13



 技能工芸学院を舞台に勃発した内乱騒動に反対する学者、生徒らが集合した教官用の下宿屋には、『巌書院』などという風流な名前がついていた。
 それによって、後に『書院派』と呼ばれるようになる二十五名の有志らは、変事の起きた翌朝、連名で勧告書を二部作成し、門を守る、副学院長バルバス派の学者らに手渡した。
 内容は、すべての不法行為を昼までに停止し、封鎖を解除すること。人質を解放し、一時解散することを求めた上、後日改めて会議の場を設け、新学期までに話し合いによって互いの不満や問題を解決することを提案したもので、もしこれらの提案を無視するなら書院派は職場に復帰しない。治安回復のために、ンマロの市評議会にも訴えを起こす、という警告も末尾に付いていた。
 これに対する『バルバス派』――あるいは『新学院長派』の返答は、無視だった。
 十三人の教授を含む彼らの訴えは、完全に黙殺されたのである。
 予想されたこととは言え、これは彼らにとってはやはり屈辱だった。
 アルススの学者達が、それ以外の学派についてどのように考えているか。改めて示す結果になったからである。
「歯牙にもかけてないってことですね」
 書院に呼ばれて会議にも出席していたイル・カフカス・イラカは、あっけらかんと彼らの傷をえぐった。
 傍に座っていたソラやハンは青くなるが、彼は半病人のくせして元気一杯だ。
 この非アルスス学徒ばかり集う下宿に加わること自体、普通の神経なら気後れがして当然だが、彼は明るく入ってきて歓迎するハンに答え、面食らうソラの手をぶんぶんと振った上、悪びれるそぶりもなく堂々と着席して勧告書にも名を書いた。
 時刻は真昼。空には雲ひとつなく、室内も日光に満ちて明るかったが、集合した学者らの表情はなんともいえず澱んでいる。
「かえって好都合くらいに思ってるのかもね。私らがこの期に全員離職して学院を出て行くなら」
「な、なんという……」
 ポリネの発言に対するガニアのうめきは、集まった学者や学徒らの胸中を代表するものだった。
「しかし、想定の範囲内だったとも言える」
 気を取り直すように、別の学者が言い始める。確かポリネと同じラフ学の教授だ。
「彼らにとっては、我々など脅威でもなんでもないというわけだ。それは分かっていたから、ンマロの評議会の介入なども匂わしたのだが」
「人間の軍隊なんて、何でもないと思っているのでは」
 別の学生の言葉に、イラカが頷いて言葉を添える。
「クローヴィスの例がありますからね」
「――おおきい戦争、ちいさい戦争か」
 たった一人で、軍隊を退け、戦争を終わらせたアルスス学の始祖。
「確かに、力の上では蹴散らせるかもしれないけど」
 ソラは思わず言った。
「ん?」
「そんなことをして、後がどうなるのか考えないの? 今いる学長を力で追い落として、こんな不法なやり方で学院を占拠して、それが人々の目にどういうふうに映るか計算しないのかしら? ンマロを支配している商人達だって、確かに口では何も言わないかもしれないけれど、心の中では軽蔑するわよ。私達だってする。――世界中にそうやって、軽蔑を振りまいて、一体その後、どうするつもりなのかしら」
「どうにでもなると思ってるから、するんだよ」
 イラカは、彼女の二つ隣に座っていた。間に居心地悪そうなハンを挟んで、ソラの疑問に答える。
「世界の軽蔑なんて、恐るるに足らず。自分達の力があれば、すべて取り返せると思っているのさ。アルスス学徒ってそういうもんで、実際とても単純だよ。簡単に言っちゃうと俺らの間では、きんたまの大きさだけが問題なの。いつも、俺の方がでっかいぞ。そこをどけと言って喧嘩する。きんたまが一番でかい奴が、一番えらい――」
 さすがに良識ある学者らが顔をしかめ、育ちのよいハンなどは人相が変わっていたが、イラカは構わず、下品を押し通して言ってのける。
「俺らは、本当に、本気で、そう考える。だから小さな奴や、そもそもそれがない女には、何の敬意も払わない。みなさんも感じたことがおありでしょ? ……ですんでね、今学院を占拠している連中もまた、大きな大きなきんたまを目の前に出された時にだけ、はっと正気に返り、停戦に応じるでしょう。それ以外は、多分、視界に入りませんよ。俺らアルスス学徒の、眼にはね」
 沈黙の末に、名前を勧告書の筆頭に乗せた老学者が口を開いた。
「もっと力の強い人間を連れてくるべきだと言うのだね。君は」
「可能なら、ですが。あなた方の誇りを傷つけるつもりは、俺には全くないです……今は。何しろ、俺はシギヤの学生の、しかも女にしてやられて、仲間達からもはや無価値と判断された人間ですからね」
 ソラは思わず彼を睨んだが、向こうは学者のほうを向いたままだった。だがその横顔が、何かに応えるようににやっと笑う。
「残念です。多分、今俺ができることはこれだけです。みなさんに、俺らアルスス学徒が何を考えて、どういうふうに行動するか、つど解説をすることだけですね」
 彼は、暗に、自分の名前や、外見や、これまでの人気も、今となってはなんらの影響力もないですよ、と伝えていた。
 人々はその事実を既に十分分かっているとは言えなかった。なんらかの効果があるのではないかと期待していたのだ。非アルスス学者はどうしたって、人情とか、習慣性とか、常識とかいうものを勘案するからだ。
 だが、彼の説明を聞いて、イラカを説得者として起用してもほぼ無意味だということが了解される。
「……人を集めねばならんな」
 これまで何度も吐かれた言葉がさらなる重みと深刻さをもって繰り返される。
 時間は刻々と過ぎていく。現在、火災は鎮火したようで発煙は止まっているが、巡回者からは振動や騒音が報告され、中で戦闘が続いていることは明らかだった。
 学び舎を足場に身勝手な抗争を繰り広げるアルススの学徒たちが、どういう言語で書かれた勧告なら興味を持ち理解するのかは判明した。だが非アルスス学の学者達に、そんな言語を体現できそうな人間のアテはないのである。
 アルススの力は強大だ。
 彼らには武装した正規軍さえ、脅威ではない。
 あとは別の学校から別のアルスス学者を引っ張ってくるか。
 だが、アルスス学者とアルスス学者の喧嘩を仲裁するために、アルスス学者を連れて来たら、その後は一体どうなるのだろうか。無茶苦茶な話である。勝利者が新たな学院の権力者として居座ることになるだけかもしれない。
 実際においそれとできることではないし、そもそも、そんな手続きをやっている間に紛争の決着は着いてしまうだろう。
 何名かの、犠牲者の遺体を引き換えにして。
 『書院』に集まる学者達は、自分達がなにか絶望的な努力をしていると感じた。彼らは実際に、学問をし、生きる場所を彼らに不当に乗っ取られているのである。
 怒りと疲労、そして、何をしても無駄なのではないかという無力感が、室内を満たしそうになる。
 解体一歩手前の彼らを支えているのは、ただ、母校を思い切れない心だけであった。ここで諦めれば、あの偉大なルル・シル・カントンが築き上げた伝統ある学院が崩壊する。ただ、力の大きさだけを競い合う人間達がつかみ合いの喧嘩をする子どもの遊戯場に堕してしまう――。
 煮詰まった空気を変える必要があった。便宜的に議長の位置に座っていた学者が、一旦散会を宣言する。とりあえず夜以降の疲労を癒し、それぞれ相談なりして、何かいい知恵があれば、出してもらいたいと付け加えた。


 疲労した学者らは動き出したが、場を去るものは多くなかった。みな、首筋や痛む目元を指でこなしながら、あちこちで小さな集まりを作り、意見を交わし合う。
 数人は仮眠を取りにか、情報を集めるためか下宿を出て行き、代わりに入ってくるものもいた。そこにリリザの姿を認めて、一瞬イラカはおっと思うが、すぐソラたちが何事か話し始めたのでそちらへ意識を戻した。
 散会が告げられると同時に、ガニアとポリネがソラのところへやって来たのである。白髪交じりの渋い教官も、めがねをかけた小粒な教官も、どちらも真剣な面持ちだ。イラカもその輪に加わった。
「……ソラ。お願いがあるの」
「私も同じ考えだ。ネコ先生のところへ、行ってもらえないだろうか」
「……それは……」
 ソラは、喉元が押されたように苦しいので一度唾を飲み下した。
「介入を、お願いするためですか」
「そう。わたしね、なるほどって思ったの。さっきの、イラカの話」
 さすがにあの語は使わなかった。彼女は真剣だった。
「『裏庭のネコ』ならね。カイデン・ライカス・ネコの名前なら、間違いなく、彼らにも、通じるわ」
「先生は、あのクローヴィスと学友だった。クローヴィスと拮抗できる、ほぼ唯一の論敵であり、大学者だ」
「……」
「それにね、先生もこの事態に心を動かされないことはないと思うのよ。母校の危機なんだもの」
「先生も知る多くの心ある学者が、書院に集まり、困っていると伝えてくれないか。庵から出て、私達に加わり、事態の収拾に力を貸してくれるよう、要請して欲しい」
 イラカと、その斜め前にいたハンは視線を交わす。
 そしてソラの反応は、複雑なものだった。彼女は何か言いかけて頓挫し、自分の内心の混乱を表すようにぎゅっと、瞼を絞ったのである。



「お話は、分かります。……先生が強い力をお持ちのことも、よく分かっています。それが、争いを止める力になり得るというのも、先生方がそう仰るなら、そうかもしれません。試してみるべきだとは思います。
 ただ……。いくつか、大きな不安があります。……一つには、私が今、先生に対してとても申し訳ない立場にあるってことで、私は最初に試験の結果を先生に伝えなくてはなりません。力添えをいただいたにも関わらず、勝てなかったと、言わなくてはなりません。先生は気分を害されると思うんです。その上で、そんなお願いをするのは、許されないんじゃないかと思う気持ちがあります」
「確かに先生は、怒るかもしれないわ」
 ポリネの保証にソラの心が重くなる。
「でも、先生は極端な性格の方じゃない。あなたが努力したことは分かってくださるはずよ。それに、それどころじゃない非常事態が起きたのだということも」
「……先生は、価値判断が独特な方だから……」
 ガニアも苦しげに言葉を探しながら言い添える。
「どう出られるか、分からないところもある。確かに、ちょっと悪魔的なところもおありになる。だが、無理非道を通す方ではない。君のことは分かってくれるよ」
「どういう怪物なんだ」
 思わず、傍観しているイラカが漏らす。ハン・リ・ルクスも同感の顔つきだ。
「クラレイ・ファル・クローヴィスという怪物と互角に渡り合うことのできた唯一の怪物よ」
「じゃあなんで学院を追放されたんです」
 イラカがアルスス学の理を引きずって尋ねる。
「追放なんてされていない。先生はどこにいるの? 海の上よ。いつだって戻ってこられる。大人しく去ったのは、逆に痛くもかゆくもなかったからだわ。先生が『裏庭』に住み始めたとき、当時の学院長達が躍起になって追い出そうとしたのよ。でも、かなわなかった。誰も彼に命令したり縛ったりすることはできない。……だから、あの人を動かすのは、とても難しいことだけれど……」
 ポリネはソラを見つめた。
 そのネコを、現実に動かした彼女を。
 それには、彼女の出自や外見という、曖昧な偶然が果たした役割が極めて大きいかもしれなかった。ソラ自身もそれを自覚していた。
 だからこそ、疑問が湧きあがるのだ。海底にたまった泥が足の着地で巻き上がるように。
 彼女は、ハンや、イラカにもなんとなく事情が分かるよう、敢えて情報を省略しないで言った。
「……先生には……愛弟子が、いたんですよね。アガタさんという、東部出身で、ガニア先生やポリネ先生と、同世代の。そしてその女性は……若いまま亡くなったんですよね。クローヴィスの、私室で。不可解な状況で」
「え。なにそれ。聞いたことない」
 イラカが言うが、もう誰も彼に構わなかった。過去を知る二人の教官とソラは核心に触れ、その重さを分かち合っていた。
「先生はそのことで、クローヴィスのことも、アルススのことも、疑っておられる。その最大の仇となろうとなさってきたのが分かるし、今もそうなさってる。その先生が、こんな内紛の調停に、手を貸して下さるのでしょうか」
「……」
「……」
 全く、ソラの懸念の通りだった。ネコの知能の高さと鋭さを思えば思うだけ、そしてあの、しかとは姿を現さないが、あちこちからのぞく復讐心の強さを思えば思うほど、結果が不安だ。
 彼を説得するなら、愛校心とか、人質達の人命の危機とか、社会通念上の正義に訴える他ないが、ネコは、その全てを冷たく笑い飛ばしても不思議ではない。
 ソラにさえ、関与を禁じ、怒り出すかもしれない。
「それでも、このまま何もしないでいられるだろうか」
 しまいに、ガニアはソラの両肩に手を置いた。もはや力技だ。
「何もしなければ我々は、いくつもの遺体の前、そして荒れた学院の前で、後悔することになる。それは確かだ」
「……せ、先生たちも、来てくれませんか。一緒に」
 せめて、という彼女の眼差しにポリネとガニアは顔を見合わせた。
 答えはこうだった。
「「行けるものなら」」
 言う通りだ。
 ネコの庵は海の上。海にも引き潮があるから、渡っていけないことはないが、その姿は、隠されている。
 彼は自分の許した人間にしか道を開かない。
 結局ソラは、その試みを自分一人で行うしか、ないのである。


 それでも念のため、島の水際まで全員に着いてきてもらった。
 だが、現実は揺るぎないもので、誰の靴の下にも道はできない。弟子と認められたソラだけが、変わらずミハクの加護を受けることが出来た。
 全員の視線を受けて、ソラは、諦めた。
「……行ってきます」
 そして道を外れ、昼の海を渡っていく。多分イラカが、口の中で「マジか」と言ったが、振り返らなかった。そんな余裕はなかった。心臓が、肋骨の中で七転八倒している。いつかは、必ず来なければならないと分かっていたとは言え。
 途中で、思考を放棄した。どれだけ考えても、もう現実には追いつかない。
 ひとまず庵に無事着くことだけを考え、我ながら強張った顔つきのまま、順に足を動かして前へ前へと進み続けた。
 真昼の海は熱かった。日光が髪を焼いて、波の照り返しに目も眩んできた頃、庵が、微かに水蒸気が渦巻く熱い水面の上に、夢のように現れた。





『賢い犯罪者などというものは存在しない。
 愚か者だけが、犯罪という手段を選ぶのだ』
 そう随想に書き記したのは、さてどこの学者だったか。
 その人物は、犯罪者を賛美したり、優美な犯罪者になろうと希望する連中がいるが、馬鹿げた風潮だ。様々な手間、労力、危険、自己破壊、子孫断絶にかかる影響を考えた時、どの社会においても、犯罪は必ず損になるように出来ており、犯罪者は一見どれほど頭がよさそうに見えても、犯罪を選んだ時点で、所詮は計算が下手な馬鹿者に過ぎない、と言っているのである。
 ちなみにこの警句には『憐れな犯罪者は存在する。』というシメの一文があって、選択の余地なく犯罪に手を染めてしまう人間の事情にも配慮をしている。
 学者とは、計算をする生き物だ。自らの信仰年数にその熱量を掛け、偶然性を加味して、何十年も後に神から受け取れるであろう報酬を常に試算し動いている。無学な徒は、若い頃の彼らの生活を見て、金にもならない道楽をしてと笑うが、学者はその実、無駄なことは一切しないものである。
 カイデン・ライカス・ネコは、海の上に暮らしていたが、外を見ることを知らない人間ではなかった。
 まして技能工芸学院の方角は尚更である。
 昨夜、学期末を迎えたはずの学院で煙が上がり鐘が鳴った。クローヴィスが死んだ時と同じ鳴らされ方だった。
 そもそも院では時報以外に鐘を鳴らすいかなる規則もない。ルル・シル・カントンが死去した時、あまりの悲哀に弟子の一人が鐘楼に登って鐘を鳴らしたという記録はあるが、あくまでも逸脱だ。
 従って、カントン死去、あるいはクローヴィスの死去に匹敵する大事が起きたと判断するのが適当だった。
 さて、今彼には弟子扱いの女生徒が一人いるのである。騒ぎに巻き込まれたかもしれないと心配すべきだろうか。
 心配すべきではない。
 深夜に彼女が学院に残っている可能性はないからだ。実習で怪我を負っても、下宿に戻れないほどではないだろう。それに彼女は無傷に近いはずである。何故なら、指輪のうち一つが砕けたからだ。
 実際に身を守れもしないような工芸品を与えはしない。彼女は無事で、普段の行動から考えても、早々に下宿に戻ったはずである。勝敗までは分からない。現時点では判断できないし、また大した問題ではない。
 それでは、夜間に院内にいたのは、誰だろうか。学期末。実習試験の最終日。講義は既に全て終了している。ただ、学院長達が、恒例のやくたいもない酒宴を学長室で繰り広げていたはずである。
 それに何を加えたら、発煙があり、カントン死亡にも値する(と、人が考える)結果になるか。
 ――謀略、か。
 他学派を排除して学院を牛耳るアルスス学派も、内部では幾つもの派閥を形成して相争っている。またしても、計算の出来ない愚か者が、酒宴の隙を突いて学長職を奪おうと行動を起こした――。そんなところだろうか。
 ネコは、庵から一歩も動かないまま、既に事態のほとんど全てを把握しようとしていた。
 無論、これはまだ仮説に過ぎず、今後、事実を集めて検証をしていくのである。
 彼は街へ出ても良かった。しかし、そうせず、弟子が報告に現れるのを待った。さすがに、いつ彼女が現れるかまでは予測がつかない。急いで街へ出て、混乱した二次的な情報を集めるよりも、ここで確実な報告を待ったほうがよいと計算した。
 ネコは決してのんびり屋ではない。だが、自らの計算罫の内部のことであれば、いくらでも時間を消費して待つことが出来た。
 果たして、昼。彼の領海に入ろうとする者があった。
 それは糸を発する昆虫の巣と同様の技術で、触れる気配によって、なんとなく誰が現れたか術者に知れるのである。無論神の力であって、人間業ではない。
 ソラだった。待望の報告を持ってやって来たのだ。
 ネコの頭は予想を始めた。まず最初の答えはどうだろうか。
 彼女は果たして、自分の望むとおりの立ち位置へたどり着いただろうか。それとも、逆だろうか。
 同じ戦いを、ネコは前にもしたことがある。
 大きな分岐になる。今後、彼女が自分にとってどのような存在になるか――。
 足音が近づいてくる。ネコは待っていた。
 やがて扉が開いた。



「来るのが遅くなりました。申し訳ありません」
 少女ソラの報告は謝罪から始まった。予想の通りで、東の人間はだいたいこうだ。
 謙虚で、謝るのが苦でないらしい。相手を立ててすぐに恐れ入る。それでいて、基盤はおそろしく頑冥なのだが。
「結果を聞こうか」
 ネコは机の前の椅子に腰掛け、足を組み上げて、促した。
 悠然とした態度の後ろで、頭脳が、答えを待っていた。
 ソラは言った。
「申し訳ありません。負けました」
 ――その答えを受け取って、計算は忙しく失望の園を広がっていく。
「そうか。指輪は二つ。一つは砕け、一つはほとんど飾りも同然だな」
「はい。命を救われました。ありがとうございます。一度、イラカを、撃とうと思ったのですが」
 撃てなかったか。
 ――不甲斐ないことだ。
 残念至極だった。
 思い切り撃ち抜けば、その手ごたえは、人を変える。
 躊躇なければ二度と、この少女はアルススと関わることはなかった。やりたくてもできなくなるのだ。
 一度でも敵だと思い、それを完全に破砕しようとしたものとは、交われるものではない。人間の心は、それほど簡単に出来てはいない。罪悪感がいい仕事をする。
 しかし、ネコの目論見は外れた。彼の期待にも関わらず、またしても少女は、アルススやクローヴィスと絶対的に反発する存在にはなりえなかったのである。
「――まあいい」
 ネコは失望をため息として吐き出したはしたものの、そう言った。
 この六十手前の人間は、それで癇癪を起こすほど幼稚な人間ではなかった。
 それに、薄々、予測してもいた。人の心はそう易々と好き勝手にはならない。
 一度目の挫折は、簡単に受け取れたとは言えない。だがそのおかげで、二度目の挫折は、それより易く受け入れられる。
 彼女も、このソラも、憎悪的人間ではないから、難しいのだ。
「残念ではあるが、付け焼刃の戦闘術で健闘したとも言える。それに、少なくともアルススなど恐れるに足りないことは分かっただろう。相手のイラカとかいう生徒はどうだね? 無体な要求をされて困っているのではないかね?」
「それが……」
 ソラは言葉と目線を泳がせた。ネコは何か、嫌な予感がした。
 彼女は、困ると露らになる、世慣れぬ少女らしいたどたどしさで、口ごもりながら言った。
「……完全に、向こうの勝ちなんです。だって護符は二つとも取ったんですから。でも、彼は……『負けた』と」
「何?」
「私が、彼の体力を完全に奪ったかららしいです。実習が終わった後、彼は気絶した私を運んでくれました。その後、救護室で再会したんですが、その時にもう、『これじゃ勝ったかどうか分からない』と言っていて。朝に……東の友達づてに、伝えてきました。『負けた』と。――さっきも、会ってきたのですが、……もうなんか、馴れ馴れしくて、友達みたいな感じで。或いは私のことを、認めてくれたみたいな、感じで……」
 ネコは、賢人だったから、彼女がどのような状況を伝えようとしたのかすぐに理解した。
 イル・カフカス・イラカという、その、クローヴィスにそっくりだというアルスス学徒は、それほど馬鹿ではなかったということだ。器が大きく、柔軟性があり、『敗北』を無駄にしなかった。成長を見せ、それを運んできたソラに対しても態度が変わった。
 そしてソラもまた、彼を憎む機会を逸したのだ。
 寧ろ、彼らは勝負を経て、人間的に接近したらしい。
 下らんな、と思ったのはネコの勝手であり、老人性の僻みだろう。
 ――ここまでかもしれんな。
 ネコは計算を続けながら、思った。
 話を聞いて分かったのは、イラカはクローヴィスではないということだ。クローヴィスはそんな爽やかな人間ではなかった。人は彼を神格化し、風評はより穏当な方向へ事実を捻じ曲げる。
 が、あの男は、暗い男だった。幸福感のかけらもない。孤独で、危険で、雰囲気のおかしい男だった。
 喧嘩の末に、潔く負けを認め、その相手と友情が築けるようなまっとうな人間ではなかったのだ。
 ……過去への拘りから、偶然出会った少女に肩入れをしてしまったが、ここまでかもしれない。
 少女はアガタではなく、少年はクローヴィスではなかったのだ。ならば、自分が彼らにこれ以上手出しをする理由はない。
 ネコは彼女の一件が、ある一区切りを迎えたと感じた。もう庵に毎日通わせる必要もないだろう。後は人脈も広がり、勝手に成長していくはずだ。
 ソラには、学問の仕方を教えてやり、社会での生き方の基本を教えてやった。既に干渉が過ぎている。
 今後は学校での地位も向上するだろうし、助手として、適当に面倒を見ながら、資料集めや情報集めを任せてみるのがいいかもしれない。
 来学期があれば、だが――。
 ネコは、ソラの故郷の話を誇張だと思ってはいなかった。帰省して、もう戻ってこない可能性も十分あると考えていたのである。
 それは彼の手からはみ出す問題だ。彼女自身が対処するしかない。そろそろ、本題に移ろう――。
 こうして、一つの問題が閉じたのを感じて、ネコは、静かに思考と質問の内容を切り替えた。
 ところが、重要な情報を得るために始めた次の話が、彼を再び、さらに大きく、ソラ自身へと引き戻すことになったのである。
「ところで、学院で何か騒ぎが起きているようだが、何事かね?」
「は、はい。実は、昨夜、学院で騒ぎが……」
 ソラは一生懸命説明し始めた。鐘が鳴って駆けつけたところ、門が封鎖され、転覆が宣言されて、現在も中に入れないこと。学院長を始め相当数の人質がおり、一部は監禁を逃れ抵抗をしている様子があること。火事は抵抗の証左と思われ、現在は鎮火したが、やはり戦闘は続いているようだ、ということなどだ。
 ネコの仮説を墨でなぞるような説明だった。
「下らんことを始めたものだな」
 腐した言葉の後ろでは、院内の状況についての計算が高速で走っていた。仮定が事実として確定したので、次の計算が始まったのだ。学院長――副学院長バルバス――火災の場所――聖堂。
 ソラの懸命な話は続いていた。否、寧ろ、彼女にとっては、これからが本題だったのだ。
「ネコ先生。この争いを収めるために、学院へお越し頂けないでしょうか」




 淵に手を掛け、一心に中を覗き込もうとする子どものような目が、記憶の双眸と一致した。




「――なんだと」
 時折、ネコの計算は、彼自身の意識を出し抜くほどに早かった。
 彼はその時もう結果を手にしていた。
 ソラの返事が、それを嫌になるほどいちいち裏打ちして行った。
「このままでは、死者が出ます。いえ、もう出ているかもしれません。居合わせた教授や学生が集まって、停戦の勧告を発表しましたが、無視されました。私達だけでは力が足りないんです。先生の仲裁なら彼らも態度が違うはずです。こんな時に、こんなことをお願いして本当に申し訳なく思いますが、どうか問題を解決するために、お力をお貸し頂けないでしょうか」
 丁寧な、馬鹿丁寧な口調。愚かなほど、真正直な。
 それが彼に思い出させる。
 そして計算を裏打ちする。ネコの手足を、痺れさせる。
「……どうして」
「え?」
「どうして私が出なければならないのかね? 連中の争いの仲裁などに」
 少女は怯む。同じだ。
 だが、負けん気を出して必死に食い下がる。同じだ。
「だって、まだ間に合うかもしれません! 介入して戦いを終わらせ、抵抗している人たちを助けないと。そうしなければ、いずれ、打破されてしまいます……!」
「奴らがどうなろうが、知ったことではないではないか。身内で潰し合って万々歳だ。君になんの関係がある」
「そ、そんなふうには考えられません。目の前に、困った人がいるのに。命の危険がある人がいるのに!」
「――どうしてだね」
 ネコは、再び言った。
 無数の思惑が走って、彼の体の中に雨のような音を立てていた。
「君はどうしてそんなに簡単に、目の前の敵に同情してしまうのだ」
 彼の目の前には細い少女がいる。
 若くて、無防備で、未熟な。
 少しも強くないくせに、いつも人を、救おうとする。
 シギヤの。
「奴らが君を迫害してきたアルスス派だということを忘れたのか?」
「……わ、忘れていません。でも、それだからと言って……!」
「何故いい気味だと思わないのだね。どうして係わり合いにならないようにしようと思わないのかね。どうして君は、そんなに簡単に、気の毒なものに気を許して、自分を与えようとしてしまうのかね。それが、君を、壊すかもしれないのに!」
「えっ?」
 話の筋道を失ったかのように、ソラが困惑の表情を見せる。




 ――彼に近づくのは止めたまえ。危険だ。
 ……でも。
 ――私の言うことを信じないのかね、アガタ。
 ……でも。


 でも。先生。お気の毒です。




 シギヤの徒は、まったく救いがたい。
 さあ、今ひとたび、自分は、この少女をアガタと同一視した。
 そうして、どうする?
 アガタと同じように、この少女もまた、正義感から、同情心から、馬鹿げてたやすく彼らに接近してしまう。
 あれほど迫害され、全力を込めて対立しても、たった一筋の煙で忘れてしまう。
 シギヤだから、そうなのか。
 こうだから、シギヤの徒なのか。
 この少女の魂を変えることは、不可能だ。
 だが自分はそれを許せない。
 同じことが起きるのは許せない。
 二度と学院にさえ近寄らせたくない。奴らの餌食にしたくない。
 ――では、どうする?
 説得し脅迫するか。無駄だ。アガタにさんざんやった。
 幽閉するか。それも手だ。
 洗脳し下僕にするか。その忌々しい魂を、抜いてしまって――本人がまったく気付かないうちに。
 簡単ではない。しかし可能だ。自分になら。


 ソラの体が、一瞬ピクリと波打った。
 自分でも意識しなかったかもしれない。彼女の生物としての本能がただ、相手の魂を走り抜けた禍の影に反応したのである。



 ネコは、明るく、聡明だが、同時にあらゆることを考える人間だった。
 小心な人々のように、道徳の柵を立てて予め思考を縛ることはなかった。
 あるのは、善も悲惨も含めた膨大な知識。そして、先人達の知恵の導きである。
 実際にネコは考えた。ソラをこの庵から出さないことを。
 完全に意のままになる、竦みあがった存在にして、自分の心配を消すことを。
 何故なら、彼女が自由に生きている限り、懸念は消えないからだ。彼女が、彼女でなくなるか、或いは、再び彼の前に死体として横たわるまでは、ネコは決して安堵できない。
 悪夢の再来に怯え続けなければならないのである。
 それは犯罪者の思考だった。
 殺されるのが嫌だから殺してしまおうという、狂ってはいるが、一人の人間の計算罫の中では完全に理屈の通った思考である。
 そのまま枝を伸ばそうとした悪の計算は、しかし次の瞬間、打ち消された。中央を疾走してきた別の計算との衝突によって。
 彼の中には、もっと大きな、重要な目的のための複雑な計算が、平行して、絶えず走り続けているのである。
 その冷静な分析によれば、彼はそんな計画を完遂できない。気力がないし、時間もない。所詮思いつきは長続きしない。彼女に似ているというだけのソラは、継続的な力を引き出すほどの存在ではない。
 その上、たかが一つの怒り、一つの不安を消すために、ここで強硬な手段をとれば、さまざまな理由によって本来の目的の完遂が阻害される公算は極めて強くなってしまう――。
 そうだ。
 自分にとって最も重要なのは、アガタとクローヴィスであって、ソラではないのだ。
 そのためだけに、全てを捨てて、こうして『裏庭』で時機を待っている。
 また裏切られて、腹は立つが、利益は出ない。
 計算は終わった。
 損だ。
 幾度計算しても。
 ネコは、犯罪者となるには、賢すぎる男だった。



「お断りする」
 沈黙は、それほど長くなかった。実際、一瞬だった。
 だが、無数の海流がそのはざ間を走って行った気配があった。
 ソラはそれをほとんど感じ取れなかった。ただ一度、大きな黒い魚が横切っていったような気がしただけ。
 現実として彼女が理解できるのはただ、ネコの言葉と、ネコの態度だけだ。
「連中の自滅を止める気はない。私はアルススの永遠の敵なのだ」


 ――そうだ。それでいい。
 計算がネコの答えを肯定した。
 まだ、自分は、『裏庭』から出てはならない。
 あらゆる意味で。
 要求を撥ねつけよ。
 この選択は正しい。分かる。
 この選択が、いずれ自分の望む未来と結びつくに違いない――。


「君には失望した」
 ソラが分かるのは彼の言葉だけだ。
「二度と私の前に現れるな。破門だ」





「二度と私の前に現れるな。破門だ」
 そう言われた彼女は、この出来事をこう受け取った。
 自分は、自分の弱さから、ネコの応援を無にし、工芸品を無駄にした。それについてネコは始め許してくれた。だが、その上、アルススの内紛を仲裁してもらえないかという身の程知らずな提案をするにいたって、彼を完全に怒らせ、失望させ、その場で破門を言い渡されてされてしまった――。
 彼女にはそう受け取るほかない。
 事前に、予想していなかったわけではないとは言え、やはり現実に切り捨てられては普通ではいられなかった。
「せ、先生……」
「消えたまえ。機材の類は、呉れてやる」
 ネコはさっさと丸い顎を反らして机の方へ視線を落としながら低い声で言った。
「消えなければ、攻撃する」
 ――本気だ。
 脳天をその認識が突いた。ソラは、衝撃のあまり視界の明度を失い、めまいを覚えた。
「あ……あ……」
 ネコの怒りを感じた。自分は決して踏み込んではならない場所へ踏み込んでしまったらしい。
 今すぐここから、立ち去らねば。
 ソラは、彼が見ていないことを承知で、深く頭を下げた。
「すみませんでした」
 また謝ってしまった。
 けれど、謝ったけれど、こうは言えない。
 私が間違っていましたとは。
 やっぱり彼らの命などどうでもいいです。仰ることに従います、とは。
 実習の前にも感じたことだった。そしてソラは、ポリネの応援を受け、自分を優先する決意を固めたのだ。
 思えばあのときから、自分は既に弟子失格だったのかもしれない。この師匠の復讐心を、ついに自分のものとすることはできなかった。
 奥歯に深く噛み締めた後、彼女はやっとこれだけ、付け加えた。
「――これまで、ありがとうございました」
 くるりと振り返って駆け出した。
 気を張って懸命にこらえたつもりだったが、庵の出入り口の敷居の上に、涙を一粒、こぼしてしまった。



 白色に照りかえる死ぬように熱い海の上を、走った。
 唯一の居場所となった学院へ向けて。
 だが、その居場所を持てたのは誰のおかげだ。
 ネコのおかげではないか。
 こんなにも力強く走れるのは誰のおかげだ。
 ネコのおかげではないか。
 数々の教え、実験、言葉、知識。
 私は恩を、仇で返してしまった――。
 思った瞬間、靴の下の海が抜けた。
 ソラの体は水中へ落ちた。いきなりだったのでその冷たさ、痛さ、呼吸できない恐怖に、頭が真っ白になった。
 ネコが、魔法を解いたのだ。
 二度と彼女がここへ来られないように。
 溺れ死んでも構わないのかもしれない。
 始めからネコには、確かに意地悪な部分もあった。もはや遠慮に及ばすということだろうか――。
 幸いに、彼女が走ったので島には近かった。潮も引き気味だった。
 島の入り口で待っていた仲間達は、いきなり近付きつつあった彼女の姿が海中に没したので驚愕した。一番小柄なはずのポリネが真っ先に飛び込んで彼女の元へ近づいた。
 男達もやがて腰まで水に浸かって彼女らを引き上げ、しまいには全員が水浸しになって、『巌書院』に戻った。
 ソラは毛布を被り、海の冷たさで真っ青になった唇を震わせるばかりで、しばらくものも言わなかった。
 彼らはそれで、ネコの返答はどうだったのか、彼女がネコからどんな扱いを受けたか、知ることが出来た。


 状況が一向に好転しないまま、島は二度目の夜を、迎えようとしていた。




(つづく)
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