08


 彼――ゾンネンは、孤高の人間だった。
 賢い上に気位が高いので、そこらの『下等な』人間達とは話が噛み合わなかった。
 東部でも合わなかったが、学院でも孤立した。
 彼は孤立を愛し、至高の天の運行を探るものとして、地上のごちゃごちゃした、下らない騒ぎを軽蔑していた。俺は町長の息子だぞと思っていた。
 彼はつまらない人間達のいない時間に出歩くのを好んだ。
 自作の望遠鏡での観測を終え、東天が白み始める午前四時前後に、塔から下りる。学院を歩けばそれはもう、自分の王国のようである。
 建築技術の粋を集めた見事な建物の連なり。春の清冽な青葉を静かに広げている木立。整備された石畳を踏むのは自分一人!
 ごく稀に、学院内の管理人というか、庭男の姿を見かけることもあったが、互いに見ないふりをしてそそくさと動線を変えるのだった。
 どこにでも、似たものはいるのである。
 その朝、いつものように気分よく塔から下りたハライの町の町長の息子ゾンネンは、ふと、中庭で足を止めた。その動きに、脇の茂みから小鳥がちいちい言いながら逃げて行く。
 彼の視線の先には掲示板があった。学生達に向けた学校側の布告が貼り出される場所である。
 ゾンネンは、孤高ではあるが、情報を取り入れないことはなかった。布告には一通り目を通し、それから鼻で笑って立ち去るのが常だった。しかもその全ての動作を、誰にも目撃されない午前四時に行った。
 しかし今日ばかりは、さすがの彼も笑いを忘れた。
 ただでさえ威圧的な、ちょっと怖い感じのする顔を、東部民お得意のしかめ面に彩って、最新の掲示を睨んでいた。
 笑わなかったのは、呆れたからだった。やがて彼の口から、珍しくも声が漏れた。
「何をやってるんだ、あいつは……」
 その姿もやっぱり誰にも目撃されていなかった。
 辺りは、黎明前の薄闇に沈み、徐々に明けていく空を背景に、木々や建物は黒ずんでいた。
 海から吹く風は冷たい。
 ゾンネンはしばらくの間、自作の望遠鏡を肩に担いだまま、その場に立ち続けていた。



/




『とりあえず、走って来い。最後は体力勝負だ』
 情け容赦ないネコの命令によって、ソラは海面を走っていた。
 運動用の衣服など持っていなかったが、これまたネコが古着を出してくれて、着たこともないような、上下二つに分かれた軽装に着替えていた。
 足元まである長袖の衣しか着たことのないソラには、肌の露出が気になった。しかも運動は大の苦手である。
 海の上を走るという、尋常ではない経験に僅かに心が躍ったものの、すぐに苦しい呼吸の狭間が多大な疑念で埋まることになった。
 体力勝負もクソもあるか――(ソラは自分の体内にこんな直裁な語彙が含まれていたことに自分で驚いた)。
 太刀持ちと、素手の喧嘩なのに。
 男と、女の喧嘩なのに。
 体力なんて言う前に、剣でザクッとやられてしまいよ!
 考えただけで泣きそうだった。子どもの頃、昔の戦争のむごたらしい話を聞きながらよくこういう悲劇的な空想をしたものだ。
 その、串刺しされた子どもが自分だったら。畑で敵兵に取り囲まれた少女が自分だったら。
 いやだいやだ。そんな時代には生まれたくない。武装した男にかなうわけがないのだから。
 もう、その認識を土台に生きてきたのに。
 無理無理。絶対無理。自分より頭一つ背が高く、健康で、運動神経が抜群で、好戦的な、あのイラカと渡り合うなんて、絶対不可能だ!
 そう絶望しながらも、何故ソラがネコの言いつけどおり走っているのかと言うと、もはや他にどうしたらいいのか分からないからである。
 そして怖いからである。
 負ける想像が頭脳を暴走して、とてもじゃないがじっとなんてしていられない。
 彼女は頭が真っ白だから走っているのであり、且つ真っ白のままにしておくために走っているのである。
 早い話が動揺しまくっていて、ネコの命令を拒否する気力や土台もないのだった。
 ソラは、海の上をかなり遠くまで走って、やがてへばって、水面の上に大の字になった。
 波紋を立てて広がる水と、雲を抱いた広大なる青空の間にソラの薄い体があった。そのささやかに膨らんだ胸は、小動物の腹のように、空気を求めて切羽詰りながら、忙しく、動いていた。
 ソラは恐怖のあまり、本当に自らを見失いそうだった。




 髪の毛が寒くなるほどの汗をかいて、ソラが庵に戻ると、居間には客が来ていた。
 地元の人間だろうか。なんだか不健康な感じのする、三十歳半ばくらいの男性だった。日焼けしていて、手や爪が汚く、無精ひげだ。耳たぶについた輪飾りや指輪がびっくりするほど似合っておらず、日雇いで、街の道路や壁を造る作業者かなにかという感じに見えた。もちろんソラの知り合いではない。
 彼は挨拶などしなかった。ただじろりと暗い目でソラを見ただけだった。
 ソラがうろたえていると、そこに妙に大きなたらいを持ったネコがやってくる。
 ネコはこともなげに、
「帰ったか。風呂場に来なさい。シバ君も、こっちへ頼む」
 男は口の中で、はあとか言った後、のっそりと動き出した。まだ年寄りとも見えないのに、どこか覇気がなく、なげやりな印象だった。
 ソラは、腕から先や足元がのぞいた衣服に恥ずかしさを覚えながらも、言われたとおり風呂場へ向かった。一体何事だろうという好奇心が、疲れ切っているはずの彼女の体の中から別の力を引き出してくる。
 風呂場の手前の台所では、湯がぐらぐら沸かされていた。風呂場はさして広くないので、ネコと客で既にほぼ満員になっている。
 ソラは入り口から顔だけのぞかせた。客は、陶器製の重い風呂桶を男の力で持ち上げているところだった。そしてそれを、ネコがさっと床に敷いた広いたらいの中央へと、ゆっくり下ろす。
 重い陶器と木製のたらいが触れ合う、ゴト、という音がした。
「よし」
 ネコは頷くと、ぽかんとしているソラに向かって湯を運んで来るようにと言った。つまり、たらいの上に乗った風呂桶に湯を溜めろといっているわけで、ソラは思わず言った。
「お風呂ですか?」
「そういうことだ」
 意味は分からなかったが、言われたまま、湯を陶器の水差しに汲んで風呂場へ運ぶ。もちろん何往復もする必要があるが、世界中どこでも、風呂に入ろうと思ったら行わなければ済まない動作だ。
 やがて、風呂場は湯気でいっぱいになり、独特の水っぽい、けして不快ではない香りで満ち始める。
 もっとも、ネコはすぐにソラを止めた。本気で入浴するための準備をしているのではなく、入っても寒くない程度の水だまりを用意するのが目的らしかった。
 今度は水を運んできて、人肌程度にぬるめるようにと言われた。
「ただし、湯量は、この線をきっちり守れ。いいな」
 その指先を見れば、確かに風呂桶の内側に黒い短い線が引いてある。特殊な仕掛けがあるようで、その黒い顔料は水が触れても落ちなかった。
 ソラが一生懸命水を運んでいる間に、傍ではなにやらとんでもないことが起きつつあった。
 なんと、例の男が服を脱ぎ始めたのである。あの似合わない装身具も外す。
 極力見ないようにしていたソラだが、薄れ始めた湯煙の中に体毛の走る裸の背中を認めた時には、風呂場の入り口で立ち止まってしまった。
「せ、先生! これ、一体、なんですか?!」
 ネコは一向動じない。
「実験だよ」
「実験?!」
「何年ぶりかな? これをやるのは。なあシバ君」
「…………」
 男は答えず、今度はズボンを脱ぎ始める。ソラは血の気が引いた。
「何のためのどういう実験か教えていただかないと私はここにいられません」
「そうかね。じゃあ、説明しよう。これは、君のための実験だ、ソラ。どうして君が、今回の試練に立ち向かわなければならないのか。そして何故私がその上君に、『勝てる』などというのか。その理由を、君に納得してもらうための、実験だ。――湯量は十分かな? いま少し不足だな。その水差しを寄越したまえ」
 と、ネコは戸口に寄ってソラからポットを受け取り、自分の手で最後の湯量を細かく調節した。
 その間に男は下着一枚になっていた。とても見れた姿ではない。下を向いていたらネコから呼ばれる。
「中へ来たまえ。説明する」
「…………」
「はやく」
 ソラは覚悟を決めて浴室へ入った。こんなこと、田舎の両親が知ったら、ただでは済むまいと思いながら。
「事前に装置を確認したまえ。たらい、その上に風呂桶。風呂桶は、九分目まで湯でいっぱいだ。――ここにこのシバ君が体を沈めたら、どうなると思う?」
 ……どうなる。って……。
「湯が、溢れます」
「だな。では、重要な装置の一部であるシバ君についても説明しよう」
 ネコは人でなしの口調で彼のほうを振り向いた。ソラは困って視線を反らそうとしたが、目の端に一瞬ひっかかったものに驚いて視線を戻し、かえってまともにその裸身を見てしまった。
 シバの左胸には、大きな刺青があった。
 よく「投げつけられた花冠」と形容されるララシアス文様の、優美で、複雑な、そして、思わず宛てられた掌からはみ出すほど、並外れて大きな黥が。




「このシバ君はな、裏町に生まれた不良少年だった。生存競争に圧されがちで、己の力のなさに悩んでいた。そんなある日、噂を聞いたのだ。どうも最近、世界に新しい技術が出てきたらしいと。それは大いなる力を授ける神につながるものであると。その加護を得るためには、なんと、体に黥をいれるだけでよいのだと。
 彼には彼なりに事情があったのだ。とはいえ、やはり安直な利用だった。学問の意義を理解しない人間は、もたらされる結果だけに恋をして、新しい技術に簡単に身を委ねてしまう。学者がびっくりするほどだ。下らんまじない商売がいつまでたっても廃れないのもこのためで、曰く『女が上がる薬』。曰く『飲めば痩せる水』。曰く『敵がくたばる呪文』。まあそうだな。こんなにはっきり結果が約束されているのに、何を思い煩うことがあるだろう?
 彼はその技術を自らに導入してみることに決めた。もちろん、あのクローヴィス法によって島内の彫り師には制限がかけられている。短期間、続けざまの彫り込みは禁止。指定された部位以外への彫り込みは原則禁止。そしてなかんずく、島外の人間への彫り込みの禁止だ。
 ところがそれで諦めるシバ君ではない。無免許の彫り師を探し当てて、黥を入れた。しかも、最も効果が高いという勧めに素直に頷いて、心臓の上に、この大きさで、いきなりだ。
 これが一人歩きした技術の恐ろしいところだ。アルススの学徒らでさえ、始めはとりあえず顔に最も小さな黥を入れ、それから何年も様子を見ながら徐々に各部へ移っていくものだというのに。彼はそもそも学問をすっ飛ばした。だから、理由の理解できない種々の手順も潔くすっ飛ばしたのだ。
 そうして遂に、この見事な黥の入った体を手に入れた。多分、学院の生徒や学者を合わせても、単体でこれに匹敵する大きさの黥を持っている者はまずいないだろう――」
 ネコは優しく皮肉めいた口調で説明した。
 ソラは、呆気に取られながらも、話に応じて恥を忘れ、いつか男の体をしっかり観察してしまった。考えてみれば、黥の入った体を実際に観察するのは、初めてなのだ。
 男性であるから、筋肉は、やはり立派なものだった。骨格もそれなりだった。だが何故か、ちっとも健康そうではなかった。皮膚は荒れ、色つやも悪く、どこか内臓に病気を持っているのではないかと疑ってしまうような、視覚的な難があった。
 ソラが、その観察の感想をどう表現すべきか、或いはどう隠すべきか迷っていると、ネコが言う。
「では、始めようか。シバ君。風呂桶の中に、ゆっくりと入ってくれたまえ」
 彼は身を屈め、風呂桶の脇に踏み台を設置した。
 シバは頷きもしなかった。
 暗い無表情のまま、唖然としているソラと、身を引いたネコの前を横切って、たらいに乗った。それから踏み台に足をかけ、風呂桶のふちを跨いで、裸の足を、ぬるま湯につける。
「五年前、だったかな。私は彼に出会った。当時、彼はンマロで、問題を解決してくれる人間を探していた。私は彼の話を詳しく聞き、そして、この実験を思いついた」
 シバが首まで湯船に沈むと同時、ざあーっ、という、聞きなれた、幸福な音を立てて湯が溢れた。
 風呂桶の下へ敷かれたたらいに水がたまる。
 目をしばたいているソラをよそに、ネコは彼に湯から上がるようにと言った。


 シバは実験の手順を思い出したらしかった。湯から上がるとすぐ、水の滴る腕を伸ばして、風呂桶を抱え上げようとした。
 それは、いかに成人男子の力をもってしても簡単なことではない。何しろ、いっぱいの水が入っているのだ。
「…………」
 シバの眉間に皺が寄り、腕や胸の筋肉がぐんぐんと動き、そして、皮膚の上の黥が光った。
 ため息のような気合の声と共に、彼は、風呂桶を持ち上げていた。
 心配になるような絵だった。
 顔色の悪い、不健康そうな男が、怪力を振るっているのだ。
 ネコは冷静で非情だった。その姿勢のまましばらく待たせたのだ。
「水滴を落としてからだ」
 シバは少し桶を傾けて、水はこぼさないまま、風呂桶の底辺に着いたしずくだけをまとめて落とした。それから、ゆっくりと、時間をかけて丁寧に、風呂桶を、床の上へ下ろした。
「ソラ、ここへ来て手伝いなさい」
 ネコは呆然としていたソラを呼び、傍らの棚においてあった空の実験用グラスを渡し、持たせた。そして今度は自分で下のたらいを持ち上げると、そこにあふれ出していた水を、まったく上手に、慎重にその中に集めたのだ。
「これで一巡」
 言った後、視線をシバへと戻す。
 シバは分かっているとでも言うように、再び風呂桶を持ち上げ、浴室を出て行った。ソラは見ていたのだが、浴室の扉を抜けた先で、いきなり風呂桶を右肩に担ぎ上げた。そしてそのまま悠然と居間のほうへ去ってゆくのだった。
 すごいとしか言いようがなかった。
 まさに人間離れした怪力だ。
「ど、どうなるんですか」
「シバは、外へ行って、あの湯を捨ててくる。そして再び、同じことを繰り返す。そうすると、どういうことが分かるかね?」
 ソラは少し考えた後答えた。
「……アルススの力を使用する前と、使用した後の、体重の差が……、分かります」
「そういうことだ。やってみよう」
 そうして彼らはやってみた。
 再び運び込まれた空の風呂桶を、たらいの上に置き、湯を運び入れ、水で薄め同量にし、再びシバはそこに身を沈めた。
 同様に湯が溢れる。
 その後も同じだ。シバは風呂桶を持ち上げ、外へ運んで行った。ソラが両手で支える別の実験用グラスに、たらいから湯が集められる。
 ネコはそれを、壁の棚に並べて置かせた。
 ソラは数歩引き、言葉もなく、その二つの水位を眺めた。
 空になった風呂桶を手に、シバが戻ってくる。そして、ソラの体越しに並んだグラスを見やり、一瞬、忌まわしげな表情を浮かべた。
 静かにネコが言う。
「ではすまんが、もう一巡しよう。これで最後だ」




/




 夕方。ソラは、水の引いた干潟を歩き、技能工芸学院のあるネル島へと戻った。
 ぼんやりと歩いていると、島の出入り口から続くのぼりの坂道で、誰かに声をかけられた。
 振り返ってみたら、それはハン・リ・ルクスだった。
「ソラさん!」
 橙がかった空気に、衣服を染めて走ってくる。
 彼は血相を変えていた。
「よかった。探していたんです。あれはどういうことですか?! あなたが、アルススの生徒と実習だなんて」
「……あれ、どうして知ってるんですか?」
 ハンは、彼女の心ここにあらぬ返事に拍子抜けしたようだった。
「中庭に掲示が貼り出されていますよ! ご覧になっていないんですか? 朝から大騒ぎです。あなたの姿が見えないので、逃げ出したなんて噂まで流れて」
「ああ……」
 今朝は下宿から直にネコの庵に行ったのだ。とてもじゃないが、講義などを聞いていられる心境ではなかった。
「もう、詳細貼り出されてました? じゃあ……、見ておこうかなあ」
「ソラさん、本当なんですか。本気であのイラカとやりあうというのですか?! 無理ですよ。大怪我をします! そもそもあなたは、女の子なのに! 一体どうしてこんなことになったのですか?!」
 普段大人しく自制的なハンが、取り乱していた。
 いや。寧ろこれが当たり前の反応だ。ソラだって朝までは同じ状態だった。
 今は何か、ぼうっとしているのである。
 頭の中には、実験用のグラスが、いつまでも三つ並んでいた。
 ソラは、そんな状態のまま、学院へ入って中庭に行った。ハンも周囲を気にしながら着いて来てくれた。それは彼にはきっと勇気のいることだったろう。
 暮れなずむ木々の間に立つ掲示板に近づけば、前にたむろしていた学徒らが小鳥のように何か言いながら離れて行った。
 ソラは寧ろありがたいくらいの気持ちで、布告を見る。都合十三件の神階実習が学院に認可されたことが書記によって記されており、該当者は指定の日時に指定の場所に集まるようにと命令されている。
 その上から三つ目に、ソラの名前とイラカの名があった。
 場所は、第二神階。
 ソラはそれらを忘れないように記憶に書き留めた。
「ソラさん……!」
 ハンが言う。切羽詰ったような囁き声で。
「――こんなのは、どうかしています。いじめです。勝てるわけがないのに! 学院も学院だ。どうしてこんな申請を認可するんだろう! 無責任すぎます……!」
 それから彼は、こうも言った。
「どうして、ここの人たちは、もっと行儀よく、ちゃんと仲良く出来ないんでしょう……」
 それは、とてもとてもとても、東部人らしい嘆きだった。東部は村社会で、全般に事を荒立てることを嫌う。揉め事自体も嫌う。
 きっとソラも、ハンと同じ立場ならそう考え、アルススの学徒達の野蛮さ横暴さに、傷ついて嘆息したに違いない。
 けれども、今、ソラの頭にあるのは、三つの水位のことなのだった。
 周囲が騒がしくなった。イラカが現れたのだ。クローヴィス似の彼は、テプレザ似の彼女の肩に、腕を回し、いつものように自信たっぷりの楽しげな態度だった。
「やー」
 右斜め後ろで、ハンが一歩引くのを感じながら、ソラはただ、頷いた。
 不思議だった。
 もちろん恐怖はまだあった。だが、それはもう、彼女を混乱させなかった。足元をじりじりと炙るだけだった。
 ソラの意識はそれよりも、彼の頬に、頬の黥に、釘付けになった。まるで美しい花に心を奪われるように。
「言ったとおりになったでしょ」
 イラカはそんな彼女の様子にはあまり気付かぬ様子でにかっと笑った。だがその笑みの後ろから、本気の脅迫がじわりとにじみ出る。
「――どうする? やめる? 今ならいいよ。許してあげる。あんたが謝って、俺らの仲間になるのなら。全部、ナシにしよう。申請は取り下げる」
「…………」
「謝っちゃう?」
「――ソラさん」
 水色の目とにらみ合うソラの後ろで、ハンが聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
「帰りましょう。東部に。こんなのに取り合うことはありません……!」
 イラカとリリザを前に、そしてハン・リ・ルクスを後ろに彼女が考えていたのは、三つの水位のことだ。
 彼女の意識は一瞬、完全に昼間へ遡る。
 三度同じ事を繰り返して実験は終了したのだった。ネコは態度を和らげて、最後に本当の風呂を用意してシバに浸かっていくように言い、実験用グラスを三つ持って、ソラと一緒に居間に移動したのだ。




「うん。五年前と変わらぬ結果だ。当時、彼は問題を解決してくれる人間を探していた。原因不明の症状に悩まされていたのだ。彼は若く健康だった。なのにしばしば昏倒した。熱もないのに二、三日、体が言うことをきかなくなって寝込んだりもしていた。すべて、アルススの力を手に入れてからだった。
 彼はそれを堪能していたのだ。喧嘩に勝ち続けて一時は裏通りの顔に成り上がった。ところが同じだけ不調も亢進した。彼は次第に力を使い続けることが出来なくなり、墜落し、そして怖くなってきた。自分が頼った神は、何か危険なものだったのではないか。手を出してはならなかったのではないかと。
 彼は私に会った時、言ったのだ。力を使った後、いつもひどく消耗する。まるで、肉体の一部が、ごっそり奪い取られるみたいにがっくりくるのだと。私はそれを、証明してみようと思った。溢れる風呂の水を使ってな。古典的なやり方だが、懐古主義もいいものさ。
 実験に協力してもらう代わりに、私は彼に、技能工芸学院の成果を分け与えた。装身具だ。耳飾りと、指輪だな。あれらはただの飾りじゃない。一級の工芸師によって作られる補助具で、黥を通じて流れ込んでくるアルススの力を制御するための、いわば、安全弁なのだ。
 クローヴィスも言っている。『アルスス学を修める者に最も必要なのは、解放よりも抑制の技能である。自分は戦闘時、ほぼ全ての集中力と技能を抑制に振り分けている』――シバ君はこれを知らなかったのだ。知らないまま、心臓の真上に彫った広い黥から流れ込んでくるアルススの力を、気ままに使い散らしていた。そんな馬鹿者は逆に学院に存在しない。彼は私にとって格好の、憐れな実験体だったというわけだ。
 さて、彼はアルススの力を使う時、まるで『体の一部がなくなるみたい』な感じを味わう。本当だろうか? 実験の結果は――、五年前と同じだ」
 二人は、机の上に置かれた三つの実験用グラスへ視線を移す。
 結果は明らかだった。
 水位は、右へ行けば行くほど下がっていた。風呂桶から溢れる水が減っていたのだ。それは、被験者の体重が軽くなっていることを示していた。
 実際の重さに換算すれば、気付くか気づかないか程度のこととは言え。確かに何かが体の中から消えうせているのだ。
 それが何かは分からない。
「――無論、これだけの実験では全く不足だ。この結果を本気で学問的事実に昇華するなら、学院の全てのアルスス学徒に、同じ実験をする必要があるだろう。しかし、それは今に至るまでかなっていない。何故なら、私は危険分子であると看破され、シバ君とこの実験を行うより何年も前に、院を追放されたからだ。実験どころか、以来アルスス学徒との接触さえままならない。思うに私はいかにもそういう真似をしそうだと、正しく見なされていたわけだ。
 だから、私も、学生も、おそらく世の中の誰もまだ、はっきり知らない。アルススが、一体、何を引き換えに人々に力を与えているのか。実験が実施できないからだ。
 ――ソラ。分かるかね?
 我々は、弱者でいることは許されない。勇気を持って、進むべきだ」




 西の空が真っ赤に染まっていた。中庭の全員も染まっていた。
 ソラは追憶から戻り、改めてイラカの目を正面から見つめた。唇を開く。
「前にあなたは、私を負かして、力づくでもシギヤを捨てさせ、アルスス学を修めさせる、って言ったわね」
「――ソラさん……!」
「言ったね」
 イラカは冷たく笑った。
「いいでしょう。そうしましょう。その代わり、もし私があなたに勝った時には、どうするか決めてもいいかしら」
 ざわっとしたものが風のように周囲を走り抜けた。
 多分それは失笑であり、呆れた時の呼気の微妙な震え、そして、荒唐無稽なことを言われた時の驚きが混ざり合ったものだった。
 何を言い出したのか、この女は?!
 リリザなどはまさにその顔をしていた。
 イラカもまた、派手に目を見開いたが、その後、かえってちょっと感じ入ったような苦笑を浮かべて先を促した。
「いいよ。あんたが勝ったら、どうしようか。丸坊主にして、土下座でもする?」
「そんなくだらないことしなくていいわ」
 ソラは人前で、男子に向かって、こんなに堂々とものを言ったことがなかった。
 意外と板についていることに自分で驚いた。同性にすらこんな態度を取ったことはない。自分の体の奥底に眠る激しい気性を、足の裏に感じた気がした。
「私の望みも、はじめから同じよ。言ったわね。どうしてアルススは禁忌の神とされていたの? その質問に答えて。もし答えられないなら、その時には、私と一緒に答えを探すと約束して。それが私が勝った時の、条件です」
 イラカの青い瞳の中に、白い漣が走ったように思われた。
 彼は腕をすっと女の肩から抜いた。そして笑った。これまでとは少し違う笑みで。
「いいだろう」
 空中にその手を差し出す。
「では正々堂々戦おう」
「――ええ。そうね」
 学生らが驚いて見ている前で、彼らは、固い握手を交わした。



(つづく)
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