若いソラは葬儀の様子に十分感心したし、ソラの親世代たちは悲しすぎてそれどころではなかったのだが、実のところ、葬儀はもうひとまわり盛況になっていてもおかしくはなかった。
 人付き合いが命の、地方の政治屋たちは、鋭い嗅覚を持っている。もし祖母が去り、その後ろに関係を継続せねばならない重要人間が控えているなら、決して手紙だけでは済ませない。どれほど遠かろうとやってきて、必ずその人間の手を握るものだ。
 例えば祖父が早死にをした葬式では、まだまだ若かった祖母の手を十人以上の首長やその候補者が握っては『気を落とさないで。味方がここにいますよ』と励まして行った。
 しかし、今回彼らはそうしないで、弔文の郵送だけで済ませていた。だからその実、可能性の最大よりはずっと大人しい葬式だったのである。
 あれでも。
 その可能性と現実の差は音もない季節の移り変わりの予感であり、遺族よりも参列者たちの方がそれを感じていた。
 何しろ、参列をした隣町の商工会議所の所長は困ったのである。四人並んだ娘達、息子達。一体誰が祖母の継嗣で、今後誰に話を通せばいいのか?
 四人はみな立派な大人である。そしてしきたりで行けば無論喪主でもある長男に言葉をかけておけばよい。
 しかし、そこにいるのはただの小役人で、規則を守っていいつけに従うことが仕事の人間で、全財産の半分を賭けて新しい事業を始めようなどという冒険的な話を共に出来る人間でないことは一目瞭然なのだ。
 同様に、喪服を着た多くの商人らは、無礼にならぬように表面を取り繕いながらも、祖母に対して運んできた尊敬の感情を、誰にも受け渡すことが出来ずに自分の家へ持ち帰る他なかった。
 葬儀が終わり、二、三日が過ぎて、余韻が覚めて行くと共に、人々の胸に湧き出てきた認識はこれだった。
 あの家には、後継者がいない。
 故人は、カエル・ソンターク家をどうするつもりだったのか。




 東部では血族内での争いを防ぐため、死後、可能な限り早く親族会議が開かれるのがふつうである。その場では葬式の決算が行われ、さらに遺産相続について話し合いがもたれる。
 今回は死後五日目に執り行われた。場所は、祖母の家だ。ソラも含めて息子世代、孫世代が全員集合した。この懐かしい家も、いずれ誰かに相続されることになるわけである。
 ソラの親世代の四人は、本当に穏やかで仲の良い姉弟達だった。彼らは未だに悲しがりながら、ものの数秒で葬式費用は同率負担とすることに決定した。
 それぞれが小金持ちであるということは大きい。みな、堅実に生きて来た善良な市民達で、それくらいの負担には耐えうる基盤を持っているのだ。
 次いで、本題である、遺産についての話になった。
 長女にあたる伯母が立ち上がり、生前に祖母から渡された指示書があると言う。
 つまり遺言書だ。
 ほとんどの女性は遺言書なんか残さないだろうが、そしてそれで僅かな宝飾品の取り合いになったりすることもままあると聞くが、祖母はそういうわけにはいかない。
 ソラの父もかねてあるだろうと呟いていたし、ソラも予想はしていた。中身までは、分からなかったが。
「まず最初に言っておきます」
 と、立ち上がって伯母は言った。空席となった、祖母の指定席を仰ぎながら。
「あの人は、公平な人でした。みんなが知っていることです。これまで、なんでも姉弟で分けてきました。家によっては、男と女で食事も違うわね。魚でも、男は尾頭付きで、女はあらを煮たのを台所で立って食べたり。――うちはそうじゃなかった。うちは、みんなで一つの卓を囲んで、食べ物を平等にみんなで分けたわね」
 次女にあたる伯母が笑いながら鼻に布を当て、長男にあたるソラの父が茶々を入れた。
「出前で取った料理をね」
 姉弟たちみんなが肩を揺らして笑う。
「そうよ。わたしらは、出前屋さんに育ててもらったようなものよ。――とにかく、あの人は、公平な人だった。誰か、あの人から宝石をもらったことのない女の子はいる? 服を仕立ててもらったことのない男の子は? いないでしょう。とても気を付けていらした。だから、遺産についても、公平に分けるようにと、言い残したと思っている人も多いかもしれない。
 先に言っておきます。――違います。
 もちろん公平に分けて差し支えないものは、そのように分けられてます。でも、馬鹿正直に分割するのがふさわしくない財産というのが、この世にはあるでしょう。
 土地だわ。
 わたし達は四人だからまだいいけれど、兄弟が八人いてごらんなさい。細切れの土地が八つ出来て、売ることも開発することも採算も取れない状態で贈られて、かえって子孫のお荷物になってしまうのよ。それは一族を衰えさせることになる。
 単純に四分割して、これでよしと思うようなずぼらな人なら、こんなに成功しなかったでしょう。
 あの人は考えに考えて考え抜いて、遺言を残されました。そのことをよく頭において、これから読み上げる遺言を、聞いて下さい」



 とは言え、ほとんどの財産が親世代に行くことは当然であるから、ソラ達孫世代は別のテーブルについて気を抜いて聞いていた。
 ちなみにソラにはいとこが五人いて、うち一人は、ほんのこどもである。寝ていた。
 伯母が注意深く付言してから始めたためか、大きくて重要に思える不動産が長男である父親に集中して贈られていることにも異議は出なかった。
 無論、他の三人にもそれぞれ土地が割り当てられている。しかし、最も資産価値の手堅い、祖母の財産の中核をなしていたと思われる場所はすべてソラの父に集められていた。
 祖母が生涯をかけて集めた土地である。それさえあれば一定の収入の見込める貴重な不動産である。彼女はそれをばらばらにしてしまうに忍びなかったのだ。
 確かに考えられていた。
 伯母二人には、小規模だが果樹園などがある土地が。叔父には転売すればひと財産になりそうな土地が複数贈られ、決して一族として手放すべきではない根幹の土地は父の元へ。
 ソラの父親は、決して土地投機なぞしない人間である。
 守って貯めて保つのが好きな役人だ。ソラの母親もまるで野心的な人間ではない。
 彼ら夫妻は土地の守り人として、祖母から指名を受けたのだ。
 伯母叔父たちも納得している様子だった。或いは予想していたのかもしれない。
 ――なるほど、こういうふうになるんだな。
 ソラが椅子に背を預けて、感心し、油断しきっていたその時。急に遠くの伯母が彼女の名前を呼んだ。
「次に孫のソラに、最後に残ったミカゲ、ラスコ、マトワの森林地帯、そして現在居住する家を、寄贈する」
 えっ――。
 意表を突かれたのは彼女だけではない。テーブルを囲んでいた全親族の全視線がソラに集中した。
 伯母一人が、動じず続ける。
「ソラには当該三地帯と当家の売却を固く禁じる。また一族全員の会議は、いつも必ず、当家で行うべきこと」



 本当に意味が分かったのは、遺言の読み上げがすべて終わって、伯母叔父たちの説明を聞いてからだった。
 まずソラに贈与されるというミカゲ、ラスコ、マトワは町から遠く、別段資産価値が高い派手な土地ではない。
 しかし、ミカゲには祖母の一族カエル家の墓所があり、ラスコは今祖母が眠る場所――つまりソンターク家の墓所がある。祖母も眠る、ついこの間行ったあの場所だ。
 そしてマトワは。
 ソラは地図を指さされて気付いた。
 あの場所なのだ。ニキ・スズキリ・アガタが、その追放された母親と静かに眠る森。
 そして、この家。
 いつも祖母が座っていた椅子があり、その記憶の詰まった場所であり、常に一族の集う場として指定された場所。
 彼女はそういった四つの場の所有者になるように言われたのだ。
 ソラの父親が一族の財産の番人として名指しされたのだとしたら、ソラは、いわば一族の歴史の番人として名指しされたのである。
 しかもいずれ、ソラの父親が老いて死ねば、その財産は唯一の子ソラへ贈られることになる。
 つまりソラは、次の一族の統率者として、もっと分かりやすく言えば祖母の後釜として、居並ぶ親族の面前で指名されたも同然だった。
 今すぐにでは、ないにせよ。



 ソラが何よりも困ったことは、父はもちろん、伯母叔父たちが何の異議も唱えないことだった。
 彼らはまるで当たり前のように、そしてこれは、ソラの狼狽のあまりの見間違えだとは思うが――生け贄でも見るかのように、なにか『助かった』とでもいうように、笑顔で彼女を見つめたのである。





 この顛末は、すぐにハライ中に知られることになった。祖母の土地財産の行方はみなの関心の的だったからだ。
 そして彼女が娘や息子ではなく、孫のソラに後を託したらしいことも、同時に広まった。
 第三者から見ればこれは妥当な決定だった。何しろソラは現町長の嫁である。もっとも有望そうな孫に最終的に資産を集中させるように取り計らうのは、当然であり定石だ。
 ただ、確かに既婚とはいえ若い女性をずばり指名するのはあまりないことであったが、何しろ、あの偉大な『女帝』のことであるから――そしてカエル・ソンタークは完全に女に食われた家系であるから、無理もないだろうと納得された。
 ちゃんと間にソラの父親を挟んで段階を踏んでいたことも効いた。そこは不文律のしきたり通りであるから、例えば祖母の夫であるソンターク家側から何か文句をつけようとしても瑕疵がない。
 それでいて、祖母の意志は世間にはっきり表明されている。


 おかげさまでソラは、町の人々から注目された。そんなにもあの女帝が買っていたのだから、さぞかし有能なのだろう、そういえば町長も土地を任せているらしい、などと情報が交換されて、勝手に評判ばかりが上がって行った。
 町や通りで挨拶されることも増えた。何か儲け話を持ち掛けてくる気の早い連中までいた。
 たった三つ古い土地と家一つ相続したくらいで!
 ソラは迷惑したけれど、『すぐに収まるわ』というフルカの言葉に頷いてなんとかやり過ごした。
 やろうと思えば、遺言を蹴ることもできただろう。が、ソラはそうしなかった。
 マトワの土地が欲しかったのだ。
 祖母が妹の子と、妹の遺体を引き受け葬った場所。町長から管理を任されている土地にも近い。
 ネコにとっても、クローヴィスにとっても、大切な場所だ。人に渡したくない。自分の手で守っていたい。――祖母が、そうしていたように。
 それ以外のことは、何の計画もないし、まったく未来のことだ。ソラの父親だってまだ中年で、今後何年も生きる。
 これは一時のことで、この先何が起きてどうなるか分かりはしない。この程度で踊らされては、祖母に笑われる。
 現実には自分は、ただ売却することもできない土地と家を与えられただけなのだから。仕事が増えただけだ。
 だいたい、指名を受けたからと言ってソラがあの祖母みたいな大物になれるものでもない。
 黙っていれば、時は過ぎていずれ人にも伝わるだろう。
 こんなことは、まったく意味のある話ではないのだと。むしろそう、単に生け贄の指名なのかもしれないのだ。




 ソラはそう考えて騒動から自分を切り離し、寧ろ沈むくらいに責任を感じて落ち着いていた。
 しかし、みながそう誤解なく冷静でいられたわけではない。
 特にゾンネンは違っていた。
 彼は妻である彼女の『成功』を、自分の権威に対する重大な脅威であると受け取り嫉妬した。彼女が自分よりも偉くなるのではと心配になり、父親に自分にも同じ武器を呉れるようにと頼んだ。
 つまり、土地である。
 町長は応じなかった。
「彼女が得たのはほとんど価値のない狭い土地と古い家一軒で、寧ろ荷物を押し付けられたようなものだ。他の孫に贈られたという宝飾品の方がよほど実用的で価値がある」
 もちろん、町長はその相続の後ろに潜む意味を分かっていたが、わざと言わなかった。
「だいいち売却も禁じられている。今、彼女がそれで儲けることは決してない」
「それでも、俺にも必要なんだよ! 妻が土地持ちで、夫が持っていないなんて、そんなの格好が悪い。あいつだって俺を笑うに決まってる。いいじゃないか、呉れよ。どうせ俺のものになるんだ。あなたにとっては別に痛くもかゆくもないことだろう」
 町長は父親として飲み込みづらい空気を肺一杯に吸い込んだ。
「大事な土地だ。先祖が守り抜いてきた。一部お前に切って渡したとして、それをお前がどんなふうにするか分かっている。前にお前が投げ出した土地を、今、ソラが管理している。
 ――土地管理や不動産取引について、きちんと勉強をするのなら、一部を委託してもいい。しかし、贈与はしないし、何よりお前はそんなよそ見をするよりも、今任せている仕事をきちんとやり遂げなさい。その方がお前にとってずっと近い名誉だというのが分からないのか」


 ゾンネンは理解しなかった。父親をケチだと思い、ソラが自分にないものを持っているのが気に障って仕方がなかった。
 夫の権限でそれを取り上げられないかと思ったりもした。
 出来ないと分かると、社会の仕組みが不足していると感じた。
 夫には奪うことができなければ駄目だ。権威はなによりも大切なものだから。その証拠に、それがなくなると彼はいじめられる。彼が『友達』だと思っている町内の同世代の若者たちから。
 時折彼の家にやって来て彼の父親の酒を飲み散らかすあの男たちのことだ。実は本当にゾンネンが気にしているのは、彼ら『仲間』内での評判だった。
 彼らはいつもゾンネンをなぶって笑いものにし、せいぜいおもちゃにしていたが、彼本人は何とか彼らに認められようと必死で、彼らがうそぶく『普通』の男性らしさの幻想に引きずり回されていた。
 実際には、妻であるソラと理解し合い、彼女と家族の情を育むこと以上に家が栄える道などありようがないのに、彼は男が不動の権威で君臨することこそが繁栄にとって必要不可欠なのだと思い込んでいた。
 欲求がかなえられず不満顔の彼に、彼の母親はソラの悪口を吹き込んだ。
「あの子は、毎日おばあ様の枕元でおねだりしたのよ。家のことはほっぽらかして。その証拠にご覧なさい。他にどの孫が不動産を贈られたの? 特別扱いよ。あの子は卑怯で強欲でずるい子なのよ」
 自分にとって都合の悪い人間の悪口を聞くことほど、卑小な魂にとっての楽しみはない。
 ゾンネンはもはや、正義の代表のつもりで、ある晩ソラに直接言った。
「お前、相続を断れ。正しくないことだぞ」
 ソラは彼の顔を見た。
 応じなかった。
 さすがのゾンネンにも、ソラがこれまで貪欲であるように見えたことはなかった。何しろ地味な女である。
 しかし彼の母親はそうだと言って彼女を非難したし、今ソラが誤った相続にこうして固執することは、明確な証拠であるように思われた。
 なんだ。こいつはこんなに悪いやつだったのかと思いながら、ゾンネンは言う。
「お前なんかに大切な土地の管理が出来るわけがない。結局困ったことになるんだ。お前の父親に任せろ。俺に任せてもいい。お前は分かってない。親切で言ってやってるんだぞ」
 やはりソラは応じなかった。
 ゾンネンは、これほど理論的に、しかも明白に正しいことを言っているのに相手が分かろうとしないことに、苛立ちを感じた。
 いつもこうだ。この女は、自分の言うことをまるで聞かない。
「お前は生意気だな」
 腕をつかんだ。今この瞬間の苛立ちだけではなく、何日間もの、何か月もの、すべてに対するいら立ちが出口を見つけて突進してきた。
 指に力がこもるが、それも正しいことであるようにゾンネンには思われた。
 だってまさか、父や『仲間』に対して、こんな力をふるうわけにはいかないからだ。
 しかし間違った人間に対してなら――それは、許される。
正当化される。
 彼はソラの股の間に入ろうとした。
「やめて下さい。月経中です」
 ソラは迷惑そうな顔をして、寝台の手前で抵抗する。
 性交を拒絶されたゾンネンの頭に、ぱっと血の気が上って沸騰した。
 ――ほんとうにおんなの、ぐあいがわるいだの、きぶんがすぐれないだの、なやみがあるだのは、たくさんだ!!
「うるさい!!」
 ゾンネンは腕を掴んだままソラを寝台に引き倒した。
 そしてそのまま、怒りに任せて自分より小さな彼女の身体を揺さぶりながら言った。
「お前らは黙ってやられて、泣いてつらがって弱ってればいいんだ!! 馬鹿であればいいんだ!! 白痴でいろ!! 金ため込むな!! 無一文でいろ!! ものを言うな!! けがらわしい!!」



 前後に揺さぶられたので、ソラの髪の毛も、衣服も乱れたり歪んだりした。
 しまいに寝具に押し付けられた姿勢のまま、ソラは僅かに眉根を寄せていきり立つゾンネンを見上げていたが、やがて、口を開いた。
 乱れた髪に似合わぬ、ひどく冷静な口調だった。
「もっとよく見たほうがいいですよ。女たちが本当にそういう生き物か。やられるがままか。馬鹿で白痴か。財産を持っていないのか。無力か。本当に、いつまでもそうか。あなたの『望遠鏡の向く先を、天から地上に引き下ろして』。――そういう詩があります」
「なんだと?」
「最近、また学問の本を読んでいるんです。面白いですよ。昔には意味の分からなかった詩なんかも、大人になると意味がよく分かりますから」
 ゾンネンは迂闊で、ソラのこの矛先を反らした会話に面喰いまんまと混乱させられた。
 とにかく彼の怒りは弾かれ、手ごたえはまるでなく、わけの分からないことを淡々と言われて目が回りよく分からなくなった。
 次の一言を言った時、彼がどれくらい真剣だったのかは、彼自身にも分からないだろう。



「――お前、男がいるな?」



 は?
 ソラは言いはしなかったが、その表情はそう言っていた。
「どこかに別に男がいるんだろう。そいつの差し金だな? 陰謀だな?」
 だから俺を怖がりもせずそうやってふてぶてしくしていられるんだろう?
「……」
 ソラは目を閉じた。横を向いて、絞り出すように疲れた声が漏れた。
「そういうことになるんですか……」
 ゾンネンは聞いていなかった。
 そうでなければ何もかも説明がつかなかった。どうして彼は、いつまでたっても、男として夫として、権威と財産と自信を持ちえないのか。
 自分を戸惑わせるすべての現象に悪意と陰謀を探ろうとするその眼が、妻の開いた首元からのぞく細い革紐をとらえる。
 はっとした彼女が手で押さえようとするが遅かった。ゾンネンの手が妻の手首を放し、紐を引きちぎってそれを奪う。
 小袋があった。そこまでは見えた。
 しかし、次の瞬間彼は床に放り出され、背中と首の後ろを打った。
 その拍子に手から浮いた袋はソラに奪い返され、ゾンネンが身を起こした時にはもう、彼女は部屋の出口にいた。
 振り向いた彼女は、――怒っていた。
 見たことがないほど、本気で怒っていた。
 彼女は、上に載っていたゾンネンに構わず寝台から飛び出したのだ。これまで、どんな乱暴な性行為の最中にも、決してされたことのない抵抗だった。
「なんでも、許されると思わないでください」
 声は意外なほど低かった。ただ暗く震えていて、それが彼女の怒りの硬さを示していた。
「――ふざけた真似をしたら、次は許しませんよ!」



 それは不適切な脅しだった。
 あらゆる意味で不適切な脅しだった。
 『許さない』とは何か? 『許さない』ならどうするのか?
 家庭内で言われてはならないような言葉だ。
 しかし、カイデン・ライカス・ネコ仕込みの、漲る誇りを植えつけられた一人の人間の口には、ふさわしい抵抗の言だったとも言える。



 私はお前などに馬鹿にされる人間ではない
 ――下がれ!



 それはゾンネンが愚昧の指をその指輪に伸ばしたからだ。
 まさにその部分に触れたからソラは爆発し、その場から立ち去ったのだ。
 しかし取り残されたゾンネンには、何も分からなかった。
 彼は人の尊厳や誇りというものが、分からなかった。
 それは彼の経験世界には存在しないものだったからだ。
 ただ彼は、ソラの剣幕にひどく驚かされ――、怯えと敗北の世界の扉にその刹那背中をつけた。
 それはひょっとしたら彼にとって、どこともしれぬ天ではなく、目の前の人間の真情に触れ、女性というものを知り、自分を知る、少し異なる人生へとつながっていく可能性を秘めた価値のある扉であったかもしれない。
 しかし、その気配さえ、彼は感じ取ることが出来なかった。





 彼は頓珍漢な方向へ向かって走り始めた。
 妻が浮気をしているのは間違いないと思った。
 それは彼にとって朗報だった。
 なぜなら妻の不貞の証拠を握れば、それは彼にとって、妻が劣った人間であることの証拠であり、常に相手を叩きのめせる永久不滅の武器となるからだ。





(つづく)
<<戻 次>>