イラカの故郷は、乾いていて、ただ広くて、視界の果てにはそびえたつ雪をかぶった山脈の見える、一面の草原だった。
 灰色の毛を蓄えたゴフスたちが、知能も未来もない石ころのような動物として今日も右へ左へ偏って行く。
 打ち建てられた移動式の家屋の中で、イラカは久しぶりに家族と会った。
 母は寝所に横になって休んでおり、家の中央にある火の傍でイラカは妹と話し合ったのだが、彼女の頑固さにしまいに息を吐くことになった。
 彼女は頑として土地を離れることを嫌がった。別の生き方をするのは嫌だと言った。彼女は強固な愛着をこの不便で伝統的な土地に持っていた。貧しくともゴフスの世話をして生きていきたいと言った。
 彼女はンマロにいる人間達とはまったく考え方が違った。
 それを変えることが彼女に進歩と新しい幸福をもたらす、と説得してもまるで理解されなかった。寧ろ彼こそが帰ってくればいいのにと言われる始末だった。
 母親に見舞いの言葉をかけて、イラカはその――ンマロの法律では規定不可能の――『家』を出た。
 出発前に、ンマロで読んだ、前文明の文章を思い出す。
『現代人になるためには、故郷から引き離される、ということが決定的に重要だ。』という。
「まあそういうことなんだろうな」
 ゴフスの鳴き声を聞きながら青い空を仰いでイラカはひとりごちた。
 故郷から切り離され、孤立した人間になった時だけ、人は、ある抽象的な夢を見ることが出来るのだ。
 だから、彼女もそうで、故郷に帰ったから、故郷に吸収されたのだろう。妹のように。


 イラカはそして、またしても故郷を離れてンマロへ帰った。
 ンマロの近海には、今も、崩れた夢の島の残骸が海に波紋を広げている。







 ハライの町長宅で行われた結婚式は大がかりなものだった。
 東部には華美を嫌う傾向があるので、色味は豪華ではないが、堅実ながら大勢の招待客を得て、食事も酒もふんだんに用意され、また人手が集められて滞りなく運営された。
 ソラの衣装も、祖母が手管の限りを尽くして買い集めた極めて高価な布でできており、しかもちょっと見にはまるで派手に見えないという、はっきり言ってソラにはもったいないほどの品であった。
 町長と祖母は互いに友好的に振る舞いながら、互いの力を巧みに誇示して緊張を持って渡り合った。
 式に参じた東部人たちはむしろその様を眺めて感心したり褒めそやしたりし、式はまさに両家と地域のためのものであって花婿花嫁は形式美であった。
 彼、彼女はけなげで殊勝で控えめで未来があるに決まっていた。二人のことをよく知りもしない町の偉い連中が次々に臆面もなく挨拶するのを見ても、それが単なるお約束であることは明らかだった。
 誰も二人の人格のことなど気にしていない。
 両家の合体とその影響のことだけを気にしている。
 ソラはしかし、むしろそれでよかった。もう彼女は新しい世界を勉強する体勢に入っていた。そこで出来るだけよい結果を出そうと考えていた。
 だってもう、過去には戻れないのだから。これまで目指していた世界の先がないことが分かったのだから。これからはこの世界でなんとか生きて行かなくてはいけないのだ。
 ソラはいじけた人間ではなかった。生まれながらの学問好きで、それはどういうことかというと放っておいても(いや寧ろ放っておかれるほど)能動的にどんどん先へ進んでしまうのだ。
 しかも今の彼女は、過去に対して後ろめたさを感じ、退路が絶たれている。目はすでに前を向き、自分の結婚式だって分析の対象として小気味がよいくらいだ。
 ――四日前、いよいよ、式の直前だというので、祖母の家から実家へ戻った。町長宅へ持って行く荷物を選別している時、子供のころから積み上げてきた書物を持って行くかどうするかという話になった。
 さすがに、思い切りがいったが、ソラは結句「持って行かないので、処分していい」と言った。
 彼女は学問を捨てたのである。
 母親も父親も「じゃあ、だれか欲しいという人があったらあげることにする」と言っていた。書籍は貴重なものだからだ。
 ソラは何も持ってこなかった。あの、指輪さえも。書籍と一緒に倉庫に積んで、出てきた。
 いつか祖母が言ったように、夢を見る少女の時代は終わったのだ。
 これから彼女には東部の女の時代が待っていた。
 その友連れが、ゾンネンだというのは、いささか不安がないでもないめぐりあわせだ。
 しかし、彼とて学問を修めた人間で、やり手の町長の息子である以上、ある程度の賢さがないはずはない。
 東部で現実的に、十全に生存していくという目的は同じはずだ。だから、彼とも、協力し合えるはずである。
 現に、ソラと同じくらいの一張羅を着たゾンネンは、将来有望な若者らしく見えた。けっして美男子ではないが、坊ちゃん坊ちゃんした印象と同時に、意外なしたたかさを持って生きていく町の若者に見えた。
 式次の最後に、彼が招待客全員に感謝の挨拶をする場があった。
 彼は紋切り型の、なんら当たり障りのない挨拶をしたが、それによって少なくとも求められるお約束を公の場で履行できる常識があることを示した。
 彼は拍手で讃えられた。
 こういう世界である。
 とびぬけた天才性など必要ない。不老不死の英雄などいない。古代を探る理由などない。
 伝統の中にすべての答えがあり、常識の中にすべての幸福がある。
 ソラは不遜な花嫁であっただろう。腹の中でそんなことを考えていたのだから。けれど彼女はこの世界に入っていくつもりでいた。過去を捨てて。この窮屈で旧態依然たる東部でそれなりに自分らしい生き方をつかむつもりでいた。
 だって後ろには戻れないのだから。



 式次が尽きるとあとはもう、酒宴だった。
 次から次へと人がやって来てゾンネンに酒を注いで行った。花嫁には注がれない。横で見ている。
 その場に彼女の友達はいなかった。親類も大勢来ていたが、フルカは完全に意図的に外されていた。
 ざわざわとざわめく大人たちの騒音の中で、ソラは別に辛くはなかった。孤独なのは昔から同じだ。寧ろ今は、女性たちが代わる代わる気遣いをしてくれるので居心地が良いくらいだ。
 多分、これまでで一番、ソラは東部社会の中で地位が上がっていた。誰もがちやほやしてくれた。
 実際の言葉で示し合わせることなどないだろうに、人々の態度というのは鮮やかに現れるものである。
 ソラの休まぬ思考が、これだから若い女の子たちが、やたらめったら結婚式に憧れるのだろうかと思ったりした。
 女の子が、高い衣装を着せられてひな壇に乗せられてみんなから褒めそやされる機会が、東部には滅多にない。勉強ができたって褒められはしないのだ。
 唯一、もっとも女として頂点に立てる場が、花嫁として参加する結婚式、か。
 次はなんだろう?
 ――そうだな。おそらく、同じくらいに親類一同がこぞって褒めてくれる機会と言うなら、多分、出産だろう。
 さすがにこれを思うとソラの眉間は曇った。式の最中にも関わらず。
 自分もいつか子を産むんだろうか。本当に?
 当然、祖母は言っていた。子を産んで初めて女は一人前です。子を産むのは女の義務です。早い方が自分が楽ですから、できれば三人か四人、立て続けに産むとよいでしょう。
 そうしたらあとはもう、誰からも文句を言われる心配はありませんよ――。
 町の有力者と如才なく会話し合っている、これまた粋な黒い礼服を来た祖母を遠目に眺めながらソラは思う。
 彼女は自分の仕事がうまくいって楽しそうだ。
 私も、ああいう人間になるのかもしれない。
 さばさばと、仕事をこなすように子孫を残して、うまいこと教育して、商売で財を成し、東部で重要人物になった。
 後半を真似できるかどうかはともかく、前半はそうありそうな気がする。
 これは仕事だ。新しい私の仕事なのだ。いつかなんとか慣れるだろう。うまく管理できるだろう。自分は幸いにして、労働することが嫌いではないのだから。




 この日ソラが楽観的になっていたのは、祖母の教育の賜物でもあった。
 祖母は一か月以上かけて、彼女に様々な情報を与え、自分が出来たのだからと安全の保証をし、まるで結婚について彼女が知らないことはもうないような気分にさせていたからである。
 もちろんそんなはずはなく、祖母が説明していないことは間違いなくあったのだが、未熟なソラはうまく誤魔化されていた。
 だからこそ、性的な経験がほぼまるでない彼女が、結婚や出産もなんとか操作できると思い込むような不可能事が可能だったのである。
 よくない兆候は、早くもその夜に現れた。
 長引いた酒宴もようやく終わって、花嫁花婿は退出が許された。さすがにくたびれきって、周囲の手伝いの人々に言われるままに衣装を脱いで入浴し、あらかじめ荷物を運び込んでおいた居室へ入った。
 するとそこにはゾンネンがいて、濡髪の彼女を見てにやっと笑った。
 彼ももう、堅苦しい衣装は脱いで室内着になっていた。一瞬でよく知る彼に戻りおおせると、彼は言うのだ。
「これでお前も俺の女房だな」
 もうそこには、事故の後、変に興奮していた彼や、意気消沈していた彼の面影はなかった。一年半の実家暮らしで、完全にいつもの調子を取り戻した町長家のひとり息子の態度になっていた。
 少し癪に触って、まあ、そうですね、それを言うならあなたも私の亭主ですけど、と言い返そうとしたソラの耳を次の言葉が打つ。
「お前を女にしてやるよ。ありがたく思え」



 ソラはこの不可能な言葉に、唖然とした。
 ソラは女である。生まれた時から今まで途切れることなく女である。
 それを、なんだって?
 いったいこの男は何を言っているのか?



 いったいこの男が何を言っているのか、ソラはじき知ることになった。
 彼女は何も知らなかった。
 何も知らなかったということを知らなかった。
 東部で女の地位は低い。地位が低いということがどういうことかを知らなかった。
 地位が低い時、人がどんな扱いをされるものか分かっていなかった。
 祖母が、町の女たちがみんな、それを言わずに秘密にしていたことも知らなかった。


 それは、知識とは違う。
 肉体的経験だった。
 とてもひどくて、苦痛を伴う拷問に近いものだった。
 茫然としている間に腕を取られて、寝所に引き入れられてから多分、一時間くらいした後、ソラはそこから、手をついてはいずり出た。
 全身が赤くなって、震えていた。
 両足の間からは血が滴り、寝間着は言うに及ばす、床さえも汚してしまった。





(つづく)
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