05



 ところで、教師としてのネコは情け容赦なかった。
 ソラは五つの必須の講義を受けるように指示された。
 それはすべて彼女が受けてないものだった。
「えっ。……今、とっている講義と、時間が重なっています。どうしたらいいんですか?」
「そっちは行かなくてもいい。とにかく、この五学者に当たることは必要不可欠だ。これを受けなければ学問として始まらない」
「で、でも、もう講義が始まって半年過ぎてますけど、これまでの内容は……」
「がんばって独習したまえ。人のよさそうな生徒でも捕まえて、教えてもらうんだな」
 そ。そんなあ。
 精一杯そういう顔をしたが、ネコはまったく受け付けなかった。ソラは必死で授業割を考え直したが、結局その五つの講義に重なっていた講義は全て諦めざるを得なかった。
 授業料は毎回、講義の終わりに集金されるから二重にかかるわけではないが、取得講義数は前よりも増えたのでその分負担が増える。 
 さらに、ネコは毎週二曜日と七曜日、終業後に街へ行ってある作業をするようにと命じた。その詳細はまた教えるので、次の二曜日に家へ来るようにと言って指輪を渡した。
 外面に祝詞が刻まれたもので、ネコの友人や家族もみな持っているものだという。その指輪を持ったものが近づくと、ネコに知れる。知った彼は必要なら海道を用意し、さらに隠している家を現すという段取りだ。
 最後にネコは、耳には聞こえない言葉で、彼女に労働を命じた。
 だってそうである。
 講義数は増えた。衣服も整え続けろ、髪も頻繁に切れ、という。ただでさえかつかつであったのだ、仕送りだけではやっていけない。
 他の講義を削ればいいのだが、ソラ自身にだって好きで続けたい講義がある。
 結局、講義の入っていない第十曜日か、平日の課外時間に何か、貨幣を生む仕事を見つけるしかなかった。
 問題は十曜日が一般に安息日だということだ。だから講義もないのだし、月に三度のこの日ばかりは街でも島でも全ての商取引が閉じている。農家も畜産業者も働かない。どうすればいいのだろう。
 ソラは気持ちが暗くなったが、確か前に働いたことのあると言っていた数少ない学友に、ひとまず相談してみることにした。
 総合して、ネコに弟子入りした結果ソラの生活はせわしなく、多難なものになった。ソラは変化に対応しようと懸命に走り回り、忙しすぎてもはや院内の些事などどうでもいいくらいの気分になった。
 学生達の視線にも気付かない。彼らの噂話にも頓着する暇はない。
 だが、彼女が鳥のように一心不乱に生きているその周囲で、確かに、彼らは彼らの仕事を、行っていたのである。



 数日後。
「――ハンさん」
「あ。ソラさん。ごきげんよう」
 学内でソラは知り合いの男子生徒を見つけて駆け寄った。相手も回廊で足を止め、いつものようにちょっと心配そうに眉を寄せた表情で、ソラを待つ。
 ハン・リ・ルクス。彼はソラと同じ東部の別の街の出身者で、同様に黒髪と黒い瞳の持ち主だった。割とかっちりとした体格の持ち主だが、どこか自信なさげでいつも控え目にしており、その見た目の通り、潮流に乗れない非アルスス学徒の一人だった。
 商家の息子で、格好はソラよりもちゃんとしている。それでも時には絡まれることがあるようだが、徹底的な無抵抗と、品のある沈黙で切り抜けるという育ちのよい大人しい生徒だ。
 そのせいか親しい学友でさえ、彼のことはいつまでも苗字で呼ぶ。なんだか、気軽に名前で呼び捨てにしにくい、妙にきちんとした雰囲気があるのだ。
 彼は前に立ったソラを見て、さすがに細い目を大きくした。ソラの方はとっくに自分の外見が様変わりしたことに慣れてしまっていたから、ああ、そういえばという気分だ。
「髪の毛、ずいぶん思い切って切られましたね。服も? なんだか急に年頃の娘さんらしくなられて。おきれいです」
 これである。
 ハン・リ・ルクスは十七歳にして社交辞令を言う生徒なのだ。しかもそれが十代の物言いではなくて六十代のそれと来ている。
 あまりにもお行儀が良すぎて、時折ソラでさえ失笑してしまう。
 類に漏れず失笑するソラを見つめながら、彼はまた眉根を寄せた。
「たちの悪い生徒に囲まれたと聞いて、心配していたんですよ。大丈夫でしたか」
「ああ……」
 ソラはまさにその回廊の隅に目をやった。
 髪の毛が未だに落ちているような気がしたが、もちろん幻視である。
「大丈夫。もう忘れてました。それよりも、ハンさん。教えて欲しいことがあるんです。私、今ちょっと学資が足りなくなっていまして」
 相手の礼儀正しさにつられて、ソラまで丁寧語になってしまう。彼らは同じ年なのだが。
「ああ、そう。昨日の『ゼメルの植物誌講義』、欠席なさってましたよね。学資が足らないせいなのですか?」
「いえ。それは別の講義をとることになって――まあ、詳しい話は省きますが、お金を稼がないといけない状態になっているんです。しかもできれば十曜日に。前、ハンさん何か仕事をしていると言っていませんでしたか?」
「ええ。春先に洪水で郵便が遅滞して送金がなかったものですから、仕事をしました。僕は借金っていうものが、本当に好きでないので」
 大抵の学生は、手元に金がない時、まず『質』を使う。学生向けの質屋は島内にたくさんある。
 が、ソラには二通りの理由で使えない選択肢だ。まず、一時金ではなく、継続的に収入が必要であること。さらに、そもそも、質に入れるような品物のアテがないことだ。
「十曜日に?」
「ええ。寧ろ十曜日にです。学院の大文書館で、書庫の整理の仕事ですよ。何年も前から、あそこでは司書の方が目録を作ろうと大変な苦労をなさっているんです。だから手伝いは随時募集されていますよ。文書館でお聞きになってみてください。――ただし」
 ハンは、独特の困ったような微笑を、僅かに傾けた。
「大変な仕事ですよ。寒い部屋で、埃だらけで、一日中。昔の本は重いですしね。書庫は窓もなく悪い霊でも出そうな雰囲気です。女性には、あまり――」
 ソラはにこりと笑ってその先を封じた。
「どうもありがとうございます、ハンさん。行って聞いてみますね」
 すぐに行こうとする彼女を、少し慌てたふうに彼が止める。
「ソラさん」
「はい?」
「『植物誌講義』には、もう、お戻りにならないのですか?」
 ソラはハンを見た。そして、首を振った。
「はい。戻りません」
「そうですか。――変わられましたね。何か……。戦う目をしていらっしゃる」
 返事の代わりに、ソラは微笑んだ。自分でも、びっくりした。
 ハンは戸惑ったように言葉を飲み込む。ソラは言った。
「はい。喧嘩してみることにしたんです。人とじゃないですよ? 自分の運命と。導いてくれそうな先生に、会えたので」
「学院の学者ですか? まさか、外の?」
「…………」
 ハンの表情にありありと心配の色が加わる。彼は多分、良識から逸脱することは残らず危惧してしまう性質だ。
「大丈夫なのですか? 何か変な……」
「大丈夫です。よかったら、ハンさんにも、ご紹介しますよ」
「いえ。僕は……。お気持ちだけ頂きます」
「あなたは、喧嘩しないんですか?」
 ソラが尋ねると、ハンは突かれたくないところを突かれたというように、目を細めた。
 どこかで講義が終わったのか、背後の回廊を、大勢の学生達が歩いていく。ざわざわと反響する話し声と足音が、沈黙する彼らを潮騒のように取り巻いた。
 ソラはまるで、海の中に立っているような気がした。
 やがて、ハンが再び口を開く。相変わらず、人品卑しからぬ、静かな口調で。
「……あなたが何に対して、反抗を始めたのか、分かるような気がします。そして、それに立ち向かうあなたは、ご立派だと思います。でも、僕は……。すいません」
 ソラは笑った。
「謝ることじゃないですよ」
「すいません。本当に。……でも何か困ったことがあったら、相談してください。あまり危険なことは、しないでください」
 ソラはもう、何も言わなかった。
 良心のかたまりのように彼女を心配するハンに会釈して、身を翻した。
 彼が憎いわけはなかった。彼の心配はそれはありがたかった。けれど同時に、間違いのない失望をも、味わっていた。
 彼女は一人で文書館へと進んだ。目の裏には、彼女を見送る大人しいハン・リ・ルクスと、その背後に雲のようにある大勢の学生達の姿が、しばらくの間、何かの示唆のように、残っていた。



 ソラは文書館での仕事を得た。その場で無愛想な司書から説明を受けたが、説明だけで、大変な仕事だということが窺い知れた。
 文書館には、目録がもともとないか紛失してわけが分からなくなっている書庫が三十もあるのだそうだ。そこに『詰まっている』本を、一冊一冊引き出し、埃を払い、書名を確認し、状態を記録して、別の書庫へと収納しなおす。
 司書の口ぶりでは、各書庫に積まれた本は三百を下らないということだった。しかも、世に知られていない個人的な日記や、仮綴本、写筆途中の本、外語で書かれた大陸外の本なども含まれるという。
『どうせ、君一人ではこの作業は終わらない。前の学生の仕事を引き継いで、何とか効率的にやり遂げてくれたまえ』
 司書はそう言って、真っ暗な螺旋階段の先にある、作業途中の書庫の扉を開いた。そこに部屋の体積と同じだけ詰め込まれたタリン紙の壁を見て、ソラは言葉を失った。



 ネコは情け容赦なかった。
 次の二曜日にソラが現れると、調子はどうだとか、大丈夫かとか一言も聞かずに、服装の乱れを注意した後、ンマロへ連れて行った。
 ンマロは貿易を行う商人達と漁師の栄える港町だ。定期的に市の開かれるにぎやかな中央広場からほど近い、とある商人の館を、彼女を伴って訪問する。
「私達の文明の前には、もう一つ、滅んだ、ヒトの文明があったことはもちろん知っているね」
 黒い帽子を手に、黒い外套をひらめかして、また奇術師のようになったネコは、その家の狭い階段を下りながら言う。
 時折、家人とすれ違う。彼らはみな、『こんにちは、ネコ先生!』と親しげに挨拶し、それからソラに興味深げな目を注いだ。
「はい。古人が何度もその存在を示唆していますし、各所で遺跡も出ています。でも、どんな文明だったのか、何故滅んだのか、詳しいことは何も分かっていません」
「それを含め、過去の研究は非常に重要だ。何故ならば、そこに我々がまだ知らない、アルススについての知識が眠っている可能性が大きいからだ」
 二人の足音が木製の階段を下っていく。脇の白壁には一定の間隔を置いて窓が開いており、その前を通るたび、まぶしい運河の光景が見えた。
 やがて、階段が尽き、つき当たりに扉が現れた。ネコの手がそれを開く。彼らは整然と木箱の積まれた、広い石造りの一間へと到達した。
 ソラは驚いて明るいほうを見た。部屋の一面は壁がなく、その先は運河だ。床の途切れる先には、平らな水が沈み始めた太陽の残光を拾ってきらきらと輝いている。港につきもののカウル鳥の鳴き声が直接床に響いた。
「――倉庫ですか?」
「船着場。ここで積荷の上げ下ろし、保管もする。夜になれば、海側に格子が下ろされ、施錠される。この館の、商家としての玄関口だ」
 ソラは頷いた。だがまだ分からなかった。
 ここで、一体、何を?
「この館が建ったのは、六十年も前だ。今でこそ古風だが、当時の最善を尽くしたこの館は話題になった。学者や画家が招かれ、この家について書いたり素描を残したりした。とある学者は書いている。『館の内装は工夫を凝らしてあり、驚くべきものである。特に港口の壁のモザイクは斬新だ。主に聞いたところ、古物商から大量に買い取った遺跡のかけらを埋め込んだものと言う』」
 ソラはそれまで、水面に注いでいた視線を転じて、背後の壁を見た。
 確かに壁は凝っていた。黒っぽいさまざまな石を集めて、緩やかな波型になるよう、見事に一つ一つ敷き詰めてあるのだ。
 今この時間でははっきりしないが、恐らく東から光の当たる朝には定めし印象的に光ることだろう。
 そのかけらの一つに、明らかな文字が見えた。ソラは唇を開いて息を飲む。
「玄関口だからな。見栄を張ったんだ。研究資料を破壊する行為だと非難をすべきかな? それとも、このおかげで、少なくとも一群の遺跡が、散逸せずここに保管されたと感謝すべきか」
「……ま、まさか。ぜっ、前文明の、遺跡、なんですか?! これ!」
 ネコは長い裾ごと腕を組んで、にやりと笑った。
「だといいがね。さすがにそれはない。これは、せいぜい二千年前の、我らがご先祖様の遺物だよ。――こういうことは往々にしてある。この街の館や、道には方々遺跡のかけらが塗り込められていて、それだけを研究して終わった学者さえいるほどだ。そして私もまた、近年になって遅ればせながらその研究を始めたというわけだ。教えてくれないかね、ソラ。どうして神話は、アルススを不可触の神として隠していたのか?」
「えっ?」
 いきなり言われてソラは戸惑うが、奇術師は少しも待たない。
「これほど便利で、これほど強力な神だ。どうして神話はその存在にただの一語も言及していないのか? 神話を形作ったのは、先祖達の知恵だ。彼らはアルススの存在を知らなかったのではない。知っていながら、隠したのだ。もちろん自分達はそれを呼ばなかったし、子孫らにも接触を禁じ、用心深くその神の名を決して文字に残さなかった。どうしてか?
 その理由を、我々はまだ知らない。クローヴィスもまた、知らないままにアルススを起こした。奴にとっては力が全てでそんなことはどうでもよかった。――しかし理由は、なにかあったはずなのだ。私はそれを知りたい。アルススとは一体なにものなのか。何が彼らの警戒を呼んだのか。少なくとも先祖らが知っていたことくらいは、知りたいのだ。君にとっても、意味のある探求だと思うが?」
 ソラは、ようやく、今自分がここにいる意味が分かってきた。
「何をしたらいいですか」
「見てのとおり、それぞれのかけらには文字が刻まれている。元は何らかの石碑か文字板であったことが予想される。二千年前の文字板なら、解読の希望はある。近年、古文字の研究が進んでいるからだ。だが見ての通り、この遺跡は、ばらばらになって壁の一面に塗り込められている。壁を剥ぎ取ってかけらを回収できれば言うことはないが、この家の主は無論それを承知しない。ならばどうするか。
 見える限り精密な写しを取るのだ。そしてその複製を作成し、その複製を、つなぎ合わせて復元する。そうすれば文字が解読できる。何が書いてあるか理解できるというわけだ。
 既に、この戸口から半ばまで、記録をとってある。君には残り半分をやり遂げてもらう。その間に、私は複製を作成する。手間ひまと人手のかかる地道な作業だ。助手が出来て嬉しいよ。了解したかね?」
 ソラは、話に圧倒されているヒマも、驚愕するヒマもなかった。すぐにネコがきびすを返して言ったからだ。
「家の奥方と使用人たちに君を紹介しよう。これから課外、君は道具を持って一人でここに来るのだ。くれぐれも無礼のないよう。商売の邪魔をしないよう。晩餐前には退去するよう。彼らはただの好意で私達を家に入れてくれるのだからね。
 それから庵に戻って、これまでの私の記録を見せよう。写生の道具は揃っている。それを君に貸し出す。毎回作業が終わったら、庵に報告に来たまえ。分かったかな」
「は、はい!」
 返事のとおり、ソラは分かったつもりでいた。
 その後、庵に戻って、ネコの記録を見て、感心し、同じようにすればいいのだと理解して、次の第七曜日に、実際に道具を持って商家を訪問した。
 壁に貼りついて四時間ほど作業を行って、くたくたになって、商家を辞す。波の上を歩いて、庵に戻り、成果を見せた瞬間。ソラは初めて、ネコに叱られた。
「一体何だ? この記録は。こんな落書きで用に足りると思っているのかね。君の今日作業した場所は、私が既に、一度記録しておいた部分だ。これを見て、次回もう一度やりたまえ。同じ精度で出来るまで他の部分へは移らなくていい! 学問を甘く見てはいけない。研究はおままごととは違うのだ。紙も時間も無駄にして。次にこんな造作を持ってのこのこ戻ってきたら、私は君を、二度と仕事のできる学生としては取り扱わないぞ!」
 体幹が、ぎゅうっと両手でねじ切られるような感じがした。
 震える手で、突っ返された自分の『落書き』と、ネコの描いた『記録』とを見比べる。
 ネコの怒りは、もっともだった。
 精度が全然異なっていた。
 ネコは本当に見たままを描いていた。ソラはかけらを見て、自分で表現できるようにだけ、描いていたのだ。ちょうど子どもが母親の顔を絵に描くように。寸法も、少しずつ違った。それは、写生とは言えない。
 夜の海の上を帰った。空には月が出ていて、風が冷たかった。
 目から熱い涙が零れて、頬に落ちる前に飛ばされていった。



 十曜日には、書庫の整理も始まった。警告された通り、大変な仕事だった。
 そもそも、引き継いだ時点でもう実際の数が記録と異なっていた。過去の記録の精度は学生によってばらばらで、ひどくいい加減だったり、誤っていたり、読めないほど悪筆だったり、初手から記録の規則を了解していないのではないかと思われるものさえあった。
 結局一から再確認をせねばならず、ソラは移送先の書庫の記録の見直しから始めることを余儀なくされた。
 迷惑だった。
 学問を甘く見てはいけない。
 ネコの言葉が脳裏に蘇る。
 ちゃんとした仕事というのは、こんなに容赦なく、厳しいものだったのか――。
 彼女は筋肉痛の残る手で、冗談ではなく一抱えほどもある本を持ち上げ、埃まみれになりながら、黙々と再記録を行っていった。
 はっきり言って、ソラは疲れていた。生活が一変し、増えた講義はみな途中参加で、内容を理解するのに倍以上の努力が必要だった。
 その上に極度の精密さを要求する仕事が週に二度あり、十曜日には肉体労働があり――、休みが消えた。
 学内では背筋を伸ばして歩かねばならなかった。心配する学友はあっても仲間になってくれる者はなかった。
 おまけに折悪しく月経も始まった。
 ソラは無性に腹が立った。この女特有の習慣はいつまでたっても好きになれない。望みもしないのにいきなりやって来て、自分が重苦しい、どんくさい、血なまぐさい肉体を持つ生物であるということを、無駄に思い知らせて消えていく。
 どのように気取っても、所詮あの媚を売りしなを作る女達と、お前は同じ種族なのだ。いつかは同じさだめなのだぞと。
 ――いらないから。消えてくれないだろうか。
 心底ソラは思う。
 私は子どもなんかいらない。誰かの妻にもなりたくない。だから本当に、消えてなくなってくれないだろうか。このしつこく続く鈍痛と一緒に。
 こんなものなしで生きていたい。もっと身軽に、強く、自由に、ネコみたいに颯爽と生きていたいのに。



 貧血をこらえ、青い顔をしながら、講義棟を歩いていたら、いきなり視界に腕が飛び込んできてひっくり返りそうになった。
 ぎょっとして顔を上げたら、そこに世界で一番見たくない男の顔があった。
 クローヴィス――いや、イラカだ。
「よお」
 イラカは一人だった。前みたいに余裕を含んで笑ってもいなかった。
 珍しく真面目な顔をしている。が、普段が普段だから、担がれているような不審な感じを受けてしまう。
 ソラは全身にわだかまる苛立ちの全てを込めて、これ幸いと彼を睨んだ。
 イラカはちっとも怯まなかった。ソラにも、そろそろ分かってきていた。彼もまた、そう簡単な人間ではない、と。
「飛び回ってるらしいじゃん。ていうか、あんた、名前ソラって言うんだ。人に聞いたよ。――ソラ」
 名前なんかで呼ばれて、ぞわっとする。と。
「飛び回ってるらしいね」
 イラカはまた言った。壁についた腕はそのまま、上体を倒して顔を近づけてくる。大きな黥が見える。水色の目が見える。額に落ちかかる、金の一筋。
 そして、そういう人との距離に慣れた、低い声で彼は囁いた。
「あんたが、どこをどう飛び回っているか、知ってるぞ。『裏庭』で、『ネコ』と遊んでるんだろ?」
 ソラは驚きを怒りで偽装した厳しい一瞥を彼に返した。
 うまく通じたかどうか、それは分からない。
 彼が自分の行動について知っているということは、調べたということだ。次の一手に出たということだ。
 どのように強がったとしても、それはやはりソラにとって、脅威と警戒を感じさせることだった。
 それをイラカが察知したのどうか。その声が、いきなり、掌で優しく撫ぜるようなものになった。ソラの目を覗き込みながら、彼は言う。
「悪かったよ。ちょっとやりすぎた。時々、調子に乗る。昔からそうだ。南育ちのせいかな」
「…………」
 うわ。とソラはたまげた。
 男って、こういう声が出せるのか。
 ソラはこれまで、こんな甘い声を聞かせられたことがなかった。
 相手におもねって懐柔しようという意図をはっきり感じた。それに身も蓋もない現実的な説得力があることも、感じざるを得なかった。
 きっと、いつかどこかでなら、これが有効に作用するんだろう。
 分かるような気がする。あくまで、他人事としてだが――。
「人前で恥をかかせて、悪かった。だからネコのところに行くのは、もうやめろ」
 ソラは眦に力を込めた。
 闘争心が、体の中央からじわりじわりと湧いてくる。
「どういう意味」
「やっと口をきいたな。あの男はだめだ。テプレザの騒ぎようは半端じゃない。あんたはやばい男と関わってるんだよ」
「…………」
「そうだ。俺のせいだ。そうなんだろ? 俺にからかわれて、あんたはめちゃくちゃ怒った。それで変わってやるって思った。そこまではいいよ。でも、怪しい町学者とつるむのは行き過ぎだ。邪学者になるつもりなのか?」
 ソラは、その時、一つ分かったことがあった。
 この男イラカは、仲間が無理矢理ソラの髪を切ったことを、知らないのだ。すべて自分の最初の言動のせいだったと思っているのだ。
 これほど完璧にクローヴィスを真似ているというのに、間抜けなところがあるものだ。
 その意識が、ソラをほんの少し冷静に、そして、優勢にした。
「テプレザがなに。あんな、お化粧お化けの似非学者」
「ああ、同感だね。しかし昔のことはよく知ってる、俺やあんたよりも。『裏庭のネコ』は不埒で危険な人間だ。だから学院を追われた。なのにまだ干潟に留まっている。干潟は学院の領土だ。許可なしに居住できない。それだけでも違法行為だ。学院が裁判所に訴えれば、正式に犯罪者として処罰されるような男なんだぜ」
「それだけ強力な学者だってことだわ。町の官憲ごときに、手が出せるとは到底思えないけど」
「俺が真面目に言ってるの分かるだろう」
 また、イラカはあの声を出した。
 聞いてるだけで赤面するような声だ。いったい喉のどこから出しているのだろう?
「悪かったと言ってるんだ。二度と、あんたを攻撃しない。他の連中にも言っておく。誰にも手出しさせない。望むなら友達になろう。平和な生活を約束する。だから、ただの生徒に戻るんだ」
「――『戻る』?」
 その言葉が、ソラに以前の生活を、一気に思い起こさせた。
 好きな講義をとってよかった。のんびり暮らしていけた。働かなくてもよかった。油断しきって、楽な姿で、学院内をうろうろできた。怒られることもなかった――。
 学問を、甘く見るな、などと、言われて、泣くことも。
 戻る?
 あの無防備で、隙が多く、甘ったれていた自分へ?
 御しやすく、標的になりやすい、自分に?
「…………」
「ソラ?」
「質問に答えて」
「ん?」
 優しい声で応じるイラカの目をソラは静かに見返す。
 そして聞く。
「どうして、アルススは神話によって禁じられていたの」
 時の止まったように、イラカの顔が動かなかった。
「どうして私達の先祖は、決してアルススに接触することもなく帰依もしなかったの。もしその質問に答えてくれたなら、あなたの言葉を信用し、友達になってもいいわ」
 ソラは大きく一歩引いて、イラカの体が作る狭い空間から抜け出した。
 そうだ。こうすればよかったのだ。馬鹿馬鹿しい。
「――誰もがあなたの目論見に従うと思ったら大間違いよ」
 脇をすり抜けようとした時、耳の後ろに手をやりながらイラカが言った。
「言ってだめなら、次は力ずくってことになるぜ」
 もういつもの、傲岸不遜な声に戻っていた。
 脇腹が震えた。どうしたって、どうしたって、どうしたって苦笑してしまう。なんて茶番だ。
「どっちでも同じじゃない。言葉でも、力づくでも、甘い声でも、怒鳴り声でも! あなたのやってることはいつも同じよ。他人を操ろうとしてる。自分の都合のよいように、動かそうってしてる。見え透いているわよ。つまらない」
「ネコは違うってのか?」
「違うわ。私は自分で頼んだのよ。弟子にしてくださいって、自分からね。もう絶対元には戻らないわ。さよなら」
 会話は終わりだった。ソラは歩き出した。
 四肢に力が漲って、再び彼女の背筋は伸びていた。
 相変わらず血は薄い。腕も足も筋肉痛だ。けれども彼女はその日も干潟を渡り、ネコの庵へ行った。


 残されたイラカの口元から、短い舌打ちが漏れる。




(つづく)
<<戻 次>>