問題を解決するためには、賢く強くなる以外に方法はない。




 洋上の書院から回収された、古い書物の見開きに書かれたインクの文字を、ゆっくりと、ゆっくりと、指の腹でなぞる。
 若い頃の筆ではないかと思われた。
 不思議なことだ。これ以上、彼が年を取ることはなく、いつかはその遺物たちを自分の年齢が追い越していくというのは。自分よりも若い頃の偉人に、遺物を通して会うことができるというのは。
 力強く確信に満ちた、魅力的な筆跡だった。書いてあることも、負けず劣らず、魅力的だった。
 イル・カフカス・イラカは、たまらず舌を鳴らして、目を閉じる。

 ――死んだ時は、太ったおっさんだったがなあ。まあ確かに、格好よかったけれども。
 それにしてもソラは、よく惚れなかったもんだ。


 冷えた机に一人座って腕組みをし、目を伏せるイラカの耳に、隣の部屋からの言い争いの声が届く。
 それは激しい激しいもので、融和はおろか、長く継続されること自体、不可能だと知れるものだった。
 以前より、学院再生委員会は立場の違いや様々な事案に対する意見の違いで対立が深まっていた。それが、今まさに、隣室で空中分解しようとしている。
 問題を解決するためには。
 ――解決するためには。
 イラカは彼のその言葉を目の奥で咀嚼しながら、隣で人の輪が砕かれ、乾いた粘土のように解体していくさまを、聞き届けているのだった。




+




 馬鹿げた短いずる休みを得たその日から、ソラは、落ち着いた。
 人の眼から変化が見えるかどうかは分からないし、関係ない。とにかく彼女自身は落ち着いて、周囲の人間達から少しずつ距離を取り、自分を保つことが出来るようになった。
 落ち着いてみると、自分が何故翻弄され取り乱していたかも分かった。
 無知だったからだ。
 しかも、東部の生き方に馴染もうとするあまり、『無知でなければ幸福になれない』という東部の無茶な考え方に、自分を押し込もうとしていたからだ。
 大人の女たちが誰も事態の処し方を教えてくれないのは、流されること、受け入れることだけが方法のすべてだと彼女たちが思っているからだ。逆に彼女らは、そうしない若輩のことを、忍耐がない、教育がなっていないと、胸中で辛い点をつける。
 これに挟まれたら、後は、天に祈ってつらい事態が幸運にも解消されるのを待つほかない。占い師が儲かるわけである。
 ソラも愚かだった。
 一度でも、学問に触れた人間が――いかにその行きつく先に衝撃を受け、学問不信に陥ったからと言って――、無知が問題を解決するなどという思想の服を着こんでその仲間に入れるわけがない。
 なれないものになろうとしていた。
 必死に。
 全ての可能性を自分で閉じて。
 その理由も、今やソラには分かっていた。
 彼女は逃げなければならなかったのだ。不毛の愛着から。
 ソラは、知らなかった。脳以外に、肉体も夢を見るということを。身体的な愛が有り得るのだということを。
 あの手が自分を海から引き揚げた時。白く、肉感的な指がソラの髪を触り、生え際を撫ぜた時。大きな体が自分の傍に近寄り、そして離れて行く時、その夢の種は蒔かれていて、時期が来ると発芽するのだ。
 どれほど不毛でも。誰にも歓迎されなくとも。
 シギヤの恵みはあまねくわたり、条件が揃えば勝手にひらくのだ。
 ソラは、それを、感じていたのか、知っていたのか。
 とにかくそれは、あまりにもつらい過去の一部として、思い出すと顔が歪む崩落の記憶に混ぜ合わされ、隠されていた。
 だから彼女は恐怖だけではなく後ろめたさをも感じ、けっして過去には戻れないと思い込まねばならなかったのだ。
 今にしても、これが水をやり、手間をかけて育むべき愛情であるとは考えない。
 肉体の見た午睡の間の夢のようなものだと思う。
 けれど、その自覚は、ソラを落ち着かせた。
 なんとなれば、それは彼女に、基準を与えたのだ。
 ソラはやっと判断することが出来た。ゾンネンは自尊心は猛々しいが、あらゆる意味で未熟で、あまりものが分かっておらず、自分自身が無知なことも知らないと。彼の自尊心は、自分よりも立場の弱いものをいじめることで満たされる、極めて幼児的なものだと。
 何故なら、今や彼女の中に、本当の大人の男というものは、どんな人間であるかという確固とした見本が出来たからだ。
 彼なら、こんなことは言わない。彼なら、そのような振る舞いはとても恥ずかしくてできないに違いない。
 本当に賢い人間は、こんなことは言わない。
 本当に自尊心がある人間というのは、このような対応は取らない。
 本当に力があって強い人間というのは、人にもその技術を渡して助けてやるものだ。
 かつての自分も、ゾンネンの強権的な態度については懐疑的なところがあったのだ。
 だが性の分野については、ソラは何も知らず、ゾンネンは自分がすべてを知っているという態度だから見抜けなかった。相手にすべて任せねばならないような気がしていたから易々と翻弄された。
 今や彼女はその点についても抵抗の基準を手にした。
 こんなのは違う。
 それは、彼女はネコと性交渉があったわけではない。けれど、あの人はこんな風にはしないに違いない。
 ゾンネンは「普通」という言葉を振り回す。それにソラは惑わされ続けてきた。
 だが、「普通」に考えて、「こうすれば感じるのが普通だぞ。感じろ」と命令する男は、おさむい男ではないだろうか?
 ――見苦しい。
 格好が悪い。
 ネコならそんな言動は自分に許さないだろう。
 もちろん、ソラがそういう認識を手に入れたからと言って、ゾンネンの行動が変わるわけではない。相変わらず、彼は母親に対して甘え放題で、家内で一人息子として振る舞い、言葉の端々でソラを馬鹿にすることで自足をし、夜は夜で妻を支配した気になってぐっすりと寝ている。
 だがソラは、もう怯えなくなった。
 自分がおかしいのかもしれない、自分が悪いのかもしれないという果てのない疑いに落ちることがなくなった。
 自分には自分の基準がある。たったそれだけのことが、彼女を正気に戻した。
 また、実際問題、フルカのくれた潤滑液はとても役に立った。ゾンネンとの行為の前に体になじませておけば、その後の負担が比べものにならないくらい軽く済むのだ。
 痛みは人の体力を奪い、精神をくじく。痛みを避ける方策を講じるのは、誰がなんと言おうと人間的な行動だ。
 ソラは自分を取り戻したのだ。
 あの大崩落以来、どこかで『自分』を捨てなければならないように思っていた。だってあの生き方をすると破滅するしかないように思われた。
 だが、破滅しようが、しまいが、彼女は自分自身でいるほかないのだ。
 それを否定しても、――どうせ破滅だ。どこに問題があるのかと言われるかもしれないが、現実に戦いはあって、依る根のない人間は、振り回されてぼろぼろになる。
 あの、狂ってしまった夫人のように。
 無垢性の一つの行きつく先として、論理的に矛盾はないが、あれだって間違いなく破滅ではないか。かわいそうなどという言葉が、一つの人生にとって何の慰めになるのか。
 強く、賢くならねばならない。
 未熟な人間達に、自分を食い物にされないために。



 少しずつ、ソラの中心に根差した基準は育って行った。
 蔓を巻く植物のように、それは彼女の人生に広がって行き、その先に持ち前の学習能力が青い葉を開きつつあった。
 ゾンネンの機嫌の上下にどう対処したらよいかも分かってきた。義母の行動の後ろに隠された攻撃性や娯楽性に気付き、相手にしないことも覚えた。
 そうした質の高いとは言えない無数の煩わしさの雲から抜けると、家内の仕事の面白さにやっと目が向き始めた。
 ソラは家事をこなすだけではなく、様々に工夫を始めた。使用人との間で必要な話し合いを行って的確な判断を下したり、無駄を省くために新しいやり方を勘案したりといった、単純に『面白い』行動をとれるようになった。
 そうして、ゾンネンはまるで気付かないうちに、義母については驚きまごついている間に、家庭内でソラの存在感が高まり始めた頃、彼女は町長から特に、居間に呼び出しを受けた。




「君が我が家にやって来て、そろそろ四か月になる」
 忙しい義父、町長とは、家に入って以来かえって顔を合わせる機会が少ないくらいだった。
 ソラの戦いの相手はもっぱら、家内の義母と使用人、そしてゾンネンだったからだ。
「最近、慣れて落ち着いてきてくれたようで、とても嬉しいよ」
 ソラは、この町長の話し方には好意を持った。
 商売の話をしているからだ。そして彼は、商売の分野においては、相手を女だからと見くびったりするような愚かな人間ではなかった。
 無論この態度には、ソラの祖母の存在がかなり影響しているだろう。
 彼は同時にフルカに学資を『援助』した男でもあるから、あまり油断もできないのだが。
「――そろそろ君にもう少し高等な仕事を割り振ってもよい頃だと思う」
 ソラは彼のその言い方に引っかかるものを感じたが、黙って続きを待った。町長は書類を取り出して、彼女の前に、彼女が読めるような向きに置く。
 一瞥で決算書類だと分かった。農地に関するものだ。
「学問を修めた女性を我が家に迎えたのには理由がある。我が家には相当の不動産がある。町の世話役を行いながら、その管理を行うのは時期にもよるが、なかなかに骨が折れることだ。しかしだからと言って、先祖伝来の土地の管理を、他家の人間に任せるわけにもいかない。そこで、君という人材を迎えたわけだ。
 ここにあるのは、すべてではない。だが、君にはここから始めてもらっていずれは――三分の一くらいの管理を、任せたいと思っている。言っていることが分かるかね」
「はい」
 ソラは多分、冷静さを装うことに失敗していただろう。
 学問好きの彼女は難題が好きなのだ。面白そうな仕事が来た! と、目が輝いていたことは間違いない。町長が笑ったからだ。安心したように。
「まあ、私が死ねば、最終的には全て管理することになるのだがね。早くからやり方を覚えてもらいたいということだ。――ソラ、済まないが、ドアを開いて、聞き耳を立てている者がいないか確認をしてくれるか」
 ソラは瞼を開いたが、言われた通りにした。
 扉を開いて廊下を見るが、誰もいない。気配もない。
 席に戻ると、町長は上体を前に倒し、自分の膝の上に両手を乗せて、前で手を組み合わせた。
「ありがとう。では、実のところを言おう。このような仕事は本来、息子のゾンネンに任せるべき仕事だ。これまでも幾度かそうしようと試みてきた。しかし、私は商売人として、彼にこうした事業を任せるのは危険だと判断せざるを得なかった。
 現世においては、父親の満足よりも実利を優先せねばならないことがしばしばある。あの子は――妻はなんというか知らないが、堅実な仕事には向いていない。今は私の仕事の手伝いをさせているが、それも役所の仕事に結果を望めなかったからだ。
 私はね、ソラ。こんなことは言いたくないが、あの子に投資したのだ。教育に金は惜しまなかった。だが、残念なことに学院は崩壊するし、彼一人の実力を当てにしていては立ち行かないことが分かった。そうなれば、後は外から誰か連れてくるほかない。
 君は今や、ゾンネンの妻であり、我が娘となった。我が家の財産を守り未来を拓くことに協力してほしい。遺憾なことだが、それは外部の荒波からというだけの意味ではない。不肖の後継ぎという内なる危険からも守ってほしいのだ。
 言っていることが分かるだろうね?」
「――」
 言っていることは分かった。
 ただ、どう反応すべきかがさすがに分からない。
 いかにソラでも、当の父親に対して、『本当にそうですね、分かりましたがんばります!』などと言ってはいけないのは分かるからだ。
「……善処致します」
 書類を集めて、そう言うしかなかった。
 町長は苦さを含めて微笑む。
「今後、折を見て君に管理方法を教えて行くから、今日のところはその書類を持って行って通読しておいてくれ。疑問点は洗い出しておいて、次に会う時に質問してほしい。
 ……申し訳ないが、妻や息子は君に対して、態度が悪くなるだろう。息子は君が実権を握ることに自尊心を傷つけられるだろうし、妻はね、君をあのおばあ様の手先だと思い込んでいて、君が我が家の財産を横領するに決まっていると考えるだろうからだ。もちろん、君は、そんなことはしないだろうね?」
「……祖母に、私の助けが必要とは思えません」
「まったくだ。孫娘なぞ使わなくても、あの人は自分の面倒は自分で見る。そして君は、そんな雰囲気に負けず、私の期待にきっと応えてくれるだろうね?」
「――善処いたします」
「ありがとう。助かるよ。本当に、私一人では、大変でね」
 町長は両手の指でぐりぐりと両のまぶたを押さえる。次に目を開けた時、不思議と一瞬、若返ったように見えた。
 この人にも若い頃があったのだ。
「……私の言うことではないかもしれないが、これで君は、ますます君のおばあ様と似た道をたどることになるね。聞いたことがあるだろうが、君のおばあ様も夫の代わりに家を守るために、嫁に迎えられたんだ。君のおじい様というのが、温室育ちで商売がお上手でなかったから」
「そうらしいですね。聞いています」
「若い頃、君のおじい様のお葬式に出たのだがね。ちょうどこのくらいの季節で、夏だった」
「はい」
「若くして亡くなられた。――肺炎を起こしていたのに、ただの夏風邪だと言い張って養生をなさらなかったために」
「はい?」
「医者がお嫌いだったらしいね。もともとお体は丈夫ではなかった。とは言え、亡くなるにはどうにも早すぎたろうが」
「…………」
 死んだ祖父がぼんくら野郎だったということは聞いていたが、まさか死因までそこまでぼんくらだったとは。
 なんというか。ほんの一端なのではという気がした。
 その結末に到るまでの間に、こじれにこじれた自尊心の引き起こす馬鹿げた騒動の記録がもっと多量に隠されていそうな気配がした。
 祖母が祖父のことを話すときの、あの諦めたような、ため息交じりの表情が思い出されてソラがなんとも言えない気分でいると、町長が言った。
「そうだ。明日、おばあ様のお見舞いに行ってきなさい。妻には言っておくから」
「……?」
 見舞い?
「一週間ほど前から、暑気に当てられて寝込んでいらっしゃる。その頃はだいぶお悪かったようだが、今は持ち直して安定していらっしゃるそうだから……。
 本人から、君には言わないでくれと言われていてね、黙っていた。悪く思わないでくれ。
 でも、もういいだろう。君がうまくやっていると聞けば、あの人も安心するはずだ。くれぐれもソラをよろしく頼むと言われているからね。ゆっくり話をしてきなさい。
 あの人にとっても君は、もう一人の自分のようなものだろうから」





 翌日、すっかり夏のものに変わった空の下を歩いて、ソラは祖母の見舞に行った。
 町長から許可されていたにも関わらず、義母は文句たらたらだったが、気にしなかった。
 彼女を支えているものは運ではなく、基準と物質だった。具体的にはネコと、潤滑液だ。
 これを人が何というかは知らない。
 ただ、暑いだけだ。
 陽炎の立ちのぼる町の道を歩きながら、ソラは、祖母もいつかこのような夏の道を通っただろうかと考えた。
 夫がいて、義父義母がいて、実家は実家で、あてにならない。
 つかの間の一人の時間。
 考えることの好きな頭脳を抱いて。担わねばならないたくさんの仕事に、心を馳せたまま。



 祖母は、元気だった。ただ、全体に弱っている感じはした。
 前も感じたことだが、老けたな、と思う。
 彼女はソラが、町長から仕事の一部を任されたことを聞くとわがことのように喜んでくれた。
 あなたにはそれが出来るとわかっていますよ、と言った。仕事をするのは、楽しいことよ。がんばりなさい。
 また来ますと約束して、ソラも微笑んだ。
 時間が少しあったので実家に帰ると、そこでは反応が真逆だった。父は当然不在で、母と少し話をしただけだが、彼女は、同じことを聞くと批難でもするかのように顔を曇らせて言うのだ。
「あなたにそんなことできるの? やめたほうがいいんじゃない? あなたにはそんなことできないでしょう? 責任が取れないでしょう? あなたにそんなことできるはずがないもの、やめなさい?」
 ソラは、天を仰いで言いたかった。



 面倒くさいな、もう!



 東部はその伝統とか勤勉とか正直とかいう外面の下に、萎縮、無知、卑屈という性質を隠して何百年も何百年続いてきたのだった。
 何故だかその文化に合わない性分を持って生まれてきてしまったソラが、ここで狂わずに生きていくためには、自分の中に基準が必要だった。
 迷いながらも、母へのいらだちに背中を押されるように押し入れに進んだ彼女は、そこに自分が置いて行った仮綴じ本の柱。そして、その上に置かれた小箱を見る。
 入れた時のままの状態だった。これらを捨てて、嫁いで四か月になるのに、幸か不幸か、東部では誰も彼女の書籍を取らなかったのだ。
 薄暗がりの中で、小箱をそっと取り、開く。
 そこには、指輪があった。
 目にするだけで過去の扉の中で記憶が膨れ上がって心が軋む。信じられないほど幸福な気配もあれば、つらい気配も、深い罪業の気配もある。
 何人もの人の生と死と愛と憎。
 そのすべてが詰まった指輪だ。
 イラカが届けてくれた。
 それ自体が、もう、収まりの悪い。
 なくてもいいじゃないか。必ずしも、手元になくてもいい。
 だってあの人のことは、肉体が勝手に見た白昼夢のようなものなのだから。不毛の種子なのだから。
 未来なんか――あるはずもない。そんなことはあってはならないし、だって実際にあり得ないのだから。


 ソラは葛藤した。
 短い間だったと思うが、実際には、十分近く葛藤していたかもしれない。
 そんなことをしてどうする。
 相変わらず理性は止めていたが、ソラはその箱を、結句、持ち物に入れて、持って帰った。同時に、上から四冊ほど仮綴じ本も取って、持って帰った。




 ソラには基準が必要だったのだ。
 天から見て、どんな名前がそこについていようとも。





(つづく)
<<戻 次>>