感じがして――、魅力的に映るんじゃないですか」
「そう言われても眼鏡がなければ本が読めませんしねえ」
 珍しく本当に機嫌を悪くした様子でハンはごねた。
 ソラは驚くと同時に、面白くなる。
「読んでる本だって、暇つぶしの娯楽小説で難しいものじゃないんです」
「何を読んでるんです?」
「『虹の向こうに』です」
「――え?」
 さすがにソラもその名前くらいは聞いたことがあった。
 読んだことはないが。
 知識が記憶から追いついてきて、面食らう。
「ソラさんは誰にも言わないでしょうね」
「い、言いませんけど。確か、女の子向けの恋愛小説じゃなかったですか」
「そうですよ」
 開き直ったようにハンは言ってのけ、それから何故か天を仰いで付け加えた。
「ああ。今日はこの話がしたかったのかもしれない」
 とにかく何か留め金が外れて、いつもと違う扉が開きそうになっているのは確実なようだ。ソラはにわかに面白くなって、仕事そっちのけで仲間同士の打ち明け話にのめり込む同僚達の気持ちがちょっとだけ分かったような気がした。
「なんで恋愛小説なんて読むんです? 面白いですか?」
「恋愛とはなにか勉強するためです」
「ハンさん!」
 さすがにソラも笑ってしまった。
「だったら、手紙をくれた女の子の誰かと付き合ってみたらいいじゃないですか!」
「しませんよ」
 ハンはその時、腕組みをしていた。仏頂面で、眼鏡であったから、どっかの頑固なおじさんのように椅子に座っていたわけである。
 指で眼鏡を押し上げる。
「僕はしません」
「ちぐはぐじゃないですか?」
「どこがですか? 僕が恋愛小説を読むのは、恋愛が分からないからです。僕は女の子と付き合いません。恋愛が分からないからです。僕はそういう人間じゃあないんです。
 あなたは、そういう人ですか、ソラさん」
「――」


 それはぼんやりした予感で、
 伝えられない。
 「自分はそういう人間じゃない」としか


「……実は、お話していないことがあります。僕には兄が二人いまして、末子なのです。母は女の子が欲しかったらしく、子供の頃、僕に女の子の格好をさせていました。何を考えていたんでしょうね。
 で、僕が古井戸に落ちたことはご存知ですね。シギヤと初めて会った、あれです。あの時僕は、実は、たちの悪い大人に追いかけられていたんです。
 その人は、僕の身体を無理に触りました。僕は逃げて、逃げるうちに、穴に落ちたわけです。
 大人たちがどれくらい事実を知っていたのか知りませんが、僕はそれ以降、女装させられなくなりました。僕にいたずらした人間は――まだ、村にいますよ。もう老人ですけどね。子供の頃は、会うのが嫌でした。
 とにかくその経験のせいか、僕は、人に触られるのが嫌いなんです。さっきソラさんがなさったみたいに、性的な意味合いを持たないとはっきりしている場合はなんとか大丈夫ですが……――いや、十分でないな。相手が、こちらの領域を侵す遺志がないと分かっている時には、大丈夫です。が、多くの場合はそうではないので、――基本的には、とても嫌いです。
 自分の領域を侵されたくありません。だから人のそれも侵したくはありません。 
 世の中の男性や女性の多くは、どうもそうでもないらしい。好きになった人間にそれを破壊してもらうことが最上の喜びらしい。
 でも僕は、そういう人間ではないのです。
 恋愛はまさに、僕にとって虹の彼方にあるもので、遠くで眺めている分には美しく楽しい娯楽です。
 でも僕自身は、絶対そういう人間ではないのです。
 ――ソラさんは、そうですか?
 とにかく、僕は女性に誤解は与えないよう、注意して過ごしてきたつもりです。ところが、この女性たちは、そういう僕に別種の都合のいい幻想を抱いて、付文など送っていらっしゃる。申し訳ないが、愉快でないのです。みんな、僕の意図などお構いなしに、勝手にはしゃいで勝手に突っ走る。それは、僕を女装させたり、古井戸に追い落とすのと何が違うんでしょうか?
 ここでは、誰もが皆、結婚し家族をなすべしと言われます。でも僕は、きっとそうできないでしょう。
 ――すみません。ソラさん」
「……え?」
 急に呼ばれて改めて見ると、ハンはもういくばくか赤い顔に罪悪感のこもった微笑を浮かべていた。
「こんな話をするつもりでお呼びしたのではなかったのですが。その実僕はどうも、誰かにこれを言いたかったようです」
「……」
「多分、色々なところから、結婚はまだか、しないのか、すべきだと言われて、腹が立っていたんだと思います。甘えて、気分の悪い話を聞かせてしまいました」
「いえ別に、全然悪い話じゃなかったですよ。……とても、正直なお話だなと思って聞いていました」
 東部民は正直者と言われるのに、正直な話をする場所が、限られている。
 ハンはいずれにせよ自分で広げた話を自分で閉じたがっていた。そのどちらも知的なのに性急で、こどものように不器用だった。
 きっと本人も思いがけないままに、隠していたことを吐露してしまったのだろう。自分で自分に戸惑ったような顔をしていた。
「……せっかくのお茶が冷めてしまいました。ちょっと、沸かし直してきます」
 そう言って一度席を立ち、当たり前よりも少し長い間、台所にいる。しかし湯と共に戻って来た時には、もう、いつもの調子にほぼ戻っていた。
 礼儀正しい。どこかわざとらしい。取り繕われた、距離を保った、ぎこちない、清潔な親しさに。
 でも人は、ソラもハンと似たところがあると言うに違いない。
 心から人になずんではいない。
 どこかで、いっしょくたになることを拒否している――。
「ソラさんは、どうなさいますか」
 席についてハンは言った。
 窓の外は塗りつぶしたように白かった。
 これは仲間が欲しいという話ではありません。と、ハンは言う。
「いずれは結婚して、家族をお持ちになるのですか?」



 家に帰るまでの車の中で、その言葉は繰り返し幾度も、ソラの意識をいっぱいにした。
 自分の中にも確かに湧いたことのある、同時に血を吐くような、けれど揺るぎのない、ハンの言葉。
 自分はそういう人間じゃない。




(つづく)
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