ゾンネンが不在の間に、ソラは初めて食卓で、つまり町長夫人や使用人たちが見ている前で、町長から褒められた。
 ――今年は大変な一年だったと思うが、よくやってくれている。一年目でこれなら、二年目はもっと上手にできるだろう。ありがとう。この調子で頼むよ。
 これはまず町長の釘差しだった。あきらかにソラを嫌い始めていて、家内を派閥で割ろうとしている町長夫人に、自分は賛成しない、止めなさい、と婉曲に申し渡したのだ。
 次に、彼女の上司としての、評価の告知でもあった。これもゾンネンが留守だから言えるのだ。男子の面目は守らなければならない。彼の面前で彼の妻を褒めては、彼の立場がなくなってしまう。
 だから町長はこうも言った。
 ――あとはそろそろ孫の顔を見せてくれたら、申し分なしだね。
 こうした発言は、息子の自尊心を傷つけ焦らせるかもしれない。町長は町長で極めて息子に気を使っていた。
 ソラには言っても大丈夫だと判断されたわけだ。強いから。
 ソラも答えておいた。
 はい。そうですね。よくゾンネンとも話し合います。
 ――あなたには、ほとほとふつうの感覚ってものがないのね。
 と、町長夫人が大きなため息を吐く。
 ――ここは、あなたが反省して謝るところですよ!
 何故、両性で行う生殖行為の責任が一方だけに偏在すると思うのだろうか。
 まったく分からなかったし、議論を始めてもよかったが、ソラはやめておいた。この後にも仕事が残っているし、夕食がまずくなるだけだ。
 ――とにかく、よくやってくれていて、私は満足している。
 町長が再び口を開いて、夫人を黙らせた。
 ――ここ一年とは言わない。……学院が崩壊して以来、ずっと大変だっただろう。東部には君のように学問を修めた女性にふさわしい場所がほとんどないからな。しかも、その学問も道半ばだった。
 ――私は、息子の嫁が優秀であることを歓迎する。このままがんばってくれればいい。実感がないかもしれないが、君は着実に地位を獲得しつつある。君のような人間がこの町で認められれば、学問をする少女たちに大きな励みになるだろう。
 ――うちがそんなものの根拠にされるなんて!
 町長夫人の絶望的な顔とは反対に、ソラは目を見開いて町長を見た。
 そんなことは考えたこともなかった。
 でも、そうか。学問が好きで、上の学校に行って、学者にはならずとも帰って来て結婚して。そして仕事を持って、自分でもさらに学問をしながら子供を産んで、町に根差して、生きていく。
 そういう生き方を自分がすれば、他の誰かの道しるべになることもあり得るのか。
 自分の頃、そういう手本が誰かいたか? いなかった。だから思った。故郷では生きていけないと。
 でも自分が道を切り拓けば。完全に、のぞみ通りの人生ではなくても、細い路地でも、切り拓けば、後の人たちがそれを拡げてたくさんの人が通れる道にしてくれるのかもしれない。
 考えたこともなかった――。
 ソラは、こうした未来を示唆してくれた町長に、真剣な感謝の気持ちを抱いた。
 結婚してよかったと初めて思った。
 もちろんこれは町長の人心の懐柔術かもしれない。だがそれでも、新たな力とやる気が確かに心に湧いて来た。存在が認められつつあるのだ。
 がんばろう。この繁忙期を乗り切ろう。そして未来へとつなげる礎としよう。
 ソラにとっても、それは実りの秋だったのだ。




+




 ちょうど同じ頃、アバルの手前の宿場町に到着した町長の子ゾンネンの一行は、あらかじめ予約済みの宿へ入った。
 すると、その一階に異様な集団があるのが目に入った。
 五人ほどの男達で、それぞれ肌や目、髪の毛の色が違う。全てを覆って地味にしてしまう旅人用の外套を羽織っていたが、その合わせ目からのぞく衣類も見慣れぬ柄や仕立てのものだった。
 彼らは何か、宿の主人と切羽詰まった交渉をしていた。そのため他の客たちが幾人か待たされていた。
 そこにゾンネンらが入ったのだ。彼らも当然待たされることになった。
 大して疲労していたわけではないものの、迷惑に思いながら場を眺めていたが、すぐにその集団のもう一つの特徴に気が付いた。
 頬に、手に、衣服からのぞく体の各部に見える、赤い、とぐろを巻いた黥だ。
 見慣れた――そして久しぶりに見るララシアス文様だった。
 ゾンネンは戦慄した。
 轟音を立てて崩れ落ちる技能工芸学院。いやさ、ネル島。
 借りぐらしのみじめな避難民生活。
 あの大災難を生んだ邪教徒どもが、こんなところで何をしている。
 他の客達も、疑惑の目を彼らにそそぎ、薄気味悪そうにしていた。東部ではただでさえ目的不明の異郷人は目立つ。ここは宿場町であるからまだみな慣れているが、それに赤い入れ墨が加わっては耳目を惹かずにはいられなかった。
 実のところ、東部ではほとんどアルスス教が浸透しなかったので、人々はそれがどんなものなのかもよく知らずにいた。ただ、ひどい被害を出したことは知られていたし、その厄災はおどろおどろしい噂話となって耳に入り、恐怖の想像を広げていた。
 ゾンネンは一般の人々よりは、もちろんそれについて知っていた。
 ソラのように、成り立ちから終焉まで、その仕組みと歴史まで知っていたわけではないが、最も大事な一点については、心得ていた。
 それは、もはやアルススはこの世になく、アルスス学徒達は完全に力を失っており、恐れるに足らないということだ。
 その点で彼は他の人々よりも優位だった。みな、邪教に対する漠とした恐怖を捨てきれず、関わり合いになると災いを受けるかもしれないなどと思って警戒していたからだ。
 しかしゾンネンは違った。アルスス学徒どもは、もはやただの人間だ。
 ただの、そこらの、路傍の石のような人間たちだ。
 しかも未だに黥を焼かずにいるなどと、見下げ果てた心の弱いクズどもだ。
 ここはハライの町長の息子である自分が、問題を解決してやろう――。


「おい。一体どうしたんだ」
 ゾンネンは、友連れ達がぎょっとするほどの大胆さで場に踏み入った。一般に東部民はよそ者と関わり合いになりたがらない。しびれを切らすほど待たされたわけでもなかった。
 五人の旅装束のアルスス学徒達と、困り顔の主人の、どちらもが顔を彼に振り向けた。
「これは、ゾンネン坊ちゃん。ようこそわが宿へ」
 人の好い宿の主人は、たれ目を閉じて会釈する。
「どうしたんだ? こっちは疲れているんだぞ。明日の予定もある」
「は、はあ。この人たちが、部屋を欲しいと……」
 ゾンネンは五人を見た。隠すこともなく、相手の恥部を見てやった。久しぶりに間近で見る、派手な黥だ。こいつらが一時はいかにのさばり、威張りくさっていたことか。
 うち、一人の銀髪の青年が言った。
「お騒がせして申し訳ない。旅の友が病気なのです。一部屋でいいから都合してもらいたい。もし部屋が駄目なら、医者だけでも呼んでもらえないでしょうか。お願いします」
 ゾンネンは胡散臭げに眉根を潜めて彼らを見た。
 みな薄汚れて、疲れた表情をしている。顔には無精ひげだらけだった。
「クサいな、お前ら」
 背の低い褐色の肌の一人がその言葉に顔色を変えた。押しとどめるように、赤い掌でその胴に触れながら、青年が言う。
「申し訳ない。普段は野宿をしております。皆様にご迷惑をおかけしないように。だが病人は重態です。どうか助けて頂きたい。お金はあります」
「お前たちは自分の立場が分かっていないんじゃないのか」
 その頃になってようやく、後ろにやってきた彼の友人たちの強張った顔を、自らの肩越しに見やりながらゾンネンは笑った。
「人を困らせるんじゃない。お前らみたいに臭くて汚れた奴らと同じ宿に泊まるのはごめんだし、医者だってお前たちの仲間なんか看たくはないさ。お前たちが何人殺したのか忘れたのか?」
「――ネルの技能工芸学院の事件については誠に遺憾に思います。しかし、我々は別の学院の学徒です。それにあの事故では、誰よりも多くのアルスス学徒が犠牲に――」
「開き直りか? 反省って言葉を知らないのか」
 銀髪の青年はぎゅっと目を絞った。手はきつく、連れの胴を押さえたままだ。
「反省しております。地獄のような反省の日々を生きてきました。だが病人も、我々も、これまでに誰一人殺しておりません。彼の病気と、工芸学院の事故とは無関係です。お願いします」
 この頃になると友人達にも分かってきたのだが、初めからゾンネンは、彼らの希望を聞く気などまるでなかった。
 相手がどれくらい困っているか知るために遊んでいたのだ。
 自分よりも弱い相手をいじめるのは、彼にとって素晴らしい娯楽だった。だって絶対に反逆され得ないのだから。
 むしろすべての人間関係が、このようにあって欲しいくらいである。
「どんな病気なんだ?」
「喉にしこりが。腫れものが出来て、もう食事もできません。お願いします。どうか」
 ゾンネンは大げさにため息をついて、腕を組んだ。
「血のめぐりの悪い白痴どもだな」
 と、言った。
「俺達は、東部にお前らのような不潔な奴が泊まる宿はないし、医者だっていないと言っているんだよ。もう消えろ。空気が汚染される。東部だけじゃない。世界中に、もうお前らの居場所なんかないんだ。自業自得だ」
 青年の顔色が、その髪と同じくらい白くなった。
 消え入りそうな声で言う。
「我々に死ねと仰るのですか」
「やっと分かったのか」
 ゾンネンは微笑んだ。家庭にも、町にも獲得することのできなかった加虐の対象をようやく見つけて、彼は。
「全員さっさと死ね。俺らの眼に入らない場所でな。一人残らず野垂れ死ね」



 瞬間、仲間の手を振り切って、褐色の肌の背の低い青年がゾンネンに飛びかかった。
 彼らの全員と、そしてゾンネンの連れの全員が反射的に一点に殺到し、もみ合いになった。
 怒号が飛び交い、宿屋の主人が両手を両耳に当てる。
 その時。
「やめろ! やめろ、一体何のつもりだ! ――医者は見つけたぞ! やめろ!」
 同じような外套を羽織った、同じように頬に黥のある金髪の男が飛び込んできて人をかき分け、中に入って衝突を止めた。
 男達は互いに蹴りを入れたり、腕を動かそうともがきながらもようやく別けられる。
 耳を引っかかれ、腹を立てたゾンネンは、次なる怒りの矛先を、この金髪の闖入者に向ける。
 向こうも仲間を押しとどめ、それから振り向く。
 至近距離で目が合った。
「!」
 互いに互いの顔を見て、呼吸を止める。
 二つの集団の間に入って来たのは、金の髪の毛をまとめ上げ、旅装束の、イル・カフカス・イラカだった。




「……申し訳なかった。すぐに退散する。もし損害が出ていれば賠償する。二、三日後に戻るから、その時に言ってくれ」
 宿の主人への言葉だが、その場の全員に終幕の鐘を鳴らすように言った後、彼は向き直り、仲間達をたしなめた。
「何をしているんだ。……もめごとは厳禁だと言っただろう」
「――すまない。イラカ。だが……」
「慣れろ。先は長いぞ。来てくれる医者を見つけた。戻ろう」
「……」
 唇を噛む銀髪の青年の肩を抱き、まだ怒りの収まらないぎらつく目の青年を場から引きはがすようにして、彼は仲間を宿の外へと誘導した。
 他の人々はものも言わず出口までの道を空けるが、その表情は優しくはない。
 東部民は異邦人にそもそも不信感がある。少しでももめごとを起こせば、あからさまな迷惑顔を隠さなかった。
 我慢しきれぬように青年が叫ぶ。
「……こんな土地、クソだ。世界中、クソばっかりだ!」
「分かった。もういい。もう黙れ」
 イラカは、彼らを外へ先に押し出すと、自分は扉の所で振り返った。
 一瞬、迷う素振りを見せたが、大股で戻って来て、ゾンネンに手を差し出した。
「申し訳なかった。ゾンネン。覚えているかどうか分からないが、工芸学院で一緒だったイル・カフカス・イラカだ。怪我はなかったかい」
 もちろんゾンネンは彼のことを覚えていた。
 赤い黥が、まるで装飾のように栄える美貌も、鍛え上げられた体も、きびきびと思い切りよく動く体も。
 みなの人気者であったことも、いつも明るい太陽の下で人に囲まれていたことも、あのソラと真正面から衝突し、醜聞を巻き起こしたことも。
 そして、不可解な友情を結んでいたことも。
 ゾンネンは、握手を返さなかった。
 空中に差し出されたままのその手を凝視していた。
 小指に指輪があった。
 目を閉じても思い浮かべることのできる、あの指輪と同じだった。




+




 アバルの創立百年祭のことなど、もはやまったくゾンネンの思考の外であった。
 町長はうわの空で対応してやればいいくらいのつもりで息子を派遣したわけだが、彼自身、親の期待に応えて有り余るほどうわの空だった。
 はじめは、気を使って色々と話しかけていたアバルの町の町長も、しまいには何も言わなくなったくらいだ。
 友人たちは顔を見合わせ、いったいこれでは双方の友好になるどころか逆効果でやりすぎではないかと案じていた。
 とにかく、ゾンネンにとって、今そんなことはどうでもよいことだった。
 あの男。
 あの男を、つかまえなくては。
 ソラの思い人のあの男を――。
 つかまえてどうするのか、彼の思考は深まらなかった。ただ、その部分でとにかく沸騰し混乱していた。
 あいつだ。あいつだ。あいつだ。
 見つけた。見つけた。見つけた!



 イラカの方は、もちろん何の警戒もしていなかった。寧ろ、ソラのことを考えれば、もう一度くらい詫びを入れておく機会がほしいくらいに考えていた。
 だから、言ったよりも早く、翌日に宿屋を訪れた。
 そこで果たして、祝宴から戻って来たゾンネンと会った。
 ゾンネンは外で話そうと彼を誘った。
 イラカが応じ、友連れが不安げな眼差しで見送る中、二人は宿の外へ出た。





 澄み切った秋の夜空に星が瞬いていた。
 宿場町で明るくても、まだ流れ星が落ちるのが見える。
 少し歩いて、涼しい風の渡る虫の鳴く草地で、彼らは足を止めた。周囲には何もない。振り返れば立ち並ぶ建物があり、なだらかにうねる丘のまにまに、街道が白く骨のように見えた。
「本当に昨日は済まなかった。自棄になってはいけないと何度も言ってるんだが、みんな余裕がなくてね。特にあんたにつかみかかったのは、病人の弟で、思い詰めていたんだ。騒ぎまで起こしたが、結局病人は死んだ。昼に葬って来たよ。医者に診せても手遅れだと、まあみんな分かってた。でもなんとか屋根の下で死なせてやりたかったんだ。
 今朝も本当にみんな悔しがって、なだめるのが大変だった。――済まなかったな」
 イラカの声は風に乗って、虫の声と一緒に夜空に吸い込まれて行った。
 まるで拵えのいい楽器から出る音のように、彼はゾンネンが聞いたことのある中で最もいい成人の声で話した。
 卑屈な感じのまるでない男だった。
 その屈託のなさのせいか、――そして時間の経過と涼しさのせいか、ゾンネンの頭脳からも混乱が引いて、少しく理が戻って来た。
 ソラが、実際に、この男と姦通しているということは、考えづらい、とさすがの彼も思った。
 何しろ彼は目立ちすぎる。
 ソラの外泊の機会は限られているし、ハライ程度の町でも異人が来れば目立つ。ましてやソラが出かけていく農村地帯などでは、こんなあやしい男がいたら即座に噂になるだろう。
 東部では、既婚であろうが未婚であろうが女性の行動には厳しい目が注がれる。まして異邦人相手であれば、それが見過ごされるということはまずない。
 ただ、事実として、あの指輪がある。
 肌身離さない、あの特別の指輪。思い出すたびに視界が暗くなる。
 ――ソラは、あの指輪の持ち主を思い、その気持ちは、真情で、本気だ。
 息の根を止めてやりたい。完全に打ち負かしてやりたい。
 そんなものを打ち砕いて、弱くて惨めで不幸な女にしてやりたい。
 あれがある限り、あれは折れない。
 そう、つまり、あの女は俺と結婚しながら、本当はこの男のことを思慕しているのだ。
 だからあんなに反抗的で、言うことを聞かないのだ。
 そして俺には、その秘密は決して分からないはずだと安心しきっている。
 その鼻先に、こいつの指輪を突きつけてやったらどんな顔をするだろう。俺の賢いことを知り、心の隅々まで俺に見透かされていると知って絶望するあいつの顔が見たい。


 イラカは、彼の胸の内など知らないから、近況など話していた。
 ンマロの学院再生委員会は瓦解したこと。大勢のアルスス学徒が事実上の放浪状態にあること。収容施設の確保にあちこちを飛び回っていること。場所によっては、協力し提供してくれる人もあるということ。
 他方で、体調を崩し発病して死に至る学徒も増えていること。技能工芸学院の元生徒が多いが、そうでないアルスス学徒もある。例えば、今朝亡くなった青年の兄のように。
 とにかく、落ち着ける場所を探して、記録を蓄積していかないと分析も進まないし対策もとれない。ところが、学徒が集まると周囲の懲罰感情を刺激してしまい、摩擦が起きる。とにかく全く道半ばなのだ、と。
 ゾンネンの反応ははかばかしくなかった。聞いているかどうかもあやしかった。
 イラカは笑い、彼には興味のないことだったのだなと思って、話題を変えた。少し苦しい、けれども気になっている方に。
「そういや、ソラは、元気にしてる?」
 その言葉はゾンネンの魂を呼び戻した。虫がりんりんと鳴く中、彼は暗い光の灯る目で、イラカを見た。



「気にはなってたんだよ。学院じゃ仲良くしてたからね。君と結婚したんだろ? 君は幸運だね」
「――何がだ?」
 イラカは両手を広げる。
「ソラはいい子だからさ。それに、賢いし」
「――『賢い』? ……まあそうかもしれないな。だが、いくら賢くても、男より上ってことはない。所詮、女の浅知恵だ」
 イラカはいささか返答に困ったような顔をした。
 ゾンネンは笑う。馬鹿な奴だな。と。
「男同士じゃないか。本音で話そうぜ。確かにあいつは、そこらの女よりは知恵が働いて有望かもな。最近、土地なんか相続して喜んでるよ。浅はかにも。だが、いつか親父が死んで俺が町長になったら、なんでもあいつより上になるんだ。今のうちに、せいぜいいきがってりゃいいさ」
 ここ数週間の、胸にため込まれた鬱憤が、ソラに対する憎悪の言葉となって吹き出した。
 ゾンネンは、うっとりしたくらいだ。ああ、ずっとこれを、言いたかった。
 イラカは、眉を少し中へ寄せるようにして、複雑な表情を浮かべていた。
 それから、言う。
「差し出がましいことを言うようだけど、あんたは本当に幸運な人間なんだよ。……奥さんを大事にしてあげなよ」
「必要なものは全部与えてる。だが甘やかせば、手を噛む家畜になる」
「…………」
「お前も結婚すれば分かるさ」
 二人の頭上を支える天球に流れ星が長い尾を引いて一筋流れた。
 イラカは、息苦しさをはねのけようとするかのように、ぎこちなく口を動かした。
「……元気でやってるのが分かればいいんだ。俺と会ったことは言わないでいいよ。じゃあ」
「待て」
「?」
「その、お前の指輪について聞かせろ」
 一瞬、イラカの顔に走った動揺をゾンネンは見逃さなかった。
 髪の毛が逆立ち、喉の奥が燃え上がるような感じがする。
 ――こいつ。も、ソラのことを――。
 どちらも、背筋を伸ばして立つ人間である、ソラと、イラカ。
 その二者の間になにか浮かび上がってきそうになる価値と連帯に、ゾンネンは憎悪を覚えた。
 イラカは右手を上げ、左手でその指輪を隠すようにした。
「……これは、大事なものだけど。どうして?」
「ソラが同じものを持っている。理由が知りたい。夫として」
「……」
「女物だな? 教えてくれないなら、ソラに聞くほかない」
「――もらったんだよ。もう昔に。別にそういう指輪じゃない。学問に関わるもので、護符の代わりだ。俺にとっては、学院にまつわる大切なものだというだけだ。確かに、ソラも同じ形のものを持ってるよ。俺があげたんだ。でも、それも学問的なものだ」
 イラカの声には少し勢いがなかった。多分、その『学問的』記念品を、自分が恋愛の道具として利用しようとしたことを完全に意識の外に追い出し切れなかったのだろう。
「ソラがまだ持ってるのも、俺があげたからじゃない。作者の教授に思い出があるからだよ。彼女も同じことを言うよ。あんたにもそういう大事なものの一つくらいあるだろう?」
 ゾンネンはその質問には答えないまま、要求した。
「返してくれないか?」
 イラカの青い瞳に彼自身が写り込む。
「妻の持ち物を、他の男が持っているのは不愉快なんだ。夫として。
 ソラの幸福を願っているというのなら、嫌とは言わないだろう?」
 しばらく虫の音を聞いた後、イラカは尋ねた。
「俺の気配が、あんたたちの邪魔をしているのか?」
「遊びに来てくれたって構わないさ。ただ、指輪は、返してほしい。俺が嫌なんだよ。分かるだろう? どうしたんだ。たかが指輪じゃないか。それとも、やっぱり俺の妻に特別な思い入れでもあるのか?」



 イラカは左手の指を使って、右手の小指からその指輪を抜いた。
 そして、歩み寄って、ゾンネンが差し出した掌にそれを置いた。
「ソラを大事にしてくれ」
 ゾンネンはこぶしを握った。唇は笑っていたが答えなかった。
 イラカはしばらく彼の顔を見ていたが、やがて踵を返した。風の渡る草原からいなくなった。




 降るほどの星の瞬く天の下でゾンネンはほくそ笑んだ。
 自分でも「ほくそ笑んだ」のが分かった。
 勝利だった。
 ありとあらゆる意味で勝利だった。
 自分を苦しめていた怒りや苛立ちや劣等感が洗い流されて行くのを感じた。
 拳を天に掲げ、ほとばしる全能感を味わった後、彼もまた宿場へもどるために、体の向きを変えた。



 視界に黒い影が複数映った。
 五つ、と合点が行ったその瞬間、その全てが一気にぶつかって来て、彼の体に冷たい金属の刃が何本も突き込まれた。





(つづく)
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