ソラの祖母は一人暮らしがまるで苦でない女性だった。
 実は彼女は料理や家事全般がさほど得意ではない。嫁いで後、金を稼ぐことの方を優先してきたからだ。
 彼女は家の仕事は金で買った。
 子供が小さな頃には近所の女性を雇って家事と育児を代行してもらい、衣服も他家のように自分で布を買って仕立てることはほとんどなく、既製品を買うことと惜しみなく捨てることで回して行った。
 料理も、人の手を借りることをまったく厭わなかった。ソラの父などはその実、母の手料理を食べる機会がほとんどなかったくらいだ。家では親戚の集まりがたびたび催されたが、その際の酒、料理もすべて仕出しであった。
 ソラの祖母はだから、地域の商店の大変な上得意で、どこもその注文を当てにしていた。そのためこうした目立つ生活の仕方もありがたがられこそすれ、非難されることはなかったのである。
 彼女は人の作った品物に囲まれ、人の作った料理を食べていたって気楽に暮らしていた。
 来客も多かった。生活を他人の手に明け渡した分、付き合いの範囲は広がり、縁も深くなり、かつて雇っていた女性からは未だに手作りのおかずなどが二日と空けず届く。
 噂話をしに来る同年代の奥方もあり、新しい宝飾品を売りがてら挨拶にくる馴染みの行商人もあり、届けられる贈り物や手紙のたぐいも数多い。
 その家にまったく完全に誰も訪ねてこないような日は、一日たりともなかった。
 そういった彼女の生き方が幸いした。
 いつも「作りすぎたから」と言い言い体によいおかずを運んで来ていた女性が見つけたのだ。
 居間で昏倒して動けなくなっていた彼女を。






 ソラはその日、ハライの町を取り囲む塀を越して郊外へ出ていた。
 乗合の車で途中まで行き、下車後は石で整えられてもいない土の道をてくてくと歩く。
 天気の良い日で、帽子はかぶっていたが、きらめく太陽に照らされてひどく暑かった。
 辺りは雑木林で、鳥や昆虫たちは狂ったように鳴き交わしている。時々茂みがザッと音を立てるのは多分小型の獣だろう。
 彼女は、町長に任された不動産の書類をもとに、現地の視察に来たのである。町長所有の耕作地には小作農の数家族がおり、それを取り仕切っている管理人がいて、ソラはその宅を訪ねる約束になっていた。
 現地までは20分ほども歩かねばならなかった。草と緑、焼ける空気と大地の香りが足元から煮え立つ騒がしいほどの自然の中で、ソラは、彼女が不動産管理の一部を任されたことが発覚して以来の、ここ二三日の騒動を、思い出していた。
 まず、ゾンネンは、『はあ?! お前、何を言ってるんだ?!』という反応だった。
『お前、何を言ってるんだ?! お前なんかに、そんな仕事ができるわけがないだろ?! 親父を困らせるんじゃない。身の程をわきまえろよ』
 ソラが一切応じることなく淡々と町長の命令であることを繰り返すと、三度目あたりで表情をゆがめ、
『あーあ。しらねーぞ。こんな女に任せて。どうなってもしらねーぞ』
 と、歌のように節をつけて嫌味を言った。
 彼はそれ以降、何故かおどけ始め、今朝いよいよソラが家を出るという段になると、
『あれっ? お前、外出するの? どこに行くの? えーっ?』
と、三文芝居を繰り広げる始末だった。
 それは彼の大いなる不満のねじくれた表現なわけだが、父親という絶対の権威に逆らえないため、方法が遠回しでおかしなものになるのである。
 落としどころが自分でも分からなくなった男児のような態度で、ソラは白けはしたものの、怯えはせず、放ったまま家を出てきた。
 ゾンネンの母親の方が、もっと直接的だった。彼女ははっきりと敵を見る目になって、彼女をなじったものだ。
『女は家の中を仕事を完璧にこなして、子供を産んでやっと一人前なのに、あなたはまだ何も成し遂げていないくせに目移りをして逃げようとしている。今は、使用人がいますけどね、私が来た頃は全部私がしていたのよ。あなたはこんな程度で不平不満をこぼして、本当に恥知らずの生意気ですよ! あなたのおばあ様の教育かしらね。あの人は子供に料理も作らなかったんでしょう! いえ、おばあ様はまだ子供を産んだわ。男の子を含めて四人も! あなたはなんなの。私はあなたの頃には真剣に悩んでいましたよ、まだ身ごもらないって。神様にお願いに行きました。
 それならまだ分かるけれど、なんなの! あなたは逃げようというの? 一人で家から離れて怠けようと言うんでしょう!』
 彼女に、どうやったら分かってもらえるだろう。
 世の中には、色んな生き方があって、なにもたった一つの生き方だけが正解なわけではないと。
 東部だけが世界ではなく、あなたの生き方だけが女の生き方ではない。
 多分彼女は、ソラが彼女の予想を裏切って動くと、自分の価値観を否定されているように感じるのだろう。
 でも、きっと、ソラが百分の百、彼女の命じる通りに動いても、やっぱり文句を言われるに違いない。
 彼女にしてみれば、どうしても、ソラは下でいてくれないと困るのだ。絶対的に未熟で劣っていなくてはいけないのだ。
 ところがソラはそれに応じない。だから腹を立てる。彼女の文句は全体にどこか約束が違う! と言っているかのようだ。
 ――約束。
 それはどういう約束だろうか。
 嫁は、家の中で常に萎縮して、言われた通りに何でも従い、その上、意地悪をされたり無視されたり、惨めな目に遭ってもひたすら耐える、という約束か。


 あそこでは『しんどい』とか『つらい』とか泣くことは許されるんだよ。
 でも『出ていきたい』って言うことは、御法度なの。そうじゃない?


 いつか聞いた、フルカの評が頭に蘇ってくる。
 役割を果たさないなんて、ずるい。
 私は、果たしたのに。
 そんな感じだろうか。
 ソラは、義母に、同情を覚えないでもなかった。確かに自分よりはるかに若い頃に嫁入りし、なかなか子が出来ず大きな家の家事全般を引き受けて大変ではあっただろう。
 しかしだからと言って、わざわざ自分を貶め、害することは出来ない。そんな契約を交わした覚えはない。
 私とはそんなお約束ごっこはできないのだと、分かって諦めてもらえるまで待つしかない。
 彼女はこうも言っていた。
『だから私は嫌だったのよ! 学問をした女なんて、口ばっかり生意気で常識のない!』
 確かにそれはそうかもしれない。
 彼女の広げるお芝居の世界にもっと簡単に突き落とされ付き合ってくれる、そしてつらいつらいと言って弱ってくれる女の子もいるだろう。
 だが――それは、あまり上等な趣味じゃないし、繰り返し上演されねばならないほどいかした演目とは思えない。
 百歩譲って喜劇としてならまだしも、本気で『常識』と題してしまっているのだとしたら、ソラはそれに付き合い兼ねた。
 その『常識』は楽しくない。ソラは嫁役でも姑役でも、そんな芝居には参加しない。
 決して。
 ――そうだよ。お姑さん。
 私はそういう人間です。
 申し訳ないけど、学院でもそれで、色んな騒動があってね。
 息子さんから、聞いてください。
 様々な顔が思い出されてきて、帽子の影の下で眉間に皺が寄った。
 戻っても、つらいが、けれど、それが実際に彼女を支えているものだ。
 あの指輪は、自作の小さな袋に入れて、上着の下、首から吊るしてあった。お守りだ。ソラは内でも外でも、極めて騒がしい声の中で自分を確かに保たねばならないのだから。
 さて、どれくらい歩いたか分からなくなった頃、道が二又に別れた。
 ソラはどちらに行くべきか知らなかった。しかし、それよりも、あ、と思ったのは、ちょうどその分かれ目のところに小さな古びた祠があったからだ。
 近寄って、腰を下ろし、覗き込む。
 膝に疲れが来て上体がぐらりとなり、片手をついた。
 鳥箱のように三角の屋根を持った、シギヤの、祠だった。古さの割にはちゃんと手入れされている様子で、手前には小さな木の実が供えられ、奥にはお香の灰が残っている。
 ソラは、昨夜、家から持ち出した四冊の仮綴じ本をすべて再読し終えたところだった。
 夫との行為の後、体の始末を終えた後だ。最近はいつも、終わると自分に与えられた部屋に戻って眠りに落ちるまで本を読んだ。
 面白かった。義務的な性行為などとは比べ物にならないくらい。
 もちろん、昔と同じように心のすべてをそれに預けることは出来ない。読めば読むほど、痛みもあるのだ。何故なら、その本を書いている筆者たちはあの大崩落を知らない。自分たちの探求心が、世界の破滅を呼びうるのだということを本気で意識してはいない。
 ソラはもう学問を信じ切ることはできない。それでも、実際に生きる時には、それを、よすがにしなくてはならないのだ。
 不思議に引き裂かれた気持ちだった。これが簡単には解決しないこともなんとなく分かっていた。
 これはこの状態のまま、もう少し、耐えてみなくてはいけないのだ。夫婦生活と同じように。
 自然に気持ちが降りて来て、目を閉じ、祈ろうとしてみた。
 実に久しぶりの祈りだった。
 と、その時、横合いから声がかかったのである。
「――ソラさん?」
 目を上げると、そこには穀物の茎で編んだ帽子をかぶって、丸い眼鏡を鼻に乗せたハン・リ・ルクスが、野の花を手に立っていた。




「お久しぶりです。お元気ですか! こんなところで会うなんて!」
 言いながら彼は歩み寄ってきた。ソラも立ち上がって挨拶に応じる。
「本当にお久しぶりです。――婚姻の時は、お祝いのお手紙ありがとうございました」
「いえいえ。ちゃんとお返事も頂きましたよ。お礼のお品まで頂いて。お変わりなくお過ごしですか」
 昔から妙に堅苦しかったハンだが、最近はようやく外見と話し方が合ってきていた。
 彼はいつもの通り、シギヤの見習い神官の制服を着ていた。体にぴったり沿う地味な衣服で、彼によく似合っている。
 ソラは、町長から任された土地の視察に来たのだと説明した。ハンは嬉しそうに笑う。
「そうでしたか! 僕は、この祠の管理に来たんですよ。すごい偶然ですね。端から巡回していって、ここ二週間ばかり、この辺りの祠を回ってはいるんですが」
「ちょうどよかった。ミドウ村に行きたいのですが、この二又はどっちに行くべきですか?」
「右です。左は僕が来た方で、別の村に行ってしまいますよ。途中また分かれ道があるので、よければご一緒します。ちょっと待っていただけますか」
 ソラが頷くと、ハンは祠の掃除にかかり始めた。
 小さな箒で内部の埃を掃い、腰に下げていた神酒を備え、花を置き、最後に香を取り出して着火する。
 手慣れたもので、十五分もかからぬうちに祠の見栄えがよくなった。
 立ちのぼる煙の下で、ソラとハンは一緒に、礼拝をした。それから、道を連れだって右へ行った。
 その二又はちょうど行程の真ん中くらいにあったようだ。いくつかの分かれ道を過ぎて、ちょうど来たくらいの距離をまた進むと、林が途切れて家と農地が現れた。
 ハンは極めていい連れだった。彼は管理人の家も知っていたし、どの家にどんな家族が暮らしているかも大体把握していた。
 彼の誘導がなければ農作業の人々に声をかけるほかなく、それはきっと彼らの間に侮りや警戒の気持ちを生んだだろう。
 というか、シギヤの神官を連れにするなんて反則である。農業に従事する人間達は、残らず社に頭が上がらないのだから。
 学問を修めたんだかどうだか知らないが、若年の、町長家の嫁なんぞなにするものぞ! と意気込んでいたであろう管理人の顔が一瞬で固まるのを見た時、ソラはなんだか謝りたいような気分になったくらいである。
 とにかく、彼のおかげでソラの顔合わせと視察は、ものすごくうまく行った。
 管理人もさほど偏屈ではなく、すぐにソラが論理的なものの考え方をする、ある程度賢い人間だということを了解した様子だった。ただ、自分は苦労人なので、理屈ばっかり言われてもその通りにはできない部分はありますよ、といったある種の老獪な表情を終始浮かべてはいたが。
 彼の案内で、主要な農家の主と残らず挨拶をすることが出来た。ソラは可能な限りその家の妻にも挨拶したが、あまり愛想のいい返事をされることはなかった。
 正味一時間足らずのうちに大体視察を終え、引き上げることにしたソラは、管理人の家の前で待っていたハンと再び落ち合った。
 ハンはまた本を読んでいて、それを閉じて鞄に入れるとベンチから立ち上がった。
「重いでしょうに」
「いえ、これでも男の腕ですから。いかがでした?」
「うーん。……肥料の種類が古いかもしれないと思いました。確かもっと効果がある組み合わせが発明されていたはずです。帰って調べます」
「いいですね。難しい点があったら僕にも手紙を下さい。お調べしますから」
「ありがとうございます」
 二人で村のはずれへ進もうとしたその時、建物の影から若い女の子が一人、薪を腕に抱えて現れた。日に焼けて赤い鼻をしているが、目がくるりとしていてかわいらしい少女だ。
 彼女はソラと一緒にいるハンを見ると、さっと顔を強張らせ、薪を地面にばらまいた。そしてその音が収まらないうちに身を翻し、来た道を駆けて行ってしまった。
 ちょっとあまりの反応であったので、ソラも呆気にとられる。
 ハンだけは訳知り顔で一度目を閉じ、それから彼女を促した。
「行きましょう。このままで大丈夫です。また拾いに来ますよ」




 暑すぎて、飽きてしまいそうになる夏の道を再び歩きながら、彼女は一体どうしたのか、ハンはソラに説明した。
「前にも言った、僕に好意を寄せて下さる方の一人です」
 口調は丁寧で、彼は抑えた話し方をしたが、かえってそのために、彼がそれを喜んでいないことがありありと分かった。
「やっぱり手紙でももらったんですか?」
「彼女は字が書けないようです。ただ、度々じいっと見られたりしていたんですが……」
 ハンはつばに手をやって帽子の位置をちょっと直した。
「前に会った時、納屋の中でのしかかられてしまいました」
 ソラはぎょっとして思わず後ろを振り返る。
 もちろん、遠くにぼんやり、家の影しか見えない。
「ええっ……?! すごいですね!」
 ハンの方は前を向いたきりだ。
「女性の方の体重も馬鹿になりませんよね。もがいているうちに衣類を脱がされそうになりましたよ。怪我をさせるわけにもいかないし」
「……大丈夫でしたか」
「まあ、なんとか。シギヤ神官の間では、ちょこちょこあるらしいですね。農村では数少ない外部の人間ですから。同業者の中には、農家の奥さんと親密になってしまって大揉めした人もあるとか。みんなそういうことをよく覚えていますからね、神官は必ずしも人間的に信用されていません。あの子は、それだから僕に襲い掛かって来たんではないとは思いますが」
「――……」
 ソラは、何か、彼の気にかなうことを言ってあげたかったのだが、うまく言葉が見つからずに間をあけてしまった。
 彼女はまだはっきりと判断できていなかったのだ。以前に、うっすらと仄めかされた彼の性向が、厳密にどんなものなのか。
 その間をハンは自ら埋めた。
「そのことを、同業者や、同年代の男性に話しますとね、言われます。――もうけたな。いい目をみたな。と。何もせずに逃げたと白状すると、もったいない、やればよかったのに。と言われます。
 あのう……。すごく、一面的じゃありませんかね」
 ソラはハンの顔を見上げたが、位置が悪く眼鏡の蔓しか見えなかった。
 彼ら二人を暑い草の香りが取り巻いていて、彼の耳の傍には汗の玉もあった。
「迷惑でしたよ。好きでもない異性に飛びかかられて勝手な性的興奮に巻き込まれるのは。はっきり言って恐怖でした。
 自分が男だろうと女だろうと、被害者としての気分は同じはずで、それを分かってもらいたかった。
 でもまあ、駄目でしたね。――女はこうだ、女はああだ、って、みんな言いますね。同じように、男はこうだ、男はああだ。男女はこうだ。なんですよ。
 男性諸氏は、女性を縛ります。同時に、男性自身も縛っている。男性にもいろいろいるのに。同性愛ってものだってあります。それに、僕のように、対象のことがどれほど好きでも、性的な愛情を覚えない人間もいるんですけどねえ」
「……ハンさん。……それは、その……、前にちょっとだけ、聞いたような気がするんですが」
「はい」
「本当なんですか」
 ハンは立ち止まり、ソラの眼を見た。そして尋ねる。
「ソラさんは結婚なさいましたね。ソラさんはそうではなかったですか」
 さすがにソラの喉に感情が刺さった。
 この真昼間に、自分たちは、すごく変わったことを、話し合っている。
 でもこれは、あのゾンネンや姑との芝居とは違う。町長や管理人との話とも違う。
 胸に下がる護符と同じ。過去に通じ未来へも届く。いつかには、必ず要求される、話だ。
「……そうではなかったです」
「……そうですか。それは少し残念かもしれません。でも、ソラさん。僕のことは信じてくれてもいいですよ。真夜中、同じ部屋に裸のソラさんと閉じ込められても僕は性的には何もしません。毛布でくるんで尊敬と友情を捧げるだけです。
 ソラさんは結婚なさった。人に話せないようなことも多いでしょう。僕にだけは話して下さったり、書き送ってくださって大丈夫ですよ。絶対に口外しません」
「ハンさん」
 いつかも、こんなふうに距離を詰められたことがあったな。
 ソラは思いながら彼を押しとどめるように名前を呼んだ。
 彼女は確かにハンに性的につけ狙われたことはない気がする。……イラカからは、息苦しい圧迫のようなものを受けたことがあったけれど。そしてそれに同じものを返せなかったけれど。
 しかし、彼は何か別の要求を、確かにするのだ。
 多分、気を許してくれ、と言っている。
 自分は性的な人間ではない。だから、安心して身を任せてくれたらいい。と。
 ハンは人見知りで頑固な面もある。まさか全員にこんな態度をとっているとは思わない。例えばフルカのことははっきり苦手にしていて反発している気配もある。
 でもハンは、ソラのことは友人として大事に思っていて、もっと接近したいと思っているらしいのだ。本来、異性の知人には言わないようなことも、言ってくれて構わないといっているのだ。
「ありがとうございますが……」
 性欲以外にも、関係の間には望みが有り得るのだ。
 性がからまないからと言って、別にそれよりきれいなわけでもないのだろう。
 ソラは、迷った挙句、遠慮を捨てることにした。学院にいた頃のように、彼にははっきりと、言いたいことを言わせてもらう。何故か彼女にとって、ハンはそういう存在なのだ。
「ありがとうございますが……、誰を友達にするかは、私が決めることですよね」
 ハンはソラが予想した通りの反応をした。笑ったのだ。
「もちろんそうです」
 でも好き。
 言葉が聞こえたような気がした。
 ハンにはちっとも応えていない。多分、賢い頭でこんなことはとっくに考えた後なのだろう。
 確かに世の中には、色んな人間がいるな。暑い空気を吸い込みながらソラは思った。
 そしてそれぞれに賢く、図太い。
 ような気がする。
「私、フルカとも仲良くしていくつもりですし」
「ああ。仲直りなさったんですね。それはよかったです。でも彼女に話せないことも、一つや二つあるでしょう? それは僕に相談して下さい。学問に関することもそうですね」
「……フルカと連絡を取り合ってるんですか?」
「それほど度々でもありませんが、時々。ああ、でもこの間フルカさんのお店の前を通りました。すごい鉄柵で、中はまったく見えませんでしたが。ソラさんはもう行かれました?」
「――いえ。私は結局行けてなくて」
 二人は再び歩き始めた。
「彼女から買いたいものもあるんですが、それも実家に届けてもらっています。祖母がフルカとの付き合いを禁じているので、さすがにお店には行けなくて。それに家のこともありますから」
「町長のおうちでの生活はいかがですか?」
「あー。ええ。まあ……」
「なんでも言っていいですよ」
「…………」


 ソラは、ぴったりと横を歩いて心を寄せてくるハンを、胸中で「もう……」と思わないこともなかった。性欲があろうがなかろうが、大の大人だろう。自分の面倒は自分で見ろよ、と思わないでもなかった。
 しかし同時に、これほど好意丸出して近づいてくる人間を無下にもできなかった。うぬぼれをくすぐられないこともなかった。
 なにしろ、ソラは嫁いだ先では非難されてばかりいる。
 自分のことを認めてくれる友達はちゃんといるんだぞ、という気持ちは彼女の安定にとって大いなるよすがになった。
 それに実際ハンの真面目な人柄や堅実な知識は棄てるには惜しい、役に立つのだ。
 今後も彼とのつきあいは長く続くのではないかという諦めめいた予感を感じながら、ソラはちょうど例の祠のところで、彼と別れた。




 町長宅に帰り着くと、思いがけない知らせが待っていた。
 祖母が倒れたというのだ。
 ゾンネンは不在だったが、姑は家にいた。
「罰が当たったのよ」
 ソラを取り囲む使用人たちの向こうで彼女が小声でそう言った時、ソラは自分でも、顔色が変わるのが分かった。





(つづく)
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