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  幸いにも、怪我人は十人程度で、みんな軽症で済んだ。ほとんどが破片で少し皮膚を傷つけた程度だった。
 寒かったために、テラス席に学生がいなかったことも幸運だった。置き忘れてあった友行の鞄やカップは、粉々のガラスまみれになっていた。
 救急車はもちろん、なぜか消防車までが大量にやって来たが、搬送されたのは碧を含め二人だけだった。他はみんな保健管理センターに保護されて掃除機で吸われ、手当てを受けた後、やってきた警察に集団で事情聴取された。
 いきなり、ガラスが爆発したんです。わけが分かりません。
 人見教官が言ったその台詞を、友行も三足も、ただ繰り返すしかなかった。
 保健管理センターの女医の話では、碧も運ばれたもう一人の職員も、大した怪我ではないということだった。
 ただ若干動揺があるので、落ち着くまで一晩入院するかもしれないそうだ。
「大丈夫よ。退院したら必ず向こうから連絡があるでしょうから。それまでは辛抱して待ちなさいね。それが相手のためよ」
 きれいで懇切な女医の言葉に、友行は頷き、帰ることにした。未だものすごく落ち込んでいる三足を促し、やっと立たせる。
 人見教官が、女医の後ろに隠れるようにしながら、疑惑と恐怖の眼差しで、三足を見ていた。その目つきは、はっきりと、「この災難は、そいつのせいだ」と言っていた。
「――『罠』だったんだ」
 すっかり暮れた道を、並んで歩いている時、三足が言った。
「強力な、一気にカタをつけようとする、本気の『罠』だった。
 あの建物に入ったら、俺は死んでた。死に様は分からないが、確実に殺されてた。
 ……『罠』は、爆薬と一緒で、上手に解除しないと、破裂する。
 素人が弾みで作る『罠』なら……、ほんの些細な干渉で解除できる」
 たとえば、白い花の一本で?
 あの花のために彼女は救われ、そして今日は傷ついたのだ。
「逃げたら、無関係の人間が大勢巻き添えになる。それも含めた、『罠』だった。
 なんとか、したかった。なんとかしたかったけど…………できなかった。最低だ」
 ぽつん。ぽつんと。道が鳴ったと思ったら、雨が降ってきた。
 彼らは二人とも傘を持っていなかった。冷たい水が髪をぬらし、やがて首をつたって腹へと落ちた。
「ごめん」
 謝るなよ。前を向いたまま、友行は思う。謝ってもらっても仕方がない。
 彼はそれきり黙ったが、考えていることは分かっていた。
 俺のせいだ。俺のせいなんだ。
 こんなことになるなら、入ればよかった。
 人が傷つくくらいなら、俺が死ねばよかった。




 雨が本降りに変わった夜には、事件は、テレビニュースになってしまった。
 当然だろう。彼らの通っている大学自体はマイナーな二流どころだが、白昼、突然ガラスが割れるなんてあまりに派手だし、絵になりすぎる。
 他にめぼしいニュースがなかったこともあって、各時間枠のニュース番組が始まる度、友行は破壊された学務棟の映像を見せられることになった。
 テロップには『いったい何が……』『大学で窓が爆発』『竜巻? 突風?』。インタビューに答える学生達は「いきなりガシャーンってなって」「もうびっくりして、携帯で119番」「倒れてた子もいましたね」などと、言っていた。
 各ニュースは必ず「警察は詳しい状況を調べています」で終了したが、それを聞いた友行は、いつか警察までが三足に手を伸ばす可能性を初めて意識し、息が苦しくなった。
 どんどん彼が包囲されていくのが分かる。
 スマートフォンが震えた。飛びつくようにして取ってみると、碧からだった。
『連絡遅れてごめん。退院してきたよー。
 あれ一体なんだったんだろう??? びっくりだね。気絶なんて、人生で初めてッス。
 二人とも怪我なかった? あたしはぜんぜん大丈夫だから心配しないで。
 ミツタリ君にもそう言っといてね!』
 ――かなり、ほっとした。彼女の明るさにひどく救われた気になり、碧の希望通り彼にもこれを伝えようと思った。
 彼だって、気持ちが軽くなるに違いない。
 外に出たら、吐く息が白くなった。雨のせいでさらに気温が下がっている。
 寒さをこらえながら、隣のドアをノックするが、返事がない。それに前から思っていたが、ここのドアチャイムは電池が切れているようだ。
 今夜は鍵も閉まっていた。なぜか、居留守じゃないと思った。
 気配がない。本当にいないのだろう。
 ――どこに行ったのだろう。
 大丈夫だろうか。
 いくらなんでも、今夜は女漁りじゃないだろう。むしろそんななら、友行も何も心配しないのだが。
「…………」
 仕方がないので、部屋へ戻った。念のために壁をノックしてみたが、反応はない。
 諦めてたばこでも吸おうと台所に灰皿を取りに行ったその時、外でバタン、バタン。と車のドアの閉まる音がした。
 誰かが階段を上ってくる足音。変なリズムだった。片方は規則正しいが、もう片方はふらつき、酔ってでもいるような乱拍子だ。
 ドアの錠が回る音も、台所にいたのでよく聞こえた。間違いなく隣室だった。
 やがて重たいものが放り出されるような音がした。会話らしきもぐもぐとした声。友行はもう、その頃までにはたばこをジーンズの後ろにしまい、たたきで靴を引っ掛けていた。
 最後の一言だけ聞こえた。
「頼むから、二度とこんな事件を起こさないでくれ。
 次があったら俺は、お前を殺してしまう」
 さっき閉めたドアを再び開けた。冷たい夜気と共に血の匂いが流れ込んで来た。
 貧乏くさい、雨の音のこもるアパートの廊下に、場違いなほど仕立てのいいコートを着た肌の黒い美丈夫が立っていた。
 彼は、明らかに黒人種との混血だと分かる風貌をしていた。背が高く、眼鏡をかけ、ものすごく頭がよさそうだ。
 友行は一瞬、彼を死神かと思った。
 けれど、相手がドアに鍵をかけるのを見て、思い直した。
 どこの世界に、人のアパートに施錠して去る死神があるか。
 男は鍵をポケットにしまうと、遠慮深く僅かな目礼して、すっと身を翻し、階段を降りて行った。
 友行は、車のドアが再び閉まり、エンジンがかけられて、走り去る音が届くまで、辛抱強くその場に立っていた。
 それからようやく静かになると、隣室のドアの前に立ち、ノブに手をかけた。
 がちゃりと、鍵は開いた。いつもと同じ。中は、真っ暗だ。
 血の匂いをたよりに、前よりは片付いた台所を進んで居間へ入る。前と同じ暗い場所に、三足剛が両手両足を投げ出して、座っていた。
 彼は、暴行されていた。めっためったのぎったぎったにされていた。友行を見るとやる気なく手を上げて笑った。壊れかけの人形のように無残な笑みだった。
 大体、痣が顔のほとんどを覆っているのだ。その上に殴られて、腫れ上がった肉のせいで右目は埋もれ、鼻の周囲には鼻血の出た跡が残っている。
 唇は派手に切れ、かさぶたができかけていたが、かえって生々しく、見ているこちらの顔が歪むほど痛そうだ。
 ――ぐちゃぐちゃの、めちゃくちゃの、ぐずぐずだ。
 くたびれきって、ちゃんと座れない様子だった。ただ顔ばかりへたへたと動かして、彼は、卑屈に笑う。
「また、来ちゃったんだ。
 てゆうか、なんでこういつもするっと入って来ちゃうかなあ、友ちんは……。
 鍵かかってるでしょーに。どおなってんの?」
「俺は知らない。お前が外してるんじゃないのか」
「えー? そーかなあ。身に覚えがないけどなあ」
 友行は、ジーンズの後ろからシガーケースを取り出し、白い紙巻きたばこを指でつまんで身を屈め、彼の唇に差し込んだ。
 それから自分も一本口に入れると、ライターを取り出し、彼に先に火をつけてやった。
「どーも」
 吸い込む息で赤が長く勢いづき、それから、たっぷりの煙が吐かれた。
「うまー」
 友行は彼の前に腰を下ろし、胡坐をかく。
「……今、部屋の前で男とすれ違った。あれ……、お前の、兄貴だろ」
「そー。素直と書いてモトナオ兄貴。外資の証券リーマンだよ。かっこいいだろ?」
「思い出したよ。確かにお前には、兄弟がいたな。けっこう年が離れてて、あの頃もう、高校生くらいだった」
「そーなのよ。親父がアメリカに戻ってからは俺の親代わりでさ。ここの家賃も学費も、全部兄貴が払ってるの。
 ――『まともな人間になる』。っていう、条件つきで」
「『まともな人間』?」
「遠足の途中でいなくなったり、大学の窓ガラス割ったりしない奴ってことでしょ。
 勉強できて、時間守って、清潔で、冷静で、社会性があって、兄貴か、友ちんみたいな奴ってことじゃない」
「――そんな『まともな奴』が、無抵抗の弟を殴るのか」
 相手が自分のようでないからと言って。
「『なんで分からないんだ』って、泣きながらね。
 ……傷ついた人なんだよ。
 おふくろが、『読み手』同士の戦いに敗れて、斑にまみれて死んだ時、兄貴は十五歳だった。辛かったはずだよ。俺みたいにガキじゃなかったし、親父みたいに大人でもなかった。昔から繊細で、頭のいい人だったしね。
 なんでこんなことになったのかって、そのいい頭で真剣に考えた。――『読み手』――呪い――『物語』。
 ……そんなヤクザなことを、やっているからだ。母がまともに、大勢の人々のようにズルをせずに生きていれば、こんな無残なことは起こりえなかった。そうさ。
 以来兄貴は、地下の世界を、全否定するようになった。この世の明るい場所のことだけ一心に見つめ、そこに居場所を作ろうと努力し、俺にもそうさせた。
 おふくろ亡き後、ミタリのばあちゃんが手ずから俺を養育しようと申し出たが、それも兄貴が拒否した。ふざけるな、自分はもちろん、弟の俺も絶対『読み手』になんかしないと告げて大喧嘩をやらかした後、親父の転勤を利用して一族との縁を断った。
 ――あの、遠足騒動の後、あの担任の女狐とやり合ったのも、兄貴だったよ。まだ高校生一年生だったんだけどねえ。
 家族愛の、闘士ってやつだ」
「あの事件……。本当は、なんだったんだ?」
「――『神隠し』さ。昔ながらのね。
 あの山に住んでる神様が、俺と遊びたがったんだよ。でっかいマムシの精だった。
 誰かに呼ばれたような気がして列を離れた。頭から丸呑みにされたよ。あまり憑依がひどいと、体ごと隠されちゃうことがあるんだ。
 あと三日あのままだったら、俺、多分溶かされてたね。戻れてよかったよ。向こうに悪気はなかったと思うんだけど、人外には人の事情は分からない。
 『読み手』になるような人間は、どうも精霊の興味をそそるらしくて、昼夜問わずあちらこちらからちょっかいを出される。道に細工をされたり、迷わされたり、呼ばれたり、からかわれたりね。
 特にこどものうちは、対処が難しい。社会の側からすれば立派な問題児だ。いろんな病名を疑われたな。
 あの担任、ずらずらっと五六種類もの診断名上げて俺がそれだって決めつけて、『私にはそういうお子さんの面倒は見られません。迷惑です』なーんて言ったもんだから、兄貴がもう怒っちゃって。
 こいつはそんな奴じゃないんだ。絶対普通になれる奴なんだって、転校後はもう、つきっきり。毎日送迎にお勉強。……俺、あの人に義務教育施してもらったようなもんだよ。
 おかげで高校時代は少しは落ち着いてた。受験勉強も全部兄貴が見た。大学合格して、これでやっとお前も一人前だって、一人暮らしさせてもらって一年で、これだもん。
 怒るのも無理はないよ。
 憎くて殴るんじゃないんだよ。俺が、分からないから、バカだから、裏切るから殴るんだ。仕方がないんだよ」
「……お前の兄貴は、事件を起こしたこと、ないのか?」
「うん。兄貴も『素養』があるからね、やっぱりちょっかいかけられたりするらしいんだけど、鋼の精神力でハネつけてるの。えらいよね」
「………………」
 友行はたばこを持った手でちょっと眉の上を掻いた。
「……まあいい。
 じゃあ、お前の兄貴は、お前がこのまま呪い殺されてもいいって言うのか」
「兄貴は、このフラグのことは、何も知らないよ。痣も隠しといた」
「――はあ?」
「兄貴は、俺がまた、何かそこらの『神』にのせられてこんなことをしでかしたんだろうって思ってるよ。今も。
 実は、ばあちゃん達と付き合いがあるのも、秘密なんだ。大学合格が決まって暇になって、前々から興味のあったハイチの信仰について調べ始めたらどんどんハマっちゃって。じき、自己流で地下へもぐれるようになった。
 うろうろしている間に、紡子に見つかったんだ。こないだと同じ手で、すぐにあの斎場に連れて行かれたよ。
 久しぶりにばあちゃんと会えて嬉しかったけど、分かったな。なんで、兄貴が一族との絶縁を決めたのか。
 今朝の新聞読んだ? あれでいくら稼いだやら。俺にもあれをやらせるつもりなんだ」
「なんでちゃんと言わないんだ。フラグのことを」
「…………言えないよ」
 友行の脳裏を、さっき見た頑丈で、美しい男の姿がゆっくりと過ぎて行った。
「こないだ、友ちんに見てもらったから分かった。俺を呪ってんのは、ロワゾの人間だ。具体的に誰だかは知らないけど、お袋を殺したのと同じ連中だよ。
 やっぱりハイチ発祥の『読み手』の一族で、前々から親父の一族とは仕事がらみで因縁の仲だったらしい。
 おふくろは、完全にミタリの女だったからね。親父に攻撃を仕掛けてきた連中を返り討ちにして、多分、何人か殺した。そこから、果てしない復讐戦の開始ですよ。
 ……あの人は、俺をそんな不毛な循環から守るために、ひたすらがんばってきたんだ。守ることが、彼の生きがいなんだ。
 それが、しっかり守ってると思い込んでいた俺が、知らぬ間にまたそんなものに手を染め、巻き込まれていると知ったら、どれだけ悲しんで、自分を責めるか分からない。
 ……俺は兄貴に、そんな思いはさせたくない。できない。
 それくらいなら……」
 死んだほうが、ましか。
 ふうー……っと、ものすごく長い煙を天に向かって吐いた後、友行は湧き上がる感慨に、まぶたを閉じた。
 ――ようやく。ようやく、三足剛が何の話をしているのか、自分にも分かってきた。
 彼は憎悪と呪術と生と死の物語をしているのだ。
 三足剛は代々続く『読み手』の末裔で、知らぬ間に敵から、死の呪いを受けた。呪い手が誰かは不明だが、母を殺したカタキの一族の者だという。
 紡子によれば、三足には神官として天賦の才能があるのだそうだ。
 ところが、それでも呪いは何ヶ月にも渡って解消されぬまま体に居座り、今日は危うく、殺されるところだった。
 そんなことになるのは、三足が罠と憎悪に取り巻かれ、何もかもから孤立させられているからだ。
 亡母の強力な一族には? ――頼れない。何故ならその宗主は『かわいい孫』の危機だと言うのに、その弱みにつけ込んで彼を奴隷にしようとするからだ。
 父は国外に去り、残った唯一人の兄にも頼れない。兄は彼が、『読み手』であることを許さないからだ。
 社会にも拠り所はない。医者の出番ではないし、人々はもちろん、知り合いさえもが彼に、怠け者や胡散臭い奴、気持ちの悪い奴というイメージを持って、関わりを拒んでいる。
 まさに、死亡フラグだ。
 この筋の中では、三足剛は死ぬしかない。
 斑神が、バロン・サムディが、彼の上に跨ってやりたい放題するのも道理だった。彼は既に手中に落ちた獲物なのだ。
 そして、友行自身もまた、それに無関係ではなかった。
 彼も、軽蔑した。三足を呪い殺そうとする連中に、力を貸した。今の彼を閉じ込めている『罠』のモザイクには、友行の流し入れた硫酸銅の青が間違いなく混ざっている。
「フラグが立って、二ヶ月だけど。さすがに段々、分かってきちゃうね」
 三足の乾いていて明くて、何に対してもまったく絶望したその声。
「俺の居場所なんて、最初からこの世界のどこにも用意されてないんだなって。
 大人になれば、ちっとはマシになるかなって思ってたけど、そうでもなかったや。これだけ馴染めず、どこへ行っても、誰からも憎まれるってことは、俺は初めから『物語』に必要ない『筋』だったんだ。捨て去られるさだめなんだ。
 バロン・サムディは、紳士だよ。誰一人拒まぬ慈愛の主だ。少なくとも彼だけは、俺を両手に抱き止める。
 だから、なんか、最近は、思ってた。女と面白くもないセックスをしながら。
 もう抵抗するの、やめようかな。このまま、殺されようかな。
 そうしたら埒が明ける。果てしない戦いも終わりだし、俺もありもしないものを、これ以上探さずに済む。
 俺みたいな奴がいなくなれば、兄貴も、ばあちゃんも、大学も、そして誰だか知らないけどロワゾの奴も、その実ほっとひと安心。そして『物語』は、磐石に続く――。
 悪くないじゃない。それも」
 友行は、傍に放り出してあったコーヒーの缶を引き寄せると、まず、灰を落とした。それからたばこを角に当てて先をひねりつぶすと、前には液体で満たされていた闇へと落とした。
 彼のために、缶を前に置き、それから、言った。
「だめだ」
 三足の見開かれた左の瞳に友行の姿が写っていた。
「お前を呪った犯人を見つけよう。
 そしてその呪いをたたき返してやろう。
 お前は生きるんだ。
 死ぬなんて許さない」



 闇の中で、三足のぐたっとした体が波打った。たばこを口にくわえたまま、笑っていたのだ。
「なんで、友ちんが、そんなこと言うの」
 三足は蛇のような目で彼を睨んだ。
「あんたは、俺が嫌いでしょ?」
「嫌いだよ。――大嫌いだよ。時々はお前なんか、死ねばいいと思うよ。
 けれども俺は、その自分の願いが、かなったらいいとは思わない。
 そんな願いがかなう世界は、呪われた世界だ。俺ならケチな自我を守るために世界を呪いで汚そうとは思わない。お前だって、そうだろう?
 そいつにも、お前を呪った奴にも、お前のばあちゃんにも、お前の兄貴にも、言ってやれよ。
 違うんだって。世の中はそんなに、甘くないんだって。
 おいそれと、誰かの望みがかなったり、誰かの呪いが通ったり、そんな簡単なもんじゃないんだと。
 生きろよ。全員の希望をはねつけて、ぬけぬけとしぶとく生きろよ。そんでぐちょぐちょぐたぐたの堕落したエログロになれよ。
 それがお前って人間なら。
 世にはばかれよ。みんなから失望されろよ。俺から憎まれろよ。
 いいじゃねえか。……いいじゃねえかよ。
 何でお前だけがこの狂った話の中から抹殺されなくちゃいけないんだ」
 もし、世界が一編の、巨大な『物語』だというのなら、俺は、こんな話は嫌いだ。
 隣の部屋で、一人の人間が、他人の都合に押しつぶされて殺されるのをただ見ているなんてまっぴらだ。
 絶対に違う。絶対に違う。
 どこかに必ず、別の『筋』への出口があるはずだ。この呪いを祓う方法があるはずだ。
 そうでなければ、呪われているのは世界の方だ。憐れなのは、俺達のほうなんだ。
 これは、『いいこと』とか、正義とか、関係ない。
 こんな『物語』は好みじゃないからだ。俺が、ただ自分の好みでそうするのだ。
「誰もがお前に死の呪いをかけるって言うのなら、俺はお前に、生存の呪いをかける。
 誰がなんと言おうと、お前はこの馬鹿げた罠から生きて外へ出て行くんだ。
 そしてお前は、俺の邪魔をし続けるんだ。俺の気に障り続けるんだ。そうでなければ間違っている。俺はそういう話でなくては、嫌だ。
 他のものでは誤魔化されたりしない。諦めない。妥協もしない。絶対に、忘れたりしない。
 ……だから、お前も、腹をくくれよ、三足。
 社会を、学校を、親兄弟を、全部敵に回してでも、取り戻すんだ。死神の手から。お前自身の、本当の『物語』を」
「………………………」
 たばこを持つ彼の手が、再び細かに震え出した。
 彼は、笑った。二度、三度と派手に笑って、なんとか平静を保とうとした。
 さらにはやたら顔を動かして視線を移してみたり、唇を引き締めてみたり、さまざました。
 でもついにはこらえきれなくなって火の迫ったたばこを慌てて捨てると、つばを飲み込みながら、左手で顔を覆った。
 丸まる体。その奥から、やっとのことで、小さな声が漏れる。
「……やっぱ俺が、開けたのかもな……」
 それは玄関の鍵のことである。



 友行は、立ち上がった。
 自分なら、泣くところなんて人に見られたくない。まして蛇ならなおさらだろう。
「一時間したら、また来る。
 メシを買って来る。食いながら、これから先の話をする。いいな」
「わかった。
 ――友ちん」
 台所との境目で振り向いたら、彼は左手で顔を押さえたまんま、右手を掲げて笑った。
「ありがと」
 遠目でも分かった。ちらりとのぞく灰色の瞳が、闇の中で美しく濡れ赤く爛れている。そして、先には確かに鼻梁を飛び越していたその痣が、勢いを失して、既に右目の半ばまで後退を強いられている――。



 友行は、拍手のようにざあざあ雨の鳴る夜の廊下に出た。新鮮な冷たい空気をいっぱいに吸い込みながら、蛍光灯の白い灯りを見上げて、よし。と言った。
 これからだ。
 これからやっと、まともな話が始まるんだ。






(つづく)
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