「『音叉』?」
 床の上の金属を取り上げて、ハンがイラカの説明に振り向く。
 イラカの声はまだ布越しでややくぐもっている。
「そ。笑うだろ。まさかそんなものでな。しかもンマロの蚤の市かどこかで買って来たらしいぜ。でも色々試して、それが一番いい結果だったんだってさ」
 既に洞窟の中には、村の学者しか残っていなかった。数人が竈を持ち出すために解体作業を始めており、他の学者はあたりの装置や資料を調べている。
「よくもこんなガラクタばかり集めたわね!」
 一人が言ったが揶揄ではなく、真剣な感嘆と畏怖からの発言だった。
「こんな――そこらの台所にあるようなものばかりで、実際にここまで来れてしまうなんて」
「恐ろしいな。費用もさほど掛かっているようには見えない。確かに、竈は別だが」
「これ見て。計測器。現物が手に入らなかったんだと思うけど、安物の時計なんかから部品を集めて手作りしてるのよ。考えられる?」
 ハンはまずイラカの顔を、それから依然彼に付き添っているソラのそれを見る。
 イラカの方は幾分余裕が出たのか、おどけたように肩をすくめて微笑した。
「自作の研究室、自作の機材、自作の竈に、中古の音叉さ。すごいだろ」
「イラカさん、これは多分、音叉ではありません」
 ハンの顔色はあまりよくなかった。『音叉』も体から離すようにして持っている。
「――違う?」
「ええ。もっと多分、よくないものです。おっしゃる通り、ここはガラクタを寄せ集めた粗造の研究室かもしれませんが、いくつか本物が混ざっているように見受けられますよ。
 あの事故の時、いろんなものが海上に流出し、沿岸に漂着しました。第一神階の内部から出たらしきものも多数発見されています。これはきっとそこから蚤の市へ流れたんでしょう、『音叉』として。
 だから原体の生成にも成功したんです。病人は出ませんでしたか」
「――病人」
 一転して彼の声が戸惑う。
「ほぼ全員がいつも不調だったから……。あ、でも、待って」
 イラカはふと、石でも当たったように額を押さえた。
「――コンだわ。それ、買って来たの。今、寝たきりで、実験にも参加できなかった」
 ハンは「とにかくこれは」と言いながら、金属棒を手に足早に室を出て行った。イラカもソラも無言で彼を見送り、それから顔を見合わせる。
「……思ったより、やばい局面にいたみたい」
「かもね。でもこれくらいで済んだのだから、まだよかったと思うべきじゃない?」
 そうでもなかった。
 立てるようになったイラカがソラと一緒に時間をかけて洞窟を抜けると、彼は地上で実働部隊の指揮を執っていた部隊長に怒られた。
「自己犠牲はたくさんだと言ったはずだぞ、イラカ! 少しでも遅れたら死ぬところだった! つべこべ言うな! 判断が甘すぎる!」
 傍には棒を手放したハンもいて、彼が怒られる様を見ていた。イラカは怪我だらけだし、面目丸つぶれだ。
 さすがに二人とも、ちょっと彼に同情した。
「厳しいですね」
「んむ」
「とにかく、治療のためにも村に帰ろう。歩ける?」
「うむ。肩を貸してくれても苦しゅうないよ」
 そんなことを言うので、右をソラが、左をハンが支えて干潟を歩く。
 世界は真っ暗で、風は冷たく、足元が濡れて吐く息は白かった。イラカだけではなく、ソラもハンも疲れていた。行きには気にならなかった村との距離が、果てしのない長さに思われる。
「――みんな大丈夫かな」
「大丈夫だよ。もう、村に着いてる頃じゃない? ちゃんと食事を摂って、温かくしてるよ」
「全員が、ちゃんと来てるかな」
 イラカがかすれ声で言うのは、集落に残った学者たちや家族のことだ。
「本気で体が動かなくなっているのもいて……」
「村長はちゃんと全員収容するつもりです。任せておけば大丈夫でしょう。――みなさんの健康状態について、村の資料を読みました。少し古いもので、多分ソラさんも読んだと思いますが――」
 イラカの顎越しのハンの視線を受けて、ソラも幾度か頷く。他の研究機関の持っている数値も合わせた総括的な資料だ。
 ハンは指で、鼻の上の眼鏡を一度押し上げた。
「……結論を先に言いますが、圧倒的に数が足りませんね」
「何の」
「シギヤ学者です。腕が良くて、アルススについても知識を備えた、偏見やしがらみのない献身的な若いシギヤ学者が、今の五倍は必要です。とても対応できません。本気で育成しないとなりません」
「…………」
 イラカはハンの横顔を見たまま返事をしなかった。
 あるいは、本当に疲れていたのかもしれない。
 ハンは続ける。
「正直、ここに来て実際に記録を読むまで、ここまで深刻とは思っていませんでした。東部の学者たちはみんな知りませんよ。知ろうともしない。僕も含めて、地域での名誉と保身のほうが大事です。若手の育成はむしろ脅威を増やすので熱心ではありません。その本音を、けっして認めませんけどね。
 ――それが東部であり、残念ながら、シギヤです。
 でも、これは違う。そんなことを言っていられる段階ではありません。病と真正面から向き合う学問はシギヤだけです。シギヤは保守と自己愛から抜け出さなくてはなりません。これは我々の課題です。それが分かっただけでも、ここに来た甲斐はありました。
 ――イラカさん」
 ハンが僅かに曲げた首元を赤くして、ソラの前で、何か非常に言いにくいことをがんばって言おうとした矢先、イラカが肩にぶら下がった状態のまま唐突に彼の名前を呼んだ。
「ハンさんってさあ、近場で見るとほんと男前だよねー」
 なんという手かと、横で聞いていたソラは失笑するが、ハンはまんまと面喰って体を引く。
「なっ、なんです?」
「いや。改めてそう思って。ねー。ソラもそう思うだろ?」
 ソラは彼の計略と言うか――、彼らしい見え透いた乱暴なやり方に苦笑しつつ乗ってやった。
「そーね」
 そういえば昔、彼に後ろから飛びつかれてぶん殴ったことがある。
「ひ、人の話聞いてました?!」
「聞いてた聞いてた。殺人的に格好いいこと言うなーと思いながらちゃんと聞いてたよー。役者さんみたい」
「え、偉そうだって言いたいんですか!」
「まさかあ」
 多分、ハンも子供ではないから、慌てて転がされながらも、イラカが自分に謝罪や感謝の言葉を言わせないようにしたことを察していただろう。
 それで余計に顔に血が上っているのに違いなかった。
 ソラは、その様を見ながら、多分イラカもハンも今、自分と同じ満足を感じているんじゃないかなと思った。
 彼ら三人は、不思議な縁で結ばれていて、いつかは宿屋で額を寄せ合い、いつかは共に鐘を鳴らした。
 そして今、永遠とも思われる夜の干潟を身を寄せ合いながら歩いている。
 あの時と同じように、頭の中はすっからかんで、互いに何の要求もない。
 我欲もなく、後先もない。
 互いに家族でも男女の仲でもない相手だというのに、時に襲われる、愛着。
 何事も起こっていないみたいだ。
 まるで何も失われていないかのように、彼らはその瞬間、互いに満ち足りていた。



 しかしもちろん、何事も起こっていないわけはないのだった。
 干潟を渡り終わり、ンマロの静まり返った街路も何とか抜けて、ようやく『村』に戻ってくると、『村長』がわざわざ建物の前で彼らを待っていた。
「ご苦労だった。無事の帰還で何よりだ」
 イラカは軽口で応じようとする。
「いやあそうでもないよ。さっきから内臓痛くて。肋骨折れてるかも――」
「本当に悪い報せがある。イラカ」
 彼の全身からすっと茶気が抜けてその青い目が村長の目の上に止まる。
 村長はそれが自分の義務だというように、後ろ手のまま、感情のない声ではっきりと告げた。
「リリザが亡くなった。昨夜遅くだそうだ」
 村長は次いで、ついさっき報せが来た。私情なく事実を伝えるのが自分の役目だと信じる。と続けた。
 そうだね。ありがとう、とイラカは言って、腕を一本ずつ両の二人の肩から下ろし、そして、くるりと踵を返すと、村に入ることなく、来た道を戻り始めた。
 ソラはその背中を見、それからハンを見た。ハンも同じようにしたが、彼らも村長も、その周囲の学者達も、言葉はなく、動くこともできなかった。
 彼は一人で歩いて行った。その姿が闇に紛れて分からなくなると、村長はソラ達に中に入り、手伝いをするよう声をかけた。
 彼は心配ない、と言った。
 君らの友達だ。
 二人は頷いてひとまず、村の施設の中へ戻った。





 ソラは、それから新たに村に収容された元アルスス学徒達の記録をとる作業を手伝った。朝まで待てばよさそうなものだが、すぐに処置が必要なほどの重病人が何人もいたのだ。
 そうでなくても、彼女ら彼らの健康状態は軒並み悪かった。生活が逼迫して栄養状態が悪いことは無論あるが、それだけでは説明のつかない病状が進行し、問題が複数にわたっている場合もあった。
 もちろん、もっと多量で精確な情報を集めてみなければ断言はできないが、綿密な黥で体を埋めた者ほど、被害はより大に思われた。
 そして、ソラはその過程でイラカとリリザの、そしてその子の健康状態の記録を発見し、甘い夢や見込みをごっそり捨てざるを得なかった。
 ――何事も起こっていないわけがない。
 アルススの熱は海中にばら撒かれ、湿潤した土地を汚し、まさに『魚捧げ、青菜捧げ、籾捧げ、獣捧げ』ても未だ収束の兆しはない。
 人間がたとえ忘れたふりをしていても、汚染された海は波を起こし、汚染域を少しずつ拡大し続けているのだ。
 それに、自分自身についても同様だ。
 田舎を飛び出して技能工芸学院に来た時には、まさか自分が未来にこんな人間になっているなんて、思ってもいなかった。
 自分は学問に挫折し、結婚に挫折し、名誉も自信も若さも失くして、ただ年ばかりを食った中途半端な大人として世界の端に引っ掛かっている。
 つまり、自分はその程度の人間だったのだ。教師には恵まれ、少しは勉強ができたかもしれないが、誤った認識もたくさん抱いていたし、ここ一番のところで忍耐もなかった。精神的に弱く悲惨な事故に耐えられなかった。道を間違えた。世間知らずだった。周囲に負けた。努力が足らなかった。
 総じて三級の学者もどきに過ぎなかった。そのことを何年もかけてわざわざ証明したようなものだ。
 何も変わらないわけがない。幻想だ。
 ただ一つ、昔の自分と今の自分に変わらぬ点があるとしたら、事実がより正確に分かることを、ソラは喜ぶということだ。
 自分の正体についても、知りたくなかったとは思わない。
 夢や幻想が消えても、これでいい。分かってよかった。
 自分は事実が好きだし、夢想におぼれることよりも、現実を知ることを採る。
 ――そうか。
 夜明け前、温かくもない学者村の資料室で、ふいにソラは悟った。
 自分は昔から学問が好きだった。それは現実が好きだったからなのだ。
 こんな単純なこと。今更、馬鹿みたいだが。
 現実に迎合するという意味じゃない。学問を愛するということは、まず現実を見つめ、ありのままを認めるということなのだ。
 ――だったら、もう何も心配することはない。
 たくさんの人間の運命を示した記録を胸に抱いたまま、ソラは安堵に上を向いた。
 自分は一生学問をしていられる。





 廊下の向こうから、ハンがやってきた。
 やはり同じような作業をしていたらしく、さすがに髪も乱れて疲労の気配がある。
 それでも彼は言う。
「イラカさんを迎えに行きましょう」
 二人で外に出ると、ちょうど夜明けの直前で、東の山のあなたが美しいとしか言いようのないまったくの白だった。
 まだ太陽の姿は見えない。冷え切った空気を再び吸って彼らは歩いた。
 なんの話し合いもしなかったのに、二人とも揃って干潟に足を向けていた。
 ハンも昔とは違っている。あの消極的で「自分は戦わない」とまで言っていた彼が、今こうして、イラカを探すために一緒に街を歩いている。
 だから勝手な幻想を抱くことも出来ない。いつかは彼もイラカやソラに愛想を尽かすかもしれない。もっと大事なものができるかもしれない。
 ――何もかも、元のままではない。
 予想を超えて、大きく、大きく、望む以上に変わって行く。
 だって一体誰が予想した。
 この干潟に浮かんでいた、黒い機械の城が。技能工芸学院が。
 この世から消えてなくなるなんて。
 いいものであるはずの学問。それに従事する天才たちの集いであるはずの学院が、破滅を呼び、社会を揺るがし、大勢の人を不幸に巻き込む『家畜小屋』であったと判明する日が来るなんて。
 悲惨そのものだ。
 イラカもそうだ。
 彼の信じた学問は彼を入墨だらけにして、もう後戻りはできないところへ追い詰め、若くて、美しくて、賢くて、強い男だったのに、彼は健康を害し妻を不幸にし子を不幸にした。
 予想もつかないことだった。
 幻想を捨てて答えよ。
 我々は死人を蘇らせられるか?
 否。
 我々は彼を救えるか?
 否。
 では我々は何をしにここへ来たのか?



 多分、同じことを繰り返しに。
 それは千人の読んできた古い書物を自分でもたどるのと同じ。
 一億回繰り返された実験の一億一回目をするのと同じ。
 前の文明でも、同じことをしていたに違いない。
 何千人もの人間がかつて干潟に迷い、何千人もの別の人間が声をかけたはずなのだ。
 繰り返して、繰り返して、繰り返して、進んで行く。
 それが、学者であり、学問だ。
 だからきっとあの日自分も声をかけられた。
 それによって膨大な繰り返しの海へ招待された。
 その技を受け継ぐのだ。





 太陽は上る直前だ。
 それでも既に明るい干潟は、先ほどとは違って一面波に浸っていた。
 その中に、ぽつんと一人、イラカが立っていた。
 膝まで水に浸かっている。当然、ソラ達も同様だ。
 なるだけ浅瀬を通って近寄る。ここは『裏庭』だ。
 ちょうど本当に、ソラが迷い込んだあたりだ。




 あの日の自分はこんなふうに見えたんだな。
 潮の香りのする風を全身に受けながら、ソラは思った。
 ハンは黙って彼の背中を見ていた。束ねられた黒髪が引っ張られて尾が空に舞っていた。
 東の山の端から太陽がのぞくのとほぼ同時、ソラは唇の横に手を添えて口を開いた。
 それで白く明るい朝の光が彼女の口の中に飛び込む。






(つづく)
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