プロローグ



 その日は、半月に一度の市の立つ日で、人口四千の小さな東部の町ハライもいつもより賑わっていた。
 近隣の農家から大勢の農作物が集まり、さらに規模の様々な行商人が出入りして、堅実な町の人々に自分たちの商品を買ってもらおうと手を叩き、明るい声を出していた。
 しっかりした目で露台を見て回る大人たちの間を、駄菓子を手にした子供たちが走り抜ける。
 そんな実りの秋の昼下がりに、彼はやって来た。


「よっ! お久しぶりー!」
 頭上の天に突き抜ける晴れ晴れとした声を聞くより前に、ソラもハンもとっくに彼の姿を見つけていた。
 何せ全員が黒髪黒目の東部で彼のような金髪碧眼は周囲から浮いている。そもそも長身である上、前にもまして派手な民族柄の上掛けやショールをまとって、しかもそれが上手に決まっているので一層目立つ。
 しかも頬には黥。
 ハン・リ・ルクスは見ているだけで恥ずかしくなったらしく、腕組みをしたまま顎を引いて照れたように漏らした。
「……派手な人ですね〜」
「まあね」
 カエル・ソンターク・ソラは軽く手を振って、相手の、ほぼ体操のような両腕の挨拶に応えた。
 確かに恥ずかしい。
 東部ではまずほとんどの人間が、普段の動作では肩から上へ腕を挙げない。学生でいっぱいだったネル島でならともかく、ここハライでは屋内に闖入した鳥のように大仰で、周囲の町人達が驚いている。
 ――『注目を浴びる』。
 これもハライでは悪徳とみなされる行為の一つだ。実際には悪いことではないと知っているから怒りはしないが、既に帰郷して一年、すっかり東部民に戻っているソラとハンには結構な試練だった。
「わーい! ソラー! ハンさーん!」
 鳥の方は人間の思考なぞ分からない。大腕を振って駆け出してまで来る。
 事ここに至って二人の余裕は底を突いた。ソラは慌てて手を前に突き出し、突進してくる彼を止める。
「触るな! 抱きつくな!」
「えー……」
 それでも一応イラカは止まってくれた。既に前に伸ばされていた両の腕をばたばたさせる。
「つれなーい……。久しぶりに会ったのにぃ……」
「東部じゃそういうことはしないの!」
「なんだい。けちん坊。いいよ、じゃあハンさんにする」
「……え? ――んぎゃあああああ!」
 瞬時に角度を変えて油断していたハンに襲い掛かる。ハンは騒ぐが、これは別にいいのだ。男同士だから。
 目に見えない慣例だ。東部では男女の境はあらゆる田舎と同様、何よりもはっきりしている。
 ただ、同性の友人同士だとしても、公衆の面前で抱き付くなんてまるで童子の振る舞いだが。
「いやもう、改めまして、お久しぶりです。お二人さん。もうどれくらい? 七か月ぶり? だっけ?」
「――何言ってるの。こないだ一周年が過ぎたんだから、もう十五か月ぶりとかでしょう」
「そうだっけ。俺もうなんか年月の感覚壊れてて。二人とも久しぶりなのは分かってるんだけど、なんかついこないだまで一緒にいたような気もするし。あんたらも変わらないね。あ、でもハンさん眼鏡だね!」
「ええ。その眼鏡も飛ぶかと思いましたけど」
 手荒い抱擁からやっと解放されたハンは、真っ赤な顔の上で眼鏡の位置を直す。
「どうも予後がよくありませんでね。近くは見えるようになったんですが、遠くが駄目で。試用中です。でもこれ疲れるんですよ。頭も痛くなりますし、ツルのかかる耳が痛くて」
「でも似合うよ。学者先生って感じだよ。今、もう神官やってるんだっけ」
「見習いですよ。現職の先生の下で。毎日叱られっぱなしです」
「ええ、そうなの? ハンさん真面目じゃん?」
「融通が利かないもので」
「色々あるのよね。田舎の社には」
 ソラは口添えする。
 ハンは普段は二つ隣の田舎町に暮らしていてそこでシギヤ神官の修行をしているが、いろんな悩みを手紙で書いて寄越すのでソラはそのいくつかを伺い知っていた。
「ああそう。まーそうなんだろうね。いかにも古くて伝統のある落ち着いた田舎町だもんなあ」
 イラカは体を回して賑わうハライの街を見回した。
「でも環境がいいね。最高だね。いい農作物が取れそうじゃない。飲み水も安全でおいしそうだ。みんなのびのびしてる」
「――」
 ソラとハンの表情からわずかに笑みが抜ける。
 横を向いたままのイラカに尋ねる。
「……ンマロはどんな感じなの?」
「相変わらずだね。市民はみんな水を買ってるよ。ただそうできない人間は井戸水を飲むんで、今後影響がどう出るか。……漁は再開されてね、一応マオを使った動物実験では問題がないと言われてるけど、不安が濃くてみんなあまり食べようとしない。それでも徐々に緊張は緩んできたけど……んー。まだ原状回復には程遠いね。
 学院再生委員会も結局市内に拠点を置けなくてさ。郊外に建物を確保したんだけど、それもなかなか厳しい。近くの住民達が入居に反対してて、まだ受け入れられてないね。市の篤志家達が庇ってくれて何とか留まっている状況だけど。妨害とか嫌がらせもあるよ」
 海上に浮かぶ学問の牙城であった技能工芸学院の崩壊に伴う、『辛い水』問題だ。
 学院の崩壊時、地底で爆発が起きて、アルスス神を構成していた膨大な熱量が周辺に撒き散らされた。この異常な熱が水を変質させ、さらにそれが大地に染みた結果、様々な問題が起きている。
 近海ではたびたび魚の大量死が起き、それを捕食する鳥類の被害も確認されたため一時漁業が中止となった。水をかぶった大地からは奇形の植物が伸びた。そして直接それを浴びた人間の身体にも様々な異変が現れ、ハンは視力が戻らず、ソラの身体にも五六か所に奇妙な皮膚の変質がある。火傷の痕のようなものだ。
 無論イラカの身体にも何かあるはずだった。同じ時に同じだけ水を浴びているのだから。
 約一年前の夏。技能工芸学院は、祟り神アルススの拡大を阻止しようとした英雄クローヴィスと銀鈴博士ネコによって崩壊し、島一つが吹き飛ぶ甚大な被害を出した。
 学院関係者と学徒、そして住民を含めた死者は現在五十三人。行方知れずの人間も未だ三十人に上っている。
 真意はどうあれ、それは学問の暴走の結果であり、これまで我は知識人よとふんぞり返っていた島にひしめく学者達の誰一人としてその事故を未然に防げなかった。
 それだけでも市井の人々を呆れさせるには十分であったのに、さらに長く続く不気味な二次被害として水の問題が出た。漁師たちは生活を破壊され、市民たちも土地を汚されて未来と健康に不安を撒かれた。
 当然ながらこれは人々の激しい怒りを招き、アルスス学の権威の完全な失墜のみならず、学問全般への大いなる不審と憎悪を産み、影響は世界中に波及していた。
 それでも、遠く離れたここ東部ではまだ平和なものだ。汚染もここまでは届いておらず、すべての事故は別世界での話で、社に属していない学者が胡散臭くみられるのは逆に今に始まったことではない。
 保守的な東部では、進歩や学問に対する不審の念は前々から非常に根強いものがあり、今回のこともあたかも他家の火事でも眺めているような様子で、別の意味で深刻に受け取られていないのである。
『ほら見たことか。うちのようにやらないからだ』――。
 これは確かに無関心と無理解の一形態であって、それにソラやハンが苦しめられていないわけではないのだが、そうは言ってもやはり、現地に比べれば、はるかに人心は穏やかである。
 普段渦中にいるイラカはそれどころではないのは分かっていた。まして彼は、問題のアルスス学徒だったのだから。
 禁忌の神アルススは黥を通じて信徒と直接交信した。ために学徒らは全身に入れ墨をした。過去には勲章であったそれは、今や隠すことが非常に難しい烙印と成り替わっていた。
 何食わぬ顔で再会したものの、内心ソラもハンもひやひやしている。隠していないんじゃないかとは思っていたが、案の定イラカはあっけらかんと黥面で現れていた。
 正直、市の日でもなければ大きな噂になったかもしれない。
「お会いできて本当に嬉しいですが、イラカさん。その格好でここまで問題ありませんでしたか。普段も隠さずに行動してるんですよね?」
 ハンの質問の意味をもちろんイラカは取り違えなかった。
 にやっと笑って言った。
「問題って小さいやつのこと? 大きいやつのこと?」
「……あったんですね」
 思わず眉をひそめて目を見開くソラの横で、ハンはがっくりと肩を落とした。
「あっはっは。東部の人の気質ってのも少し分かったよ。大人しくて善良が売りなんだけど、俺が一人で向こうが大勢だと、どうやら気持ちが大きくなるらしいね」
 見事に自分たちのいやらしいところを見抜かれて、ソラは恥のあまり死ぬかと思った。多勢のために調子に乗った自分たちの同胞がどんな態度を取ったか、目に見えるような気がした。
 どうせ自分たちがいかに道徳的に正しいかを誇ったのだろう。道徳的正しさを誇ること自体、道徳的行動ではないのに。また多くの人は別に道徳的に正しくなかったから災難を被ったわけではないのに。
「……ごめん。どこで? 宿とか? 街道とか?」
「大丈夫だよ。こちとら慣れてるから。これくらい、小事小事」
「……どうも我々は、卑小なところが、ありますから……」
 ハンも冷汗をかいている。
「平気だよ。異邦人に対する歓迎式典みたいなもんでしょう。こんなので傷つくほど、俺繊細じゃないって。どれだけあっちこっち行ってると思ってんの」
 確かに彼は日焼けしていた。
 事故以来、社交技術のある彼は再生委員会に所属し、後始末と学院の再興のために各地を飛び回っているのだった。黥を頬に刻んだまま、だ。
「……今回はトラノの街にご用事だったんですっけ」
「そ。シギヤ学の有能な学者さんに委員会に加わってもらえないか話つけに来たの。ついでにここまで足伸ばしたの」
「どうでした?」
「まあ一回じゃねえ。それに、とにかく前の学院長に馘首されるみたいに学院を出てるから、延々と三日間『ほら見たことか』話をされたよ。また来るか、別の人間が説得に来ることになると思うよ」
「……大変ですね」
「いやいや。これも学問だから」
「はい?」
「今、残ってる全員のアルスス学徒が身体記録をつけてる。事故の後、どんな影響が現れるのか確認するためにね。アルススが砕けても、まだ学問は終わらなかったよ。俺らが健康で生き延びてれば、事故に巻き込まれた人たちの安心材料にもなるだろうしね」
「…………」
 ハンは、なるほど、という言葉を飲み込むようにして黙った。
 イラカの青い目が優しくたわんでソラを見る。
「ソラはどう? 今、働いてるんだっけ?」
「――うん。まあ……そう」
 ソラは煮え切らない答えをした。
「近所の商店で……、店番のような」
「恥ずかしがることないのに」
「…………」
 ソラもそう思う。望んで就いた仕事だ。伝手でも知り合いでもなく、自力で探してきた。
 僅かながら給金を稼いでいる。何も恥ずかしがることはない。はずだが。
「それにしても、ソラが接客なんてねえ。笑顔でいらっしゃいませーとか言うの?」
「…………」
 別の意味で恥じ始めた彼女の横から、ハンが口を添える。
「評判いいんですよ。丁寧で親切だって。ソラさんは簡単に人を馬鹿にしませんから」
「まあ確かに公平だろうね」
「あと、ふざけたお客さんとは堂々と渡り合って時には喧――」
「ハンさん、もういい……!」
 たった一度、別の店員を若い女だと舐めてかかった客と対峙して、一歩も退かなかっただけじゃないか。言い負かしたというのでもなく、向こうが最終的に引き上げていったというのに過ぎない(確かにあれ以来二度と来ていないけれど)。
 他の店員や客の間で何か武勇伝のように語られるが、自分としては決して繰り返してはならないことだと思っているのだ。
 分かり切っていたことだが、この話はイラカにたいそう受けた。
「目に浮かぶなあ」
 と、肩を揺らして大笑いの最後に言う。
「まあソラさんともあろう人が、そういうちんこ野郎を許すわけないよね。最高だね。――よかった、いつもの通りのソラで。ここでのソラも俺の知ってるソラで」
 何か彼は本当に安堵したような様子だった。
「もう止めてよ……。あれは、あんまり弱いものいじめだったから、つい腹が立って。……反省してるんだから。お店に迷惑かかるし、二度とやらないよ。――イラカこそ、変わらないらしいじゃない? 女の子が好きで。フルカから聞いてるよ」
 コマイ・ソンターク・フルカ。ソラの同い年の親戚である。
 彼女は学生ではなく、ンマロの美容室『銀のマオ』で働く美容師見習いで、あの事故の後も修行の途中だからと同地に留まっていた。
 ソラとはかなり頻繁に手紙をやり取りしていて、互いに互いの状況は筒抜けと言っていいほどよく知っている。
「ああ。フルカさん、お元気ですか」
 事故後の時期を協力し合って過ごしたので、ハンもフルカのことは知っている。彼の質問にイラカは笑った。
「お元気お元気。なんだよー。単にフルカの同僚のマオちゃん達と楽しくおつきあいしてるだけじゃん。悪いことしてないにゃーん」
「いかがわしい……」
「このイラカも私の知ってるイラカで何よりだわ」
「あっははは。いやいや、本当におしゃべりしてるだけだよ。一緒に晩飯食ったりしてもね。だって大概、あの子たちにはご主人様がいるも――」
「え?」
 ソラはイラカの顎を横から手で押して、ぎょっとしそうになったハンの注意を反らした。
「とにかく、フルカも近いうちに帰ることになってるから。お墨付きもらって」
「そーらしいねえ。寂しくなるよ。――また遊びに来てもいい?」
「え。そりゃあ……」
 ソラとハンはなんとなく顔を見合わせ、狼狽を分け合った。
「もちろん、いいけど……」
「よかった。じゃあ今日はこのくらいで帰ろうかな。明るいうちにね。他にも用事があるし――。また来る時には手紙書くんで、門のところで石投げないでね」
「洒落にならないよ……」
「あはは。じゃあねー」




 そう言ってイラカは去って行った。
 まったくのんびりすることはなく、さっと来てさっと帰って行った。
 このために時間を作ったソラとハンの方が、なんだか置き去りにされた気分がしたくらいだ。
 きっと本当に忙しいのだろう。だが同時に、この短い訪問は彼らに別の認識も抱かせた。
「……また、いらっしゃるつもりですね。どうも」
「そうみたいですね……。忙しいでしょうに」
「……こんな、辺境に。来るのも大変ですよ。費用もかかるし」
「ねえ……」
 二人は、彼は一体何をしに来るのだろうとは言わなかった。
 その疑問は喉に詰まってどうも舌に上らなかった。
 だが、二週間後、どんくさい二人が言わずにしまったその問いと答えを、ずばりと言ってのける人物が現れた。
 フルカである。
 店主からのれん分けの免許を得て帰郷して早々、事情を聞いた彼女はごく真面目な顔でソラに言ったのである。
「それって求婚するつもりじゃないの」




(つづく)
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