焦りと憎悪のはけ口を見つけて、ゾンネンはしばらく幸福だった。
 彼はまるで新しい遊びの計画を思いついたこどものようで、長く続く怠惰な生活のなかにこれまでにない目的意識を得て、毎日が意義深くなった。
 それは妻の行動や持ち物の中から、なんとしても彼女が陰謀を企む悪人であるという証拠を見つけ出すことだった。
 それさえ手に入れれば、彼自身は正義の体現者になれる。
 彼は両親の前で彼女を口舌鋭く追及し、うろたえる彼女に否定し得ぬ証拠を突きつけて最後には勝利するであろう。妻はうなだれ、母は拍手喝采し、父も彼を見直すだろう。
 ゾンネンは、――町長の息子であり、学問を修め、職にも就いており、妻もある、共同体の中では完全に大人とみなされるいい年の彼は、本気でこの空想に捕らわれていた。
 それは、まさに子供が寝入りばな、『明日から毎日、体を鍛えよう。一年後には、勇者になれる』などと決意するようなもので、大抵は実行に移されることがない。実行に移されても、十曜日まではもたない、といったような、儚い夢想と同種のものだった。
 恐らく、本来であれば、彼自身もこの遊びに一月程度で飽きただろう。そしてまた不平不満と不安が常に顔面に貼りついている、甘えた青年としての退屈な日々に戻ったに違いなかった。
 彼は妻に愛人がいるに違いないと思って調べた。
 だが、本気で心当たりがあるわけではなかった。
 思いつきで遊んでいただけだったのだ。
 もちろん、誰かが彼に尋ねれば、彼は本気だと答えただろう。だが、彼はそもそも『深刻な疑い』などというものを知らなかった。
 火遊びをする子どものように、彼はさも大学者のふりをして火を取り扱いながら、胸に嫉妬も絶望も抱いてはいなかった。ただ、生意気な妻が悪いことをしているということさえ分かればよかったのだ。
 とは言っても、ソラに愛人などいないので、ゾンネンの努力は空振り続きだった。
 第一、ソラは忙しかったのである。ただでさえ家事と管理の仕事を並行している上、最近は遺産相続の手続きもあれば、相続した祖母宅の整理や管理の仕事まで追加された。その合間合間で勉強も続けていたし、ゾンネンの母親の癇癪にもつき合わねばならなかった。
 友達づき合いさえおろそかになりがちなこの状況で、どこに秘密の男なんか紛れ込ませる余裕があるだろうか。
 ゾンネンは失敗するはずだった。
 そして飽きるはずだった。
 全ては相続に伴って起きた一過性の騒動であって、やがて沈静化していくべきものであった。
 ありとあらゆる妻の持ち物をのぞき尽くしたゾンネンが(それは、妻の机の中身や、衣類、書物も含まれる)、最後に、彼女の首から下がっている小さな袋にさえ手を伸ばさなければ。



 ソラはそれを注意して取り扱っていた。
 普段は首から提げて衣服の奥へしまっていたが、邪魔になりそうなときにはあらかじめ取り外して机の中にしまっていた。
 だからゾンネンは、あの夜までそれを目にしたことはなかった。月経中の彼女は、夫との性行為はないと分かっていて、そのため身に着けたままだったのである。
 あれに手を触れた時の、妻の激烈な反応は覚えている。まるで怒られたような気がしたほどだ――中に、何が入っているのだろう?
 ゾンネンはこれも遊びとして軽い気持ちで始めたに過ぎなかった。妻が不貞を犯していると思い込めば、彼女の生活を監視することもできるし、持ち物を調べることもできるのはすごいことだ。そしてその調査が相手の核心に迫れば迫るほど、わくわくして面白くなる。
 ほどなく、彼はソラの行動様式を知った。寝る時にも彼女がその袋を身に着けていると知った。ゾンネンが見つけた唯一の例外は、入浴の時だ。
 時機を見計らうのが最も大変だった。彼女が入浴する頃には両親とも在宅している。使用人もうろうろしている。特に父親に、おかしな場面を見つかっては困る。
 とは言え、油断している人々が相手である。ゾンネンは決して負けることのない遊戯をわざわざ難しく考えて楽しんだ挙句に、妻が入浴している間を狙って妻の部屋へと入り込み、小机の引き出しの中に、それを見つけた。
 皮の紐のついた、まったく小さな巾着である。
 合わせ目に指を突っ込んで無理やりにこじ開けると、爪の先に硬いものがコツリと当たった。
 つまみ出してみると、それは、指輪であった。
 数秒の間、ゾンネンはその小さな装飾品を、ものも言えず、見つめていた。
 それは、見事な造作の、白銀の指輪で、学者の手になるものだと分かった。ゾンネンなどにはおよびもつかない、長年の修養と鍛錬に裏打ちされた技術のかたまりだ。
 だが彼にとって、見事な指輪だろうが凡百の装飾品であろうが意味はなかった。
 問題はそれが『男物』であったということだ。
 大きさからして、明らかに女性向けではなかった。太い、男の指のために作られたものだった。そしてそれは、使い込まれて、人間くさく、少し古びていた。



 やがてゾンネンはそれを袋に戻し、抽斗に入れて閉め、立ち上がって、妻の狭い部屋から出た。
 夜のことであるから、真っ暗の廊下を歩いて、自分の寝室へと戻った。








 彼は、周囲の人間のほとんどすべてが、自分よりも愚かで間違っていることを望んでいた。なかんずく女はそうで、彼は母親のことさえ、愚かで間違った人間だと見なしていた。
 そうすれば、彼自身は努力をしなくても、人より優れた立場でいることができるわけである。
 実力がすべての学院生活においても、彼は他者との接触を注意深く避けていた。
 高い建物に上り、夜の間光る星を眺め、そして誰もいない早朝の校舎を歩く時には、彼はこの世の王様のような気分を味わうことが出来た。
 ソラのように、まともに歩いて人と衝突すれば、苦渋に満ちた戦いの末に負けることになるかもしれず、女や、自分よりもはるかに年下でしかも実力の勝る相手を発見してしまうかもしれない。
 彼はそんな危険なことには近づかない君子であった。
 だから、現実に傷つけられる経験が不足していた。
 思いがけず。
 彼は傷ついた。
 深く深く傷ついたのだ。
 妻が悪く、自分より愚かで卑劣な人間であることを望んだくせに、現実にそうである証拠が見つかると、色を失い動揺した。
 気分がよくなるどころか、打ちのめされ、最悪に落ち込んだ。
 彼はごっこ遊びで戯れているうちに、大怪我を負ってしまったのである。
 三日も、四日も、彼は暗黒な気分で過ごした。さすがに母親が気付き、どうしたの、と再々尋ねたが、ろくに返事もしなかった。
 あまりに傷つきすぎて母親に話せなかったのである。
 ところで、母親に話せないような悩みは、彼には初めてだった。彼はそれほどに、未熟な青年だった。
 ソラはもちろん、彼が落ち込む理由の心当たりはなかった。それに彼女は忙しく、なんだか夫が大人しくしていてくれて助かる、くらいに思っていた。
 実はゾンネンは四日の間、妻の表情に回答と救いを求めてずっと目で追い続けていたのである。しかしソラがそれに気づけるはずもなかった。理由がないからだ。
 誰もがそうであるように、ゾンネンの気持ちもやがて自然と回復してきた。
 しかし傷痕は残り、痛みは恨みとなって胸にわだかまった。
 言うに言えない悩み。辛く暗い思い。それはゾンネンの甘やかされた頬を削り、表情に少しの影を落とした。
 だがそれでも彼は依然として年齢相応の顔だった。
 むしろようやく、大人にやや近づいた程度であった。
 ゾンネンはソラを警戒するようになった。前のように頭から無条件で馬鹿にして鼻にもかけないのではなく、本気で『こいつは食わせ物かもしれない』と疑るようになった。
 月経が終わって、子を成すための性交渉も再開したけれど、前のように、油断はしていなかった。
 知っているぞと思った。
 お前は、ほんとうは、夫のほかに思い人がいるような、みだらな女なんだ。夫婦の務めに従うことで、まんまと俺を騙しているつもりなんだな。
 そう疑い、彼女の反応を気にして、その奥に彼女の本音を読み取ろうとした。
 彼はむしろ、あの衝撃によってようやくソラが自分とはまったく別の肉体を持った別の人間だと、分かったのかもしれなかった。やろうと思えば、彼女は自分を大胆に裏切って傷つけることができる。
 そう思うと、おいそれと乱暴なことが出来なくなった。どんな仕返しをされるか分からないではないか。
 ゾンネンはソラに怯えた。そしてそれに気付いていなかった。
 ただ妻の不貞に悩んだ。ぐるぐるとめぐる黒い疑いに気持ちが塞ぎ、昼も夜も妻のことばかり考えてしまうのだった。
 本当に愚かな妻を持ったら、どんなことになるか。ゾンネンはとくと味わった。
 しかも実際には、まったく存在しない犯罪によって地獄にいたのである。
 不思議なことだった。彼は、妻の行動を気にし、毎日監視を怠らなかった。それなのに、いつまでたっても男の影が見えないのである。
 ソラは色んな男達と付き合いがあった。これも若い奥方には当たり前のことではないが、ほぼ仕事がらみのつき合いであって、特に親しい様子でもない。一番あやしいのは学院時代からの旧友で眼鏡をかけたあの男だが、せいぜい手紙のやりとりをしているだけのようでしかもさして頻繁ではなかった。
 ゾンネンはその後、三回ほど、同じ入浴時を狙って妻の指輪を盗み見た。
 何か手掛かりになるような情報がないかと調べたのだ。何もなかった。白銀の延べ棒を丸めて指輪にしただけのもので、貴石は埋まっているが既に術の力は抜けている。
 恋人たちの指輪には甘い言葉が刻まれることもあるが、そんなものもない。
 ―― 畜生。
 最後の日にゾンネンはつぶやいて指輪を袋に戻した。もう頭で完全に思い浮かべることが出来るくらい眺めた後だった。
 ――こんなに俺を苦しめやがって。
 許せない。
 いつか必ず、この恨みは晴らさせてもらうからな。
 ゾンネンは極めて混乱した状態のまま、謎を噛み込んで苦い生活を続けて行った。





 そして秋。ソラは倍増しで忙しい日々を迎えていた。
 収穫期だ。
 様々な土地から一斉に農作物の納入があり、町長と協議の上で備蓄に回したり、市場へ動かして売らせたりと大わらわだった。
 ソラにしても初めてだからそううまくは操縦出来ない。失敗して損益を出しそうになったり、管理人に騙されそうになったり、町長に怒られたりしながら必死でよい結果のために駆けずり回っていた。
 秋には収穫祭もあるし、大規模な市も開かれる。こうした行事のたびに町長宅へ来客があり、台所も家内も大騒ぎになった。他方でソラの実家側では死んだ祖母の法要も予定されていた。家族の集まりとなれば、ソラが所有する祖母宅が使われることになる。
 結婚式が冬と夏という過ごしにくい季節によく行われる理由をソラはようやく理解した。どこの家も、春と秋は死ぬほど忙しいということだ。
 それでも少しずつコツを呑み込んで、ソラは充実した日々を過ごしていた。考える暇もないほど忙しい方がよかった。難しくて面白い仕事がたくさんあることは幸せだった。
 秋の終わり頃、珍しいことにゾンネンが旅行に出ることになった。
 町長代理として祝典に出席するために、友人らと共に北部に近い林業の町アバルへ赴くことになったのである。
「アバル成立百年祭だそうだ。田舎者どもが」
 食卓で、何故か町長はその町を悪しざまに言った。
「もともと食うに困って山へ逃げた百姓の子孫どもだ。そんな奴らが、一人前に式典だと」
「よくそんな厚かましい真似ができたものだわ!」
 町長夫人も口を合わせる。
「しかし近年、精力的な町長が就任して無視できない勢いがある。向こうもこちらを招待せぬわけには行かんだろうし、こちらも無下にはできん。
 ――ゾンネン、お前に任せる。私は忙しい。退屈な式典の間、眠らずにおいて世辞を二、三言ってやればたくさんの仕事だ。着飾って行け。ソラ、衣服を選んでやってくれ」
「はい」
「私が選んであげますよ」
 と、町長夫人が口を出す。
「では一緒にやりなさい。いい服がなければ新たに仕立てても構わない。とにかく最高のいでたちで、元気で健康なお前を人に見せてやりなさい」
「そうですよ」
 町長の言葉に、夫人も長い顎で頷く。
 彼らは二人とも、かの町に因縁でもあるかのようだった。
 ソラにはぴんと来なかったのだが、確か過去にアバルの町長の娘とゾンネンの間に縁談の噂があった。もしかすると、その時のしがらみでもあるのかもしれない。
 とにもかくにも、こうしてゾンネンは三人の仲間たちと一緒にアバルへ泊りがけの旅に出ることになった。近隣の宿場町に一泊し、祭りへ出席して再び宿場町で一泊して帰るのである。
 結婚以来、ゾンネンが家を空けることは初めてであった。ソラは、ゾンネンにもこうした大きな仕事があるのはいいことに違いないと考えながら、自分ではなんの準備もできない彼の代わりに、衣類や荷物を整えてやった。
 その間、ゾンネンは無口なまま、彼女の働きぶりを眺めていた。
 実は、ゾンネンは、母親である町長夫人に、彼女の監視を頼んでいた。自分が留守の間に、何か「妻としてふさわしくない」行動をしないかどうか。
 夫人は喜んで引き受けた。息子が嫁を嫌い、自分と結託してくれるなら、彼女はいつだって大歓迎だったのである。






 ため息がもれるほど美しい秋晴れの朝、ゾンネンは友人らと共に車で旅立った。
 街道は混み合っていた。これも時期ゆえだ。市場へ行き帰る商人達や、天候の良い秋に長い移動を行う人々。ゾンネンらのように公務の役人。収穫祭目当ての旅芸人たちまで、通過点となる宿場町はどこもごった返していた。
 ゾンネンは街の外へ出るのは久しぶりだった。同性の友人らとの気楽な道中で、日程は緩く小遣いもたんまりもらっている。仕事は簡単で、終われば酒を飲むことも賭博をすることも女と遊ぶこともなんでも可能だった。
 しかし彼の気分は晴れず、鬱々としていた。残してきた妻のことを考えると、どうにも不安でいらいらしてしまうのである。
 いつも彼をいじめている性格の悪い友人たちも、この彼の様子には驚いていた。ゾンネンは、前のように彼らの顔色を伺うことも忘れて、何か他のことにずっと心を捕らわれているようなのである。
 不機嫌で怒りっぽく、ちょっとしたことで、彼らに対してさえ乱暴な口をきいた。
 いったいどうしたんだ。
 友人らは戸惑いながらも、町長の命令であるから辛抱して一緒に旅を続けた。
 旅程は順調で、予定通りに宿泊を行う宿場町へ着いた。
 彼らはそこで、周囲から浮かび上がった異様な一群と遭遇した。
 ゾンネンらと同じくらいの年齢だが、赤毛や金髪や浅黒い肌をしているよその土地の人間達で、しかもその顔や手足には、赤い、投げ込まれた植物のような大きな入れ墨が彫り込まれているのである。




(つづく)
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