世捨て人のソラがぼんやりしている間に話はどんどん進んで行った。
 五日後の真昼間、外套姿のフルカが、同世代くらいの女性を連れていきなり現れ、彼女を託すと言う。
「手配の車が明日の夕方来るから。それまでここで匿っていて。誰にも見つかっては駄目よ!」
 ソラは正直、面喰って慌てた。
 彼女は十日に一度、歩いて三十分以上かかる最も近い集落の市場まで野菜だのを買いに行くだけなのだ。
 当たり前の人付き合いからほぼ引き離され、三年経ってすっかりそれに慣れてしまっている。
 いまさら赤の他人を、まして自分の家に泊めるなんて、――怖い。
 全身が拒絶反応を示した。
「何言ってるのよ、昔はよく泊まりっこしたじゃない!」
 薄暗い廊下で、地味な秋の服装をしたフルカの言うことはもっともだ。学生時代、ソラはンマロから島へやってくる彼女をたびたび理由もなく泊めた。
 あの頃の下宿の方がはるかに部屋は暗く狭かった。
 が。
 人間は昔よりも小さく弱く劣ったものになることができるのだ。想像もしていなかったけれど。
 しかしフルカは一歩も譲らなかった。なんと今日は化粧もしていない。わざと悪役に徹して、怖い顔でソラを脅しつけた。
「泣き言を言っても駄目よ。どういういきさつかはこれまでに何度も説明したでしょ。あなたはあの子を守るのよ。あたし達はあなたを信頼して任せるのよ。彼女に何かあったらあなたの責任よ。許さないからね。分かった?! 死に物狂いで面倒見なさい!」
「でっ、でも……。あの人はわたしが嫌かも……」
 怖いというのはそういうことで、もはやソラには誰が自分を嫌うか判断がつかないのだ。
 フルカの、手袋のはまった両手が、ソラの顎を挟む。化粧のない分、同じ血のために少しだけ似た顔が、声を鋭く潜めて言った。
「いい? ソラ。あの子はね」
 と、部屋で一人ぼんやりしている外套姿の連れを目で示す。
「今、世の中に一人ぼっちでものすごく不安なのよ? 家も町もこれまでの自分の生活も、すべて棄てるしかなくて疲れ切ってここにいるのよ。いくさ場の子供みたいに。保護するあなたがそんな態度でどうするの。しっかりして。支えてあげなさい」
 フルカの眼がソラの眼の中に手ごたえを探して、口づけのように光る。
 起きて。私の親友のソラ。
 『仕事』なのよ。



「あのう――」
 部屋からの小さな声に、フルカがさっと反応する。
「どうしたの?」
「少し、横になっていいかしら。疲れてしまって」
「もちろんよ、ねえ?」
 振られたソラは慌てて言う。
「あ。でも、最近天気が悪くてお布団を干せてな――」
 女性は構わなかった。薄暗い寝室にすーっと入っていくと、かろうじて外套だけは脱いで、なんの抵抗もなく普段ソラが使っている寝台に体を横たえた。マオみたいに。
 それから音もしなくなる。
「――疲れているのよ。かわいそうに」
 呟いた後、フルカは身を翻した。
「じゃあ、あたし行くから。これから手紙も出せるかどうか分からないわ。とにかくここで耐え忍んで。予定では、明日の夜、車が来るわ」
 さっきは『夕方』って言わなかった?
 不安げなソラに、フルカは戸口のところで振り返り、ものすごく真剣な顔で念を押した。
「絶対に。誰にも見つからないで。いいわね。
 これからこっちも戦争よ」
 最後の言葉を包むように外套の前をかき合わせた後、彼女は家を出るや、あっという間に森に紛れていなくなってしまった。彼女自身が逃亡者みたいだ。
 車では乗客に記憶されたり目立つ可能性があるので、待ち合わせ場所から徒歩で来たのだという。見つからないよう、どこかの家の小間使いのような古びた服で。
 さすがかつての家出娘と言おうか、扉を開けた時、一瞬フルカだと分からなかったくらいだ。
 ソラは扉に錠を下ろし、仕方なく中へ戻った。
 客人は彼女の寝台で本当に寝ていた。やせた白い頬に髪の毛が丸く貼りついていた。



 女性はハライの町の住人ではない。少し西のノクラの人だそうで、だから知り合いでもなんでもなかった。
 フルカの店は開業して四年を迎えようとしているが、評判が広がり、一帯の町から女性客を呼び込んで、簡単には予約が取れないような人気店になっていた。
 同時にフルカは客を中心とした女性たちの相談に乗っていた。それは表面的なことから、東部では一般に恥ずかしいと内密にされるような深部にも及んでいた。
 女たちの秘密の信頼を得た彼女の元には、より深刻な相談も持ち込まれるようになった。中央帰りのフルカは情報網と人脈を持っている。だから女たちを救うために必要な場所や知識、人を紹介しては、可能な限りその期待に応えていた。
 そんな彼女にとっても、今回の一件は大いなる決断だった。
 人を一人逃すとなれば、その危険性はこれまでとは比べ物にならない。事が露見すれば家族からはもちろん、官憲や地域全体を敵に回すことにもなりかねない。
 全ては内密に、上手に行わなければならなかった。
 さいわい、彼女は経験豊かな人々とも繋がりがあって覚悟も決まっていた。
『ハライの人を逃がすならあなたの家は絶対使わない。ノクラの人を逃がすからあなたの家を使うんだ』
 と、フルカは言った。
 全く見知らぬ者同士であるのがよいのだろう。家族が失踪に気付いて心当たりを探しても、ここまでたどり着くのはかなり難しい。
 それにソラの家には近所がない。たまたま人に目撃されるという危険性も他の家に比べてかなり少ないだろう。
 ソラもそれは分かっていた。寧ろ心を静めて、注意深く一日耐え忍べばいいのだと思った。
 だが、彼女は特殊な状況での一人暮らしが長すぎて、他人と関わること自体がもう怖いのだ。
 ただ一日だ。ただの一日だと心で念じて、とにもかくにも落ち着いて普通に接しようと思った。
 普通に接しようと思い込む時点ですでに『普通』ではない。彼女は一人で緊張し一人でぎくしゃくし、一体昔はどうやって人と付き合っていただろうと悩み、夕方ごろにはすっかりくたびれきってしまった。
 とにかく、今と昔は違うのだ。湯を沸かしながらソラは嘆息する。
 昔は、自信もあった。若さもあったし、自分は人より仕事ができる、という自尊心もあった。
 ところが今は全部消えてなくなった。何もない人間になってしまった。ろくに学校も行っていなかったフルカは今や地域の女性の人気者で羨望の的だ。
 ハンも、今では隣町で正式な神官として確固とした道を歩きつつある。
 引き比べて、自分は未来もなく劣っている…………。


 こんな気の落ち込む思考を三年の間、昼も夜も三千回以上繰り返してきた。彼女は自分で自分を貶め続けてきた。
 人と会うのが怖くなっても当然だ。
 昔のことを思い出すのも情けなかった。過去の栄光に、しかもつまらない栄光にすがって、なんて惨めなんだと思うばかりだから。
 所詮、自分はこの程度の人間だったのだ。窮地に追いやられると何もかもすべて捨ててしまう。意志薄弱で、才能のない、世の中をなめたつまらない女だったんだ。
 お茶を入れながら、またしても同じ暗い筋道をぐるぐる回っていると、声がした。
「いいにおい」
 仕切りの近くに女性が立っている。
「私も頂いていい?」
「ええ、もちろん。どうぞ座って。……えーと」
「コマリ。そう呼んで。本当は違うけど、昔のあだ名。仮名の方がいいんだって」
「分かった。コマリさんね」
 全くの初対面で、しかも本名を知らないほうがよりよいわけだ。
 ソラの思考に別の緊張が滑り込んで、自分のことばかりだった思考のねじを少しく締めた。外を見るともう暗くなり始めている。
 先に雨戸をきっちり閉めて明かりを灯し、それからお茶を供した。



「おなかは空いていない?」
「ええ。大丈夫。ごめんなさい」
 ソラは彼女の遠慮を感じた。それはそうだろう。立場が逆だったら、自分だって遠慮する。
 お茶も食べ物も、ただではないのだから。
 付け合わせに、果物を蜜で甘く煮つめたものを出す。粗末な料理だが、先日森でどっさり取れたのだ。
 彼女は礼を言ってお茶に口をつけた。
 一口、二口と飲んでそれから、ふーっと長い長い溜息をつく。
「いい匂い」
 と言った。
「この匂い、大好き」
「青臭くない? 自分で育てた薬草だから、思ったより濃くなっちゃって。町で売ってるような、万人向けに調整されたものに比べると」
「平気。この匂い、――大好き」
 彼女はまた言って、しばらく黙った。
 近くで見ると、彼女は肩くらいまでの髪をして、鼻のちょっと丸い、黒目がちな顔つきをしていた。多分、本来ならもっと小さな動物のような愛嬌のある女性なのではないだろうか。今は頬が浮くくらいに痩せてしまっているが。
「おばあちゃんが、こういうお茶を淹れてくれたわ」
「おばあちゃん」
 ソラはどきりとするが、彼女は気付かずに続ける。
「おばあちゃんだけがわたしの味方だった。嫌なことがあったらすぐ帰っておいでって。でも、嫁いですぐに亡くなってしまって」
「優しい人だったんだ」
 彼女は頷いた。
「大好きだった」
 呪文のように、その語を繰り返す彼女を、ソラは不思議に思った。
 まるで意識して口に出しているようだ。なにかの訓練のよう。
「――あのね、フルカさんが、あなたはンマロで一人で暮らしてたことがあるって言ってたの。本当?」
「うー。うーん、まあね。下宿だけど。それに、学生だった時だけどね」
「働いてもいたって本当?」
「うー……ん、まあ、ちょっとだけね。……学校の中でだけど」
「上の学校にいたんでしょ。すごいね」
「うーん……。いや。すごくは、ないかな……」
「ええ? すごいよ。私なんて、本を読むのもやっとだもの」
 彼女の視線が部屋を巡って、戸棚においてある仮綴じ本をいくつも見つけ出す。
 ソラの境遇に同情して、フルカやハンが届けてくれたものが多い。それさえ、ものすごく喜んで読んでいるわけではなかったので、ソラは一層身の細る思いだ。
「あのさ、ンマロみたいな都会には、お茶屋さんってのがあるの?」
「ああ。うん。薬種屋さんかな。香辛料とかお茶とか香草とか顔料とか、専門にその分野だけ扱っているお店はたくさんあるね。その中でも、お香だけ、とか、お茶だけ、みたいに特化してるお店もあるよ」
「『特化』?」
「専門化してるってこと。お茶ならお茶しか売らないの」
「そんなので商売が成り立つの?」
「とにかく人口が多いから……。お金持ちの数も多いしね。東部でいうと町長くらいのお家が中堅どころで、多分五、六倍の数いるんじゃないかな。もっとすごい富豪もいて、そういう層が町の行政を取り仕切っている感じ。あと経済の基盤が農業じゃなくて貿易で……、流通している貨幣の量がまったく東部と違うんだよね」
 言いながらソラは顔が赤くなってきた。
「知ったかぶりでごめん」
 コマリは、茶器を持ったまま笑った。
「ううん。希望が湧くよ。そういうお話聞くの大好き。お茶を売る売り子になりたいな。いつもこの香りを嗅いでいたいの」
「お家では飲めなかったの?」
「…………」
 急に表情が暗く口が重くなった。
 当然だろう。思えば。
 家のことを聞くなんてなんて馬鹿だと自分を叱りながら、急いでソラは言い足した。
「ごめんね。言わなくていいよ」
 彼女はずいぶん経ってから暗い声で返事をした。
「――……どうしても、不安になっちゃうんだよね。いくら、大丈夫と思っても」
「え?」
「私……、間違っているのかも。とんでもないことをしているのかも。ものすごい、わがままな人間なのかもって。だって、みんなに迷惑が掛かるって、分かってるのに。ものすごい迷惑が」
 急に耐えられなくなったかのように、彼女は手で卓を押さえた。
 前のめりになった目から、涙が滴を結んで、その内側に落ちる。
 ソラは席を立って、手拭いを取って渡してやった。
「……ありがとう。ごめん、急に。こみ上げて来ちゃって。……迷惑だよね、こんな。…………今頃、あの人たちは、恐ろしい顔で私を探しているだろう。
 ――フルカさんは、あなたは勉強ができる賢い人だって言ってた」
 ソラは赤面が精いっぱいで答える言葉を知らなかった。
「……どうかな。私、やっぱり帰った方がいいのかな、今からでも。こんなの、間違ってるのかな……。どうしたらいんだろう。ねえ、話すから、きっぱり教えてくれない? だってあなたは私とは関係ない人だし、都会にも住んでたって。公平に考えてくれそう。教えてくれる? だって私、間違えてるなら、本当に間違えているなら――もちろん、やめたいもの」
 ソラは自分の経験や知識、そして判断力が真剣に宛てにされていると感じた。
 彼女はまた椅子に戻った。それから腹に石のように重い責任を感じながら、先を促した。






 話が終わって、沈黙が流れた。
 小さな家の外で風が通りさらさらと枯れ葉が鳴っていた。
 ソラは言った。
「あなたは絶対に逃げていい」
 断言できたのが自分でも不思議だった。
「あなたは何も間違っていない」






 迎えの車は一日遅れて、翌々日の夕方にやっと着いた。
 やきもきしたものの追手がソラの家に迫ることはなく、『コマリ』と名乗った女性は車に乗って無事に出発した。
 どこに行くのか、ソラは知らされていない。
 結局彼女の本名も知らぬままだった。
 二、三日後、フルカがいつもの出で立ちで訪れて、ノクラでは騒ぎになっていると告げた。
 フルカや店は疑われないのかと尋ねると、理由がないという。
 彼女は、店の顧客でさえなく、客の知り合いの知り合いに過ぎないのだという。
「その客の知り合いがお医者様なのよ。それで彼女の体の――火傷の痕に、気づいたの。その先生はきっと今頃『あ、やったな』と思ってるでしょうね。でもその人もうちのことは知らないから、私や顧客の人が話さない限り誰も分からない。言うわけないしね。
 ――あの子の旦那、今、気狂いみたいになって彼女を探しているわよ。彼女が金を盗って男と逃げたと言ってね」
「どうしてあんなことをするの?」
「……ああ、見せてもらったの? 自分の持ち物に名前を書きたがる男っているのよ。入れ墨を彫らせたりね」
「――下手をしたら、死ぬじゃない。あんなの」
「自分のものにならないなら死んじゃえばいいんでしょう」


「――どう? 目は覚めた? みたいね」
 フルカは、青ざめて自分を睨む彼女に、不思議と嬉しそうに微笑んだ。
「さすがにこんなことは滅多に出来ないけど、他にも仕事はたくさんあるのよ。――ソラ。手伝ってくれるでしょうね?」





 一か月後。フルカの店に手紙が届いた。『コマリ』からだ。
 様々な協力者の中継を経て、最終的にいつもフルカが取引しているンマロの商社から届いたその手紙は、署名も仮名のままだったし、どこの街にいるかも書いていなかった。ただ、とにかく大都会で人ばかりでびっくりしながら、託児所の助手として働いていると書いてきていた。
 託児所の向かいには大きな貿易商の店があって、いつもそこから茶葉のいい匂いがするのだそうだ。
 実家や、夫にまで迷惑が掛かっていないかと心配する彼女に、ソラは持っている仮綴じ本から古代の一文を翻訳して、書き写して返した。 


『……わが子らよ。この【花の都】の民、誰一人として【これはいい】【これが欲しい】【これが好きだ】【これは私らしい】と言うことができないなら、それは奴隷状態でなくてなんだろうか』



「ソラさんって、固すぎー」
 そんな彼女を、フルカの店で働く若い女の子が、楽しそうにからかう。





(つづく)
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