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-3-



 いいことをするのは難しい。
 お年寄りに席を譲るのは無礼かもしれないし、友達に金を貸せばそいつを駄目にするかもしれない。
 蛇を助けたらその後で隣家のインコを呑むかもしれない。
 今まで生きてきた中で、これは疑問の余地なく『いいことをした』と、思えていることは、ひとつしかない。
 それだけは思い出すたび自分でも自分を褒めてやりたい気持ちになる。
 でも他の全部は確証も保証もない、よかったんだか悪かったんだか断言できないような、曖昧なものだ。
 いいことをするのは難しい。




「――本当に悪いんだけど、もうちょっとだけ付き合ってくれる?」
 呟くようにそう言う三足剛に従って、友行は新宿で一度電車を下り、彼がやたら品揃えのいい輸入酒店で渋い茶色の酒を買うのをただ呆然と見ていた。
 それから再びJR中央線に乗って、最寄の駅に戻った頃には、秋のことで早々と周囲が夕方になっている。
 友行は僅かに空腹を覚え、コンビニに入っておにぎりを買った。今度は三足が何も言わずに待っていたが、彼自身は食欲がなさそうだった。
 友行は自分と彼が、片方を押せば片方が必ず跳ね返る、二つ並んだボタンのようだと思った。
 それなりにドラマチックに染まる空を見ながら歩いてアパートへと帰った。入り口に並ぶポストの前を通り、階段を上って、三足の部屋へと通される。
「ちょっと待っててね」
 照明に照らされた部屋があまりに散らかっているので呆れる友行に断って、三足がそこらを片付け始めた。
 放置されていた衣類を押入れの上段に放り込み、雑誌をベッド上に積み、ごみをゴミ箱に集めて台所に押しやる。そうして十分ばかりもすると、意外なほど早く、味気なく平たい元の部屋が現れた。
 友行は今度は、その何もなさに呆れてしまった。これではほとんど入居前の部屋だ。テレビもなければチェストもない。机や椅子、電話も書棚ももちろんない。パソコンもない。
 というより、ベッドしかないのだ。留置場だ。
 一体こいつはこの部屋のどこで飯を食っているのだろう?
 その疑問については、『台所』という答えがほどなく与えられた。
 現れた床に掃除機をかけ終わると、彼は冷蔵庫を開けて卵を二つ取り出し、角で上手にそれを割ると中身を口に放り込んだのだ。
 殻をごみ箱に捨て、さらにもう一つを呑んだ。
 友行が、息を止めてそれを見ていると、彼は薄闇の中で振り向いて、
「いる?」
 友行は無言のまま首を振った。
 その後、三足は少し元気を取り戻したようにさっさと働き、何もない居間に押入れの下段からラグと小机、グラスに入った四種のろうそくを取り出して窓の下に並べた。最後に一枚の額に入った宗教画を取り出すと、小机の中央に静かに置く。
 友行はその宗教画を見て眉をひそめた。一見キリスト教の聖母子像らしく見えるが、それにしては肌が浅黒く、生々しい。目元や口元には変に色気があり、全体に奇妙な凄みが漂っている。
 その前に並べられたろうそく入りのグラスにも、蛇や骸骨、ハートなどの模様が独特な暑苦しさで描かれ、虹色のカラフルなラグと相まって、突然の、そして濃厚な異国情緒をその場に出現させていた。
「気持ち悪くてごめんね」
 声に振り向くと、背後で三足がさっき新宿で買った酒瓶から、ステンレスでできた携帯用ウィスキーボトルに酒を移しているところだった。
 もちろん登山などで使われるものだと知ってはいるが、三足の手の中にあるとアル中の証としか見えない強烈なアイテムだ。
 麻痺していた危機感がぞろぞろと立ち上ってきて、友行の警戒心を煽った。
 ――何だか、おかしなことになろうとしていないか。俺は疲れて混乱している隙に、危険なことに引きずり込まれそうになっていないか。だって今にも法に触れるような怪しいものが、無造作に現れそうな雰囲気ではないか。
 三足は、彼のそういう反応をあらかじめ十分予見していた様子だった。だから黙って作業を終えると、酒瓶を祭壇――そうだ、これは『祭壇』だ――に置き、携帯用ボトルの蓋をきゅっと締めると、また一度、謝った。
「本当にごめん。今日はいろいろ嫌な思いばっかさせて。携帯も、なくしたんだよね。じき戻ってくるとは思うんだけど。あの人達、泥棒ではないから。
 友ちんにしたら、もううんざりだよね。せっかく親切で顔を出してくれたのに。次々わけの分からないことに巻き込まれて。嫌な話ばっかり聞かせられて。
 ――でも、これさえ終われば、本当に終わりだから。もう二度と、巻き込まないようにするから。
 どうしても一つだけ、確かめておきたいことがあるんだ」
「……何が、したいんだ」
「十字の神レグバを呼んで、路を開いてもらったら、俺の『筋』を辿って、過去を見てもらいたいんだ。
 そうしたら俺に呪いを掛けたやつが誰なのか、見当がつくと思う。
 こればっかりは自分じゃ見えない。誰かにお願いするしかないんだ」
「……何か、儀式を、するのか?」
「そうだね。やっぱり神様の力を借りるには、手順を踏んだ呼びかけが必要だから。
 ちょっと儀式めいたことをするよ」
 やっぱり。そうなのか。
 正直言って、友行はかなり躊躇した。
 彼は依存や救済のための宗教におよそ興味のない人間だ。神があるとしたら、自分で自分を救う技量のある明晰な人間をこそ愛するだろうと、逆に固く信じている。
 だから、盲信や儀式などもっての外だ。今日見たあの大仰な洞窟だって、あそこにいた人間達だって、少しも信用できないし、既にものすごく軽蔑している。
 本心を言えば、これ以上関わりたくなかった。たとえゲストでも儀式に参加するなんて、まっぴらだ。今すぐ隣室に帰って、風呂に入って、全部忘れたい。
 ――だが友行は同時に、目の前のこのだらしない男が、それなりに困った局面にあるのではないかという漠然とした認識を抱えていた。
 こちらが拒否を示すのを重々承知でなおも頼んでくるということは、それなりに真剣な事情があるはずだという気もした。
 死の、呪い?
 死亡フラグ?
 預言者?
 馬鹿馬鹿しい。二十一世紀に。女子供じゃあるまいし。ありえない。
 たとえオカルトマニアの主張の通り、そんなものが本当にあったとしても、自立したまともな人間なら関わり合う必要のまったくない過去の残滓だ。
 断固としてそう思いながら、彼の前には現実に顔の半分が憐れなことになった男が立っているのだ。そしてその男は、彼に、助力を願っている。
「……妙なものを飲んだり、しないだろうな」
「これはラムだよ。知ってるよね、ラムレーズンって」
 そう言われてよくよく見れば、確かに祭壇の上の瓶にはRHUMとある。あまりに優美な字体なので読んでいなかった。
「他には何も使わない。楽器も出てこない。
 集団で開く儀式は騒々しいものだけど、オウンガンが自分のためだけに行う儀式はいつも孤独でひそやかだよ。
 俺らには熱狂も犠牲も必要ないからね」
「……どれくらいかかる」
「一時間、かな」
 それが、最後の決め手になった。友行は、息を吐いた。
「分かった。どうしたらいいんだ」
 三足はぺこりと頭を下げた。
「ありがとう。じゃ、座って。一つずつ手順を踏んでいくから」
 言われたとおりに彼が座ると、その周りで三足は黙って働き、残りの準備を済ませた。
 まず、ろうそくに火を入れた。また白い水性ペンを握って、部屋の中央の床に複雑な、まるで門の装飾のような美しい模様を一つ、馴れた手つきで描き上げた。
 それから草色のアーミージャケットを脱いでジーンズに白い無地のTシャツ姿になり、黒い髪の毛を解いて水のように肩に流した。
 手を洗い、タオルで拭き、頬に張ってあるガーゼを剥がしてゴミ箱に捨てた。最後に居間に入って台所とのドアをぴたりと閉めると、天井から下りる紐を引く。
 一度。二度。段階を踏み、部屋が闇に落ちた。
 窓の外を見れば、まだほのかには明るかった。けれど室内はまるで土の中のようで、祭壇に並ぶろうそくの炎は、既に今日目にした、あの松明と同じ赤さで燃えていた。
 俺のスマートフォンは、と、彼は考えた。まだあそこにあるのだろうか。
 なんだかこどもを取られでもしたような気分だ。
「始めるね」
 三足が言って、彼の向かいに腰を下ろし、胡坐をかく。二人の中央に、朱に染まった模様があった。
「俺は何をすればいいんだ」
「やりながら指示するよ。まずは一献。どーぞ」
 三足はきゅっとアルミボトルの蓋を開け、こちらに手渡してくる。
「…………」
「お祭りなら、楽師も大勢いて、みんなでトランス状態になるまで踊りまくる。
 俺らはそこまでする必要はないけど、まあこれ一滴入れておくとやっぱり違う。
 特に友ちんは、クールなゲストだからね」
「……一つだけ、聞かせろ」
「ん?」
「これは、真剣な、ことなんだな」
「…………」
「ばかげた現実逃避でも、下らない似非宗教でもなく、本当に、お前にとってなにか、大切なことなんだな」
 三足剛は、頷いた。それで友行は酒を煽った。
 苦い――。それでいて甘い。冷たい。それでいて熱い液体が、舌を痺れさせ、口内に濃厚な酒精を振りまきながら喉の奥へと落ちて行った。
 ラムの原酒を飲んだのは初めてだった。度数はどれくらいだろう? 腹の中で胃壁が焼け、熱が渦を巻く。米を食っておいてよかった。
 顔をしかめる友行の手から容器を取って、三足も一口、それを含んだ。それから、残りをぱっと祭壇の上へ撒く。炎が揺れ、ラグが濡れる。
 飲み口に蓋を被せて背後に置くと、三足は肩を準備体操の時のように二度、三度軽く震わし、それから両手を、前に突き出してきた。
「手首を握って。ちょうど脈に当たるように」
 既にアルコールの作用は始まっていて、友行は自分自身の駆け巡る血流を感じ、心臓の鼓動を聞いていた。その状態で三足の細い手首を握ると、今度は彼の脈が、掌の皺を通じて体に染み込んできた。
 三足も友行の手首を握った。それで彼らは互いを呑み合う蛇のように、一つの輪を描くことになる。その中心に、鉄柵のごとき模様があり、それは闇の中で、何か言いたい事でもあるように縦に光っていた。
「目を閉じて。リラックスしてて。
 門神を呼ぶ」
「…………」
 どっ。どっ。どっ。どっ。
 太鼓のように打たれる血潮の音を聞きながら、友行はなんとか、まぶたを閉じた。
 肌と肌の触れ合う、なんとも言えない危うい心地よさが、酔いに混ざって心を溶かす。異常な安堵感が体温を上げ、全神経を煮る。
 ああ、なんかこれ。やばいな。
 友行は思い、取り乱さないよう自制した。
 辺りはまるで墓場のように静かだった。
 窓の外は僅かに赤い。祭壇ではろうそくが燃えて不思議な匂いをふりまき、その前で女子供が音もなく笑っている。
 ふと、友行の耳に何か耳慣れない低い言葉が聞こえた。三足の声だ。――外国語だ。と友行は思った。
 当然、何を言っているかは分からなかった。けれど、こう脈が混ざり合った状態では、ともすれば自分にも意味が通りそうな気がした。
 もう少しで、チャンネルが合って、聞こえるようになる。たとえ知らぬ言語でも、不思議と意味が分かるようになる。そんな埒もないことを考えたその時。
 いきなりがちゃり、と何かが開いた音と共に、目の前にのっぽの男が現れた。
 友行はまぶたを閉じていたから、一瞬何が起きたか分からなかった。
 それは模様を踏んで立っていた。触れた事のない、異様な、空気。子供の落書きのように太い線で描かれた大きく、垂れがちな黒い目と鼻、唇、口髭。
 あっけに取られて見ていると、いきなりはだしの足が持ち上げられて、むんずと肩を踏まれた。次の一歩で、勢い傾いだ頭を踏まれる。
 男はそうやってこともなげに彼を踏み越えると、ものも言わず、そのまますたすたとどこかへ遠ざかって行ってしまった。
「………………」
「――よし、OK。やっぱり『筋』の位置が近いといいんだねえ。初めてとは思えないくらいの上出来だよ」
「……変なおっさんに、足蹴にされたぞ……」
「門神レグバだよ。すべての境界を司る老獪で偉大な神格だ。彼が通る時には路を開けないと、踏まれる」
「知るかそんなこと……!」
 三足の笑う、絹のような気配があった。
「それほど重くはなかったでしょ?  縁起物だよ。縁起物。
 ――じゃあ、そのままゆっくりと、周囲をうかがってみようか。何か見える? まぶたは閉じたままでいいからね」
「…………」
 友行は、釈然としない態でしばらくの間、黙っていた。が、やがてむ、と、眉間に皺が寄る。まるでその変化を見て取ったかのように、三足が言った。
「どう?」
「……俺自身が、見える」
「どんな君が?」
「床に座りこんで目をつむっている。これはまるで……」
 まるで、三足の目から自分を見たようではないか。
 それに気づいた時、体が最初の拒否反応を示した。脈拍が上がり、異常な体験に取り乱しそうになる彼を、三足の手が辛抱強く押さえつけて、ひたすら待つ。
 友行もなんとか理性を保とうとしたが、時間を要した。しばらく苦闘したあと、ようやく、声が出た。
「……なんだ。俺は、どうしたんだ……?!」
「どうもしないよ。前に言ったね。俺達は骨と肉の器に入った、ちっぽけな魂にすぎないんだって。
 今、君の魂(ボナンジュ)は肉体(コルプ・カダーブル)から一時的に離れて、俺の肉体に入り込んでいる。『跨っている』と言ってもいいね。
 だから俺が見ているものが見える。面白いだろう?」
 面白い。のかもしれない。だが、正直言って薄気味が悪かった。自分の声を録音して聞くと奇妙な感じがするように、自分の姿を自分の目で見るなんて愉快でない経験だ。
 もちろん友行はオートスコピーの話も知っている。確かに嫌なものだと思った。
「そろそろ、慣れた?」
「慣れない。早く本題に行ってくれ。胃がむかむかする」
「分かった。じゃあこれから、友ちんには俺の『筋』を、過去へと辿ってほしい」
「――どうやればいい」
「友ちんの魂は、今、俺の肉体に乗ってる。でも主じゃない。ゲストだ。
 だからこそ肉体に縛られず、自由が利く。
 いいかな。前を向いた状態のままでいいから、少しずつ、後ろに下がってくれる」
「下がるって、俺は座ってるんだぞ?」
「まぶたは閉じてるのに色々見てるだろ?
 今、君の体のことは関係ない。イメージして。片足を上げて、ゆっくり、半歩下がる」
「…………」
 ぐうん。といきなり視界が歪んで景色が変わった。暗い洞窟。松明の明かり。膝に響く石段の、硬く冷たい感触。
 そして、目の前で眼球を飛び出させ、歯を剥いて怒り狂う、老婆。
「……鬼婆が出てきたぞ」
「え、もう? すごいね、友ちん。センスある」
 友行は、本日二度となる鬼婆の悪相に辟易しながら、三足の声が、やや遠くなったことに気づいていた。内容は十分分かるが、何か道路越しのような薄い距離を感じる。
「――その要領でね、過去を見てほしいんだ。二ヶ月くらい前だから、夏休み前だな。とりあえず夏の記憶を抜けて、そこまで移動したら声をかけてほしい。微調整するから。
 今の調子で言うと、大体三十歩くらいだと思うんだけど」
 友行は移動を開始した。一歩、また一歩と後ろに下がる。そのたびに景色が変わる。
 その反復に慣れてくると、じき、視覚以外の感覚も追いついてくるのに気がついた。
 それほど生々しい情報ではないが、熱かったり寒かったり、痛かったり辛かったりする。
 音や声もはっきりとはしないが、それを聞いた快感や不快感はなんとなく伝わってきた。
 しまいに、運悪く女と絡んでいる記憶に足を入れてしまった友行は、流れ込んでくる五感の情報に閉口した。
 しかもそれが何度か続いた。時間や場所はおろか、相手の顔さえぼんやりして、はっきり分からないような場合もあった。その前後に何も知らない自分や、碧の記憶が出てきたりする。
「おい……」
 思わず文句が口をついた。
「――あ、ひょっとして、エッチなもん見てる?
 ごめんね。俺、フラグ立ってからしばらく遊んでばっかいたから」
 その声が突然に遠いので、友行は驚いた。手首にはまだ、彼の手の熱が感じられるのに、タイムラグさえあり、まるで違う国から電話でもかけているみたいだ。
 その理由を、友行の頭脳が勝手に理解した。自分はこうして一歩、後ろへ進むごとに、現在から過去へと遠ざかっているのだ。その時間的な隔たりが、この声の遠さを生んでいるのだ。
 自分は、時系列をさかのぼっている。『物語』の『筋』を、さかのぼるように。
 ――二度目の恐怖と疑念が瞬間、彼を襲った。
 一体これは、何だ? 自分は何をしているのだ?
 気の乱れが、次の着地を遅らせた。
 友行は三足の短い旅程を一気に飛び越えて、子供時代へ踏み入ってしまった。


 ――おかあさあん!!


 すさまじい慟哭の声が意識を覆った。どうも彼自身の声ではなさそうだ。
 けれどもそれは三足の総身を呑み込むばかりのすさまじい悲嘆として記憶されており、友行の血の気さえ奪った。
 意図せずそんな場面に接してしまった友行はさらに動揺し、今度は急いで進もうとした。
 と、女教師が出てきた。友行も知っている顔だった。それは彼を疫病神を見る目つきで睨み、相当脅迫的なことを雄牛のような声で話していた。
 友行は自分を叱りつけ、なんとか冷静になろうと努めた。次の一歩は反動をつけるようにして飛び、大学に入学した去年の春に、うまいこと着地することが出来た。
 そこには、自分が出てきた。花と緑に溢れる美しい季節の中で、自分は自分を、あの四年時の担任教師にも劣らぬ、深い侮蔑をこめたまなざしで冷たく見据えていた。
「――……」
 友行はその場に立ち止まり、しばらく移動を止めた。憎悪をむき出しにして自分をにらむ自分を、無言のまま見つめていた。
 やがて、空の果てから、三足剛のいつも変わらぬ軽い声が聞こえてきた。
「友ちーん。おーい。今、どこ?」
 友行は、やっと視線を外して、掠れた声で答える。
「去年の春だ」
「ああ、入学した頃かあ。
 行きすぎじゃない? 俺、その頃は別に……」
「――いや。そうじゃない」
 友行の動揺と失敗にも、それなりの価値はあった。
 過去へと踏み入れてその空気に触れたが故に、彼は死の呪いに冒される前とその後の、気配の違いを知ったのだ。
 現在の三足にまとわりつく血と死と不吉の匂いは、既にこの時点から始まっていた。
「お前、この頃にはもう呪われてたぞ。きっと」
「え……。マジで?
 ていうか、呪いの正確な始点を見つけるのは熟練の『読み手』でも難しいんだよ? 大抵はフラグの発症地点から逆算するの。
 友ちん。感覚鋭すぎ。天才じゃない?」
 褒められても、友行は、浮かれなかった。
 こうして彼の人生をのぞき見たからには、この程度のことはしないと、釣り合いがとれないではないか。
 それに――。
「しっかし、そうなるとこりゃあ、よほど念入りに呪われてるなあ。発症まで一年耐えたとは……。そこまでとは思わなかったよ」
「……自分では、見えないのか?」
「残念ながら、自分の『筋』は自分では読めないの。現在に立ちはだかる、自分自身がジャマでね。
 だから通常は、『読み手』同士で定期的にチェックし合うんだけどね」
 ――なるほど。それで彼はあの一族の『斎場』に呼ばれたわけだ。
 本当を言えば、あそこにいた誰かに対処してもらうべきだったのだろう。だが三足はそれを拒んだ。そして素人である友行に、彼を信頼さえしていない人間に、こんな危なっかしい助太刀を頼んだのだ――。
 友行は飛んだ。だいぶ見当のつけ方がうまくなって、ついに核心の時点へ着地できた。
 それは、居酒屋だかクラブだかの、廊下のようだった。壁面は鏡張りで、そこに『パーティーメニューのご案内』だの『お盆の営業予定』だの、掲示物が貼ってある。
 友行は、間接照明に照らされた廊下の半ばで立ち止まり、鏡に写る自分の顔を見ていた。
 もちろん、ガラスの向こうに現れる顔は、三足のものだ。彼は、驚愕していた。右の頬に、まるでタトゥーを入れたような、しかしそれにしては形状の意図が不明な、黒い不吉の最初の一点が、浮き出しているのに気づいたのだ。
 ああ。ここなのか。と友行は思った。
「三足。発症時点に着いたぞ。どうしたらいい?」
「――ありがとう。確かめてほしいんだ。足元に、……俺の足元に何か、落ちてない?」
「…………」
 言われて友行は、床の上を見る。そしてすぐに、何のことだか理解した。
 何か落ちているどころではない。血痕がある。その上に、両足を上にしてひっくりかえった小鳥の屍骸がある。
 こんな、飲食店の廊下に――?
「なんだこれは……」
「鳥の屍骸?」
「ああ……。ただ、なんだか、これは……」
「――やっぱり、そうか。
 ありがとう。友ちん。それだけ知りたかったんだ。
 連れ戻すよ。リラックスしてて」
 おい――?
 声を出す間もなかった。手首をつかむ両手に力がこめられたかと思うと、足が浮いた。
 そのまま針にかかった魚のように吊り上げられ、彼は、一気に『筋』をすり抜けた。
 飛ぶ彼の周囲で、記憶はまるで万華鏡のようにちかちかと瞬き、次々に早送りで過ぎて行った。
 少しずつ、着実に広がっていく痣。呪われた自分とは無関係に続く明るく平和な世界。
 激しい渇き。女達。危険と虚脱。疲労と空しさ。
 爛れた夏。大学からの電話。教官の呼び出し。心配する碧。無視している自分。無視している自分。
 隣室に住みながら、知り合いでありながら、彼を軽蔑し、無視し、何か勝手なことを言っている、冷淡な自分。
 そして、かと思えばある夜突然、施錠してあるはずのドアを開いて、闇の中へと無作法な手を突き入れてきた――
自分。



 ばたんと扉の閉まる手ごたえと共に、友行はこの世に『戻ってきた』。
 一見、何事も起きていないように思えた。ただ外がすっかり暗くなり、ろうそくの芯が時間分焼け焦げただけで、何が減り何が増えたわけでもない。
 ただ、実際に精神はある過程を体験したのであり、それは多かれ少なかれ現実の生活にも影響を与えるだろう。
 友行は、初めて知った。これが、宗教儀式というものなのだと。
 三足が静かに、ゆっくりと手を解いた。それから、懇切に礼を言う。
「どうもありがとう。知りたかったことは、ちゃんと分かったよ。
 しかし友ちんって本当に、何をやってもそれなりに出来ちゃうんだねえ。感心するよ。
 どうだった? ちょっとは面白かった? 悪いもん見たんじゃなきゃいいけど」
「………………」
友行は半ば呆然としながら、思った通りのことを答えていた。
「……嫌な、もんだな」
「………………」
「嫌な、もんだった」
 繰り返す友行に、三足剛はちらりと寂しげに笑った。その頬には、黒いむごたらしい痣が、悪い生き物のように、貼り付いている。



 おしまいに、おまけがあった。
 長い長い、異常に彩られた一日を終えて、友行がようやく家に戻ると、玄関のドアの前にスマートフォンが落ちていたのである。
 思わず、頬をひくつかせたその時、それがブーッと震動し、ぴかぴか光って、メールの着信を知らせた。








吉田氏出馬断念――尾川代表続投が事実上確定
 自由新党の吉田浩二議員は十五日、体調不良を理由として次期代表選挙への出馬を断念する意向を示した。吉田派議員は今後、各自の判断で投票することになるが、事実上、尾川代表の再選が確実と見られる。
 吉田議員は数年前から健康面での不安を抱えていたが、昨日は強いめまいを理由に国会を欠席。数日中に検査入院の予定だという。



 次の日の昼過ぎ。友行は大学構内にある、学務棟一階のカフェで、碧と会った。
 先に飲み物を持って、数少ないテラス席へ行くと、テーブルの上に誰かが新聞を置きっぱなしにしていた。空いている椅子に移そうとそれを持ち上げた時、どうしてか一面の記事に目がとまり、動かなくなった。
「………………」
「……友行。お待たせー!
 それで、結局、どうなったの?」
 追いかけるようにして碧がやってきて、飲み物を置き、椅子に座る。彼女はえさを待ちきれない雛鳥のように、早くも目をくるくるさせていた。友行は黙って新聞を置く。
 昨晩のメールの送り主は彼女だった。喧嘩の翌日に友行が講義を休んだので心配したらしい。
 が、実は三足といたのだと返信したら俄然勢い込んで話を聞きたがり、午後二時にここで待ち合わせということになった。
 さすがに、何もかもは話せなかった。病院に連れて行こうとしたが、途中で煙にまかれてしまったと言って煙にまこうとしたが、上首尾には行かなかった。
 碧はみるみる落胆して露骨にがっかりし、友行の手ぬるさを容赦なく責めた。
「なあんだあ……。じゃあ、結局病院に行ってないってこと……。
 せっかく出かけたんなら、もうちょっと強引にやってくれたらよかったのに。ていうかもうその時点であたしに電話一本くれてたらスッ飛んで行ったのになあ……!
 ――今朝は会った? どんな様子だった?」
「……知らない。会ってない」
「えー?! なんで行ってみないのよお。今日は行けるかもしれないのに……。
 もー! あたしが隣に住んでたら毎朝、起こしに行くよ! そんでもって、お部屋の掃除して、朝ごはん作ってあげるのにー!」
「…………」
 風で飛びそうになったナプキンを黙って戻してやった後、友行はテーブルに伏せてぎりぎりと歯軋りしている彼女に、丸い目を当てた。
 嫉妬など、覚えなかったと言えば嘘になる。が、それよりも疑問の方が先だった。
 前にも、こういうことを言う女子に会ったことがある。一見かなりキツめな印象なのに、実際には彼氏ができたら相手の家に上がりこんで掃除洗濯買い物料理、なんでも。なんでもしてあげるというのだ。
 友行が理解に苦しむという顔をしていたら、その子はしたり顔で彼の肩をどついたものだ。
「もう、愛が足りないなあ、友行は!」
 まったく同じ台詞を、がばりと起き上がった碧が口にする。
「こんなに頼りにしてるのに! 普段はどんな仕事でもチャカチャカやってくれるのに! みんなのこと助けてくれるのに! どうして三足君のこととなるとこうなの?」
「…………」
「三足君のことが、嫌いだから?」
 友行は、さすがに苦い気持ちになった。
 ――嫌い。
 嫌いだよ。
 けれども友行も、嫌いな奴に、わざわざ悪いことをしてやりたいとまでは思わない。できることなら、いいことをしてやったほうが、いい。
 だってそのほうがご立派だし、気分がいいし、自尊心も満たされる。碧の点数も上がるというわけだ。
 だが。三足剛に関しては、友行は、もうまったく分からない。
 一体何が、彼にとって『いいこと』なのか。
「碧。碧はあいつを病院に連れて行くことに固執してるようだけど、……あいつ本人に、その意志はないよ」
「そんなの。分かってるよ」
「え?」
「多分、三足君、お医者嫌いなんだよ。前、一緒にホケカンに行くのだってものすごい嫌がってたもん。
 でも、そういうふうに逃げ回って、調子が悪くても検査に行かないような人が一番危ないんだよ。だから、無理にでも連れて行かないとダメなんじゃない。
 何もなかったらそれでいい。でも何かあったら、後で悔やんでも遅いんだよ。
 ――友行はそれくらい、分かってくれてると思ってた。あたしがなんか勝手にバカみたいに騒いでると思ってたの?
 前も言ったけど、残念だな。どうしてもっと味方してくれないのか分かんない。だって友行、前はさ、三足君、助けてくれたのに……」
「…………俺は、何もしてないよ」
「見つけてくれたじゃない。三足君のこと。
 あたしの中で、友行って正義の味方で、『いつもいいことをしてくれる』、『人を助けてくれる人』っていう感じなのにな」
 風が吹いて、ぱらぱらと落ち葉や周囲の木々が音を立てた。さっきまでわりと晴れていたのだが、少し雲が厚くなってきている。風も冬をはらみ、思ったより冷たいようだ。
 碧はバッグからカーディガンを取り出し、肩に羽織った。それを見届けた後、友行はどんどん冷めていく紅茶のカップを両手で包むようにして、言った。
「……生憎だけど、碧。俺が、今まで生きてきた中で、掛け値なしに『いいことをした』って思ってることは、一つしかないよ」
「……え?」
「高校の時、通学で乗ってたバスの中に、蝶が迷い込んだんだ。
 鳶色で地味だったけど、羽に大きな目があって、まだ若くて、きれいな蝶だった。
 そん時バスに乗ってたのは、同じ高校の男どもと、おばちゃんと、黄色い通学キャップかぶった近くの私立の小学生だけで、みんななんとなくそれが気になってたけど、うまく対処出来なかった。
 男どもは、予想にたがわずなんでかそれを殺そうとするし――、おばちゃんも小学生も心配しながら、とても手を出せない感じだった。
 蝶はあっちこっち逃げ惑って疲れたんだろうな。何を思ったか、立っていた俺の辺りまでふらふら飛んできて、前の席に座ってた男の子のキャップの上に、停まったんだ。
 だから俺は、両手で、こうやってその蝶を捕まえて、次の停留所に着いてドアが開いた時、それを外に放してやった。
 ――あれだけだよ。未だに、思い出すたびに『いいこと』をしたって思うのは。
 でもその他のことはみんな、よかったんだか悪かったんだか、分からない、曖昧なことばかりだ」
 お年寄りに席を譲ったが、いらぬおせっかいだったかもしれないし、手元不如意な友達に金を貸したけれど、そいつには悪いことだったかもしれない。
 いいことをするのは、難しい。
「俺は確かに、三足剛を見つけたよ。でも、その後であいつは責められた。言うことを聞かず、ルールを守らないからこんなことになるんだって。
 碧だって聞いただろう? お母さんが、PTAやってたなら」
「…………」
 友行も、本当は少し、聞いたことがあったのだ。母親達が声を潜めて交わす噂話の断片。
 そして昨夜、友行は『実際に』それを見た。保護された後、三足は、担任であった女性教師から家族の面前で、十歳の子供に対してはとても正当とは言えないような痛烈な侮辱を受けたのだ。
 家族と学校との関係は悪化し、結局一度も登校することなく、三足は夏休み中にあの地を去った。
 友行が彼を見つけたからだ。
「あの時のことを思い出すたび、分からなくなる。
 俺は三足を見つけたほうが良かったんだろうか。それとも、そうじゃなかったほうが良かったんだろうか」
「……な、何言ってるの……! そんなはずないじゃん。だって……!」
「あいつは、あのまま、見住の山で遊んでいたかったのかもしれない。それとも、いっそ、失踪は、あいつの意志だったのかもしれない。
 いつも、校庭でも一人だった。どこにも居場所がなかった。そうだろ?
 ……誰もあいつの本心を聞いたことのある奴なんていない」
 自分の行動が、他人にどう影響するか、どこまで追える。すさまじい不幸の原因になっていないとどうして断言できる?
 その時はいいことをしたつもりでも、後になって考えたら相手にとってひどく悪いことだったというめぐり合わせはいくらでも有り得る。
 冷酷に絡み合う『筋』。
 碧だって、あのストーカー男に優しくしてやったことがあったろう。
 天が曇り、本当に寒くなってきた。隣に座っていた女の子達が、『鳥肌―』などと言いながら、次々に室内へ戻って行く。
 自分たちも、そうしたほうがいいかな、と友行が思ったその時、ずっと黙り込んでいた、碧が口を開いた。
「……あたしバカだから……。
 友行が何を言いたいのか、よく、分かんない」
 ――ああ。また彼女にこんな声を出させてしまった。
と友行は俯いた。何故だか友行はいつも、無邪気な彼女を脅かし、悲しませ、失望させてしまう。
「でも、友行があたしの希望通りに動いてくれないんだってことは、分かった」
「…………」
 そして彼女が無邪気なりに鋭い理解を示すところも例の通りだ。
「三足君、来るんだよ。もうすぐ、ここに」
 え。
 友行は思わず彼女の顔を見た。碧は大きな目で、頷く。
「人見先生に聞いたの。今日が、後期の単位登録の本当に、本当に、ほんとーに最後の締切日なんだって。
 今回の呼び出しに応じなかったら、もう書面で保護者に連絡が行くんだって。
 三足君、来るって約束したって。
 先生も来るはず。ひょっとしたらもう来て、上にいるかも。
 あたし、友行も、一緒にいてもらおうかと思ったんだけど……。
 あ」
 碧の声と視線に振り向く。緑と講義棟に挟まれた学内の道を、三足剛が歩いていた。
「ごめんね、友行。あたし、行くね。
 あたしは三足君のこと好きだから。力になってあげたいの」
 きっぱりと言い切った碧は、自分の持ち物をまとめると、ジュースのグラスを持ち、椅子までちゃんと収めてテラスを出て行った。
 友行は一人残って、彼女がウサギのように小走りでカフェを横切り、学務棟の玄関へと向かうのを、片肘をついて見送った。
 胸が痛んだ。痛んだが、しょうがない。
 友行は彼女が言うことももっともだと思うのだ。相手が好きだ。だから助ける。何が悪い。
 本当に何が悪いのだろう。きっと俺は彼女が言う通りに疑い深くケチなんだろう。
 ただ、どうしても、友行は知っていて、忘れられないだけだ。
 自分の善意の行動が相手を窮地に追いやることもあるのだと。そして自分が『いいことをした』と思えるのはただ、相手を、相手の希望通りにしてあげた時だけなのだと。
 だから本当に『なにかをしよう』と思うなら、多くのことを知らなければならない。
 俺は何も知らなかった。
 その努力さえしなかった。
 相手の無抵抗と自分の立場の強さにいい気になって彼を軽蔑した。
 ――あの、眼。
 あの自分の、嫉妬にかられた、性根の腐った、いやしい緑色の眼!
 昨夜、三足に言った言葉は、あのダイブについての感想ではない。そこで目にした自分自身に対する呆然の吐露だったのだ。
 そんな自分が、三足を『助けてあげる』?
 偽善だ。なんという胡散臭さだ。考えただけで赤面ものだ。
 大事な孫だなどと嘯きながら、土壇場で助ける代わりに条件を飲めと言ったあの鬼婆と、どれほど違うと言うのだろう。
 弾劾され、罰されるべきなのは、本当は、自分達かもしれない。本当は、この欺瞞に満ちた世界の中で、三足剛だけがたった一人、フェアプレイをしているのかもしれない。
 碧を取られるのも、当然だ。
「……よかった! じゃ、行こうよ。ここの三階だよ。多分、人見先生も待ってるから」
 その碧の、鳥のさえずりのような声が聞こえる。階段にそって植えられた生垣のために見えないのだが、二人は無事落ち合って、ゆっくり玄関に向けて歩いて来ている様子だった。
 友行は新聞を広げて顔を隠した。彼らが上へ行ったら、カフェを出よう。雲行きも怪しいし、と思ったその時。
「――あれ? 三足君。どうしたの?」
 碧の驚いたような声が、ほんの生垣越しに聞こえてきた。
「……気分でも悪いの? いきなり、立ち止まっちゃって……」
 友行は見えもしないのに、常緑の植物を見た。そこから、気配が動かない。何か、起きたようだ。
「大丈夫? 確か、上に座るところあるよ。行って、休む?」
 三足からの返答はない。そうこうするうちに自動ドアの開く音がし、別の一人の声が今度は建物側から聞こえてきた。
「三足君! 待ってたよ。どうしたんだい」
 講師の人見だ。三足や友行の指導教官。碧の読みどおり、既に学務棟にいたらしい。
「あ。先生。三足君、体調が悪いみたいなんです」
「体調が……?
 ……とりあえず、入りなさい。上へ行けば椅子がある」
「がんばって、三足君……」
 それでも、気配は動かなかった。
 友行は立ち上がった。びっくりするくらい何も考えていなかった。本当だ。
 でなければ、いくら他に学生の姿がないと言っても、席に飲み物や新聞、かばん一式まで、全部置いて移動したりするはずがない。
 室内へ戻ると、その入り口を抜けて学務棟一階のロビーへ出た。さらに玄関の自動扉へと大股で直行する。
 気温差のせいか、体を悪寒が走りぬけ、馬鹿馬鹿しいくらいぞくぞくした。見慣れたガラス扉が中央から左右に割れた瞬間、強烈な悪意が彼の神経を波打たせ、慄然となる。
 三段の、タイル貼りの階段の下に、三足とそれを囲む二人の姿があった。
 彼は、実際、学務棟入り口のほんの数歩前まで来ていたのだ。だが、そこで動けなくなっていた。上体を前に屈めて、両膝に手をついている。
 碧は必死に彼に声をかけ、なんとか助けようとしている。が、人見の方はやや距離を取って立ち、困ったように彼を見つめているところだった。
 疑っているんだな。と友行にも分かった。いくらなんでもこのタイミングは有り得ないからだ。何も知らなければ自分だって同じように考えるだろう。この生徒はつまり、弱すぎて、フェアプレイの出来ない人間なのだと。
 その時、まるで気配を察しでもしたかのように、三足が伏せていた顔を上げて、まっすぐ友行を見た。
 真っ青だった。友行は胸を突かれ、今更に動揺した。何故ならそれは、あの霧の朝の、昏倒寸前の顔色とまったく同じ白さだったからだ。
 痣は見えなかった。消しているらしい。だが友行はその禍々しさがかつてないほど増大し、周囲におぞましい鬼気を振りまいているのをありありと感じていた。
 倒れた、インクの、壺。
 ……ひょっとしたら今彼は、全身が斑に冒されているのじゃないだろうか?
 友行は階段を駆け下りると、講師の人見を押しのけるようにして三足の右肩をつかんだ。
「白尾君……?」
「友行?!」
 驚く二人に構わず、友行は三足の耳に口を寄せて囁いた。
 予感があった。
「――……『罠』、か?」
「…………」
 三足はわななく灰色の目で、彼を見ただけだった。それが返答になった。
「やばいのか」
 二度三度と、小刻みに顔が縦に動く。
 その目が、何かを訴えたがっていた。だが、十分は汲み取れない。友行は動いた。
「――先生。こいつ、無理です。今日は勘弁してやってください」
「ええー……。困るなあ、いい加減……。上で学生課の人も待ってるんだ。
 これでも、拝み倒して、やっとセッティングしてもらったんだよ。本当に、これ以上は、僕もどうしようもない」
 困惑しながら、心からの同情を示せないでいる教官の態度も、無理はないと友行は思った。彼もまた、三足には振り回され続けてきたのだ。
 ようやく問題が解決すると思ったら、その直前でこの騒ぎでは。まじめな人柄だけに腹も立つだろう。
「だったら、先生。こうできせんか。とりあえず、保健管理センターで休んで、気分がよくなったらまた来ます。絶対、今日中に手続きさせますから」
「あ。それいい……! 先生、お願いします!」
 碧が懸命に援護してくる。教官は心底困ったように二人を見やった。その時。
 ぎゅうっ、と、三足の右手が友行の左手首をつかんだ。友行は驚いて彼を見た。
 三足が、必死に首を振る。横にだ。
 ダメだ。という意志表示に見えた。
 だが、もどかしいまでによく分からない。ダメ? 何がダメなんだ?
「……げろ」
「……?」
「連れて逃げろ。ここから……!」
「――いや、やはり、ダメだ。いくらなんでもこれ以上の特別扱いをするわけにはいかない。これまでにも、何度も注意を促してきた。知らないとは言わせないよ。
 どのみち、この状態じゃ、実際の履修も無理じゃないか? 上へ伝えて、僕は降りる。後は大学に任せる」
「あ。あの、待ってください! 先生、待ってください!」
 追いすがる碧の必死さがかえって教官の怒りに油をそそいだ。
「――どうして友達にばかりしゃべらせるんだ、三足?! これは君の問題だぞ、友達には帰ってもらいなさい!
 本当にやる気があるのなら、少しくらい体調が悪くても、我慢して来なさい。無理ならもういい。僕はもう、十分待ったよ」
「…………」
「さあ」
 気圧されて、碧が体を引いた。人見がその間に手を割り込ませ、三足の左腕をつかむ。
 三足の顔が恐怖に歪み、眦が割れた。そんな顔を見たのは、初めてだった。
 思わず、置いていた手に力をこめたその時。友行の耳に、
「は……」
 ため息のような三足の声が聞こえた。
「――放せ……ッ!!」
 三階建ての学務棟の、道に面したすべての窓ガラスが一斉に粉砕された。
 すさまじい音を立てて砂のように、徹底的に粉々になり、どんもりうって四方に飛び散った。
 きゃーっという悲鳴が上がり、友行らは気づいたら、石畳の上に尻餅をついていた。
 驚愕して目を上げると、学務棟の窓は、自動扉を含めてすべて吹っ飛んで窓枠だけが残っていた。破片は一階カフェの露天部分に降り注ぎ、さらにつつじの生垣を越して道路にも大量に飛散して、きらきらと光を放っていた。
 通りすがりの学生達が、あまりのことに口を開けてポカンと棒立ちになっている。
 友行は、足元に碧が倒れていることに気づいて、慌てて腕を伸ばし抱き起こした。
 彼女は失神していた。破片で額を切ったらしく、ほんの僅かな血が友行の見ている前で小さな耳の方へと滴って行った。
 友行は言葉もなく、呆然と、それを見ていた。
「なっ……! なんなんだ……?! これは。どうしたんだ?!」
 奥では人見が腰を抜かし、錯乱して喚いている。
 そして、三足剛は、友行の斜め後ろに座りこみ、負傷した両手を上げて、頭を抱えていた。
 一言も。一言もなかった。その沈黙が、かえって彼がこの爆発を引き起こした本人だと友行に告げていた。
 騒ぎを聞きつけた無関係の学生や職員達らが、彼らを助けようと、血相を変えて駆け寄ってくる。


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