9.


 その朝、イラカは珍しくンマロにとどまっていた。雪で方々の道がふさがって身動きが出来ないことが、彼につかの間の休暇をもたらしていたのだ。
 朝寝をして、とっくに明るくなった頃に寝床から出る。
 彼は相変わらず、狭くても高い場所にある部屋が好きだった。階段は長くなるし、気温の変化を受けやすいので、最上階はその実さほど快適ではないのだが、眺望には替えられない。草原生まれの彼には、開けた視界が必要なのだ。
 鎧戸を空けると、冷気と一緒に雪をかぶった街並みが目に飛び込んできた。
 路地から生活音、雪かきの音、そして子供たちの歓声が聞こえる。
 ンマロの降雪は毎年大した量ではない。今も、うっすらと積もっているだけで、恐らく昼すぎには溶けてしまうだろう。
 だからンマロの市民たちは冬を楽しむことが出来た。景色の一瞬変わる風物詩として、雪は、歓迎されていた。
 イラカも雪は好きだった。ほぼ裸という出で立ちにも構わず、そのまま窓辺で新鮮な空気を楽しんでいたら、奥でごそりと気配が動いて苦情の声が上がる。
「――さむい、んですけど……。ちょっとー」
 寝床の上の布団が動いて、めいわくそうな、眠たそうな女の子の顔がのぞく。
「イラカ、窓、閉めてよ」
「起きたほうがいいよ。そろそろ。お店に戻らないと困るんじゃない?」
「……」
 女の子は布団の中へ引っ込んでしまった。が、白い手が隙間から伸びて、傍の椅子に放り出したままになっていた衣類を手探りする。
 イラカも女の子をいじめるのはよして、鎧戸を閉めると、腰に巻いていたシャツを取り、箪笥から下着を取り出す。
「おなかすいたね」
「おなかすいた。何かない?」
「もらいもののあめ玉しかないよ。いる?」
「ん」
 イラカは親切にも、傍にあったあめ玉の袋を取り上げて寝台に戻り、突き出された唇の間にひとつ押し込んでやった。
 爪と指の肉が、すこし湿った女のやわらかい唇に触れる。
「時間、大丈夫? 今日、仕事納めって言ってなかった?」
「…………」
 女の子は途端に不機嫌になり、毛布の上に、マオのようにだらりと寝転がってしまう。
「もう一回しない?」
「おいおい」
「別に、いいでしょ? 今さら」
「やけにならないほうがいいよ。仕事も『ダンナさん』も、大切なものでしょ」
「……初めてじゃないのよ」
 女の子の眼がさまよって、最後にあめ玉を手に傍に立っているイラカの目をさかしまにとらえる。
「ねえ、なんで男って、浮気するの?」
 ひっくり返った女の子の顔を見ながら、イラカは苦笑した。
「うーん。まあ、そういう動物なんじゃない?」
 あめを箪笥に戻すために体の向きを変える。
 女の子の質問は追ってきた。
「どうして一人の女で満足できないの? どうして、愛しているとか必要だとか言いながら平気で別の女とやったりするの? どうして自分を制御できないの?」
「君の『ダンナさん』の件はまたちょっと複雑だけどね」
 正式の妻がいるのに、かわいい街の女の子を愛人にして、お小遣いをあげて、さらに彼女の弁によれば初めてでもない浮気をさらにしたというのだから。
 一時に三〜四人か、さらにそれ以上の女がいるということになる。
 しかし、金と力と時間があれば、男はそれくらい遊んで無理もないとイラカは思う。女はいつも嘆く。どうして? と言って。
 どうして?
 ――うーん。だって。ねえ。
 仕方ないじゃないか。
 俺は男で、目の前にすぐにやれる女がいて、体の準備ができちゃったら後は出すほかないのだから。
 どうしてもしなくては収まらない時もある。
 女に射精すること。それは男にとって、大事な行為なのだ。
 男の生理で、多分女には分からない。
 だからどうしようもない。
「まあ、罪悪感もちょっとくらいはあると思うよ。『ダンナさん』も謝ったんでしょ?」
「――だから、どうして後から謝らなくちゃならないようなことをするのか、と聞いているのよ」
 嘆いても。嘆いても。倫理的にいくら責めても、君の『ダンナさん』はきっと止めないだろう。
 誰も止めないだろう。
 イラカは寝台に戻って、彼女の傍に腰を下ろした。手を伸ばして、その頭を撫でてやる。
「泣かないで。相手を責めてもつらいだけだよ」
「……じゃあ、どうしたらいいのよ?」
「男のサガだから。仕方がないから。よしよし。ひどいね。……お姉様達に相談するといいよ。きっとどうしたらいいか教えてくれるよ」
 上手な男女関係の続け方を。馬鹿な男の操縦法を。
 男のあやし方を。
 それを備えた女が、最高の女だ。
 がんばれ、かわいい女の子。

 それにしてもおなかが空いていた。
 泣く女の子の背中を撫でながら、イラカはうわの空で思っていた。
 こういう虚しくて寒い朝は、今すぐ結婚したくなる。
 部屋を暖め、温かい料理を出してくれる、誰かが欲しくなる。







 ソラが家に帰ると、母親の抱擁で迎えられた。
 こんなことはかつてない。抱擁? ない。そんな家ではない。
 ソラはまだ混乱し、脳みそのてっぺんから脊椎に棒を入れられてかき回されているような気分だったのに、それを母親の肉体が抱きしめた。
 ありとあらゆる祝福の言葉と、褒め言葉が与えられた。
 ソラは一方的に受け取ることしかできなかった。
 ぼうっとしたまま、ようやく自室へ逃れて、命令されたように、祖母の家で過ごすための衣類を集め始める。
 途中で自分が何をしているのか分からなくなる瞬間もあり、多分、思ったよりもずっと、時間がかかった。
 ――ふと、荷物を見下ろして思う。
 この荷物を持って、このまま町を出てしまえばいいのではないか。と。
 だが、そう思うと、彼女の名前を呼ぶ母親の声がするのだ。
 落ち着きを取り戻せぬまま出て行くと、廊下に三、四人の見知った女性らがいた。母親の盟友たちだ。全員が一斉に飛びかかって来てソラにさわり、おめでとうと言い、すごいわ、すばらしいわ、親孝行だわと手放しで称賛した。
 なんでか泣いている女性までいた。それにつられて母や他の人まで泣き始めた。
 喜びの涙の洪水。見たこともないような。
 はっきり言って、びっくり仰天して、恐れ入って、ソラは思った。
 ああ。そんなに素晴らしいことなのか。それは。
 そんなにまでとは、知らなかった。
 だってこれまで、町一番の変わった女であったソラが。どこにも居場所のなかったソラが。上の学校に行っても褒められるどころか、敬遠され無視されるだけであったソラが。
 急に社会の一員として可視化され、認められ、心から歓迎される。
 ソラ自身は何も変わっていないのに。
 これが魔法でなくて何だろうか?
 祝福の嵐はそれで終わらなかった。祖母の家に入って後も、何日間も、何回にも分かれて繰り返し波状に行われた。年替わりに合わせて親戚中から手紙が届いた。祝い金が包まれ、祝いの品が届き、直接会いに来て励ましてくれる家族もあった。
 道ですれ違う人たちまでがソラを祝福してくれた。かつての同級生たちも、これまでの疎遠ぶりが信じられないような優しさで次々に声を掛けてくる。
 それはまるで、眠れる神が、婚姻という二字に突如として血脈を取り戻し、共同体を駆け抜けて人々に狂乱をふれ回っているかのようで――、ソラは、本気で呆然とした。
 彼女は存在を認められるどころか、主役として花舞台に押し出されていた。
 それがたとえ、一瞬のことであろうとも、これまで、一瞬であれ、こんな立場に立てたことがあっただろうか。
 勉強しても、仕事をしても、一番になっても、彼女は認められなかった。
 寧ろすればするだけ異端へはみ出していった。
 それが。
 ――結婚すると決まっただけで。
 馬鹿みたいに簡単だった。
 そして、それは、甘美だった。
 とても、楽だった。
 今までの自分の葛藤や居心地の悪さ、遠慮や悩みが馬鹿みたいだった。
 こうしていれば居場所が出来たのか。なんだ。こうしていれば。
 もちろん、結婚の相手がゾンネンであり、自分がその家族と付き合わなければならないという事実は不変だった。
 新年に両親に連れられて町長宅に挨拶に――無論祖母の指令のもとに――行き、得意げにふんぞり返ったゾンネンや、なんだか文句のありそうな彼の母親の顔を見ると胃がうごめいた。
 けれど、そういう不安さえも、人々が慮り、総出で慰め、うやむやにしてくれるのである。何も言わなくても、みんながこぞって手助けしてくれるのである。
 一体これは何だろう。というより、これまで自分はいかに孤立無援であったことか!
 ソラは――、少しずつ、状況を受け入れ始めた。
 これしかないと思い込んでいた学問を失い、ぐらついていた彼女は、この装置の発動に抗えなかった。
 祖母はソラにもはっきり分かる全力の熱心さで彼女に様々なことを教えてくれた。何か、法的な手続きのために書類を整え、ソラに署名させたりもした。実を言えばソラは受ける一方で、内容にはほとんど関心を持てなかったが、ただ、その祖母の熱心さを、雨を迎える樹木のようにうっとりと享受していた。
 祖母は優しかった。
 母も優しかった。
 父も優しかった。
 人々もみな優しいのだ。
 彼らの望むとおりにしさえすれば。
 ハライに生まれるにしては勉学が好きすぎたソラはこの麻薬を知らなかった。――知り始めたところだった。
 しかし町にはただ一人、酩酊する彼女に優しくない人間が残っていた。
 フルカである。
 ソラの祖母に恫喝されたくらいで、彼女が諦めるはずがなかった。
 ある夕方、一瞬だけ一人になったソラを、彼女は通りでつかまえ、ものも言わずに町の門から外へと引っ張り出した。





「――フルカ」
 フルカも、もういつものように余裕はなかった。ソラに準備をする間を与えることもなく、初めから、腕をつかんで、せき込んで、咎め口調だった。
「一体どうしてされるがままになっているの、ソラ。取り返しのつかないことになるわよ。分かっているでしょう。どうして馬鹿のふりをして、いい気分になっているの?!」
 のっけから、彼女はソラの、誰にも突かれなかった痛点を、嫌というほど突いた。
 痛い個所を狙って蹴る相手に、穏やかでいられる者はまずいない。
 ソラは自分でも、毛が逆立って顔色が変わったのがはっきり分かった。
 腕を振りほどいた。目の前にいるのは、いつもの友達なのに、これまで使ったこともなかった他人行儀な口調が腹の奥底から勝手に湧いてくる。
 いやらしい、意地悪で愚かな女生徒みたいだ。
「こんにちは、フルカ。久しぶりね。ずいぶん忙しかったみたい。……色々ありがとう、暗躍してくれて。あなたは私をイラカと結婚させたかったみたいだけど、一体誰があなたに、そんな根回しをしてくれと頼んだのかしら?」
 フルカは、石でも飲んでしまったかのような顔をした。ソラは、全身の血管がぎすぎすと膨らんで波打ち、怒りと罪悪感と不意打ちの動揺をごちゃまぜに、まさに今、他人との言い争いに直面している自分を感じた。
 きっとフルカも同じような気持ちだっただろう。
「――あ、あたしは、イラカの味方をしただけよ。それがソラを幸せにすると思ったからよ!」
「余計なおせっかいでしょう。私には一言も言わなかったくせに。あなたにはあなたの計画があったんでしょうけど、それがうまく行かなかったからと言って、私を責めるのは筋違いじゃないかしら」
 不意に、かわいらしい顔を、ぐしゃっと潰して、フルカが折れた。
「ソラ! ……謝るわ。謝るから。そんな冷たい言い方をしないでよ!」
 ソラは心中で動揺し、その実まごついた。
 フルカがそれを分かったかどうかは分からない。
「――それはね、あたしの下らない見栄のせいよ! あたしは、格好をつけたのよ。あなたには知らせないまま物事をうまく運んで、後から『見事だ』って、言われたかったのよ。ごめんなさい。馬鹿だったわ」
 曇り空から雪がちらほら落ちてきた。
 ソラの上にもかかり、フルカの上にもかかった。
「あたしのことは、いくらでも軽蔑していいわ。でも、あなた自身のことを考えて! あなたは、ゾンネンと結婚しようとしているのよ?! あなたの価値をまるで分かっていない男と。きっとこの先も、分かることなどない男と! 結婚は下手をしたら四十年も続くのよ。本当にそれでいいの?!」
 ソラの後ろにハライの町があり、フルカの後ろに外への道があった。
 ソラが口を開いた時、舌が震えていた。
 寒さのせいかもしれない。
「だって、他に、どうしようがあるの。他にどうやって生きていくの。実家で、親のお金を食いつぶしながら、完全に何ものにもなれなくなる年まで腐っているの? 親を失望させながら?」
「何か、したらいいじゃない。学問じゃなくても、あたしみたいに!」
「私にはしたいことがないのよ、フルカ! なくなってしまったの。それに、私は女で――しかもあなたのようには、できない女なのよ」
 ソラは、その言葉を言った瞬間、これまでで一番、友との距離がどかんと開いた気がした。目の前にいるフルカが小さく、遠くなった。
 フルカが破廉恥な人間でないことを、ソラは知っていた。
 これを言ったらいけないと分かっていた。
 しかし、もう遅い。ソラはこの話をついに始めてしまった。
「――私とあなたで、していることはそんなに違うことなの。結局は、同じでしょう。つまり、私達は、女は、実際に身一つでは商売もできないし、富を手に入れて、自分自身を保つこともできない。女は、世界でそれを持っている人たちに接触する方法を持って、そこから自分の分を削り取っていかなくちゃ始まらない。
 女性にとって、結婚はそうでしょう。人生を引き換えに、富に接触する、唯一の、正統な方法でしょう。――結婚でなくても、同じじゃない。フルカ、あなたは男の人達からお金を引き出して、自分の夢のお店を開こうとしている。でもそれは――無償じゃないでしょ? 引き換えにしているものがあるでしょう? それは――『女』であるのでしょう。
 同じことを私がして人生を切り抜けようとするのが、どうしていけないの?」
 フルカは眉根を寄せていた。
 集中の証でないことは明らかだった。
 その後ろを雪が斜めに落ちていく。
「ソラ。あたしは自分で選んでしているのよ。でもあなたは、選択を投げている」
 多分ソラも同じ顔をしていた。
「だったらどうして、あなたは、イラカのことを私にではなく、祖母に言ったの。手柄を立てたかったと言ったわね。つまりは祖母が実権を握っていることを知っているからそうしたんでしょう。
 あなただって、信じてないのよ。私たちに、力があるとは。あなただって思ってる。私達の出来ることは、力をうまく利用することだけだと。だから私本人をそこに入れようとせずに、祖母とイラカと、あなただけでこっそり話をつけようとしたんだわ。その決定に私の意志は必要ないことを知っていたからだわ。
 そうしておいて、今更私を動かそうとしたって、そんなに都合よくはいかないわよ」
 凍えるように長い沈黙があった。
 辺りも暗くなってきた。
 会話が物別れに終わることが、二人ともに、分かってきた。
 それでも、フルカは言う。絶望的な顔をしながら。
「今、ソラが言ったこと、全部認めていいよ。全部あたしのせいにしていい。それでも、あたしが言いたいのは、――ソラ、お願い。ひどいことになるよっ、てことだよ。お願いだから、あたしとか、馬鹿な友達のことは忘れて、自分の気持ちにだけ、素直になって」
「フルカ……。――言っておくけれど、私は、初めから、別に誰とも、結婚したくないのよ。イラカのことだって……ありがたくないとまでは思わないけれど、友達以上のものでは、ないのよ」
 はっきりとした意外と失望を相手の眼に見て取りながらソラは続ける。
「――だから、誰と結婚したって、どっちにしても私の気持ちとは無関係なの。あなたは、私を評価してくれてる。それは知ってるけれど、――今の私にはもう、意志も、力も、――それを理由にできるような愛情も、ないのよ。
 もし、どうしても私に、何かを選択させたいのなら、私は、選択しないことを選択したのよ。状況に流されたの。もう、宙づりに疲れたの。私は、変わっているけれど、いつだって町に溶け込みたかった。結局、他にどこにも行き場はないんだもの」
「…………」
「あなたの計画を台無しにしたみたいで、ごめんね」
 ついにフルカは瞼を閉じた。
 そして、最後に言った。
「ソラがいるから、ハライに戻って来たの。――あなたに、夢を見過ぎだって、分かってたけど……」




 彼女は身を翻して、ひとりで雪の散る道を歩いて行った。どこに行くのかは、分からない。
 フルカは、ソラの未来と自分の未来を同一のもののように見ていたのだ。ソラの逸脱を契機に、自分も一歩を踏み出せたから。
 彼女以上にソラの未来を夢見て、応援しようとした。彼女が知る限りの、現実的な手管を使って。
 けれど、ソラの方が先に倒れてしまったのだ。元来『いい子』であったソラは、現実を前に頭を垂れてしまった。
 彼女たちが、遠い街で育んだ自由と独立の雰囲気は、淡い夢として、目覚めと共に消えていくことになった。
 ソラは一度、苦しげに眉間の皺を指でなぞった。けれど、それから踵を返し、静かに、ハライの中へと、戻ったのである。





 雪のせいで、二週間もして、イラカはフルカからの手紙を受け取った。
 彼はそれを読み終えたあと、腕組みをして、誰もいない寂れた室内を、ひとり見返る。




(つづく)
<<戻 次>>