そこは潮のにおいのする厨。
 書物と古代の呪いと肉体が掛け合わされて何ごとかが起きている暗い秘密の場所。
 赤い炎を背に立つあの太った眼鏡の教授が両手を広げ、大きな声で、嘲笑する。


 おや、結婚かね! 結構結構なことだね!
 粗野で鈍重で愚かな田舎者とつがいになるかね!
 美しい文章一つ仕上げることもできないうすのろと子供を作る儀式はいかが!


 彼に遠慮の二字はない。
 自分が思ったことはすべて言う。
 人が傷つこうが、憎もうが、屁でもない。
 非道であることと強さが等号で結ばれている傲岸の奇術師。
 炎にあおられて赤い横顔をしている。


 うすのろの親。うすのろの子。うすのろの一家。ご成婚おめでとう!
 馬鹿な女の子!


 自分は凪の海の上に立っている。
 音もなく足元で水が流れていく。視界の果てまで平板の海。
 何か言おうとするが口の中に砂でも詰まっているみたいに動かない。
 だって。と、言おうとするが。


 眼鏡を光らす教授の左側で、波打っていた影がむっくりと身を立て、頭が現れ、それが、こちらを見る。
 通った鼻筋。流れる金髪。冷たい青い目。美しい黥。
 斜めに見える背中は裸で、一面に火傷の跡のように入れ墨が埋め尽くしている。
 それは、『彼』のようでもあり、『彼』のようでもある。


 影はまだうごめいている。教授の右側で、形を成そうとしているのは、女か。
 見たくない。
 それは見たくない。
 だめだ。


 愚かな女の子!
 融け合ってしまえばよかったのに!
 そら、私は君の個人教授にして男。こいつは私の友にして恋人。この女は私達の生徒にして私達の女。君は私の教え子にして女、こいつの材料にして女、この女の一族にして身代わり。
 狭い場所で、友達も近親も敵も味方も愛も嫉妬も錯覚も突発もぐちゃぐちゃのどろどろで混ざり合いそれはそれは気持ちの良い人間牧場なのだ。
 君も身を投げてぐちゃぐちゃのどろどろになってしまえばよかったのに。
 みんながそれを期待していたのに!
 君にはほとほとがっかりだよ!



 影の動きが、激しくなる。同じだけ頭のめまいも加速する。
 何かの機械が走り出すかのように、徐々に、動きは、激しくなる。切羽詰まった息の音。
 だめだ。だめだ。だめだ。
 頭は熱いのに冷汗が背を伝う。
 教授の背後で炎はどんどん大きくなる。
 だめだ。だめだ。私は同じことをするわけにはいかなかったんだ。
 だって。


 それが、現れてくる。立ちのぼってくる。
 絡み合った関係性の厨で、それは醸成されていく。
 学者でございと、世界をあざ笑う男の向こうに、
 誰かを救いたいと願う、真情と一途さの向こうに
 あの、
 分解と破滅の神が。
 赤い黥を植物の蔓のようにまとわせて成長し
 あ。と思う間に天を衝く背丈になって立ちはだかる。


 教授はくるりと身を返し、白い両手を挙げてそれを押しとどめる。


 瞬間、それは怒れる赤ん坊のような絶叫と共に内部から粉々になって濁流に姿を変え、すべてを押し流し、盛り上がる大地に放られた彼女は天も地もひっくり返って悲鳴を上げて寝台から落ち、目を覚ました。



 冬のことで、分厚い寝具が先に落ちていて、ソラはそこに着地した。
 寝汗が凄まじく、それが急速に冷え始めて暑いのだか寒いのだか分からない状態だった。
 世界はしんとしていた。
 雪が降り続いているのである。
 真っ暗闇の中で、ソラは、なんとか寝具を寝台に引きずりあげ、そこに自分の身体を無理やり押し込んで、身震いした。
 自分の両腕でわが身を抱きしめ、なんとみだらな夢を見るのだろうと自分を叱り、それから、夢でよかったと心から思った。
 あの日の夢は、いつも怖い。心底恐ろしい。
 私は、二度と、あれを繰り返すわけにはいかないのだ。



 寝汗のせいか、ソラは風邪を引いた。その後祖母の家で、二日ほど寝込んだ。




+




「ええ、聞きましたよ。ソラさんは、ゾンネンさんと結婚なさるそうですね」
 ハン・リ・ルクスは、自分の勤める社の会堂で、フルカの訪問を受けていた。
 とは言っても、フルカの表情は厳しく、足音は高く、話す言葉はまるで難詰口調であったが。
 ハンは実際、仕事の邪魔をされて困ったのだが、彼女を責める気にはなれなかった。フルカはいつものように身だしなみに気を使っていたけれど、目の周りが荒れて腫れ、苦しんでいることは一目瞭然だったからだ。
 女の子の友情というのは、こういうものかもしれない。
 ハンは、彼女がイラカを推してささやかな策動を繰り広げていたことを知らなかったが、そうと聞かされても驚きはしなかっただろう。そしてそれが遂に、失敗したと聞かされても。
 二人は、会堂の隅に椅子を持ち出して向い合わせで座っていた。
「――それで? あなたはそれで、いいわけ?」
「僕の意見が必要でしょうか?」
「――ゾンネンよ? あの、ゾンネンが相手よ? どうして、あのソラが、持ってる資質の全部をあんな男に売らなくちゃならないの?」
「ハライの町長さんの息子ですから、むしろ良縁のほうでしょう」
「そういう下らないおしゃべりで核心をぼかしてなにかおしゃれなつもりなの?」
「……」
 怒り狂ったマオのように、フルカは温厚なハンに噛みついた。
 これは、八つ当たりだな、とハンは気付いたが、それでも、彼女が言わんとしている『核心』は場に残った。
 つまり彼女は「ゾンネンは最低よ」と言いたいのだ。
「最低も最低よ。今から、あいつがソラに何をしてどんな感じに不幸にするか、ほとんど見えるくらいの奴だわ。結婚するにしても、なんであいつなの?! ……ソラは、選択を投げたのよ。おばあ様から『なんとかなる』とか『どうせそんなものだ』とか言われて、素直にそう思ってるんでしょうよ。でもね。……実際に傷つくのは、おばあ様なもんですか、あの子なのよ?! あたしには、彼女がどんなふうに才能を無駄にして疲れていくかもう二十年先まで見えそう!
 こんな選択を、あのソラが自分でする日が来るなんて。信じられないわ。町で一番の才媛で、外の学校にも通った女が! ――最終的に未熟なお坊ちゃんの家内になるしかないなんて、なんなの? それこそお金の無駄じゃないの」
「……」
「ねえ、あなたは、これでいいの?」
 ハンを見るフルカの眼は、薄い涙の膜で光っていた。
「あなたはソラの学友だった。才能を隠さなかった彼女がどんなに光っていたか見ていたでしょう。あたしだって見たわ。のびのびと自由に生きる彼女が、どんな富を世界から拾い集めてたか。ソラはあなたを仲間にした。あたしを仲間にした。最初敵だったイラカだっていつしか仲間にした。それが、――そのつながりが、こんな冷え切ったつまらない結果で終わって、いいの?」
 ハンは眉をゆるく八の字にしながら、自分の喉元を意味もなく触った。そこには、被った辛い水の傷痕がある。
「……あなたは、もっと続けたかったんですね。事故後のあの一月は、濃密でしたからね」
「…………」
 それはそれはしんどかったけれど。
 助け合って、慰め合って、笑い合って、泣き合って、それは、若い四人には接着剤のように作用し、忘れがたいものだったのだ。
 青春の竈にはなんでも放り込んで燃やすことが出来る。
「それだから、あなたは私かイラカが、ソラさんと結婚すべきだと思ったんですか?」
 フルカはぎゅっと眉根を寄せて目を伏せた。
「あたしはあなたの考えを聞きたいのよ!」
「――僕は、ずっとソラさんと友達でいますよ。ソラさんがつらい時にも、相談相手になりますよ。そして彼女の選択を、尊重しますよ」
「……どういう意味。明らかに間違った選択でもってこと?」
「間違えたり不幸になることも、人間の自由の一つです」
 木造りの会堂はしんとなった。
 鳥が雪の茂みから羽ばたき飛び去っていく、その鋭い鳴き声が聞こえるくらいだった。
「――ああ。そう」
 やがて白けたような、わざとらしい、フルカの声が天井に響く。
 彼女は立ち上がった。コートの下で彼女の凝った衣類が音を立てる。
 ハンは時々、彼女に不思議な苛立ちを感じることがあった。前からずっとだ。その正体を探ったことはないが、彼女の外交的な、『分かっている』風な態度がどうにも引っ掛かる感触が、消えたことはなかった。
 今、その長い長い苛立ちに自分がささやかな復讐を遂げたような気がした。
「僕はソラさんのお友達ですよ。だから、ソラさんの選択を尊重するんです。何かおかしいでしょうか?」
 立ち上がったフルカは距離を取る目つきではっきりとハンを睨みつけ、それから言った。
「もういいわ。……賢い、学のある人は、その賢さと教養を、事態の解決じゃなく自己弁護に費やすこともあるわけね。
 よくわかったわ。本当にいい勉強になったわ。確かにあなた達はお友達でしょうよ。邪魔したわね」
「フルカさん」
「さよなら! せいぜいお勉強なさってえらくなってね!」
 やっぱりそれは八つ当たりでもあっただろう。
 フルカは自分でもそれを分かっている様子で、しかし本物の失望をも共に抱えて、会堂から出て行った。
 ハンは黙って彼女を見送った。
 そして空の椅子を見つめながら、その表情を、思い返す。
 ――君は、男と女がいれば、愛し合うのは当然だと思っている。
 だがそうとは限らない。
 僕は君のその前提に、死ぬほどいらいらする。
 君は恋愛小説を読んでいる僕を見つけて、姉みたいなしたり顔をする。僕がソラを思慕し、何とかして男女の仲になりたいと思っていると、勝手に考えるのだ。
 それは、童女が『〇〇先生は、××先生のことが好きなんだよねー』と言うのと同じだ。
 あなたこそ子供だ。
 もう、いい加減分かってきたのだが、自分は、そういう種類の人間ではないのだ。
 他人に対して性的存在でありたいとまったく思わない。
 負け惜しみ、強がり、嘘つきと言われるから限られた人間にしかこのことは言わないけれど(ソラには言った)――、自分はそういう人間ではない。
 ただ、人間関係を求める心はあるのだ。
 性欲がないだけで。
 言われなくても、ソラとの友情は一生諦めるつもりはない。
 ――彼女が何を選択しようと自由だ。彼女がつまらない人間に囲まれて傷ついたら、その話を自分が聞いてあげる。彼女が対人関係に絶望し孤独になったなら、それは自分と近くなることだ。もっと分かり合えるようになるだろう。
 自分の希望は、
 或いはもしこれを欲望と呼ぶのなら、自分の欲望は、
 最も彼女を理解し近しい人間であることだ。
 恋人より、愛人より、夫より。
 無二の友連れになることだ。
 この権利をみすみす手放す君は短気な粗忽者だ。
 自分は陰険かもしれない。
 こんなことは、イラカなどは決して考えないことに違いない。
 けれど、どうだ。イラカは結句ソラの心を勝ち得たか。逃げられたではないか。
 自分の方が上なのだ。
 フルカよりも、イラカよりも。
 もちろん、ゾンネンなどより。





 こうしたわけで、ソラの決断による周辺の泡立ちは二週間のうちに収束し、彼女の体調不良も数日で収まった。
 様々な準備を経て、二月後。次第に間遠になってゆく降雪に、森で一番初めに花を開くツミの蕾が露を得て膨らむ頃、ソラは町長の宅で、彼の息子ゾンネンと、婚姻の儀を執り行った。





(つづく)
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