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大きい戦争
小さい戦争
英雄さまは壁の中





「落ち着きなさいよ、ガニア。ちょっとテニ酒でも飲んだら」
「居ても立ってもいられない。やはり、止めさせるべきだったのでは?」
「二回目だからね。頭がガーッてなっちゃうのも分かるけどさ」
 ひとの家の細長いグラスを机の上に並べて、勝手に酒を注ぎながら、ポリネは言う。
「あんた頭いいし、心配も本物なのに、やっぱ分かってないのは残念だわ」
「どういうことだ?」
「私達はあの子を止めることなんか出来ないのよ。いつもそう。出来ることがあるとしたら、あの子がつかんだ結果を手に帰ってきた時、迎え入れてあげることくらい」
「また遺体の前で後悔しろというのか? 私はごめんだ!」
「だから落ち着きなさいって。あの子は実習試験に行ったので、クローヴィスの部屋に行ったのじゃないわ。それにしても」
 片方のグラスを持って、やっと立ち止まったガニアに差し出す。
「あんたもあの子が負けると思ってるのね」



「座りなさい、リリザ。彼に任せておけば大丈夫。必ず勝ってくれます」
「というより、先生! もう何もかもが、初めから嫌で嫌で。いらいらして死にそうです! イラカは何か、呪われた、わけのわからない罠に陥れられたんじゃないでしょうか。あんなのに関わらなければよかった。あんな女が、学院にいなければよかったのに!」
「東の女はそういうものよ。最悪なのよ。私達とは違って、性格は陰湿だし、醜いし、男性を立てることも知らないの。連中が奉る神とそっくりになのよ。東は昔から魔女の量産地だわ。でも大丈夫よ。イラカが何とかしてくれます。そうよ前もそうだった。クローヴィスはあいつを殺してくれた」
 学院内にあるテプレザの研究室は、彼女自身の作品で溢れていた。本があり、衣類があり、人気の挿絵作家による彼女自身の肖像画まであった。
 彼女はそういうものであった。学者とは言えず、クローヴィスの伝説に関わったという手柄と学生らの印象を操作することで生きていた。
 そして今ひとたび、彼女は『クローヴィス』が自分を助けてくれると信じていた。
 彼が負けるわけはない。彼は無敵だった。そして自分はこれからもずっと、その無敵の男に選ばれた女でいることができるのだ。
 テプレザは幸せだった。何か物騒な発言をしたことにも気付かず、うっとりと、自分の若い頃を想像して描かれた、華やかな自画像を見つめていた。



 そして、海の上に浮かぶ庵では、カイデン・ライカス・ネコが、椅子に斜めに腰を下ろし、左肘を机の上について、頭を支えていた。丸い頭蓋に添えられた指に、婚姻指輪が光っている。
「機会は幾度もあった」
 目を遠く、窓の外の海に投げかけながら、彼は呟いた。
「あの男を拒む機会のことだ。それを君は無にし、命を失った。私は譲歩をしたのであって、そんなことのために、君を諦めたのではない」
 微かに、潮の動いている音がした。彼の庵は海の上にある。潮と一緒に常に満ちたり引いたりし、寸刻も同じ場所には留まらない。同時に、毎日似た軌道を描いて、その動線を濃くした。
「今度こそ、あの男を突き放せ。私を安堵させておくれ。できないとは言わないでくれ。君は必ずそれができる。運命から、自由になれるんだ」






 同じ頃、地下第二神階では、二人の生徒が、おびただしい数の悪霊の攻撃を切り抜け、工芸品のある祠まで、ようやくたどり着いたところだった。
 さすがにイラカも、まったく疲労なしとは言えなかった。区切りをつけるかのように息を吐くと、指で汗を払って、来た道を振り返る。
 祠は大きな鳥小屋みたいな作りで、かなり早い段階から視認できてはいた。しかし、たどり着くには意外な距離があった。ようやく上がりこんで振り向けば、その背後は累々たる死屍で埋まっている。
 相手は精霊、本来は死も屍もありはしないのだが、何しろ神階なのでその迫力は凄まじかった。大虐殺の跡地のようである。
 だが、むろんイラカは慣れっこになっているらしく、寸毫も感情を動かさぬまま剣をしまった。彼にとってこれは、害虫駆除のようなものなのだろう。
「工芸品はなにかな。――お、珍しい。護符だな、こりゃ」
 市井の人間が見れば、ただの宝飾品にしかみえないような銀の腕飾りが、二個組み合わさって祠の奥の壁に半ば埋もれていた。
 イラカはソラを呼び、一方を取るように促す。
 二人で同時に引くと、それはずるりと不可解な手ごたえでもって壁から抜けた。
「面白い。土の神の技術かしら」
「さあ興味ないねえ」
 イラカはさっさとそれを自分の腕にはめると、青い目を、楽しそうに光らせて、隣に立つソラを見た。白い歯がのぞく。
「折り返しだよ、ソラ」
「そうね」
「まだ間に合うって言ったらどうする? 謝っちゃわない?」
 ソラも今更そんな提案にたじろぐことはなかった。寧ろ、土ぼこりに汚れた顔に笑みを浮かべて、斜め下から彼を見返す。
「これから、どういうことになるのかしら」
「なに、あとは帰るだけだよ。ただまた、悪霊が出るけどね」
「まだ出るの?」
「無尽蔵だ。普通はアルススの学徒二人で実習をやるだろ。本当に毎回、屠殺所みたいになる」
「……来た時には何もなかったのに」
「霊体も、二週間すればさすがに解けるらしい。で、また出る」
「何故そんなにたくさん霊がいるの? しかも、とにかく人を攻撃するような」
 イラカは一瞬口を噤んで、青い目をもと来た道へと振り向けた。
 その横の表情は、少なくとも一遍くらいは、彼もそれについて疑問に思ったことがあることを示していた。
 だが実際の答えは、いつもの通りだ。
「どうでもいいことさ。俺に興味があるのは、勝ち負けだけ」
 ソラは遠慮なくため息を吐いた。手首から銀の腕輪を通す。
「どうするの? やるの? 謝らない?」
 イラカが再び聞く。
 ソラは、ゆっくりと首を振った。
「――謝らない」
 二人は、体一個分の空気を間に挟んで見つめ合った。
 一瞬の平安だった。
 まるで唯一無二の仲間みたいに。
 だが本当は彼らは不倶戴天の敵同士なのだ。
 イラカは冷たく微笑む。
「馬鹿だなあ。負けるって決まってるのに」
「たとえそうでも、最後まで抵抗することに意味があることもあるのよ。こちらの嫌悪のほどを、思い知れっていう」
「なかなかすごいね。その分だけ復讐が苛烈になるのに」
「それに」
 ソラは、歯の震えを感じないふりしながら言った。
「負けると決まっているわけでもないもの」
 ふっと笑みを吐いて、腰の剣に手を伸ばすイラカの顔が、みるみる違ってくる。他人を狩る人間として、社会通念を一旦停止した、際どく凄い表情になっていく。
 それに応じてソラもまた、全身に粟が立った。あらゆる迷いや逡巡が消え、体中の血が沸騰し、汗が出て、頭も顔も、白く熱してくる。
 彼らは敵同士なのだ。
「わいてきたな」
 しかしイラカが言ったのは彼ら自身のことではなかった。彼らの周囲に再び満ちてきた、不気味な動物たちのことだった。
 まるで彼らの殺気をかぎつけたように、二分もしないうち、祠の周りは、怪しくうごめく悪霊らで、いっぱいになった。
 本当にこれは、一体何なのだろうと、ソラは背後をうかがいながら思う。
 どれもこれも、どこかで見たことのあるような獣ばかりだ。しかし体の一部が異様に肥大していたり、四つ足が八本足になっていたり、大きかったり小さかったりする。それが明らかな怒気をまとって、彼らを取り巻いているのだった。別段動物や虫が嫌いでなくったって、悪夢のような眺めだ。
「ちなみに、祠だけは軽く術で結んである。悪霊に先に壊されないように」
 平たい目でやはり周囲をちらと見た後、イラカが言う。
「でも、俺らが工芸品を取る時、一緒に壊れる。だから連中も、集まってきたんだ」
 ソラは息を吸って「じゃあ」と言おうとしたが、その間はなかった。
「来るぞ!」
 イラカの警告と同時、最初の一匹が奇声と共に斜めに突っ込んできた。イラカは赤い剣の軌跡を光らせ、振り向きざまにそれを一閃する。
 ゴサンに似た大鳥が、空中で均衡悪く二つになった。
 声になる以前の、だが体には届いて心を竦ませるような怨の音が、洞窟の見えない空気を振るわせる。
 それが折り返し戦、開始の、合図だった。




 ソラは急いで、前半で得た知識に賭けた。
 悪霊達は自分には構わない。
 そう確信して、祠を蹴り、下りて悪霊たちの只中へ飛び込んでいく。
 力対力で、女であるソラに勝ち目はまったくない。勝機は距離の中にだけあった。とにかく、彼女はイラカの剣がどうしたって届かない場所へ逃げなくてはならなかった。
 幸いにも、彼女は賭けに勝った。畸形の獣たちはソラが近づいてきても彼女に手出ししなかった。彼女を見過ごし、外膜をにじませるほどの強い怒りを、ただひたすら、イラカだけに差し向ける。
「あらー?」
 まだ、祠の上に立ったまま、さすがにイラカが意外そうな声で言った。
「なに。あんたは攻撃されないの? そんなのあり? シギヤのまじない?」
 けれどその声は明るく笑っていた。
 イラカにとっては、どうってことないのだ。寧ろ、興が乗ってきたようでもある。
「いいね。面白くなってきたね。異種交戦も、なかなか捨てたものじゃない!」
 彼も祠から躍り上がった。
 すかさず飛びついてくる悪霊達を剣で払いながら着地する。そして、来た時と同じように、見事な剣さばきを見せながら彼らを切り伏せ、流れる水のような勢いでひとすじにソラの後を追い始めた。


『――いいかね。君に、直接の戦闘能力は無い。引き換え、奴は戦闘能力のかたまりだ。距離をかせがねばならない。そのために、君のシギヤの能力を使うのだ』
 懸命に洞窟の中を走りながら、ネコの助言が彼女の頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 イラカの追撃が、思った以上に見事で早いことが、彼女を動転させそうになる。
 イラカは本当に素晴らしかった。前半よりも遥かに早い。あれは遊びだったのだ。模範演技だったのだ――そう気付いて、恐怖がソラの足元に最初の牙を立てる。
 なんていう男なんだろう。まさに、人間離れしてる。
 あんなものに、勝たなくてはいけないなんて――!
 骸を踏み分けながら、必死に走っているその時だった。少しぐらついて、手を前に出そうと斜めに崩した体勢のすぐ傍を、僅差で光の球が通過して行った。
「?!」
 それは地面に激突して爆発した。岩がえぐれ、ソラの体は石礫もろとも遺骸の中へと放り込まれる。
 骨に応える衝撃があった。が、それよりも、精神的な打撃のほうが強かった。
「な……!」
「外れた! 残念!」
 離れた場所でイラカの声が高らかに上がる。
「でも楽しいな。久しぶりにこんなの使うよ、いつも近距離だから。近いと、こっちにも被害おつりが来るからな」
 言っている間にも、彼の周囲に赤い光が三つも円を結ぶ。
 今度は三つともが一斉に飛んできた。
 叫ぶより先にソラは地面を蹴り、死に物狂いでその場をどいた。
 三つが背後で爆発し、もう一つは他の獣に当たってそれを蒸発させた。蒸発だ。骸も残らない。存在が消える。
 ――有り得なかった。
 こんな技術は見たことがなかった。
 無論、一瞬にして霊体を消し去るほどの熱でも、生身では程度が違うはずだ。が、大火傷を負うには違いなかった。
 ソラは今までで一番真剣に、生命の危機を感じた。それが、彼女の指に護符を探らせた。
『シギヤの技術は、全般に発生をつかさどる。生命力。また局面によって再生力。それが君の強みだ。復路で存分にそれを使え。そして奴の足を、止めるのだ』
 ソラは自分が生まれた時から持っている護符を握ると、シギヤの加護にすがった。
 彼女ら東部民が信奉する森の神シギヤは、陰気な性格で知られている。ことさら人間に友好的でもなく、偏屈で利用しにくいといわれる。
 だが、彼は相手が奉じた年月を決して裏切らない。真剣な信仰を重ね、正しい知識を踏まえた人間が呼びかける時、彼は必ず、それに応じた。
 ソラの掌が熱くなる。彼女はそれを、大地につけた。
 それは光ではなく、音だった。この世に普段満ちている、名も無く、形も無い音が、その時だけ不思議な存在感でもって、波のように大地を広がって行った。
 その間にも、光の球は降った。ソラは咄嗟に、胸からじゃらじゃら下がっていた護符の一つを手にとってそれに応じた。
 激しい衝撃と共に護符が吹っ飛んだ。ソラの腕まで熱が舐めて悲鳴がほとばしる。
 煙を上げる彼女の体は、弾みで飛び上がり、空中で一回転までして背中から地面に落ちた。彼女は呻いたが、その体の周りでは、既に、変化が起こっていた。
 三つに、四つに、こまぎれに、分断されて転がっていた霊体たちがその動きを活発にし、揺らめき、隣のものと結合し、あるいは単体のまま、意志を取り戻して立ち上がり始めたのである。
 いよいよ奇怪な姿となった彼らは、当然のように、ソラではなく、イラカを目指して飛び掛って行った。ただでさえ四方から霊に襲われていた彼に、さらなる霊の一群が覆いかぶさる。
「おおっと?」
 イラカの反応を見る余裕も無く、ソラは必死で体を返し、立ち上がった。だが衝撃は皮膚を通して体内と骨に響き、手足は馬鹿になり、まるで内臓の位置が変わってしまったかのように気分が恐ろしく悪かった。冷たい汗がだらだら全身を流れていく。
 彼女は、ショックを受けていたのだ。
 彼女は人と殴り合いなどしたことはなかった。人からこれほど直に攻撃されたのは、初めてだった。
 それは、恐ろしい経験だった。顔から血の気が引き、全身ががくがくする。頭の中には一語しかない。怖い。怖い。怖い。だ。
 無我夢中でソラは走った。また飛んでくるかもしれない球が怖くて怖くて仕方が無かった。
 やっとのことで骸でいっぱいの場所まで来ると、再びシギヤを呼んだ。もう、泣き叫んで人を呼ぶ迷子の激しさで呼んだ。
 神は彼女の叫びに応えた。再び力は降り、霊たちがまた一群、立ち上って行った。
 彼女は、彼らを壁にして逃げた。何度も何度もこの手を繰り返して、必死に相手の追撃を封じ込めようとした。この作戦の礎となっているのは、あの三つの水位と、ネコの言葉だった。

『――大きな戦争、と言われる最初の大陸戦争の時、クローヴィスは確かにほとんど一人で全陣営を平らげたが、その後、おおよそひと月は寝込んだ。理由は分かるだろうな? 三つの水位だ。あれから技術は進んだ。またいかに神階とは言え、悪霊の数も、戦役に借り出された兵士ほど多量ではないだろう。
 しかし君の復活の技術を使えば、単純にそれは、二倍、三倍になる。彼らに奴を足止めさせ、対応させ、消耗させるのだ。君はとにかく走って走って走りまくれ。二度斬られた悪霊も三度、四度と復活させろ。ひたすらそれを繰り返すのだ。奴の足が止まったらそれが、君の勝利の瞬間だ。
 一気呵成に、予想以上の霊を相手にすれば、いかに奴であろうと――消耗する。そうだ。あいつは決して健康ではなかった。最高に鍛え上げられた肉体、この世を統べる神のような力を用いながら、常に病と闘っていた。
 ソラ、これはまだ、学問的事実ではない。しかし、アルススは力を与える代わりに、人の生存維持に必要な何かを、間違いなく奪い取っている。しかもその事実は十分に認識されてない。奴らは無知で思い上がっている。従って連中には、長期戦こそが、唯一無二の戦法なのだ。特に、互いに単独で渡り合うときには』

「無駄だよ。無駄! こんなことしても!」
 イラカはまだ元気いっぱいだった。倍に膨れ上がった霊達を無造作に切り捨てながら、合間に光球さえ浮かべて何回も飛ばしてきた。
 時にはそれが、襲いかかろうとした獣を打ち抜いて一部だけ蒸発さした。彼の周囲には倍増しの、ぴくぴくと動く骸の山が築かれていった。


『神階では、君の技術の効果も飛躍する。シギヤの術もアルススの術と同じで、生身より霊体のほうが強く発現する。君の年齢では人間を治療することはまだ出来ない。だが、下級霊なら、何百体でも、生き返らせることができるはずだ』


 ソラは一心に、その作業を繰り返した。
 次第に慣れて、手際も良くなり、より効果的な場所で術を発動させることを覚えた。
 いつか、自分が掌で落とした偽テンテ鳥も復活させた。
 それら全てが脇目も振らずにイラカに向かって行った。それはまるで、何かを押し流そうとする川の水のようだった。
 少しずつ、少しずつ、ソラは落ち着きを取り戻して行った。それは、イラカからの攻撃が迫らなくなったからでもあった。
 光の球はもう作られなかった。振り向けば、彼女と彼の距離は大きく開いていた。
 イラカは相変わらず霊を切り裂いていた。
 けれど、歩みの幅は縮まり、今では、ほとんど前進していないように見えた。
 喘ぎながら、ソラはやっと、彼のほうをまともに観察する余裕を得た。
 イラカはすぐそれに気付いて、距離をものともせず、彼女をねめつける。
「てめえ……!」
 これまでのとは違う、本気の怒りに満ちた恐ろしい声が、ソラの鼓膜を震わした。
「……何をした! 俺に、何をした!!」
 その言葉を聞いた時、彼が、激しい体力の減退に自分でも驚いていることが分かった。それは、実験で示唆された三つの水位の法則が、実際に適合した瞬間だった。
 彼は強い。身を固める技術も最先端だ。
 だから、いつだって勝負は即時に決着したのだ。
 アルスス学の生徒と渡り合っても、手こずらなかったに違いない。
 延々と何十分も、一定の出力を継続させられる事態はなかった。しかもこれは復路で、往路でも彼は気前よく力を使っている。
 それほど長期に渡って力を使い続けた時、自分がどうなるのか、或いは頭で分かっていても実地で経験するのは初めてなのだろう。
 彼は既に本気になっていた。笑みはとっくに消えていた。罠にはまったことに気付き、打開策を探ろうと目を光らせ焦っていた。
 その表情、その戸惑い、その怒りは、あの病人みたいな怪力男シバを髣髴とさせた。彼も場末町で、同じように叫んだだろうか。
 俺の体に、なにをした。と。
 何かが狂った眺めだった。一方では、ある場を席巻できるほどの力を依然として放散しながら、その当人ばかりが力尽きようとしている。
 しかし、考えてみれば、クローヴィスだって決して長命ではなかった。ネコは同世代でも、完全に現役の学者ではないか。
 そして無論、ネコの指示は、これで終わりではなかった。
 彼は言った。
『足が止まったら、君の勝利だ。私の渡した二つの指輪。どちらでもいい。片方の一撃で、事は決まる。水の神は恵みの神。そして恐るべき災害の神でもある。私は家族にも同じ指輪を持たせているが、危害を加えようとする相手の命を奪うことも可能なほどの術を放つ。すべて私の生まれて以降の献身と信仰心に対して、ミハクが与えてくれた特別な恩寵である。だから私の人生もそれで報われる。アルススの破砕は私の心願だ。いいか、ソラ。躊躇だけが危険だ。決して躊躇うな。君になら、やり遂げられる』


 つまり、ソラの左右の手に一つずつはまった指輪は、ネコの復讐のために贈呈された道具だったのだ。ネコはソラに、それを使ってイラカを攻撃させることで、報復を完遂しようとしていたのだ。
 ソラにとって彼の復讐心は戸惑いの種であったけれど、この力を使えば、完全に勝利できることは、いまや、明白だった。
 イラカは、怪我をするかもしれない。が、命を落とすことまではないだろう。
 彼自身、護符を身に着けているはずで、それよって打撃は軽減されるはずだからだ。
 ただ単に、怪我をするだけ。
 痛い目を見るだけだ。
 ソラは、手袋をはめた右手を、空中に差し出した。使い方は分かっている。相手の足は完全に止まっている。このまま、撃てば、勝利が、決まる。
 ソラの拳が上下に振れていた。彼女は、迷っていた。
 彼女は攻撃されるのも初めてだったが、攻撃するのも、初めてだった。
 人を傷つける。なんて、望んだこともない。
 それがどういうことか分かっていた。さっき、自分が食らったからだ。あの思いを、相手にさせる。相手にさせるなんて。
 ――なにを、馬鹿な。ソラは自分で思った。相手はあのイラカなのだぞ? 繰り返し繰り返し自分を苦しめ、自分の自由を否定した、あの傲慢不遜な男ではないか。
 しかも、死にはしない。殴り返してやるだけ。彼からはもう何度も殴られた。精神的にも肉体的にも。
 これが対等ということだ。
 やれ。
 ――やれ!
「…………!」
 獣達の向こう側にいるイラカが、急に目を上げてこっちを見た。青い目だ、と思うと同時、ソラは、口の中で発動の言葉を呟いた。
 ものすごい音がした。指輪から矢のように鋭い力が放たれてイラカの体に吸い込まれて行った。
 それは彼の体に当たって、その体は、箒ではかれる葉っぱのように回転して地面に叩きつけられる。ひどく嫌な音がした。
 ソラの心臓が左胸の中で大きく跳ねる。
 血の気が引き、喉が凍りつくかと思った。
 人を、傷つける。
 こんなに恐ろしいことだなんて!!



 平手で打ったほうがまだましだった。ソラは、自分の力ではないもので他者を攻撃したのだ。何百倍もの力に頼って、自分と同じ人間を攻撃したのだ。
 それは、一瞬にしてソラの視界を暗くするほどの途方もない罪悪感を呼び起こした。
 いやだ。
 と、暗闇の中で彼女の魂は明瞭にそれを拒否した。
 こんなのはいやだ!!
 確かに自分は強くなりたかった。負けたくなかった。けれどこれは違う。これは、私のやり方ではない! これではアルススと一緒じゃないか!
 今更ながら、彼女は自分とネコの復讐心との間に横たわる広大な隔たりを思い知る。


「――ッ、てめえ……!!」
 一方、悪霊とともに地面に放り出されたイラカは、何が起きたか理解すると共に、爆発した。
 もろに攻撃をくらい、体勢を失って転倒するなどと。よほど小さいときは別にして、こんな屈辱を味わったことは記憶になかった。
 屈辱に対する怒りと、全身を殴りつける衝撃がかえって彼に馬鹿力を与えた。
 彼は身体の痛みもだるさも無視して、もっと大きな、もっと激しい力を神に求めた。いつもの通り、神はなんの制止もしなかった。体に開いた黥から膨大な力が流れ込んできた。
 電光石火の勢いで彼は群がる霊を斬り散らし、あっという間に、ソラのすぐ傍まで肉薄した。
 もちろん、ソラもそれまで気付かないわけではなかった。
 だが、彼女が慌てて突き出した別の護符が放った力は見当はずれな場所へ飛んで行った。
 彼女はもう指輪を使わなかった。戦意を失ったのだ。自分のしたことに驚愕し、呆然として逃げることも忘れたのだ。
 イラカはそれが分かった。
 熱い、飴のように引き伸ばされた時間の中で、彼はソラを見、ソラも彼を見ていた。
 全てを断ち切るように渾身の力でもって重い一撃を振り下ろした。




 本当にそれは、泥土のかたまりを振り下ろすかのような労苦だった。
 イラカの腕は、それほど力を失っていたのだ。
 手加減も出来なかった。
 ソラが、左手を前にして、自分を庇わなければ、甚大な事故になっていたかもしれなかった。
 やっとのことで下降に転じた泥土がガキン、という鈍い手ごたえで押し返された。
 手首と指の骨が歪んで軋んだ。
 イラカは苦痛のうめきをもらして剣を手放したが、たたらを踏んだ足で必死に体重を受け止め、かろうじて倒れずに済んだ。
 声にならない声の後、どさりと音がして、ソラの体が倒れる。
 彼女は無傷だった。ただ左の指輪の輝石が砕けていた。そして失神していた。
 「……!」
 戦士イラカは、最後まで気を抜かなかった。すぐに剣を取り上げると、すかさず寄せて来た悪霊達を斬りさばいた。
 もともと低級な霊だ。悪さをするソラが失神した後は、再び切り伏せられるままになった。
 とは言え、もはや長居ができるの状況でないことはイラカ自身がよく分かっていた。
 今まで、感じたことがないほどの疲労が体力を奪い、まるで、自分の体が自分のものではないようだ。血が足りない。というのに、喉元から、血がこみ上げる。
 赤いものを吐き出し、激しいめまいを舌を噛んで我慢しながら、イラカは、横たわるソラを見下ろした。
「このやろー……」
 悪態をつきつつ彼女の腕から腕輪を抜き、それから、その腕を取って身を屈め、彼女を肩の上に担ぎ上げる。
 普段なら、まったくどうと言うこともないはずの女の体重が、今日は海でも背負っているかのように重かった。
 悪霊達はソラを攻撃しないことが分かっている。だから、イラカは彼女を放って帰ってもよかったのである。教授たちが回収に向かえばいいのだ。
 しかし、女と争って、失神した相手を置いて一人だけ逃げ帰るなんて、イラカの誇りが許さなかった。
 彼はその誇りのために、倍の苦労をしながら、出口までがんばった。
 しかも生憎、実習の終了地点は神階入り口ではない。何千段もの階段を経た先にある、中央聖堂である。
 目撃した生徒に「うわっ!」と驚かれながら、イラカはご苦労にも、義理堅く、聖堂まで彼女の体を運んで帰った。



 彼の姿が入り口に現れると、聖堂は大きなどよめきに包まれ、やがてはアルスス学徒らの大歓声にとって変わった。
 ソラの体はすぐに教官に受け取られて施療室へ運ばれる。
 イラカもまた実習終了の手続きが済んだ途端、ぐらりとなった。慌てて駆け寄ったリリザの両腕の中に冗談ではなく崩れ落ちる。
 半分の生徒は依然として大喜びで彼を称えたが、リリザを始めとする残り半分の生徒らは驚愕して息を飲んだ。
 まさか。クローヴィスの再来と言われたイラカが、こんな姿で戻ってくるとは。
 相手はただ一人の女。しかも、シギヤの学徒だぞ?!
 のきなみ黥を持つ教官らも、施療室へ担ぎ込まれるイラカを驚いたように見届けた後、互いの反応を確かめるように、視線を交わした。
 席から立ち上がることも出来ないほど衝撃を受けている者もいた。一人、騒ぎに乗ることもなく老婆のように座り込んでいるのは、テプレザだった。



 とは言え、工芸品を二つながら手に入れたイラカは、実習の勝者。正規の勝利者だった。
 そしてソラは、敗北したのである。



(つづく)
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