予想していたより三倍も忙しくなった。
 ソラは町長宅の家事をやり、不動産管理の仕事をし、二三日に一度は祖母を見舞い、雑事を引き受け、それで夜にはゾンネンの相手をし、読みかけの本もあった。
 一緒に働く使用人たちは「こんな時なんだから」と言って家事の負担を軽くしてくれようとしたが、ある程度やらないと姑がまた祖母をあげつらって嫌味を言うので退けなかった。
 ゾンネンはゾンネンで何故かはしゃいでおり、合間合間に自分の存在を主張するのを忘れなかった。ソラの眼から見ると、彼は「俺はここにいるぞ!」「俺も構え!」と両手を上げて視界の隅に入ろうとする子供のように見えたのだが、本人は旦那としてなにか当然の振る舞いをしているらしかった。
 それをすることで彼の動揺しやすい精神が落ち着くらしい。
 しかし正直そんなものが深く気にならないくらい、仕事がたまっていた。
 ソラは祖母の影響力の強さに改めて驚いた。何しろ、彼女が倒れたという報が町を駆け巡るや、各方面からお見舞いの文書や品物や来訪が相次ぎ、相手がまたみなある程度の地位のある人間だったりして、見舞金をもらえば受け取った切りとはいかない。
 祖母もまた意識を回復するや、現れた見舞客のそれぞれに土産を持たしたり足を確保したりするようにと家族に命じるものだから、両親もすぐに手いっぱいになった。
 親類が祖母宅に呼び集められ、ソラは特に手紙の管理と返信を任せられて日中かかりきりになる。
 それでも町長から任された不動産管理の仕事を放り出すわけにはいかなかった。
 あの管理人は老獪そうな人間だった。機を逃して間が空けば、侮られてしまうかもしれない。
 これはソラがやっと手に入れたやり甲斐のありそうな仕事なのだから。
 寝不足になり、また中途で月経になって貧血を起こしたりしながら、十五日ほど経つうちに、ようやく見舞いが途切れてちょっと楽になった。
 その頃、ソラは管理人から幾度目かの書簡を受け取った。肥料の改良を提案した彼女に、そんな技術はもう知っていますしやっていますよという冷笑を返したものだった。
 ソラは意外に思った。それはおかしい。
 ソラが農家の納屋でちらっと見た配合は昔ながらのものだった。穀類の生育状況を見てもそうだ。あの条件、シギヤ神官の季節ごとの祭事、そして最新型の肥料なら、実際にはもっと……。
 部屋を飛び出し、町長の書斎から過去の記録を見つけ出して調べる。
 確かに、三年前に肥料の請求額が変わっている。ここから新しいものを使い始めたということだ。値段も妥当だ。
 ――だが、石高に影響が出ていないのはどうしてだ?
 ソラは新しい配合の肥料が学問的に精査されてできたものだということを知っていた。改良してもしなくても変わらないようなものを、学問は新たに生み出したりはしない。
 百分の八程度は、収穫率が向上しなくては理屈に合わない。
 その点を返信で尋ねてみた。それに対する返事はずいぶん人を馬鹿にしたものだった。
 曰く、『学生さんは知らないかもしれないが、農業は一筋縄ではいかないもの』で、『教科書通りの結果にはならないことのほうが多い』というのだ。
 ソラは頭がぼかんと爆発したような気がした。
 ――ほほう。
 じゃ、学者が実験をしないとでも? 妥当な結果が得られないと分かっているような不確かなものを、公表したり一般化したりするとでも?
 まして仮にも学問を修めた『学生さん』が、そんな、『農業は神秘の領域だ』というような古びた脅し文句に納得し引き下がるとでも?
 どうやら、やっぱりソラは、少々舐められているらしかった。
 いやむしろ、学者という存在が全体に舐められているというべきか。
 単純に、肥料の割に結果が出ていなくておかしいですね、という質問に、『あんたらなんかに何が分かる』と返って来たわけだから。
 確かに、新しい肥料が東部では効果を弱めるというのなら、それは真剣な学究の対象だ。
 だがそれ以前にソラは、複数の納屋で向こうの主張と違う光景を見ている。
 学生崩れごときには、見ても分かるまいと思ったのかもしれないが。あいにく、ガニアの講義で『死ぬほど』やったところだ。
 ――ソラの思考はそこで一旦停止した。
 三十秒ほどの間に、彼の顔や、やさしさや、その遺体や、臭いが蘇り、一緒にポリネの笑顔も目に浮かぶ。
 ソラの内臓が、心臓だか胃臓だか知らないけれど、万力の掌でつかまれたように痛くなる。
 首から下がる袋に手を当てることでそれに耐えて、ソラは気を取り直した。
 この問題は、今まだほんの端緒だ。もっと調べてから、解決を図らなければならない。この件はまったく学問以前の問題だが、……学問好きで、技能工芸学院に行ったような女がどれくらい扱いづらいものか、あの管理人によく教えてやる。
 戦いを決意し、手紙を文箱にしまって眠ったソラは翌朝、新しい報せを受け取った。
 祖母が昨晩再度の発作に襲われたというのだ。



 ソラの祖母は最初倒れてから、半日ほど意識がなかった。その後目覚めてからは気分が悪い、下半身が痺れると言っていた。
 実際に歩行が難しくなり、移動には誰かの補佐が必要になったが、それ以外の点は回復が見られて、飲食にも支障はないし見舞客とも楽しくしゃべって礼を述べていたのだ。
 かかりつけの町医者は脳の病気だろうと言い、ソラもそうだと思った。老人に多い。ソラは、こんな病気を治せるのは大学者だけだと分かってはいたが――、学問を諦めた自分を不甲斐なく思ったものだ。
 一旦安定の兆しを見せていた祖母だが、その朝、付き添いのソラの伯母と話している間にみるみる意識が薄くなり再び昏睡した。
 ソラが駆け付けた時には寝床で完全に意識不明であり、顔色もひどく悪かった。
 ――これは危ないかもしれない。
 ソラでなくったって考える。両親たちは親類たちに報せ回っているところだった。
 またしても手紙や品物が方々から届いた。
 誰もが肝を冷やしたが、祖母は約二日後に、再度意識を回復した。
 ちょうどソラが横について、手紙の管理をしている時だった。祖母が目を開き、顔を一度左から右へ大きく動かしたので、ソラはペンを落とすところだった。
「おばあ様! 起きられましたか? 気持ち悪くないですか?」
 ソラはすぐに呼び鈴を鳴らした。隣室で、ソラの母親らが立ち上がり出てくる物音がする。
 祖母は、一瞬自分がどこにいるのか分からない様子で、黒い目でソラを見つめ、無言だった。
 ――話せないのか?
 脳の病気ではあることだ。ソラが身を乗り出そうとしたその時、祖母が思ったよりもはっきりとした声で言った。
「大丈夫ですよ」
 後ろからソラの母親と伯母が近づいてくる。
「でも、あなたは、どなた?」



 押し問答になってしまった。
 やってきたソラの母親や伯母が、何を言っているの、それはソラで、あなたの孫娘ですよ。と説明をしたが、祖母はいっかな納得しなかった。
 それどころか、ソラの母親のことも伯母のことも理解しなかった。あなたの息子の嫁です。あなたの娘です。ソラ達にとっては自明のことも、彼女はまったく納得できない様子で、しまいには怒り出した。
 その理屈はこうだ。あなたはなぜ、あたしに子供や孫があるなどというのか。あたしには夫などいない。結婚もしていないあたしに、子や孫があるというのか。何だって侮辱するのか。あたしはそんな、不道徳な女ではない!
 医者がやって来て、双方をなだめた。そして説明した。一時的な記憶の混乱だ。患者を責めたてても仕方がない。今は休養を。シギヤに祈祷をして、それから心の落ち着く薬を処方します。
 ソラも知っている薬だった。
 夕方になって家族が次々に見舞いに来たが、祖母はほぼ誰のことも分からなかった。
 肉親たちはみな愕然としていたが、特に実の子供たちは青ざめ悲しんでいた。
 実を言えばソラも少し動揺していた。
 町長宅に戻り、家事をこなして寝る。義母もゾンネンも祖母については何も聞こうとしなかった。わざわざ聞かなくても噂は耳に入るし、無関心というより、ソラにとって有利な材料となるようなことを聞くのが嫌なのらしかった。



 その日以降、祖母は再び一定の安定と回復を見せた。四肢のしびれが増して体力が落ち、完全に寝たきりになったが、意識は落ち着いて毎朝目覚め、よく話しかけてきた。
 三日四日すると、記憶も戻って来て家族の名を呼び、話も通じて一時まるでお祭り騒ぎだった。
 が、それ以降は、以前のよく分からない混乱した状態と、よくものの分かっている本来の状態を行ったり来たりするようになった。
 ソラの父や叔父は悲しみ、何とか治す方法はないのかと医者に相談していたが、医者もシギヤ学を修めた学者で嘘つきでなかったので、いいことは言わなかった。患者に無理をさせないように、としか。
 ソラには別途説明をしてくれた。過去の解剖の事例から言うと、恐らく脳内で血管が詰まり出血を起こしているのだと。これをもとに戻す方法は、現在発見されていない、と。
 ソラは頷く。
「どれくらいもつと思われますか」
 その質問に医者は学問に携わる者に対する態度で言った。
「状況によるので一概には言えない。再び出血が起こる可能性もある。ただ、患者はほかに持病のない方であるし、このように積極的な看病が行われている状態であれば、長ければ半年くらいもつこともあり得るだろう」
 長くて、半年。
 医者はどうやら、家族に言いづらいのでソラから説明してほしいらしかった。
 確かに、一族の人々はみな必死で、――必死でいい兆候にすがろうとしており、祖母がいつ死ぬかなどの予測など、聞ける状態でないように見えた。
 皆、文句ひとつ言わずに交代制で祖母に付き添った。新しい寝間着をいくつも作り、部屋を快適にし、入浴、食事、排泄の介助をし、多い時には寝床の脇に三、四人いることもあった。
 みな祖母の痴呆を認めようとせず、「本当は分かっているのにとぼけたふりをしているのよ」などということを言ったりした。
 こういった様子にある見舞客など感涙して、みんな本当に祖母のことを愛しているのね、という意味のことを言った。
 確かに、そうだろう。ただ、それこそ、母親の言うようにソラがひねくれているからだろうか。ソラには、寧ろ親類たちが皆、ものすごく慌てているように見えた。
 誰も彼も、ソラよりもずっと年上の大人達だ。自分の年齢を考えれば、――それは悲しいが、親が死ぬことを想定してもおかしくない。
 だが、みなそれを考えるのを必死で避けていた。単語さえ会話に出なかった。ソラもやはり言えなかった。ソラはひねくれ者かも知れないが、みんなを恐慌に突き落として楽しいほどの嗜虐趣味はないからだ。
 十日ほどもするとまた安定した日々が戻って来た。
 見せかけの安定ではあったけれども。
 一族の成員たちはみんな、このままの状態が、実際に百年でも二百年でも続いてほしいと願っていたのだ。



 ソラは昼、彼女の傍で仕事をしながら過ごすことが多かった。
 見舞いの手紙の管理と返信が彼女の担当で、ある日などは別の町のシギヤ神官から手紙が来てたまげた。
 つまりそれはハンの上司のことだからだ。
 通り一遍の見舞状だったから、大して付き合いがあったわけでもないのだろうが、この東部で、一体どこまでこの人は手を広げていたんだろうと改めて思わされる。
 時折祖母は目を覚まし、ソラに話しかけてきた。悲しいことだが、ほぼ、分からない状態での会話だった。
 そういう時、祖母は不思議そうにソラを見ていて、この若い人は一体誰だろうと思いながら、世間話をしている様子なのだ。
 今も、そうである。
「……たくさんの、手紙ね」
「はい。たくさん頂きました。……コマイ家や、トウイ家からも頂いています」
 分かりそうな名前を上げる。面白いことに、祖母は自分のことは忘れていても町のことや世間のことはよく覚えていて前と同じように話をするのだ。
「まあ、トウイから来ているの? あそこはねえ……。代々本当に気位ばかり高くてけちん坊でねえ……。二度と取引はしたくないわね」
「お見舞金も頂きましたよ」
「あら、そう……。お見舞金……? なんだって……。お見舞い……?」
「多分、前にこちらからお出ししたことがあるんじゃないですか。誰かがそんなこと、言ってました」
「…………」
「あら、起きたの。おばあちゃん。気分は、どう?」
 ちょうどそこに伯母がやって来たので、ソラは尋ねる。
「あの、伯母さん、トウイからお見舞い金頂いたのって、前にこちらから出したののお返しだって言ってましたよね?」
 少し太めの伯母はソラの隣に立って頷く。
「ええ、そうよ。ほら、あそこお嫁さんがご病気になったでしょ。その時におばあちゃんが同情して、結構なお金を出したからよ。さすがにお返しなしってわけにはと思ったんでしょう」
「嫁さんが病気だって言って、自分たちがいじめ抜いたんじゃないの」
 と、いきなり祖母は昔ながらの明快な回答をする。
 これがみんなに希望を抱かせるのだが。
 ただ、昔と違うのは、そこに制御なしの感情が現れることだ。祖母は用心深い人だった。前は、どうとられるか分からない、不用意な喜怒哀楽は簡単に出さないようにしていた。
 それが今は、「見知らぬ」二人の前で、ソラと比べても遜色ないほどのしかめ面である。
「そうねえ。あれからあのお嫁さんも息子を生んでやっと落ち着いたけど。あの頃はひどかったらしいわね。今はあれね、あのおうちのお嫁さんの方が、もっとひどいわね」
 ソラの頭に、あの夫人の顔が浮かぶ。
 東部で今、一番不幸な嫁と言えば、あの人以外にない。
 家名を出すのがはばかられると言って、みなはっきりとは言わなかったがもはや公然の醜聞だ。
「――かわいそうな子!」
 祖母は心からと言った様子で嘆息した。
「きれいな子でしたよ。あの子は。それに学校で一番の成績だったのよ。身に着けているものもよかった。それがあんな……。あの家は、あの子をお金で買ったんですからね」
「確かにすごいお金が動いたって噂だけど……。あの子は、もともとあの家が嫌だったんでしょう。嫌なところに無理に入らされたのがまた悪かったのよね」
「そんなに、悪いお家なの? だって、名家なんでしょう」
 これはソラだ。祖母がすぐ答える。
「ハライの創立に関わった御三家のうちの一つですよ」
「大金持ちの、大土地持ちよ」
 伯母もおどけて言う。寝室は即席の井戸端となりつつあった。
「そうよ。ハライで一番土地を持ってる家よ」
「私が娘時代には、みんなその家に入りたいって言ってたわ。左団扇だもの」
「いいえ。あの子は嫌だったんですよ」
「どうしてかしら。それこそ子供でも産めば名家の奥様で、あとは一生安泰じゃない」
「そりゃあ、あなた、何が幸せって言ったらね。自分のやりたいように、自由に生きるのが一番幸せだからよ」


 祖母と、伯母の世間話は続いていた。
 途中からもう別の話になった。
 だが、ソラは二人の傍で目を見開いたままだった。


 ――……今、なんて言った?
 自由に生きることが、
 一番幸せ って?


 あなたが、それを言うのか?
 町長夫人になることが、一番わたしのためだと言った、あなたが?



 ソラはもう一度詳しく聞いてみたいくらいだったが、もちろんそうすることは出来なかった。
 混乱したまま家に帰り、その日以来、その混乱をずっと引きずった。
 祖母のことが分からなくなった。
 一体祖母は、敵なのか味方なのか。一体何を考えているのか。
 前の祖母であれば、このように一聴して矛盾するようなことは孫娘の前で決して発言しなかったに違いない。
 ところが、今の祖母はもはや記憶の前後がめちゃめちゃで、ソラのことも自分にとって大事な人間なのかどうかが分からなくなっている。
 こうしてソラも、他の家族たちのように祖母の痴呆に振り回されることになった。
 同時に彼女は、これまで大人の外面で取り繕われていた衣の継ぎ目の綻びから、祖母という一人の人間の生々しい歴史を、ほんの少しだけ垣間見ることになったのである。
 ある日、また事件があった。彼女はいきなり起き上がり、不自由な手をソラの腕に伸ばすと、ひどく深刻な口調で彼女に訴えたのだ。
「どなたか知りませんけれど、息子たちを連れて来て。北のお山に行きますから。北のお山に行って、あの人を連れて帰ってきますから」




 騒ぎがすっかり収まった後で、ソラの父が話してくれた。弟――ソラの叔父と一緒に。
  ――昔、自分が十にもならない頃、父親は、なんだか正体の知れない流れのまじない屋の巫女と知り合いになって、事あるごとに占いをしてもらったり金を払ってまじないをかけてもらったりしていた。
 その挙句、その巫女と家出をして、山にこもるまで到った。
 仕方がないから母さんは、背中に乳飲み子だった弟を負い、右に自分の手を握り、家のことは二人の姉に任せて、夫を迎えに行ったのだ。
 思えば、ちょうどこの時期だ。あの時は大変だった。
 父の足にしがみつく巫女さんに、母さんが金の袋を投げつけて――。


 ソラは、父と叔父のなんとも言えない俯き気味の表情を見ながら心の中で叫んでいた。
 そんな話聞いたこともなかったですけど??!!


 もっとも、人に言わないのも当然の話だ。
 夏風邪をこじらせて死んだという祖父。
 どうにも、これは、弁護不可能な正真のぼんくらだったらしい――。




 つまり、改めて、こういうことだ。
 星空の下を、町長宅に向けて歩きながらソラは思った。
 商売が下手で先行き不安なソンターク家の坊ちゃんと結婚した祖母は、夫の代わりに商売をし、稼いだ金で家族を養い、男顔負けに人脈を広げあっという間に地方の女傑に。
 それに気位を傷つけられ、耐えられなかった祖父は、――占いにすがり、おがみ屋の巫女に入れあげて家出したりと情けない真似を繰り返した挙句、無意味な強情をはって早死に。
――したわけだ。



 なんて深刻ながらも下らない茶番劇。
 祖母は分かっている。
 本当の幸せというものはどんなものなのか。
 それは家じゃない。金じゃない。安定じゃない。
 ――自主独立だ。
 泣けてくる。
 それなのにどうして、祖母は自分を、また結婚させたんだろう。
 家のために?
 一族の繁栄のために?
 そうかもしれないけれど。
 本当に重要なものは自由だと、ちゃんと分かっていたのに、何故?


 そして町長宅に着いて、居間の扉を開くと、そこには文句のありそうな姑と、彼女に注いでもらった酒を飲んで赤ら顔の、ゾンネンがいるのだ。





(つづく)
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