06


『何をためらってらっしゃいますの! 相手はあの男ですのよ?! これまで大人しくしていたのは偽装だったのですわ。時を見計らって学院に害をなすつもりなのですわ! 学生の身が危険です! すぐに必要な手を打たないと!』
 壁と、木製の扉の間の、僅かな空気の通り道から、テプレザのわめき声がきんきんと耳に届く。
『しかし……、学生が課外時間に何をしようが、一般に我々の関知するところではない。そもそも、必要な措置とはどういうことかね。教官?』
 気の進まないような、疲れたような、寧ろ呆れたような低い声が、その高音の間を埋める。
『決まっているではありませんの、学部長! 学院から指導を与えて学生にネコを会うことを禁止し、またネコにも威嚇を与えて可能なら干潟から立ち去らせるのですわ!』
『何を理由に?』
『危険だからに決まっています! あの男は詐欺師です。嘘つきです。虚飾家の陰謀家です。クローヴィスによって奪い取られた自分の栄光を取り戻したくて仕方がないのですわ! 単純な学生らを操って学院を侵略するつもりなのです!』
『……それは確かに、そうかもしれない。学生課からしかるべき警告を与えさせよう。それでいいだろうね』
『それだけでは不足です! 当人を呼び出して直接譴責すべきです!』
『教官。正直言って、私はそこまでする必要性は感じない。学院が個人の生活にそこまで干渉した例は記憶にないし、そもそも、本当に個人的なつながりがあるのだったらどうするのだね? 例えば、その学生の親と、ネコが知り合いだとか。親戚の恩師だとか――』
 もしそうだったら、我々は正にかかなくてもいい恥をかくことになる。
 そう続けようとした学部長の声は、相手の奇妙な沈黙に吸い込まれた。
『教官?』
『親戚……』
『どうしたね、教官?』
 お互いが気を取り直すような一瞬があった。やがて、少し落ち着いた、というか寧ろ、不安の影がさしたために暗くなったテプレザの声が、かろうじて廊下へと漏れてくる。
『……適切な指導を与えねばなりません。学部長。既に、学生は一般の学生達からは離れ、勝手な行動をとり始めているのです。態度も、服装も普通ではありません。見て頂ければ分かります。まるで変な狂信の集団に入った信者のようです』
 学部長からは、納得し損なったような、『う、うん?』という返事があった。 『もし、警告に従わないのであれば、学院からの除籍も考えるべきです。反社会的な、危険な学生を放置してはいけません』
『…………』
 その後の沈黙に、学部長の強い困惑をはっきり感じ取りながら、イラカは手を突いて、体全体を冷たい石の壁から取り戻した。
 いつも傍らにいるリリザの見ている前で、耳の後ろを掻く。
「あーもう。すっかり逆上しちゃってんなあ、あのオバハン」
「先生のことをそんなふうに呼ばないで」
「だってうるさいんだもん、あいつ」
 部屋から離れるために歩き出す。リリザはまるで魚のようにぴたりとその脇を着いて動いた。恋人の不機嫌を感じ取って、彼女の眉根もまた不安げに寄せられる。
「困ったなあ、もう。話がどんどん大きくなるんですけど。時間が経てばちっとは落ち着くかと思ってたら、逆だし。寧ろどんどん取り乱していくし。どういうことだよ」
「それだけ、その……ネコって、男が、問題なんじゃないの?」
「それにしちゃ、学部長の反応が薄かった」
「先生だけが気付いてらっしゃるのよ! そいつが危険だって」
 イラカはすたすた廊下を歩きながら、納得しかねるように首をひねった。まさに、室内でもこれと同じ構図が見られたに違いなかった。
「とにかくこれ以上話が大きくなる前に、あの女に自重させないとダメだな、こりゃ。なんとか話をつけて、あいつをこっちの世界に引き戻さないと」
「……」
 リリザは足を止めた。イラカはそのまま歩き続けるが、名前を呼ばれてやっと距離が開いていることに気付き、振り向く。
「あら。どした?」
「――ねえ。どうしてそんなにあの子のことを気にかけるの?」
 イラカは、美形の割に自在に動く顔の筋肉を駆使して、両方の眉を上げた。
「だって、そもそも俺があいつにつまらんことを言ったのが事の始まりだからだよ。別に悪気はなかった。ただの挨拶のつもりでちょっとふざけただけさ。――でも、言わなけりゃよかったよ。こんな面倒になるんなら。あーめんどい。俺の勘も大したことないわ。大丈夫そうな奴を選んだつもりだったんだけどなあ」
 何らかの気まずさを誤魔化すように、リリザは一瞬視線を横に反らした。だがそうしながらも、もう一度尋ねる。
「それだけ?」
「と、仰いますと?」
「最近、あなた、あいつのことばっかりで、私、なんだか、不愉快なの」
「……」
「この件に関する先生へのあなたの態度も、なんか、嫌だし」
 イラカは黙ったままスタスタスタと廊下を戻ると、周囲を確認することもなく、腕を伸ばしてぎゅうっとリリザの体を抱きしめた。
「一番おしゃれで一番かっこよくて一番おもしろいリリザさん」
 互いの装身具が揺れて星屑のような音を散らす。
「それなのに時々、そんな極小の不安で肋骨の中身いっぱいにしちゃうんだから。かわいいなあもう」
「……」
「君が不安になったり心配するようなことは何もないよ。分かるでしょ。俺はただテプレザが騒ぐのがうるさいから、黙らせて、全部収めたいだけさ。前の通りにね。俺のつまんない一言がきっかけで、女の子が一人、何か変な道へ入っちゃった。このまま放っておくのも、気持ちが悪いからさあ。でもごめんね、不安にさせて。リリザ」
「……イラカ。あのね……」
「ん?」
 しかしリリザは結局、何も言わずにしまった。
 学生はもちろん、教官も通りかかるような学院の廊下で、イラカの胸に顔を埋める。
 イラカはその美しい髪の毛を右手で優しく撫ぜながら、視線だけを窓の外へ投げていた。
 春らしく晴れ渡った青い空は彼の懸念と眼差しを、手ごたえもなく、どこまでも遠くへと吸い込んでいた。





 同じ頃、講義室では講義が大詰めを迎えていた。
 学生の数は十人程度で、盛況とはいえない教室だったが、ソラは興奮していたし、周囲にも熱気が感じられた。
 講義をしているのは、銅鼎博士ガニア。眉間と口元に深い縦皺が刻まれた四十代半ばの男性だったが、声は柔らかく、とても理知的だった。
 彼の手元には、軽く小さな木箱が四つあった。学生らも四つずつ持っていた。途中参加のソラは隣の学生に見せてもらっていた。
「長期の実験への協力に感謝する。また実験への厳密な態度に感謝する。
 いつも述べていることではあるが、学問では再現性が何よりも決定的に重要である。ルル・シル・カントンが定義したとおり、学問の真実は時とともに移ろい行くものであったり、誰かには再現できるが他の誰かにはできない、というものであってはならない。いかに自明の前提と思われている事実であっても、ある時点から再現性が確認できなくなった時にはその真実性は損なわれる。過去に幾つもの常識がこの挑戦に破れ、そしてより『正しい』知識へと置換されてきた。学問の歴史はまさにこの挑戦と刷新の積み重ねに他ならない。
 さて、実験の結果を吟味しよう。我々が今知っている学問的事実は、今回もまた、厳密な実験によって正しいと証明されているだろうか?
 まず一つ目の箱。ここにはウルス綿と精製水、クロムの種子が百。実験開始より暗室に保管され、二十日が経過した今日現在で、私の箱の発芽種子は四九である。みなの提出してくれた数値を計算したところ、平均値は四七であった。
 二つ目の箱にはこれに加え、シギヤの祝福を加えた。全員がこのために各自二週間の祈祷を捧げ、同じ手順と祝詞で種子に祝福を与えてある。私の箱の発芽種子は七二。平均値は、六九。
 三つ目の箱には、さらに栄養剤として、古来から使われている雑穀の研ぎ汁を加えている。この時、発芽種子は八九。平均八五である。
 最後の四つ目の箱には、祝福なし。雑穀の栄養剤のみである。この時、発芽種子は六七。平均、六二である。
 全ての結果が、これまで繰り返されてきた実験の数値を再現し、その事実性を改めて証明するものであった。
 この結果よりまず証明されることは、やはり、正しい手順を踏んだ者による森林神シギヤの祝福は、発芽率の上昇に有効だということである。しかし、それは万能ではない。発芽率は約七割前後を推移し、それ以上の値は報告されていない。また学者の習熟度とも関係がない。私と諸君らの間には、ほとんど結果の差がなく、世界的に見てもまたそうなのである。
 同時に、即物的な栄養剤の効果もこの実験は証明している。だがその効果はやはり限定的なものである。最も有効な手は、祝福と栄養剤。そのかけ合わせである。
 こうした実験に基づいて、現在では多くの農地でこの混合型の手法がとられている。下世話に言えばシギヤ神官や学者の最も大きな仕事の一つとなっている。
 今でも俗社会では時に聞かれることであるが、正直で正しい信仰心さえあれば芽生えが保証されるのではない。また肥料こそが大事なのであって、神事などはただのまじないの伝統行事だ、ということでもない。
 我々の実験は、もっと複雑な事実を示している。この世界には神がいる。だが神が全てではない。この世界には、物質がある。だが、それが全てでもない。世界の真実はその混合の先にある。学問の功績は何よりも、この複雑な視座を人の間に広めたことにあるのだ。そしてこの認識もまた、諸君らのこの実験によって再度保証されたわけである。
 個人的な話であるが、私は若い頃、この事実を知って、強い衝撃を受けたものだ。それまで私は、神が世界の全てを握っていると考えていた。神の世界を究めれば、世界の謎は全て解けると思っていた。
 しかしそうではなかった。神もまた、我々人間と同様に、世界のごく一部を掌握しているに過ぎないのだ。我々よりも遥かに広範で、より強い力を持っているとは言え。
 世界はなぜこのように創造されたのだろうか。神でなく、人でなく、一体どんな理由が、世界をこのように混成したのだろうか。私はそれを思うとき、いつも鳥肌が立つような思いがするのである。恐らくこの震えのために、私は今も、学究を行っているのだ。
 我々が、再現性という名の最低限の倫理を遵守して動くとき、学問は間違いなく、人間の駆使しうる最強の武器である。何故ならそれは、このように微細な事柄を扱った実験から、遡って世界の創造という核心の不思議にまで迫ることができるからだ。
 創始者ルル・シル・カントンの言を、是非記憶にとどめてもらいたい。
『私はここに一匹の虱を解剖し、諸君に世界のすがたをご覧に入れよう』
 ご静聴と協力に感謝する。それではまた次回」




 ネコが、この教官の講義を聴け、そうしなければ始まらないといった理由が、よく分かった。
 ソラは、もうすっかり魅了されて骨抜きにされたといってもいいくらいだった。世の中には、知識の獲得によって恍惚を覚える変態的種族がいるのである。
 学生らがめいめい、授業料を集金箱に納めて講義室を出て行く。ソラは最後にちゃりんとやって、思わず、博士に感想を言った。
「ものすごく、面白かったです」
 教材をまとめていた博士は手を止めて、にやっと笑った。眉毛が太く、しかも皺が消えずに額に残っているので、ちょっと悪魔的な印象を与える。
 だが、ソラは、すぐに自分も同類と思い知ることになった。
「君が面白がってくれてるのは知っていたよ。一番後ろの席で、ものすごい怖い顔をして、こちらを睨みつけていたからな」
「…………」
 そう。ソラは東部民の習慣で、喜んでいれば喜んでいるだけ、それを隠そうとしてか、深刻な顔になってしまうのである。
 具体的には目を見開き、ぎゅっと眉根を寄せて、まるで裁判でも聞いているような真顔で博士を睨んでいたのだ。
 そしてもちろん今もしかめ面気味なのである。さすがに、赤面した。
「いやいや。気にすることはない。私もどっちかと言えば怖いと言われる面構えだからな。――東部かね?」
「は、ハライです……」
「ほう、ハライか。昔、私の学友にもハライの女性がいたよ。そうだ、あの子もよく講義中真剣になり過ぎてたな。ネコ先生が笑ってしまって話が続けられなくなったことがあった」
 知った名が急に飛び出す。
 思わずはっとするが、ガニアは気がつかなかったようで、すぐに話を継いだ。
「それはともかく、君は結果の部分だけ聞きに来て、過程を飛ばしたな?」
「あ……。それは、あの、知らなかったんです。で、ある人にすすめられて、つい最近この講義に」
「それはありがとう。だが、正確な実験のための手法や記録のとり方を身につけることも重要だ。できれば今後は途切れずに来給え。次からまた別の実験に取り掛かるから」
「は、はい」
「ではね」
 片手を上げると、ガニアは上手に箱や教材をまとめて、講義室を出て行った。
 颯爽としていて、その雰囲気がどこかネコにも似ていた。
 年齢的に言っても、教え子なのかもしれない。
 ソラは迂闊にして知らなかったが、このアルスス一辺倒の学院にも、あのように堂々とした素晴らしい教官がまだいたのだ。
 受けるに足る、見事な講義も、まだまだあるのだ。
 ソラは嬉しくて嬉しくて、一層しかめ面になってしまった。いつにもまして「寄らば斬るぞ」という雰囲気を発散させながら歩くソラは、元気を取り戻していた。



 その日は七曜日だった。ンマロの商家に出向く日だったが、干潟を渡った。
 実は前回、写生道具の一部を庵に忘れてきたのである。多分貧血でふらふらしており、ものすごく疲れていたためだろう。
 初めて海上へ逸脱したあの日から、二十日ほどが過ぎて、季節はすっかり春に移り変わっていた。
 太陽の日差しが暖かい。風もさわやかだ。胸いっぱいにその空気を吸い込みながら、よくも入学以来半年間も、あんなせせこましい小島に閉じこもっていたものだ。と思う。
 ハン・リ・ルクスも、いつも島にいるらしいが、たまには外へ出ればいいのに。
 ――そういえば。町長の息子はどうしているのだろうか。入学時に挨拶に行ったが、なんだかぶっきらぼうな対応を受けただけで、あれから三度と顔を合わせていない。講義でも会わない。
 彼は信仰心が薄くて、なんでも、天文の勉強ばかりしているのだそうだ。夜毎、自分の開発した遠眼鏡を担いで塔に登って空をのぞく。当然、昼に寝ているのだろう。
 彼はいつも無愛想で、ぶすっとしている。一人で行動するのを好み、友達がいそうな様子もない。
 ただそれはソラも人のことを言えた義理ではなかった。
 きっと彼も、ご大層な顔で遠眼鏡をのぞいているのだろう。それを想像すると、小さな苦笑が漏れた。
 眉間を指の腹で撫ぜながら水を渡り終え、ぼうと魔法のように現れ出たネコの庵にたどりつく。
 どうせ分かっているからノックは不要、と言われている。それでドアを開けて中へ入ると、珍しく来客があったようで、奥から話し声が聞こえてきた。
 若い男性の声だった。
 気のせいか詰問口調で、なにやら一方的に理屈を述べている感じだ。だが、本当の敵というほどの険しさではなかった。
 ソラがそっと、しかし気付かれもするように配慮をしながら居間へ顔を出すと、身なりのよい男性がさっと片足を引いてソラを見返った。
 それでその奥に座っているネコの体も、見えるようになる。
 横顔しか見えなかったが、彼は背もたれに体を預け、傾けた額に手を当てて、ちょっと弱っているように見えた。
「こんにちは」
 ソラはとりあえず頭を下げて一礼した。
 男性はソラを上、下と別けて二度見ると、くるりと首を返してネコに言った。
「弟子ですか」
「まあそんなもんだ」
「ではもうお暇しましょう。しかし、さっきも言いましたが、暮らしにさえ不自由させなければ、あとは何をしたっていいとは私は思いません。母上は許しておいでのようですが、私や妹達は納得していません。ここを引き払われないというのなら、せめてもっと家にお寄りください。お手紙もお書きください。――では父上、失礼します」
 普段、あれほど能弁なネコが一言もなく、冴えない顔でやられるがままだった。
 男性は手にしていた帽子を被ると、ぴんと伸びた背筋を軸に体を反転させ、すたすたとソラの脇を通って、玄関から出て行った。
 ひゃー、と思いながら、ソラは聞いた。
「息子さんですか」
「うむ」
「手ごわそうな方ですね」
「昔の自分にそっくりだ」
「……」
「昔の自分に一方的にやられるのは気分のいいものじゃない」
「…………」
「なんだって、そうしげしげと玄関のほうを見ているんだね」
「いえ」
「というより、何をしに来た。今日はンマロに行く日だろう」
「忘れ物を取りに来ました。もう行きます」
「ああ。アガタ、向こうに着いたら――」
 隣室へ行こうとしていたソラと、身をねじって彼女を呼び止めようとしたネコの、両方ともが一時、停止した。
 ネコの目が、眼鏡の奥で、自分自身にびっくりしたかのようにソラを映したまま、見開かれている。
 ソラは咄嗟に、何と言っていいかも分からぬまま、場に立っていた。
「間違えた」
 しまいにネコはため息をついて、椅子に体を戻した。
「息子のせいだ。混乱した。――ソラ、向こうに着いたら、中央広場の薬種屋で赤の顔料を注文しておいてくれ。ネコの使いで、いつもの銘柄をいつもの量だと言えば通じる」
「はい」
 ソラは別室に入って、忘れ物を取った。
 そして、肋骨の中で、どうしたってうごめく心臓を宥めながら、再び凪いだ海を渡った。



 きっとそこにも何か、知られざる物語が埋まっているのに違いない。
 言っていたではないか。街中、かけらだらけなのだと。
 眉間を指の腹で触るように、そう考えながら、ソラは、壁に埋め込まれた黒い破片の、スケッチを取っていく。
 もう最初のような情けない失敗はしない。まず、極限まで細く削った木炭に鉄尺を当てて、紙の上に、格子を引く。そして、縦横に等間隔に五本ずつ線を引いて画面を十六マスに区切り、各部が完全に現物と一致するように、写生していくのだ。
 食い入るように壁を見つめ、絶対に、1デルも狂わないよう、写実してゆく。
 もちろん、そんな技術を習得しても尚、しんどい作業に変わりはなかった。ほんの三十分ほどでもうくたくたになるし、妙な姿勢のために体の随所も痛くなる。壁に向かってものも言わぬわけだから、家で働く人々の視線も気になった。
 だが、結局、ソラは楽しかった。
 正確さ、という新しい基準を、生まれて始めて手にしたのだ。それはまるで新しいおもちゃのようだ。
 それにきちんと添って、数字や図や言葉を整備したなら、なんとそれは万人に共通して受け容れてもらえる資材になるのだ! こんな自分が作ったものでも! 魔法のようではないか?!
 ソラは今や、書庫の記録を作ることも楽しかった。より正確に、より分かりやすく、間違いなく有益なものを作っているという手ごたえ。
 誰かがまた、自分の作った記録を元に何か発見をしてくれるかもしれない。
 学問に携わる全員が、この楽しさに目覚めるとは限らないだろう。だが、ソラは、見事に目覚めたのである。
 さっき誰かが声をかけてきたような気がする。だが、ソラが顔も上げずろくに返事もしないので、いつの間にか消えてしまった。
 そうでなくても振り向かないほうが正解だろう。だって絶対、誰もがたじろぐ鬼の形相に違いないのだから。

 ――東部の出身かね?

 自分の前には、さまざまな人がいたのだ。
 干潟にも。この街にも。学院にも。

 ――その、非社交性。

 ――もよく真剣になり過ぎて

 ――ニキ・スズキリの  

 ――アガタ

 耳を澄ませば、足音だけがする。世界のあちこちに、そのしるしだけが残っている。
 でも、まだ断片だ。この目の前の壁に埋め込まれた、たくさんの遺跡の破片と同じ。一つずつは見えるけれど、全体像はまだ分からない。
 どういう物語だろう。
 一体、何が書かれているのだろう。
 今、自分は、とても面白くやりがいのある仕事をしている。自分の正確な仕事が、ネコの研究を助け、いつか多くの人が、そして自分が、これまで知ることのなかった古代の人々の物語を、読むことができるようになるだろう。
 さあ、一体、何が書かれているのだろう!
 正確に問えば、世界は必ず、正確に返す!


 ソラは興奮した。手に汗がにじんだ。
 そして、心臓がはちきれるかと思うくらい、馬鹿げて、楽しかった。
 この面白さへ導いてくれたイラカに、今ならちょっと感謝してもいいくらいだ。




(つづく)
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