09



 イラカは上機嫌だった。
 もっとも彼は対決や試験の前にはいつも自分を上昇させて集中し、好戦的な気分で臨むのだが、今回は尚のこと顕著に見えた。
 またリリザの目に、ことさらそう映った。
 彼女は不安にさいなまれ少し落ち着きを失くしていたが、試験に向けて準備に余念のないイラカは気付かなかった。また気付いても、埒のない疑念として鷹揚に看過しただろう。
 いたわりの言葉と共に体をぽんと叩かれたり、大丈夫だと保証してもらえないことは彼女にとって辛かった。その自信に満ちた態度とは裏腹に、彼女は繊細で、小さな疑いに刺されやすいのだった。
 彼女は時折下位の人間に当たった。苛立った態度を見せるだけの、罪のないものではあったが、それがある特定の数人のときだけ、本気の棘になった。
 彼女の眼差しは言っていた。
 どうしてくれる。この騒動は、お前達のせいだと。
 彼らは身を竦め返す言葉もなかった。
 それはソラの髪の毛を切った男達だった。
 イラカは未だに、それを知らなかった。





 技能工芸学院は期末にさしかかって妙にざわざわし始めた。
 もちろん、全学を巻き込むほどの騒ぎではなかったが、その周辺にいる学生達は巻き込まれ、アルスス学の王者に噛み付いたバカな女生徒の存在を半ば呆れつつ関知した。
 騒ぐのが恥だと思っている生徒は皮肉な口調で、ソラのことをただの一発屋であり、試験でこてんぱんにされて去るか、アルススへ転向して、いずれイラカの胸にぶら下がる勲章の一つになるだけさと打ち消した。
 ほとんどの教官らもそう考えていた。なかんずくテプレザは、イラカ本人に繰り返し同じことを保証されて、ようやく普段の余裕を取り戻していた。
 ともあれ、大半の学生にとって、もともと人数外扱いであったソラは、今や完全にはみ出した異端者として変に有名になってしまった。
 悪いちょっかいが増えるかと思っていたが、噂をされるくらいでそんなことはなかった。恐らく、彼女が以前とは違って背筋を伸ばし、近寄りがたい雰囲気でスタスタと歩いていたためと、公式にイラカの実習相手と定められた以上、勝手に手を出すことが抑止されたためだろう。
 もっとも、勝敗が着いたその時、彼女がどんな扱いを受けることになるか、それはまったく未定の未来だった。
 ソラの日常は、限界ぎりぎりまで義務を詰め込まれてさらに過酷になっていた。ネコはいくつかの義務を一時停止してくれたものの、それを上回る訓練や特別講義を課したからだ。
 ソラは学院で講義を終えると、すぐ庵に向かい、走り込みをさせられ、その後写生に行かされ、戻ってから深夜まで戦術指導を受けさせられた。この状態が始まって五日程が地獄だった。
 だが六日目辺りから、彼女の体は持ちこたえ、それどころか反発を示し始めた。
 彼女は若かった。鍛えれば体力が増え、伸びしろが出るのだった。無論、普段からアルススのために体を作っているイラカに比べれば、全く勝負にならないことは明白であったが、それでも、彼女の体は彼女の人生の中で間違いなく今が一番丈夫で、持続的な運動に対して即席とはいえ、整えられていた。
 ネコはソラのために詳細な作戦を立ててくれた。そして防御と攻撃の方法を一つずつ丁寧に教えてくれた。
 ソラは日々、自分が改造されて行くのを感じた。ネコにためらいはなく、真剣で、執拗だった。
 試験日の五日前の深夜。下宿までの帰り道を変更し、ソラは突然、女性教官ポリネの住まいを訪ねた。




 ポリネはもちろん私服で、しかもこのまま寝室に入れそうな室内着を着ていたが、まだ起きていた。
 そろそろ日付が変わる時刻だった。ソラは、非礼を詫びた。
「大丈夫よ大丈夫よ! 入りなさい。何、いつもこんな時間に出歩いてるの?!」
 ポリネは自宅でも同じ声量だった。集合住宅なのでソラはひやりとするが、彼女は構わず、奥から椅子をもう一つ持ってきてくれる。
 彼女の住まいは、彼女と同じようにとり散らかり、書物が積み重なり、そのまとまりのなさが不思議と魅力的な模様を作り出している、研究室の延長のような場所だった。飾り一つなく、使い終わった皿やコップが机の隅に積み重ねられている。
「ごめんね。客なんか滅多にこない家なもんだから。時々ガニアが来るけどいつも立ち話だし。――ネコ先生の家からの帰り?」
「はい。いつもは、すぐ下宿に帰るんですけど、今日はここを探して歩いて、遅くなりました」
「それを差し引きしても、若い娘さんにはおすすめできない時間ね。まあ島内なら衛兵もいるし大丈夫だとは思うけど。……それでどうしたのかしら? 実習まで四日だっけ。心配してたのよ。弱音でも、吐きに来た?」
「それもあります」
 椅子に腰掛けて、ソラは、思わずため息をついた。本当は笑おうと思ったのだが、予想以上に体が疲れているようだ。
 ポリネのほうは椅子に横向きに座り、椅子の背に右手を載せて、さもありなんと顎を反らした。
「ネコ先生、厳しいからねえ。闇雲に厳しいんじゃなくて、ちゃんとこっちの体力を計算して、ギリギリまで追い詰めてくるからねえ。しかも個人教授なんて。それはもう、大変でしょ」
「すみません。私こっちに、同性の友達がいないものですから」
「ああ、分かるわー。わたしも辺境の出身だから。一人でこっちへ出てきたし、こっちでもアルススを拒否したら、本当にトモダチ少なくなっちゃう。困っちゃうわよねー」
 ソラはなんだかほっとして、自分から水を向けた。
「でもガニア先生とは、お友達なんですね」
「腐れ縁よ。お互い、お互いしか残らなかったって感じ。みんな学院に居づらくて田舎に帰っちゃったりしたから。わたしもガニアも結局芸がないのよね。こういう特殊な場所にしか生息できない。学問バカで、生活無能力者だから。
 ――ま。でもわたしらの話はいいじゃない。あんたの話を聞きましょ。時間も遅いし。何が言いたいの? 或いは、何か聞きたいことでもあったかしら」
 さすがに、声は大きくてもポリネは大人だった。ソラの事情を察して、つまらないことは置いて、優しく導いてくれる。
 瞬間、ソラは、突騰的に、ここで駄々をこねて拳で床を叩いて眠りたいと思った。
 しかし、がんばって正気をかき集め、腹に力を込める。
 最近こうすることが多い。そのたびに、何か、道の先に進んでいるのがわかる。
 毎日、自分が違っていく。怖いくらいだ。
「実は、アガタさんの話を、聞かせてもらいたいんです」
「……」
「その人が、昔、クローヴィスとネコ先生の間で、どう振舞ったのか、それが知りたいんです。何故なら、私の、戦いは、いつのまにか私だけのものでなくなってしまいました」
 ソラは、多分、うまく言えたと思った。
 ポリネの表情を見てその確信は深まった。
 ポリネは眉根を寄せ、眼鏡の乗った鼻を僅かに下げてから、ため息を吐く。少しだけ、予想がついていたというような、声だった。
「……そーね。本人が気付かないわけはないと思ってたわ。本当にそう感じて当然の状況だものね」
「私の後ろにネコ先生がついて、イラカの後ろにテプレザが――クローヴィスが、アルススがついて。もう私とイラカのいがみあいとは違います。確かにネコ先生は、私自身を進歩させるための知識や技術を与えてくれ、私を、『増強』させてくれています」
「正しい表現だわ」
「見てください」
 ソラの呼びかけに、ポリネは苦笑いをやめた。ソラは彼女に左手を見せる。その中指には大きな水色の石のはまった指輪があった。
 ポリネは、口元に手をやった。それから、感嘆したように言ったが、その表情は、さっきよりもさらに、痛ましげになった。
「……すっごい工芸品ね。巨匠の作だわ。ミハクの保護つき?」
「だそうです。多年の帰依に免じて、特別に、博士当人ではなく持ち主を保護する指輪なんだそうです。保護だけでなく、敵を攻撃することも出来る、指輪だそうです。
 ――本来、妻や子どもに与えるような護符だと思います。私は感謝しています。心から光栄に思います。でも、その裏にある、復讐心を、見ないわけにはいかないです。先生は私に、どうしてもイラカを傷つけさせようとなさっています。物理的に。そして、なんと言ったらいいか――決定的に」
 ついにポリネは目を閉じた。ソラは彼女が、自分の言うことを分かってくれることが、嬉しかった。自分が勘違いをしているのではないと分かるからだ。
「ご存知のように、シギヤは、そういう学問じゃありません。シギヤが司るのは、芽生えと成長です。私はシギヤの学徒で、そういう非戦闘的な私が、この戦闘的な学問の支配する場で、どうやって生き延びたらいいのか。もともと、私の課題はそういうことだったんです。
 でもネコ先生は今、そんなことは忘れておいでです。ひたすら私を戦闘的にしようとなさっています。私にアルススを憎んで欲しいと思ってらっしゃる。私に憎悪を植え付けようとなさっているんです。
 ――もちろん、私が自分で、指導をお願いしたんです。アルススが信頼できない危険な神だという認識もあります。それに対抗して戦う覚悟も、出来ています。それでも先生の、あの憎悪の深さまで、そっくり自分のものとすることが、どうしても私には出来ないんです。
 ……私は、ネコ先生の期待を裏切るかもしれません。だって、ネコ先生の目的と私の目的は全然違うからです。私はアルススを信頼しません。嫌いです。でもだからと言って――イラカを傷つけたいとは思わない。思えないんです。
 ポリネ先生。私は甘いんでしょうか。分かっていないんでしょうか。もっとネコ先生を信頼して、同じ憎悪を抱くべきなんでしょうか? 先生の弟子になって、自分のことなど、忘れるべきでしょうか?」
 ポリネの答えはこうだった。
「……やっぱり、そういうことになっているのね」
 ソラは一度黙った。二人の女性は薄闇の中で向かい合ったまま、しばし沈黙した。



「……私が、戦闘の訓練をしているなんて知ったら、田舎の両親がなんて言うでしょうか。争いをしないというシギヤの主義を守るために、敵と戦うのだなんて説明したら……、二人とも、私の頭が変になったと思うでしょう。
 学内にはシギヤ学の信徒のくせにと、私を非難する生徒もあるといいます。――つまり、私は現段階でもう既に、純粋なシギヤ学徒ではなくなってしまっているんです。
 もちろん、悪いのはイラカです。最初に彼が私を侮辱しなければよかったし、その後も本気で謝ったり、私の存在を認めてくれるようなことはありません。最終的に、実習の話を持ち出してきたのも、彼です。
 でも向こうにも、事情があったみたいです。テプレザが、私をネコの手先だと考え、何故だか知りませんけど、非常に取り乱した。イラカはそれなりに責任を感じて、ことを収めるために、彼なりに行動した。その結論は、乱暴で、滅茶苦茶で、幼稚で、腹立たしい。本当に力づくの始祖クローヴィスの複製そのものでしたけど――イラカもまた、直接彼が持っているのとは別の、大きな憎悪のために後に引けなくなったんです。
 私は武力対決なんて、望んでいませんでした。イラカもまた、最初には考えもしなかったと思います。私達は学生らしく、程度の低い小競り合いをしていただけです。私はネコ先生の支援を受け、孤立しながらも島でほどほどに生きていくための術をようやく掴み取ろうとしているところだったのに。いきなり、こんなことに――。
 もう逃げられないことは分かってます。アルスス学に対する疑いからも、イラカのような支配的な人間からの挑戦も、逃げるべきではない。
 だから、私に囁くものもあるんです。『考えるのをやめろ』と。『最初のきっかけも、そもそもの問題も、結果としての実習も全て相手が仕掛けたことじゃないか。奴らは性悪で、非人間で、理解不可能な、同じ人間とは思えないような横暴な連中だ。それにくらべたらネコ先生はどうだ。実に鋭敏で聡明で上品で、学者斯くあるべしとお前が想像していたような紳士ではないか。彼の言うことを聞け。そして、彼の望みをかなえて、最愛の弟子になればいいのだ。彼のように奴らを憎め。彼の言うように奴らを傷つけろ。後のことは、全て彼がやってくれる。それでお前は救われる。考えるのをやめろ。ただ全てを放棄して、従え』
 でも、先生。……分かるんです。こんな考えは、嘘だって。ただの思考の放棄だって。実行はできないと。
 だって本当に、彼と渡り合うのは、自分です。彼が傷つくなら、それをするのは私です。それをしても尚、こちらが全て正しいのだと、そんなふうに思うことは、出来ない。私には出来ない。というより、そんな能力がないからこそ、私は常にはみ出してきたんです。
 ネコ先生に恨みはありません。とても感謝しています。尊敬しています。それでも、彼の憎悪は私の憎悪とは違う。彼の教えてくれる手段も、本来私が望んでいるものとは少しずつ違う。同じものだと思い込めないんです。誤魔化しきれないんです。罪悪感も覚えます。こんなふうによくして下さる先生に、自分はどうしてもっと従えないのだろうと。
 ……迷った末に、知りたくなりました。アガタさんは、どう振舞ったんだろうって」
 ポリネの狭い居室を照らす橙の灯りの下で、ソラは、膝頭の上の両手を結んだ。
「ごめんなさい。先生は私に、アガタさんとは似るなと仰ったのに。でも、聞きたいんです。だってアガタさんは、クローヴィスとも、ネコ先生とも、親しくなさっていたんですよね。当時も、お二人は、仲が悪かったんですか」
 ポリネはそれまで、ずっと額を押さえて目を閉じていた。が、眠っていたわけではなく、ソラの問いかけに、ゆっくりと、口を開く。
 明るい外面で取り繕われていた彼女の思慮深い、重い内面が、ゆったりとした室内着をまとって、静かにそこに腰掛けていた。
「……ええ、そうね。決定的に決裂したのは、それこそアガタが死んでからだけれど、それまでもやっぱり対立してたわ。学生達も、それぞれについて、人気を二分してた」
「伝説で言われるように、クローヴィスは傲慢で、冷たい態度の人だったんですか」
 ポリネは首を振ったが、それは否定の意味ではなかった。
「すごかったわよ。わたし、あんな憎悪のかたまりみたいな人に、その後も会ったことがないわ。うまく言い表せない。イラカはさ、確かに見てくれは似てるけど、まだまだよ。クローヴィスは、恐ろしい人だった。一目で近づいてはならないと分かるような」
「……ネコ先生も、昔から、あんな方ですか」
「ええ。……大好きだった。分かるでしょ。紳士で、愛嬌があって、厳しくてね。素晴らしい教育者でもあった。わたしやガニアは完全にネコ派だったわ。今もそうだけどね」
「アガタさんは、どっちの味方だったんですか。……一体何が、あったんですか。すいません。ぶしつけに」
「…………」
 ポリネは疲れたような目でソラを見た。それから、またゆっくりと、首を振った。
「アガタは、最初はわたし達と一緒で、ネコ先生の生徒だった。それがいつの頃からか、クローヴィスとも関わるようになってね。先生は心配して、すごく心配して、何度も、クローヴィスに近づかないようにと彼女に注意したわ。……あの子は、一見素直だった。大人しくいつも先生のお叱りを受けて、逆らうことはなかった。それでも、結局最後まで、彼女はクローヴィスと切れなかった。彼女の遺体は、クローヴィスの私室で見つかったんだから」
 ソラは目が回るような気がした。
「……じゃ……。その……、ごめんなさい、男女の?」
 ポリネは肩をそびやかす。
「どうだか分からないわ。だって、クローヴィスにはあのミルミル鳥みたいなテプレザがいたんでしょ」
「あ。そうか……」
「それにそもそも、あのクローヴィスに他人を愛するなんてことが出来たのかどうか、わたしには疑問だわ。ネコ先生ならともかく。テプレザとの関係を知ったのはテプレザの書いた伝記を読んでからだけど、ああいう互いに利用し合うような女となら、さもありなんと納得したくらいだもの」
「じゃあ、アガタさんは、騙されていたんですね。ただ、利用されていただけで……」
「……あの子は、」
 ポリネは、もはや自分でも制御が及ばないように、言葉を手繰る。講義室に響き渡っていた時とは違って、とても低い声だった。
「そんな馬鹿じゃなかった」
「…………」
「わたし、ずっと、あの子のことが分からなかった。なんで、なんでなんで、ネコ先生の知恵を容れずに、クローヴィスなんかに。なんで、あんなちゃんとした子が、あんな無残な、わけのわからない死に方を。
 分かってたじゃない。あの男は危険だって。近づいてはならないって。憎まねばならないって。
 何故従わなかったの。どうして理解できなかったの。馬鹿と思おうとしたわ。でも、あの子は馬鹿じゃなかった。わたしもガニアもネコ先生も本当はそれを知ってた。だから、余計に傷ついた。先生とガニアは、彼女が誘惑されたんだと思ったみたい。彼女は、クローヴィスに繰り返し誘惑された挙句、最終的に、なんらかの卑劣な犯罪の犠牲になってしまったと思っている」
「……そうなんですか」
「何かあったことは間違いないのよ。健康な若い女の子は、突然死んだりしないんだから。もっとも彼女の体からは、あざだの、外傷だのはまったく見つからなかったんだけど。
 ……私も、彼女が騙されたんだって思い込もうとした。でも、彼女の、微笑や、態度を思い出すたび、どうしても、それに失敗するの。しっくりこない。
 何度考えても彼女は、聡明な子だった。あなたと同じくらいに。純粋で、真面目で、一途で、情けが深くて、頑固で。甘言だの、ありきたりな悪い誘惑だのに、負けるような子じゃなかった。違うのよ。何かが違う。
 ――実は、何年か前にね、わたし、急に分かったことがあるの。まだ誰にも言ったことがないんだけど。でもこれを思いついてから、多分、これが正解なんじゃないかと自分では思ってる。
 アガタは、先生になんと言われようとも、クローヴィスから離れたなかった。それは、あの子がいつも、弱い人間の味方だったからだ」
 ソラは、体が石になったような気がした。
「クローヴィスは彼女が死んで一年後に死んだ。長い間、病気だったに違いないわ。そしてね、ソラ。わたしは、きっとネコ先生も今は、とっくにそのことに気付いているのだと思うの」
 だってあんなに賢い人なんだもの。
 ポリネは眉間に皺を寄せて苦しそうに笑う。
「だからこそ、いっそうやり切れないんだわ。自分が、全身全霊を尽くして彼女を止めたのに、彼女は行ってしまった。闇の中で永久に失われてしまった。あの日以来、ネコ先生、人が変わったわ。本当よ。事件の全容を解明するために、そして、クローヴィスの非を証明するためならなんでもした。結果学院と激しく対立して追放されたけれど、それでも尚、嫌がらせのように学院の裏庭に留まって、クローヴィスを監視し続けた。クローヴィスが死んだって聞いた時、わたし、本当のところ、ちょっとほっとしたものよ。これで先生の苦しみも少しは紛れるに違いないって思った。
 ……でも、甘かったわ。わたしもガニアも先生も、何も忘れられない。不審な死っていうのは、本当に危険なものね。それ自体が、多くの人間を狂わせる毒薬だわ」
「…………」
「だからわたしも言ったのよ。あなたはアガタに似ていない。アルススを警戒して、アガタに似ないで欲しいって。ネコ先生がしていることも同じことね。あなたを教育して、あなたを鍛えて、あなたに憎悪を吹き込み、あなたにイラカを傷つけさせることで、あなたをアガタから離そうとしている。ガニアも怖い顔してそんなことを言ってたわ。『あの子は絶対、僕たちの陣営に入れないと駄目だ』って。
 わたし、ガニアは慌てすぎて目が曇ってると思ったけど……、こだわってたのは、わたしのほうかもね。似てないって、思い込もうとしたのよ。似てないんだから、大丈夫だって。
 ……でもあんた、やっぱり、思い出させるところが、あるわね」
 手が伸びてきて、ソラの頭を触った。
 一日の終わりで、入浴前だからソラは恐縮したけれど、ポリネは構わずに、笑った。
「東の子って、みんなそうなの? ――おとなしいくせして、本当に頑固で、自分を絶対に、曲げないのよね」
 さびしげな言葉に、ソラは心臓がぎゅうっと締め上げられるのを感じた。ネコに感じていた密かな罪の意識が黒い翼を広げて、理性を包みそうになる。
 けれど、ポリネの言葉は裏腹なものだった。
「いいのよ。最後の瞬間には、あなたは、あなた自身を信じなさい。あなたは義理も感じるし罪悪感も持つでしょう。それでも、他人の憎悪は、決してあなたの憎悪ではない。他人ががんばり、あなたががんばっても、それは決して一つにならない。別々のものなのよ。人は、孤立した、自由なものよ。それは、親とか、お世話になった人たちに対して、申し訳ないほど自由なの。そこに向けて走りなさい。たとえそれがわたし達の希望とはそぐわない選択でも、わたし達もまたそうする他ない以上、これは避けようのない葛藤だわ。
 もし、あなたが自分の選択を尽くした結果、あなたが困った立場に追い込まれてしまったなら……、その時は、わたしがあなたの保護者になってあげる。だから安心して、あなたは実習に、臨みなさい」
「…………本当ですか?」
 ソラは、頭を撫ぜられながら、瞳の奥から熱い涙がにじんできた。喋るたびに前歯が何か、明るい大きな光のようなものを、噛むような気がした。
「……私が、先生の期待を裏切って、イラカを憎むことに失敗しても、ですか。……逆に……、私が他人の術で、他人を傷つけるような……悪い人間になってもですか?」
「繰り返せないのはわたしも同じよ。アガサはどれだけ辛かったかしら。誰一人味方がいなかった。今のあなたと、同じくらい困っていたに違いないのに。わたしがあの子の味方であってあげたら、少なくとももっとたくさんの言葉が、死ぬ前の彼女から聞けたに違いないのに。
 大丈夫よ、あなたがあなたの選択をしても、同じ結果にはならないわ。だってあなたも違うし、わたしも違うし、――ネコ先生も、違うんだから」
「……でも」
 とうとう、大きくなった涙が膝に落ちた。
「先生は許してくださらないかもしれません」
「そうかもね」
 ポリネは悲しげに言った。
「でも、いいのよ。あなたは自由よ。先生からも、わたし達からも、イラカからも、誰からも自由よ。選択肢がいくらあっても、現実に道は一つしかない。そうでしょう。ただそこに向けて走ればいいの。ただそこに向けて走るしかない。そうでなければ、本当に何もかもただの代理戦争になってしまう。あなたも、それが分かっていたから、ここへ来たんでしょう?」
「――は、……はい、そうです」
「しんどかったわね」
「…………」
「でも、もう大丈夫よ。あなたの立場は、わたしが責任を持つから。あなたは全部の選択肢を持って試験に行って、そしてたった一つの結果を持って戻っていらっしゃい」
「…………はい。ありがとうございます」
 その後、ポリネはソラが落ち着くまで、黙って傍にいてくれた。
 ソラは、それほど長くは泣かなかった。
 ポリネは彼女らしくきっぱりと約束をしてくれた。だから、ソラはもう、安堵したのだ。
 最後に、少しの罪悪感が追いついてきた。
「すいません。先生」
「ん?」
「私、先生を巻き込むためにここへ来ました」
「あはは」
「頼れる人、いなくて。最後の最後に、自分を庇ってくれる人を、確保しておきたくて。……巻き込んでごめんなさい」
「何言ってんの。とーぜんよ。それくらいの知恵、持ってなくちゃだめよ。どんどん利用しなさい、どんどん。だいたい、わたし達学者なんて、所詮他力なんだからね。――わたし、あなたのそういうしぶといところ、とっても嫌いじゃないわよ」
 ポリネは、自分の首の後ろに手をやって、衣服の奥に下げていた水晶の護符を外した。そして、目のふちを赤くしているソラの首へ静かに架け替える。
「これもあげる。わたしの守護神、風神ラフの御守り。ネコ先生に比べたらわたしは年数も功徳も足りないから、気休めくらいにしかならないけどね」
「で、でも、大事なものじゃ」
「そーよ。大事よ。だから、戻しに来てね。必ず、あなた自身が戻しに来るのよ。分かったわね」



 ソラはポリネに見送られて、下宿に帰った。それから、全身の疲労に闇の中で意識が跳ねるのを感じながら、ひどく安堵して、森の中に染みこんで行くように、ぐっすりと眠った。




 それから、試験までの五日間を、ソラは、不思議なくらいに落ち着いて過ごした。
 過酷な訓練も、人々の視線も、結果の予想も気にならなかった。
 学内では、イラカ本人と鉢合わせすることもあったが、怖くなかった。互いに挨拶めいたものを交わして、さっさと別れた。
 イラカもまた平然としていた。ソラは自分の胸の中に開いた深い、樹海のようなものが、彼の胸のうちにもあることを感じ取って、友情さえ催す。
 一緒に歩くハン・リ・ルクスが、不敵だとか、油断してはならないなどと警告を発したが、ほとんど耳に入らなかった。
 ガニアを始め、大勢の非アルススの人々が、彼女を心配して、実習時補助となるような工芸品をそれぞれに差し入れてくれた。面識のない教官や学徒までが、まるで我がことのように彼女に同情し、自分の護符を与えていくのだった。
 ソラはありがたく借りることにした。なんだかじゃらじゃら装飾過多になって、自分でも滑稽ではあったが。
 かつての自分なら、こんなものを受け取る術を知らなかっただろう。だがソラはある意味厚顔に、そして自分でも驚くほど社会的になって、見知らぬ人間とも堂々と話ができ、しかもその好意を取り込むことができるようになっていた。
 ポリネなら『しぶとい』と表現したことだろう。
 無論、もっとも強力で、もっとも臨戦的且つ上質な工芸品は、すべてネコから与えられた。最後の晩、彼はさらに別の指輪を、彼女の右手に手ずから備えながら言った。
「何も恐れることはない。言ったとおりに落ち着いて戦えば、君は必ずあいつに勝つ。私も何も心配していない。見事あの男を退けて、意気揚々と、再びこの庵に戻ってきなさい」
 間近で、ソラを見据える、彼の目は、やはり、こう光っていた。
 『奴』を拒絶しろ。今度こそ。きっぱりと。
 永久に敵対するのだ。そして永久に、私の弟子となれ。
 ソラはぶるりと震えた。彼の本気が、渦巻く怒りと感情が、人体の壁を越して、こちらに伝染して来そうになる。
 洗脳されてしまいたいという誘惑も、無しではなかった。ネコはそれに足る人物である。
 それでも、どうしても、彼は自分ではなく、自分は彼ではない。ソラは踏みとどまり、
「ありがとうございます。行ってきます」
ただそう挨拶して、庵を辞した。
 見上げれば満天の星空だった。海はそれを映して、二つの無限の間にソラは立っていた。
 行く先には島があった。島には技能工芸学院が、冷たい城のようにそびえている。
 庵から、島まで、色とりどりにきらめく星々の中を歩きながら、ソラは、思った。
 ――ただ、自分らしく生きることの、なんという困難さ!
 彼女は手ごわい親族や、敵ばかりではなく、頼りにする教師からさえ、自分を防衛せねばならないのだった。
 島にも寄れず、庵にも寄ることのできない自分は、一体どこに、立ち位置を見つけるのだろうか。
 アルススに負けて、ついに東部へ戻るか。それとも、まさか勝ったり引き分けたりして、辛くも居残るのか?
 ソラの体には今や、五つもの指輪と七つの護符があった。作戦は頭に刻み込まれ、手順も抜かりなかった。
 あとは、その場になってみなければ分からない。
 自分はイラカを攻撃できるだろうか? その生身目掛けて暴力を振るうことができるだろうか? その結果につぶれないでいられるだろうか。もはや理屈で考えて解の出る問題ではなかった。
 ソラは全てを世界に任せることにした。夜の礼拝の時、シギヤにも祈った。
 生まれて以来、変わらずあなたを頼ってまいりました。
 明日も全てをあなたにお任せいたします。
 どうか、お守りください。私が私でいられますよう。故郷でも、学院でも浮遊していた自分が、終に、自らの居場所を、探り当てられますよう。





 最後の雑音は、実習当日の朝、出発の準備に余念がないその時に現れた。
 ソラの下宿には、早くからハン・リ・ルクスやその他の同情した学生らが集まり、準備を手伝ったり邪魔したりしていた。
 そこに、不穏な扉の軋みと共に現れたのは、ゾンネンである。ソラの一歳年上の、ハライの町長の、息子だ。
 いつも天文とばかり戯れて、誰ともつるまない気難し屋だ。一同は静まり返り、鏡の前に座っていたソラが、最後に振り向く。
 ゾンネンはじろりと全員を睨むと、かなり冷たい声で言った。
「なんだこの体たらくは。朝から女の部屋に詰め掛けて、みっともない」
 初めから、こちらを貶めると決めている人間の声だった。ソラは腹の底に僅かに冷たいものを感じながら、ひとまず髪の横をピンで留め終える。
「何かご用でしょうか、ゾンネン」
 東部では、年齢差が一年であろうが、年上に敬語は欠かせない。
 ゾンネンは、実習用に動きやすい略装をし、長い靴を履いたソラの格好を見て、顔をしかめる。
「なんという格好だ、女のくせに。髪の毛といい、まるで出来損ないの男だぞ」
 ソラは堪えなかった。
「ええ。すみません」
「まさか本気で、イル・カフカス・イラカとやりあうつもりじゃないだろうな」
「……実習には、参加いたします。授業の一環ですから」
「馬鹿を言え」
 有無を言わさぬ一方的な態度に、ソラは黙る。彼女は平静だったが、視界の端で、ハンがすっかり萎縮していた。
 彼の悪意を感じてたじろいでしまうのだろう。これは、遠い東部の物言いだからだ。
 あそこでは年長者の男は上位者であり、よくこういう言い方をする。そして年少者と女は、黙って従うのがきまりなのである。
「すぐに中止を申し入れろ。そして下宿を引き払って東部に戻るんだ。こんな騒ぎは許されん」
「……お言葉ですが、私には、私なりの理由があります。東部では、特に女性には、こういった行為が容認されにくいことは知っていますが、ここは東部ではありません」
「つべこべ抜かすな。何様のつもりだ? お前がここで男と喧嘩したなんて噂が立ったら、お前の一族がハライでどれだけ恥をかくか分からんのか」
「…………」
 罪悪感を刺激する言い方に、ソラは再び黙る。その彼女に、ゾンネンは、手にしていた紙筒を突き出した。裂けた封蝋の残りが貼りついている。手紙だ。
「親父殿からだ。お前のばあ様が、かんかんに怒っているだとさ」
「……く、故郷に、ソラさんのことを言いつけたのですか?!」
 それがどれほど致命的なことか知っているハンが、思わず立って抗議する。卑怯だ、という言葉が出るより先に、ゾンネンは目で相手を刺した。
「当然だろう。こいつのばあ様は偉大な人間で、親父殿とも昵懇だ。そんな町の有力者が大恥をかこうとしているというのに、黙って見ていたとあれば俺が親父殿から叱責される。
 ――親父殿に感謝するんだな。事の次第を知っているのは、ばあ様だけだ。お前の両親や町の連中はまだ何も知らん。お前のばあ様は、いますぐ、直ちに、ハライへ帰って来いとお前に命令している。喧嘩騒ぎなど許さないそうだ。当然だな。まさか、食わしてもらっている身で、逆らいはせんだろうな?」
 ソラは、終始変わらぬ彼の高圧的な言葉を聞きながら、心の中で、少し笑んだ。
 ちょっと遅かったな。と思った。
 ゾンネンは手紙の返事が来るまで待っていたのだろうが、その間に、自分は、もう、決意を固めてしまった。
 祖母は怖い。両親も怖い。
 が。それもみんな、遠い未来のことだ。
 ゾンネンがたった今、自分の手を広げてソラを阻止をするというのなら話は違うが、きっと、そうではないだろう。
 ソラはゾンネンに自分の目を見せた。そして、言った。
「明日、謝ります」
「……なに?」
「今は、行きます」
「お前」
 驚きのために一瞬詰まったゾンネンに背を向け、ソラは身支度を再開した。たくさんの、たくさんの支持者からもらった護符の類を重ねて身に着け、最後に、指先の出る手袋をはめ、ネコからもらった左右の指輪を指に通す。
 そして立ち上がる。みなが凝固から解けて動き出す前に、最初に部屋を出た。慌てて学徒たちが続く。
 黙殺されたゾンネンは部屋の真ん中に残された。受け取られることのなかった手紙を手にしたまま、信じられないような目でソラの背を見送った。
「馬鹿が……」
 尚も憎々しげに彼は言ったが、すでに彼女は遠く、その言葉は、誰にも届いていなかった。




(つづく)
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