12


 十代の絶望の味は格別である。
 一片の雑味もない、「終わりだ」という思いを完全に我が物にすることが出来る。
 それは例のとんち話に出てくる『闇夜に黒い池』というやつで、つまりはじゅんすいの真っ暗闇で、しかもすごいのは、傍目にはそれほどでもない挫折一つで一気にそういう深い場所まで落ちることが出来る点である。
 若者だけが最悪と最高をまばたきのうちに往復できる。
 医務室の寝台の中で、ソラが今、味わっているのはそれであった。
 彼女はちょっと背中や足を打っているだけで、熱が出ているわけでもなく、ただ勝負に負けたというだけのことだった。
 それも、連戦連勝の人間だったなら落ち込むにも道理があるが、彼女は戦闘能力のまるでないシギヤの生徒で、初めての実習で、しかも相手は学院の王者で、もともと負けて当然だった。
 それでも、ソラはまったく落ち込んだ。
 はっ、と、悪夢から正気づくように目が覚めて、医務室の天井の梁を見ていられたのは一瞬だった。
 次から次へと、記憶が追いついてきて、ソラはついに、自分が負けたのだと悟った。
「ソラさん……!」
 彼女の覚醒に気付いたハン・リ・ルクスが、声をかけるが、ほぼ同時に、彼女は毛布を巻き込んで芋虫のように丸くなってしまった。
 声にならない声が、噛み締めた歯の間から漏れる。
「大丈夫ですか。どこか、痛いんですか?」
 心配していたハンも、やがて、押し殺した嗚咽の声を聞き取って、沈黙し、浮かせた腰を静かに椅子に戻した。
 ソラはそっと腕に触れてみたが、当然、そこに腕輪はなかった。
 負けた――。
 目から熱い涙が溢れ出した。
 頭の中には、ただ一つの瞬間が繰り返し繰り返し蘇った。過去の彼女は指輪を構え、拳を足の止まったイラカに向けていた。
 あの時。――あの時。
 もっと狙いを定めて、覚悟を決めていれば!
 そして、術が彼に命中した後も、怯みさえしなければ。
 勝てる機会があったのに。
 指輪はもう一つあったのだから。
 もちろん、彼女はその瞬間、無理だと思ったことも覚えていた。これは違う。こんなことは出来ないと思った。
 だがその気弱が、今となっては恨めしいのだ。
 所詮ソラには不可能である。彼女にはネコほど強い恨みもなければ、人を蹴落とし自分の優位を喜ぶような歪んだ精神性もない。ただ自分の領域を守りたいという怒りがあるばかりだったが、それとて、人を殴りつけてまでそうしたいかと言われたら彼女は、口ごもってしまうだろう。
 実際に一度拳を振り下ろし、それだけでもう、嫌になってしまったのだ。
 それが彼女の怒りの限界だった。彼女は始めから、故意に他者を傷つけられるような人間ではないのである。怒りに才能があるとすれば、彼女は落第だった。彼女は攻撃の人間ではない。その才がないのだ。
 それでもソラは自分を責めた。
 自分に期待をかけ、工芸品を惜しげもなく与えてくれたネコに合わせる顔がないと思った。
 終わりだった。
 自分は、自分から決戦前に賭けを提示した。それに従えば、彼女はアルススに改宗させられる。
 だが到底そんなことはできるものではない。学院から去らねばならない。
 始めから何一つ馴染めぬままに、摩擦に次ぐ摩擦を繰り返し、最後にこんな大騒動を起こして負け、結局森の奥へ帰るのだ。彼女を不孝者として怒っている、祖母の支配するあのがんじがらめの、せせこましい町へ。
 彼女の自責は果てしなく続いた。
 何故自分は、こんなことができると思ったのだろう。
 夢を見たのだ。自分の領域を自分で守る、誇り高い自立した人間になれるのではないかと。そしてその上で、イラカとも対等に話し合い、彼に対しても、アルススの危険性を共に探っていければと。
 だが、すべては、弱者の妄想だった。
 そんな奇跡が成し遂げられるような大物ではなかったのだ。一体何を勘違いしていた? 人脈も知識も、すべてはネコ先生が恵んでくれただけのものだったではないか。
 一人で浮かれて。人に迷惑をかけて。
 恥ずかしい。死んでしまいたい――。
 ソラは、傍にいるハンにすがろうと思えば出来た。だが、一人で丸まっていたし、ハンもまた、控え目な性格から手を出しかねていた。
 それでも、そんな強烈な反省を何時間も継続できるものではない。
 やがてソラは、医務室のシギヤ派の教官から声をかけられ、異状がないと白状し、寝台を明け渡さなければならなかった。
 体に巻いていた物入れや護符の山が、彼女に返される。
 改めて指を確認すると、右の指輪はそのままだったが、左の指輪は石が弾け飛んで台座だけになっていた。申し訳なさに、再び、唇を噛む。
 丈夫なマヤリ布を張った衝立から外に出て初めて、ソラは、同じ医務室にイラカも休んでいることに気付いた。
 とある衝立の前に人がたかっており、そのうちの一人が、ソラの顔を見て「あっ!」と躍り上がったのである。それが、あの彼女の髪をつかんでハサミで切った、当の本人なのだった。



 こんな時には、ひとしお恐怖を覆い隠すのに苦労した。ソラは未だに、彼らの前に出るときには一瞬恐怖が先に出るのだ。それを理性と理屈で引き締め、やっとまともな顔を作るのだが、今回も成功したか、まったく自信がなかった。
 彼は彼女のそんな戸惑いとは全く無関係に動いた。昆虫のようにすばやく中へ向き直り、不愉快なほどおおっぴらに言う。
「イラカさん! 出てきましたよ! ソラが!」
「――あっそ」
 それに比べたらずいぶん落ち着いた声がそれに応じた。ソラの心臓が、どきりと跳ねる。
「じゃ、呼んでくれる?」
「はい! ――おい、イラカさんが呼んでる。奥に入れ!」
 多分男は、何かが証明されたので、もうびくびくすることはないと思っているのだろう。前と同じように横柄な態度で、彼自身にそんな資格があるのかどうかも分からないほど高飛車にソラを扱った。
「……」
 ソラは逃げるというわけにはいかなかった。それに、いかに一撃だったとは言え、自分が彼に怪我を負わせたりしていないかどうか、確認もしたかった。
 嗜虐的な目で自分を見る男子生徒の前を通って、仕切りの中へと入る。
 ハンも着いて来た。彼もようやく肝が座ってきたらしい。顔はやはり、青ざめていたが。
 狭い場所によくもこれだけと思うくらいの生徒がいた。寝台の最寄には無論、リリザがいて、入ってきた彼女をきっと睨む。
 そして中央の寝台の上に、イラカがいた。
 見たところ、外傷らしい外傷はないようだった。ソラはほっとしたが、しかし、顔色は悪かった。意識は明瞭なようだが、上体は完全に積んだ枕の上に預けて、首だけが動く。
「よー」
 それでも声はいつもの通りに軽快だった。
「どこも怪我してないみたいで、なによりじゃない」
「さあ、謝りなさいよ!」
 リリザが先に爆発した。彼女自身の鬱屈した怒りを示す、先のとがった針のような声で言うが、イラカは首を返してそれをたしなめる。
「お前は黙ってろ」
 なぜかそのやりとりにソラの方がひやっとする。多分、瞬間的に、田舎の両親のことを思い出したからだろう。
「覚えてるかな。あんたが気絶したんで、俺はあんたを負って聖堂まで帰ったんだよ。それで、腕輪は二つとも俺の名前で提出した。あんたはなし。だから、俺の勝ちだ」
 二つの青い目が、ソラを見つめる。
 ソラは、瞼を閉じるしかなかった。
 周囲の空気がざまあみろと膨れ上がるが――
「実習は、な」
 その一語が、すべての流れを一旦停止した。ソラは目を開く。
「どうなんだろうね。これは、勝ちなのかね」
 イラカは誰に問うわけでもないように言葉を吐いて顎を反らした。
 リリザが驚いて毛布を握る。
「何を言っているの、イラカ! 勝ちに決まっているじゃないの! 向こうは失神して自分の足で帰ることもできなかったのよ?! 点数的にも、実際にも、あなたの勝ちだわ!」
「でも俺はまだ、立ち上がることもできんのよ」
 彼は変な言葉遣いをした。これまでは完璧な学者言葉だったのだ。ネコの使うのと同じ超国境的な。
 初めて地方言葉がのぞいた。しかしもちろん問題はそっちではなく、内容のほうだ。
 イラカは、驚いて小さく口を開いて立っているソラを見て、渋く笑った。
「なんつーかね、やられたよ。一瞬、勝機は完全にあんたにあった。ただあんたには、その刹那を討ち抜く実力がなかった。それにしたって、慌てたよ。正直、今も、慌ててる」
 寝台の周りは、しいんとなった。
 まるで波紋のように、イラカの言葉が広がっていく。
 そして、静かに、空気が変わっていった。
「こんなにやられたことはないよ。白状すれば今、俺は、自分の体がごっそり半分以上、誰かに持っていかれたみたいで、非常に非常に非常に、不愉快だ。実習の前にあんたと言ったっけね? 俺が勝ったら、あんたを改宗させるって。黥を入れて、俺らの仲間にするって。――ちょっと待ってくれる?」
 ソラは、彼の顔色の悪さから目が離せなくなりながら、彼の言葉を聞いていた。
 心を覆っていた絶望が、またたく間に全く別の、不思議なものに変化していくのを魔法のように感じながら。
「ちょっと二、三日、待ってくれる? 整理するから。そんで、どうするか決めるから。それ、可能?」
「……二日間、なら」
 いずれ学期末なのだ。ソラも田舎に、戻らねばならない。
「そ。じゃあ、それまでには決めるから、発つ前に来てよ。そん時、改めて話そうや」
「……どうしてなの?」
 白い手をひらひらやるイラカに、ソラは思わず尋ねた。
 本当は、人前で自虐するような真似をするより、さっさと逃げてしまえばよかった。だが、ソラは彼女がその時、自分ばかりでなく、リリザや、周囲のすべての生徒達の困惑を代弁していることを知っていた。
「何故、負けた私を、庇うようなことをしてくれるの?」
 青い目がソラを捉えなおした。彼女と同世代の、その実真剣で、さらなる向上を志す目が。
「あんたが聞いてたかどうか知らないけどね、さっき、テプレザの婆さんが、医務室に来たんだよ。――馬鹿げてたよ」
 ソラ以外の生徒らの血の気が、一斉に引いたのが分かった。
 テプレザはクローヴィス伝説を支える偶像なのだ。彼女を公に批判するなど、どんな生徒にもためらいがある。
 だがイラカは簡単にそれをした。クローヴィスと同じ、傲岸不遜な目を光らせて。
「あの婆さん、大げさにはしゃいで、きらきらの修飾語で散々に俺を褒め称えやがった。そのくせ、目の奥は疑いで真っ暗だ。言葉もいつも以上に空回りして、なんの意味もなさない。心底取り乱しているから騒ぐんだ。自分の恐怖を誤魔化すために取り繕うんだ。いいか。俺はそんなものと一緒じゃない。
 自分がどんな不覚を取ったか、厳密に把握して評価できない人間は、学者なんかじゃない。あんたは俺に罠を仕掛けた。俺はその罠に見事にかかった。間一髪で抜け出したが、これを誤魔化せば次はもっと大きな罠にはまる。
 あんたは俺に、一つの淵をのぞかせた。その深さが怖くて、騒いで酔ったふりして、自分を最強だと思い込んで逃げるような、俺はそんな間抜けになるために、体中に黥を彫ってるわけじゃないんだよ。
 あんたのことなんかどうだっていいよ。俺は、俺のために、じっくり時間をかけて実習を評価するんだ。都合のいい勘違いをするんじゃない。実習は俺が勝った。そのことを忘れるなよ。あんたも自分のことを見直して、ちっとは態度を改めるんだな。
 ――あんたをアルススに改宗したほうが俺のためになると思ったら、俺は無理やりにでもそうする。もしそうしないなら、単純にそのほうが俺の利益になるからだ。分かったか。どこのどいつも、勝手なことを言うんじゃないぞ」
 それから彼はしばらくの間、ソラの顔を見ていたが、やがて聞いた。
「なんで怒ってんの?」
 ソラは、しかめ顔をしたまま答える。
「こういう、顔なのよ」
 ちらっと笑って、彼は手を振った。
 出て行けという合図だ。
 ソラは従った。衝立の後ろでは延々と沈黙が続いていた。



 医務室は、聖堂の入り口脇の部屋に開設されていた。
 そこから出ると、西の空はもう暮れており、黒くなって木立が茜色の手前で揺れていた。
「やっほー」
 ポリネとガニアが立っていた。ガニアは悲劇的な顔つきだが、眼鏡のポリネはいつもと変わらずあっけらかんと手を振る。
「先生……」
「お疲れ様。よくがんばったわね。ひとまず無事で、何よりよ。どう、これからうちに来ない? ちょっと悪いものも飲んだりしながら、今後のことでも考えましょうよ。ガニアと一緒に、片付けたからさ」
「――ソラ、恥じることはない。君は見事に危機を切り抜けた。誰にでも簡単に出来ることとは私には思えない。堂々と歩きたまえ!」
「そーよ。恥じることなんてなにもないわ。アルスス学の秀才と戦って、無傷で戻ってきたんだもの。全然負けなんかじゃないわ。勝ったくらいよ。ねえ、あなただってそう思うでしょ?」
 いきなり水を向けられたハンが、びくっとして襟を浮かす。
「そ、そうですね。そう言われればそう言えないこともないかもしれない」
「もうちょっと世渡りうまくなんないとダメねえ、真面目君」
 からからと笑う。
 ポリネは、約束を果たしに来てくれたのだ。
 ソラは彼女に感謝してうつむいた。
「とりあえず、私も、終わって良かったとは思っています。ただ……ネコ先生にどう報告したらいいかと思うと……」
「だから、そういう難しい問題を考えるために、落ち着きましょ。帰りがてら、なにか食べるものを買い込んでね。おごるわよ」
 ポリネはそう言ってソラの肩を抱き、ほとんど強引に正門に向けて歩き出した。そんな彼女らの姿を通りすがりの学生らが見送るが、その数はまばらだった。
 学期末なのである。
 実習の終了と共に、すべての講義は一旦休止する。実習に関係ない多くの生徒は既に自宅に戻ったり、帰省をし、実習まで居残った生徒らも終了を見届けて出発する。
 学院は一年のうちでもっとも閑散とする時期に入ったのだった。



 ポリネの部屋は、確かに前よりは片付いていたが、まあ似たり寄ったりだった。
 椅子だけは寄せ集めで、なんとか人数分あったが、大きな机はないので、料理はあっちこっちに分散して置かれた。
 お酒まで配られた。実直なハンとガニア教授が難色を示したが、ポリネは引かない。とうとう、なし崩しに飲酒が始まった。だいたい故郷でも神事の時にはお神酒が回るから、二人とも初めてというわけではないのだ。
 それにポリネが持ってきたのはごく良質で、酒精のほとんどない甘い果実酒だった。大人二人はそれをそのまま、若い者は水で薄めて飲んだ。
 おいしかった。
 気持ちと体のこわばりが、筆で解かれるように流れていく。
 ソラは、人と飲むお酒のありがたさというものを、妙に身にしみて理解した。
 ポリネとガニアは、ソラに勝負の一部始終を聞き、さらに数時間前のやりとりを聞き終えると、どちらも驚いたように目を見開いた。
「へーえ。そんなこと言ったの、あの小型クローヴィス」
 椅子の上で身を反らし、足を組みながら、ポリネが言う。
「イラカだろう」
「見直したわ。まあ、やっぱり、普段威張ってるだけのことはあるのねえ」
「それだけ効いたということでもあるだろう。実際かなりいいところまで、追い詰めたんだな君は。立派だ。よくやった」
 ガニアはさっきから妙に湿っぽくてやたらソラを褒めてはその度ごとに彼女を抱擁しに来た。
 初めはうろたえていたソラも今ではすっかり無感動になって、真横から抱きついてくるガニアに目もやらない。
 三回目に抱擁された時に気付いたのだ。彼は酔っている。それも、べろんべろんに。
「ガニア先生、お酒に弱いんですね。顔は全くしらふなのに」
「ねー。まだ一杯目よ? でも許してやって。なんせソラが帰ってきただけで嬉しくてしょうがないんだから。あと、下心ゼロだから。全身これ親心だから」
「何を言う。僕は酔ってなどいない。彼女がこんなに立派になってくれて、嬉しくて嬉しくて。……ん? なんだ君は。ウチの子に何の用だ」
「は、ハンでございます。先生、しっかりなさってください」
「まだ分からないけど、あの子は話せば分かる人間だってことかしらね。話を聞いてくれるまでが、かなり大変なわけだけど。出来ればさあ、そういうアルスス派と、非アルスス派がさ、手を組んで、これまで追求されてこなかった部分を追及したいのよね。
 んー。ますます、向こうの返答が怖いわね。ソラもさ、変な条件つけなければよかったのに」
「……」
「なにい。わたしの酒が飲めんというのか」
「先生、お気を確かに!」
 ハンが感傷性の父親に振り回されているのをよそに、ソラは息を吐いた。
「ちょうど、ネコ先生に、実験をしてもらったばかりで。……関心を持ってもらいたかったんです。彼にも、アルススの力の持つ危険性について」
 グラスを持つソラの手首を、ポリネの手が押さえる。
「ああ。分かる。ものすごく、分かるわ。だってさ、本当に身を危険にさらしているのは、彼らのほうなんだものね。勢力争いなんかどうでもいいのよ。私も何年も、何回も、繰り返しそう思って講義で警告を発し続けてきた。ところが連中ときたら、私達が妬み僻んで中傷しているとしか受け取らないんだから。
 ――あああもう、悔しいなあ。もし今、許してくれるなら、まさに現段階の、イラカの体の数値を上から下まで全部取っておくのに! そして、回復した後の数値と比べるのに! だって、最高の技術を使うアルスス学者が、立ち上がれなくなるまで術を使った場合の結果よ?! まだこの世の誰も記録に残してないわ!」
「……そういえば、私。出発前に寄るように言われたんだった。先生。イラカはまだしばらく、医務室にいるんでしょうか」
「あら、いいえ。医務室は今頃もう閉めてるはずよ。あそこは、実習のときだけ臨時設営なの。教官側のやる気の問題もあってね」
「?」
「ほら、診る側はシギヤの教官とか、非アルススの人間が中心になるわけじゃない。彼らにしてみたら、アルススの生徒の面倒をただただ一方的に見させられているように感じるわけ。それでいてまともな運営側扱いも受けない。生徒からは礼も言われず、終了後の打ち上げの酒宴にも呼ばれない。そりゃあ腹も立つわよね。
 今頃、アルスス派の教授達は、学院長のお部屋で大騒ぎよ。毎年そうなの。実習に出た生徒とかお気に入りも招いて、一晩中大盛り上がり。あなたも噂されてるでしょうね」
「今年くらいは真面目にやるんじゃないか。ひと波乱あったんだ」
 急に正気づいたガニアが席に戻りながら言う。
「さて、波乱だと思ってるかどうか。それに、どうせテプレザがいるのよ? 馬鹿騒ぎしてるに違いないわ。『クローヴィス』の勝利を宣言して」
「ええと、じゃあ、イラカはどこに……」
「もう下宿に戻って休んでるんじゃないかしら」
「そうですか」
 ではイラカの下宿の場所を調べないといけないな、とソラは思った。有名人だから、きっとあっさり分かるだろう。
「ちゃんと歩いて帰ったんですかね」
 と、ハン。彼はなぜか髪の毛がぐしゃぐしゃになっている。
「大丈夫でしょー。取り巻きもカノジョもいるんだしさ。明日から講義は休みだし、ゆっくり休養するんじゃない」
「うわあああ心配したよ、ソラー。帰ってきてくれて本当に嬉しい」
 それにしても普段真面目な人柄だけに、ガニアの振れ幅の大きさには、ソラもハンもびっくりだった。



/



 ちょうどその頃、イル・カフカス・イラカは、彼女らの読みどおりに、下宿に戻って休んでいた。
 彼は、彼の名声に比べれば意外と質素な下宿を借りていた。ただ、四階建ての四階にあり、狭いけれど見晴らしはいい。
 彼は寝台に枕を積み、そこに上体を預けたまま、開いた窓から遠い海を見つめていた。
 祝宴もなく、仲間もなかった。ただリリザが黙って傍で座っているだけで、会話さえ交わされなかった。
 本当は、彼は学院長とテプレザから、酒宴に誘われたのだ。毎回恒例だ。しかし、今回は断らざるを得なかった。
 実際、彼の体力はそれほど削がれていたのだ。真剣勝負の後の心地よい疲労などというものではない。なんとか歩いて下宿までは戻ったが、階段を上る前に一休みが必要なほどだった。
 悪い病気にでもかかったように、彼は尋常でない衰えに耐えねばならかった。しかも、容易に回復しない。
 イラカは勝った。確かに勝った。
 しかし、これまでとは何かが決定的に違っていた。
 勝負が終われば、すべて昔の通りの秩序に戻ると思っていた。リリザも、テプレザも同様だ。だが、事実は違った。彼は勝ったのに、決して前と同じではなかったのだ。まったく異なる地点に着地させられたのである。
 だから彼は、戸惑っていた。院長室で、教官らが自分をなんと言っているかも気になった。
 教官らの態度や評価は、ころころと変わりやすかった。恐らく今頃、イラカがいないことをいいことに、彼の甘さを侮り、非難し、出席している別の生徒を有望だ何だと褒めそやして肩を抱いていることだろう。
 テプレザさえ、信用はならない。イラカは知っていた。
 彼らは自分達の期待をかなえてくれる人間を求めて、次から次に対象を取り替えるのだ。まるで、ある昔に、神を取り替えたように。
 イラカは自分の身に何が起きたか、その全てを理解せねばならなかった。
 彼は勝った。確かに勝った。
 それなのに――。どうしてこうなる?
 幸い、イラカは実習には勝利していたから、まだ落ち着いて考えることが出来た。
 それでも、長い間思考を忘れていた彼には、困惑と疲労の足かせはなかなかにしんどかった。
 しかし彼は、持ち前の矜持で現実に耐えた。取り乱して世辞の宴や騒ぎにも逃げることもなかった。クローヴィスならば、そんなみっともない真似はしないに違いないからである。
 クローヴィスは孤独のかたまりのような人物であった。
 忍耐が、結局彼に幸いした。
 そのことが分かったのは、夜も更け、島が寝静まった深夜のことである。


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 人の営みが静まると、黒い島は静寂に包まれた。
 ソラはよく知っていた。耳をよく澄ますとその静寂の向こうに、かすかな潮騒が聞こえることを。
 島は海に取り巻かれている。本当に変わった造作だ。何故こんな特殊な場所に人が住みつくことになったのか。
 今日地下で見たように、前の文明の頃からこの島には人が集まり、居住し続けてきたのだ。昔は、寧ろ聖地として封鎖され人が住まなくなっていたというが、逆にその寂れ具合と神階の多さを気に入った学院の始祖ルル・シル・カントンが、この地で私塾を開いた。技能工芸学院の創成である。
 約百年が経って島の人口は増え、建物が立ち並び文化が花開いた。古い絵などを見ると、その頃とは外見も様変わりしている。
 変わっていないのは、ただ、海だけである。
 ソラは逃げられなかった。今夜はこうして猶予を与えられたとしても、明日は、明後日は、必ず、あの男のところへ行かねばならなかった。
 海の上に庵を流して暮らす、奇術師ネコのことである。
 ネコはソラに技術と知恵を与えた。そして自信を与え、貴重なる指輪まで二つ与えた。
 勝てた。
 ソラには今やそれが分かる。戦うのが自分でなければ、確かに勝てたのだ。
 自分には、絶対に無理だったけれど。
 結果を知ったら、ネコはどう言うだろうか。失望は、やはり、するだろう。あれだけしてやったのに、と思われて当然だ。
 ソラはその結果を引き受ける覚悟もあった。仕方がない。しかしそれでも、心は重かった。
 彼女に力を貸してくれたのはネコばかりではない。多くの見知らぬ人までが護符を惜しげもなく与えてくれた。特に神に対する信仰年数の短い若者には、他人も使えるような護符を結ぶことも簡単ではない。
 彼らは、もう実習の結果を知ったろうか。どのように思っただろうか。
 申し訳なかった。もっと、踏ん張ればよかった。
 準備の長さに比べれば、流星のような早さで駆け抜けた実習のことを今更悔やむが、もとより無意味なことである。
 ソラは、眠れなかった。一番最初に前後不覚になったガニアを始め、全員が窓の下や寝台などに寝場所を与えられていた。ソラは居間の長椅子で毛布に包まっていたのだが、目が冴え、心が騒いで、いつまで経っても寝入ることができなかった。
 しまいに、横になっているのが苦痛になり、起き上がって、傍らの机の上に積まれた護符の山を眺める。
 手前には、指輪が二つ。恐らく、最初の一撃でほとんど力のなくなった一つと、激しい攻撃を受けて貴石の弾け飛んだもう一つである。
 言葉も浮かばぬままに、ぼんやりしていると、窓の下でごそりとハンが動いた。
「眠れないですか」
 奥の、ベンチの上で寝入っているガニアに遠慮をしているのか、風のような低い囁きが届く。
 初めて気付いたのだが、ハンは奥ゆかしい人格を示すような、大変に優しい声の持ち主だった。
「……後始末のことを、考えると」
 ソラが応えると、彼は裾を持ち上げて上手に毛布を体に巻きつけ、小机の向こうまでやってきた。背もたれのない丸椅子に腰を下ろし、まるで焚き火ででもあるかのように、護符を囲む。
「ご家族のことですか」
「それもあります。でもまず、ネコ先生のところに行かないといけません。どれほど、がっかりなさるかと思うと」
 ハン・リ・ルクスはその名を聞くと、いつものように眉を不審げに寄せた。無論、口調は変わらず丁寧だ。
「分かって下さいますよ。本当にソラさんのことを考えて下さっている教育者なら。僕はどうも、その人のことが信用できないのですが」
「……ポリネ先生や、ガニア先生を育てられた方ですよ」
「分かってます。それを今日ここで初めて聞いて、ちょっとは安心しました。でも、あなたがそうやって心配しているのを見ると、やはりまた疑いが起こってきます。……もし、報告に行って、向こうがあなたを非難したり切り捨てようとするなら、それは、もともとそういう人物であったということです。縁が切れて結構なくらいだと、――ごめんなさい、僕は思います。
 逆に、故郷は、あなたを裏切りません」
 室内は暗かったが、彼らは目が慣れていたので互いの顔が見えた。ハンはソラの眼差しを、いつになくしっかりと受け止めた。
「厳しそうに見えても、故郷と家族は、結局はあなたを許しますよ。僕も協力します。ご家族に、一緒に説明しましょう」
 初めて、ソラは彼の態度に強さを認めた。
 それはイラカの持っているものとは種類が違う。東の森に転がる巌(いわお)のような強さ。あの町長の息子ゾンネンを連想させる頑固さ、だ。
 東の男は突然、岩盤にぶち当たるようにこの態度を取ることがあり、一旦そうなると、もうそれ以上どうにもならなくなる。
 ソラを励まそうとして言われた言葉だった。だが、彼女はかえって昔を思い出し、気鬱になってしまった。
 あいにく彼女は、ハンのようには故郷を信じられなかった。
 喧嘩別れのようになったゾンネンは、あの後どうしただろう? 勝敗を知って帰ったのか、知らぬまま腹を立てて帰ったのか。
 彼はどう自分のことを人々に告げるだろうか。それを聞いて、なかんずく祖母が、どう考えるか――。
 ネコはたった一人。しかしふるさとは百人の、しかも知り合いの顔をしている。
 心がぐっと重くなった。勿論ハンの親切心を疑ってはいない。だが、やはり彼は、ソラのことを分かってはおらず、故郷を信じきった東の男なのだった。
 心の底では彼も、ソラが負けて、手の内に戻ってきて、安堵しているのかもしれない――。
「少なくとも僕は、あなたが無事でいてくれさえすれば、何も言うことはないです」
 一転。
 ソラは墜落し、疑いを抱いた自分を恥じた。
 護符に向かって頭を下げたくなった。
 どうして自分はこう性根が悪くひねくれ者なのだろう?
 情けなくなってくる。
 この性格のせいで、ここまで騒ぎが大きくなってしまったというのに。
「ソラさん? 大丈夫ですか。忘れないで下さい。僕は何が起きても、あなたの味方ですよ」
「……ありがとうございます」
 礼を言うと、彼は細い目を線にしてにっこり笑った。彼は本当に温順な、育ちのよい青年なのだった。
 大人しいのは見た目だけ。心の中に不屈の小鬼を飼っているソラは、少し彼のことを見習ったほうがいいかもしれない。
「本当に、今回のことがあって、僕はあなたの強さと真面目さに感動したんです。命がある限り、僕はあなたの友達ですよ」
「ハンさん。そんな……」
 二人の目が合い、会話が止まったその時。
 潮騒を聞き分けるのがくせになっているソラが、ふと、遥か遠くに奇妙な音を聞きつけて、首を反らした。
 それは、人に見えぬ気配を見るマオのような仕草だった。目を反らされたハンはきょとんとする。
「どうしました?」
「……なにか、音が」
「え? 何も聞こえませんが」
「確かに、何か……」
 ソラは身を屈めて気配の出所を探った。寝椅子から立ち上がり、さっきまでハンが寝ていた窓の下へたどり着くと、膝をついて上がって、鎧戸に手を伸ばす。留め金を外して、外に向けて開いた。
 ――潮風と共に人のざわめきの音が、そして、明らかに何かが燃えている強いにおいが室内にはっきりと流れ込んできた。
 ソラの頭も、ハンのそれも、その先触れに打たれて、一瞬真っ白になる。
 ほぼ同時に、鐘の不吉な乱打が、闇を破いて島中に響き渡った。



 島にいた者は全員――つまりその日、学期末を迎えて島の人口は激減していたのだが、残っていた者は全員が、その音に肝を潰して飛び起きることになった。
 ベンチの毛布の中からガニアが、奥の部屋からポリネが飛び出してくる。
「なに、一体、何事?!」
「何故、鐘楼の鐘があんなふうに鳴るんだ?! あんなふうに鳴ったのは、そう……クローヴィスが死んだ時だけだ!」
 その時まで、ソラとハンには、あれが学院の鐘であるかどうかさえ、はっきりしなかった。だが、ガニアの言葉で、やはり鐘楼の鐘だということが分かる。
 何か非常事態が起きたのだ。しかも、空気に混じるきな臭さは時を追うごとに強さを増していく。
「火事?! こんな日に!」
「外に出よう。この家の窓からじゃ何も見えない!」
 二人はそれぞれ腕をつかまれ、一群になって往来に飛び出し、小路を走って、大通りまで出た。
 そして、唖然とするような光景を見た。
 島は、裾広がりの形をしていて、その裾に住居や商店が並び、中央部は学院が占拠している。その、中心が、燃えていた。赤い光がもうもうと立ち昇る煙を照らし、夜をそこだけ地獄のように照らし出している。
 煙と光は、建物の付け根辺りから立ち昇っているように見えた。頂点をなす中央の建物は逆光で影になっている。
 その時、鐘の乱打がいきなり途切れ、以降少しも鳴らなくなった。往来の寝巻き姿の人々はますます困惑したように、互いの顔を見合わせる。
 彼らに比べたら、ソラ達は普段着のままでいたので、即座に動けた。
「……学院に行こう。火事かも知れん。延焼する前に食い止めなければ」
 青ざめたガニアの言葉に、全員が学院に向けて方向転換する。
 ポリネは学院のちょうど裏側に住んでいるので、門にたどり着くまでうねる坂道やちょっとした階段道を辿って、ぐるぐる円を描きながら螺旋状に上っていかねばならなかった。
 それでも、ソラは体力がついていたから耐え切れた。前なら、とてもじゃないが深夜にこんな真似は出来なかっただろう。
 門に到着したのは、ソラが一着、ハンが二着。大人二人はぜいぜい言いながら同時着だった。
 それでソラが最初に、学内の有様を目の当たりにした。
 燃えているのは、敷地の左側にある講義棟の一角だった。裏から見たときには中央の付け根が燃えているように見えたが、位置のせいだったのだろう。火事の規模は大きくなく、学院のほとんどは無事のようだった。
 ただ、集まった人々は消火活動に取り掛かることができていなかった。それどころか、中にも入れなかった。門が閉まり、その場で足止めを食らっていたのだ。ソラもすべてを鉄柵越しに見たのである。
 ざわめく人々がつかむ柵の向こうには、武器を持ち、目と黥を赤く光らせた十人近いアルススの教官らが立っていた。学徒も混じっている。
 彼らは官憲のように人々を監視し、奥へ入れまいとしていた。うち一人の女性教官が、何事か説明をしている。ソラは懸命にそちらへ近づき、この異常事態を理解しようとした。
「――学院は、以後、我らのものになる!」
 馬鹿げている、としか言いようのない言葉が耳に届いた。
 『我らのもの』って。
 始めから、学院は、アルススの学者のものではないか。
 次の言葉が、ようやくソラに納得を運んできた。
「現学院長を追放し、副院長バルバスの元で始まる新たなる学院に参与するものは入門を許そう! そうでないものは去るがいい! 既に学院内部は我らが完全に掌握した! 学院長は既に身柄を拘束され、副院長への院長職譲渡に応じている」
「――な、なんですってェ?!」
 頭三つほど後ろでポリネの声がした。
 門の内部で、学徒と教官達が拳を突き上げて叫ぶ。
「バルバス新学院長万歳! 万歳! 万歳!」
「しかしながら、数名の分からず屋が現在も状況を理解せず抵抗中である。何も心配はいらない。諸君らは平静を保ち、ただ我らの同志が彼らを駆逐するまでしばし待たれたい」
 風が吹いて、建物が焼ける匂いと、煙の匂い、そして僅かな血の匂いを鉄柵ごしに人々に運んできた。
 ――誰かが死んでいる。
 左の炎に下から照らされる中央建物を見上げながら、ソラは直感した。
 そして、魂が抜けるような脱力感と、信じられなさのために眉間に派手な皺を寄せた。
 口も開いた。
 今回は感動したからではない。
 有体に言えば、呆れたのだ。
 とんでもないことが起きていた。
「……内乱、ですか?」
 いつの間にか傍に来ていたハンの語が、核心を突く。
 なんとアルスス派は内部分裂を起こし、うち一方が学生らが少なくなる学期末を狙って、反乱を起こしたのである。
 恐らく、酒宴が狙われたのだろう。学院長の部屋で、お気に入りだけを招待して行われる宴。深夜に及び酒で気も緩む上、教官も学徒も含めて派閥を一網打尽に出来る。
 ただでさえ他の学派を圧迫し、迫害していたアルスス学派が、今度は身内で権力を取り合って、流血の内輪もめを起こしたのだ。よりにもよって、ルル・シル・カントンが開いた誇り高い、伝統ある、技能工芸学院を乗っ取って……!
「――ふざけるな!」
 聴衆のどこかから声が上がってがしゃんと門が揺れた。当然だ。ソラだって問答無用の怒りで頭が沸騰しそうだ。
「何がバルバス新学院長だ! 簒奪者!! 野蛮人!!」
「そうだそうだ! 恥を知れ!!」
 聴衆の中には、アルスス学の学徒も混ざっていた。大きく膨れ上がりそうになった声の只中に、いきなり、覚えのある赤い光球が叩き込まれた。
「うわあっ!!」
 それは鉄柵を越して急降下してきた。鳥が飛び立つように一斉に人々が飛び退く。
 幸い、球は誰にも当たらず石畳を焦がしただけだったが、逃げようとした人が人とぶつかって転倒し、混乱が起きる。
 埃っぽくきな臭い風が、疎外された人々の額の汗を冷たく撫ぜて行った。
「……く、『クローヴィス法』を……!」
 学内で、術を使って他者を攻撃してはならない。所属員全員が従っている成文法が眼前で踏みにじられ、人々は愕然とする。
「現在、学院は一部戦場と化し、非常事態である」
 簒奪側の代表者は厳かに人々を睨みつける。
「秩序を回復するためには通常法の一時停止もやむを得ない。新体制になり、平穏が確保されれば、法は再び施行されるだろう」
「……そ、そしたらそれで反対者を取り締まれるじゃないですか。卑怯な」
 押されてよろめいたソラの背中を受け止めたまま、ハンが漏らす。
「我々は平和的改新を望んでいる」
 ――どの口が。
 ソラは言わなかったが、心の中ではそう思った。
 多分、その場の誰もが思っただろう。
 ずるい鉄の柵で前を塞ぎ、立ち昇る毒々しい煙を背に、頬に黥を光らせながら、それでもその女性教官は平気で言うのである。
「数人の愚か者を廃し、権力移行が完了するまで、部外者の立ち入りは禁止する。我らの行動を意気に感じ、同志とならんとする者は歓迎する。しかし、いたずらにこの道理を邪魔し乱そうとする者があれば、我々はそれに対しても断固たる処置を取るであろう!」
 つまり、邪魔をするな。もう少しだから黙って表で見てろ。手出しをするなら殴り返すぞということだ――。
 再び、新学院長に対する万歳が三唱された。
 聴衆の中にはへたり込む者も現れた。頬に黥がある生徒だった。そうでない人間達は憤りのほうが強かった。
 これまでも、愛する母校で、アルスス学派が好き放題するのに歯噛みをしながら耐えてきたのだ。その上、学び舎を占拠して暴力的な戦争ごっこまで始めるとは。
 怒りも限界に達して当然だった。ある教官が、ポリネの袖を引く。
「ポリネ教授! ガニア教授! こちらへ。
 ――学院長始め、テプレザ教授など、名だたるアルスス学の教官や生徒が軒並み拘束されている模様です。残ったもの達で結束して、対策を話し合いましょう。こんな事件をみすみす許したとあっては、学院もこれきりです!」
 同時発生的に、随所で同様の声かけが行われ、非アルスス学者達は一旦ここを離れて、別の場所に集まることになった。
 二人の教官に言われて、ハンとソラもそれに加わる。
 門を去る時、もう一度振り向くと、火事の煙はまだもくもくと立ち昇り、驕りたかぶる新しい生き物のように、建物を隠して天の闇を衝いていた。



 副院長派は、本当は夜が明けるまでに院長を脅して権力を委譲させ、誰にもどうにもできない状況に持ち込むつもりだったようだ。
 だが誰かが、隙を突いて鐘を鳴らし、島内に異常事態を知らせたことで、早くも人々の知るところとなり、門前に押しかけた人間達に対しても対応を迫られることになったらしい。
 講義棟の火災も恐らく、院長側の抵抗を示す証左と思われた。
 中庭の女性教官は院内を完全に掌握しているなどと言っていたが、実際には、相当数の教官・生徒が立てこもり、抵抗していると見られた。
 放っておけば一人ひとり撃破されていくだろう。すぐにも脇から介入し、彼らへの攻撃を止めさせねばならなかった。
 深夜。集まった教授と学徒らは、ある下宿屋を拠点に据えて話し合いを行い、副院長による学院の乗っ取り行為を決して認めないこと、抵抗者と人質に対する攻撃をやめ、即時に全員の解放を求める抗議文を連名で発表することに決定した。その代わり、不法行為自体の責は問わず、新たに設ける協議の席で、十分に派としての意見を聞き尊重するという交換条件に提示する。
 また彼らは、この異常事態の解決のために、専門間の垣根を取り払い、可能な限りの協力を互いに惜しまないことを約束し合った。
 迅速な行動と共に、とにかく仲間を増やすことが肝要だった。学院長派、副学院長派共に、みな強力なアルスス学者ばかりが対立の渦中にあり、彼らの争いに介入するためには、『それ以外の学院の全員』と言っても差し支えのないほどの頭数と実力が必要だった。
 島内に無事で残っている教官、生徒を残らず集めるため、学生達が各所に派遣される。
 見つからない者、故郷に旅立って不在の者、中立を決め込む者、既に副学院派に転じている者もあったが、すぐに立ち上がり、下宿に駆けつけてくれる者もいた。
 そして、そんな使者の一人となったハン・リ・ルクスが、明け方、狭く細い階段を経て、イル・カフカス・イラカの部屋へとたどり着く。
 彼は既に、目を覚ましていて、状況を把握していた。
 彼は簡素な寝台に身を預けたまま、少しずつ明るくなっていく部屋の中で、ハンに言った。
「学院の名誉のためにも、このような陰謀の完遂は阻止されねばなりません」
 イラカはハンを正式の使者として扱い、丁寧な言葉を使った。これにはハンのほうが驚いた。
 言葉だけではなかった。イラカの態度は何かしら、以前と違っていた。医務室で会った時とも同じではない。周囲に賛同者がいないせいかもしれないが――。
「昨夜、自分は、院長に酒宴に招かれていました。出席していれば、同様に人質となったか、抵抗し命を落としていたことは明らかです。第三の勢力として介入し、双方に暴力行為を止めるように求めること、巻き込まれ人質となった全員を解放するようはたらきかけること、最後に派閥同士の対立の解消のために別に協議の場を設けること、すべて全面的に賛成します。すぐにも、あなた方の一員に加わりたいと思っています」
 部屋の出口の脇に、リリザが立っていた。彼女は、寝不足のためか、陰謀の衝撃のためか、顔面蒼白だった。
「しかし、今の私は、戦うことが出来ません。立ったり歩いたりすることはなんとか可能なので、会議に加わることはできます。しかしアルススの徒としては、全く役に立ちません。剣も飾りです。分かるんです。あと剣の一振りで、体が粉々になるってことが。
 ――ソラは、きっといきり立って、元気に働いているんでしょうね」
 あまりの図星さに口ごもるハンに、イラカは、小さな微笑を浮かべて言った。
「伝えてくれませんか。彼女に。負けた。と」
 その時、ハン・リ・ルクスは、震えた。
 何故かはよく分からなかった。
 だが、この青い目の男が学院であれほど人気がある理由。そして、あれほど止めても、ソラが彼との勝負を止めなかった理由が、初めてごく僅か、分かったような気がした。
 ハンは一礼した。なんだか、嬉しいような悲しいような、複雑な気分だった。下品と決め付けていたアルススの徒に、こんな男がいるなんて。
 しかし、彼は、私情を駆逐する。
「お伝えしましょう。仰ることは分かりました。しかし、あなたは学院長と親しく、内部事情についてもお詳しいはず。また、極めて優秀なアルスス学徒でもいらっしゃる。連名書にあなたの名があることは重要と思います。またあなたの経験と知恵が役に立たないとは思えません。是非、下宿にいらしてください。体調がよろしいときで構いません」
「分かりました。必ず顔を出します」
「では、私はこれで」
 ハンは一礼して再び階段を下って行った。
 その頃には、海の向こうから太陽が顔を出し、辺りは完全に朝になっていた。
 波の向こうに、まだ何も知らないンマロの町がちらりと見える。
 それを眺めながら、部屋に残ったイラカは、笑った。最初は唇だけだった。だがそれから、間欠的に、吹き出す湯のように、喉の奥から笑いはこみ上げて、しまいには寝台の上の体を揺すった。
 笑っている場合でないことは分かっていた。大変なことが起きているのだ。
 だが彼は、自分がかくも完全に負けたことが、どうにも爆発的に滑稽でたまらなかった。
 そうだ。確かに自分は勝った。生意気なソラを弾き飛ばし、腕輪を二つながら手に入れた――
 腕輪を!
 それが一体、なんだろう?
 今こうして、遥かに真剣で深刻な事態が起きた。ところが、自分は、体力を失って何も出来ないではないか。
 たかだかあんなオモチャを手に入れるために、自分は、自分の人生に於ける最重要の瞬間、力を発揮する機会を永久に失ってしまったのだ。
 これが敗北でなくてなんだろうか。
 ソラはかすり傷程度で、今も自由に走り回っている。
 これが敗北でなくてなんだろう?!
 自分は、何か、大変な思い違いをしていたのだ。力を求め、力がすべてだと思った。クローヴィスの写し身になろうと、あらゆる勝利に拘った。
 結果、自分の足で歩くことさえおぼつかなくなった。
 こんな勝利に全体なんの意味がある?!
 あのソラが、繰り返し拘って、自分に尋ねた疑問があった。どうして、アルススはクローヴィスが再発見するまでの間、禁忌の学問とされていたのか?
 彼女が示唆したかったことが、ようやく、ようやく彼に追いつき、その二の腕にそっと触れたのだ。
 イラカは自棄になったのではない。一人天下を気取っていた過去の自分があまりに滑稽で笑ったのだ。
 アルススの力で全てが手に入ると思っていた。
 こんな陥穽があることを知らず、得意になるばかりか、他人にも、その道を採るように強いていた。
 ――実際、言葉もない。
 笑いの衝動が過ぎ去る頃、彼は心の中で、二つのことを決意していた。一つは、完敗を受け入れること、そして、二つ目は、この完敗は、してよかったのだと心から認めることだ。
 もし、恐れや惰弱からこの二つを否定したなら、それこそ、この疲労、この無念の全てが無駄になってしまう。あのソラの、必死の手向かいも無にしてしまうことになる。
 それは駄目だ。それすれば、今度こそ自分は終わりになる。分かるのだ。自分を撃った、あの時の、彼女の眼差し。
 百戦百勝であっても、昨日までの勘違いした自分より、完敗し茫然自失の今の自分のほうがずっとましだ。そうではないか?
 ――受け入れよう。悔しさを飲み、顔を上げよう。
 自分は、今ここであの女に負けて、良かったのだ。
 大丈夫。お楽しみはこれからだ。今この目覚めから、自分はどれだけ遠くにいけるか。この陥穽を踏まえた上で、どれほど強くなれるか。今度はそれが問題になるだけだ。
 そうだ。他の誰がこんな気持ちでいるだろう。自分は今日、アルスス学者として、人の知らない新しい段階に到達したのだ。



 彼のように、自分で自分を救うことの出来る人間もいる。だが、誰もがそうではないし、彼の恋人リリザもまた、そうではなかった。
 彼女は恋人が笑い出したのを見て、信じられず目を開き、顔を険しくした。学院の内乱騒ぎも、そんな大事件から疎外されていること自体も、何もかも彼女には悪夢だった。
 本来ならばクローヴィスの後継者が、今頃こんな場所でこんなふうに寝たきりになっているはずがなかった。渦中にあって、敵を打ち倒し問題を解決しているのが本当だった。まして『負け』を口にするなど、考えられない。
 あんな女に、いきなり理屈に合わない負けを認めて、しかも笑い出すとは、イラカはほんとうに――本当に一体、どうしてしまったのだろう?
 何もかもが、彼女の感情などお構いなしに、派手にひっくり返されてしまった。
 元に戻ると思っていたのに。ようやく解決するはずだったのに。テプレザもそう言ったのに。
 朝の静かな光の中で、気の毒な彼女は一人、唇を噛み締める。


 その後、彼女は疲労しており、一度自分の下宿に帰りたいと言った。
 イラカは構わずに許可して、自力で階段を降り、出かけて行った。

 


(つづく)
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