ソラは春になるまでには、フルカの店に入りびたって仕事をするようになっていた。
 これまでの住家には十日に一度戻ればよい方だった。始めは二時間もかけて徒歩で通っていたのだが、冬の雪が降り始めると泊まっていくことになり、それが固定化してほとんど戻らなくなっていた。
 ひょっとしたら親戚たちに家を不在がちにしてることが伝わって非難されるかと思ったが(付近の土地管理人が親戚と通じていることをソラは知っていた)、さいわいその気配はなかった。
 巣穴からの距離を試す野生の獣のように、ソラはまず一日だけ不在にしてみて、次は二日、やがて四日、五日と伸ばして、現在は店に九泊くらいするのもザラだった。
 九日、十日に一度の帰宅はつまり休暇であって、ソラはフルカの店から給与も受け取っていた。
 仕事の内容は、店の経理、運営の手助け、事務雑務全般。且つ、店の顧客の相談にも乗っていた。
 もっとも、ソラは経験豊かではないから、聞き役に徹し、むしろ様々な情報を集めた。一日の終わりにそれを整理し、記録につけて行った。
 店には当然、ソラの醜聞を知っている客も来る。
 露わに、あるいはそこはかとなく警戒されることも多かったが、静かに客とに向かい合い、真面目な質問をぶつけて来てさらに相手の状況を聞こうとする彼女の態度に、やがてそれもほどけていった。
 もちろん彼女らが絶大な信頼を寄せている女店主フルカの友人であるということも大きい。そもそも古い世代から白眼視されているフルカの店に敢えて来ている時点で、ある種選ばれた女性らなのであるし。
 ソラは三年の追放生活の末に、初めて落ち着ける職場を得ようとしていた。
 ここでは「働きすぎる」と白けられることもない。「俺より目立つな」と言われることもない。東部での『生きにくさ』を大なり小なり共有した同性の同僚、顧客たちと一緒に安心してのびのびと能力を発揮することが出来た。
 フルカの商売は拡大を続けて、今では十二人ほどの従業員が住み込み・通いで働いていた。
 男性がいたこともあるそうだが、現状は全員が女性。店の周囲には一年前に鉄柵が新設され、そこには門番もいたが、それさえ大柄な女性が務めていた。
 だから「女の国ですね」と、客人のハン・リ・ルクスが言うのは本当なのだ。
 何から何まで女性向けの趣味で貫かれた客間で、神官の彼は実に浮き上がって変だった。



「女の国ですね」
 もっとも、ハンはどこにいてもやや浮く人間なのではとソラは思う。昔はそうも思わなかったのだが、大人になった今、彼は妙に清潔で、妙に俗気がなく、しかもどこか作り物的な印象が強くなっていた。
 子どもが一張羅の服を着せられて、大人達の仲間入りをさせられているような。つやつやの黒いやや長い髪の毛を後ろで一つにぴしっと結び、染み一つない白い頬で黙って一人群衆に混じっている。
 そんな不思議な違和感を漂わした不思議な人間になっていた。
 もちろん、彼自身には自覚がないようで、むしろそう指摘すると心外そうな顔をするのだ。
 ――なんですか。私はちゃんと擬態していますよ。
 ――髪の毛だって、眼鏡だって、学者ならこの程度はざらにいます。
 なのでソラも言わないようにしていた。そういういびつなところのあるハンが仲間として気楽でもあった。
 とにかく、ハン・リ・ルクスはその女国に入れる数少ない男の一人だった。フルカとの仲は相変わらず険悪だったが、「いずれにせよ、こいつは絶対にソラだけは裏切らない」という点において異常に信頼されていた。
 一度、店の女の子――好奇心の強い子――に聞かれたことがある。
『ハンさんとソラさんって、付き合ってるんですか?』
 ハンの反応はこうだった。諦めたように。或いはうんざりした様子で。
『そういう思考しかありえないんですよねえ。まったくもう』
 ともあれ、ハンにとってもフルカの店の方が地理的に近いため、ソラが常勤でいるようになるとちょくちょくやって来ては情報交換をしていった。
 彼はソラの書く日誌を読み、フルカの得た噂や顧客の話を聞いた。二人の方は彼のもたらす地域全体の噂や、世界の動き、それに新しい学問の動向などに触れることが出来た。
 彼は最新の書物を持ってくることも多く、これは長い空白を抱え、本流から分断されているソラには大変ありがたいことだった。
 学者を諦めても、学問が恐ろしくても、それでも読まなければならないものはどうしてかあるのだった。特に深層考古学は、そもそも興味を抱いていた分野でもあるし、大きな発見があって今盛り上がっている。
 二年ほど前、南部で干上がった湖の底からこれまでになく大規模な遺跡が見つかり、学者らが大集合。発掘により前文明の街と判明した。湖の周囲には急ごしらえの学者村が出来、日夜膨大な発掘品の記録が行われ、早くもその内容の一部が出回り始めていたのだ。
 その内容は多岐に渡り、しかもこれまでにないもので、遠く離れた東部の、夜の森の中に住むソラにさえ無関係ではなかった。
「これ、本当なんですか……。この文書……。これをこのまま読んだら、昔の人たちにはほぼ全員に、『転居する自由』『職業を選択する自由』『結婚の自由』『宗教を選択する自由』があったというように見えます」
 仮綴じ本を相手に壮大なしかめ面を浮かべながら、ソラは言う。
 ハンは湯気立つ茶器を皿に戻した後、答えた。
「はい、そう見えますね。ただ、その文章が社会的にどのような地位にあったものかはまだ分かりませんが。一応、タイトルには『法律』という字が見えますが、負けた法律かもしれないし、極めて狭い地域での内規であったのかも。または、娯楽小説での架空の設定かなにかだった可能性もあります。ただ、別の地域でも同様の断片が見つかったことがあるとかで、まあすごくひょっとすると、そういう世界であったのかもしれないですね。昔の社会は、どうにも超文明社会だったようですから」
 店の奥の事務仕事場で二人は話していた。フルカはおらず、表の方から、彼女や女性客や従業員らの明るい笑い声が時折聞こえてくる。
 鬼の形相のソラに、ハンは嬉しそうに微笑んだ。
「後輩に大急ぎで写本させたんですよ。置いていきますから、どうぞ後でもごゆっくりご覧ください。こちらはいかがですか?」
 ハンはすでに見習いを終え、一人前の神官として社を継いでいた。なんでも賄賂を受け取らない馬鹿真面目な坊さんとして一帯で困られたり慕われたりしているらしい。
 ちょうど、あのコマリから、二度目の手紙が来た頃であったので、ソラはそのことを話した。
「今のところ問題なくやれているらしいです。楽しそうな手紙でした。それに、なんだか恋人もできたみたいですよ」
 ハンは既に大体の顛末を聞いて事情に通じていたので、「ソレハヨカッタデスネ」と言った。
 ただどこかお芝居の台詞のようだったが。
「お店の常連さんで、本屋さんだそうです。私が前に書いた手紙の文書の引用元も、それでばれちゃったみたいでした」
「まああれはチーファンですものね。ちょっと学問を修めた者ならすぐ分かります。それにしても……」
 ハンは眼鏡の蔓を中指と薬指で押し上げながらそっと漏らす。
「結局、そういうことなんですかね」
「?」



「あら、お茶会に出て行きなさいよ」
 ハンが帰ろうと身支度を整えているところに、ちょうど最後の客を送り出したフルカが戻って来た。
 ハンは断る。
「いえいえ。この間もお邪魔しましたし。それにやっぱり男の僕がいると皆さんご遠慮なさるでしょう。お暇しますよ」
「あなた人気なのよ、店の女の子に。なにか気になるって」
 それは確かだ。
 ハンは浮いている。別に男前でも面白いわけでもないが、個性が違うので気にはなるのだ。
 それに控えめで無抵抗なのが下手に想像力を刺激するようで、ソラも複数の女の子たちが彼の来訪を秘かに心待ちにしているのは知っていた。
 もちろん、彼はあっさりしている。
「ソレハドウモ」
「あと、コマリからまた手紙が来たわ」
「ええ。ソラさんから聞きました」
「あの時はあなたも火消しに協力してくれて助かったわ」
「大したことはしていませんよ。騒ぎ立ててはみっともないとみんなを抑えただけで」
「それであの男が孤立したんだから大助かりよ。大軍は相手に出来ないもの。今、離婚手続きが進んでいるところらしいの。社に受理されたら、晴れて新しい恋人と結婚できるわね」



 後ろで二人の会話を眺めていたソラは、その時ハンの、ただでさえ操り人形っぽい動きが分かりやすく鈍ったのを見た。
 そしてハンは、いつもソラに対してよりもフルカに対しての方が、否定的なことを言いやすいようだ。
「――結局、そういうことなんですかね」
「? なにが?」
 春用のストールを首に置きながら、彼は愚痴のような、吐息のような不思議な声色で言う。
「この世に愛する異性を見つけて、結婚する以外に、物語の結末はないんですか」



 ハンの肩越しにフルカの顔が見えた。
 どうもあんた、ただの童貞と違うわね。
「何言ってんの?」
「いえ。帰ります。――ソラさん、お茶をごちそうさまでした」
「うちのお茶よ?!」
「はいはい。ごちそうさまでした」
「えー? ちょっと、何? 態度悪い!」




 ハンが出ていくと、門も館も厳重な内鍵が掛けられて、館は本当に女の国になる。
 身ぎれいな女子たちが身を寄せ合って座り、おいしい焼き菓子と温かいお茶を摂りながら小鳥たちのようにじゃれ合い、笑い合う。
 それでいて、彼女らは誰とも知れぬ少女ではなく、高い技術を身につけた職業者の卵でもある。
 フルカは偉大な仕事をしている。未婚の女の子たちに知識を分け、仕事を作り、自尊心を教えた。
 また罠だらけの東部に生きる女性に、男のいない逃げ場を作り、苦痛を避け自分を保つ技術を広め、その幸福に奉仕した。
 さらに(敢えて言うが)頭のおかしい夫に苦しめられていた女性『コマリ』の脱出を助けたことは、最大の成果の一つに違いない。
 ――で、そうやって女性の解放を進めてとどのつまりが、結局は新恋人なんですか。
 悪い男から逃げて、良い男を手に入れる。
 めでたしめでたし。
 結局、女は男と恋愛をしなければ、人生に勝ったことにはならないのか。
 ハンにとっては別の言い方の方が適当だろう。
 ――人は恋愛と性交をしなければ生きたことにならないわけか。
 すべて、今、ソラの目の前にいる女の子たちさえも。生まれつき誰かを愛して性交するよう無前提に刷り込まれていて、ついには残らずそこに取り込まれるのか。
 そうでなければ、やはり不完全なのか。
 そうなのか?
 例の好奇心の強い子は、懐いているというのか、何故か向こうからソラに寄って来て、個人的な質問をしてくることがある。
 ソラも相手をしてやるのだが、時々、妙な気分にさせられることもあった。
「えー。ソラさん、本当に今、恋人も好きな人もいないんですか?」
 今日もみんなに聞こえる大きな声で彼女は言う。
「寂しーい!!」




 古いしきたりによって、今、東部の女は自由な相手と結婚することが出来ない。
 だから、愛する相手と結婚することが望外の幸せだとまずは言っている。
 ハンは完全に自由な相手と恋愛結婚することが出来たとしても、つまり結局、合体が最終目的であることに違いはないわけでしょうと言っているのだ。
 そうなんですか。
 結局、愛する人を見つけることだけが人生の目的なのか。
 物語はつがわなければ終われないのか。
 それとも、古代の文明社会は、あのアルススをも生んだ超人類たちは、その向こうに何か、自分たちの知らない価値や落としどころを持っていたりしたのだろうか。



 なんだか疲れたのでお茶会を抜けて、自分に宛てられた部屋に戻ろうと仮綴じ本を持って立ち上がった。
 明かりのない廊下の隅で、女の子二人が寄り添い合って口づけをしていた。




(つづく)
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