「どうだよ、ゾンネン。うまいこと轡はめて操れてるのか?」
「当たり前だ。女なんかに舐められてたまるか」
「そうか? カノジョ、利口そうだからな。油断してると尻に敷かれるぞ。お前より成績もよかったって話じゃないか」
「――誰がいつそんなことを言ったんだよ。そんなわけないだろ。俺は町長の息子だぞ!」
「まあまあ。こいつが言いたいのは、女は俺らが思ってるより知恵が回る場合もあるってことさ。ましてソラはあの鬼ばあさまの孫娘だろ。ちゃんと首輪つけて管理しておかないと、手を噛まれるのはお前だぜってことさ。友情だよ」
「そうそう。どうだ。毎日かわいがってやってるのか? ちっとは楽しませてやってるのかよ? お前、下手そうだからなあ」
「そういやアレもあんまり大きくないって、あの店の子が言ってたっけ」
「――してるよ! 毎日教え込んでやってるさ。あの頭の悪い女にな。誰が主人なのか!」
「おう、そうか! それなら大丈夫だ。そうしないと駄目だ。誰が自分の所有主なのか、毎日教えるし復唱させるんだ。躾みたいなもんだよな。そしたら女はお前を主人と認め、お前に逆らわなくなる。男は強くなくちゃいけない。威厳がなくちゃ駄目だ。女房の管理に失敗するような男は、みんなに笑われるし信頼されないぜ。女一人も、調練できないんじゃな」
「……どうしたらいい?」
「大丈夫だって、このまま続けるんだよ。毎日種付けしてやれ。そんでガキの一人も孕ませろ。そしたらお前もやっと一人前だ。こいつを見ろよ。この年でもう三人も産ませてるんだぜ。最高だよ。で、今期からは小学校で主任だ。みんなそういうところちゃんと見てるからな。お前がちゃんとした男がどうか」
「こいつだって、結婚してあっという間に長男作ったんだ。立派だよ。俺んところは女房が続けて女ばっか産みやがって。こないだやっと息子を産んだんで許してやったよ。確かに男はまず孕ませられるかどうかだよな。それから稼げるかどうか。愛人持ってるやつがすごいのは、その両方満たしてるからだな。そのためには、俺ももうちょっと出世しないと」
「ガキ……、出世……」
「十年後には俺ら、笑い合おうぜ。最高の男達としてな。……でもひょっとしたら、その時には誰か脱落しちゃったりしてな?」
「ははは」
「…………」
「お互いに、互いを失望させるようなことはナシにしような? せっかく俺らの仲間に入れてやったんだから。なあ、ゾンネン」








 ソラはぼうっとしていた。
 お遣いで家から出て、商家の立ち並ぶ町の広場にやってきていたが、なんだかやけに買い物かごも重い。
 足が地についておらず、体が縦にふわふわする。天には真っ白い太陽が照り映えていて、今日は春にしても暑いくらいだ。
 体が痛い。
 体の中心に、消えない不快感がある。
 一体どこが原因なのか、ソラにはとっくに分かっていた。というより、最近ではこの痛みがない日は月経中くらいのことなのだ。
 知る限りの鎮痛作用のある薬湯も飲んでいる。軟膏も買った。しかし、薬効は芳しくなかった。
 ソラは毎晩、ゾンネンに痛めつけられ、自分を見失いつつあった。ゾンネンは何故か行為の最中ずっと自分を罵っている。ソラが悪いから、「うまくいかない」のだと言っている。
 彼は父親の仕事を手伝っているのだが、何か嫌なことがあったり失敗をした時に、より一層不機嫌で乱暴になることにいくらソラでも気づいていた。
 これまでの、ソラなら。その不当さをなじり、やめろと言えたのだろうか。
 ソラは今となっては、苦痛を避けるためにゾンネンの顔色を伺い、なだめるのに手いっぱいになっていた。
 本当にものでも扱うかのように残酷で乱暴になることがあるのだ。
 その時のソラの痛みは思い出しても体が震えるほどだ。
 ソラはくたびれ果て、消耗し、体を痛めて、昼も茫然としている。茫然としているせいで、時々思いもよらない失敗をする。使用人の前で、義母に怒られる。ゾンネンに怒られる。気分が落ち込み、自分は何一つまともにできないと思う。
 そしてまた夜が来て、粘膜を痛めつけられ、文句を言われる。
 この機械のような繰り返しに、ソラは完全に足を取られて巻き込まれてしまった。
 これまで自分が築いてきた経験や、教養、知識はなんの意味もないものになった。
 自分は世界一無力で、世にそぐわず、孤立無援で役立たずな気がした。
 彼女は今、体の芯から全身に影響を及ぼす痛みを意識の中にぼんやりと散らしながら、何か不格好に、かんかん照りの昼間の町を歩いている。
 誰が、この人間を見て、かつて学問界の英雄と渡り合ったこともある人間だと思うだろう。シギヤに会い、アルススをこの目で見た稀有な人間だと思うだろう。
 彼女はただ地味で、暗く、冴えない衣服を着た、憐れな田舎町の女である。



 ソラは、よろめく自分の身体をかばいながら、広場にある木のベンチに座った。
 木陰に入り、いつの間にかびっしりと汗の浮いていた額を、ほんの少し涼しい風が通ってゆく。
 ――どうして、ゾンネンは、もう少し自分をまともに扱ってくれないのだろうか。
 重たい買い物かごを脇に置いて、知らず長いため息を吐き出した後、ソラの空っぽの頭に、その疑問が姿を見せた。
 これは、家を離れたことによる効果だった。義母や使用人たちの注意から逃れてやっと、ほんの少し頭が働き始める。
 ――どうしてだろうか。私が頭が悪いからだろうか。ゾンネンが言うように。馬鹿だからか。
 或いは、喜ばないからだろうか。苦しい顔ばかりしているからか。
 見た目が美しくないからか。女として、かわいげがないからか。
 どうしたら、もっと優しくしてくれるんだろうか。……でも最近は、毎日ご機嫌をとってばかりいる……。
 義母はゾンネンの機嫌をなだめるのが本当にうまい。猫撫で声で彼を甘やかす。
 ずっと、ああやってきたんだろう。私もそれを学べばいいのだろうか。そういうことだ。
 ……でも、一体、何故、そうしなければならないのだろうか。
 (考えるな)
 だって、私は、ゾンネンの母親になったのではない。
 (考えるな。考えると不幸になる)
 私はゾンネンの配偶者になったはずなのに、赤ちゃんの面倒を見るように彼をなだめすかさなければならないのか? どうして?
 (考えるな。従え。従えば不幸は止まる。暴力は収まる)
 そういえばゾンネンは一人では何もできない。彼は言う。「めし」「ふく」「ふろ」そして――――
 ソラは、彼が「来い」という時の声をもう覚えてしまっていた。手首をつかまれる時のあの恐怖が蘇って胸が迫る。木陰にいると言うのに、また汗が滲み出す。
 思考を懸命にぼやかし、切羽詰まる呼気を逃す。
 (考えるな。大丈夫だ。考えるな)
 ズキンと、足の間に痛みが走る。
 ああ――。
 危機にある気がする。
 私は本当に、大丈夫なんだろうか。



 ふと、身近に微かな気配を感じ取って、ソラは目を上げた。
 そして次の瞬間、息をのんで全身を硬直させる。
「!!」
 ものすごい至近距離で、自分の顔を覗き込んでいる者がいたのだ。
 あまりに近すぎて、相手の顔が顔として認識できないくらいだった。
 反射で身を引いたために背中がベンチの背もたれに押し付けられる。
 ……お。
 女だ。
 ――目をまんまるく見開いた、化粧気のまるでない。
 端的に言えば、気のふれた、額に深い深い皺の跡の残る、女性だった。
 彼女は、いつの間にかソラの前に立って、上体を極端に倒して自分の顔を彼女の顔の間近に突き出し、目を覗き込んでいたのだった。
 ぼうっとしていたためか、ソラは接近にまるで気づかなかった。
 女性の顔にかかる乱れた髪の毛は白髪がちだった。けれど、全体の感じはまだ、そこまで年寄りとも見えない。
 呼吸はしているのだろうに、まるでその気配もない。
 音もない。
 ソラが、動くこともできずに固まっていると、この事態を見つけた年配の女性が飛んできた。どこかの侍女らしき出で立ちだ。
「――奥様! だめですよ、こちらに! ごめんなさいね、お若い方!」
 女性は、腕を引かれると逆らいもしないで、身を引いた。でもそれも妙に直線的な動きで、無言なのが普通でなかった。
 彼女が体一つ分離れたその時、ソラはやっと、それが誰だか思い出せた。
 ――十年前に、東部の最大の所領主の家に嫁いだ、女性だ。
 公然の醜聞になっていた。
 若く美しかった彼女は古い家の中に入って、『病気』になったのだ。



 さすがに周囲の人間が、何事かと足を止めてこちらに目を向けていた。
 年配の女性は恥ずかしそうに、そそくさと連れを誘導してあっという間に広場から消えてしまった。
 商家の前に立つ人たちや、連れだって歩いていた人たちが、口元を緩め噂をしあう。
 ごそごそと、それらが遠くに聞こえる中で、ソラはまだベンチで呆然としていた。
「…………」
 彼女はある種の、衝撃を受けていた。
 言葉になる前だったが、分かっていた。青ざめるくらいには、分かっていた。
 それはいつかじぶんも、ああなりえるという、予感めいた衝撃だった。
「……ソラ」
 今度は名前を呼ばれた。やわらかい声だ。
 恐ろしい予想に半ば意識を引きずられながら、無言でそちらを見ると、そこに、きちんとした格好の、フルカが立っていた。
 なんだか、一年も会っていなかった気がする。
「フル……」
 言いかけた自分の名前が終わらぬうちに、彼女はソラの買い物かごを取り、それから彼女の手を取って、引っ張った。
「こっちへ。さあ」



 ソラは、あっという間にフルカの家に連れて行かれた。
 家には人がいなかった。
 彼女の部屋に入った途端、ソラはフルカに両腕でがばりと抱きしめられた。
 フルカはおしゃれで、いいのだが、難点はこうした時帽子がひっかかることだ。
 それでも、それは、ソラにとって、とんでもなく信じられないほど温かい抱擁だった。
 今、彼女が一番必要としているものだった。
 なんだか、少女時代に、戻って行くようなめまいがする。
「ソラ――ソラ! ……なんてひどいの。なんて憔悴してるの?! あたしが思った通りの結果じゃないの! 知らないわよ。おばあさまのことなんか! ソラ、あたしの仲間、あたしの友達!」
「……わたし……」
 ソラは、自分でも、困惑を感じながら、彼女の肩に手を置き、言った。
「……わたし、おかしくなっちゃったかなあ……。嬉しいのに。……涙も、出ないよ」
 するとフルカは身を離し、強いまなざしで彼女を見据えた。フルカも、泣いてはいなかった。
「いいのよ。あたしたちは、不幸を泣いて慰め合うしかない女の子じゃないんだから。涙なんかいらないわ。ただ、話し合いましょう。そして、知恵を出し合いましょう。
 ゾンネンがどんなだか予想がつくし、聞いてもいるわ。ソラ、このままじゃだめよ。我慢して我慢して、結句さっきの奥様みたいになってしまう! 人生を台無しにされてしまう!」
「……まだ、友達で、いてくれるの? 私……、あなたの期待を、裏切ったのに……」
 フルカはまたつま先立ちで両腕を回し、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「あたしだって勝手な真似してソラを無駄に振り回した。でもソラ、そんなの後で考えよう! 今は、すぐに、あなたのつらい状況をなんとかしないといけない!」
 ソラはぐらりとなった。
 フルカに抱き留められていなかったら、体の平衡を失っていたかもしれない。
「……私……。――つらい、のかなあ……」
 フルカは彼女を抱いたままはっきりした口調で言った。
「自分の体を好き勝手にされるのは、つらいことよ。乱暴で苦痛を生む行為を強制されるのはつらいことよ。それを、女の仕事だとか、女の義務だとか、そんな言葉でごまかされてまともに取り合ってもらえないことも、本当に本当につらいことよ!
 ――ソラ、あたしの言うこと、外れてる? あなたがされていることってそれじゃないの? どうして未婚のあたしがその感じを知ってるかっていうとね、たくさんの女の子が、同じように、苦しんでいるからよ。あたしはそれを聞いているの。
 ありきたりなことなの。東部では特にそうなの。そしてあたしはそれを、何とか少なくしたいと思っているのよ」





 一時間ほどして、ソラは買い物かごを持って家に戻った。
 義母に遅かったわね、と言われて、ちょっと会話につかまってしまって、と、嘘の言い訳をした。
「具合が悪いので、休んでいてもいいですか。夕ご飯はいりません」
「あら、じゃ台所仕事を私たちにやらせるつもりなの?」
 ソラは、『鬼婆』に、フルカの用意してくれた言葉を使った。
「『つわりかもしれません』」
「……」
 その途端、魔法にでもかかったかのように義母は無言になり、ソラは一晩の休みを獲得することが出来た。
 こんなズルは、ソラは学校時代にもしたことがなかった。そう言うと、『真面目ね』と、フルカは苦笑いしたものだ。
 自分の部屋に入って、すぐ扉の鍵をかけた。
 ソラの部屋は北向きで暗くて狭い。それでも、ほっとした。やっと自分の領域に杭を立てられた気がした。
 灯りは入れないまま、自分用の寝台に衣服のまま、横たわった。
 じいんと、滲むように疲労が全身を駆けまわった後、静かに下へ落ちていく。
 頭の中に、フルカの言葉が蘇る。
『――幻想は、さっぱり捨てたほうがいいよ。男達はまずね、自分が何をやってるか気づいていない場合が多いの。口では何というか分からない。でも、現実の結果がすべてだと思って。
 あのね、男は基本的に、まずこう思っているらしいの。女について、すべてを知っているのは、男だって。女の喜びは、男が教えてやるものだって。だから彼らの想定する結婚はこう。処女の無垢な何も知らない奥さんをもらって、それを自分のお好みの女に『育てる』のよ。そうでなければ彼らにとっては邪道なの。
 ――でも、こんなのおかしな話でしょ。男が、女の身体の何を知ってるの? どうやって知るの? 知れるわけがないでしょ? 女は、男の身体のすべてを知っているなんてまさか思わないよ。別の性なんだもの。ところが男は、女の性は男に所属するものだと思っている。だから自分が想定する以外に、『女の性』なんてない、って思い込んでる。
 東部の母親たちは、娘に性について何も言わない。その理由は簡単で、その方が、いい条件で結婚が出来るからよ。男達は相手が何も知らないのが当たり前だと思っているんだもの。そうでない女の子がもしいたらね――あたしみたいに、あばずれ、と言われるの。
 そんな不釣り合いな状態で結婚をするから、女の子がひどい目に遭う。男は知るはずもない知識を真実だと思い込んで女の子を無茶に扱う。でも、女の子はそれが苦しくてやめて欲しくても、対抗する知識がないの。どのように変えてもらったらいいか分からないの。だって、女の子自身もまた、自分の身体がどうすれば心地よくなるか、知らないんだもの』
 ソラは、闇の中で衣服のポケットを探った。
 衣擦れの音の末に、指が、手のひら大の瓶を取り出す。
『――あたしが相談を受けた女の子達の配偶者は、全員が、行為の前になにもしてなかった。全員が、なにも。体を愛撫したり、女性の身体を調べて準備が出来ているかどうか確かめることもしない。そんな状態で無理に交接するから、当たり前に女の子は膣を痛める。少しも楽しかないわ。痛いだけよ。だから次もその痛みを思い出して気持ちが落ち込む。体がガチガチになる。親に言ってもそういうものだと言われる。子を産むためなんだから、我慢しろって。
 幻想は捨てて。男も親も何とかしてくれないなら、自分でなんとかするしかないわ。自分で自分の性を育てるの。自分がどうするのが心地よいかを、勉強しなくては駄目なのよ。
 ――東部じゃ、こういうの、ふしだらって言われる。あたしは夢魔の手先かもね。でもね、ンマロでは、もう当たり前のことなのよ。例えば『銀のマオ』のお姉様達は、みんなこういう瓶を持ってる。ここには、専門の調合師が作った潤滑液が入っていて、好みで香りをつけてある場合もある。行為の前に、これを隠しどころに使うと粘膜への負担が減るの。負担が減るとね、楽しさがずっと増すのよ。
 それとね、これが大事なんだけど、普段から、この液を使って、自分を探っておくの。まず一人になって、完全に一人になって、部屋を暗くしてね、集中するの。それから一番自分が心地よくなれそうな状況を、想像するの。とてもたくさん。繰り返し。相手の男の人も、自分が一番熱くなれそうな人を想像するの。夫じゃなくてもいいとあたしは思う。自分のことよく分かるようになったら、想像の相手を夫にすればいいだけじゃない。初めはとにかく、頭に浮かぶまま、否定しないのが一番だと思うわ。ふしだら上等よ。
 そして、気持ちがよくなって来たら、この液を指につけて、そっと自分で触ってみて。自分の身体だから、乱暴になんてしないでしょ。ゆっくり時間をかけて、いい場所を探して。そして、自分が十分と思うまで、自分をもてなしてみて。
 これを繰り返しておくとね、少しずつ自分のことが分かって来るの。そして、夫の行為の何が不満で、どこが足りないのか、どう直してもらったいいかも分かって来る。少なくとも、混乱はしなくなるわ。夫が『これが正解だ』と言ってぶつけてくる暴力から、自分の体と気持ちを守ることができるようになる。
 ねえ、あたしをとんでもないことを教えると非難する人もいるでしょう。でも、ンマロでは当たり前だし、無知に押しつぶされて病んだ人間を作るよりも千倍もマシじゃない? 女の性はふたつあるのよ。男が押し付けてくる性と、自分が育てる性。それを融合させる技術なのだから、ぜったいに有益よ。あたしはそう思ってる。
 ソラ。あなたは結婚を選んだ。ゾンネンの石頭は治るかどうか分からないし、簡単には逃げられないわ。だったら、強く賢くならなくてはだめ。ちょっとした方便を使っても、自分を確保するの。乱暴ででたらめな思い込みを使って自分を侵そうとしてくるものから、自分を守るの。それは、やっていいことよ。絶対にやっていいことなのよ。つらければつらいだけ偉いなんて、ちっともまともな考えじゃないよ。
 もうすぐ、ソイにあたしの店が出来る。瓶が空になってしまったら、そこへ来て。ンマロからとっておきの品を、たくさん揃えておくから。ちなみにこれは、そこらで売ってるような古臭い軟膏とは違うからね。あれはほとんど効果がないし、かえってかぶれたりするの。――学者さんが協力してちゃんと実験の末に作られた、体に無害なものよ」



 ソラは暗闇の中で目をつぶり、ためしに想像しようとした。自分が気分よくなりうる状態を。
 ただ、簡単ではなかった。彼女はあまり、そういう素養がない。数少ない、これまでに読んだ恋愛小説の情景などを思い出そうと、四苦八苦する。
 うまく行かないので、自分が知る唯一の性交渉の相手を引っ張り出すしかなかった。夫ゾンネンだ。
 彼が一体どうしてくれれば、自分は安心して心地よくなれるだろうか。別に彼は不潔であったりはしない。
 ただまずは、優しくしてほしい――彼女は考えるだけで照れて顔が赤くなった。こんなのは無理だろう。まるで色男の振る舞いだろうが、最初はせめて体を抱きしめてもらいたい。
 いつもはもう、本当に真っ先に膝を割りにくるので、嫌で嫌でしょうがない。
 口を吸ってもらうのもいいかもしれない。夫婦でも、それくらいはしてもいい。
 全体に礼儀正しく。自分を丁寧に取り扱ってもらいたい。
 髪を指で梳いてもらいたい。だってやわらかい指の腹で生え際をくすぐられると、何とも言えない気持ちがするものだから。


 ソラはそれから、長い時間をかけて、なんとか少しずつ自分を高めていった。
 『つわりかもしれない』という言葉が効いて、誰も彼女の邪魔をする者はなく、ゾンネンもやってこなかった。
 たどたどしい自助の果てに、甘い香りのするとろりとした液をつけた指で、いつも痛めつけられている自分の性器のあたりを、そろそろと触る。
 昔から、何か不思議な感覚を呼び起こすなと、おぼろげに知っている場所があるにはあった。ゾンネンはそこは全く知らないみたいで、これまで触られたことはない――。
 正解なのか、なにかしら見当違いの滑稽なことをやっているのか。
 疑いながらも、ソラは目を閉じて、それを続けてみた。
 相手は、ゾンネンのことを想定していたはずだが、いつの間にかそれは違う気配をまとい始めた。
 おかしい……。一体これは 誰だろう?
 優しく、背中から抱きかかえるようにして、上手に、過不足なく自分を愛撫してくれるこの人は、誰だっただろう――
 彼では――イラカでは、ない。もちろんハンでも……ない。
 ――



 どれくらい経った頃だったのか。よろめくように行き場を探していたソラの指の動きは、ついにある見えない限界へと彼女を急に押し上げ、前触れもなく音もない、小さな爆発を引き起こした。
 ソラは全く備えておらず、気が付いた時にはもう体が縦に大きく跳ね上がって瞼の裏が白くなってしまっていた。
 彼女は魚のような痙攣を経て、やがて、弛緩した。
 想像の『相手』は、その瞬間もソラの身体を服ごとがっしりと抱きしめ支えていてくれた。
 呼吸が乱れているのが嘘みたいだと思った。走ったわけでもないのに。辛くなく、ただ、心地よかっただけなのに――。
 それから、彼女は、自分が泣き始めているのに気づいた。
 弛緩の瞬間、分かったのだ。自分が想定したその理想の相手が、カイデン・ライカス・ネコであることに。


 彼女は彼に恋していたのだ。




(つづく)
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