夜明け前。まだ慣れぬ家の隅に、ソラは、毛布を体に巻き付けて、蹲っていた。
 暴力を受けた衝撃で体が震え、頭は真っ白になって顔色も新しい紙のようだった。
 異物を挿入された彼女の膣は、出血こそ収まったものの、どう考えても傷がついているらしく、血脈が波打つたびに、ズキズキと痛んだ。
 部屋には明かりを入れていなかった。ソラは寧ろ、隠れていたのだ。
 半ば無意識に。
 こどものように。
 廊下に通じる扉が開いて、また、ゾンネンの重たくて大きいからだが現れ出口を塞ぐことを恐れていたのだ。
 扉が開いた。
 蝋燭を一本、右手に支えた姑が現れた。
 ゾンネンの母親だが、がっしりとした眉の頑固そうな、いつもよそ行きのような表情をしている女性で、顎のあたりが、息子によく似ている。
 彼女は、隅に座り込んだソラに気付いたが、別にその顔に変化はなかった。
 いつもと同じ、これまたよそ行きのような声で言った。
「あなた、そこで何をしているの」
 ソラの精神状態はいつも通りではなかった。そこにわずかに、冷たい、責めるような意味合いを感じたのは、そのためだったのかもしれない。
 ソラには判断がつかなかった。相手に本当のことを話しても大丈夫かどうか。
 だから、小学生のようにもつれる舌で、言う。
「体が、痛くて」
 愛想笑いも出た。彼女は今、最大限に弱っていた。無意識のうちに、わたしをこれ以上攻めないでくれという防御反応が出ていた。

 ねえ。分かるでしょう。具合が悪いんです。

 東部の女たちがよく使うあれだ。どれくらい本当の病気なのかよく分からない。知っているのは自分だけ。
 ソラは自分が正直で信頼に足ることを知っているから、人にも分かってもらえるだろうと期待した。まさか自分がありもしない病気をでっち上げて、非常識な行動をとる人間だとは思われないだろうと当然決めてかかっていた。
 しかし、姑にとっては、それはどうでもいいことのようだった。
 彼女はよそ行きの目元を持ち上げて、黒目を細くすると、これだけ言った。
「そう」
 そして、扉を閉めて出て行った。
 息子の嫁の状態も、それが遠回しに訴える原因も、そもそも嘘か本当かも、彼女にはどうでもよいことだと、その一部始終が語っていた。
 ソラは、助かったのかもしれなかった。少なくとも、批難されなかったから。
 だが、それよりもはるかに強く、無視された感じがした。
 この痛み、衝撃、恐怖を、なかったことにされた気がした。
 我慢強く、めったなことでは人の助けを請わないソラだが、今、この瞬間は、明らかに他人の理解や同情が必要だった。特に同じ女性の助言があれば、痛みも軽くなったかもしれない。
 だが姑は、ソラがなにか幸福でない状態にあることを見つけながら、無表情のまま去って行った。
 それは見つけられる前よりもずっとソラの精神を孤独にした。
 今日、家族の一員に加わったばかりの人間が、夜、眠らずに一人で震えていても、そんなことはとるに足らぬことだと言われたのだから。
 ソラは再び闇の中で膝を抱え、頭を横に寝せて目をつぶった。
 『みじめ』という言葉と共に、昼の祝宴のありさまが思い出されてなんて落差だと思った。
 みんなおめでとう、おめでとうと。
 これであなたも一人前だと。
 ソラのような人間にさえ分かる、それは女の檜舞台だった。
 ところがみんな今は去って、家の中には誰の気配もない。
 花嫁は体に傷を負って暗い部屋の片隅で誰からも保護を得られないでいる。
 ソラは自分が世界で一番ちっぽけで立場の弱い人間であるような気がした。まるで何かの罰のように、彼女は朝までその孤独を耐えねばならなかった。
 その孤独の中で、彼女は知った。
 そうか、これが結婚か。と。





 東部では一般に、婚姻の後二日間は仕事を休んでもよいとされていて、その間にこまごまとしたあいさつ回りなどを済ませる習慣があった。
 それに、花嫁は嫁いだ先の家事を多く分担することになるので、そういった話し合いや調整にも使われる日だ。
 そのため式が終わってからも、ソラは忙しかった。
 町長はさすがに顔が広く、ゾンネンと揃って挨拶に行かねばならない場所が方々にあった。また、その家は町で三番目に大きい。使用人もいて、ソラは彼、彼女らとも挨拶し、家事のあらましや、家なりのしきたりなど、引き継いだり、取り決めをしたりせねばならなかった。
 ソラは新たな枠組みの中に組み入れられ、新たな役割を与えられた。
 それはまだ不慣れで未知の、数多くの課題を与えられたのに似ていた。
 彼女は、祖母の血を引いてか、生まれつき労働が嫌いではない。寧ろ、自分で新たな課題を見つけられなかったから東部のしきたりに戻って結婚をしたのである。
 試練は分かっていたし、望むところだった。毎日、覚えきれないほど新しい人間と会って挨拶回りばかりして、こんな緊張には耐えられないという女性もいるかもしれない。
 だがソラは、こういう昼間に取引される仕事はなんら苦痛ではなかった。
 問題は夜だった。
 ゾンネンとは当たり前のように毎晩床を同じにせねばならなかった。彼は毎回、呪文のようにこういうのだ。
『お前は何も知らないから、俺が教えてやる』
 ゾンネンは汚かったり無精であるということはなかった。しかし、乱暴だし、何を言っているのかさっぱり分からないとソラは思った。
 生殖のために、男女が何をせねばならないかは、数日で理解した。
 ただ痛すぎてどうにもならない。
 ゾンネンは普段からやや夜郎自大なところのある青年だが、この時間になるとまたさらに言うことがおかしくなった。
 ただひたすら言いたいことを言って、ひたすらソラを痛がらせ、精を出すとさも大仕事をしてやったというふうに、ソラに慰労の態度を求める始末だった。
 ソラには分からなかった。本当にこういうものなのか。ゾンネンが言うとおりに『育たない』自分がいけないのか。いつまでも痛がっているばかりで、感謝の念のない自分がいけないのか。ただただ体内を虐待され汚されている感じしか受けない自分は変なのか。それが嫌でしょうがない自分は、女として欠陥なのか。
 まったく分からなかった。
 結婚から数日して、月経が来た。いつもよりも早かった。
 まず、ほっとした。数日間は、ゾンネンと寝ないで済む。
 次にぞっとした。
 月経が来たと言うことは、妊娠しなかったということだ。子供を授からない限り、この義務は続くのだ。
 ちょっと気分が悪くなった。
 果てしない泥沼に踏み入れてしまって、もう戻るに戻れないような。
 極めつけに、その月経がひどく重かったので、ソラは参ってしまった。
 これまで大体規則正しく、出血量も一定であったのに、今回は何故か、ひどかった。彼女は貧血を起こし、何度か家事の最中に横にならなければならなかった。
 それも、姑の感知するところではなかった。彼女はソラに何らの言葉もかけなかった。血の薄い、具合の悪さの中でソラはうっすらと思うのだ。
 あの人も同じ道を行く人のはずなのに。
 どうして仲間のように接してくれないのだろう。
 どうして私の痛みや出血をないことにするのだろう。それとも私は、甘えているのだろうか。
 あのお店で際限なくサボっていた、女の子たちのように?
 その月経がようやく終わった頃、またソラを茫然とさせる事が起きた。
 ゾンネンがソラを寝床に引き入れながら言ったのである。
「終わったんだろ? おふくろが言ってたぜ」




 女の幸せ。結婚?
 女の幸せ?
 私は体のつくりがおかしいのか?
 確かにゾンネンは、胸が貧弱だの、感じが悪いだの、お前おかしいんじゃないかだの、言う。
 ふつうの女はこんなじゃないぞ、と、言う。
 もっと感じるものだぞ。
 世界中の女の子たちはもっと簡単に夫と性交してもっと簡単に幸福になっているのだろうか。
 私がいけないのだろうか。せっかく、ゾンネンが『教育』してくれようとしているのに、こんなに痛くて辛くて屈辱的な思いしかしないのも、私の考えが悪いからなのだろうか。

 だってそうでなくては理屈に合わないではないか。
 みんなが寄ってたかって結婚を勧める。母親も、祖母も。
 姑はまったく私の痛みに無頓着で、当たり前のように行為させようとする。
 いかにそれが子供を作る行為であるとしても、そんなにしんどくつらいことを、女たちが同じ女たちに諸手を挙げて薦めるなんて、そんなことがあるだろうか。
 あるはずが――
 あるはずが、ない。



 ソラは、多くの女たちが娘を無学のままに留め置くことにこだわっていることを忘れていた。
 或いは、一時的に、冷静に考えることが出来なくなっていた。
 彼女は自分を疑い、あまりにためらいなく繰り返されるゾンネンの不可解な言葉にも翻弄されて混乱していた。
 分からない、分からないと思いながら、日々の雑事に追われるうちに、いつの間にか、一月が過ぎていた。
 祖母が風邪を引いたと言う知らせがあったので、町長の許可を得て、一日実家に戻り、見舞いに行くことになった。
 実家に一泊してくることが許可された時、ソラの胸にまず去来したのは、『よかった、その晩は体を休められる』という思いだった。
 朝、身支度を整えて玄関へ向かっていると、客間に若い客が数人来ていた。ゾンネンを待っているらしい。ドアが開いていたので彼らの話し声が廊下へ流れてきた。
「今夜奥さん不在らしいよ」
「お、そうなのか。じゃあ、久々に遊びに行くか? 誘ってみようか」
「いいね。ほら、あれ以来だもんね。あいつさ、練習するって言って……」
「結婚決まった後で通い詰めたもんな。もう張り切っちゃって。面白かったよな」
 ソラが通りかかって、戸口から中を見ると、彼女も顔を知っている、夫の友人たちだった。何しろ狭い町内だから大概は子供時代からの知り合いだ。妻帯者が多い。
「よっ、ソラ!」
「おー、雰囲気変わったじゃん。やっぱ、女になったよね」
 彼らは全く悪気なく、寧ろ、仲間でも迎えてくれるような気さくさで声をかけてくれた。
「なあ? いい感じになったよな?」
「うん、色っぽくなった」
「今日はお見舞いだって? 今度一緒に飲もうよ。みんなで一緒にさ!」



 様々な思いが砕け散った石畳のかけらのように頭を占めてソラはなにかぼうっとしてしまう。
 怒りではない。
 ただの認識で、例えば、あれほど無視され続けてきた自分が、ゾンネンの妻という立場になった途端に彼らに対して目に見えるものになって、しかもまるでなにかの約束を達成したかのように、優しく彼らの酒宴に加えてもらえるんだな、ということ。
 或いは、そうか。ゾンネンは、結婚前にどこか、そういう場所に行って、『練習』をしたんだな、ということ。それであんなに、説教くさいと言うか、指導者の立場に立ちたがるのだ。
 女は、何も知らない状態でそこへ行かねばならないのに。
 それは一緒ではないな。対等ではないな。この二つの間には、対称性がないな。ということ。
 それら一つ一つの認識が、軽石のように意識の中で泡を出して、ソラの頭をぼうっとさせる。町長の家を出る。外はすっかり春で、天は青く、空気は清浄だ。
 ソラは何か解放されたような気もしたけれど、ここですべてを忘れて幸福になってしまえばいいとも思ったけれど。
 そうもできなかった。
 動くたびに、下腹が痛んだからだ。
 ぼんやりと、町へと踏み出し、祖母の宅へと、向かった。




 ところで、ハン・リ・ルクスは、他人に性的関心を向けない人間であったため、かえって猥褻な小説だって楽々と読むことが出来た。彼はそれを読んで勉強した。普通の、多くの男たちがどんなふうに対象に欲望するのかを。
 どれも気楽なものだった。いいことしか書いていない。そこには性病もなく倦怠も際限もない。どちらの身体もいつでも準備万端整っており、条件さえ満たせば絶対に男が勝利する。
 その夢の小説たちは、男の能力によって女は調教したり奴隷にしたり出来ると囁いていた。
 その万能者の囁きを、ハンはかつて学問の分野で聞いたことがある。
 それだからか、彼は思った。
「こういうこと、考えてそうだな。イラカさんとかは」




 寝台に静かに横たわる祖母を見た時、あまりに急に老け込んだように思われて、ソラは心中びっくりした。
 だが、もちろん、それを表に出さないようにして、帽子を取り、挨拶する。
 横たわる祖母は、目を上げ、これまで見たこともないような弱々しい微笑を浮かべ、ソラを迎えた。
「――あらまあ……、わざわざすみませんね。ちょっと疲れが出ただけなのよ。あなたの婚礼の準備で、張り切りすぎてしまったのね。あたしも年だから、しようがないわ」
 言う通り、なんだか、白髪までがどっと増えた気がする。ソラは心配になり、とても自分の悩みの相談などを出来る雰囲気ではなかった。
「どうかしら? うまくやっている?」
 そう尋ねられたら、嘘であっても、
「はい。おかげさまで。ありがとうございます」
としか言えなかった。
「……そう。よかったわ。きっとじきに、町長からももっと色んな話があなたにあるでしょう。それに、あたしもね、あなたに色んな財産を残しますから、それまでよく勉強していらっしゃい。あなたはそうでなくても、してるでしょうけどね。どう? 中に入るといろんなことが分かって、面白いでしょう」
 こういう話をしていると、祖母の表情も戻ってきた。
 彼女はそれから一時間近くも、町の経済についてソラに語って聞かせた。
 やや、とりとめもない感じはあったものの、内容は筋が通っており、彼女が様々な苦労を経て財産を築いてきた女傑であることを改めて思い起こさせるものだった。
「そこへ行くとあの人はねぇ……。本当に、商売が下手な人で……」
「誰ですか?」
「…………」
 どうやらそれは、祖母の夫。ソラは会ったこともない祖父のことらしかった。
 祖母はなにやら苦々しい表情のまま瞼を閉じ、眠り込んでしまった。薬湯が効いているのかもしれない。
 ソラは静かに立ち上がって、番をしている親類に会釈し、実家へ戻った。




 そうだ。祖母はああいう人だ。女でありながら、当主として男顔負けに商売に明け暮れ、一族を養い拡張してきた。
 夫は早くに亡くなり、出産の記憶もはるかに遠い。
 だから、孫に何も言わなかったのだろうし、考えてみたらそれでも当然だ。
 祖母と自分しかいないわけではないのだから。
 その間には、母親がいる。
 母親は何故自分に何も言わなかったのだろう。――父親とはうまく行ったから?
 実家に戻った彼女は、夜も更けた頃、何かそわそわしている母親を捕まえて聞いてみた。素直に相談した。
 夫との行為が、痛い。そういうことはなかったかと。
 母親は居心地が悪そうに、椅子の上で身をよじりながら言った。
「文句を言っては駄目よ」
 ソラは、自分の母は、支配的な祖母に従順な、寧ろ普通な人で、悪い人間ではないと思ってきた。が、この時、彼女はただ、仕事を他人任せにすることに抵抗がない人なのだと言うことが分かった。
「そういうものなのだから」
「え。じゃあ、他の人も、痛かったりするの? 私だけじゃないの?」
「みんな大抵そうなのじゃない? よくは知らないけど。軟膏が売っているわよ」
「――そんなものがあるの?! どうして、教えてくれなかったの?!」
 母親は迷惑そうな顔をした。難問を押し付けられて不満げだった。
「だって、秘密にするものなのよ、そういうのは。今教えてあげたんだから、いいでしょう」
「――わ、私は、最初の晩……!」
 ソラは、恥ずかしさと、怒りで、顔を真っ赤にし、しどろもどろになりながら訴えた。
「ものすごく痛くて、血もすごく出たのよ。何も知らなかったから、びっくりして、一晩中寝られなかった。教えておいてくれたら、対策もできたし、あんなみじめな思いをしないで済んだのに」
「あなたは根っからひねくれているからそういう考え方をするのよね」
 母親は不愉快げにため息を吐いた。
「その痛みは処女の証よ。寧ろ、自分がそれを保っていられたことをみんなに感謝したらどうなの。自分だけは楽に済まそうというの? 世の中の女性はみんなそれを乗り越えて来たのよ。処女喪失の痛みと、出産の痛みは、女が引き受けるべき義務で、誉れです。それくらいのことは、おばあさまがお話になっていると思ったのに……。とんだ期待外れね」



 私たちは苦しんだ。
 お前も苦しめ。



 そうか。そういうことなのか。
 ソラは、その言い草に怒ったり呆れたりするより先に、すとんと腑に落ちるものがあった。
 あの晩、ソラの苦境を見つけながら、ものも言わなかった姑。
 慰めてなどやるものか。私だって。
 慰めてなどもらえなかった。
 娘を無知蒙昧なまま育てて、みすみす、ひどい目に遭うのを黙認する。
 ソラは世界に張り巡らされた女たちの復讐の糸が、耳の上をかすめたのを感じた。
 彼女らはきっと、出産の時も死ぬほど苦しめというのだろう。
 それが、女の喜び、女の勲章だからと。





(つづく)
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