息子の病状は安定しています。
 あなたと花火が見たいって。



 一見妻からの手紙を装った、学者村からの手紙。読み終わって大雑把に畳み、懐に押し込む。天を仰いでため息をつくと、すぐに炉の前の卓で飲み物を飲んでいたゴンクールが声をかけて来た。
「どうだって?」
 『村』の者に言ってもちょっと信じないくらい、落ち着いて気遣いに満ちた声だ。イラカは彼から、数限りなく抱擁されたことがある。
 炉と卓に近づきながら本当のことを言った。
「今のところ、安定しているらしい」
「そうか、よかったな」
「花火が見たいんだと」
「そうか」
 空になった粗末なコップを卓の中の方へ置いた後、彼は顔を上げた。黥の躍る頬には炉の明かりが照り映え、目元には彼自身の前髪が落ち、その陰の中で瞳が鉄鋼のように光っている。
 それは疲れていて、飢えていて、子どもを抱えて追い詰められている野生動物を連想させた。
 それでも彼に対しては優しく、ゴンクールは言う。
「実験が一段落したら、一度顔を出して来たらどうだ」
「どうだかなあ。向こうの親御さんは相当俺に怒ってるからなあ」
「絶対に大丈夫だ。お前の人柄は俺が保証する」
 彼は手を伸ばして、イラカの腕をぱんと叩いた。
「炎に飛び込んでまで仲間を救える奴は滅多にいない」
「何度も言うけど、あの頃俺ちょっとヤケでもあったから」
 苦笑すると潰れた右目が引きつる。
「確かにお前は一見軽薄なふうに映るんだが――」
 ゴンクールもつられたように少し笑った。
「本当はそんなことはない。照れるな。証文を書いてやってもいいぞ。お前は俺の命の恩人だと」
 実験の最中に起きた事故。粗末な建材や道具を次々に呑み込んで縦横に駆け回る火。
 イラカは飛び込んで行ってゴンクールを含めた学徒らを救った。そして自分が火傷を負った。
 それから彼は信頼を得て、全ての秘密を解放され実験にも参加が認められるようになった。
 最初は警戒を緩めなかったゴンクールも、今では彼を仲間と言い、親友と呼んでいる。
「さて、時間だな」
 彼が呟いて数分のうちに、まるで呼び集められたかのように一人、また一人と集落の人間が集まって来た。
 総勢十二人。やはりみな野生の獣のようだ。汗臭く、埃っぽく、身なりは冬場にしては驚くくらい薄い。痩せて黥の鮮やかさと眼光ばかりが装飾のように目立った。
 場には緊張感が漂っていた。いつでもそうだが、今日は倍増しだ。ここにいる元アルスス学徒たちは全員が真剣なので、実験の過程を正確に把握している。今夜の実験では何が起きるべきか、理解し、期待に緊張しているのだ。
「コンはどうだ」
「起き上がれる状態ではなさそうでした。意識もとぎれとぎれで」
「そうか。――では、行こう」
 ゴンクールは何かを振り切るように言って立ち上がり、イラカと共に先に部屋を出る。学徒達は黙って彼らの後に従う。
 外に出ると、もう太陽は西に落ちて、あたりは夜の闇に沈みつつあった。潮を含んだ海風が彼らを包み、衣類を容赦なく湿っぽくする。
 人の手で懸命に均した狭い土地を抜け、干潮のために露出した砂の上へと歩を進める。サクサクという小気味よい音が人数分続き、足跡が足跡によって踏まれ崩れていく。
 誰も何も言わず、動作と呼気の音だけが耳に聞こえる。
 もう何度こういう夜を過ごしただろうか。
 夜の海は寒く、口から出る息は白い。男も女も手足にあかぎれやしもやけを作っていた。しかし誰一人文句も言わずにただひたすら前に進んできた。
 やがて近づいてくる、黒い岩の山。
 まさに技能工芸学院のあったその場であり、墳墓である。
 創始者ルル・シル・カントンは、人の居つかぬ島に目をつけ、学院を建てた。しかし現在までの考古学研究によって、そもそもネル島は地域そのものが前文明によって作られた大規模な人工物であったことが分かっている。それをネコとクローヴィスとアルススが破壊した。
 しかし、内部のすべてが崩れたわけではなかった。アルススの爆発は第一神階の地上近くで起きたからだ。
 二年ほど前のある日、海上をさまよっていたある女性が、ほとんど水に浸されていない無事な洞窟への入り口を見つけた。飢えのあまり汚染された海産物を漁っていた母親でもある元アルスス学徒が、偶然迷い込んで遭遇したのだ。
 後に学院で『第五神階』と呼んでいた場所だと判明した。他の神階からはやや離れた位置にあり、小さく狭いためあまり実習場所としても使われていなかったようなところだ。
 はじめ、彼女らもそれを備蓄倉庫か、最後の避難場所が出来たくらいにしか思っていなかった。しかし、ゴンクールが、研究室として使うことを思いついた。
 彼はアルススの復活を期した。
 誰ひとり思っても見ないことだった。
 金も食料も健康すらもないのに、ゴンクールは世界中を駆け回って知識や資材を集め人を集めた。イラカを含めた数人の学者がそれに気づき、危険を察知した時にはもう、現状ここにあるものはほぼすべて彼一人で集めた後だった。
 後は成熟を待っていただけだ。
 それは成長していった。岩が転がって行くように。あるいは伸びていく樹木のように。岩がどこに行き着くか、樹木がどのような実を結ぶか、イラカは確認するために現場にいる必要があった。
 手作りのみすぼらしい、しかし創意と工夫に満ちた厨のような洞窟の研究所で火事が起きた時、イラカが我が身をかえりみずに飛び込んだのは、すべてが計算づくというわけではなかった。
 彼自身、苦境を耐え忍んできた者として、そこに集った元学徒達を仲間と思ったし、底力を出して何もかもを手ずから作り出した彼ら彼女らには、かつて教授たちにさえ覚えなかった感嘆の念を抱いた。
 素晴らしい学者達だ。本当の学者は、なければ装置は自分で作るものだ。どうしても手に入らないものは、別のものを探し出して置き換えるものだ。これほど熱意に満ちた研究室は、旧学でも滅多に見られるものではなかった。
 神を取り上げられて初めて、彼ら彼女らは本当の学者になったのだ。
 イラカはこの海上の仲間たちを愛したし、心から共感したし、尊敬していた。だからこそ、彼はその信頼を得ねばならず、今夜ここにいなければならず、そしてまた、花火を上げねばならなかった。
 岩の間に隠された出入り口から、仲間たちが次々に洞窟へ入って行く。イラカはいつものように、その場に残って全員が入るのを見届けた。
 安全のために、と言って毎回そうしていたので、今夜も仲間たちに不審がられることはなかった。
 それに今や、イラカはゴンクールの一番の親友だ。頬の黥をねじらせた火傷の跡が勲章のごとく面に貼りついているのに、誰が彼を疑うだろうか。
 周囲に誰もいなくなったのを確認してから、イラカは拳を突き上げて指輪を夜気にさらした。
 『村』にいるラフ学者がくれた、術のこもった指輪だ。簡単な祝詞で発動する。
 彼がそれを呟くと指輪に刻まれた祝詞が撫でられ、神の力で術が動く。貴石から火花が放たれ、矢のように一線に空へ昇って行った。
 もちろん、ンマロからは見えはしない。しかし付近で待機しているなら――ちょうどネコの庵が浮いていた『裏庭』あたりにいるなら――十分に視認できたはずである。
 イラカは一瞬、顎を反らして、大いなる天球を目を細めて眺めた。
 それから首を戻し、はずみでこぼれた涙を指で散らした後、急いで洞窟へと潜った。




 洞窟は、入り口に巨大な横穴を持っていて、海水がそこへ逃げていく仕組みになっている。岩と岩の間には大きな隙間があるが、最初は板で、今は丈夫なつり橋が着いていて、既にイラカには慣れた道だ。
「今日まで捧げてくれたみなの努力と誠意に感謝する」
 追いつこうと急いでいると、奥からもう、ゴンクールの声が聞こえた。
 普段冷静な、というより暗い彼も、今日は少し興奮気味なようだ。
 無理もない。長い忍従の学問が、今日こそ、一つの成果を結ぼうとしている。
 腰の剣の柄を一度手で触れて確認してから、イラカは『研究室』へ、入った。
 初めて最初の室を見た者は仰天するはずだ。薄暗い水に濡れた洞穴に、放置された大量の物資。壊れた家具や、ガラクタ、書物の数々。どれも黒く焦げたり、煤けている。
 洞窟は細い通路を挟んで不細工に何室かがつながっており、次の室の壁はありありと焦げていて未だに煤臭い。もちろん最も大事な核心は最も奥にあり――、且つそこが一番広い玄室だった。
 玄室に到れば、それまでの室とはうって変わって整然としており、実際に使えるものだけが集められている。中央には、彼らが作り上げた金属製の大きな丸い竈があって、バルブのついた管で外部や別の装置とつながっていた。
 赤毛のゴンクールはその前にいた。
「ついに我々は、過程Zまでたどり着いた。もちろん実際にやってみなければ結果は分からないが、いずれにせよこの努力は必ず実を結ぶと信じている。
 最後で手順を誤ってはこれまでの段階がすべて無駄になってしまう。くれぐれも、計画書の通りに緻密な作業をお願いしたい。質問や問題のある者はいるか?」
 すでに元学徒達は、担当ごとに定められたいつもの位置についている。
 ゴンクールの問いに、急いたような息継ぎの音と真剣な眼差しだけが答えた。それで彼は竈を離れ、机の一つに身を寄せる。
 イラカは玄室の出入り口に一人で立ち、腕組みをして、片方の目で事態を見守っていた。
「――竈内部は昨夜と同様の環境です。気温値U。圧力値V。前提環境に適合します」
「六名、前に」
 予め指定された六名の男女が、緊張した面持ちで進み出た。全員が瑕瑾のない見事な黥の持ち主だ。
 彼らはほとんどの指に、祝詞の刻まれた貴石付きの指輪を嵌めていた。その手を、丸い竈にぴたりと着ける。十二本の掌が、四十八の点で竈を囲み、支える。
「祝詞を。同時に」
 それは南部の湖の奥から掘り出された言葉だ。しかし、これまでに見つかったものの中でもとりわけ奇異で、この意味の解析に成功したものはまだなかった。
 暗記するのも簡単ではなかったはずだが、選ばれた六人はやってのけていた。
 彼らによれば、これを唱えると、世界が右回りに回っているような感じがするそうだ。且つ、舌のつけ根の方から、痺れるような、懐かしいような、奇妙な金属っぽい味が湧き出してくるという。
 竈自体も、内部に無数の祝詞が刻まれている。この奇怪で複雑な装置の作成と、指輪の錬成までが凄まじく大変だった。というのも、ゴンクール達は若く圧倒的に経験不足でもあったし、金属も木材もそれらを加工する道具もすべて自力で調達せねばならなかったからだ。
 そもそも、実験の方法も装置も、前文明の資料を元に研究や検証を重ねて、手探りでこつこつ組み上げて来たものだ。これまでの経過は今のところ文献と合致しているが、原体の生成まで実際に成功するかどうか、全く保証の限りではない。
「――そのまま。音叉を」
 ゴンクールの指示に従って一人が竈に近づくと、普通は楽器の音程の調整に使う音叉で自分の膝を殴り、それからそれを、六人の間から竈の表面に押し当てた。
 これも彼らの工夫のうちなのだ。覚醒を促すために波動を与えるべしとの記録があったが――、どうやったらいいか分からなかった。幾度かの試行錯誤の中で、最もましと思えるのがこれだったのだ。
 音が金属を通じて、内部へと流れていく。やがて祝詞に紛れて分からなくなる。
 皆が聴くともなしにその薄れていくさまを聴いていたその時。
 ぶわりと、竈の中から明らかな波動が跳ね返って全員の顔つきが変わった。
「!」
 それはイラカの身体にも届いた。わずかな、本当に微風のようなものではあったが、それは皮膚ではなくて心臓の上の黥に来た。
 まるで誰かの指先が触ったみたいだ。生暖かい、金属臭い、よく知っている、その感触。
 イラカでさえ悪寒を覚えたのだ。動揺が広がらぬわけはなかった。また竈を囲んでいた六人のうち、女性が一人、血の気を失って倒れた。
「――大丈夫か?!」
 周りが駆け寄り、抱き起す。別の五人は、竈から手を放し、興奮していた。
「い、今、確かに今!」
「感じた! 俺も感じたぞ! 手応えを!」
「俺も感じた」
 と、ゴンクール。真剣すぎて顔面蒼白になっている。
「続けよう! もう一度やれば、もっと確かに! 確かめられる! でもあれはそうだ! アルススだ!! 絶対にそうだ!!」
「内部の気温値が上昇しています。もう少し待ってください!」
「温度は下げられないのか?!」
「――どうしよう。この子、起きない」
「僕が代わります! 覚えています! 続けましょう!!」
「ちょっと待ってくれ」
 落ち着いた声が、状況にもかかわらず、色めき立ち慌てる元学徒達を不思議な力で制止した。
 全員が動きを止め、玄室の出口に立つイラカを見る。
 彼自身、少し青ざめているように見えた。腕組みを解き、みなの前で、両手を下ろす。
「もう十分だ。ここまでで実験はやめよう。この結果を持って、ンマロの学者達と合流しよう。そして、次の段階に進もう」




「――何?」
 玄室の中で、誰かが言った。ゴンクールではなかった。
「俺達は、今まで誰も到達してなかった段階まで到達した。アルススの原体の作成。それをここまで進めた人間はいなかったし、実際に成功した人間もいない。俺達だけだ。俺達はアルスス学において一番進んでいる。そしてこの知識と経験は大いに役に立つ。誇りをもって、他学者と合流し協働する段階へ移ろう。ンマロの学者たちが、俺達を待っている」
「――何を言っているんだ。イラカ」
 やはりゴンクールではない誰かが言った。
「そんなことのために俺達はこれまで研究して来たんじゃないぞ!」
「では何のためだ?」
「アルススを復活させ、もう一度俺達が世界の頂点に立つためだ! 俺らを蔑ろにしてきた奴らに復讐するためだ!!」
「そうだ!」
 竈の周りに集まった、黥をまとった仲間たちを、そしてゴンクールを数秒の間眺めた後、イラカは顔をしかめ、きっぱりと一度、首を振った。
「――しっかりしてくれ。復讐のためにアルススを再生するというなら、それは論理が間違っている。何故なら、アルススは誰にでも力を貸すからだ。俺達にも貸すが、俺達の敵にも貸す。ただ黥さえ擁したならば。学者であるかなしかさえ問わない。
 だから俺達は復讐など完遂できない。ただ血みどろの戦いが延々行われて、そのはざまでアルススが狂ったように回転するだけだ。それがあの装置の望みだからだ。これほど優秀な学者達が、そのことに気付かないなどとあり得ない。何故高い知性を自ら誤魔化す? 復讐心を満足させるためだけに、喜んで装置のエサになりに行くというのか? 分かっているはずだ。アルススがひとたび再生すれば、それはもう人間には制御できないものになる。この世は滅茶苦茶になるぞ」
「……いいじゃない、滅茶苦茶になれば」
 床に座り込んで、気絶した友達を抱いた女性が暗い声で呟いた。六人のうちの一人だ。
「どうせ滅茶苦茶なんだから。……私たちも、――連中も、もう滅茶苦茶になって、滅ぶなら滅べばいいのよ! あたしはあたしを満足させたい! 後のことなんか、知るもんですか!!」
「いい大人がそんなことを言っては駄目だ。俺達はここで踏みとどまろう。そして、この成果を、今すでに起こってしまったことで苦しんでいる人たちのために使うんだ。それ以外の道には進んではいけない。人道に悖るからだ」
「――ずいぶん立派だな、イラカ」
 初めてゴンクールが口を開いた時、この場が最初に持っている本当の沈黙が戻って来た。
 彼はよろめくように一歩前に出た。二人の間に立っていた人間は身を引き、彼らは直接視線をぶつけ合う。
「今日この日のために、ずっと俺らに貼りついていたのか。家族も置いて。このためなら、片目が潰れても惜しくなかったのか。ご立派だな。――立派すぎて、着いていけないくらいだ。……本気なのか? 復讐を諦めるのか? お前もそうだろう。あの大崩壊以来、これほどの屈辱をなめて来たというのに!!」
 彼は激昂して持っていた計画書を床に叩きつけた。
「だったら、答えろ、イラカ! 何故俺達はそんなに立派な人間じゃなくちゃいけないんだ! どうして復讐心に殉じてこの世を壊してはいけないんだ! 俺達は壊されたのに! せめて可能性に目をつぶって研究を進めることだけはできる! それも駄目だというのか?! 自制しろというのか! ――どうして、何故こんな非情で不公平な世の中で、俺達だけが、馬鹿正直な学者でなくてはならないんだ!! 答えろ!!」
「――その馬鹿正直な学者に人生を救われたことはないのか!!」
 前文明の手になる洞窟の天井に叩きつけるようなイラカの声が響いて、それから少しずつ、少しずつ、空気にまぎれて行った。
「俺はあるよ」
 頭を揺らすと髪飾りの音がする。
「自分が力に酔いしれて、狂ってる時も、誰かが真面目に学問をやっててくれた。過去の誰かの真剣さが、俺を正気に戻してくれた。ここまで来るすべての道が、無数の学者によって、舗装されていた。
 どの神に仕えるかは関係ない。俺は、馬鹿正直な学者が、前の世にも、この世にも、たくさんいてくれて本当に助かったよ。お前たちだってそうだろ?
 だから、俺達もそうなるんだ。ゴンクール。次の馬鹿正直な学者のために、馬鹿正直な学者になるんだ。今すぐでなくてもいい。でも、いつかはそうなろう。それが人を部品にするアルススに対するただ一つの復讐になるんだよ!」
 ゴンクールは見開いていた目を、眉根で押さえつけるようにしていた。震える上下の歯を、ものすごい力で噛み締めているのが分かった。
 泣き出した者がいた。さすがに悲しげな表情でイラカはそちらを窺う。
 しかし誰かのこの言葉には断固として首を振った。
「……裏切り者」
「違うね。学者なら、事実から目を反らすな。誰がアルススを解体した? クローヴィスとネコだ。掘り出した彼ら自身が責任を取ったんだ。なのに俺達は、彼らの始めた学問をしながら、自分のすることの責任を取らないと言うのか? そんなことは許されない。自分を誤魔化すのはやめて、知性と倫理を受け入れろ――」
 彼の言葉の終わりは怒号でかき消された。泣き出した一人の元学徒が彼めがけて突進し、食ってかかりながら八つ当たりのようにその顔に拳を振り下ろしたのだ。
 彼の腰には剣があったが彼はそれに触れなかった。雄叫びと共に顔の真正面に力いっぱいの拳固を食らって、踵が浮く。二人ともが勢いのまま地面に倒れると、そこにわっと全員が殺到した。
 それは混乱だった。同じようにイラカを殴ろうとする者もいたし、男を止めるために割って入ろうとする者もいた。
 手が手を押しのけ、ひっかき、怒号が怒号を消してその中で人間の体がもがいた。
「もういい! もういい!!」
 ゴンクールの声がするが、イラカは組み敷かれて目を開けなかった。
「いつか止められるのは分かってたんだ!! いつかは、誰かに!! ――やめろと言われると!!」
 うわあああ、という破裂するような泣き声がした。誰かがむせび泣いている。我慢の末の我慢の末の我慢の末の決壊という感じだ。
 誰が大人になってあんなふうに泣きたいだろう。
 かわいそうに。
 慰めてやりたかった。
 しかしイラカはとにかく腹の上に人が何人も載っていてどうにもできなかった。内臓が圧迫されている。襟首も掴まれて苦しい。声が出ない。血で息が詰まる。
 下手をするとこの混乱の中で何かの手違いで犠牲になるかもしれない。そう危ぶみ始めた頃、「やめろ!!」という声と同時に重荷がどいて急に体が楽になった。
 横から入って来た別の人間が彼の上に乗っていた男たちを腕づくでどかしたのだ。
「――ゴンクール!! みんな、無事か?!」
 ようやく薄目を開くと、玄室の中は倍の人数になっていた。花火を見た村の学者たちが、駆け付けてくれたのだ。
 ――竈も、研究も、何もかも、見られた。
 秘密は秘密でなくなった。
 糸の切れた人形のように元アルスス学徒達は座り込み、黥の入った顔や頭を覆う者もいた。それを村の学者が慰める。
 イラカは床の上でまだちょっと動けずにいたが、
「イラカ!」
「大丈夫ですか!」
 と、急に視界に懐かしい二人組が現れるので、どうしたって微笑まざるを得なかった。喉にたまった血が気管に入って派手に咳き込む。
「起きて下さい、喉が塞がりますよ!」
 大きな体が背中に回って上体を支えてくれた。縦になればなったで鼻から待ってましたとばかりに血がどっと垂れる。
「大変!」
 慌てて布を押し付けてくるソラの手を、イラカは笑いながら取って、ようよう自分で布を押さえる。
 まったく余裕はなかった。しばらく二人に体を預けたまま、息をしていた。
 危ないところだった。すんでのところでどうにかなるところだった。
 ――ほらな。とイラカは布の中でくすりと笑った。
 これ幸いとだらりと二人に寄りかかったまま。子どものように息を吐いて。
 いつも馬鹿正直な学者が俺を助けてくれるんだ。




(つづく)
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