「おう、おはよう。ゾンネンを見かけなかったか。あいつが金払うはずなのに、いないんだよ」
「……えっ? 部屋にいるんじゃないのか?」
「いない。さっきのぞいたんだが。宿の主も見ていないというんだ」
「荷物は?」
「荷物はある」


「……まさか。あいつ、帰ってないのか。昨晩から」
「お前らも会ってないか?」
「…………」
「だ、だから昨日、探しに行ったほうがいいって言ったんだ」
「うるさい。お前だって面倒くさがったじゃないか! 女を買いに行ったくせに」
「……まだ分からない。探してみよう。ふてくされて先に帰ったのかもしれない」
「支払いをせずに?」
「俺らを困らせるためだ」
「…………」
「とにかくだ。探そう。やばいぞ。……何かあったら俺らの責任にされ兼ねん。もう車が来るまで一時間もない。急いで探せ!」









 その日、ソラは初めて親友フルカの開いた美容院を、開店前に訪れていた。
 夫のいぬ間に、ということでもないが、たまたま付近への用事と重なって、朝の一時間ほどが確保されたのである。
 厳重な鉄格子に囲まれた街道沿いの店は、外からは地味で、古いのか新しいのか分からない暗い小館に見えた。
 が、一歩中に踏み込んでみると、全ては優しく、別世界であった。
「……ンマロだわ。これは、あの街の感じ」
 ほのかに漂う、花の香りを胸に吸い込みながら、ソラはちょっと感激さえしてそう漏らした。
 店内の装飾は、ごく薄い肌色で統一されており、上品でやわらかく、清潔で甘かった。あちこちに新鮮な生花が飾られ、どの隅にも埃一つなく、家具は新しく繊細なものばかりだった。
 ソラは決してこういう趣味の中央にいる人間ではないけれど、懐かしさという要素が作用することによって、一目でこの場が好きになってしまった。
 とにかく、こうした都会的洗練が、この辺りにはないのだ。ハライにはハライの粋や上手があるが、それはどうしても田舎くさいもので、あの貿易都市に花開いていた文化とは底が違う。
 それは知識の香り。繁栄の香り。そして自由の香りだ。
 もちろんなんでもかんでも持ち込めばいいというものではなく、東部であの文化を活かそうと思えば、よほど気をつけなければ悪目立ちして反感さえ買いかねない。
 そしてフルカはよほど気をつけられる人間だったのである。
「別世界を志したのよ。この扉を抜けた瞬間、気持ちがまるで変わるようなね」
 今やこの美容の館の主となったフルカは、今日は髪の毛を後ろでまとめ、顔の周辺にはゆるく巻いた前髪を垂らしていつもながら巧みだった。
 女性ばかりの従業員たちもみなそつがなく、それぞれに個性があって似合う服を着ている。周囲から切り離された魔法の国みたいだった。
「そと見の地味さとの落差もいいわね。秘密の場所に入る感じで」
「この田舎道で、ンマロの表通りに出すような外装にはできないからね。にしてもソラがそんなに気に入ってくれるなんて思わなかったわ。どうぞ座って。すぐにお茶が来るわ」
「僕らには懐かしい感じなんですよ。ここにいると、僕もまるで昔の日々が戻って来たみたいな幸せな感じがします」
「…………」
 従業員もみんな女性。客もみんな女性という、基本的に男子禁制のこの館の主の隣に、当たり前みたいな顔で立っているのはハンであった。
 フルカは腕を組んで目を皿のようにして彼を見る。
「まったく遠慮なしに上がり込んできて。あなた、ソラのこととなると図々しいわよね」
「そんなことないですよ?」
 このとぼけ方がすでにして図々しい。
 フルカは顎を反らして声を潜め、彼の耳元に悪態をついた。
「……そんなにソラが好きなわけ、この童貞坊主」
 ハンはすまし顔だ。
 彼は、ソラがこの店にやって来ることを知ると、別にどちらが招いたわけでもないのに、いつの間にやらちゃっかり定刻に店の前で待っていたのである。
 さすがに入れないわけにはいかない。
「……昔は現実逃避なんて何の価値があるの。下らないって思ってた」
 ソラは示されたふかふかの寝椅子に、女学生よろしく飛び込むと、うつぶせに寝そべって心底安堵したように目を閉じた。
「……でも、分かるようになっちゃったなあ。攻撃されない、平和で安全で静かな逃げ場所が、どれくらいありがたいものか。あーーー」
 二人の前で、バタバタと動く足が四掻きほどして止まった頃、お茶がやって来た。
 ソラも立ち直って、一同座り、香りのよいテニ茶を頂く。
「テニ茶もおいしい……。クセがあるのに。懐かしくてもうなんでもいい……。おいしい」
「……これは確かに変な気分になりますね。涙が出てくる」
 潮のにおいを思い起こさせるテニの味。
 いつもの仲間。自由なンマロそのものの店内。
 深い東部の森の只中で、姿かたちを変えた三人の若者たちは、しばし郷愁に耽った。
 フルカも意地を張っているのが馬鹿馬鹿しくなり、ため息をつく。
「まあいいわよ。ハンさん、あんたは特別に女の子扱いしてあげる。また来たらいいわよ」
「……ズッ。ありがとうございます」
 ハンは本気で泣いていて、眼鏡を取って手拭いを目元に押し付けていた。
 ソラはソラで、
「ごめん、フルカ。おかわり下さい」
 長くため込まれた、名状しがたい情を融かし出せる秘密の場所。確かにこの店はそんな女性の避難所として作られたのだが、二人までが客と見分けがつかないくらい術中にはまっていた。
「……正直言って、あなたたち二人がこんなになっちゃうとは思っていなかったわ」
 フルカが驚くくらいである。
「自分の才能が恐ろしいくらい」
「繁盛しているんでしょう」
「徐々に徐々にね。でもまだギリギリ赤字よ。借金はかさむばかり。ただ最近、予約がぐっと増えたから、ここから盛り返していけると思うんだけどね」
「今度からは私もここへ来るわ。いつもの商品を取りに。秋の仕事が終わったら、町長から給料がもらえるはずだから」
「ソラから代金はもらえないよ」
「いいの。お店がなくなったら私も困るし。とても助かってるから」
「何です?」
「童貞君にはかかわりのないことよ」
「性交をするのがそんなにえらいことなら強姦魔でも町長にしたらいいじゃないですか?
 ……冗談はともかく、このお店で出しているその商品について、町でちょっとだけ噂になっていますよ。あまりよくないほうの噂です。要は、女性の隠し処に塗る薬ですよね? 堕胎のための毒薬だと」
「でたらめよ。うちでは堕胎薬は扱っていないわ。扱えたらいいけど」
「まだ全然大きくはないですが……、一部では、あなたは女性にとんでもない知識を教える毒婦だということになっていますよ。神の教えに背くと」
 ソラは眉根を寄せる。
「どの神の?」
「……仕方ないわ。そういう反応が起こることは分かってた。実績を積み上げていくほかないの。大事なのは同時に予約も増えているってこと。評判が広がるから、悪い噂も広がるのよ。それほど心配すべき段階ではないわ。
 ――それよりも、ねえ。もうちょっと社はどうにかできないの? 苦しんでいる女性が多すぎるわよ。昨日なんて、体中あざだらけの女性が来た。髪を切りに来たんじゃないのよ。助けを求めに来ているのよ。実家に戻ることを勧めたけど、両親が分かってくれないって悲観してた。こういう状況の時、神官はもっと介入できないの? 例えば、仲裁が必要だと言って匿うとか」
「……大変な摩擦を引き起こすことになりますからね。おいそれとは出来ないでしょう」
「シギヤの神は産みの神でしょう。どうして女性の犠牲を見ないふりするの?」
「こうやって非難合戦をしても仕方がないですよ。フルカ。寧ろ、今生まれつつあるこの場の機能を充実すべきです。私が仕事の最中に、もし苦境にある女性を見つけたとしましょう。私はこのお店のことを教え、来店を勧めます。もちろん、このお店で出来ることは現状では限られているでしょう。でもここから先を作ればいいんです。薬の販売で済む場合もあるでしょうし、もっと深刻な事態がある時には、その先も提供できるような仕組みがあればいい。そうですね、例えば、一定期間逃げることのできる隠れ場とか。或いはもっと――ンマロにいる人たちとの連携によって、新しい住居、職業、生き方を用意するとか。ンマロではそういうのがあるんですよね。そこに近づけて行くのはどうですか」
 いきなり、フルカは口を横に開いて歯列をむき出しにし、横に倒れて悶絶し始めた。
「あーーー悔しい。童貞にいいこと言われた! 悔しいぃ。しかもそれが、ソラに気に入られるための算段だって分かってることが悔しい。なのにいい案で悔しい。あーーー」
「……本ッ当に、失礼だなあ……」
 ハンは苦々しく言ってお茶を啜る。
 さすがにソラもそれは言いすぎだと思った。ハンは、真面目な神官見習いだ。立場上出来ることは限られているとしても、人々の苦難については私心なく胸を痛めているはずだ。
「とにかく連携しましょう。簡単にうまくは行きませんよ。危険な領域です。少しずつやっていくしかありません。あとあまり悪評が立つのもやはり考えものです。気の弱い方がここに近づけなくなりますから。有力者とのおつきあいなんかも、疎かにしないほうがいいですね」
「つき合いか。……最近忙しいし、昔馴染みに会うのもなかなか面倒くさいのよね……」
 その語の含む意味に、ソラとハンはやや気まずくなる。
 やがてソラが言った。
「協力するよ。町長にも、なんとなく話しておくよ。あの人はそんなに頭ごなしには否定しないと思う」
「……そうお」
 フルカは才気卓抜だが、これまで慣習の裏道を通って金と力、機会を引き出してきた。そのために表立っての活動に微妙な弱さがあるのだ。真面目一辺倒のソラとハンはそちらを引き受けるべき立場だった。
 この場の持つ可能性を、終わらせたりとどめたりするのは惜しい。二人にとってもだ。
「さて、私はそろそろ行かなきゃ。開店前にありがとう。また来るね」
「お互い忙しいね。ゾンネンは今日帰るんだっけ?」
「うん。夕方くらいには戻るかな。もう二三日、旅行してくれてもいいんだけど」
「少しはましになってるの? あのお坊ちゃんは?」
「んー……」
「あんな人にソラのことが分かるわけありませんよ」
「童貞は引っ込んでなさい」
「まあ……、色々あるけど、なんとかなっているからいいわ。私が未熟な点もあるし。今はとりあえず、仕事が忙しいからあまり考えないことにしてる。とりあえずは、あの人はあの人なりに生きててくれたらいいわ。そのうちなんとなく、まとまって来るものでしょう」
 ハンにもフルカにも、ソラが苦労して言葉をひねり出しているのが分かった。やはり、彼はソラにとって難題であり続けているのだ。
「――それに、私が土地を持てたのも、こうして仕事が出来ているのも、結局は、ゾンネンと結婚したおかげだからね。求めすぎてはいけないのかもしれない。私はあの人から、もうもらえるものはすべてもらったかもしれない。だから……いいわ。多くは望まないわ。とりあえず、健康に生きててくれたらいい」
 フルカはため息をついた。
「結婚三十年目の奥さんの台詞ね。こないだまるきり同じようなことを言ったお客様がいたわ。問題はソラが結婚一年目でそれを言ってるってことだけど……。
 ――いいわ。『とりあえず』、お仕事がんばって。あんな難しい男を旦那にして、一年でここまで来れただけでも良しとしましょう。それぞれ一応それなりな足場を確保しつつあるわけだしね。足場が固まったら、きっとまた新しい仕事が出来るようになるわ」
「そうですね。ここを溜まり場にしましょう。僕も帰ります。ソラさんがいないんじゃ」
「ものすごい無礼だわよ、この眼鏡童貞!」
「言い返して差し上げたいのはやまやまですが、僕はあいにく汚い言葉が言えない育ちなんで」
 割と本気の喧嘩になりそうになった二人を別けて、ソラはハンと一緒に店を出た。
「まったく。女は男から自由になるべきだと言ってる同じ人が、女と関係しない男のことは馬鹿にするんだから」
「……想像もしていないんじゃないかな。その、女性に興味のない男性がいるなんて」
「男性にも興味ないです。『性』に興味がないんです。想像つかないですか」
「……多くの人は、多分ね」
 朝霧の去りゆく林道を並んで歩きながら二人は話した。
「例えば私とハンさんがここで手をつないで歩いてたら、一発で『不倫』って言われるよ」
 ハンは帽子をかぶって前を見ながら言った。
「手はつなぎたいですねえ。好きは好きですから」
「でも性的なものじゃないんでしょ」
「違います」
「うーん……」
「分かってますよ。誤解されることは。僕にとっては面倒くさい世の中です。気を付けます。用心深いだけが僕の取り柄ですから。なんとか『ちょっとした変人』くらいで人生終わりたいものです」



 やがて彼とも、分かれ道で別れた。ソラは近くの町に義父町長の代わりに書類を提出に行き、そして昼前には家に戻った。
 最後の平穏な数時間だった。
 午後二時頃。家に人が飛び込んできた。ゾンネンと共に旅に出ていた三人のうち一人で、大きな商家の跡取り息子であった。
 部屋で仕事をしていたソラは使用人に呼び出されて居間へ行った。
 そこでは、町長が暗い顔で椅子に座り込んでいた。そのすぐ隣に見覚えのある旅装束の青年が。台所の方から、悲鳴のような激しい嗚咽が聞こえてきた。――姑のものだ。
 雰囲気が変だった。明るい昼下がりなのに、皮膚がひりつくような不吉の闇が、何の準備もできていないソラを、うろたえさせる。
「……な、なにごとですか……?」
 やっとのことで尋ねると、それに反応して町長が何か言おうとした。
 だが、言葉にならなかった。彼はうなだれ、その顔は闇に沈んだ。
「一体、なにが?」
 眉間に皺を寄せて、ソラは客人に尋ねた。彼は何故かソラの顔にひたと視線を向けたまま、言った。
「ゾンネンが亡くなりました」




「物盗りに殺されたのです」








 午後六時頃。すでに陽が落ちて暗くなり始めた頃、遺体が到着した。残り二人の友連れと、雇われた男達が、戸板に体を乗せて運んできた。
 愁嘆場になった。
 町長夫人は布を取り去り、遺体に抱き付き、身を絞り、両手を上げ、大声でむせび泣いた。みな止める術もなく、ただそれを見守るしかなかった。
 彼女は遺体を抱き込み、誰にも触らせようとしなかった。
 その悲嘆の声は開いた玄関を通じて通りに流れ出した。町の人々は急な不幸の知らせに眉を曇らせ、人垣を成して通りを埋めた。
 町長は、遺体を目にするや顔を反らし、つかつかと部屋から出て行った。
 ソラは――ソラも、呆然としていて、出来ることなら夫の死に顔を網膜に浮かばせたまま、ぼうっとしていたかったが、その場でまともに動ける人間がもう残っていなかった。
 使用人たちはちらちらと彼女の顔を見やり、――その重圧に負けて、彼女は家内の指示を出さねばならなかった。
 とにかく、三人の連れと臨時雇いの男達には礼を言って引き取ってもらった。扉を締め切り、客を入れないようにし、中と外を断ち切ると、家令に、葬式の――信じられない――葬式の準備を命じる。
 客間では夫人がまだ泣き喚いていた。その傍には古くからの夫人の味方の召使がついていて、とても傍に寄れる雰囲気ではなかった。
 いや。
 ソラを麻痺させているものがもう一つあった。
 そこに近づけない呪いのようなものがもう一つあった。
 昼以降、ずっと自分の胸にも、見えない刃物が刺さっている。
 あの男が、言ったのだ。始めの知らせを持ってきた男が。
 当然町長は、一体何が起きたのかとわななく硬い声で尋ねた。
 すると。


 ――思えば、到着した時から、不吉な予感はあったのです。宿であやしい外国の男達と会いました。我々は彼らを疑いもしませんでしたが、彼らは宿でもめごとを起こしていました。
 ゾンネンは男気を出して、そのもめごとを止めさせました。でもそれが不幸の始まりでした。得体のしれない連中などと関わり合いになるべきではなかったのです。あいつは正しいが故に災難に遭ったのです。


 ――アバルでの祝典を終えて、宿に戻りますと、昨日の男たちのうちの一人が待っていました。待ち伏せしていたのだと思います。我々の戻りを待っていたのですから。
 彼はゾンネン一人に話しかけ、二人は宿の外へと出て行きました。我々は、同行しようと申し出たのです。しかしゾンネンは笑って、『一人で十分だ』と言いました。
 不吉な予感は当たりました。夜になっても戻らないので心配した我々が探しに行くと、野原で彼が血まみれで倒れているのが見つかりました。我々は宿へ運び込み、医者を呼び、懸命に介抱しましたが……甲斐なく、朝方彼は亡くなりました。まことに残念至極であると同時に、殺人犯の追捕を望みます。


 ――ゾンネンは、我らが誇るべき友でした。常に前向きで、正義を貫き、思いやりがあり、弱いものを助け――
 は? ……報せ、ですか? ……申し訳ありません。本来は夜のうちに報せを出すべきでしたが、我々は親友の傍を離れがたく――いえ、それに、当人が言ったのです。うわごとのように。『平気だ……。すぐによくなる……。両親には言うな……。ご心配なさるから……』。まことに忠孝の鑑であります!


 ――これは卑劣な犯罪であります。あの男どもは、前夜ゾンネンに公平に扱われ、場を取り持ってもらったにもかかわらず、寧ろ恥をかかされたと逆恨みして野蛮なだまし討ちを計画したのであります。
 遺体には四方八方から刃物による一撃が加えられておりました。あのような高貴な男に対して、持つことが理論的に不可能なほどの強い恨みを、彼らは抱いていたのであります。
 やはり外の連中は狂っており、獣以下であります。常識や人の道というものが分からないのであります。
 追捕と徹底的な処罰を願います。幸いにしてうち一人の悪党の名前を、我々ははっきりと覚えております。
 イル・カフカス・イラカであります!


 ――え? それは、名乗ったのです。向こうが。……偽名? ……そうは、思わないでありますが、確かに、そうかもしれませんが……。
 ……いえ、あの。申し訳ありません。私もあまりのことに混乱しております。ただ、その男はそう名乗ったのです。ゾンネンが堂々と名乗りを上げたことに応えて、ならば、というかたちで。
 偽名であったかもしれません。しかし……。
 ――む、無駄かもしれませんが、その名で手配をかけて頂くべきと私は思います! 他でもその偽名を名乗っているかもしれません。
 探すべき非情な人殺しの名前は、イル・カフカス・イラカとその一味であります!







 ソラはその後の記憶があまりない。
 二本足で立って動き回り生活していたことは確かだが、葬儀の段取りを順々とつけたのも彼女に違いないはずだが、雲の中にあるように現実味がなく、疲れもせず眠くもなく腹も減らなかった。
 町長夫人はほぼ一時も遺体の傍を離れず、その隣に床を敷いて眠る始末で、町長が呼んだ街道の警邏隊が来た時も、触らせず、自分で遺体の衣服を開き状況を説明したくらいだった。
 最後に警邏隊の隊長は町長に尋ねた。
『その人殺しの名前に心当たりはありませんか? これまでに、聞いたことは?』
 町長は答える。
『いいえ。一度も』
『――そうですか。最近、各地に学生くずれの不良分子が増えておりましてね。証言からして今回も、恐らくその無頼の徒の仕業でしょう――』



 それもみんな、現実に起きたことのはずだが、短い悪夢のように、切れ切れにばらばらに頭に残っており、何時間前のことだったのか、ついさっきのことなのか、それさえ分からなくなった。


 ソラは、多分葬儀の日の朝、手を滑らせて動物の乳の入った水差しを膝の上でひっくり返し、下半身を真っ白にした。


 糸で繰られる人形のように、妙にぎこちない動きで大勢の人が喪服で集まり水の流れのように流れて行ってやがて引けていく。
 彼らの言うごにょごにょとした言葉が、異国の語のように耳に残らず崩れていく。


 棺の中にはやたら青白い夫がいて、その鼻腔の中に綿が詰めてある。
 一体なんだって……。



 気が付けば、彼女は墓場にいて、もう棺の上に土が次々に放り込まれる。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 町長夫人が、使用人の手を振り切って、穴に入る。
 土が止まる。
 黒い服の人々が歩み寄って、何とか夫人を引っ張り出す。
 騒ぎの傍ら、地面に刺さった黒い長い矢のように立っている町長。
 墓場の周囲は刈り取りの終わった畑が無数の切り株を残して、赤い夕焼けに死んだ大地のようになっている――。



 あれ。横に、フルカがいる。
 いや、自分は、フルカにつっかえ棒になってもらって歩いているのだ。



 言葉はない。
 ゾンネンが死んだ。
 しかも、
 当たり前の死に方ではない。
 ――






 次に何が起こるのか。
 ソラは分かっていた。
 だからきっと先に死んだふりをしたのだろう。
 あらかじめ死んでいてもそれはもう一度死ぬのと同じくらいの肉弾だった。
 葬儀から、多分、三日くらい経った頃。
 朝になって、居間に行くと、ソラはいきなり町長夫人にものすごい言葉で罵倒された。


「この売女!! 腐った外道!! あんたが殺したんだねえ!!
 あんたの情人だというじゃないか!! あんたの指図だったんだねえ!! 殺してやる!! あんたはこの家を乗っ取りに来たんだ!! 殺してやる!! 悪魔!!」



 襟首に手が伸びて爪が皮膚に刺さった。
 もがく町長夫人の身体を、何人かがかりでようやく引き分ける。
 それでも夫人は絶叫を続けた。殺してやる。殺してやると。



 ソラは身の危険を感じた。
 蒼白の顔で、町長を見ると、彼は、この数日ですっかり白くなった眉を動かすこともないまま、硬い声でソラに言った。



 妻を追い出すわけにはいかない。
 君はもうここにはいられまい。
 生まれた家に戻って、外出を控え、大人しくしていたまえ。
 ことがはっきりするまで。




 ソラは、町長宅を出ることになった。
 ハライの町は、彼女に関する悪い噂で、まるで汚染された海のようであった。




(つづく)
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