8.


 年の暮れの押し迫った最後の十曜日。
 朝早くに、ソラは祖母の家を訪ねるために自宅を出た。
 冷え切った世界に出て初めて、昨夜人知れずわずかに降雪したことが分かった。木々や、路傍や、家の屋根にうっすらと雪が積もっている。
 人気はまだほとんどない。すでにいくつかの轍の後の残る道を歩いて、祖母の家へ向かった。
 仕事を終えて帰ってきた昨日、急にこうやって朝から祖母を訪ねるように両親に言われた。
 用件は知らされておらず、土産物もなしに手ぶらだった。
 太陽は上り切っていたが、空は雲が多く、そのうちまた降りだしそうな冬らしい天気だった。
 祖母の家に着くと、いつもの通りに玄関の鍵は開いていた。この習慣は中央がえりのソラをひやりとさせるが、祖母は朝、起きると同時に真っ先に家の鍵を開けてしまうのだ。
 無論、鍵をかけるように説得する筋合いではないのだが、ソラはいつも、この点に祖母と自分の生きる時代の隔たりを感じてしまう。
 確かに、この田舎町ハライで、まさかよりにもよって祖母の家に泥棒に入るような愚か者はないだろうと思うのだが。
 とはいえソラも慣れたもので、奥へ届くように挨拶をしながら、廊下を進んで居間へ顔を出した。祖母はまだ立って用事をしていた。
「ああ、来たのね。おはよう。先に一つ頼まれて頂戴。そこにある手紙をね、小間物屋に出しておいてくれないかしら」
「あ、はい。じゃあちょっと行って参ります」
 外套をそのまま、手紙を持って再び玄関を出る。
 ソラは慎みから宛名は見なかった。もし見ていたら、そこに馴染み深い名前を見て、えっと思ったに違いなかったのだが。
 郵便の受付口になっている小間物屋のおかみさんに手紙を預けて戻ると、祖母はもうすっかりいつもの様式美のなかに腰を下ろしていた。
 温かくておいしそうなお茶が湯気を立てている。
「ありがとう。お座りなさい」
「はい」
 上着を脱いで、壁に掛けると、卓に着いた。
「朝早くに、ご苦労でしたね。今日は仕事はないのでしょう?」
「ええ。もう年内は終了です。お店は明日までやるようですけど」
「今日はね、あなたには聞きたくない話をするのに呼びました」
 世間話を続けないで、祖母はすっと踏み込んできた。
 彼女はまったく平静で、ソラも別に脅されもしないから動揺もできない。ただ、体の中で鈴のように言葉が、ああ、来たな、と鳴った。
「…………」
「先に言っておきますけどね」
 指輪のはまった手を顎に当てて祖母は言う。
「結婚をしないというようなわがままは許しませんよ」
 一秒後に、ソラは目を上げて、祖母を見た。祖母は平然としていた。料理をする女が微笑んでなどいないのと同じように。



「結婚をしないというようなわがままは許しません。男も女も、この世に生まれたならば家と親を大事にしなくてはいけません。ご先祖様が受け継いできた血と、財産と、土地を、豊かに増やしていくことに協力しなくてはいけません。
 最近はどうもこういうね、当たり前のことを分かっていない不心得な若い人が多いようだけれど、これは当たり前のことなんですよ。
 まして、自分は親に受けられる限りの恩恵を要求するくせに、親には何も返さないで平気な顔をしている人の神経があたしには分かりません。
 誰がなんと言おうと、親の恩に報いる第一の道は、よい血筋の相手と結婚して一族に丈夫で有望な跡取りを作ることです。それから受け継がれてきた家財を守り、可能であれば、それを大きくすることです。
 二親を持って生まれた全員は、子孫繁栄の使命を持っているんです。これをわきまえない者はお話にならない愚か者で、まともな人間とはみなされません。だから男も女も、結婚しなければ一人前とは言われないし、大事な役目も任されない。これは理の当然でしょう。
 あたしは、一族にそんな簡単な道理もわきまえない愚か者がいるとは思いたくありませんね」
「……あの、でも……」
 ただの愚か者でも、こんなはっきりした予感があるものだろうか。
 ――うまく行くはずがないという。
 だって。こんなにも、気分が沈み込んでいくのに。
「『向いていない』、ですか? あなたお得意の?」
「は――」
 はいと言いかけた瞬間、祖母の掌が机を激しく叩いた。
 ソラの身体がびくっと跳ねる。
「――努力するんですよ。あたしはしましたよ。あたしは子供も四人産んだし、財産も増やしました。努力しなかったはずがないでしょう。ところがあなたは、そうやって苦労している母親たちを見てにやにや笑っているんでしょう。ろくでなしですよ。――こんなことを言わなければならないなんて、情けない」
 頭が痺れるような感じがして、汗が流れた。
 無学な東部の女たちを、馬鹿にしなかったと言えるか。一度もしなかったと言えるだろうか。
「あなたは自分の学費がいくらかかったか分かっているんですか」
 祖母は俯く彼女の頭の斜め上から言った。
「それを出したのが誰だか分かっているんですか。――あたしですよ。知らなかった? でも考えたら分かるでしょう。役人の給与じゃそんな支出は難しいのだから。あたしが、いえ、一族があなたに学問をさせてやったんですよ。そうしたらあなたは、一族に借りがあるのではないのですか。お返しをしなくちゃいけないんじゃないですか?
 それが、『向いていない』ですって? 馬鹿にしているんですか。学問をしてね、そんな甘えた減らず口ばかり覚えるのなら、そりゃあそんなことはさせないで十四五で結婚させたほうがいいに決まっていますよ!
 あたしに一族を滅ぼさせるつもりなんですか。このあたしに、孫娘の教育に失敗した馬鹿女の汚名を着せるつもりなんですか! あなたはそんな親不孝の、恩知らずな人間なのですか? 親のために、なんの努力もしないつもりなの? それが賢い人間の振る舞いですか!?」
 祖母は急に声を和らげて言った。
「――あなたはあたしが嫌いですか?」
「…………」
 ソラは、再び祖母の顔を見たけれど、ずっと見ていたけれど、答えられなかった。
 頭が混乱していて、本当に言葉が出なかった。
 誰にも指摘されることなく、甘く放置されていた身中の罪悪感や、優越感を、大声で暴き出されて、いきなり着物を剥がれた人のように、巣を襲われた鳥のように、動転していた。
 まだ、朝で一日の始まりなのに。外は、平和だったのに。誰もが当たり前の日常を営んでいるだろうに――。
 はっきりしていることは一つある。祖母は初めからそのつもりで自分を呼んだのだということ。そして、自分は昆虫の巣にかかる獲物のように、油断しきって踏み込んでしまったのだということだ。
 祖母の家のドアはいつでも開いている。
 一転した彼女の優しい声は続いた。
「あたしはあなたが嫌いじゃないですよ。だから、あなたに後を継いでもらいたいと思っています。分かるかしらね。この家の、この居間の、この椅子に、いつでも座っているような人間にね。――もし、万が一、自力で、そうなれるというのなら、結婚と同じだけかそれ以上の福徳を一族にもたらせるというのなら、その時は、結婚などしなくてよいということになるわね。理屈を言えば。
 でもどう? あなたは、それが出来る?」
「――……」
「結婚なしに、家の格を上げられる? 子孫を持ち、一族の数を増やせる? 家が持てる? 親戚とうまくやれる? あなたの子孫がまた同じように繁栄して行ける? いいえ、それ以前に、食べていけるのかしら?
あたしでさえ、まともな商売は、結婚してからですよ」
 それが何故なのか、ソラはもう知っている。女には営業権がないからだ。
 祖母の商売も、亡き祖父の営業権を使ってなされたものだ。商売をする権利は、男性か未亡人にしか認められない。だから、女が商売が出来るのは、結婚した時だけなのである。
 ではフルカは? ――フルカは、夫でも父でもない人間の営業権を借りるのだ。タダで? はっきり聞いてはいない。だが、タダでは、ないだろう。
 ソラに同じ真似ができるだろうか。或いは、一族の協力なしに、単独でその代償となるくらいの金を用意することなどできるだろうか。
 第一、彼女にそこまでして売りたいものがあるだろうか。商売が、好きだろうか。小売店の店員でたくさんな程度だ。そんな気概で犠牲が払えるわけがない、商売をしてもうまく行くわけがない。フルカとは、気合が天と地ほども違う――。
 ソラには今、それを守れば無敵になれる、というようなよすがが何もなかった。記憶の波間で誰かが笑う。
『お前も学問に期待をしたな。』
 学問が有効なのは、土地を離れた時だけだ。囲われた海上の城でだけ、それは機能し別世界を広げる。孤立した人間達の不思議な社会を。
 だがその別世界をソラ達は破壊してしまったのだ。もうそこに戻る望みはない。学問に対する信頼もない。
「ソラ、こども時代はもう終わりにしなさい」
 祖母が言った時、ソラの背筋をぞおっと何かが走り抜けた。
「悪いことを言わないから、あたしの勧めに従いなさい。そうすれば、あなたのお父さんも、お母さんも、あたしも、親戚一同もみんな安心なのだから。人は、恩返しをしないといけないものではないかしら?」



 確かに、そうだった。
 ソラは、初めてありがたいと思ったのだ。事故の後、迎えてくれた両親に。安全に残っていてくれた東部に。伝統を守り、アルススなどに微塵も心を動かされなかった東部に。
 その伝統の固さに問題性も感じながら、この二年弱、これほど安定した生活を営んでこられたのはこの故郷の共同体のおかげであり、そして家族のおかげだ。
 子供時代に抱いた、学問へのあこがれは、将来の夢は、消えてなくなった。
 なのにそれに固執して問題が解決するだろうか。生き方を、改めるべき頃合いなのではないだろうか。
 あの大きな挫折はソラに、自信喪失をもたらしていた。自分の感覚を信じてあてにすることはできなくなった。
 自分が分からなくなった人生の行き方を、祖母は、ちゃんと知っているのかもしれない。
 そう。ソラはいつか、まじない師に夢中になっている同僚らを笑ったけれど、その実自分も同じところにいるのである。幸福、あるいは少なくとも安定を得ようとするとき、自分では判断できず、誰かの指導に頼らねばならない東部の女に、なっていたのである。
「――分かったわね。ソラ?」



 祖母が言う。
 ソラは、思った。もうだめだと。
 祖母はそれが不可避の選択だと言う。だったら、従うしか。――ないのかもしれない。
 いずれにせよ、むげにできないことではないか。こんなにも自分に期待をかけてくれている。
 初めから逃げきれなかったのかもしれない。たとえ学問を続けていても、どこかで結婚はせざるをえなかったかもしれない。
 何故なら世界はそれを前提に作られすぎている。
 その時、脳裏にイラカの面影がよぎった。
 不思議なことに、それはこれまで彼女の心理を圧迫したのに、今は一瞬の逃げ場を作った。
 そうだ。彼がいた。
 言うのを忘れていた。
「――あの、おばあさま。実は……」
 まるで聞かずに祖母は言った。
「あなたは町長さんの息子のゾンネンさんと結婚するのよ」



「え?」
 言ってからも言うまでも、かなり長い間があったように思われた。
「よいお話でしょう。だってあなたはゾンネンさんとはずっと一緒だったものね。学校で。知った人の方があなたも安心ではないかしら?」
「……え? でも、え?」
 ソラは様々な意味で混乱して目を回す。
「――ゾンネンはもう別の町のおうちと縁談がまとまったんじゃ?」
 すると祖母は眉根を寄せて「まあ?」と言った。
「あたしは知りませんよ。そんなお話は。誰がそんなことを言ったの?」
「……誰……」
「色んな、無責任な噂が流れるものよ。そりゃあ彼は、町長の息子さんですからね。
 よくお聞きなさい、ソラ。ゾンネンさんはそのうち、必ずお父様の後を継いで町長になります。そうしたら、あなたは町長夫人。そしてあなた達が子をなせば、今後はハライを、カエル・ソンターク家の血が動かしていくことになるんですよ。
 これはとても大きなことです。町の次は地域なのですからね。この年でこんな縁談を受けられるなんて、あなたは本当に幸せものよ。盛大な式になるでしょう。あたし達も、鼻が高いですよ」
「――おばあさま! 待ってください!」
 話がどんどん先に進んでいくのでソラは彼女を引き留めた。
 まだ、諾とは一言も言っていない。
「あら、どうしたの?」
「ゾンネンは――あたしは、ゾンネンを知ってます。どんな人か。……あの人は、わがままで、気難しくて、人を見下している人です。もちろん、わたしのことも。それに……。なんと言ったらいいか……、人と馴染まない人で、それは、孤高を装っているけれど、本当は……」
「知っていますよ」
 椅子に座る祖母は、まるで天気の話でもするように簡単に認めた。
「ゾンネンさんという人は、わがままで、高慢ちきで、自分の出自を鼻にかけていて、女を馬鹿にしていて、その実、本当に強い者には弱い、裏表のある、そしてそれが人にばれていないと思っている浅はかな人ですよ」
 祖母の人物評はソラの図星を当てたばかりか、突き抜けた。
 あまりに赤裸々な命中に、かえってソラは、口ごもる。
「そ、それなら、なんで――」
「ソラ。男というのは、みんなそうですよ」



「あたしはそれ以外の男は見たことがありません。だからあたしは、それ以外に男がいるとは信じません。『いたらいいわね』と、それくらいは、思うけれどね。
 東部はね、ソラ。そういった愚かで高慢な男達の支配と、それに従うことを教えられてなんとなく従っている女達と、従わない女達で、できています。だからどの男を選んでも一緒です。財産とおうちの格と将来性だけが、大事なんです。ゾンネンさんは町長の息子なんですから、この町ではそれ以上のものはないということになります」
 ソラはもう言葉もなかった。
 やはり彼女は、小娘だったのだ。祖母の、このなんの幻想もない一刀両断を前に、驚いてしまった。
 常々フルカが口にしている処世訓を、何十年も現実で煮詰めるとこんな切れ味が出来するのかもしれない。
「ああそうだ。そう言えば、もう一人候補があったわね。候補と言うか」
 ふっと祖母は馬鹿にでもするように鼻から息を吐いた。
「フルカがね、どうしてもある男に会えというから、一度会ってみましたよ。あなたと結婚したいと言っていた。外つ国の方だったけれど」
 ソラは頭がちかっとした。
「――イラカ?」
「ああ。そんな、名前だったかしらね。いかにも外の人という感じで、驚いたわね。青い目に金髪で、赤い入れ墨で」
「イ、イラカとお会いになったんですか?!」
「ええ。ここでね。ちょうどあなたの席に座ってもらって話しましたよ」
 言われてソラは頭が爆発しそうなくらい顔が熱くなった。
 多分、フルカが気をきかせて手配したのだろうが。――何も、聞いていない!
「学校時代の友達だそうね?」
「は、はい……」
「フルカがずいぶん彼を高く買っていて、ひどく推すのよ。それでお話しさせて頂いたけれど」
 ソラはその時、全てを見ていた。これまでとぼけたような素面で話し続けていた祖母の、皺に彩られた顔の奥の方から、突如暗い靄が湧き上って表情を変え、目の色を変え、そして声までも低く変えたのを。
 祖母は、まるで男のような声で唸るように言ったのである。
「あれはにせ物です。あんなのはゾンネンより、もっと駄目よ!」



「…………」
「今後は、フルカともおつきあいしないようにしなさい。あなたに何の利益もないわ」
「おばあさま……。イラカは……」
 ソラには友情があった。
 それは別に今回のことがあろうがなかろうが、不動の感情だった。
 イラカが「にせ物」であって、男としてゾンネンより劣るなどと、面と向かって言われて黙っていられるほど縁が薄くなかった。
 ソラはこれまでで一番、正気に戻った。祖母の話術に押されて慌てるままだったが、別の闘志によってこればかりは反駁する気になった。
「イラカは悪い人間じゃありません」
「おや、あなたも騙されているの? ――そうね、悪い人間ではないかもしれない。でもね、悪くない人間はしばしば、自分が言っていることのでたらめさに気づいていないことがあるんですよ。そうして甘い言葉で他人を引き込み、その人間を滅ぼしてしまってそれでいてかけらも『悪気がない』って言うんです。嘘でしょう。あたしはそれは、とぼけているだけだと思いますよ」
「い、イラカは、一体なんと言ったんですか」
「あなたを嫁に欲しいと言いましたよ。自分は足りない人間だから、自分より賢いあなたに助けてほしいのだそうです。あなたを女としてではなく、人間として評価しているのだそうです。あなたの一番の、理解者でありたいのだそうです――大ぼら吹き!!」
 今一度、祖母は、机を叩いた。
 一度目よりも迫力があった。
 飛び上がるソラに祖母は言う――。
「大嘘ですよ! 自分が大嘘を言っている自覚がないかもしれませんけどね、だったら詐欺を働いても無罪ですか? 冗談じゃあありませんよ。
 もし、そんな言葉を信じて、この町を出てごらんなさい。あなたは、ひどい目に遭いますよ! 親類も地縁もない、助けの呼べない場所で孤立して、あなたの幸福と未来を搾取され、不幸に突き落とされてしかもそれが『真実の愛』だの『麗しい犠牲』だのと言い含められるんです。あの男は、あなたの才能を搾取しようとしているんです! ただで自分のために働かせるつもりなのですよ!! それなら、あなたの才能のことなど気にもかけていないゾンネンのほうがまだましです。
 あんな詐欺師に引っ掛かったら身を滅ぼします。フルカも、なんて見る目のない。ちょっとは見所のある女の子だと思ったけれど、まったく見掛け倒しでしたよ!
 いいわね、ソラ。二度とあの男には会ってはいけません! あたしは、あの男との結婚だけは決して許しませんよ!」



 一度は、戻りそうになった正気が、再び、驚きに麻痺して呆然としていた。
 祖母の言うことは、とんだいいがかりであるように思えた。
 だが、畳みかけられる言葉の奥に潜む怒りは本物であり、真摯さすら、窺えるのだった。
 祖母は本気で信じていた。イラカが、孫娘ソラを滅ぼす男だと。
 真正面からではなく、呆然の中で、そして、ソラもそれが、何か分からないでもない気がするのだ。



「それでも、この世に、ああいう男にころりと騙されてしまう女がいることは分かっています。もしあなたもそうだと言うなら、あなたはこの町を出て二度と戻って来てはいけません。もしそれくらいの覚悟があるなら、あの男に望みを託してみたらいいでしょう。そんなに、あの男のことが好きであるならね」



 ――好き。
 イラカを?
 全てをなげうって結婚するほど?
 ソラは幾度か、意識に腕を伸ばしてさらってみた。
 けれど、そこにはどうしても自分の感情はなかった。
 イラカが自分を嫁に欲しがっている。
 イラカが自分を気に入っている。
 イラカが
 しかし、自分は?
 自分はそこで客体になっているばかりだ。



 それでは飛び出せなかった。飛び出すという語は、自動詞だからだ。
 ソラは不思議な感情に引き裂かれていた。
 ないものをあるとは言えないと思うと同時に、この件に、主体としてそこにいられない自分に、罪悪感を抱いたのだ。
 この罪悪感は決定的だった。
 祖母の言ったことが正しかろうが正しくなかろうが、どのみち、彼の感情に見合うほどの感情を自分が持っていないことを、ソラは認めざるを得なくなった。
 彼と共に行くことは、出来るか?
 出来ない。
 何故なら、彼に対する感情の中に、男女の愛は、ないからだ。



「あなたはそんなに馬鹿じゃないと分かっていましたよ」
 気が付けば、横に祖母が来ていて腕を伸ばして抱きしめられた。
 祖母のそんな振る舞いは、小さな子供の頃を含めて、記憶にない。白粉のにおいがした。
「もう、町長には許諾の返事を伝えてあります。今日から嫁入りまでこの家で花嫁修業をしますから、今からすぐに家に帰って荷物を持って来なさい。午後には仕立て職人が来ます。あなたの衣装を作るのに尺を取りますからね」
 祖母はすっかり冷えた茶器を手にもって、台所に立つ。
 ソラは戻ってきた祖母に言った。
「――イラカには、どういうふうに伝わることになるんですか」
「……」
「友達ですから。気まずくなると、嫌なんです」
「フルカから伝わるでしょうよ。さっき出してもらった手紙に詳しく書いておきましたからね」
 迂闊なソラは、あ。と思う。
 あれがそうだったのか……。
 あの時にはもう、すべては決まっていたということだ。
「おばあさま、もう一つ教えてください」
「なんです?」
「ほかに縁談はないんですか?」
「ありませんね」
 水滴のついた茶碗を布を敷いた盆の上に乗せながら祖母は言う。
「多分、あなたの高い学歴のせいでしょう」
 ソラは、……そう。と思った。
 祖母の言葉が真実を語っていないと思ったが、多分原因は自分の性格とか外見のせいだろうと思った。
 『辛い水』が自分の人生に影響しているとは気づかなかった。
 祖母は少し濡れた手を打ち鳴らした。
「さあ、一つ大きなことが決まったのよ! 覚悟を決めて取り組むのがよいわ。これからあたしが知っていることを全部あなたに教えてあげます。家に帰って荷物を取ってきなさい。あなたのお父さんお母さんには先に知らせてありますから、もう用意は出来ているはずです」
「……はい」
「元気を出しなさい! 結婚が決まった娘は嬉しそうにするものよ!」



 それは嘘だった。
 実際には大多数の娘が塞ぎこむ。
 誰でも自分の運命に無頓着であるわけがないからだ。
 しかしそれを、一族全員の祝福が崩し、緩和し、時間をかけて別の感情に置換してしまうのだ。
 ソラは家に戻って行った。今にも降りだしそうな冬の空の下を。
 祖母は一つの大きな事業の始動を感じて奮い立っていた。
 しかし、いつもに比べれば、まだ実業家の顔になっていなかった。孫を見送るその眉間には、皺が寄っていた。
 結果を憂いていたのではない。一つの、許されざる過ちの記憶が蘇っていたからだ。
 それはひたむきで信じやすい少女の声をしている。



 ――でも、姉さん! あの人は、あたしのことを分かってくれるの!

 ――あたしを人間として尊敬してくれるのよ!

 ――お願い、手を貸して。お父さんお母さんを説得して。あたし、あの人と、この町を出ていきたいの!



『だから言ったのに!!』
 その日、祖母は絶叫したものだ。
 愚かな妹の言葉を信用して何かと味方になってやった自分が天下一の馬鹿者にされた。
 あの金髪の、妙に調子のよい若造は、突如姿を消し妹を滅ぼした男とすでに同一となって彼女の記憶に新たな怒りを刻んでいる。
 二度とあんな。
 二度とあんな過ちを生きているうちに犯すわけにはいかない。







 翌日フルカは、イラカの祖母からの手紙を受け取った。
 そこには、ソラの結婚相手はゾンネンに決まったこと。二度と祖母の家にも、ソラにも近づくことを禁じ、手紙のやりとりも禁じるということ。
 もしこれらに従わないなら、あなたの作ろうとしている店の営業権や資金を出している人間に直接働きかけて、商売ができないようにします、と、したためてあった。




(つづく)
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