「みんな、おはよう。体調を崩している者はないか? 昨夜の会合は和やかな雰囲気で行われたが、残念ながら、イラカの報告によれば、やはりあちらは実験を止める気配はないようだ。本日これより『待機状態』から『警戒状態』への変更を宣言する。各自業務を変更し、特に実働部隊に組み入れられている者は体調を整え準備を怠らないようにお願いしたい」
 彼か、彼女か、ソラには未だに分からないのだが、翌日の全員集会で『村長』が言った。体格や服装は女性の気配もあるが、髪は短く、声が低くて男性的だ。
 他の人も『彼』と呼ぶかと思えば『彼女』と呼んだりと、はっきりしない。ソラがここにきて約一週間になるが、未だに謎だ。
 もちろん――
「……会合ではあんなに大人しかったのに」
「こっちを油断させようとしてるんだろ」
「本気で寂しそうな子もいたけど」
「水と食料と情報を渡すべきではなかったのでは?」
「――いや。彼らも揺れているということだ。我々が誠意のこもった対応をしたからこそ、まだこれくらいの進行度で済んでいる。向こうでも懐疑派・穏健派はいて相当の歯止めにはなっているようだ。我々の行動は間違っていない」
 もちろん長にふさわしい資質があって、言っているのことの筋が通っていれば、どちらでもよいことだ。
「でも結局ゴンクールの決断次第でしょう、村長」
「イラカの表現では、彼も十二分に揺れてはいる。本当は始めからずっと揺れ続けているそうだ。だが、これまでの恨みが忘れられず、未来に希望も持てず、最終的にはアルススに対する望みを断ち切れない、ということのようだ。現在、向こうの実験は、東部で集めた鉱石の錬成が終わりかけており、過程Zへ踏み込む直前だという」
 学者たちの顔が一斉に暗くなり、音が消えて集会所が静かになった。
 実験過程表が書かれたタリン紙の巻紙を手で押さえながら、『村長』は一度息をつく。
「みなも承知の通り、これが成功するとアルススの原体が生成され――、黥と交信を始める可能性がある。向こうには元アルスス学徒が大勢おり、この村にも黥を持っている者がいる。これ以上は、ならん。――踏み込むしかない時点が近づいているようだ」
「あれほど学問的事実を提供したのに。――アルススは結局、人間の未来を膨大な人工熱に交換するだけの交換機で、神ではないと。前文明はそのあまりに誘惑的な技術を制御できなかった。大いなる災厄を迎えた。だから全知を傾けて封じ込め、それを地中に廃棄した。だからこそ当のクローヴィスは身を挺してそれを滅ぼした。
 アルススは滅ぶ時もただでは滅ばない。あの事故の後実際に、人間を含めた自然に対する影響が広範囲にわたって出ている。繰り返し伝えて来たし、もう彼らも分かっているはずなのに」
「自分達には、それが制御できると思っているのだろう」
 学者たちの反論の気配の前に『村長』は自分で続けた。
「あるいは、そうできなくともよい。世界も自分達と同じように苦しんで滅べばよいと考えてしまうのかもしれない。いつか、世界中から見捨てられた心地がすると言っていたからな」
「見捨ててないのに」
 とある女性学者が唇を尖らす。
「水も食料も情報もあげてるじゃない」
「誠意は疑われていない。ただ、腕は、信用されていないようだな」
 ――それはそれは。という空気が流れてみんな苦笑やため息を漏らす。
 『村長』も苦い笑いで両手を腰に当てた。
「そういうことだ。我々がどれほど本気で彼らを受け入れ、共に進んで行く気骨と実力があるか、彼らに思い知らせてやらなければならない。この仕事はけっして市議会や官憲などには成し遂げられない。引き続き情報の漏洩にはくれぐれも注意してほしい。我々の目的は『問題の解決』であって、『罪人の取締り』ではない。我々の行動に少しでもそんな気配が見えたなら――アルススは必ず復活する。ここではなくとも、どこかで。
 ここ一週間で病人が出たり、新人が来たりと人数が増減している。作戦時の人員配置をやや改編するかもしれん。その時は昼までに通知する。
 ――学問の基礎を築いたルル・シル・カントンの名にかけても、また懸命に警告を残してくれた前文明の学者たちのためにも、彼らを含めた我々の未来のためにも、必ず作戦は成功させよう。解散」
「実働部隊の人間は集合してくれ!」
「物資班、玄関前に集合ー。ンマロへ荷物の引き取りに行くぞー」
 村長の号令と共に一斉にみなが席を立って動き出す。壁際に立っていたソラが遠慮して出口が空くのを待っていると、村長がやって来た。
 二人の身長は同じくらいだ。
 彼――ないし彼女はちらっとソラの手にしている仮綴じ本に目をやって言う。
「何の本だ?」
「あの、『前文明詩篇集』です。最近出版されたそうなんですが――前に、聞いた詩があって」
「『洪水の詩』かね?」


世界の終わりの鐘が鳴り響く その時
すべての形あるもの 崩れ去らん
大水起こり この地のあらゆるものを覆いて
その水面には 神の御顔 あらわれん


 驚いて幾度か頷く彼女に、村長は聞く。
「単刀直入に聞くぞ。君は、カイデン・ライカス・ネコ博士に直接指導を受け、学院の騒乱の時にも侵入班に加わっていたし、且つあの大事故の際にイラカと同様現場にいたと聞いている。聞いてはいるが、事実か?」
 ソラは、圧倒されながら、また頷いた。
 普通に喋っているのに、どこか人を吹き飛ばしそうな迫力のある感じは、彼女にラフ学者であったポリネを想起させた。
「――いつか、イラカを吹っ飛ばしたとか?」
「そ、それは」
 皆も見ている前だ。あまりのことに顔を赤くするが、村長は返事を待つばかりだった。
「ネ、ネコ先生が強力な貴石を下さったからで、そうでなければとても――。私はシギヤ学徒でしたから」
「残念だが、考査の結果を見ても君はシギヤ学の技能は中途半端なようだ」
「…………」
「だが実戦経験があるというのは何より大きい。現場を見て来たというのも大きい。またこの一週間での所属部署のみならず、周囲からの評価は結構に高い。どうやら精確な仕事をしてくれそうだ。実働部隊の後詰に入ってもらいたいが、可能か?」
 ソラは、どうやって自分が息を吸い込んだか記憶にない。こうして評価されると即座に反応して喜んでしまう自分のさもしさを恥ずかしく思いながらも、それでも歓喜が勝った。ここへ到着して一週間、せめて邪魔にはなるまいと持てる能力のすべてを発揮してがんばってきたからだ。
 どこからどんな仕事の助力を依頼されても断らなかった。全力で献身した。――それがなんと、評価されたのだ。煙たがられることなく。
 異国でついに意志が通じたような手ごたえ。
 これほど嬉しいことがあるだろうか。
「は、はい! 大丈夫です。ありがとうございます!」
「但し自分のどこが評価されて、何について期待されていないかはよく見極めるように。経験があるからと言って自己過信や出しゃばりは厳禁だぞ。――君の友人のハン氏はいつ来る?」
「――ど、どうでしょう。来てくれるとは、思うんですが――」
 村長は小さくではあるが、失望の表明を隠さなかった。
「まあいい。とりあえず、あそこで実働部隊が集合しているから加わりたまえ。上には話を通してある。いいな。大いに期待している。役に立ってくれ。でしゃばりは厳禁だ。行け」
 ソラは「はい!」と返事して壁を離れ、なんとなく空気を読んで待っている様子の集団に飛び込んでいった。




 実のところ、ソラの日常はすでに爆発的に忙しくなっていた。
 始めに念を押されたように、村では所属に関わらず様々な仕事が同時に行われてしかも手が不足しているため、人員の貸し借りは日常的だった。
 ソラの経理報告がきちんとしている、という評価を運営班長が漏らしたが最後、すぐさま二三の部署から実験の準備・記録、および数値の分析を手伝ってほしいという依頼が来て、あっという間にソラの日常は仕事でいっぱいになってしまった。
 実働部隊に加入させられても、進行中の実験や仕事がなくなるわけではない。彼女自身の知識の補充も行わねばならないから、余裕は消え失せ、食事の時間や睡眠時間に迫る勢いで仕事や勉強を迫られた。
 さすがに楽ではなかった。仕事である分、楽しいと言う言葉だけでは片づけられない部分も多く、失敗できないという緊張も相まって毎日くたくたになった。
 それでも、ソラは幸福だった。
 この忙しい仕事だらけの状態に、骨抜きにされていたと言ってもいい。
 能力の隅から隅までを駆使し、利用し、利用され、脳髄の果てまで新しい知識を詰め込み、理解し、その知識をもとに別の段階へ爆走する。
 重い荷物も運ぶ。共に作業もする。しかもそれをして、怒られない。喜ばれる。そんなことはお前の役割ではないと誰も言わない。そんなことをしたら人間としては価値が落ちる一方だと誰も言わない。どんどんやれと言われる。まだ不足だと言われる。もっとこのまま、能力を伸ばし突き進めと言われる。
 こんな幸福があっていいものだろうか。
 確かにソラは出しゃばらないようにするために努力が必要だった。今以上に色々なことに首を突っ込みたかったが、散漫になり精度が落ちてしまうからなんとか自制した。
 彼女は躊躇いは忘れた。遠慮は忘れた。鬱屈も不安も忘れた。毎日大勢の学者に揉まれるようになりながら深夜まで仕事をした。くったくたになり、深く眠って翌朝には快復した。
 閉じこもって暮らしていた薄暗い東部の日々のことなど、ほとんど忘れていた。
 そんなときである。ソラに遅れること半月で――とはいえ、彼に言わせれば懸命な努力の末に、ようやくハン・リ・ルクスが学者村にやってきた。
 彼は、文字通りに走り回って、ハンに会っても「あ、ハンさんいらっしゃい! また後で!」と挨拶だけして駆け去って行く別人のように生き生きとしたソラを見て、愕然とその場に立ち尽くした。




 村長らはすぐにでもハンと話を詰めたがったが、当のハンがソラと話をつけてからにしてくれ、と頑として譲らなかった。
 ハンは協力するために来たと言うより、はっきりと、ソラを説得して東部へ戻すために来たのである。そのためには自分が居残ることもやむなしと覚悟さえしていた。
 ところが、着いてみれば彼女はすでにその目論見から大きく外れた場所へ至ってしまっていた。いや、むしろ戻ってしまっていた。かつての、全く自分の手など届かない存在であった彼女に。自分のことなど、まったく必要としていないあの凛とした彼女に。
 さっき彼女に「また後で!」と置いて行かれた時、ハンは自分が技能工芸学院の昼の回廊に突き戻された気がしたものだ。
 たった、半月のことで……。
 彼はソラにここまで肉薄するために、何年も費やしたというのに。



 ハンは旅の疲労も手伝い、絶望的な気分になっていた。
 さらに、うるさい周囲の気遣いと、いつまで経っても戻ってこないソラが、彼の怒りの内壁をがりがりとかきむしった。
 彼は通りによくある、祠の中にしまわれたシギヤの彫像のようになって、いつまでも運営班の仕事部屋に居座っていた。休むどころか食事もとらないので、班長は怯えてしまってさっさと退散する始末だ。
 だがソラは深夜になっても戻らなかった。ハンの顔色が白くなり始めた頃、彼にとっては最悪の代理人が顔を出した。髪飾りの音と共に。
「よっ、ハンさん。いらっしゃい。ソラが帰ってこないんだって?」
 闇に乗じて村とたまたま連絡を取りに来た、イル・カフカス・イラカである。




「飯くらい食べればいいのに。みんなが困ってたよ。第一、空腹でソラと渡り合うつもり? コテンパンにされるよ」
 恐らく村長から差し入れられたのだろう。干した果物を練り込んで焼いたパンを運んできたイラカは、一つ取って残りは皿ごとハンの傍の机に置いた。
 半分潰れた顔を動かしてパンをむしゃむしゃ食べながら、あたりの書類を取って目の高さに持ち上げる。
「活躍してるみたいよ、ソラ。ソラなりに。雑務でもなんでも喜んで引き受けてくれるんだって。勉強も熱心だって。多分全然苦じゃないんだろうね、忙しいの」
「――たった一度の会見で、何もかも放り出して。東部での生活も、仕事も、財産も、――人間関係も。すっかり忘れ果てて。僕が来ても、見向きもしない」
 暗い声にイラカが肩越しに振り返ると、ハンは、端正な両手を顔に当てて俯いていた。
 怒りの持続に疲れ果てて、いっそ悲しくなってしまったのだろう。
 恨み節は続いた。
「……何年も、傍にいたのに。何年も、友達だったのに。即座に全部捨ててここへ来てしまった。そして僕らのことなど忘れて、あんなに楽しそうにして」
 僕が東部でどれくらい苦労したか。と、小さな声で漏らしてから、彼は顔を上げてイラカをにらんだ。眼鏡の縁から怒りの皺がはみ出している。
「あなたのせいですよ」
 イラカは無言でパンの残りを食べた。
「いつだってあなたはソラさんの人生を狂わせるんだ。つらいこともあったけれど、彼女はこれからも東部で、僕やフルカさんと一緒に穏やかに暮らしていくはずだったのに。――どうして、揺さぶるんです。どうして彼女を刺激してそれまでの道から外そうとするんです。もう学者としてやって行くには手遅れなのに。あなたはもう、結婚して子供もいるというじゃないですか! 何故この上ソラさんの人生まで横取りしようとするんです? 何度同じことをすれば満足なんですか?!」
 イラカは以前と同じように、金髪を複雑な髪飾りと一緒に編み上げて頭の後ろで丸くまとめていた。以前に比べれば髪は陽に灼け、傷み、当然顔面の傷もあるから若い頃のままではなかったけれど、それでも、彼の横顔には不思議な落ち着きがあった。寧ろ以前よりも、そうだった。
 右目から一粒涙が落下する。書類を机の上に戻しながら、彼はハンの方を見ないまま言った。
「ハンさんは、困るんだ。ソラが、生き生きしてると」
「――そ、そんなことは言っていません!」
「他人の不幸を望む理由は、人それぞれだよね」
 返事はなく、愕然とした空気があった。
 イラカは振り向いた。
 予想通りの顔でハンが固まっていた。
 自分をいじめすぎだよ、とイラカは思う。空腹のままソラと対峙しようとするなんて無謀だ。空腹のまま自分と対峙するのも、無謀だ。
 生真面目な人だ。
 そういうところ、好きだったけど。
 恐らく、ハンにしてみれば、ソラの不幸を望んでいるなどと言われれば完全なでたらめ以外の何ものでもなかっただろう。彼女に対して好意しか抱いていないことは誰でも知っていることだったし、汚い欲望さえ抱いていないことはハン自身明確に分かっていたからだ。
 しかし、今言葉にしてはっきり指摘されてみれば、それを否定できるほどハンは非知性的な人間ではなかった。
 確かにそうだ。ハンは今、ソラの不自由を望んでいる。ここを棄て、わざわざ窮屈な東部に戻り、自分の夢に協力して、家族を作ってくれることを望んでいる。
 ソラが無我夢中に楽しくて、学問と仕事に明け暮れているのは困るのだ。そんな生活が長続きするわけがないと言って揺すぶりたい。ソラには、自信がなく孤立していて、優しく受動的でいてくれないといけない――、これまで通りに。
「本当に色んな理由で人は、他人が何かを完全に諦めたり、挫折したり、希望を失うことを願うよね」
 机に腰を預けて、両手を後ろに突き、イラカは言った。
「分かるよ。俺も望んだから。そしてソラを俺の家政婦にしようとした。
 彼女に求婚した時、俺は忙しくて、家の用事をしてくれる人間が欲しかった。無人の家に帰るのが寂しかったし、誰かにご飯を作ってもらいたかった。もっと言おうかな。掃除洗濯をしてくれる人が、病気の時看病してくれる人が欲しかった。老いた親の面倒を見てくれる人が欲しかった。しかも、タダでね。
 俺は事故に怯えて惑っていた彼女をその実、歓迎してた。挫けた彼女を励ましたり叱ったりせずに、甘い言葉で釣ってその資質だけ利用しようとした。――最低だよ。死ぬほど最低だ。だから、あの子の祖母が俺を拒否して絶縁させたのも、今思えば当然のことだったんだ。さすが老人は鋭いよね。ただそのおばあさんにしても、結局彼女の挫折を、歓迎していたわけだけど。
 なんというか結局のところ、ソラの人生の問題って、そこなんじゃないのかね。あの子は一人東部から学院へ出て来た。あんなに無欲で内向的なのに、なんで?
 それは、東部では『勉強好きな女の子』は、受け入れてもらえないからだろ? それは素晴らしい資質なのに、金で買えない天賦の才能なのに、大事にされない。みんな都合が悪いと思って見て見ぬふりをする。俺も田舎出身だから分かる。親兄弟でさえ、その本質を認めないで、むしろ求められる資質がないってことでその子を攻める。わがままだなんだと攻めて折って、『素直』になってくれることを望む。
 でも、彼女にしてみたら、何故なんだと思うよね。心の底から勉強が好きだ。それこそが大素直なのに。一番強い事実なのに、認められずに、攻撃される。
 完全に事実なのに認められないってこと、本当にあるからね。多分、唯一それを正すことができるのがそれこそ『学問』なんだって、俺は最近思うんだけど――。
 とにかく彼女は、その自分の一番の本質を受け入れてもらいたくて、漂流していたんだよ。始めからずっと。ところが学院には俺がいて、またとんちんかんな価値観を押し付けて彼女を苦しめたわけだ。
 多分、初めてその要望に応えたのは、ネコ先生だったんだろう」

 そんなに学問が好きか? じゃあ教えてやる。
 但し――後悔しても、知らないがね。

「ソラがネコ先生にのめり込んで心酔したのも当然だ。だって、自分を受け入れてくれただけじゃなく、一生通用するような学問的な厳密さに対する基本姿勢、技術を叩き込んでくれたんだ。それらを使えば遥か古代まで触れるようなやつだ。
 俺らは昔よく分からなかったよね? なんか非道な野郎に思えたから、なんだってあの子がいつまで経っても絶対的に慕い続けるのか。でも当然だった。奴は残酷なところも問題もあったさ。でも、彼女の本質をありのまま認め、その要求には完全に応えたんだ。
 ――今、ソラがここで生き生きとしているのも、同じ理由だよ、ハンさん。何かに対する当てつけや逃げじゃないんだ。誰も彼女の向学心を否定しないからだ。それだけのことなんだよ。彼女はずっと最初から、それだけを求めてたんだよ。
 俺がそれに気付いた時には、もうとっくに遅かった。というより、一人では気づけなかったな。リリザや息子と暮らして初めて、自分がどれくらい他人を無視し、その不幸を利用してたかが分かった。リリザは今、息子と実家にいるよ。俺に怒って愛想を尽かして。でもそれも当然だ。こんな賢いつもりの馬鹿野郎が相手じゃね。知識ばっかり詰め込んでも、学問の本質を分かってない入墨学者じゃ話にならない。
 ――ハンさん、さ。せめて俺らは、ソラの幸福を願わない? 少なくとも俺は、散々迷惑かけたからもうこれ以上は駄目だよ。あの子は俺らの友達だ。独立した人間なんだ。俺らの人生の材料じゃないんだよ。
 それに、あの子が逆のことしたことある? 俺やあんたの本質を、否定して非難したこと、ある? ないよ」
 イラカがそう言った時、二人とも過去とつながった顔をしていた。
 ハンは、彼が用心しながら自分の秘密を彼女に話した幾度かの機会を思い、イラカは真っ暗な屋根裏部屋で彼女と争い合ったことを思っていた。
 ハンは受容の記憶であり、イラカは拒否の記憶だった。
 それでもイラカは、「ない」と言った。
 最初に自分が無視したから無視されたのだ。そうでなければ彼女は、あの時も自分を信じてくれただろう。
 ソラは本当にいい人間で、理性的で公平で我慢強い。そしてとにかく、学問が好きなのだ。
 彼女の要求はただ一つ。自分をあるがまま認めてくれることだ。それさえしてくれたら、彼女はこうしてどれだけでも相手に献身してくれる。
 それが分かった今だからこそ――もう、彼女はいい。解放したい。
 俺などという卑屈で愚かで業の深い人間の影響から、遠く離れてもらいたい。そして自由に、幸福に、好きに生きてもらいたい。
 いつだって彼女は素直な回答をしてきた。こちらにそれを読み解く能力が欠けていただけだ。
 ただ彼女の話をきちんと聞いて観察すればよかった。
 学者がこれじゃ、まるでどうしようもない。
「俺は今更彼女を操ろうという気持ちはないし、彼女も俺に対して特別な感情なんかはないと思うよ。あんたが言う通り、ずっと彼女の傍にいたのはあんたなんだ。
 だからハンさん、落ち着いて、彼女を責めないで受け入れてあげて。そしたらハンさんが、あの子の棲家になれる。
 あとこれは本当に勝手だけど、俺らの作戦に協力してくれたら、やっぱり嬉しいんだけどな」




 それからイラカは、打ち合わせがあるからと部屋から退出していった。
 どれくらい経った頃だろうか、ソラが帰って来た。
 とっくに深夜だったのに、彼女は元気一杯で、遅れた詫びを言い、今日どんな作業をしたかを説明した。それは外の遊びから帰って来て興奮している女の子そのもので、もう何年も見なかった生き生きとした光がその瞳に灯っていた。
 恨みをぶつけることも、批難することも、すっかり忘れてしまったハンの脳裏に、出発前のフルカの言葉が蘇る。
『あたしはここ。あの子はどこでもいい。それがあの子の仕事場なら』
 その時には頭に血が上って、ろくにどういう意味か考えられもしなかった。
『あたしはおばあ様とは違う。もう二度と人の人生を操らないわ』
「――あとハンさん、これ見てください、『前文明詩篇集』。すごいですよ! ネコ先生があの事故の時、教えてくれた詩が全文載ってるんです。それにこの間イラカが歌ってた詩も。同じ詩人の作かもしれないんですって!」


 ハンは詩集を受け取って、並んで腰かけ、一緒に読んだ。
 やっと、無事でよかったという当たり前の気持ちが湧いてきた。
 学生時代に戻った気が、またした。ことあるごとに突出するソラの背中を、はらはらしながら見ていた。そしていつも無事でよかったと思うがその後に、少し寂しいとも思うのだ。
 彼女はいつも、本気で戦う相手に、イラカを選ぶ。
 ハンはそれが寂しかった。イラカがまた思ったよりいい人間で、ソラのことをよく分かっている。
 特別な絆に感じた。だから、彼女とイラカの関係性が悪くなることを、彼は心のどこかでずっと、喜んでいた。
 それは彼女が友人を失うということだったのに。
「ハンさん。どうかしました?」
「――ソラさん」
「?」
 肩を並べて座ったまま。静まり返った事務室の中で、ハンは静かに目を伏せた。


 長い間。すみませんでした。





(つづく)
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