7.



「決まりましたか」
「はい。お待たせしました」
「……もうこんな時間でしたか。ところで何を?」
「これを」
「そんなものでいいのですか?」
「はい。ご好意に感謝いたします」
「……お聞きしたいことがあったのです。お座りいただけますか。……先に品物を取らせてから聞くというのがね、父にも通じる、わたしのいやらしいところなのですが」
「なんでしょうか」
「…………たいへん美しい男だったと聞いています――クローヴィスは。あなたはお会いになっていますね。どんな人間だったか、思うところを教えてくださいませんか」
「お会いになって、いないのですか」
「一度も。父はわたしがここへ来るのも嫌がりました。明らかに学院に近づけないようにしていました。わたしはいま商売をしていますが、学者になる道もありました。父によって塞がれたようなものです。父は事あるごとにぼくに、『お前は才能がない』と言いました」
「あなたを守ろうとなさったんですよ」
「誰もがそう言います。妹もそう言いますがね。……ぼくはそう考えていないのです。教えてください。クローヴィスはどんな男でしたか?」
「……図版にある通りの方ですよ」
「あれは若い頃でしょう」
「ですが、あまり変わらないのです。……アルススの影響で、永遠に若い風貌のままでした」
「それは気持ち悪くはなかったのですか」
「…………」
「失礼」
「いえ。――アルスス学徒達は、そうは思いませんでした。永遠の若さと強力さに憧れを抱いていました。確かにネコ教授は、正反対の方でした。お年を召しておられて、髭と、眼鏡で」
「太ってもいた」
「最後に一度お会いしたきりですが」
「頑固で偏屈で意地悪でね。――しかも世間を大騒ぎにして、勝手に死んでしまった」
「……それは」
「最悪の事態を避けるため、でしょう? アルススを止めるため、ですね? そうするしかなかったと。
 よく分かってます。たくさんの人がそうしてぼくたち家族を慰めてくれます。父がぼくらを遠ざけたのも、安全を確保するためだったのだと。
 しかし母は――、疑っています。結局父は、自分よりクローヴィスを取ったのではないか。家族より、学問とクローヴィスと心中することを選んだのではないか。――自分たちは、不誠実な夫を持ち、中途半端に巻き込まれたうえ、捨てられたのではないのか。違うと言えますか?」


「ぼくたちは確かにクローヴィスよりも美しくもなく才能もないかもしれません。けれど、ぼくたちににもぼくたちなりの人生があり、誠意や報いや正義が必要なのです。なんでもされていいものではありません。
 勝手にぼくらを放り出して、勝手に死んで。後始末を押し付けて。――ぼくは、父を非難したい。父に文句を言ってやりたい。それをこらえて生きるのは、なかなかしんどいことです。忘れるしかないのでしょうか。ひとつひとつ、遺品を整理しながら、許していくしかないのか。ぼくはあれほど頼んだのに。正気に返ってくれるようにと。家に、戻ってくれるようにと」


「すみません。あなたにはいい迷惑でした。はけ口を求めていて、格好の相手がいれば自分がこうしてしまうのは分かっていたのに。――まあ、遺品と引き換えの苦役だと思って、忘れて下さい」
「――すべては、アルススという神が目覚めたことから始まったことです」
「…………」
「それは私の信奉していた神です。今でも、その信徒です。――それは確かに我が神の引き起こしたことです。記憶に刻みつけて、余すところなく次の世に伝えましょう。必ず。
 お話が聞けてよかったです」


「――わたしも、勇気を出してここへ来て、よかったです」



 一体こちらがどういう状況になっているのか全く分からなかったのだとその男は言った。
 父親の死後、不安定になる母親を支えるのに必死で。世界中を不安に陥れる悪い知らせを聞くたびに新たな罪悪感を負わされ、家族の安全を慮って、人の顔色を窺って過ごしてきた。
 父親の庵を訪れたいと思っても、ンマロの状況も分からない。歓迎されるかどうかもまったく定かではない。
 再生委員会がすぐにイラカを呼び戻して正解だった。その後、ネコ博士の庵は、その遺族によって丸ごと再生委員に移譲された。
 イラカは、先に好意でもらった遺品を手に、東部へ旅立った。
 既に冬で、乗り合いの獣車で進む街道には時折小雪がちらついた。







 彼の姿を見たカエル・ソンターク・ソラはいつもの通り、友に会えて嬉しいような、頻繁に来られることに困惑したような、何かを疑っているような、まとまらぬ表情を浮かべた。
 イラカもなにしろ東部では自分が浮くことを知っているから、今日はフードも取らずにおいた。
 寒い日だったが、外を歩いた。彼女の店の店主は、中で話せばいいのに! としきりに勧めてくれたが、ソラは躊躇った。
 いろいろ面倒があるのだろう。イラカも田舎の出身だから、しきたりは違えこそすれ、その窮屈さは理解できる。
 通りを歩くと人の視線を浴びる。何度かここへ来て、やっと自分も人に覚えてもらえるようになったようだ。
 がっちりとした田舎の人間は、年に一度や二度しか会わない外人のことは気にかけず覚えようとしない。四度、五度でようやく意識に留めてもらえるものだ。
 他愛のない話から始める。
 ソラは心なしかいつもより警戒気味だ。
 ――女性はこういうものだろう。奪ってほしい、奪ってほしいと好奇心丸出しの女性もいるけれど、それは学院とか、血族から隔離され、同じ年齢の人間が大勢集まっているような特殊な場所においてだけで、家族が身近にいる伝統的な場所ではみな、自分が容易に盗まれないように身を固くしている。
 それはまるで体の中に生まれながら宝石を抱えているかのよう。
 簡単にそれを取られたら、家族は彼女を非難する。
 迂闊であると言って。
 イラカもそれは分かっていた。イラカにも実家に妹がいる。そして、一家に唯一の男として、妹にも賢くあってほしいと願っているから。
 誰かと結婚するならそれを乗り越えなければならない。分かっている。イラカは彼女を手に入れるなら彼女の警戒を解かねばならなかった。
 イラカはネコの息子の話を始めた。当然、ソラは自分のことを忘れて目を見開いて聞いた。彼らには極めて濃い経験の共有があった。そこへ立ち戻れば、友情は幾度でもゆるぎなく結ばれた。
 イラカは懐から小さな袋を取り出した。彼女に与える。
 フード付きの長いコートを着たソラはなんだか少女みたいに見えた。化粧っけはなく、しかも自分の顔が他人にどんなふうに映えるか、気にすることのない人間だ。袋からころりと掌の上にまろび出た指輪を見て、鬼のような形相になる。
 イラカは笑った。それが彼女の最大級の感動の表情だと知っていたから。
 自分を見上げる彼女の眼は光っていた。幾度もこの目と対峙した。
 イラカは今日もまた、かつての濃密な空間に彼女を引きもどすことに成功したのだ。もちろん同時に、自分も引きずり込まれているのだが。
「もらっていいの?」
「そのためにもらって来たんだよ。だってホラ、俺はもう、持ってるし。あんたのお師匠さんが、放ってくれた」
 そう言って、右手を見せびらかす。
 あの日、最後の最後にネコが放ってくれたクローヴィスの形見の指輪が、小指に備わっている。それもまた、ネコの造作だ。
「……どうもありがとう。わざわざ」
「いいえ。これでおそろいだねえ」
 ソラはまた少し困った顔をする。荒れ気味の唇から、吐く息が白い。
「あのさ……」
「ん?」
「この後も、来るつもり? 冬は、天気が荒れるよ。東部は。手紙でもいいんじゃない」
 手紙ではだめだ。
 手紙では足りない。
 過去を思い出しこうやって今を共有するには。
「ちょっと迷惑? こうやたらと来られちゃ」
 ソラはすぐに首を振る。
「そうじゃないよ。でもイラカだって忙しいでしょう。忙しいのに、わざわざ」
 こうやって、自分の広げる世界の中でうろたえる彼女を見るのは、楽しい。女扱いされて、それを認めたくなくて居心地悪そうな彼女を見るのは楽しい。口づけでもしてやろうかなと思う。
 でも自分は長く滞在できない。長く術にかけられない。だから、確実にやらなければならない。自分が帰った後で悶々と彼女が思い悩むようなことを、しては逆効果だ。
 ここはあの天国のような学院ではないのだから。
「来たいから来てるんだよ。――そうだな。もっと冬になったら外もつらいだろうから、お家にお邪魔出来たりしたらすごく嬉しいけど。ご両親に挨拶できる?」
「……親に挨拶したいの?」
「うん」
 ソラは思考を整理するかのように目を閉じた。
「イラカがどう考えているか分からないけど、東部でそれをやったら、うちの親は完全に期待するよ。――東部じゃ、男女の友情って、ないから。――うん。ないから」
「俺はそれでいいんだけどね」
「…………」
 さすがに沈黙が流れた。
 ソラのこのしかめ面の示すものはなんだろう。
 読み取れるのは、たじろぎ、困惑。ついに聞いてしまったという、ある種の「しまった」感。
 女性はこういうものだろうか。
 誰かに愛されると思ったら命も取られるように凍り付く。針で釣られる魚のような、猟師の矢に気付いた獣のような、運命にぶち当たった時の、生物的なおののき。
 男にはない、この「獲物」感。
「――イラカ」
 じっと見入っていると、ソラが苦しげに、唇を開いた。
「わたしはさ、そういう人間じゃないと思う」
「そういう人間?」
 言った時、視界にちらっと白いものがかすめた。雪だ。
「……なんと言ったらいいか分からないけど。……家庭に向いた人間じゃないと思う」
 何故かその言葉を聞いた時に、脳裏にハン・リ・ルクスの横顔が浮かんだ。
 あの一見すべてを受け入れるようでいて、ほとんどを跳ね返している頑固な男――もちろん、いい奴だが。
 彼女は彼と同調するのかな? それは意外な伏兵だ。距離が近いだけに。
「俺はぜんぜんそうは思わないけどね。――だって想像できるもん。俺とあんたで、一緒に暮らすの。絶対うまく行くよ。学院でも、なんか楽しかったでしょ? 最初はまあ険悪だったけど、結局ソラは、俺を変えてくれたもんね」
「…………」
「俺はそれが忘れられないんだよ。あんたに感謝してるし、評価してるんだよ。ソラ、よかったらまた一緒にやろうよ」
 しばらくソラはじっとこちらを見ていたが、やがて、目を横に反らした。でもそれは心が動いたからだと分かった。気のせいか、横を向いた頬に血の気も見える。
 それくらいはしていいだろうと思って、右手の甲を、その頬にちょっとだけ当てた。
「困らせる気はないんだ。考えておいてよ。俺は単純にあんたを、買ってるんだよ」
 すぐに手を下ろしてにっこり笑う。
 今日は奥に踏み込めた。その手ごたえがあった。
「じゃあね。また遊びに来るよ」
「――」
「次は、おうちに入れてくれる?」
 ソラは困ったように眉根を寄せ、逃げるように言った。
「考えとく」
「うん、そうして。じゃーねー」
 小雪の舞う広場で手を振って別れる。厚い雲が立ち込めて辺りは薄暗かった。まばらな人の間を少し行って、それから恒例に従って足を止め、振り向いてもう一度手を振る。
 ソラは困ったもんだと首を傾げながら、恥ずかしげに手を挙げて応えてくれた。
 よし、大丈夫だ。
 イラカは確かめて歩き出す。
 ソラみたいな教育された人間には、強引なやり方では効果がない。何をやっても後から理論武装をして、必ず復讐されるに決まっている。無駄を嫌う人間で、一般的に女の子が好きだと言われている甘いお菓子だの高級な衣類だの長いおもてなしだのも意味がない。
 何を喜ぶかは人によって違うのだ。
 ソラはイラカの提案には戸惑ってもやり方を嫌ってはいない。それが大事なのだ。彼女をまるごと手に入れるためには。



 さて、次はいつ頃来るのがいいかな。
 思いながら町の門を越してすぐ。乗合用の車の駅の手前でイラカは拉致された。そして町内に戻って人気のない路地を通り、別の家へと連れて行かれた。





「久しぶりじゃん、フルカちゃん」
 外に出るなり、体をぶつけるようにして腕を組んできた地味な上着の少女。
 頭にはフードを被いていて顔が見えなかったが、背丈となじみの香水でイラカは誰だか分かった。
 あるいは向こうはそのつもりで以前の香水を振っていたのかもしれない。そういう点で異常に知恵の回る、極めて世知長けた娘だ。
「手紙ありがと。返事も無事着いたみたいね? で。ここはどこ?」
 大きくも小さくも、派手でも地味でもない、むしろ個性に欠けた住居の玄関口で上着の雪を払い落とす相手に、イラカは尋ねる。
 ようやくフードがのぞかれて下からコマイ・ソンターク・フルカが現れた。
 相変わらず手入れのよく行き届いたかわいい娘だ。
「あなたはあたしに感謝すべきよ。おばあさまは、あなたの存在自体知らずに終わってもおかしくなかったんだからね」
「なんのこと」
「上着を寄越しなさい」
 これまた慣れたやり方で背後に回り、上着を脱がせてくれる。リリザとも違うし、ましてソラとも違うだろう手つきだ――。
「できるだけ不意打ちで連れてくるようにと言われたの。素のあなたが見たいのでしょう。見せていらっしゃい。がんばるのよ」
 一方的に言うだけ言うと、彼女は行くべき方向を指し示すかのように、とん、と肩を後ろから押した。
 それでそちらを見ると、居間らしき場所から暖気と明かりが音もなく漏れている。
 ――どうやら、その先に誰かが、いるらしい。
 説明が足りない。が。
「……」
 ここのところのイラカは、状況に流されることにも慣れていた。特に最近は、無条件で何かを受け入れざるを得ないことが多い。唾しか飛んでこないと分かっている敵の陣中に入らなければならないことも、幾度もあった。
 そんな局面も、すべてなんとか収拾してここまで切り抜けてきた。
 ましてここは平和な場所だ。フルカが自分に悪いことをするとも思えない。
 イラカは、平常心を保ったまま、ゆっくりと、歩み出した。
 戸口に立って覗いてみると、随所に明かりが灯してある。中はやはり地味で、清潔だが無駄なものが何もなかった。敷物などの最低限の装飾品があるにはあるが、基本的に機能重視であり、自分を甘やかすことを知らない人の住まいらしかった。
 どこかソラに通じるものもある。
 あるいは東部はみんなこうなのだろうか。


「よくいらっしゃったわね」
 雪のちらつく窓を見ていると、左から声がかかった。振り向くと縦長の部屋の一番奥に、椅子机があって、そのまた一番奥の席に老いた女性が座っている。
 年寄りのいわゆる『むさい』ところのまるでない、頭のしっかりしていそうな、油断ならぬ目つきの、怖そうな媼だ。
「寒かったでしょう。こちらで温かいお茶を一服なさい」
 ――けれど感情が出ぬよう、調練された口調。商売人だ。そしてこの家の主であるのは間違いない。
 このあたりで断片ばかりだった情報が結びつき、形を成してイラカにも分かってきた。
 これは、ソラの――
 おばあちゃんだ。



 一気にイラカの身体に熱が流れて動きがなめらかになった。そもそも彼は女家族ばかりなので女性に気後れがない。いつでものびのびと愛想よく振る舞うことが出来た。そして大抵の女性は、おどおどした男が嫌いだ。
「お招きいただいてありがとうございます。イル・カフカス・イラカと申します」
 きっちりとまとめた金髪の頭を下げて挨拶する。
「旅装で恥ずかしい限りです。手土産もなしに」
 ソラの祖母は、短い手を伸ばしてお茶の入った椀を前に出しながら言った。
「急に呼んだのだから、お土産がないのは当然です。いいから、お座りなさい。ずいぶん口が達者なようね」
「ありがとうございます」
 後ろで、扉が閉まる音がした。ちらりと見るが、フルカは室内にいない。完全に二人で話すことになるようだ。
「もう暮れです。時間を無駄にしてもしょうがありませんから申しますが、あたしはソラの祖母です」
 やはり。
「フルカから、孫のソラと結婚したがっている殿方がいると聞いたからあなたを呼んだのです。あなたを品定めするためです。あたしの言ったことに間違いはありませんか?」
 『品定め』の語に思わずにっこりしてしまったイラカだが、そう問われて笑みが残る顔のまま頷いた。
「はい。お孫さんと結婚したいと思っています」
「そう。また、なぜ?」
 祖母は怯みもしないでまた尋ねる。
「あの子は容姿は十人並みだし、女の子らしさの足りない、それでいてやたら理屈の好きな、扱いにくい頑固者ですよ。あたしが言うのもなんですけれど」
 イラカは明るい笑いで応えた。この老婆はずけずけとした人物評をする田舎町の実力者なのだな、と分かりながら。
 ――多分、ソラについて実権を持っているのはこの人なのだ。両親ではなく。
 この様子では、つまらないご機嫌取りなど通用しないだろう。そういう点も、ソラに似ている。
「あなたとは郷も違うし、そうなると家柄の釣り合いも分かりにくい。ご家族のお考えもあるでしょう。けっして格好な相手ではないでしょうに、何を好きこのんであの子を欲しいと思うのですか」
「――確かに、場所によって考え方の違いはあるでしょう。ただ、僕は一家の主ですので、基本的に誰を選ぶも自分の自由です。文句を言うものはありません」
 祖母の眉根が寄せられ、興味深げにイラカを見る。
「もう家を継いでいらっしゃるの?」
「南部では珍しいことではありません。全体に東部ほど長命でないことも一因ですが、僕の場合、特に父が早くに命を落としましたので。ただ、家の規模はそうですね、うまく伝わらないかもしれません。ゴフスが十二頭ほどおります」
「ゴフスとは何?」
「あちらの家畜です。これもみな、ゴフスの毛から糸をなして編み上げたものです」
 と、民族柄の上着を示す。
「……そう。十二頭。それはどれくらいの規模ですか?」
「普通か、やや少ない程度です」
 イラカは素直に認めた。
「それでも母と妹ばかりでよくやっていると思いますが。これ以上は家族を拡大しないと難しいでしょう」
「……そう。それで、ソラを南部に連れて行って働かせるつもりですか」
「――あ。いいえ。それは、そのつもりはありません。無論、彼女がそう望めば別ですが。
 家族を拡げるというのは、妹によい男性を探すということです。僕も当分は中央にいますので。――ソラには傍にいて、僕を支えてほしいのです。賢くて、忍耐強く、とてもよく働くお孫さんだと思います。そう思われませんか?」
「……」
 祖母は否定することなく間を置いた。
 その間に、イラカはお茶を一口、静かに含んだ。
「さっきからあなたは、ソラのことをさもよく知っているようにお話になるわね。一体なぜ? どうしてそんなに孫を知るようになったのですか?」
「それは話せば長いことなんですが」
 俯いて笑ったその一瞬、イラカの頬に赤みが差した。
「僕からちょっかいをかけたのです。学院で。僕は身の程知らずで思い上がった学生でした。大人しくて地味な彼女に何故か苛々させられて、いいがかりをつけて喧嘩を吹っ掛けたのです。彼女は受けて立ちました。大喧嘩になりました。学校中を巻き込んで。
 でもそれで、僕は彼女の強さを知ったんです」
「まあ、じゃあ……!」
 祖母は驚いたように眉根を寄せた。
「あの子が喧嘩をした男の子というのは、あなたのことですか?!」
「僕です」
「喧嘩というのは、本当だったの?」
「ええ。実際にやりました。ほぼ、殴り合いを」
「……まあ、なんて。呆れたこと……!」
 祖母は言った。本当に呆れて、未だに信じられない様子だ。
「そういう話は聞いていましたけどね、悪い噂を立てられたんだと思っていましたよ。だから孫には、そういう噂を立てられるような立場になること自体が失態だと手紙に書いて送りましたけどね。まさか女の子が男の子と喧嘩なんて、するはずがないじゃありませんか!」
「普通はそうですね」
「――あなたも、あんまりですね。大きな図体をして女の子をいじめるなんて。男らしくない」
「はい。そうでした。ソラに見事に一発食らいまして、目が覚めました」
「……そ、それで……」
 祖母は指でこめかみを押さえながら、自分を立て直すように言った。
「あなたはそんなむちゃくちゃで乱暴な女を、嫁に欲しいと思っているのですか?」
「より正確に言うなら、同志に欲しいのです」



 沈黙があった。
 祖母は、そんな言葉は聞いたことがない、という表情だった。
「『同志』とは、何です?」
 わたしはそんな言葉は聞いたことがない。
「僕はソラを、自分より賢い人だと思っています。自分より高潔だし、自分より有能だと思っています。自分は愚かで、足りないところがたくさんある人間ですから、そういう人の助けが必要なんです。実際に、何度助けられたか分からないくらいです。僕はソラを尊敬しています。共に戦う仲間だと思っているのです」




 長い沈黙があって、壁の傍にある暖炉の中で木が鳴るのが聞こえたくらいだった。
 祖母が言った。
「おかしなことを言う人ですね」
「ソラは、人に頼りにされる人です。僕と喧嘩した時も、彼女の味方になると決めた教師と学生が大勢彼女の周りに集まりました。自然に集まったんです。それは彼女の資質です。彼女が若くて美人だったからじゃなく、ずるくなくて、真剣でまっすぐだったからです。
 彼女は自分では気づいていないかもしれないけれど、多くの人を助け、大きな問題を解決できる勇気と忍耐強さの持ち主です。女の資質はなにも美しくて子供をたくさん産むことばかりじゃない。僕は彼女の才能を評価し愛しています。彼女を大切にします。素晴らしい女性です。僕は彼女の素晴らしさに関わっていたいし、世界で一番それを分かっていて、応援し共闘する者でありたいと思っているんです」



「僕はよその土地の者ですから、東部に家を持っていたり、おうちの名誉になるような評判を持っていたりしません。ただこうしてソラを褒めることしかできないのが申し訳ないです。
 僕は彼女を評価しています。彼女の可能性を信じています。僕には彼女の力が必要です。だから彼女を、生涯の連れにしたいのです。もちろん、ソラが、応じてくれたらですが――。
 この気持ちがお分かりいただけたら、とても嬉しいです」





 どれくらい、沈黙が続いたのか。
 イラカにも祖母にも分からなくなった頃、祖母は魂が抜けたような声でそう。と。よく分かったと言い、いきなり呼び出して申し訳なかった。乗合がなくなる前におかえりなさいと言った。
 それでイラカは立ち上がって一礼し、部屋を出た。
 フルカが迎えたが、馬鹿ではないからどうだったかとは聞かなかった。上着を着せ、ただ背中を叩いて送り出してくれた。
 歩くイラカの肩に、灰色の空から真っ白い雪が散っては消えた。





(つづく)
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