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-2-


 山間に拓かれた故郷の団地には、季節を問わず、事あるごとに、霧が出た。
 薄い時もあれば、濃い時もあって、青い山から生物のように立ち上り、傾斜のきつい道や階段に満ち、庭を覆い、こどもの姿を隠す。
 整備されたぴかぴかの街並みのすぐ先に、野生の、静かで、不気味な世界がある。



 その朝、一〇歳の白尾友行は、一人、舗装されたアスファルトの道を歩いていた。
 辺りには濃厚な、特別な感じを与える乳白色の霧が流れ、そのおぼつかない足取りを、先へ先へと導いていた。
 少年友行はパジャマ姿だった。その上に、少年野球で使うロゴの入ったジャンパーを引っ掛けていた。足は、はだしで、ぐにゃぐにゃにやわらかくなったいつものスニーカーを履いていた。
 まだ薄暗く、街灯がほのかに灯っていた。一体何時だったのだろう。友行は覚えていない。起きたことも、玄関の戸を開けて、家を出たことも覚えている。
 しかし、何故そうしたかは分からない。
 ただこの霧は甘い。甘くて心地よいので、それでいい。
 ふと気づくと、彼は、自分が通う小学校の校門の前に来ていた。重い鉄で出来た門が進路を阻む。
 けれども、左手には通用口があって、押すと開いた。鍵がかかっていなかったのだ。それで彼は中に入り、よく知るただっぴろい白い砂を踏んだ。
 その頃には、空も大分明るくなって、霧も少しずつ醒めて来ていた。校舎や、体育館、渡り廊下、端に設営された遊具や、プール施設を覆う金網などがぼんやり見えた。
 春先、あそこの側溝で、大きなマムシが目撃されて騒ぎになった。女子はわざとらしく怯え、男子はとうばつ隊! とか言って一時期バカみたいに探し回っていたが、あれきり見つからなかった。
 見つからなくてよかった。
 見つかれば、おとなも、こどもも、どうせひどいことをしたに違いないから。
 小さな風が吹いた。心地よさに顎を反らし、誘われるように校舎へと視線を移した。
「――?」
 友行は、あれ。と思った。校庭の真ん中に、一人、誰かが立っていた。
 向こうを向いている。ちょうど友行と同じくらいの身長だ。
 友行は自分がここにいるんだから、驚かなかった。誰か、児童が校庭で遊んでいるのだろうと思った。一緒に遊ぼうといわれるかもしれない。
 けれどよくよく見るとそれは、同じクラスの三足剛なので、友行は、微笑を浮かべた。
 ――ああ。なんだ。よかった。やっぱり見つかったんだな。
 二日前、学校では春の遠足があった。四年生は山に登った。もうまったくそこに見える、見住(みすみ)山だ。
 登って、上でお弁当を食べて、草花の観察をして、降りてきた。ただ、それだけだった。
 それなのに、最後に点呼をしたら、こどもが一人足りなくなっていた。担任の顔がさっと青ざめた。
 調べてみると、いないのは、三足剛だと分かった。
 「やっぱり……」という空気が辺りに流れた。
 彼は忘れ物が多かったり、ぼーっとしていたり、休みが多かったりと、ただでさえ危なっかしい、浮いた生徒だったのだ。転入生のためかその独特の外見のせいか、友達もおらず、休憩時間はいつも一人で、校庭の隅の草地やフェンス付近で草や石を相手に遊んでいる。
 いかにもちょっとしたきっかけで群れから外れてしまいそうな、いや寧ろ初めから、群れに属し損ねているこどもだったのだ。
 友行ら、他の生徒は集団で早々に帰された。学校には関係者が集まって騒ぎになりつつあった。走っていくパトカーを振り返り、振り返りしながら帰る友行の隣で、やさしい碧が心配そうに、「大丈夫かなあ、タケシくん」と呟いた。
 それでも最初、大人達は必要以上に深刻に考えてはいなかった。毎年何度も無事故で遠足している馴染み深い山であったし、沢や崖といった危険な場所もない。ぼーっとしたこどもが何かに気を取られて下山の列から離れ、道に迷ったのだ。きちんと探せば程なく見つかるはずだと考えられた。
 もちろん即座に捜索が始められ、手の空いている教員、保護者、警察官、また消防団員などが、古くはあるが、小ぶりな山中をくまなく探し回った。団地内の放送では三足の名前やその日の服装が何度も何度も繰り返し放送された。
 ところが、昼が過ぎ、夜が過ぎても、消えたこどもは見つからなかった。翌土曜日、早朝から行われた大掛かりで綿密な捜索が、収穫のないまま終わりそうな気配が濃厚になった頃、ようやく、これはやばいぞという認識が人々の顔つきを変えていった。
 事故ではなく、事件に巻き込まれたのではという話にもなった。はぐれたところを誰かに連れ去られたのではないかというのだ。そうでなければ、こんな小さな山の中で、何一つ痕跡も残さず、こども一人消えるなんて、有り得ない。
 友行の同級生達は無邪気な残酷さで、この失踪事件をいろいろに噂した。お行儀のよいこども達も、黙って聞き入りながら胸の中では色んなことを考えている様子だった。
 友行も、もちろん何が起きているのかは分かっていたが、どことなくぽかんとしていた。どんなひどい中傷を聞かされても、真面目な碧がそれに怒って泣き出したりしても、何を言っているんだ、あいつは無事に決まっているよ。と、思っていた。
 何故だか分からない。
 とにかく、そんなこんなで一日半が過ぎて、日曜日。友行は失踪していたその三足剛が、早朝の校庭に一人でいるのを見つけたのだ。
 なあんだ。やっぱりいたんじゃないか。と、友行は安心した。
 帰って来たんだ。見つかったんだ。見たところ全然無事だし。よかった。
 彼はせっかくなのでこっそりと、足音を忍ばせて彼の背後に近づいた。三足は普段どおりぼうっとしていて、気づく気配もない。
 笑いをこらえながら、飛び上がり、その両肩にいきなり手を置いた。
「ミツタリっ!」
 瞬間。その体がびくっ、と、上から下まで派手に波打った。
 肩に置いた手に、彼の心音が直に伝わって響く中、ゆっくりと、信じられないようにゆっくりと、少年が振り向く。
 その大きく見開かれた灰色の虹彩の中に、やがて友行自身の姿が、滑り込んだ。
 友行は友行で、予想外な反応に戸惑いながら、彼が遠足の時と同じ格好をしていることに初めて気が付いて、何か変な気持ちになった。
「……………………」
 互いに、浅い経験と知識の中で、顔を見合わせていた一瞬の後、信じられないことが起きた。
 多分、友行はそれを見たと、思うのだが、今まで誰一人に対しても、話したことはない。
 至近距離で向かい合っていた三足剛の瞳孔がみるみる収縮していったかと思う矢先、長くてうねうねした黒い生き物が、彼の顔の皮膚の内部を、下から上へだーっと駆け抜けていったのである。
 友行はその尾が、最後に左右にちらりと波打ったのを、未だに、忘れられずに覚えている。
 刹那、三足の眼球が上を向いたかと思うと、全体が白目になり、その体が後ろにひっくり返った。
 ――どん。


 すべては、またたく間に起きた。友行は、自分が何をしたのかも分からず、ただ唖然として、その場に立っていた。
 三秒後に、パニックがやってきた。一〇歳の友行は嫌悪と恐怖に縮み上がって、その場から駆け出した。
 宿直室には誰かいただろうに、そんな知恵はまるでなく、ああとかぎゃあとか叫びながらわざわざ家まで飛んで帰った。
 まだ二階の寝床にいた父親に思い切りタックルして、わあーッと、爆発する驚愕の全てをぶつけて泣きわめいた。跳ね起きた両親は、目を白黒させていた。
 ちょうど同じ頃、校内の巡回を開始した警備員が、校庭の真ん中に昏倒した三足剛の体を発見していた。
 友行は、後から知ることになった。彼は失踪以来、一度も見つかっていなかったのだと。校庭で会った時には、まだ行方不明の状態で、捜索も午前六時から再開される予定だった。
 だからむしろ、友行が、三足を見つけたのだ。
 けれど友行は、もうそれについて考えるのも嫌だった。再び彼に会うのも嫌だった。
 白い霧。瞬く電球のように切れ切れの記憶。走り去るなにものかの影。
 そして人間が、意識を失う時のあの色の青さ。卵のような白目。頭が地面にぶつかる、あのにぶい音。
 わけが分からない。わけが分からない。常識が通用しないということは、恐ろしいことなのだと、少年友行は思い知ったのである。夢想するのと実際に当たるのでは大違いだ。
 幸いなことに、彼の希望はかなえられた。
 三足剛は発見以来、結局一度も登校することなく夏休みを迎え、そのまま転校していったのである。
 それでこの気持ちの悪い話は永遠に終わるはずだった。長い人生の時間の中でほんの一瞬、おかしなことに巻き込まれたことがあるという、不快だが終わった過去として、順調に遠くなっていくはずだった。
 十年も経ってから、霧などまったく出ない大都市東京で、彼と再会など果たさなければ。
 こともあろうに同じ年に同じ大学の同じ学部に入学し、しかも、同じアパートの隣部屋に入るという、有り得ないような偶然さえ重ならなければ。









 翌朝。白尾友行は、地下鉄丸の内線の座席に、何かから自分の身を守るかのように硬く腕組みをし、こわばった怖い顔をして、腰を下ろしていた。
 彼の隣には、もちろん三足剛がいた。髪の毛を頭の上で一つにして、ショールを巻き、彼にしては意外なほどこざっぱりとしている。
 ただ、頬にはものすごく大きな医療用のガーゼが貼り付けてあって、何事かと思わせた。
 これは友行が一時間ほど前にしたことで、慣れていないので位置や留め方がいかにも素人仕事だった。もっと乗客がいれば、さだめしジロジロ見られただろう。
 だが電車は始発の二本後の便で、平日朝とは言え、さすがに閑散としていた。
「で? どこ行くの? これから」
 三足剛が、ガーゼをとめるテープをかりかりとかきながら嘯く。
「病院だ。決まってるだろうが」
 彼のほうがよほど病人の顔色で友行は答えた。三足は、さっきからかたくなに前ばかり睨んでいるその横顔をちょっと見た後、背後の低い背もたれに、長い首を反らした。
「なんだ。一回部屋に戻ったから、諦めたのかと思った」
「違う。病院を調べてたんだ。俺の行こうとしてた救急外来には皮膚科がなかった。
 それに、なるだけ、デカい病院のほうがいい」
「心療内科とか、精神科もあるような?」
「…………」
 友行が答えないうちに、電車は次の駅に着いた。東高円寺駅だ。乗客が数人乗ってきて、空いた座席を埋める。だらけていた三足も座り直して足を収めた。
 扉が閉まる。再び、動き出す。朝早いのでみんな、幻のように静かだ。
「ていうか、こんなに早く行っても受付やってないんじゃないの?」
「そんな派手なアクセサリーをくっつけてラッシュの時間に乗りたいのか?
 俺はごめんだ。向こうに出れば、いくらでも時間は潰せる」
「……『消せる』って、言ったような気もするけどね。
 要は俺の言った事、信じてないわけだ」
 ごく軽い口調で三足は言った。それなのに、友行の眉間の皺はぐっと深くなる。
 しばらく電車の走行する騒音だけが、辺りに続いた。
 三足の、写真を撮るたび赤目になる灰色の目は、いつしか丸みを帯びた天井や、電灯や、広告を探っていた。
「ねえ、友ちん」
「……なんだ」
「もし俺が、『人のさだめが分かるんだ』って言い出したら、どうする?」
「…………」
 友行はついに彼を睨み、次いでその視線をたどって、天井からぶら下がる広告へと鼻先を転じる。

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「……金が稼ぎたいのか」
「うひゃ、たまらないね、そのバカにしきった言い様」
「俺は、女子じゃない。こどもでもない。そういうことを言う奴は、嘘だと分かってやってる商売人か、願望と現実の区別がつかなくなっている誇大妄想狂だ。
 もし前ならぶん殴ってやる。もし後ろなら、これから行くところが担当だ」
「にゃるほどねえ。
 でもねえ、それはそれとして……、本当に俺、分かるんだよ」
「まだ言うか?!」
 友行はいらだって声を荒げた。
 なんとなく自分が過剰反応しているということは分かっていた。
 流せばいい。適当に迎合しておいて病院に連れ込めばいい。
 けれど、いらいらするのだ。朝から、自分が必死に霧を払って、これをまっとうな、片のつく話にしようとしているのに、こいつは協力するどころか、さらなる煙幕を呼び込んで混乱を助長しようとする。
 その向こうに青いお山が透けて見える。
「お前が病人だと思うから、容赦してやっているんだぞ。そんな馬鹿な話を続けるなら、俺は、降りる!」
 蛇の目が光り、それからまぶたが下がった。
「そう? いいよ。じゃあ――、降りてごらん」
 その場しのぎの、でたらめな挑発だった。どう考えてもそうだ。馬鹿げている。
 だが昨夜から事件続きで頭も混乱していた友行は、それをうまく処理できなかった。
 立ち上がろうとした。とにかく一度は、立ち上がって本気のほどを見せ付け、相手に自分の立場を教えてやらなければ、気が収まらなかった。
 ちょうど電車は、新宿駅のホームに滑り込んだところだった。
 アナウンスに続いて、扉と、ホームドアが開く。ほとんどが降りて、それから数人が乗り込んできた。
 再度アナウンスが流れ、扉が警告音を発しながら、友行の目の前で、閉まる。シルバーの車体がなめらかに線路の上を走り出した。
 窓の外を駅の光景が飛び去り、そして、暗くなった。
「………………」
「ね?」
 油汗を流しながら、座席に固まっている友行を、三足は、優しい声で労わった。
「出来ないだろ。出来ないんだよ。
 一般に受け入れられている常識とはちょっと違うけれど、人間って、あいにく、ちっとも自由じゃないんだよ。
 俺達は、骨と肉の器に入った、ちっぽけな魂にすぎないんだ。それは生まれてから死ぬまでの、一つの物語の中を生きていて、その筋に従った行動しか取れない。
 例えば、君が十万円持ってコンビニに入るだろ。何を買おうが、まったく自由なはずなのに、それでも好きじゃない飲み物には絶対に手を出さないだろう。
 『それこそが自由じゃないか』と言うかもしれないね。そうだよね。自由とはつまり、てめえの価値観を理由に選択する、ということだから。
 でもその自由こそが、一貫した強い物語を作っていくんだ。自分に忠実に生きれば生きるほど、自分にとって好ましい選択を重ねれば重ねるだけ、物語の枠は頑丈になり、自分でない人間になる可能性を排除し、個を閉じ込める檻になる。
 だから坊さんなんかは言うわけだよ。我執を捨てよ。解脱せよ、って」
「俺をからかってるのか?!」
「違うよ。どうしたらこの罠から抜けられるか、その話をしてるんだよ」
「わ、『罠』……?!」
「突然、選択の幅がなくなって、特定の行動以外、何一つできなくなることだよ。
 ちんちんが痛くて、しんどくてもうイヤなのに、俺が女漁りを止められなかったことや、君が立ちたいのに、立てないでいる、今この状況のことさ。
 ところで次は、何駅だっけ?」
「――次……? 新宿三丁……」
 言いかけて、友行は、絶句した。
 気がつけば、車内には二人の他、乗客が誰もいなくなっていた。隣の車両にも、その奥にも。
 暗闇の中を、空の車両が轟音を立てて走っていく。
 早い。早すぎる。駅と駅の間隔が狭い地下鉄では、有り得ないスピードだ。
 ひゅん。ひゅんっ。と、明るい駅のホームが窓の外を通り過ぎて行った。まるで新幹線がローカル駅を通過する時のようだ。
 扉の上の液晶画面はブラックアウトしている。アナウンスも沈黙している。
 友行は、恐怖して座席の布をつかんだ。暴走している。電車が暴走している!
 何が起きているんだ?!
「……まあ、地下鉄って時点でこうなるとは思ってたんだ」
 がたがたと激しく揺れる車内で、三足剛はため息を吐いた。
「どうなってるんだ、これは?!」
「――誰かが、俺達を呼んでいるってことだよ。俺らの物語に細工をして、ある場所へ到着するように筋を操っているんだ。
 まあ顔のこれと、同じ類のものだよ」
「……『フラグ』?」
 昨夜の、聞かなかったことにしたかった言葉は、その実しっかりと友行の記憶に不快な足跡を刻みつけていた。


シルシだ。死の先遣りだ。
誰かが俺を呪ったらしい。


「……死ぬのか? 俺達は」
 青ざめて、汗を流し、心底困惑している友行を見て、三足は気の毒そうに眉をしかめ、まぶたを撫ぜた。
「いや、大丈夫だよ。それはない。これはそんなものじゃないから。
 でも、ごめんね。振り回して。嫌だよね。分かるよ」
 目を見開いて、三足を見つめる友行の背後で、電車は爆走を続けていた。
 丸の内線は都心をほとんど循環するようにコの字型にたわんでいる。車両はそのカーブさえ脱線しかねない勢いで疾走し、車輪は軋み、当然、車内は揺れに揺れた。
「うわっ!!」
 とうとう、動揺をこらえきれず座席から放り出された。まるで、戸板一枚の上に乗っているかのようだ。
 反対側の座席にかろうじて手をついて堪えながら、たまらず友行は叫んだ。
「どうにかしろよ!」
「落ち着いて、友ちん。
 こーいうのに捕まっちゃった時にはね、どれだけもがいても駄目なんだ。罠はどんなものでも、最初から暴れても壊れない強度で作成される。努力を続けてもひたすら循環し、気力も体力も浪費してしまう。
 だから、ひとまずは落ち着いて、とにかく罠の作り手が最終的に提供しようとしている筋を、確かめることだ。そして時には相手の思惑に乗って、少し進んでみることなんだ。
 そうすれば、その先に、出口が、見えてくる」
「…………」
 もはや、友行には彼が何を言っているのかさっぱり分からなかった。
 電車は現実の駅を出発して、彼を正体の知れない闇の中へ運び去ろうとしていた。
 ひとつだけ分かることがある。それは、これこそ三足剛の領分だということだ。
 なんと平然とした顔をしているんだろう。そして、なんと落ち着き払った声で、馬鹿げたことを言うのだろう。
 ところが、まるで彼の言葉に従うかのように、次第に電車の速度は落ちてきた。振動も弱まり、狂ったような轟音も抑えられる。
 そして電車は、長い疾走の果てに、『駅』に着いた。
 エアーの漏れる音を出しながら、扉が開く。ホームドアも、警告音も、アナウンスももはやなく、その向こうは、黒い。真っ暗闇だ。
「…………」
「行こう」
「…………」
「行くしかないんだよ」
 混乱した頭のまま、友行は、立ち上がった。激しく揺さぶられて、足元がふらふらしている。絶叫マシンから降りた直後のようだ。
 外に出ると、そこは地面で、一面薄いコケに覆われた、じめじめした、暗い場所だった。明らかに地下だ。しかも、灯りがない。電車の内部灯だけが周囲にほのかな世界を広げている。
 と、三足がアーミージャケットのポケットから携帯を取り出した。ボタンを押し、液晶のバックライトを点灯させる。
 友行も、自然とそれに従った。念のために画面を見たが、当然ながら、圏外だった。
 かざして見ると、丸くて低い通路が一本奥へと続いていた。他に道はない。
 どうやら、この先へ進まねばならないらしいということが、友行にも了解された。
「……これ、俺らが行ってる間に、どこか行くってこと、ないだろうな」
 背後の銀の塊を示すが、三足の返事は素っ気ないものだった。
「気にしないほうがいいよ。運転席もね」
「…………」
 すたすたと歩き出す彼の後ろに、友行はどうしようもなく従った。
 彼らは真っ黒い闇の中を、しばらく無言で進んだ。
 空気はひんやりとしており、冷めて硬い土のにおいがする。どこかで水音も聞こえた。身に迫る壁や天井は濡れたようにつるつるしていて、明らかに人の手で作られた道だと分かった。
 昔の坑道か、防空壕。……塹壕。そんなところだろうか?
 冬場のような外気の冷たさのせいか、友行は体が震え、前歯が鳴った。
「どこなんだ。ここは」
「正確な位置は、俺も知らない。俺らの始祖が拓いた特別な『斎場』なんだって言うね」
「……さ、『斎場』?」
「うん。戦国時代の中ごろに、何百人もの奴隷使って掘らせたらしいよ。すごいよね。きっとそこいら中、人柱だらけだよ」
 その時いきなりわーっという大勢の声が聞こえて、友行は驚きのあまり、スマートフォンを落としそうになった。
 それは遥か上のほうである一方に移動し、それから、再びわーっと逆の一方へ移って、そんなことを繰り返しながらだんだんと遠くなっていった。
 まるで、小豆の入った箱を傾けてでもいるようだ。
「……な、なん……?!」
「近住の精霊どもが逃げ出してんのさ。何しろ、死神つきのご来訪だからな」
「…………『バロン・サムディ』?」
「さすが友ちん。よく覚えてるね。
 同じ現象でも文化によって、言い方が違うんだよね。俺の親父……ハイチに根があるもんだから、俺もどっちかって言うと、そっちの言い方のほうが全般にしっくり来るんだ。
 ――さーてここで、おりこうさんな友ちんに問題です。この世で常に待望されながら、出れば必ずペテン師の悪名を頂戴する古来からの職業と言えば、なんでしょう?」
 三足は友行を待たなかった。すぐに、歌うように答えを言った。
「答えは、預言者です。
 俺の家ね、代々、預言者の家系なんだ。親父の方も、お袋の方も。
 日本じゃ『巫女』って言ったり『神官』って言ったりするね。ハイチでは、男は『オウンガン』、女は『マンボ』って言う。
 やってることは同じだ。人と世界の間にいる。この世を支配している隠れた摂理を探り、その意図を読解して共同体に伝える。
 最近じゃ依頼されれば、個人的な相談も受ける。問題を解消したり、アドバイスして、それで報酬をもらう。
 そうだよ。そこらにいる占い師と一緒さ。嘘だと分かってやってる商売人じゃなければ、偏執狂だよね。本当に。
 ただ同時に、俺達のような集団はまだどこの文化圏にも必ずいて……。誰も彼も、ちょっと本気でやりすぎちゃった感じなんだ。
 自分達のさだめの出口を自分達で閉じて、深淵を見つめることだけを選んだ。
 気合、入ってるよ」


 ええ。まだ着かぬのか、あの愚か者は! 何をぐずぐずしておるか……!!


 再び、上のほうで声が響いて友行の注意をさらった。
 今度は、年を食った女性らしいしわがれ声だ。そしてそれに応じる、若く冷淡な男の声。


 しょうがないでしょう。出来損ないなんですよ。
 ごらんなさい、奴婢に刻印もつけないで。
 もうお呼びなさいよ。おばあさま。その方が絶対早い。

 ええ。この、痴れ者めが……!!


 その声に、三足がちょいと上を見た、瞬間。
 ぶわっ、と、背後からの生ぬるい力に押されて、二人の体が何の前触れもなく、地面から浮き上がった。
 嘘じゃない。一斉に足へと流れる血の感触に目を回しながら、友行はとっさに思っていた。
 ――首が折れる!
 すぐ頭上につるつるの天井があったのだから、その懸念は妥当だった。
 だが、彼は頭をぶつけなかった。しまいには上がったのか下がったのかも分からなくなった。地面に放り出されて前に倒れこみ、膝を打ったからだ。
「……??!……」
 まるであべこべの刺激に、友行はもう、吐きそうだった。
 弾みで、スマートフォンが手から離れた。考えるより先に掌で辺りを探った時、そこが今までよりも、遥かに平らかで整然とした、石畳の上だということに気がついた。
 目を、開く。まず間近で座り込んで、苦笑している三足の姿が見えた。その背後には遠く岩の壁。前に手をついた友行は、混乱を堪えながら、首を伸ばして周囲を伺った。
 辺りはほのかに明るかった。それで、目算ながらそこが百メートル四方くらいの岩の洞だと知れた。白い石畳が、地面の上に四枚並んで伸びて行く。
 その果てになにやら太い二本の石の柱がある。それをたどって上を見れば、大掛かりな鍾乳洞のように縦が果てしなく高く、そこに靖国神社もびっくりの、とてつもなく巨大な石造りの鳥居がはめ込んであるのだった。
 蛇腹みたいに太く、豊かなしめ縄が下がる。そしてその奥には階段があり、京都の神社にあるような時代がかったかがり火がいくつも燃えていた。
 どん詰まりには朱塗りの幅広な椅子があり、そこに内裏雛を連想させるめんどうくさい衣装を着た、化粧の濃いばあちゃんが一人。
 その右脇を、全身白いスーツ姿の若い男が。左を黒い清楚な、でも鹿鳴館以外ではちょっと見たことがないようなロングドレスを着た若い女性が固めていた。
 ――実のところ、四つん這いの姿勢のまま、友行は一瞬何もかも忘れて、吹きそうになった。
 三足が隣で恐れ入ったような、それでいて笑みを噛み潰しているような顔をしている理由がよく分かった。
 気合が、入りすぎなのだ。
 何を、この人たちはこんな大洞窟の中でそんな大時代な格好をして、大真面目に、大鳥居の奥で。
 当人らが真剣であればあるだけ、部外者にはおかしい。まさに、どこかの激しいカルトの神殿に、足でも踏み入れたみたいだった。
 けれど友行のその笑いは、口から出る直前で立ち消えた。笑えるけど、本当に笑えるけど、本当に笑ったら、やばい。
 何かが、刃物の冷たさでそう囁いたのだ。脳裏に流れた三足の言葉のせいかもしれなかった。誰もがみな、やりすぎた感じなのだと。
「やあやあ、役立たずの面汚しの無能者のイポリト・ゴウ君。よく来たねえ。
 なんだいそのバンソウコウは。それで何か隠したつもりなのかな? 臭くて臭くて鼻が曲がりそうだ。土神様がみんな逃げてしまったよ。穢い君が来ると言うんで」
 どこか坊ちゃんめいた印象の白いスーツの男がきざに手をパンパンと叩きながら、バカにしきった声で言った。その隣で、女性は眉を潜め、責めるように言う。
「どうして、自分から来ないのです。もっと早くに……。ゴウ」
 ゴウ? ……タケシだろ? 思っていたら、二人の奥で目を閉じていた老女が、うなるように声を出した。
「黙っておいで、文彦、紡子(ヨリコ)」
「おばあさま」
「…………」
 見たところ、老女は本当に年寄りで、どこの介護施設で車椅子に座っていてもおかしくないような感じだった。手足は枯れて萎え、顔はしぼみ、ものを言うのでさえひどく億劫そうだ。
 けれど、真っ白な睫毛の奥で動く目には異常な力強さがあった。薄暗いのでよくは分からなかったけれど、虹彩が、青いように見えた。
「ゴウ。ここへおいで」
 老女は、僅かに手を動かして、三足を呼んだ。ツメは長く、きれいに塗られていて、指には年寄りの好みそうな指輪がいくつもはまっていた。
 呼ばれた三足は、投げ出していた両足を引き寄せて片膝を立てると、友行の肩に右手を置き、ぐっと下へ押すようにして、立ち上がった。
 それから、ゆらゆらと歩いて鳥居の下をくぐり、階段を上って、老女の真下の段に立つ。
「顔を、お見せ。それを、取って」
「…………」
 言われるがままに、友行が貼ったガーゼを剥がした。べりっと皮膚が音を立てる。
 老女は小刻みに震える、枯れ枝のような両手を持ち上げ、差し出された彼の頬を挟んだ。
 そして、医師のようにごく間近でまじまじとその頬を見つめる。
「いつからじゃ」
「……覚えていません」
「たれじゃ」
「……さあ。分かりません」
「――この……。大莫迦者が!!」
 いきなりその頭が、叩き付けるような乱暴さで横に放り投げられた。
 三足の体が弾き飛ばされて階段を半ばまで転げ落ちる。嘘だろ?! と目を見開く友行の体を、続く怒声が、打った。
「なんという体たらくじゃ!! ミタリの末裔が、こともあろうに斑神(はだらがみ)に跨られるとは!!
 なんという屈辱! なんという恥辱! 我が名に幾度恥を上塗りすれば気が済むのじゃ、この痴れ者は!!」
 びしびしびしびしっ、と火花が放たれて椅子から床へすべり、天の果てへと壁を走り抜けて行った。
 三足は階段の上で、身じろぎした。
「この出来損ないが!! おおたわけ!! 悪疫!! 悪虫!! 穀潰しッ!!」
「――」
 鳥居の外で見ていた友行は、あまりのことに、呆気に取られた。
 なんなんだ。どこの誰だか知らないが、どうしてこんなヒステリックでひどい悪罵を、いきなり一方的に投げつけられねばならないんだ。
 友行は三足のことなど好きでない。けれどこれには、思わず人としての情けが動いた。車内暴力を見逃せないのと一緒だ。
 同じことを考えた人間が、もう一人いたらしい。紡子と呼ばれた黒いドレスの女性が老女に駆け寄り、腰をかがめて、口角から泡を飛ばす彼女をなだめたのだ。
「おばあさま。あまりお怒りになると、筋に障ります。
 おばあさまは、大事なお体なのですから、どうぞ興奮なさらないで……」
「いやいや、無理もないですよ。一度ならず二度までもねえ。本当に愚図不吉の血だ、小夜子の血は。
 もう潰したらどうです?」
「おやめなさい、文彦……! 彼は私達の一族の大事な一員よ。どうしてそんな言い方をするの!」
「だからこそ莫迦は困るさ、紡子さん。あなただって困るでしょう。
 こいつは愚かすぎる。そのうち一族全体に禍を及ぼすようなことをしでかすかもしれません、小夜子のように。
 それなら今のうちにくたばってもらう方が、上策じゃないですか」
「……やめて頂戴! なんという、酷薄な……!
 ――ゴウ。おばあさまに申し開きなさい。助けて頂くよう、お願いしなさい!」
「…………」
 三足は、ようやく立ち上がって、静かに老女のほうを見た。けれどもその声は――、友行が驚いたくらい暗く、気のないものだった。
「……俺は、呼ばれたから、来たまでです」
 痣が話しているのかと思うくらいだ。
「話が済んだなら、帰ります」
「ゴウ!」
「これはこれは。本気でお馬鹿さんのようだ。自分の立場がまるで分かっていないんだねえ」
「……この婆を、裏切るか」
 二人の奥から、老女が、さきほどとは打って変わって、沈んだ、と言ってもいいほどの声で言った。
 三足の目が、彼女を見つめる。
「我が積年の努力を、嘲笑うか。ゴウ」
「…………」
 再度問われても、三足は答えなかった。自堕落な目つきのまま肉厚な口元を緩やかに結び、息はしているんだろうにいつまで待っても否とも応とも告げなかった。
 やがて、老女がだん、と足を踏みしめてわめいた。
「好きにせい! もはやおぬしは我がミタリの子ではない。どことなりと戻りて、呪いのままに腐るがよいわ!」
 灯りがふっと消えるようにその姿が椅子ごと消えた。そして、白いスーツの男もいなくなった。芝居がかった、別段おもしろくもない挨拶を残して。
「塵は去るべし愚者は死ぬべし。せいせいするよ。さよなら、ゴウ」
「…………」
 そして場には、馬鹿でかい大鳥居と、松明と、三足と、女性と、座り込んだままの友行だけが、残された。
 しばし後、
「……ゴウ。どうしてあなたはそうなの」
 紡子と呼ばれた女性が、悲しげなため息をついて、石段を降りてきた。長い髪の毛がさらさらと揺れる。真っ白い肌に、黒い瞳の栄える、夜のにおいのする美女だった。
「お父様とお母様、双方の血が泣いてよ。あなたはこのミタリの一族の末裔。そしてお父様の祖国の英雄の、末裔ではないの」
「……あんたこそ、俺を唆さないでよ」
 ようやく、口を開いて三足は言った。元に戻ったその口調から、彼がこの女性には、それなりに心を許していることが伺えた。
「本当の分岐は、まだ先だ。俺はそれが来るまで選択しない。あんたが好意からそうしてくれてるんだろうってのは、分かってるけどね。
 しっかし相変わらず、文彦ちんはひどいね。ひどい服のセンス」
「…………」
 女性が何か言おうとしたその時、
「――三足!」
 ずっと鳥居の外で放って置かれた友行が吠えた。二人が同時に振り向く。
「てめー、何したんだよ! 何とかしろよ! いい加減、足が痺れてんだよ!」
 実はさっき、立つ三足にぐいと肩を押されてから、彼はまるで釘で打たれでもしたように同じ姿勢のまま、身じろぎ一つすることが出来ないでいたのだ。
 三足は「あ」と言って、慌てて取って返した。
「ごめんごめん。一応、止めといた方がいいかと思ってさー。忘れてたわけじゃないんだよ、友ちん」
 嘘だ、絶対忘れてた! と、友行は恥と痛みに歯軋りしながら思っていた。
 俺はスーパーの入り口につながれたシバじゃねえぞ!
「一体何なんだよ……! さっきからわけの分からないことばっか起きて!!
 なんで俺がこんなことに巻き込まれなくちゃいけないんだ! クソッタレ、お前なんか、死んじまえ!!」
「どうどう」
 その様子を見ていた女性が、自らも鳥居の下まで降りてきて言った。
「ゴウ……、あなたまさか、彼にちゃんとした説明をしていないの?」
「…………」
 友行の下にたどりついた三足がまったく逃げて答えないと、女性はさらに深いため息を吐いて、首を振った。
「わたし、時々あなたのことが、本当に分からなくなるわ。一体何を考えているの。
 この人はあなたの従者なのよ? あなたの友連れよ。
 どうして事情を話して、協力を仰がないの。彼だって、待っているでしょうに」
「…………」
 ……ず、ずさ?
「しようのない人」
 ずいぶん古い日本語を聞いたと思う矢先、肩に三足の手が置かれて、目に見えぬ呪縛が解けた。友行は突っ張り続けた腕をようやく取り戻し、うめきながら尻餅をつくと、すっかり麻痺した両足を投げ出して間接をさする。
 その鼻先に、ふと、夜の霧のにおいが漂った。覚えず顔を上げると、視界がドレスで黒一色に塗りつぶされる。
 思考も、ことばも飲み込む黒だった。友行はまだ膝を持ったまま、呆然と視線を上へ移し、やがてその白い、染み一つない顔を見た。
 紡子と呼ばれる、自分達より少し年上に見える女性は、どこか姉のように優しく微笑んだ後、深々と彼に対してお辞儀した。
「はじめまして。いつもゴウがお世話になっております。
 私は三谷紡子。彼のいとこにあたります。そして彼と同じく、ミタリの一族に属するさだめの『読み手』の一人です」
「……は。はあ。その……」
 浮世離れした所作と、その間近に迫ったドレスにいささか圧倒されつつ、友行は傍にいる三足を指で指した。
「ミツタリ、タケシの、いとこ?」
「ええ。私どもは彼のことを、『ゴウ』と呼びますの。
 この度は、このミタリの『斎場』によくいらっしゃいました。とはいえ、急に様々なことが起きて、さぞ驚かれたでしょう。
 お名前は?」
「……白尾友行」
 背後で三足が失笑する。
「知ってるくせに」
「黙りなさい、ゴウ。礼儀です。
 ……ごめんなさいね、友行さん。ゴウはこの通りですから、私から少しご説明申し上げますわ。
 どうぞ、よろしかったらお立ちになって」
 日本人形のように白い手が差し出されて周囲の薄闇を払った。




「私達の祖先は、古く大陸から渡って参った卜者であったとか、学者であったと言われておりますわ。当時は当然、九州や近畿が活動の拠点でしたが、十七世紀ごろ、私達ミタリ一族の直接の始祖に当たる者が関東へ降りました。
 この場もその時に作られたもので、以来、私達の主な斎場――仕事場です。
 鳥居やしめ縄がありますけれど、神道ではありません。こういうものは誰が発明したとも言えません。公的に整備され、手法が確立される前から、各地にあったもので、私達のこれもその残滓ですわ。
 それに、こと私達ミタリの一族は宗教や文化の分類にはまったく興味がありませんの。いいものがあればいくらでも取り入れ、従来の私達の手法と無造作に混ぜてしまいますし、知識を得るために必要とあらば、どんな土地に生まれた方ともためらいなく婚姻関係を結びます。
 私達は、特定の地域に発生した、特定の宗教を守るための番人ではありません。この世を形作っている、大いなる物語を読むことに全てを捧げた一族なのですわ。
 志を同じくするグループが、世界中にいることを私達は知っています。あるグループは肉体的な、また精神的な鍛錬を行ったりしますし、別のグループは酩酊作用のある植物を用いたりしますけれど、目的は同じです。
 表層の世界から沈降して、地下に漲る物語に触れること、すなわち、世界そのものに触れ、それをより深く知ることです。
 だから私達にとっては、強力で経験のある海外の『読み手』との婚姻もまた、知識を深め物語に肉薄するための手段の一つなのですわ。もちろんこれはミタリに限ったことであって、日本で活動している他のお家では、それぞれ違ったお考えがあるようですけれど。
 そういったわけですから、私の叔父の一人にはチベットの男性がおりますし、おばあさまのお祖母様もロシアの方でした。
 ゴウはその意味で、とても典型的なミタリの末裔ですわ。名前もおばあさまがご自身でお決めになったのです。
 キファル・ミツタリ・イポリト・ゴウ。お父様はハイチの神官の血を濃厚に引かれる方ですから、彼の地の英雄にちなんだ名前を頂いたのです。ちなみに表ではミツタリ、ミタニなどと名乗りますけれど、裏は同じ、ミタリの一族です。
 ――きっと、ゴウも、日常生活では少しのろまで、周囲にうまく馴染めない人間として通っているでしょうね。でも、私達は彼がどれだけ才能豊かな神官……物語の『読み手』であるか、知っています。
 私自身は、彼は天才だと思っています。きっと実力の点で言えば、次代の宗主に最もふさわしい。だからおばあさまも大変な期待をかけておいでなのです。
 ただ残念なことに、本人には未だにその自覚がないようなのですけれど。
 このように人から易々と死の呪いを受けて、しかもそれをこんなになるまで放っておくなんて……。
 だらしがないで済まされる事態ではなくてよ、ゴウ」
「………………」
 紡子はそこで言葉を切り、反応を求めるように三足を見たが、彼はするっと視線をそらして、体まで反転させてしまった。観光客でもあるまいに、洞窟の果てしない天井を見上げながら、そこらを歩き回り始める。
 それはまったくいつものぐずぐずした怠け者の三足剛そのままで、こんな非現実的な場所でもなければ、そしてあの右頬のおぞましい斑点さえなければ、何一つ従来の認識を変える必要などないように思われた。
 友行は、規格外の情報に逆らいたい常識的な衝動を感じながら、そしてやめておけ、これではどつぼだぞ、と思いながらも、女性の態度の穏やかさに引きずりこまれるように、手を上げた。
「二つ、質問が」
「どうぞ」
「あなた達が、そういう宗旨を掲げて、昔から活動してきた一家だってことは、まあいいです。……実を言うと、インチキ占い師ほどありもしない歴史を強調するよなって思うけれど、まあ、いいです」
「まあ」
 紡子は笑った。
「それで、あなた達は、あいつの顔に浮かぶあのおかしな斑点が何か、知っているんですか? ……俺はあいつを病院に連れて行こうとしていたんだ。病気だと思いました。
 でもあなた達はあれを……『ハダラガミ』とか言いますね」
「ええ。斑点のハンに神をつけて斑神と呼びますわね。昔からの言い方です。
 あれは、病院で治すような一般的に病気とは違います。少し似ているな、とも思いますけれど。
 それにしても、ゴウはそんなことも説明していなかったのですね」
 と、知らん顔で石段に腰を下ろそうとしている彼をちょっと睨む。
 彼女は理知的で美しい女性だった。声は落ち着いているし、話し方はごく理論的で、このまま大学の研究室にいても全然おかしくないと友行は思った。
 ひょっとして友達にさえなれたかもしれない。誰もが好感を持つ聡明なタイプだ――それで彼は彼女に、質問などしてしまったのである。これ以上、この狂った話を続けてはいけないと、心のどこかで分かっていたというのに。
「繰り返しになりますが、私達ミタリは、世界を、つまり大いなる物語を読み解くことを生業にする『読み手』の一族です。
 ここはまさにそれを行うための仕事場で、私達は今現在すでに、物語のさ中におります」
「――は……? ここ、洞窟ですよね……? 奴隷を使って掘ったって、さっき三足が」
「途中まではそうです。実際に、物理的な洞窟ですわ。
 でも一度、移動なさったでしょう。ここは違いますのよ。石畳の外や壁を、よくご覧になって」
 いよいよたばかられたような気分で、疑いながら辺りを見回した瞬間だった。
 ひじをついて壁を見ている三足のちょうど頭上あたりからバチッと火花が起こり、壁の中を、下に向かって落ちるように走っていった。それは線路を走る電車のように決まった一つの道を走りぬけ、その周囲にみっちりとひしめく無数の道を、一瞬ながら友行に教えていった。
 さらにもう一閃。もう一閃。火花は続いた。
 あるものは鳥居の向こう側へ落ちて行き、あるものは一点で急に曲がって蛇行しながら遥か奥へと走っていった。
 その度に照らし出される道の有様は、植物の根にも、糸くずにも、生肉の繊維にも、毛細血管にも、海底トンネルのケーブルにも見えた。
 そこで、ようやく友行にも何が起きているのか分かった。これまで鈍色の岩だとばかり思っていた壁や床は、そんな半透明の細い管が一ミリの隙間もなく絡み合い、ぎっちりと密集し、凝結して黒ずんだものだったのだ。
 それが天にも足元にも、見つめる先の全てに、満ちている。果てしなく深く、多重に。奥は、走る光が消失して目に戻って来ないくらい遥か、遠くまで。
「文彦が、修正作業を始めたようね」
「相変わらずオガワ先生の面倒見てあげてんの?」
 紡子は三足の皮肉には取り合わなかった。
「ちょうど、ご覧になれましたわね、友行さん。
 ここは、私達ミタリの一族が公式に管理している筋の範囲内に一時的に設えた『場』の一つですの。作業を行う『場』はまた別にあって、そこには『読み手』と相談者の方だけが入ります。
 ご覧の通り、物語は大変混み合っているので、外から手を加えるのは難しいのです。個別の筋の詳しい解析や、修復、変更を行うには、その方自身の身体から筋をたどるのがもっとも確実です。
 ……友行さん? 大丈夫ですの?」
「………………」
 白い石畳の上で、友行は、うまく返事が出来なかった。
 これまで見た中で、これは、間違いなく、最悪だった。
 暴走する電車も、へんなばあちゃんも嫌だったが、これほどじゃない。
 ――孤独で、残酷で、広大で、異常。な。
 自分は今、明らかに見てはいけないものを見ている。見るべきでないものを見ている。友行の持つ人間としての全感覚が、そう教えていた。
 友行は、一歩間違えれば爆笑必至の、荒唐無稽なカルトが背後に隠し持つ生々しい深淵に、その時ついに触れたのだ。
 正体不明の怒りが湧きあがって、手が震え、足元が揺らいだ。敢えて言うなら、三足剛にずっと感じてきた怒りと嫌悪。その斑点を見たときの驚愕。それが千倍にも、一万倍にも膨らんだような感じだった。我慢ならなかった。
「落ち着いてくださいね。素人の方でも、これほど近くにいれば時には影響を与えてしまうことがありますから」
 友行の腕に触れて、紡子が労わる。
「……影響……?」
「ええ。これが、私達であり、物語であり、世界の一部、ですもの。傷をつけたら上の世界に影響が出ます」
「…………」
「ねえ、私達なんて、本当に惨めではかない存在だとお思いになりません? 誰もがただ、年齢の分だけ伸びる一本の筋で、周囲を他の筋に囲まれて、身動き一つ出来ないのですわ。
 聖人も悪人もみな同じ」
「……あんたらは……!」
 本気で、こんな気持ちの悪いものを相手にしてきたというのか? 毎日毎日、何年も、何十年も、何世紀も?
 絶対に、まともじゃいられない。これは、まともな人間が関わるべきことじゃない。
 生物的な怯えと驚愕がむき出しになった彼の眼差しを、紡子は氷のような微笑で受け止めた。そして、それをまるで周囲の闇のようにすっかり飲み込んでしまうと、平然と話を続ける。
「では、説明を続けますね。ゴウの顔に出たあの斑点は何かという、ご質問でした。
 あれは呪いの発露です。病気が重篤になると、様々なサインが浮き出して体が不調を訴えるように、物語が侵犯を受け、危険にさらされると、それを示すためにああいったサインが出るのです。
 それぞれの文化で異なる呼び方をします。私達は『斑神に跨られる』という風に申します。
 つまりゴウは、何者かの呪いを受け、『死神に狙われている』のですわ。これはイングランドの言い方ですけれど。
 通例、物語の筋に従って天命のままに死ぬ場合はもちろん、突然の事故に遭って死ぬような場合でも、こんなサインは出ません。何故なら死の直前まで、その人はちゃんと筋に従っているからです。
 筋が人為的に改変されて未来が断たれ、その影響が甚大になろうとしている時だけ、こういった報せがあるのです。
 メキシコではこれを、『インク壺が倒される』と言うそうです。書かれるはずだった物語が途中で終わりにさせられて、余ったインクが行き場をなくして染み出すのだ、ということですわね。
 この表現でも分かる通り、染みは最初小さいのです。放置しておくと段々広がってきます。ゴウのようになるまでには、きっと、二ヶ月は必要だっただろうと思いますわ。
 普通はそれまでの間に、手を打つものなのですけれど」
「………………じゃあ」
 猛烈な嫌悪と吐き気を覚えながら、友行はその話から下りるきっかけを逃して、苦しみながら、言った。
「誰かが、三足を殺すために、物語に細工をしたって? ……そんなことが可能で、現実にあるとして、普通の人間には、出来ないだろう?」
「ええ、出来ませんわね」
 紡子はにっこり笑って否定した。
「私達のように、筋に触れる知識や技術を持った神官が必要です。
 可能性としては二通り。誰かが、神官を介して、ゴウの物語に呪いをかけさせた。あるいはまた神官の資質を持つ誰かが、自分の意志で、それを行った。
 どちらにしても、かなりの恨みを抱いているはずです。自分も死ぬ事になりますから」
「……えっ?」
「報せが起こることからも分かる通り、物語は、筋が改変されることを望みません。
 特にある人物を二十年早くこの世から消し去れば、その二十年の間、彼と関わるはずであったあらゆる周辺の筋がその不在によってダメージを受けます。
 その無理は、一体どこに行くのでしょうか? このような改悪を行った人間です。その原因となる事象を起こした筋に対し、そのねじれが世界から容赦なく注ぎ込まれます。
 しかもこれは干渉を行った直後から、跳ね返ったエネルギーが全て尽きるまで延々と続きます。
 よほどの強運を持っていない限りは、死にますわ。場合によっては、標的が死ぬよりも先に本人が力尽きることもあるでしょう。
 それに世界からの罰を一身に受けて死ぬのですから、その死に様は端的に言って、ひどいものです。
 ですから、割に合わない話なのですわ。憎い人間を殺してやりたいと考える人は大勢いますけれど、先に自分が死んだら一体なんの意味がありますかしら。
 それでもいい。とにかく、世界の全てを道連れにしてでも、殺してやりたい。
 呪い手がよほどの無知である場合をのぞいて、それくらい煮詰まらないと、死の呪いなどかけません。
 人を呪わば穴二つ、という諺は、きっとどこかの『読み手』が最初に言い出したんだと思いますわ」
「……じゃあ、三足は、そんなやけくそになったバカに、今まさに、死ぬほど呪われていると?」
「ええ、その通りです。彼がこれから採りえる道は、三つでしょう。
 一つ目は、呪いを跳ね返すこと。一人では出来ませんが、ものすごく強い神官の助力があれば、不可能ではありません。もちろん相当な労力が必要ですが、例えば、おばあさまなら、力づくで呪いを引き剥がして筋を本来の形に戻し、相手に叩き返すことも出来るでしょう。
 二つ目は、呪いをかけた人間を特定し、その人間を殺すことです」
「……は?」
 聞き間違えではなかった。紡子は本当に『殺す』と言った。
「人間は死んでも、しばらく周囲の筋にゆるやかな影響を及ぼし続けます。でも呪いのような能動的な行為の継続は無理です。さっき言ったような物語の報復による死でも構いません。とにかく、本人が標的よりも先に死ねば、斑神は離れ、ゴウは助かります。
 三つ目は、有り得ないことですけれど、呪いを受け入れて、諦めて死ぬことですわね。
 私だったらごめんですわ。殺されるなら殺します。
 こうしたトラブルを避けるためにも、『読み手』は自分に対する他者の呪いに、常日頃から無防備であってはいけないのですわ。防護策を講じて他者の侵入を防がねばなりません。
 これでゴウのあの痣が何か、お分かりになりましたかしら?」
「………………」
 多分、分かった。分かったが正直言って、一緒に呆れた。
 友行は呆れて、――呆れ果てて、彼女の白い顔を見た。それからゆっくりと、手を上げる。怒りのあまり、青ざめた頬で。
「…………最後の質問を」
「どうぞ」
「その、死ぬだの、殺すだのという気の狂った話の中で、俺は一体、何をしているんだ」
「…………」
「これが本当だろうがまやかしだろうが、もうどうでもいい。あんたの長々しい説明が正しかろうがでたらめだろうが、もうどうだっていい!
 俺はとにかく普通の人間で、あんたが喋ってきたようなこととは一切関係がなかったし、今後もない。それなのになんで俺は、これに巻き込まれたんだ。
 ――腹が立つ! 帰してくれ!! 俺はただ、こいつを病院に連れて行こうとしただけだ!!」
「――あなたは、彼をお好き?」
「……話が飛んだよ! 今」
「あまりお好きじゃないなら、どうして、わざわざ病院へ?」
「人に、頼まれたんだよ!」
「何故あなたが? 断ればよかったでしょう? あるいは救急車を呼ぶとか、警察を呼べばよかったのですわ。そんなに、関わりあいになるのが、お嫌なら」
「それは――」
 友行は言葉に詰まった。
 それは、碧が。碧が三足のことが好きで。俺は、大嫌いで。
 その力関係の中で、どうしても、そうならざるを得なかったのだ。なりゆきで、いつの間にか、無理矢理に『そうさせられた』のだ。
 くすり。と、紡子は下を向いて笑った。それから、いじめてごめんなさいね、とでもいいたげな眉で、言った。
「あなたは、ゴウの従者です」
「……なんだ、それ?」
「ゴウは天才だと申しました。それは、感覚の鋭さだけに留まりません。いわゆる強運であること。物語の筋を最後まで生きぬく力があり、そのために、自分の助けとなる筋に取り囲まれていること。これもまた、天与の恵みなのです。
 これがなければどうにもならないということではありません。でも、いざと言う時にその一つや二つの助けに手が届かなかったがために、命を落としたり、取り返しのつかないダメージを被る『読み手』は多いのです。『読み手』の人生は、波乱に満ちたものですから。
 だから、いつの世でも才能ある『読み手』は、一族とは無関係の、けれど運命付けられた友連れを数人持っているものです。
 それを私達は、『従者』と呼びます。固い絆で結ばれた、一生の友達です」
「冗談じゃない」
 友行は、場に三足が居るにもかかわらず力いっぱい否定した。それほど、その説明は、心外だったのである。
「何を言い出すんだ。そんなこと、あるはずないだろう! 俺はそんなこと全然望んでないし、三足だって――」
「事実、あなたは罠にはまって、馬鹿げた反復行動しか取れなくなっていたゴウを助けてくださったわ」
「……は、はァ?」
「そして、地下鉄に乗せ、結果として、ここへ連れてきて下さった。
 いつもそういう役回りなのよ。白尾友行さん。いいお名前だわ。あなたはそのつもりでなくても」



――たいへんだ。たいへんだ。タケシ君がいなく



「もういい」
 鳥居の下の段に座っていた三足が、はっきりとした声で場の進行を止めた。
 口元を押さえて、青ざめていた友行も、眉を上げる紡子も、立ち上がる彼の方を見る。
「おしゃべりはたくさんだ。そろそろ分岐の来る気配がする」
「――……」
 二人の前で、三足が後ろを振り仰いだ。その視線の先に、老婆が一人、佇んでいた。
 いつの間にか居たのではなく、中空からにじみ出たのだ。本当だ。
「おばあさま……」
 紡子が囁くように言った。
 段上に立つ老女は、さっきとは違って、ずいぶん気が抜けた様子に見えた。まるで小さな女の子が癇癪を起こして暴れた後、疲れ切って、謝りに戻ってきたような感じだ。
 髪の毛はぼさぼさで、目元と頬の化粧が涙で派手にはげていた。
 今度は距離が近かったので、青い目の上にかかる白いまつげがはっきりと見えた。
「……ゴウよ。おぬしは……、大事な、大事な、我の、ひ孫じゃ」
 闇に向かって、呟くように、老婆は言った。
「……おぬしが生まれた時は、どれほど嬉しかったことか。その芽生えの初めの一行に、深い可能性を感じた。筋の位置もよかった。
 ……我は、ようやく後継者を得たと思うた。ついに我を、静かに休ませてくれる者が来てくれたと思い、その采配を、物語に感謝したものじゃった……」
 その声は弱々しく、ところどころ、涙が混じっているようにも聞こえた。
 まったく、どこかの施設の片隅に居る、気弱になった寂しがり屋のおばあちゃんそのものだ。変な格好さえしていなければ。
 老女は自分から段を下り、三足の傍まで来ると、命令した。
「ひざまずきなさい」
「…………」
 三足は黙ったまま、さっきと同じように従順に、老女の一段下で立て膝を着いた。すると老婆はそのツメを長く伸ばした皺だらけの手を、彼の黒い頭の上に静かに置いた。
「誰が、何と言おうが、我は、おぬしを失くすわけにはいかぬ。小夜子を失うた時、我は、どれほど泣いたことか。
 おぬしのためなら、何も惜しゅうはない。残りの全ての力を失くそうとも、ここで尽きようとも、悔いはない……。
 さあ、ゴウよ。櫛石窓神――おぬしが言うレグバ殿に祈りをささげ、十字路の扉を開くがよい。おぬしに跨っておるものが斑神であろうが、土曜の男爵であろうが、我が、祓い落としてくれる。
 そしてその呪いを、憎き仇に叩き返してくれるわ……!」
「まあ、おばあさま……!」
 感じ入ったように、紡子が胸に手を当てた。
「おぬしのこれまでの、すべての行いを許す。我らに対する反抗も、依怙地な態度も、甘えきった自堕落な生活も、一族の義務を放棄して来たことも、何もかももう忘れる。
 だからおぬしも、これまで我らに抱いて来た恨みや、怒りや、疑いを、共に忘れるがよい。
 そして今度こそ、分かり合おうではないか。同じ『読み手』の筋を持って生まれた、切れぬさだめのともがら同士として」
「…………」
 俯いた三足の左の頬が、これまでになく青ざめて見えた。やがて、祈るかのように、まぶたが閉じられる。
 ぞわりと何かが動く気配を感じ、友行の顔にも、ひとりでに鳥肌が立った。
 これで、何事かが、起きるのだろうか。そして、このわけが分からない話が、ようやく終着するのだろうか。わけの分からないなりに。
 予感が胸に兆したその時、老婆の声がふいにもの凄くなった。
「――ただし。我が貴重なる力を費して一命を留めたからには、今後はもはや、我に逆らうことは許さぬ。
 下らぬ放浪も、大学も、すぐに止めよ。
 地下に降りて、我が元に侍れ。これまで怠けてきた全ての義務をもれなく、忠実に履行せよ。
 口ごたえは、一切許さぬ。我に従い、我を敬え。
 よいな」
「………………」
「よいな! ゴウ!」
 冷たい、冷たい、冷たい、果てなく広がる物語と同じような沈黙の末に、三足剛は、頭を上げた。その右頬には汚らわしい斑点が赤黒く燃え、老女と対峙する彼を、不思議に気高く彩っていた。
 老女はわめく。
「……ゴウ! 心を開けよ! 我に筋を、解放せよ!」
 歪んだ眉の下で、灰色の目が、老女の青い目を、蛇のように睨んで、笑った。
「感動するね。おばあちゃん。
 本当に、絶対、何が起きても、あんたは、自分を忘れられないんだ。結婚し、母となり、祖母となっても、曽祖母となっても、その物語は、ぐるぐる循環して決して『読み手』を離れない」
 自分達で、自分達のさだめの出口を閉じて、深淵を見つめることだけを選んだ。
「分かってました。あなたがそう言うのは。
 そして、むしろ、尊敬してますよ。ミチ子さん。
 あんたは本当に、俺には、もったいないひいおばあちゃんだ」
「ゴウ!!」
「わめいても駄目だ。俺には無意味だ。
 罠を解き、俺達をここから出してください。
 十字路を解放するのはあんたのほうだ」
「…………!!」
 三足の頭に置かれていた老女の手が、握り締められたかと思うと、怒りに任せて振り上げられた。
 落ちてくるそれを、三足は、よけなかった。だからごッ。とその拳が、彼の頭を殴った。
 何度も何度も、冗談のように殴った。床や壁面がぴかぴか光った。
「お、おばあさま!」
 紡子と同時に、今度は友行も駆け寄った。紡子が老女の腕を押さえ、友行がよろけた三足の肩を支える。
 老女は、興奮のあまりにはあはあと息を乱し、青い目の下にたるんだ肉をおぞましく痙攣させていた。
 今度こそ、決定的な選択がなされ、結論は出た。
 この狂った長い一節が、『罠』が、終わろうとしているのだということが、友行にさえ、知れた。
「この大莫迦者があー!!」
 友行は、三足と一緒に、その悪罵を浴びた。
「この恩知らずの、裏切り者の、畜生の、人でなしが!!」
「おばあさま……!!」
「死ぬがよい!! この役立たずが!! 死ぬがよいわ!!
 『読み手』の栄光も知らず、宇宙の真理も知らず、ただの下劣な歩く糞袋として惨めに野垂れ死にするがよいわ!! 痴れ者!! 出来そこない!! ガア―――ッ!!」
 友行も田舎者とは言え、二十一世紀育ちだし、割にうまく立ち回るほうなので、あまり人から面と向かって激しく罵られたことはない。
 自分自身が吹き飛びそうになるほどの大声を出されたこともない。
 三足は、あるのかもしれない。
 よく学校でも、教師に怒られていた。
 こういうふうになるのか。と、友行は思った。
 汗が滲み、手が震え、額がうそ寒い。頭がぼうっとして、視界が明るくなり、驚き慌てて思考がまとまらない。
 水におぼれているような感じだ。
「離せ! 離さぬか、紡子!!」
「おばあさま! お気を確かに! ……ゴウ! ゴウ!」
 急速に白色に覆われてゆく世界の中で、紡子の叫びが聞こえる。
「待って! ゴウ! 行っては駄目よ! 一人でどうしようというの!
 このままではいずれ……!!」




 ……『このままではいずれ』?
 いずれなんだと言うんだ? 
 何が『待て』だ。バカじゃないのか。これだけひどい目に遭わせておいて。
 お前達みんな、三足以上に頭がおかしいよ。狂ってる。
たくさんだ。
 俺は元の、当たり前の世界に、戻るんだ。









 ――気がついたら、友行は、明るい昼の世界にいた。
 継ぎ目にさしかかるたびに穏やかに揺れる電車の中で、座席に座っていた。
 たった一人だった。車両にも他に十人程度の乗客がいるだけだった。
 電車の中で居眠りをしていて、はっと目が醒めた時のような感じだった。
 人目も忘れて、ため息をつきそうになった。
 ああ、よかった。だってなにか、ひどく悪い夢を見ていたのだ。
 呪いだとか、筋だとか、罠だとか、誰が死ぬとか、殺すとか。そうだよな。考えてみれば有り得ないじゃないか。俺が、あの三足剛と一緒に外出するなんて。
 出入り口の上にある液晶画面を確認すると、彼はJR中央線の快速電車に乗っていた。ちょうど御茶ノ水から四ツ谷へと移動中で、時刻は、午後二時過ぎだった。
 ……午後二時? え、マジで? ていうか俺は今日、何をしていたんだっけ。
 携帯……。
 そう思った時、隣の車両に通じるドアががたんと開いて、膨らんだ騒音と一緒に、三足剛がやってきた。
 声も出せずにいる友行の隣にゆっくり腰を降ろすと、
「二つ隣の車両に落ちてた」
 言って、白いガーゼを無造作に頬に貼りつけた。
 その顔の痣は、朝より明らかに広がっていた。白い四角形からインクの染みのようにはみ出し、鼻梁にさえ迫ろうとしていた。



 電車は進んで行った。心音にも似た規則正しい音を刻みながら、人が敷いた線路の上を、決められた終点へ向けてひたすらに。
 その当然さに友行は、三足の隣でどうしてか目がくらみ、気が遠くなった。
 スマートフォンはどこにもなかった。
 もうすぐ、次の駅が見えてくる。





(つづく)
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