15


 死神タルに仕える老人ホーデの来訪は、じりじりと待つばかりであった『書院派』の人々に行動の糸口を与えた。
 しかし、その禍も大きかった。
 これまで忍耐強く元気だったポリネが不調を訴え、他の数人と共に、書院に居残ることになった。
「大丈夫か」
 と、気遣うガニアに返事もしない。
「……そんな顔をしていては確かに怪しまれるかもしれん。ポリネ博士はここを守っているほうがいいだろう。先に行く」
 議長役の博士が夜用の外套のフードを深く被ると、仲間達と一緒に道へ出て行った。
 自分も行こうとしたガニアの手を、ポリネの青白い手がつかんだ。見返すと、彼女の顔は本当に真っ青だ。声は落ち着いていたが、それがかえって動揺の深さを示していた。
「……ガニア。本当に、していいの。本当にあいつを、起こすの。――わたし、わたし……怖い」
 それから彼女は続けた。だって、そんな、怪物よ。一体誰がこれまで、そんな方法でこの世をごまかし、生き延びてきたというの。
 病を癒すためにアルススのみどり児になった。すべての生存をアルススに依存して? その大きな術の対価はどこから出ているの?
 ――彼は一体何をしたの。
 私達のともだちに何をしたの。
 ガニアはぎゅっと手を握り返して彼女の恐怖に駆られた言葉を止めた。
「十七年間、俺達は疑いだけを与えられ、苦しまなければならなかった。彼だけが、答えを知っている。……知らなければならない。ここで止まるわけには行かない」
「…………」
 止まる。
 それは、学問がただ一つ持っていない特性だ。
 何もかも止まっていれば幸福だったのだと主張する者もある。原始時代の生活が生物としては最上だったという考えだ。
 だが、人間の頭脳に埋め込まれた学問はそれを許さない。
 地上のありとあらゆる分野に手を伸ばし、眠っていた神さえも揺り起こしてこの世の有様を変えていく。
「留守を頼む」
 ガニアは、ぐったりとなったポリネの小さな手を、もう一度ぎゅっと握ってから離した。
 みな、彼のために出発を待っているのだ。
 出口に向かう階段の上から、これまた何かの理由で遅れていたらしいアルススの女生徒リリザが駆け下りて来てガニアの動線と重なった。
「何してたんだよ」
「ごめんなさい。ちょっと」
 すぐ集団にまぎれ、イラカと水鳥のように会話をしている。
 ガニアが加わると、彼らは頷きを交わし、それから動き出した。夜明けまで四時間程度の真夜中で、建物に切り取られた空には、別の季節の星座が出ていた。
 さすがに冷え込む夜気に喉を震わせながら、彼らは螺旋の上半分にあたる坂を上り、学院へと向かう。靴音や、ベルトと衣がこすれあって軋む音、装飾品や持ち物の金具の音が霧の中に響く。
「――してやられた気がします」
 前を歩く、道具を抱えた教官や、黒い服を着たホーデ博士の小さな背を見ながら、ハンがソラに囁いた。
「僕なら、断らないでしょう。僕が最初に同意すれば、みんな断りにくくなりますからね」
「……そうかもね」
 ソラは応えたが、正直、小さいことを言っているなと思った。今更、指名の順序の話とは。
 誠にハンは東の男で、動揺した時ほど、言ってもしょうがないような細かいことを主張し始めるのだ。
 ソラもまた――わなないていたが、寒さのためなのか、恐怖のためなのか、それとも好奇心のために興奮しているからなのか、もう自分でも分からなかった。
 ただ、物事の核心へ、見えない力によって否応なく引きずり込まれている感じがする。ハンも、結局、そういう内心を表現したいのだろう。砂に飲まれる昆虫のようで、自由がないと言いたいのだ。
 アルススを起こした時のクローヴィスも、こんな気分だったのだろうか。それとも、彼はもっと能動的だったろうか。僅かな手がかりを浅瀬の岩のように渡って、道ならぬ道を、力強く自分で拓いていったのだろうか。
 彼らはそうではない。事態に引きずられているだけだ。この先に、確かに事態を打開する方策があるという。だが――
 一体、本当なんだろうか?
 あの、壁の中のクローヴィスが、生きているというのは?
 アルススの赤子となって、十七年。眠っていただけだというのは?
 そんな、人を馬鹿にした、途方もない話が?
 いつの間に、自分達はそんな呪われた核心と関与することになっていたのか?
 事は学院全体に及ぶとは言え、結句はアルススの話ではないか。自分達はシギヤだ。それが、異常な巡り会わせの末に、自分達の手の中に転がり込んできた。
 本来、こんなことはありえない。内乱が起きたから。学院が占拠されたから。それ以前に、さっさと帰省せずに実習試験に関わって居残るようなことになったから――。
 もう何もかも、ありえない話ばかりだ。
 彼らは、自分達が、天上の星座と同じように、本来の位置とされる場所からずれていると感じた。最初にそこからはみ出したのは確かにソラだ。ハンはそれに引きずられた。ただ、そのことに慣れたり、是正したりするより先に、次々と新しい事態が起き、さらに思いも寄らない位置へと、流されてしまう。追いつかない。
 歩きながら、つくづく、ソラは思った。
 ほんの半年前。入学した時の自分と、なんという違い!
 誰が学院が燃えるなんて想像した? 昔は歪んではいたが、平穏な日々だった!
 自分達の頭上で、音もなく、一晩かけてゆっくり動く、壮大な天の気配。
 恐ろしい。ソラは震えた。ポリネの戸惑いと不調が分かる。彼女は、『ちょっと待って』と言いたいのだ。考えたいから。追いつかないから。一旦、止まって欲しい。ソラもそうだ。
 だが、空の運行は止まらない。今はその時ではないらしい。ポリネのように実際に動けなくはならなくても、誰もが、心の中に開いていくばかりの落差を覚えて青ざめていた。二日前の昼歩いた道を、今は夜しのび歩くという恐怖。自分達の立ち位置が、二日前とはもう全然違うという戸惑い――。
 集団は、ほとんど黙りこくって、一塊の機械のような黒い島の内部を進んだ。
 申し合わせていた地点まで来た。貴石を売る古い商店の角で、彼らは二班に別れた。
「最善を尽くす。無事で」
 互いに囁くように言葉を交し合った後、それぞれの班長に従って別の方向へ歩き出す。
 ソラとハンのいる侵入班は、側面へ回りこんで奥へ進み、講義棟の真裏を守る壁を越す手はずになっていた。周辺は古びた下宿が立ち並ぶばかりの静かな界隈であるし、壁の向こうは木立になる。最も目立たない地点だと判断されたのだ。
 だが、その地点に着いた彼らは、聳える現実の壁の高さを前にして、やっぱり怯んだ。
 島は中央に行けば行くだけ、標高が高くなるので、どうしてもこうなる。自分達の立ち位置から見上げると、壁は優に、背丈の倍ほども高さがあった。
 彼らは戸惑い、考える。『これは無理じゃないか』。『本当にこんなもの、越えていけるのだろうか』と。
 ところが、次の瞬間にはめいめいが気を取り直し、目標を達成すべく頭を働かせ、努力と工夫を始めるのである。
 まるで、それが血にすり込まれた本能だとでも言うように。これほどの葛藤に足をとられているというのに。運行を止めないのは天ばかりではない。
 教官らはあらかじめ、縄と銛を携帯していた。壁の高さが目測で測りなおされ、二本の縄が結び合わされて長さが足される。先端につける銛も、一回り大きなものに取り替えられた。
 そして、どこから投げ込めば壁を上手に越せるか、計算が行われ、話し合われる。
 縄をつけた銛を投げ込むのは、一番筋力のありそうな学生の一人である。彼は、作業を主導する地学教授に一度ちょっと練習をさせてくれと言い、路傍の石を拾い上げて、ひゅっと投げ込んで見せた。
 石は見事に壁を越して、木立の広げる闇の中へ消えていく。
 その石と、銛の質量の違いから、学生は、「じゃあ、何倍の力で……」などとさらに予測を立てていく。地学者は、こういう力学の計算が、得意である。
 ソラは、そもそも偶発的に侵入組に入れられたので、出番がない。なんだかぼうっとして、その有様を見ていたら、いつの間にか死神がすぐ隣に立っていた。
 彼は小柄なソラよりもさらに背が低い。大きなフードから鼻先だけが出ている。見えないだろうと思って窺っていると、「何か言いたげだの」と声をかけられた。
 それから顔が傾けられて、黄金色の左目が彼女を見る。何度見ても、不思議な瞳だった。全部がその表面で跳ね返って、内部が窺い知れないのだ。
「工夫をしてるな、と思ってるだけです」
 どうしようもない苛立ちに駆られて視線を反らしたソラは、普段の礼儀も忘れて、思わずつっけんどんな声を出した。
 だがそれは、自分の弱さだと承知していたので、会話は続ける。
「……工夫して、学習して、挑戦して、訂正して」
「そして、壁を越していくの。学問の醍醐味だの」
 そうだ。ひとたび学問にとりつかれた人間は誰でも、その繰り返しに身を投じて、始めの立ち位置から遠くへ、さらに遠くへ行こうとする。
 倦むことを知らない。諦めない。学問が絶える場所はあっても、学問があるならば、それは必ず、前進を内包する――。
 ソラは、薄い稲妻が背筋を走りぬけるのを感じた。
 皮膚の下に閉じ込めて隠せるほどの震えだ。ただ、それが彼女に、目を閉じさせる。
「学問に、後退はない。ならばそれは、前進性ではなく、後退機能の欠如ではないのですか?」
 老人は、肩を揺すり、低く笑った。
「鏡面問答を始めるか。疲れとるの。おぬし」
「からかわないで下さい」
「まあよいわ。死神と鏡面問答するも学者の特権。答えたろう。学問に後退なし。停止さえなし。停止するのは人間だけよ。学者は死ぬ。しかし学問は死なぬ。その神に関わる意志のあるならば必ず流れていく。何年も前に捨て置かれた理が見直されることもある。だがそれも再発見であって、後退ではなし。学問は――」
 老人はにやりと笑った。
「かつて『気の病』とも言われた。神に現を抜かして人間がどうでもよくなる。気狂いどもを集めて、せめて枠に嵌め、世界に馴染むもののようにした調教師が、かのカントンよ。枠に嵌りきらなんだ一葉が、我らがタルの徒よ。それでも、首輪くらいは、つけられたかの」
 今度こそ、と、調整を終えた銛を投げ込もうとしている生徒らを、遠い目で見つめながら、「ならば――」と、ソラは言った。
「学問は、坂を転がっていく石ですか」
 老人が低いところでしのび笑う気配があった。
 彼は言った。
「おぬしは、学問に向いておらぬ」



 目の前で銛が投げ込まれ、壁の向こうへ消えていくと、さっさとソラの傍を離れて、彼らの方へ行ってしまった。
 老人の言葉はソラの胸にざっくりと刺さって残された。
 彼女は、初めて、学問そのものに疑いを抱き、それを老人に指摘されたのだ。
 彼女は学問を愛していると思っていた。それは人間的に何か善であると感じてきた。何になりたいかと問われて素直に答えられる状況なら、学者にと答えた。
 だが今、彼女はそれを手放しで賞賛できなくなっていた。学問は、不気味なものだと思った。少なくとも、最先端を突き続けることに対する奇妙な苦さと畏怖を、彼女は、味わっていた。
 くたびれた。不愉快だ。一度、休みたい。心がそう言ってるのに。
 どれほど彼女が躊躇をしても、止まらない。どんどんと進んで弱気な人間をひねり潰す。
 銛は見事、壁の向こうの地面に刺さった。地神クライシュ学の教授が術をかけて、その周辺の地面を固定する。
 銛を投げ込んだ生徒が、縄の終端を自分の体に巻きつけ、結ぶ。それから、ぴんと張った縄を手繰ると壁に足を着け、そこからは腕の力だけで、壁を登っていく。
 彼は苦労した。見ていてもはらはらするほど時間がかかった。誰かが不安に耐え切れず、アルススの連中なら一発だがなあ、と漏らす。確かにそうだろう。
 それでも、彼は見事に壁の上へたどり着き、縄を解いて下ろして寄越した。次にはハンが同じ手順で、気の毒なほど懸命に壁を登る。その間に、彼の体重で緊張する縄を辿って、壁の上の生徒が敷地内へ先に降りる。
 この手順を繰り返して、四人が敷地の向こうへ下りた。残りは男性三人と、ソラ。そしてホーデ博士である。
 博士は軽いので、若い男性教官が引きうけ、縄で体を連結した後、ご苦労にも二人分の体重をこらえながら登って行った。既に侵入した男達が、さすがに縄を引っ張って援護する。
 ぶらりと宙にぶら下がって揺れるホーデ博士はなんだかお土産みたいだった。
 彼らが壁の上に到着すると、縄が投げ返される。ソラはまだ上らず、残り一人がそれを共に掴んで踏ん張る。
 二人分の体は、重かった。彼女一人では支えきれない。途中でいきなり手ごたえが軽くなったと思ったら、めきめき、と枝の折れる音とあーという気の抜けた小さな悲鳴が壁の向こうから聞こえた。
 どうやら、下りる途中で、落ちたらしい。
 大丈夫かと心配になったが、いつまでも待っているわけにもいかない。縄が完全に弛緩すると、すぐに残りの男性教官がソラをせかした。彼は、始めに銛の突端を固定したクライシュ学の教官だ。
「さあ、君も行きなさい」
「……あの、でも。これ、教授はどうなさるんですか?」
「話を聞いてなかったな?」
 暗闇の中で教授は彼女を嗜める。
「自分は非力だ。残って待機する。退路の確保の意味合いもある」
 すみません、とソラは謝った。ぼうっとしていたせいだ。疲れもあるかもしれない。或いはもう、理解したくないとも思っているのかもしれなかった。
 彼女は完全に分裂していた。一方で、このまま家に帰って寝られるかと言えば、寝られるわけもない。混乱し、決断力と集中力を失くして、流されるばかりになっているのだ。
 とまれ、腰の回りに縄を回し、しっかり固定してもらって、壁を登った。
 迷惑をかけてはいけないという一念だけで、自棄気味にがんばったが、ほとんど男達に吊られた感は否めない。ネコの鍛錬も、腕力にはあまり及んでいなかった。
 壁の上に辿りついた時、一気に眺望が開けた。木立の向こうに広がる、懐かしい学び舎。闇にもぼうと浮かび上がる白い石造りの建物と、円筒形の聖堂。
 汗を浮かべた額に夜風が涼しく、ソラは、寧ろずっとここにいたいくらいだった。
 だが、彼女は縄を解き、それを一人残る教官に投げ返さなければならなかった。彼一人では支えきれないので、彼はそれで残った銛をくくって大地に刺し、それから、術で固定するのである。
 縄を支えに、ソラはなんとか壁を下りた。下りる時もしんどかった。手が痛い。誰かが落下したのも分かる気がする。
 男達の突き出す掌の上にたどり着いてみると、脇に派手につぶれたコンスの低木があって、青臭い匂いがした。その脇で、ホーデ博士が黒の衣服を揺すって葉っぱや小枝を落としている。
 どうやら落ちたのは博士らしい。
「かまわぬのかまわぬの。タルの慈悲にかかるなら、本望だの」
 死の信徒にとって死は、最上の慈悲の沙汰であるらしかった。
 ソラはなんだか、分からないでもなかった。
 この、めまぐるしい、厄介な、異常な出来事の連続。
 死だけがそれを終わらせることをできるのだ。厄介は連続していても、自分だけは、引退して休むことができる。
 やはり、ソラは疲れていた。
 休息が欲しかった。
 だが、教官らは、若い彼女より遥かに忍耐強く不屈だった。予定した全員が揃うと、ろくに言葉も交わさず、すぐさま聖堂へ移動を開始する。
 院内は、静かだった。まるで、実習のときに見た、太古の遺跡の中のようだった。
 高い技術水準だけが窺われる、無人の建造物。
 が、実際にはそんなはずはない。たいまつを持った学者が二人、奥から出てくるのを見て、彼らは建物の影に慌てて退避する。
 そのぼやくような声の端をつかみ取るに、彼らは正門に向かっているところらしかった。
「まったく忌々しい……。ただでさえてこずっているのに! 雑魚どもが」
「学院長があれほど抵抗するとは、博士も思ってなかったようだ」
「鎮圧隊も生ぬるい! 何が疲れただ。甘えている!」
 彼らが通り過ぎて、三十秒もした後、誰かが言った。
「……正門班が、やってくれているようだな」
「行くぞ」
 彼らは再び、闇夜を歩き出した。
 ソラの呆然もさすがに緊張に塗りつぶされていた。いつも軽々と移動していた距離が、今は無限なくらいに遠い。
 だが、つまりは、この敷地の広さが彼らを助けた。学院を占拠している副学院長派も、敷地内の全てを統括できるほどの人員はなかったのである。まして院長派は抵抗を続け、正門にはやかましい雑学の徒が抗議の声を上げている。
 学院の象徴ではあるものの、普段、特定の機能を果たしているわけではない中央聖堂が、無人で放っておかれるのも道理だった。
 彼らはついに、その慣れ親しんだ円筒形の建物へ到達する。
 ところで聖堂には厳重に施錠がされていた。このことをすっかり忘れていたソラ達は青くなるが、ホーデ博士が懐から鍵を取り出して一発解決だった。なるほど院長が彼に指令を出すはずである。
 とは言っても、通常の入り口ではなく、脇の通用口のような極めて小さな扉の中から、彼らは聖堂の中へと入って行った。



 その頃、正門では、陽動に回った教官と生徒達が、武装解除を求め、これまでにない勢いで抗議を行っていた。
 それには、これまで彼らを歯牙にもかけなかったバルバス派が驚いて、『本陣』に指示を仰いだほどだった。
 結果、これまでにないほど正門に人が集まった。ところが彼らは、抗弁はするし強気な態度は崩さないものの、どういうわけか当初したような武力的な威圧行動を、この時は行わなかった。
 これには、学院長派との戦闘が影響していた。
 もともと、学院を占拠した副院長バルバス派は、すぐにも決着はつくものと考えていたのだ。ところが院長側の抵抗は苛烈を極め、はや二晩が経過しようとしているのに事態はほとんど改善の兆しを見せない。
 これは、『書院派』の知らぬことであったが、学院長らはほとんどが自由の身で、院長室のある中央棟の四階から最上階六階までを占拠して抵抗を続けていた。院長室こそ手放したものの、そこからの上への侵入を頑として許さず、食糧や水を独占し圧倒的に有利であるはずの副院長派を狼狽させていた。
 彼らは、院長派がこの追い詰められた状況で、一体何を支えに、忍耐しているのかまるで分からなかった。最終的には全滅するだけの布陣ではないか。
 一度ならず降服勧告もしていたが、悉く無視された。バルバスは怒り、ならばと殲滅を宣言するが、それは彼にとっても想定外の事態である。
 一般に、全滅の美学などというものは、学者の世界には存在しない。学者は計算をする。計算の結果敗戦と分かれば、あっさり降服をする。はずった。
 どうしてこんな容易ならざる事態になってしまったのか、副院長には分かりかねていた。
 その困惑と、疲労が、正門を守る学者達の態度にも影響していた。彼らにはここでさらなる衝突を招くほどの余裕も、決定権もなかったのである。
 勿論、書院派も実際の戦闘となれば勝ち目はないから互いに限界の淵を歩いていたわけである。とにかく、騒ぎをぎりぎりまで大きくして注意をこちらへ引きつけることが彼らの目的だった。
「――だから、誰かもっと上役を呼んで来いと言ってるんだ。君達に決定権がないのは分かっている。この文書を誰でもいいから上役に渡して、話し合いに下りてくるように言ってくれ。我々とても学院の一員だ。この状態にものを言う権利がある!」
 そうだ、そうだと声高に要求する前線の学者らの後ろに、イラカがいた。彼は、抗議は他の学派の仲間達に任せて、ここは一歩退いていた。
 彼は自分が力を失くしたアルスス学徒だということをよく心得ていた。それは同学の徒にとっては大変分かりやすい旗印である。出しゃばっては、かえって人の足を引っ張るかもしれなかった。それで、彼自身は口を閉ざしたまま状況をとっくりと眺めていた。そして、頭の中では、別働隊に加わったソラやハンのことを嫉妬交じりに考えていた。
「どう見る?」
 議長役の教授が尋ねてくる。何を聞かれたか分かったイラカはその耳に口を近寄せて答えた。
「効いてると思いますよ。相手にするつもりはないけれど、どうしたらいいか分からないんでしょう。ただ一人、あそこに短気なのがいます。これ以上刺激すると、暴れるかもしれないんで、そろそろ力を抜いたほうがいいかもしれません」
「うむ」
 教授は最前線で気炎を上げている一人の肩を叩いて助言をしに出て行く。
 彼が去って開いた間に、ガニアが滑り込んできた。イラカはおっ、と思う。
 ガニアは土気色の額をしていた。彼は明らかに、イラカを嫌っていた。だが、口や態度にあからさまに出すには紳士に過ぎた。
 結果として妙に抑えた凄みの効いた声になった。その、怖い父親のような声で彼は言った。
「君の連れがさっきから見えない」
「え?」
 イラカは、思わず腕を解いた。騒ぎの中で一瞬、完全にリリザのことを忘れていたのだ。どうせ、近くにいるだろうと思っていた。
 しかし、ガニアはそう考えていないようだった。
「どこに行った?」
「……探します」
 なんだよ、と心中で思いながら、イラカは身を翻した。さすがに愉快ではない。彼ら二人が書院派の全員に受け入れられているわけではないことは分かっているが。彼は乞われて来たのだ。彼女はその連れである。さすがに、失礼ではないか。
 イラカは自分に誇りを持っていた。自分の恋人にも誇りを持っていた。
 自分はクローヴィスを目指し、彼女はテプレザを目指した。それはこの世で最高の男女を目指すということだ。
 彼は確かに挫折を味わったが、何もかも忘れて捨てたわけではない。寧ろそこから再びのし上がってやろうと決意を新たにしたところである。
 一度や二度の失敗など跳ね返して、真の意味で強靭になる。
 それでこそ、世界を変えたあの勇敢な英雄の弟子と言えるのではないか。
 イラカは、この自分の心情を、リリザも分かっていると思っていた。
 説明などしなくても、勝手に黙って着いてくるだろうと思っていた。これまでと同様に。
 だが、正門から遥かに外れた小道で、彼女の姿を見つけたイラカは、自分が、都合のよい思い込みをしていたことを悟らざるを得なかった。
 暗い裏通りで、彼女は、柵を挟んで中の一人と話していた。身を屈め、口の横に手を当てて、盗人や中傷者の吐息を吐いていた。美しい目も、美しい黥も、美しい唇も、そのままだった。
 彼女は、理想の女の姿のままで、内通をしていた。多分、内部の人間に、とっくに知り合いを見つけていたのだろう。柵の隙間から手紙が押し込まれる。
「急いで、聖堂に」
 という、言葉の欠片が砂利のようにイラカの耳から入って脳を貫通した。
「――殺して。全員殺して」
 それは、高邁な彼の胸のうちとは、かけ離れた言葉だった。
 強張った足が、動く弾みに路面を蹴った。イラカ自身もびっくりするほど高い音がして、中の人間も、リリザも、同時に彼の存在に気付いた。
 中の人間は鳥のように茂みの中へ飛び込んで去ってしまった。どうしようもなかった。
 イラカは反射的にアルススの力を使ってしまった。電光石火の早さで踏み込み、逃げようとしたリリザの手首を掴んだ。
 そこで恐ろしく気分が悪くなってそれ以上は、力が出なかった。代わりに、根性で彼女を引き寄せ、その顔を、睨んだ。
 リリザは、真っ青な顔をしていたが、そこに、彼の期待する罪悪の徴はなかった。
「何故こんなことを……!」
 という、他の誰も聞いたことのないようなむき出しな失望の言葉に、かえって柳眉を逆立てて、答える。
「当たり前でしょう! 滅茶苦茶にされたのは私よ!!」
「なんだって……?」
「無茶苦茶にされたのは私じゃない!! 死ねばいい!!」
 ――理想の女テプレザは、こういうふうに、乱れない。
 彼女は常に前向きで、人の妨害だの、嫉妬だの、弊害だの、屁でもないのだ。
 理想の女は、いつも美しい。理想の女は、傷つかない。
 傷つくのは、偽者の証拠なのだ。
 ソラは、彼女を傷つけた。だから、殺してやるのだ。
 テプレザは理想の女性像を作り上げ、それを流布した。彼女自身を知れば、その理想と現実の間に開きがあることに、誰もが容易く気付く。
 テプレザは実際には動揺しやすく軽薄な女で、彼女が主張している彼女自身とは全然似ていない。
 それでも、理想は人を毒するのだった。
 文章に、絵に、そして詩や芝居にまでされたその理想は、もはやテプレザを離れて成長し、実態のないまま女達の目標になった。
 リリザはその頂点にあった。美しく気が利いてなによりイラカに選ばれたことによって。それを、あんな醜い女一人の手で台無しにされたのである。大恥をかかされたのである。復讐は当然だ。
「……!!……」
 イラカは、思わず手を振り上げた。
 だが、そのまま、振り下ろすことはなかった。彼は、自分が、彼女の理想に加担していたことを知っていた。
 彼女を褒めた。甘やかした。彼女の自尊心をくすぐってやって、機嫌がよくなれば、心の中で甘いものだと侮りながら彼自身、それで都合がよく彼女の愚かしさを享受したのである。
 今更この女を打って、それで、何になるだろうか。
 この上、優先順位を誤ってはならなかった。イラカはすぐにリリザの手を引いたまま、正門へ戻った。
 そして、議長役の教授の前に出て、今、リリザがしたことを報告した。
 教授の顔が強張る。傍で見ているガニアの顔は、元々凍りつき、無感動だ。
 そして今や、イラカの顔も白かった。
「申し訳ありません」
 彼は、なんと地に跪いて謝った。他に、どうしようもなかったのである。
 彼女の後ろでリリザは座り込み、泣き出している。現実を受け入れられない子どものように。
 なんという始末か。イラカは、遂に思い知らなければならなかった。自分達の思い上がりを。そしてその、内面の虚しさを。
 今、学院を揺るがしている人間達と、自分達の間に、何の違いもなかったのである。
「――見た目ばかりを、真似して。中身はまるで空っぽで。……俺達は……。俺達は……」
 少しもあの偉大なクローヴィスに似てはいないではないか。


 正門を守っていた副学長派の動きが変わった。さっき、イラカが危ないと示唆した人間を含めた数人が、学内に取って返し始めたのである。
 リリザのもたらした情報によって、本部か、或いは聖堂へ向かっているのに違いなかった。
「……い、いかん……!」
「――教授から全員侵入成功の報告は来ています」
 と、ガニア。
 しかし、全てがうまく運んでも、クローヴィスが生きているという保証は、ないのである。
「……また、しても……」
 ガニアが呻く。
 またしても彼らはクローヴィスに望みをかけていた。あれほど憎み、疑っている、クローヴィスに。
 ガニアはまるで自分の一部を噛み潰しているかのような顔で、同志達の頭と柵越しに、聳え立つ中央聖堂を眺めた。



 中央聖堂では、ソラを含めた全員が、博士ホーデと共に壁内部に隠された階段を登って、遺体安置所へ進んでいるところだった。
 つまり、昨日の昼、ソラがちょうど見上げた、過去の学者達の立つ壁の裏側へ行こうとしているのである。
 無論、誰もがこんなところへ入るのは初めてだった。外壁と、内壁の間に階段がしつらえられ、それが尽きると、廊下が始まった。それも肩ほどの幅しかなく狭い上に、窓の類がまるでなく、真っ暗だ。閉所が苦手な人間でなくても、呼吸の詰まるような場所だった。
 その上、廊下に等間隔で並ぶ扉の向こうは、聖像の立つ場所――つまり墓、であるわけで、皆、恐れ入って萎縮するが、ホーデ博士はまるで何でもないようにすたすたと歩いていく。
「今、おるは十人だの。まだ、十分な空きがあるの」
 そんな嫌な解説までしてくれる。
「名札のないのが空きだの」
「あの、扉を一つ開けてもよろしいですか。空気が悪くて。それに、下の様子を確認する意味でも」
「好きにするがよい。鍵はかかっておらん。空きだからの」
 ハンがため息を吐きながら扉を引いた。それからもっとぞっとしない様子で息を吸い込む。
 半円の座は、思ったよりは幅広かった。しかし柵はなく、ごくごく低い、石の飾り縁が一列あるだけ。あとは、開けっ放しであった。
 薄闇の中に沈んだ講堂の演台も廊下も座席も、冷たい空気と一緒にもろに身に迫って来た。
 巨大な黒の縁に立っているようだ。
「落ちるなよ。仲間入りさせられるぞ」
 他の誰かの警告に、いたって真面目な顔で頷き、扉の角度を狭める。
 そんな小冒険には構わず、ホーデ博士は目的の場所へたどり着いていた。
「ここじゃ」
 同じ鍵を取り出し、解錠し、中に入っていく。
 もう、迷いも何もない簡単さだった。
 クローヴィスを起こす。
 それは一体、どういう意味なのだろうか。
 それを誰か、突き詰めて考えた者があるだろうか。その暇があっただろうか。
 考えていない。そんな暇はなかった。
 あたかも、彼自身が眠れるアルススを起こしたその時のよう。何が始まるか、誰に予想できるというのだろう。
 誰も、動くことができなかった。ホーデ博士だけが、たゆみなく働くが、皆は廊下で、それぞれ立って、なす術もなく待っているだけだった。
「ほー」
 能天気なほどの博士の声がやがて石に響いた。
「これは感心したわ。ここな死に損ないめが。つくづく罰当たりな男じゃ。――解こうかいの。では」
 皆の目が、半開きの扉の向こうに注がれる。見えはしない。声が聞こえるだけだ。
 衣の動く気配。それから、急に辺りが一瞬凍りつくように寒くなった。全員の肌に粟が立つ。
「……?!」
 無論、中の老人は、外の人間に構いなどしない。
 それから、少し、間があった。
 扉の隙間から、老人の頭がのぞく。
「不向きの」
 誰のことかと言う呼び方だが、その目ははっきりソラを見ている。ハンが振り向いた。
「来ぬか。手伝え」
「…………」
 寒い一瞬が流れた後の、硬い雰囲気だったが、ソラは、みなの視線に促されるように、歩き出した。
 頭の中はすっかりうちのめされて、私に何ができるって言うんだ、と思っていた。
 もう嫌だ。大嫌いだ。何もかも。
 アルススも嫌いだ。タルも嫌いだ。この老人も嫌なら、こんな手しかない自分達も嫌いだ。クローヴィスだって……。
 扉の中に入る。老人は、恐れる気配もなく、彼の向こうに立っていて、彼女を手招きした。
 ソラは、初めて、その男の間近に立った。勿論、学院には彼の図像で溢れている。どれもこれも、美しいものばかり。
 そして昨日は、彼女は下から遥かにこの男を見上げた。
 けれど、真横に立った時の印象は、そのどれとも遥かに違っていた。
 クラレイ・ファル・クローヴィスは、全く、堂々たる美丈夫だった。白い肌。彫刻のように美しい額の形。鼻梁。後ろに流された金髪は編み飾りを含んで首の左右から肩へ落ちている。伏せられた目元には上下のまつげが合わさり、それが一目見てはっとするほど濃い。頬には美しい黥が、まるで彼のために発明されたもののように刻んである。
 上背があり、胸板が厚く、すらりと伸びた体のどこにも健やかな筋肉が骨を支えて、まさに人間の男であり――確かに一つの、理想の型に達している。
 いかに外見の機微に疎いソラにも、それは分かった。
 こんな人間が、実際に傍にいて、動いたり、話したりする。それは、一体、どんな感じだろう。
「起きぬ」
 老人の言葉が、瞬間ぼうっとしていたソラを現に引き戻した。
「い、生きていたんですか?」
「言うとろ」
 いや。いつだって老人は、はっきりと説明をしない。
 ソラはなんとも言いがたい思いでクローヴィスを見上げた。確かに、その肌の血色は死人のものではなく、喉元では脈が動いているような気がする。だが、呼吸をしている気配は、乏しい。
 それで自分にどうしろと言うのか。老人を見ると、彼は焦れたように肩をすくめた。
「なんとかせい」
「なんとかって……」
「おぬしとて、こやつを起こしたいであろ。呼びかけてみよ。わしの声では起きなんだ」
「よ、呼びかけ……?」
 ソラは、仕方なく、呼びかけてみた。
 なんだか、人形に呼びかけているみたいで、馬鹿になった気がした。
 当然というか、クローヴィスは、動かなかった。
 ふと、ソラは、クローヴィスの口が何か噛み込んでいることに気付いた。唇の端から、紙片のようなものがはみ出している。
「……博士。これは……」
「おお」
 老人はのんきな声を上げた。
「それを抜かねばならぬわ。忘れておった。抜くがよい」
 抜くがよいったって。
 ソラが何度目かの困惑に陥ったその時。木の板がひっくり返るような、飛び上がるほど険しい音がして、構内の空気が明らかに大きく波打った。
 はっとして高度も忘れ、下を見る。視界に二つ、三つと灯りが入ってきて、足音が響く。「そこだ!」という声がして、注意と視線がこちらへ上がってくるのが分かった。
 ソラの全身に緊張が走り、毛穴から汗が噴出した。
 ――露見したのだ。
 廊下で、仲間達の気配が動く。
「追っ手です! 追っ手です!」
 ハンの焦り狂った声が聞こえる。
 老人とクローヴィスだけが不動のまま。老人は言う。
「抜け」
「どこが入り口だ?! どこだ!」
 ばたばたばた、と構内を走り回る足音が二重三重に重なる。
「抜かねば、そ奴は、起きぬぞ」
 ソラは指を彼の唇の中に突っ込んだ。それは乾いていたが、柔らかくて、指に従って形を変えた。
 必死な人差し指と親指が、やっと上下の歯の間に軽く噛まれ、舌の上に乗せられていた紙片を捉える。
 一気に引き抜いた後、分かったのだが、それは、タリン紙と同じような、動物の皮紙の欠片だった。だから破れることはなかった。
 その瞬間、クローヴィスの肺が一気に空気を吸い込み、上体が伸び上がって顎が跳ねた。
 ゆっくり、ゆっくりと、その顎は戻ってきて、一度、うなだれるほどになった。
 金の髪が前へ落ちかかり耳と側面を隠す。
 それから、瞼が開いた。水色の目だった。
 夏の、晴れ上がった昼間の天球の色だった。そこに自分の顔が写り込むのをソラは、呆然と見ていた。
「どうした、アガタ」
 それが彼の第一声だった。
「何故お前がここにいる?」



「ここは冥府ではないわ、クローヴィス」
 脇で老人が静かに言った。
 クローヴィスは彼を見るために、鼻先を変えた。
「愚かなおぬしは、生き返ったのじゃ。この、穢れた現世にの」
 クローヴィスは、視線を戻した。立ちすくんでいるソラをしばらく眺めた後、瞼を閉じた。
「分かった」
「撃て! 撃て!」
 構内に男や女の怒号が響く。廊下では泡を食った仲間達が入り口まで集まってきていた。
「下から攻撃しようとしていますよ! 博士!!」
「騒がしいな」
 クローヴィスが気だるげに呟いた。若者が夏の暑さをぼやくようだった。
「学院長がおぬしを起こせと。騒動じゃ」
「……どうすればいい?」
「わしは、起こせとのみ」
 そんな! とソラが思った瞬間、クローヴィスの二つの青い目が彼女へ移った。何故か、その目で見られると、魂と体が半分くらい、後ろへ吹き飛ぶような気がする。後ろは奈落だから、危ない。
「どうすればいい?」


 どうすればって。
 なんなの。
 まるで私が言えば、なんでもするみたいに。
 その目は、なんなの?


 事態は迫っていた。
 ソラは、最後の最後に残った僅かな現実味を必死でかき集め、言った。
「鎮めてください。内乱を」
 それは間違ってはいなかったはずである。
「心得た」
 クローヴィスは頷くと、剣から右手を離し、その掌でソラを脇にどかせた。
 ゆっくりと押されてゆっくりとよろめいたソラが壁に左肩をつけたその時、剣を持ったクローヴィスの体が、壁から空へ、躍りこむように飛び出して行った。


 うわああああ?!


 悲鳴がした。
 それは多分、驚愕の表現だ。
 天井から、よく知る死人が落ちてきた。
 誰だって悲鳴を上げる。
 だが、本当の驚愕はそれから先だった。
 死人は、悠々と飛ぶ鳥のように一度空中で回転し、それから床にどん! と着地した。
 それから、両足の関節を伸ばし、立ち上がったのである。
「うわあああああ?!」
 叫ぶのも、無理はない。
 ソラだっていつの間にか、自分の口元を左手で塞いでいた。廊下の仲間達の中にも、調子っぱずれな悲鳴をひとりでに上げるものがある。あまりのことに、感情が、狂っているのである。
 その上、いきなり講堂で光の玉が爆発した。
 ソラはもう、立っていることができずに悲鳴を上げて廊下へ這い出す。その間にも、ぴかり、ぴかりと、光が瞼を貫通して目の玉を焼いては轟音と震動がその後に襲い来る。
 ハン・リ・ルクスが、壁に背をつけてへたり込み、がたがたと震えていた。
「こっ……」
 恐怖に引きつった彼の眼差しが、四つんばいのソラの眼差しと合う。
「殺してしまいますよ、あの人、全員……!!」
 言葉が終わらぬうちに、再び光が瞬いて爆音が講堂を揺るがした。




 人の軍隊を、たった一人、退けた男である。
 人々が怖れ、伝説とし、歌に歌って祀るような男である。
 彼はすぐに講堂を焼き尽くして誰一人残さなかった。
 それから、吹き飛んだ扉から外へ出て行った。
 誰も彼を止めることはできなかった。
 博士ホーデが鳥のように笑って言った。
 幸いなるかな。我が慈悲深き死の神。また潮の如くに人の死ぬ時代が始まるわい。




 何一つ、ソラの小さな思慮の願うところで止まりはしなかった。
 変化も、学問も、人々も、クローヴィスも。
 彼女はその時、怒りも悲しみ通り越して心の底から願っていた。
 故郷に帰りたいと。
 初めてそう思ったかもしれない。
 そして、それはひょっとしたら、ハン・リ・ルクスもそうだったかもしれない。





(第一部 了)
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