終章




 風の渡る海辺を歩いている。
 海鳥もやや流れされるほどの海風が、耳の下までの彼女の髪と、丈の長い衣類の裾を音を立てて振り回している。
 幾度繰り返しても冬の海は厳しく寒い。
 でも彼女は好きだったし、寒さも峠を越して緩んで来たのを肌に感じる。
 春が遠くない。
 その気配だけで、心は緩み、穏やかになる。
 泡を含んだ波が寄せる際では、寒さにもめげずに二人の少女が転げんばかりにふざけ合っている。


 ここは東部ではない。
 かといってンマロでもない。
 その半ばにある中部の街、シチェフである。
 彼女は今、そこに住んでいた。ハライの家はそのまま、こちらで部屋を借りたのだ。
 例によって町長の側から『困る』といった苦情の手紙が寄せられたが、ソラはいけしゃあしゃあと町長に対する忠誠を誓い、且つシチェフの家は学問のための仮住まいで自分の本拠地はあくまで東部である、心は永久に東部民だ、などと返信してのけ、しかも帰郷に応じなかった。
 あまりの図太さに例の秘書ウタリ氏などは激怒したらしいが、町長は笑ったという話だった――。
『さすがあの食えないばあさんの孫だ』
 これ以降、町長はもう彼女のことは手に負えない、自分は被害者だ、彼女が何をしようと自分にはどうしようもないという態度を公にとって、事実上彼女から手を引いた。
 ソラがハライを離れたことで、かえってどうとでも言えるようになったのだ。
 フルカによれば、ハライではもうソラは病気みたいに悪い女とされていて、惜しみない悪口で盛り上がれるので、話題がなくて困った時などに重宝されているらしい。ソラの両親も、一族も、頭のおかしい娘に悩まされる被害者として皆の同情を集めているというから結構なことだ。
 一族からの送金はとっくになくなっていた。ソラは今、市内の書店に所属してその業務や研究に与ることで収入を得ていた。
 フルカの店に勤めていた頃に比べると給料は六割程度だが、ソラはもともと贅沢志向ではなく、蓄財を求める性格でもないから困らなかった。
 さすがに老後のことを考えると眉間に皺が寄ったが、その時はいつも、どうだか、またいつ大事故があるかもしれないし、と決まり文句を呟いて心配は終了にした。



「ソラー! もう、この子なんとかしてよー!」
 もう一人の小さな子とふざけて取っ組み合いながら、少女が彼女の名前を呼んだ。
 二人とも、足元を濡らして風に吹かれているというのに元気だ。
 大きなほうの少女は、成長したナライだ。ハン・リ・ルクスの養女で、今年無事十一になった。
 ハンに言われて勉強がてらよくシチェフに来るのだが、彼女の養母はソラではない。
 ソラはハンと結婚しなかった。何故かと言われると説明に困るのだが、どちらともが機を逃したのだ。
 ハンは彼女とではなく、フルカと結婚した。無論、互いに恋愛感情はなく、合意と書類の上のことである。
 五年前、彼はフルカの店の応接間で、堂々たる結婚の申し込みをした。まるで事業計画を披露するように、自分の性格、考え方、希望、養子縁組について書類を作り、これに応じることでフルカにどんな利点があり、どんな不利な点があるかを事細かに説明して協力を願い出た。
 フルカは賢い女性であるから、質問は始めから損得以外の箇所に集中した。
『――女性に、興味がないの?』
『ありません』
『興奮、しないわけ? 少しも?』
『しません』
『相手が男性ってこと?』
『違います』
『……ちいさな子どもがいいってんじゃないでしょうね?』
『勘弁してくださいよ、フルカさん』
 なかなか信じなかったフルカだが、十回ほど同じ質問を繰り返すとさすがにもう聞けないと思ったようで、半信半疑の表情のまま唇に指を当てる。
『じゃあその……、あんたにはまるっきり性欲がない――として。それでも、縁あって子供を引き取りたいから、書類の上だけでも婚姻したい。そこまでは分かったわ。でも、なんであたしなの? あんたのその――不思議な体質のこと、ソラは、知ってるんでしょ。なんでソラじゃないの? 断られたの?』
『僕は公式の神官です。これからも出世するつもりです。僕を夫にすればあなたの地位は保証されます。商売も拡大できます。恩恵は大です』
『大きな口を叩くけど、あたしなんかを妻にしたらあんたは顰蹙を買うわよ。それこそ、色に狂ったと言われる』
『実際にそうなら僕は身を持ち崩すでしょうが、実際にはそうではないので問題ありません。噂なんて短命です。粛々と訂正すればいい。僕は子どもたちの教育にも力を入れるつもりです。あなたのことについても、誰にも文句が言えないくらい勢力を広げて見せます』
『だからなんで――』
『ソラさんと僕の人脈はほぼ重なっていますが、あなたはまったく違う独自の世界を持っています。僕は人生をまとめることばかり考えていましたが、舵を逆に切ることにしたんです。
 僕は僕の秘密をできるだけ多くの他人に話します。そして他人を巻き込んでたくさん迷惑をかけ、――自分を広い場所へ押し出すんです。
 昔から、自分が多数派ではないと知っていましたから、秘密基地のように隠された、小さな避難所がずっと欲しかったです。でもそこにナライとソラさんと自分を閉じ込めて、閉じた東部の中でまた一段と閉じた井戸の底のような家庭を作っても、そこに苗は育たないと思いました。誰のためにも、もっと広くて明るい場所が必要です。
 僕はこれから、不得手なところにたくさん飛び込んでいくつもりです。そのためには実力も財力も要りますし、友人もたくさん必要なんです。僕はあなたを巻き込みたい。あなたの知恵や人脈や商売の才を宛てにしたい。だから手札をさらして協力をお願いするのです。
 ――僕のような人間にとって、これをしたい、とか、自分はこうだ、と自己主張するのは死ぬほど恥ずかしいことで、実際今も死にそうです。
 でもこれは、これまでいた安全な場所から外に出てやっていくための、ほんの第一歩なんです。泣き落とすつもりはありません。冷静に損得の話し合いをして、可能なら、合意していただきたいと思います。そうでなければ、ナライにもちゃんと説明ができませんから』
 しばらくの間、フルカは両腕で自分の胴を抱き、妹を見るような眼差しで、ハンを見ていた。
 それから言う。
『子育ては、あんたがするの?』
『はい。あなたは女友達として彼女に接して下されば基本、十分です』
『あたしは、恋愛するわよ?』
『もちろん結構です』
『あたしが万が一他の誰かと結婚したくなったらどうするわけ?』
『その時は、話し合って離縁しましょう。でも、僕のように条件のいい結婚相手はなかなかいないと思いますけどね』
 フルカは笑って口の中で悪態をついた。
 それから二、三の事項を詰めた末に、二人は握手した。取引の契約を行うように、互いに婚姻届けに署名をした。
 半年後、手続きを終えてナライはハンとフルカの養女となった。
 もちろん色んな噂が立ったし、ハンは一時かなり評判を落としたようだが、二人とも予め承知していたので動揺はなかった。
 ハンは、フルカのこともソラのことも大事な友達で、みんな家族だとナライに言い、どちらとも同じくらい頻繁に交流した。だからむしろナライにとっては、親戚のお姉さんが二人増えた、みたいな感じだったようだ。片方は地味で本がいっぱいの家に暮らし、片方は派手できらきらの家に住んでいる。そして彼女はどちらの家も気に入った。
 ハンはそれから順調に実績を重ね、地域では煙たがられるほど若手神官の筆頭となっている。さらに後身の指導に熱心で、奨学のための基金を設立したり、ンマロの学者村に弟子を送り込んだりと、以前の控えめな彼を知っているとちょっと驚くような目立つ活動を一線で続けていた。



「ねー。イラカ、いつ来るの? イラカ、いつ来る?」
「今、ルクスとフルカが迎えに行ってるんだよ。言ったでしょ!」
 すっかり背が伸びて大人びたナライが小さい少女を背中に負って波打ち際から戻って来た。
「お兄ちゃんも来る? お兄ちゃんも来る?」
「来るよ! でも、お兄ちゃんじゃないでしょ! もー、ばたばたするな!」
 イル・カフカス・イラカとの交流も続いていた。
 彼は現在、亡くなった妻リリザの実家にあって、息子の面倒を見ながら暮らしている。
 前に比べれば穏やかな生活であるはずだが、やはり人脈があるために時に調停役として呼び出されたり、相談を持ち掛けられたりと引き続き各所に宛てにされていた。
 ソラやハンとは大抵は手紙で情報を交換し合い、年に一度か二度ほど、実際に顔を合わせることもあった。事情が許せば家族ぐるみで寄り合うこともあり、そういう時は、街道沿いで集まりやすいソラの街に集合するのが習慣だ。
 今日もまたそうで、今、ハンとフルカは街道へ彼らを迎えに行っている。
 イラカの息子は大人しくて心優しい性格で少女二人ともから好かれている。特に、小さい少女は彼を『お兄ちゃん』と呼んで恋しがる。
 『お兄ちゃんの病気を治すために学者になる』のだそうだ。
 そのくせ言うことを聞かないのは困ったものだが。



 少女が産まれた時のことを、ソラは覚えている。
 女の子と聞いて、「女の子か」と思わずこぼしたものだ。
 苦労するぞ、と思ったのだ。
 同時に仲間ができたとも思った。
 ようこそ、この世界に。小さな仲間よ。



 少女の父親はハンでもイラカでもない。
 まったく別の学者で、ンマロの遺跡の再検証作業で知り合った。
 娘ももはや完全に幼くはないので『なんでうちにはお父さんいないの?』と聞かれることもある。
『お父さんは中央の学校で働いてるから、向こうに住んでるんだよ』
『じゃあお父さんに会うために学校行く!』
 そのくせ言うことを聞かないのは困ったものだが。
 いつか、何故結婚しなかったのか、不真面目ではないか、自分勝手ではないかと責められる日もくるかもしれない。
 その時には謝るしかない。
 ソラはこれまで生きて来て、子供に謝るようなことは一度もしていないと胸を張れるような大人には一人も会ったことがない。
 そう思い込んでいる大人が幾人かいるだけだ。
『俺は間違いばかりしでかしたし、したいと願ったこともほとんど実現できなかったなあ』
 いつか夜中、イラカが言ったことだ。
 今日のように皆で寄り合った時で、確か生後半年ばかりの少女を胸に抱いていた。
 その場にはフルカとハンもいた。
『本気で英雄になりたかったけど、なれなかったし、故郷の家族も守れなかった。最初に結婚したいと思った相手とも結婚できなかった。体も壊したし、思い通りにならないことばっかりだ』
 確かに夢も希望もなければ失望も挫折もないだろうが。
 他の子どもたちは隣の部屋で寝入っていた。
 ソラ達が黙っていると、彼は崩れた顔半分を皺の内に畳むようにして微笑んだのだ。
『でもその代わり、生き生きとした友達がこれだけできたからよかったよ』



 私も夢を見てよかったよ。



「あ! 来た! おにーちゃーん!」
 ナライの背中から降りた少女が全身を楽器代わりにしながら走って行く。
 声が全身に回って骨まで鳴っているのが分かる。
 ナライも負けじと走って行く。
 向こうでは金髪の男の子が手を振っている。
 また少し背が伸びた。



 彼女ら彼らはまた自分達の夢を裏切るだろう。
 思い通りにならぬことばかりだろう。
 その時にこそ現世はより一層光るだろう。
 思いもよらなかったところへ、自分を連れて行くだろう。




『――本当にソラが信じられないくらいださい女で、よかったよ!』






(終わり)
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