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-4-




 その時友行は、確信を得ていた。
 大きな前進の手ごたえと共に、自分は今、珍しく正しい選択をしたという自信があった。
 だが、その正しい選択が自分にどんな結末を運んでくることになるかは、まったく予測していなかった。





 一時間後、再び部屋を訪ねると、三足はもう落ち着いて、いつもの爬虫類的な顔つきに戻っていた。
 気安い調子で友行を迎えはしたが、変に粘着することもなく、さばさばしていて前の通りで、そういう態度は冷静好きな友行にとっても好ましかった。
 世の中、とりすました顔でいても、ちょっと仲良くなるとすぐ相好を崩して『自分たちは賢い』などと言いたがる人間がいるから。
 こいつのこういうところはいい。ちょうど俺と釣り合うなと思いながら、総菜屋で調達して来た弁当とおかずを置こうとした友行は、はたと惑う。
 ところで、部屋には最初から電気がついて、元の味気ない室内を照らし出していた。
「……座卓もないのか。お前の家は」
「エルズリーの祭壇ならあるけど?」
「なんだか知らんが、慈悲深い神様なんだろう。ちょっと借りよう」
「愛の神様をバカにするとバチが当たるよ?」
 心なしか恨めしげな聖母の視線を浴びながら、小机を間に挟んで座り、飯を食った。
 傷だらけの三足も幸い口の中は無事らしい。年頃の青年らしく、黙々と、次から次へと食べた。
 それはついぞ目にしたことのなかった、彼の人間的な姿だった。何一つ変わらぬ態でありながら、三足剛は、確かに先へ進む勇気を取り戻していたのだ。
 友行は心の中でひとつ頷いて、自分も呼応するように飯を口へとかきこんだ。
 いつの間にか雨は小雨になり、夜は穏やかだった。二人は、長い放浪の果てにようやく棲家へとたどり着いた対の動物のように、落ち着いてその場にいられた。
 やがて、二人の青年のために用意された食物はすっかり平らげられる。空になった器をざっと重ねてビニル袋に放り込むと、三足が缶コーヒーを出してくれた。
 その際ちらっと冷蔵庫の中身が見えたが、どうも缶物の飲料ばかり入っている様子だ。
「どういう生活をしてるんだ」
「ご存知の通りの生活さ」
 くすりと笑う三足の顔を改めて見やる。
 ――肉親に殴られた傷は相変わらずひどいが、あの友行を幾度も戦慄させてきたおぞましい死の斑は、驚くばかりに後退していた。
 なにしろ、先ほど見た時には本当に顔の全面に達していたのだ。その黒色もつやつや光ってこの世の春で、逆に寄生された三足は青白く、後は死ぬばかりといった風情だった。
 それが、今では右の頬の半分くらいまでに縮こまってほとんど枯れた植物のよう。死の気配もなりを潜めている。
 なんとよく、変わるものだろう、このシルシは。生き物なのではないか。
 実際、じっと見ていると、そのうち動き出しそうな気がする。バクテリアや寄生虫かなにかのように、ふとした弾みにわーっと動き出しそうな油断のならなさがある。
 友行は、これに類する不快なものをかつて見た事があった。見た事さえ否定したがっていた、あの、長い尾を持つ黒い生き物。
 見住の山の主だったという――。
 あれも追い出せたのだ。だからこれも、追い出せるはずである。
「本題に入ろう」
「そーだね。腹もくちたし」
 三足は缶を脇に置いて、壁に丸まった背骨をつけた。友行は胡坐をかいたまま、逆に姿勢を正す。
 二人は殺風景な部屋の中で、まるで十年も前からこうするのが当たり前だったかのように、無理のない気持ちで視線を絡ませた。
 頭上で蝶さえ飛んだ気がした。



「前からずっと聞こう聞こうと思ってたんだ。そもそも呪いというのは、どうやってかけるんだ?」
 そう友行が切り出すと、三足は驚いたように目を丸くした。
「友ちん、誰か呪いたい人がいるの?」
「そうじゃない……。方法や条件が分かれば、おのずとお前を呪った犯人が見えるんじゃないかと思っただけだ」
「分かってるよう」
 ニヤリ、と三足は楽しそうに笑った。それから鋭角の顎の下に手を添える。
「真面目で面白いなあ。友ちんは」
 こ。この野郎……。調子に乗りやがって、と友行は相手をにらんだ。
 だが、とりあえずおふざけはそこまでで、三足はその後、質問にちゃんと答えた。
「そうだなあ。まず、相手の情報が必要だね。最低でも本名、生年月日、生誕地、両親の名前、現住所くらいは。
 で、斎場を用意して、最初にレグバを呼ぶ」
 あのおっさんか。と友行はルオーの絵に瓜二つだったその風貌を思い出す。
 まともに考え出すと、怖かった。ひょっとしてあの画家は、実際に門神を見たことがあったのかもしれない。
「門神によるとりなしはネットに接続するための通信ソフトみたいなもので、必須だ。これがないと人間は物語にタッチできない。
 まず起点の十字路に立ち、そこから侵入しようとする相手の筋めがけて移動を開始する。友ちん、前に一度、俺に『跨った』だろ。あれと同じに、呪い手は呪う相手に一時的に『跨る』必要があるんだ。
 こないだのように、直接相手の脈を触れるならてっとり早い。でも、ほとんどの場合はそうもいかないからね、集めたデータを下に、辻をいくつか移動して、相手の筋に侵入する。
 口で言うほど簡単な作業じゃないんだけど、さらにここでさっきの情報がものを言う。もし、なんのあてもなくでたらめな移動を繰り返せば、自分自身の魂が道に迷って失踪する可能性もあるし、関係のない人間に跨ってしまうこともある。
 正しい相手だと確認するには記憶を見て、それが自分の持つデータと一致することで根拠を得るしかない。
 一番いいのは、自分と記憶を共有する場面を見つけることだ。これなら間違えない。だって自分がその記憶に登場するんだからね。
 ――だから実際には、呪い手と呪われる標的とは、必ず、顔見知りだ」
 その事実は、思ったよりも重かった。脳に届いた瞬間、友行の脇腹に軽い震えが走る。
「さて、めでたく当人の筋に到達できたとしようか。今や、相手の魂は我が股座の下です。
 友ちん、どうしたい?」
「どうしたい……って」
「愛されたい? 殺したい? それとも他の何か? 内容によって、呼ぶ神様が違う。
 もし相手に、自分のことを愛してほしいなら、愛の神エルズリーを呼ぶ。
 もし相手を殺したいなら、その時は死の神バロン・サムディかその眷属を呼ぶ。
 他にも呪いには、プラス効果、マイナス効果共に色々ある。健康になる。金持ちになる。子沢山。学問向上。その逆。
 期待する効果に見合う神様を呼び出して契約し、標的の筋に呪いのプログラムを設置して、帰るわけさ。
 その時、二つのものが必要とされる。犠牲と、エネルギータンクだ」
「エネルギー……?」
 友行は怪訝な顔をする。
「まず、犠牲について言うね。
 神は世界の中で、人間とは隣接するが、本質的に異なるグループに属する存在だ。彼らのうちほとんどは、普段、人間とは関わり合いのないところで宇宙にかまけて暮らしてる。
 それを呼び出して仕事をさせようというんだから当然報酬がいる。祭壇、しかるべき呪文、ヴェヴェ、信仰心、上等の神酒、それから、生贄だ。
 ハイチじゃ今でも生の鶏くらいはその場で屠る。貧しい農家ではそれでも貴重な財産だ。
 もちろん、神は金銭的な価値には無頓着だよ。ただ、それが犠牲になる時、どれほど強い人の感情がほとばしるかには敏感でね。
 都市に住む人間は、鶏一匹の価値を知らない。牛の価値も知らない。だから、それを何匹と捧げても神の歓心が買えない事故が増えた。
 それで、二十世紀の半ばから、別の方法が採られるようになった。人間犠牲だ」
「…………え?」
 友行はその響きの不穏さに思わずぎょっとして三足の顔を見た。
「考え付いたのはアングロサクソンの連中だと言うね。確かにあそこを中心に、生き物を派手に殺したりしにくい世の中になってきたから。
 今の呪い手達は、代わりに生きた自分の魂を差し出すことで、神を動かす。
 誰だって自分はかわいい。金をかけてきたとなりゃ尚更だ。神はその苦しみに感応する。そして、その犠牲を受け取る代わりに、相手の望みをかなえるという契約に応じる。
 神様は美しいもの、楽しいもの、救いのないもの、悲惨なものが大好きなんだ。
 さて、もう一つ必要なものがエネルギータンクだけど――」
 三足は両手で体を押し上げて一度座り直してから、言葉を継いだ。
「契約は、言葉で編まれたマシンのようなものだ。機能は神が引き受けるけど、マシン全体を動かすためには動力がいる。人間の生気(ナーム)だ。
 提供者の筋は契約によって神に結ばれ、神はその人間からエネルギーを惜しみなく吸い上げてお仕事をなさるわけだ。
 実はこいつは、厳密には設置しなくてもいい。最初に捧げた犠牲だけでも、ある程度マシンが動くから。
 でもね、長期的な、大掛かりな呪いをかける場合は、どれだけエネルギーが続くかが成否を決める大きなカギになる。
 昨日――もう一昨日かな、友ちんに見てもらったおかげで、ひとつ分かったことがある。俺の呪いは、その契約からフラグの発現まで一年以上かかってるってことだ。
 だとしたら呪い手は一人じゃない。魂を神様に喰らわれながら、物語を改編したことによる罰を引き受け、なおかつマシンにエネルギーを取られ続けたらそんなにはもたない。
 だから相手は最低でも二人組で、多分片方が呪い手を、もう片方がタンクの役割を引き受けているんじゃないかな。
 ――さて、こうして契約が終わったら、後は楽しみに待つだけだ。もっとも呪いがいつ結実するかは状況によってひどく差があるけどね。
 簡単な呪いなら、二、三日で結果が見えることもあるだろう。死の呪いはその中では一番鈍重で、俺みたいに、一年以上引っ張る場合もある。
 今頃、ロワゾの奴は、怒り狂ってると思うよ。なんてしぶといんだと。こっちは魂を食われ、エネルギーをどんどん盗られながら必死で耐えているというのに。
 それだから、あんな強引な罠を仕掛けてきたんだ。裏を司る『読み手』の世界では、ああいう表の司法が動かざるを得ないような派手な罠は、作ってはならないことになってる。
 よほど焦れたんだ。もう体力の限界なのかもしれない。どうせ破滅は必至だけど、どうしても、俺をその友連れにしたいらしい」
「………………」
 友行は、長い沈黙の末に、頷いた。常識的な考え方をしていたら、ものの五分で思考が停止してしまう。
 とりあえず結論を得るために、彼の言うことを全て受け入れることに決めた。
「……さっき、エネルギータンクと呪い手は別でもいいって言ったな。ひょっとして、契約の手続きを遂行する人間と、契約者本人も、同一でなくていいんじゃないのか」
「すばらしい」
 三足は日本人離れした口元をすぼめて口笛を鳴らした。それから灰色の目で楽しそうに笑う。
「その通りだよ、友ちん。俺らのような職業的呪術師は、呪いを仕事として請け負い、ノウハウを持たない一般人の代わりに手続きをこなす。
 肝心の呪い手やタンクの役割は無論、依頼者やその関係者が担う。物語からのバチも全部被る。
 責任の全ては依頼者が持つという合意の上で、プロのハッカーが、攻撃プログラムを販売するようなものだね。
 さっすが友ちん、あったまいい」
「おだてるな。そうでないと、理屈が合わないだけだ」
 友行は友行で、必死にその世界の常識を身に着けようと頭を回転させているのだ。いい気になっていたら思考がぶれるではないか。
「だったら、その、ロワゾの人間が、誰かに依頼されて行動している可能性もあるのか?」
「うーん……。まあ、あるけど、その可能性は低いと思う。ロワゾは既に神官の大半を失って滅亡したとみなされている一族だ。わざわざそれに危険な仕事を依頼する物好きはないんじゃないかな。
 むしろ復讐を諦めきれないロワゾの生き残りが、誰か別の呪術師に依頼をして、事を起こしている可能性の方がまだ有り得るね」
 浮ついていた三足の顔がふいと闇に沈み、眼差しが曖昧になる。
「……ちなみに、友ちんにも見てもらったあの小鳥の死骸が、ロワゾの証でさ。
 彼らはいつもここぞという事業の際に小鳥を犠牲に屠る。自分が手づから育てた、かわいいかわいい小鳥をね。その悲哀で神を惹きつけるんだ。狂ってるだろ?
 お袋が死んだ時も、小鳥の幻視を見た。それで分かったんだ。同じだって。
 ――いずれにせよ多分これは個人的な、孤独な呪いだよ。協力者があったとしても、ごく少数だろう。
 社を失い、群れからはぐれた神官は、本当に憐れなもんだね」
「……よし、分かった」
 地下世界の話につられて一緒に落ち込みそうになった自分を引き上げるように、友行はコーヒー缶を置いて、張りのある声を出した。
「だったら、呪い手も行い手もロワゾ本人だとして、情報を一度整理しよう。
 ――まず、お前に呪いを掛けた人間は、お前の顔見知りだ」
「はい」
「お前の両親の名前だの出身地だの、詳細な個人情報を知っている」
「うん」
「そして、少数の仲間がいる可能性が大で、ロワゾ一族の血を引く者であろう」
「そういうことだね」
 友行は三足が三度頷くのを見ながら、なんだ。と思っていた。
 複雑そうに見えて、俯瞰してみれば結構たやすく解けそうな話ではないか。
 これまで起きて来た事を考え合わせれば、友行にはこの条件に当てはまる人間は一人しかいないような気さえする。
 謎解きの興奮が控えめに彼の血管を掻いた。
「……お前、本当はとっくに心当たりがあるんじゃないのか」
 予兆を抑えながら三足を見ると、笑みを含んだ目で同じように返される。
「そういう、友ちんこそ。自分に腹案があるから、そんなこと言うんじゃないの?」
 友行は躊躇った。
「……バツが悪いもんだな、人に疑いをかけるのは」
「じゃあ同時に言ってみる? ちょっとバカっぽいけど」
「分かった。同じ答えだと思うけどな」
「さあ、それはどうか――。
 いくよ。せーの」
 嫌いだの、殺してやりたいだのと思っていた三足と、その部屋で、呼吸をぴたりと合わせて友行は言った。
「人見教官」
「碧ちゃん」
 そして、自らの声の間から届いた別の名に、耳を疑う。
「――な。なんだって?!」
「あー、やっぱり」
 三足の高い鼻が天井を仰いだ。



 簡単な話ではないか。特に昨日の罠のことを考えればそうだ。
 あの時間、あの場所に三足剛が行く事を知らなければ、あの罠は作れない。
 彼にそうするよう命令したのは人見だ。
 あの日、人見は学務棟の中から出てきた。待ち構えていたのだ。そして、渋る三足を何度も強引に施設内に入れようとした。
 そのせいで三足は罠を解除し損ねた。
 人見なら、自分達の個人情報も当然知っている。昔のことさえ詳しかった。もはや疑う余地などないと思われたのに――。
「どういうことだ?! どうして、碧が?!」
「うーん。先に、人見先生の話しとく?」
 ぼりぼり、とだらしなく側頭を掻きながら三足が言った。
「友ちんがあの人を疑うのはもっともだと思うよ。割と彫りの深い顔だしねえ。
 俺も、考えたことくらいはあるかな。あの人の研究室にいて、具合が悪くなったこともある……。
 ただねえ、あの人からは、地下の気配ってものがまるでしないんだ。友ちんと一緒で、ただ誠実で真面目一方の人って感じだよ。
 そういうの、分かるんだ。
 もちろん可能性はゼロではないけれど、もし本当に人見さんが呪い手なら、間違いなく誰か本職の『読み手』が手続きを代行してるな。
 それにねえ、俺が知る限りヒトミって通り名を使っている一族は聞いた事がないんだ。血統や本名は、『読み手』にとって攻防に関わる重要な要素だ。だからミタリの家には古今に渡る、ほぼ全ての通り名の記録がある。
 でもヒトミは、聞いた事がないし、心当たりもない。……違うんじゃないかな」
「ぎ、偽名を使っている可能性もあるだろう!」
 混乱しながら反駁する自分に友行はいっそ感心した。頭の中は、それどころじゃなかったのだが。
「問題はあのヒトが国公立大の職員だってことだよ。しかも確か、修士からの叩き上げでしょ? 余程の文化人でもない限り、戸籍と違う名前で就職するなんて、有り得ないんじゃないかなあ」
「…………」
 友行はゆっくり穏やかに論破されて、絶句した。決まりだと思っていた自分の予測にケチをつけられたという動揺もあったが、もちろんそれよりも、この話が終われば次の話が始まってしまうという恐怖の方が大きかった。
 三足は、少々気まずげな様子を見せたが、一度言ったことを誤魔化したりはしなかった。
「で。碧ちゃんだけど」
 と、はっきりした声で先を続ける。
「碧ちゃんの、フルネーム、加賀碧。でしょ。
 同じ通り名を持っていた強力な一族が昔、瀬戸内にいたんだ。『カガチ』の一族。『カガチ』ってのは蛇のことだ。
 室町時代だかに、激しい抗争の末にミタリに滅ぼされたと聞いているけど、何せ昔のことだからどこかで血脈が続いていてもおかしくはない。
 それが、復讐の念を同じくするロワゾの一族と手を組んでいても……」
「――お前は……ッ、碧が、他人を呪い殺したりするような人間だって言うのか?!」
 頭にカッと血が上ると同時、友行はテーブル越しに三足のシャツの胸倉をつかんでいた。ひっぱり込まれた三足は服を押さえ、困ったような表情をする。
「……落ち着いてよ、友ちん。俺も本当は言いたかないんだから」
「じゃあ、黙ってろよ! そんなこと、考えるのもおかしいだろう! 碧がお前のことをどれだけ心配してたか知らないのか?!」
 爬虫類の目が、落ちかかる黒髪の間から、ひたと自分を見つめた。
「――知ってるさ。もちろん。
 あの子は、俺にまとわりついて、食事や生活や習慣について、しつこいくらいに聞きたがった。いつも俺の健康を、そして不健康を、過剰なまでに気にしてた。
 昨日は頼んでもないのに、いつの間にか情報を仕入れて、俺をあの場所で、待っていた。待ち構えていた」
 それは――それは碧が、お前のことを好きだからじゃないか!
 友行の心は叫んだが、現実の声としては外に出なかった。
 そして、にらみ合う硬直の中で、彼は気付いてもいたのだった。確かに、そうした彼女の行動は、全てまったく逆の意味から解釈することもできるのだと。
 それで、三足は彼女から逃げ回っていたのだ。呼び鈴を鳴らされてもノックをされても、部屋から出ないこともあったのだろう。用心のためだったのだ。
 そうしたら、碧は、どうした?
 わざわざ友行に電話をかけてきて、隣の様子を見てくれと頼んだ。友行が過保護だ、やりすぎだと、嫉妬し辟易するほど、幾度も。
 思いも、寄らなかった。……思いも寄らなかった……!
 顔色を失くして行く友行を見た三足は目を伏せ、初めて、気の毒そうに言った。
「――俺も、ものすごく本気で彼女を疑ってるわけじゃないよ。ただのいい子なんだって、信じてたいさ。
 ただ彼女には、人見教官にはない『才能』がある。分かるんだ。
 何度も母親の話なんかして悪いけど、俺のお袋もねえ、俺達にはとても優しい、理想のお母さんだったんだよ。ところがその日々の裏に死の斑を隠したまま、夜は血みどろの殺し合いをしてた。
 人間ってそういうことも、できるんだよ」
「…………」
「後悔した? 俺なんかの味方になって」
 その、不可思議な、日本人とも、外国人とも言えない顔立ちに霧のように漂う悲しみの色を見た瞬間、友行は、己を取り戻した。
 これは憎悪と呪術と生と死の物語。
 三足剛は一人で、この世の裏側と向きあっているのだ。
 彼と共に行くと決めた以上、下らぬ自分の感傷などにこだわっている場合ではない。なんという嫌な、嫌な話だと思うが、逃げ場はないのだ。
 友行は、手を放した。こわばってうまく広がらない指の間から、綿がしわしわのままぼろりと抜けた。
 時間をかけて、同じ場所に、座りなおした。そして、自分の感情を腹の底に力づくでねじ伏せながら、精一杯の虚勢を張って言った。
「……冗談じゃない。笑わせるなよ、この程度で。
 お前の意見はよく分かった。俺の意見はさっき言った通り、『人見』だ。
 どちらもまだ、仮説に過ぎない。明日、学校に行って、色々調べてくる。……碧にも、会ってくる。自分の目と感覚で、確かめてくる」
「……友ちん」
「ああ。びっくりはしたよ。
 でもな、一つだけ言っとくぞ。俺は、確かな証拠が出るまでは、絶対に碧を信じている。
 だがもし本当に碧がお前のカタキだったとしても、気遣いは無用だ。
 俺は、自分の面倒くらい、自分で見る。お前に気を使ってもらう義理なんかないんだからな」
 三足は、苦々しく微笑して、頷いた。
「分かってる……。俺も、考えるよ」
「?」
「呪いを取りやめさせる方法は、二つしかない。殺すか、本人にやめさせるかだ。
 ……跳ね返すってのも、つまりは相手に弾を投げ返して殺すってことだ。相手の体力が切れるまで耐え忍んでも、やはり殺すことになる。
 さりとてやめさせるのは、殺すよりも難しい。向こうだって覚悟の上でやってて既に取り返しのつかない犠牲を払った後だ。やめられるものなら、このつらい一年半の間にとっくにやめてる。
 ――どこかに、第三の道がないか、探ってみるよ。考えてみる。
 呪い手が誰であろうと、これはいずれは決めなくちゃいけないことだった。フラグを解消して、生きるというのなら」
 殺すか。やめさせるか。
 それとも他に、道があるのか。
「………………」
 穏やかな空気で始まった夕食は、こうして重苦しい空気で終わった。
 友行は強がってはみせたものの、話の成り行きにショックを受けていた。
 何が正しく、何が間違いなのか。誰が敵で誰が味方なのか。
 不安で、不愉快だった。まるで世界が悪意の塊のような気がする。
「友ちん」
 玄関のところで、三足が彼を呼び止めた。振り向くと同時、首に何かかけられる。
「……?」
 顎を引いて見ると、ブロンズかなにかの、素朴なオーナメントだった。中央に輝きの鈍い、けれど色の濃い赤い石が埋まっていて、詰め合わせ缶などに必ず入っているジャム・クッキーを連想させる。
「なんだ?」
「まあ、お守り。持ってって」
「お守りぃ……」
 なんだか自分がどんどん古くさい人間になって行く気がした。星占いさえ信じてはいないのに。
「……効くのか」
「まあまあね。お袋の形見だし」
 驚いた。
「……そんなもの、もらえない」
「いいんだ。持ってって。万が一の時には、居場所がぼんやり分かると思うし」
「…………」
「――気味の悪い、嫌な話ばかりして、ごめんね、友ちん。
 本当に、ウチの一族も痛い人ばっかりだし。
 でも、誤解しないでほしい。
 世界も、神も、人間も、本当はもっとおおらかだし、もっと、美しいものなんだ。
 今、友ちんは呪いだのなんだのって、暗くて作為的な話ばかり聞かされているから、呆れるかもしれない。神官なんて、そんなことばかりしてきた連中だと思うかもしれない。
 でも、違うんだ。本来は『読み手』は、呪いの代行業者なんかじゃない。確かに後ろ暗く、ねばねばした存在ではあるけれど、それは人を見えない縛めから解放するための汚れなんだ。人の苦しみと世界の間に立って、流れを調整するのが仕事なんだ。
 ……うまく、言えない。でも俺らのことは嫌になっても、世界のことまでは、嫌にならないで欲しいんだ」
 彼自身も認める、不器用な言葉の端々から、三足剛の悲しみが伝わってきた。
 彼は自分のさだめに怒っているのではなく、友行の反応に文句を言っているのでもない。
 信仰を弁護しているのだ。多くの人はもっと純粋にまっすぐ各々の神を敬っていて、神官もまた驕り高ぶってはいない。世界はもっとのびやかで豊かで、美しい姿をしているのだと、友行に知って欲しいのだ。
 それはまるで故郷の海や空の素晴らしさを、一生懸命に説明しようとしている異国の人のようだった。
 彼は口ごもり、ため息をついた。
「俺みたいなのが言っても説得力はないよねえ。でも……、本当は……」
「分かった、三足。大丈夫だ」
「…………」
「もしハイチで育ってたら、お前、きっといい神官になったろうよ」
「……そう、かな」
「俺には分からないけど、お前は本当に、神々のことが好きなんだろ。世界は美しいって、知ってるんだろ。
 ……俺は信仰心ゼロだからな。でも、お前がそう言うなら、そうなんだろうと信じるさ。
 心配するな。俺はただ、この狂った話を終わりにしたいだけだ。最善の筋を見つけて、自由になりたいだけだ。
 その最善が自分の希望と異なっているからって、今更騒いだり、取り乱したりしねえよ」
「…………ずっと、友ちんは兄貴に似てると思ってたけど……、違うねえ」
「…………」
「……気をつけて」
 友行は、片手を上げて、玄関を出た。
 自分の部屋に入ってそれから、首に下がるオーナメントを手に取り、そのまましばらく、じっとしていた。耳の中で血潮が騒いでうるさかった。



 憎しみ。呪い。犠牲。疑い。
 自分は一体いつからこんな話に首を突っ込んでしまったのだろう。
 三足剛に会ってからだ。大学で再会するまでは、自分はさしたる悩みなどない普通の人間だったのだ。
 あいつが現れてから、手品を見せてから、碧が惹かれて、話は歪み始めた。
 そして、その歪みが今度は自分の足元さえ捕らえ始めた。馬鹿げている。自分は葛藤している。
 前は碧が好きで、三足が嫌いで済んだ。
 それが今は、どちらも損ないたくないと思っている。
 そのくせ、どちらのことをも信じ切れないなんて。
 疑うという感情は、なんとおぞましい機能なのだろう。それがひとたび動き出したら世界の姿はあっけなく変わってしまう。
 三足は呪術師の世界もこんな事ばかりじゃないと言った。本当だろうか。嘘を言ったのではないだろうか。
 解決策を探ると言っていたが、本当だろうか。そんなもの見つからないのではないか。
 呪いなんて暗い情念に関わったばかりに、自分は傷つけられ、全ての信頼を失うのではないか。
 あの碧の献身が嘘だったなら、一体、彼女を愛し、苦しんでいた自分は何だったのだろう。
 それもまやかしか。全ては手品か。自分達は操られ、幻だけを見せられながら、貨車に載せられて死まで動く存在でしかないのか。
 友行は、朝までの短い睡眠時間を、布団の中でのた打ち回って過ごした。寝たような気もするが、夢か現実か区別がつかない。妙にリアルな悪夢も数回見た。
 それでも、彼はやがて起き上がり、シャワーを浴びて朝食を摂ると、静かに身なりを整えてアパートの部屋を出た。
 疲労と疑いに彩られてはいたが、彼はやはり聡明で、そして強い眼差しはただ前を見ていた。
 彼は、長い苦悶を味わいながら、同時にある覚悟をも持っていたのだ。
 自分は、大丈夫だ。そこにどんな世界が現れてきても、自分には耐える力がある。
 根拠などない。だから歩いて行って、確かめるのだ。自分の強さと、そして弱さを。
 それ以外に、道はない。





 まず、友行は大学図書館へ行った。
 土曜日だが月に二度は朝から開館している。
 友行はここに、学内雑誌のバックナンバーがあることを覚えていたのである。
 学内のパブリッシング研究会が大学の援助を得て、毎月出している雑誌だ。
 友行は入学した頃、新入生歓迎号と銘打たれた一部をもらった。雑誌には教員や職員にインタビューをするという恒例のコーナーがあり、前、人見自身がそこに登場したことがあるのだと苦笑していたのを、明け方、急に思い出したのである。
 辛抱強く探していくと、果たしてそれはあった。二年も前の号――。
 友行達が入学する半年以上前のものだ。勢い込んで文面に目を当てた友行はじき、胃が重くなるのを覚えた。
 そこには、彼が北海道出身であること。さらに、両親とも公立小学校の教諭であることがはっきり記載されていたのである。
 友行の苦し紛れの『偽名』という線は、これでほぼ消えた。
 まあ初めから、自分自身でさえろくに信じてはいなかったが――。
 では、次に進まねばならない。加賀碧は、この事件に関与しているのか、どうか。
 メールを打とうとして、二度、三度とキャンセルした。メールを打っているだけなのに顔に血が上る。
 疑いを隠して文章を打つのがこれほど苦痛とは思わなかった。
 駄目だ。一度外へ出て頭を冷やそう。
 そう、思った時――。ポケットに落ちたスマートフォンがブーン、ブーンと震え始めた。
 端末を取り出した友行はディスプレイに浮かび上がる文字に身が凍るような思いをした。
 そこには『碧』とあったのだ。



 どうしていつも、彼女は計ったようなタイミングで現れたり、連絡を取ってきたりするのだろうか。
 あの無邪気で、動物的な鋭い勘。
 それでも体は勝手に動き、友行は図書館のロビーを小走りで走り抜けて、無人の喫煙室へと飛び込んだ。
 煙くささに顔をしかめながらソファの上に腰を下ろし、ようやく、通話状態にする。
「もしもし?」
『あ。もしもーし。おはよー。寝てた?』
「いや。起きてた」
『そっか。よかった。朝からごめんねー。昨日結局話さなかったからさ、大丈夫だったかと思って。
 声聞けたから安心したよ』
 そういえば、彼女は救急搬送されたのだ。友行は疑いのために一時それを忘れていた自分を責める。
「……怪我、大丈夫だった?」
『へーきへーき。ていうか、怪我なんてほとんどなかったもん。でも、親がもうびっくりしちゃったみたいでさあ、土日で帰れ! って大騒ぎ。なだめるの大変だったよー。
 何時間かかると思ってんの。帰れるわけないじゃんねえ』
「……あのさ、碧。今日、ヒマ?」
『え? 掃除とかあるけど。まあヒマかな。なんで?』
「昼ご飯食べない? おごるよ」
 碧はびっくり仰天して大声を上げた。
『えーーーっ?! なになになに? なんでおごってくれるの? あたし誕生日だっけ? いや、違うなあ』
 友行は一気に追い詰められて顔を赤らめた。バカなことを言った。
 おごるなどと口を突いたのは、罪悪感の裏返しだ。友行は普段はいきなりこんなことを言ったりしない。
「い、いや、別に理由はないけど、なんとなく」
『友行……。なにか隠してない?』
 心臓がうっと言う。友行はどうやら、使っている電話機ほどスマートな性格ではないらしい。
「…………ごめん。似合わない真似して。
 ただちょっと、直接会って話したいことがあったんだ。都合が悪いなら――」
『え。いいよいいよ。なら直接話そうよう。あはは、でも、なんだろ?』
 相変わらず明るく耳に響く碧の声。友行は単身どんどん惨めになって行った。
 その後、しどろもどろのうちになんとか駅前で落ちあう約束を取りつけ、通話を切る。
 一生分通話をしたような気分だった。どっと汗が出ると同時に力が抜けて、ソファの上にへたりながら手が無意識にシガーケースを探る。
 ……最近俺、喫煙率が上がってないか。
 思いながら、くわえたタバコに火をつけ、スーと煙を吸い込んだ瞬間だった。
 ――無様なことよのう。無力な奴隷は。
 とんでもないしわがれ声がごく至近から聞こえた。
 呆気に取られて、こまごまと煙を振りまきながら周囲を見回すが、当然ながら誰もいない。室内にもいなければ、外にもいない。
 これで本当に誰かいたら、後は自分が尻に敷いている他ない。
 ……まさか。
 恐る恐る、ソファの脇に投げ出してあったスマートフォンを再び取り出して、耳に当てた。
『奴婢にしては敏いではないか。我がたれか、分かるであろうの』
 思わず友行はものすごい勢いで液晶画面を押して通話を打ち切ろうとした。



『何をしておる。無駄じゃ。電源を切れば別じゃがの』
「………………なんのご用ですか」
 原理を深く追求するのは止めておこうと思った。とにかく、三足剛のひい婆ちゃんと言うのはとんでもねえババアで、尻尾が三つに割れた猫みたく、長生きのしすぎでいろんな手品が出来るようになってるんだ、と、いっそこっちが白髪になりそうな自分を慰めた。
 ていうか、本当に、なんなのだろうか? 非常識この上ない。もう三足の一族全員地中に埋めちゃったほうが、世の中のためじゃないのか。
『つまらぬ事件があったようじゃの』
「……ええ。ほんと、あんたの存在に比べたら取るに足らぬつまらん事件がありましたよ」
『ゴウはどうじゃ。消沈してはおらぬか』
「えっ?」
『あやつのことじゃ。また人を巻き込んだなどと言ってはめそめそしておるのであろう。
 ……痴れ者めが……!』
「………………」
 友行は、もう一度タバコの煙を深く吸ってどっかとソファに座り直すと、覚悟を決めた。紙巻を一本くわえたまま喋ると、白い筒が上下にばたばたする。
「ご心配なら、当人に直接連絡したらいいでしょう」
『あやつは出ぬわ。紡子なら応じるくせにの、我のは無視しおる』
 物理的にかかってきていない電話を着信拒否する方法があるのか! 今度、自分も教えてもらおう。
「で、何がお聞きになりたいんです。現状ですか?
 怪我はナシ。斑神は一応落ち着いてて、今は犯人探しの最中です」
『そのようなことは知れておるわ。筋を見ておるのじゃからの。
 昨夜、生気がひどく減退した後に、持ち直した。スナオが行かなんだか』
「スナ……? ああ、素直さん。……えーえー。確かに、いらっしゃいましたよ。おおごとだった」
 老婆は彼の口調の裏にあるものを初めから察していた様子だった。声に怒りが混じる。
『あの愚か者め……! 世界が才を恵んだと言うに、自らそれを腐すどころか弟さえも許さぬというのじゃ』
「……あるんですか、才能。お兄さんも」
『いくらあっても詮無いことじゃ。自分でそれを認めようとせぬ。天が命じた通りに生きようとせず、自分でないものになろうとしておるのじゃからの!
 あやつは、天命に従えば、人を傷つけるなどと抜かすのじゃ! なぜそんなことになる。言っておって本気でおかしいと思わぬのか?!
 この世に、これほどの傲岸な裏切り、これほどの不敬、これほどの無駄があろうか?』
「――……」
『ゴウもゴウじゃ。同罪じゃ。ふらりと一人舞い戻ってまいった故に、少しは見所のあるおの子かと思いもしたが、塵界などに拘泥して、いつまでも中途半端な……!
 我が元に参れば、何もかもから守ってやろうに! 無知蒙昧の輩からも! 一族のカタキからも! 愚かな兄からも! 人間を機械漬けの病人にしようと目論む下らぬ社会からも!
 あやつがうじうじ悩んでおるようなことは全て我が散じて、一人前の『読み手』にしてやるに。何ゆえ、この婆の情けがあやつには分からぬのじゃ!
 おぬし、今すぐゴウに連絡をして伝えい。意地を張るのもいい加減にして、すぐに地下へ潜れとな! そうすれば、このような下らぬ呪いも呪い手も、我が一瞬で消し飛ばしてくれようほどに!』
 そうしたら、どうなるんだろうなあ。と友行は妙に冷静に考えていた。
 呪い手が誰か、分からないまま解決? いや、逆に周囲で突然死した人間が犯人、ということになるのか。
  ――昨日見た、気絶し地に倒れた碧の姿が脳裏に浮かび、友行は思わず強く頭を振った。
 いずれにせよ、この老婆には三足が『考える』と言った第三の道などには、つゆほどの興味もなさそうだ。
「……お断りしときます」
『おぬしもかッ!!』
 老婆は電話機の向こうで怒り狂った。
『たれもみな何故そう依怙地なのじゃ! おぬしとて、迷惑しておろうが!』
「…………」
『おぬしはゴウの随身じゃ。すぐ脇を走る筋じゃ。ゴウが苦しめば同様に苦しみ、圧迫され、狂わされておろうが! 寝覚めも悪く、夢見も悪いはずじゃ!
 何故助けを求めぬ? 何故楽になろうと思わぬ?
 我が一族は大きく、強い。表の力とのつながりも濃厚じゃ。
 我にすがりさえすれば、もはや騙されることも裏切れられることも、踊らされて恥をかくこともないのじゃぞ! 望むものは全て手に入り、安堵に満ちた人生を歩めるのじゃぞ! 少しはまともに考えたらどうじゃ!』
「…………確かにそれは、魅力的ですねえ」
 本当に、そうだ。何もかも自在に操れるなら、迷わなくて済む。碧もとっくに自分のものになって、こんな思いもせずに済んだかもしれない。
 実に惹かれる話ではないか。一生安全な地下にあって、みなが知らない秘密を知り、恥をかくこともなく、怯えることも取り乱すことも、負けることもないとは。
 けれど友行はそんな話を、やはり好きにはなれなかった。
 みんな、そうではないのだろうか? 自分は少し、おかしいのだろうか?
「……俺には、あいにくと、お婆ちゃんがありません。……だから、本気で聞いてみたいことがあるんですが、本気で答えてくれますか。
 もし、あなたが俺達と同じ立場だったら、何とかしてくれと自分の祖父や祖母にすがりましたか」
「…………なに?」
「あなただって、きっと自力で何とかしようと、努力したんじゃないですかね。勘ですけど」
「…………」
 友行は空気を吸った。
「そうでしょう?
 三足は、あなたの孫ですよ。あなたに、政敵を蹴落としてくれと金を支払う客じゃない。
 あいつに必要なのは、問題を解決してやることじゃないんです。話を聞いてやることです。あいつのやりたいようにさせてやることです。
 きっと三足を困らせているのは、あなたのその、『助けてやる』という一方の態度ですよ。
 自分の意志とはお構いなしに押し付けられる助けなんて、呪いと同じじゃないですか。
 あなたは本当は彼を、手近に置いておきたいんでしょう。そうでないと不安なんでしょ。でもそれだからってこの呪いを利用するっていうのは、ちょっと卑怯じゃないんですか」
『勝手なことを申すでない……!! スナオの妨害のせいで、あやつはろくな教育を受けておらぬのじゃぞ! 今のままでは、たとえ生き残ったとしても、まともな読み手になれぬ……!』
「あなたはさっき言ったじゃないですか。どうしてあいつがあいつ自身であることが他人を傷つけるんです?
 あいつはいい『読み手』になるでしょう。いい『読み手』になるべく生まれついているなら。
 あいつは中途半端な教祖くずれのまま、早死にするかもしれない。もし、それまでの男なら。
 それで傷ついたり、失ったり、苦しんだりするのは、俺達の勝手です。俺達の運命に手を出さないでください。
 『読み手』というのは、『物語』を正しく読む人間のことじゃないんですか。気に入らない話を、自分の都合どおりに書き変えることがその本分なんですか」
『なんじゃと……』
「だって俺にはなんだかあなたが、三足を無理矢理に彼の母親の代わりにしようとしているように見えるんです」
 携帯灰皿を出して短くなったタバコをもみ消し、吸殻を押し込む。
 くいと紙の曲がる手ごたえと同時に、なんだか俺は今、余計なことを言ったな、と思った。
「すいません。年長の方に失礼なことを言って。聞き流してください。
 ただ、そんなに心配しないでも、あいつは間違いなくあんたの孫ですよ。サラリーマンや公務員には絶対なれない。こんな目に遭ってるってのに、神様も世界も大好きだと言ってました。
 もうちょっと、黙って見ててやってくれませんか。一族に一人くらい、世にはばかる、たらしの『読み手』がいたっていいでしょう」
 電話は、しばらく、山のように沈黙した。通話が終わったのかと懸念が湧いた頃、ぼそりと向こうで老婆が喋った。
『おぬしは、よい奴婢かもしれぬの』
「………………」
 誰かこの婆ちゃんに、きちんと法律の整備された近代国家では誰も『奴婢』なんて呼ばれないって教えてやってくれよ。
『ゴウが……、世界を憎んでおらぬというのは本当かの?』
「ええ、多分」
『…………そうか。ならば、よいわ。
 我は、信じておらなんだのじゃ。このような事ばかり続いては、孤独で打たれ弱いゴウは、絶望して潰されてしまうと思うた。
 じゃが、やはりおの子じゃの……。よい友連れがおると、強うなる。
 よいわ。斑神も当座の勢いを止めたようじゃし、いま少し堪忍してくれようぞ。ただし、文彦、紡子に命じて、引き続き筋を監視させておる。何かあれば、その時は遠慮なくこの婆が乗り出し有無を言わさずゴウを連れ戻すでの。
 それが嫌なら、おぬしも心して、自分の役目を果たすことじゃ』
「……えーえー。二度と電話もいただかないことを望みます」
『我の引退は、まだまだ先じゃの。まあよいわ。どうせ二百年生きてきた身じゃ。いまさら五年や十年延びようが大した違いではない』
「………………」
 何か恐ろしいことを聞いた気がするが、忘れることにした。
 最後に老婆は思いがけぬ懇切な警告を発した。
『気をつけるのじゃぞ。窮鼠は猫を噛むものじゃ。死に間際のカタキの反撃に命を落とす読み手は数多い。小夜子もそうじゃった』
「……三足の、母親ですか」
 確証はなかった。話の切れ切れから察しただけだ。
 そして自分のTシャツの下にある護符に、自然と手が伸びる。
『あれが不運の始まりであったわ。我がミタリの一族の跡目を奪われ、その子らさえ我が手を離れ、むざむざ俗塵に迷わしてしもうた。
 ロワゾとの確執を引き受けるために、娘婿は米国に戻ったに、まさか今頃になってこのようなことになるとは……』
 くれぐれも、くれぐれも気をつけるようにと、老婆らしく繰り返し念を押して、やがて彼女の声は聞こえなくなった。
 そもそも通常のプロトコルを介しての通話ではないので、会話が途切れた後も気持ちが悪くて仕方がない。
 また、フワッと何の前触れもなく話しかけられるのではないかと思ってしまうのだ。
 たっぷり五分ほども待ってみたが、大丈夫なようだ。
 友行は立ち上がり、席に戻って荷物を取り上げると、図書館から出た。
 心は緊張にしびれていたが、なぜか、視界は開け、体の隅々にまで生気が漲っていた。
 友行はそれが無知で弱く、技術に乏しい自分が、戸惑いながらもなんとか正しい道を歩いている証拠だと思った。
 この手ごたえを、喜びを、ひとかけらの安堵と引き換えに他人に売り渡すことは出来ない。
 三足剛も決して地下に潜る『読み手』にはならないだろうと友行は思った。
 昨晩の大雨が掃った青空の下、校庭に茂る樹木が風と光に身を大きく揺らしている。それは若木で、ちょうど友行達と同じ年のようで、彼に緑深い故郷の、美しい山のことを思い起こさせた。





 さて、いよいよ正念場だった。三足の気遣いも老婆の助力も撥ねつけたのだから、友行はたった一人で戦わなくてはならなかった。
 しかも彼が知る限り、一番の難敵とだ。 本当に、これ比べたら三足剛なんぞ足元にも及ばない。
 駅前に立ち、今すぐに来て欲しいような、永遠に来て欲しくないような気分で彼女を待っていた友行は、傍からは意中の同級生と初めての待ち合わせに臨む初心な男にでも見えたかもしれない。
 やがて碧はやって来た。またこんな時に限ってずいぶんかわいらしいワンピースを着て、トートバッグを提げている。
「あのさ、北口でご飯でいい? 後で郵便局寄りたいんだよね」
「いいよ。じゃビストロ行く? こないだの」
「あはは。ファミレスでいーよ。おごってくれるんでしょ?」
 碧はきらきら笑って楽しそうに彼の隣を歩いた。
 友行は、正直言ってしまえば、会うごとに彼女が好きになる。喧嘩をしてさえそうだ。
 彼女とは、気取らない態度であるし、無防備な笑顔であるし、常に青空の似合う明るい精神性でもある。
 本当にこの女性の体内にも、あの暗さが、自分の目に流れていた硫酸銅の毒が存在するのだろうか。
 多分、バカなのだと思うが、想像もつかない。自分はそれを、確かめねばならない。
 十分ほど歩いた二人は馴染みのファミリーレストランに入って、窓際の席に座り、ランチメニューとドリンクバーを頼んだ。
 それからいろんな話をした。会話の糸車をいくら回してみても、彼女は昔から知る彼女そのままで、友行に都合のよい綻びなど見つけることが出来なかった。
 三足の話によれば、呪い手は体調を崩している可能性が高いが、三足だって斑点を隠していた。外見は取り繕うことも出来る。元気かと聞いて元気だと言われたら、中々本当のところは分からない。ただ疑うことへの罪悪感ばかりが重なって行った。
 友行は流され、弱り果てると同時に、少しずつ、三足の気持ちが分かり始めた。
 もし、碧を疑っていたと言うのなら、彼だってもっと早い段階に何か対策を講じていたはずだ。だが、実際には彼女の好意を受け続けるだけで、あの日でさえ、はっきりと彼女を拒絶はしていなかった。
 つまり、三足にも、分からないのだ。彼女に会うたびに疑いは薄まり、会わない間に深まる。その波に惑わされ続けてきたのだ。
 三足剛は――。
 あいつも、本当は。彼女に惹かれているのだ。
 というより、気付かなかった自分がおかしかったのだ。三足は彼女を助けたではないか。破滅の淵から、ひょいと。
 じゃあ、どうして、その後は受身一方の態度だったのか。他の女と遊んだりもして。
 疑い。そして、遠慮だ。
 誰に対する? ――自分に対する。
 友行が住む部屋の隣で、三足が他の女を扱っていたように碧を組み敷いたとしたら、一体どんなことが起きただろう。
 友行は、彼女がドリンクバーに飲み物を取りに行っている間に、本気でまぶたを閉じて、頭を抱えた。
 なんてことだ。俺達は二人とも碧に骨抜きにされてて、しかも、その碧が三足を呪っている張本人かもしれないなんて。
 友行はますます、この疑いをはっきりと解明せねば話にならないと思い始めた。けれど、そう思えば思うほど舌は絡んで上手に喋れなくなる。
 碧は、明らかに彼の様子のおかしい事を見抜いていた。が、普段とり澄ましている彼が困っているのは彼女にとって面白いらしく、承知しながら救い上げず、他愛ない話をやめないことでじわじわといじめてくる。
 その笑顔は凶器のように友行に迫り続け、二時間を越す頃には、彼は、くたくたになっていた。ドリンクバーの残骸で、テーブルはまるでゴミ捨て場だった。



 結局、肝心の手がかりは何一つつかめないまま、二時間半後に、友行らは店を出た。碧が郵便局に行かなくちゃ、と言い出したのである。
「これ実家に出すんだ」
「なに?」
 まだ封の開いた封筒の中身を見せてもらうと、友行も朝方調べた校内雑誌の最新号だ。 書架に並んでいた表紙に、見覚えがある。
「父さんこれ大好きでさ。毎月送ってるんだよねー。ウチの父さんもホラ、卒業生だから」
「ああ……。そういやそんなこと言ってたっけ。
 つかぬことを尋ねるけど、碧のお父さんってどういう人?」
「え? なんでまた? フツーの人だよ。あ、でもちょっと占いとかに凝るかな」
「――そうなの?」
「ねー。そういうのって大体女の人がするもんだよね。でも父さん風水とかオカルト大好きでさ、すぐ本買って来ちゃうの。
 ミツタリ君が失踪した時も、校長先生にわざわざ『これは神隠しですよ!』って断言したりして。
 あれは恥ずかしかったなあ。なんかそういう家系みたいよ」
「…………へ、へえ」
 碧は、身長が低いので並んで歩くと顔が友行の肩ほどの高さになる。じっとその横顔を見つめていると、ふいに大きな黒目が彼を見上げた。
「なあに? 今日は、友行、おかしーね。何か、気になることでもあるの?」
「…………そうだね。……いつもは、さ。碧は、俺の顔を見たら、三足のことを話してただろ。
 どうして今日は、聞かないんだろう、と思って」
「え……」
 碧は隙を突かれたようにはっとした。みるみる頬が、血に染まって行く。
「あ。あれ? そうかな。確かにそうかな? 何でだろ。
 でも、昨日メールくれたよね。多分それで、ほっとしちゃって……」
 短い、用件のみといった返信だった。これまでの執着ぶりを考えたら、碧の落ち着きぶりは腑に落ちないほどだ。
 初めて動揺した様子を見せた彼女は、今更、義理でも果たすように彼に尋ねた。
「でもミツタリ君、大丈夫だよね?」
「……大丈夫だよ。体調も、ずっとよくなったしね。単位の登録も月曜日に俺が手配させるさ」
「あ。そお。…………つまんないの」
「……え?」
 碧は肩をすくめた。
「だってあたしの出る幕、なくなっちゃったみたいだもん。いつの間に仲良くなったの?」
「別に仲良くは……」
「男子ってすぐこれだからなー。勝手に仲良くなって、すぐ女の子締め出すんだもん。ずるーい」
 やばい――。逃げられる。そう思った友行は、さらに踏み込んだ。
「ねえ、どうして三足が心配じゃなくなったの?」
「べ、別に心配じゃなくなったわけじゃないよ」
「だって前はあれほど騒いでただろ。家にも行ってたし」
 さすがに、碧の表情が硬くなった。どうしてそんなことをしつこく聞いてくるのか、といった眼差しだ。
「友行、何か、言いたいことでもあるの?」
「…………」
「だって変だよね、今日、明らかに! いきなりお昼に呼び出したのも何か理由があったんでしょ? 
 言いたいことあるなら、言ったら?
 ひょっとしてミツタリ君に、何か言われたの?」
「……三足に?」
 ぐ、と碧の顔からかわいそうなくらいに自信がなくなった。
「めいわくだ。とか……」
「………………」
 これは、本当の悲しみだろうか。それとも本当を誤魔化すための、可憐な演技だろうか。
 友行には分からなかった。
 逆にミタリの一族が『読み』に走った理由が知れた。人間には分からないのだ。他人が何を考えているか。運命がどの筋を走っているのか。相手が自分にとって好ましいのか、そうではないのか。
 分からないから探る。そしていずれは操ってしまうのだ。
 なぜならば葛藤は時には深刻で耐えがたいものだから。保証がなければ、不安でたまらないから。
 気まずい空気をぎこちなく間に挟んだまま、二人はやがて、郵便局に着いた。ロビーに入った時だ。碧が突然「あっ」と言った。
「ね、見て見て、あれ」
 友行のジャケットのすそを取って彼女が示したのは、窓の外を行く二人連れのことだった。友行も一瞬前後を忘れて、おっと思う。
 人見教官が、目立つ美女を連れて歩いていた。どこかで見た顔だと思っていたら、保健管理センターにつめている女医だ。
 なにやら元気がなさそうで、人見が彼女を支えるように、親密な様子で寄り添っている。
 碧が頬を染め、口の前に手を当てた。
「見ーちゃった。ふふ。あの二人、付き合ってるんだよね」
「……え。本当?」
「うん。実はあたし、前にマンションの駐車場でも見ちゃったことあるんだ。
 南口にかっこいいデザイナーズマンションがあるでしょ。女医さんあそこに住んでんの。雨の日でさ、買い物袋提げた人見先生が、女医さんの車から降りるとこだった。ドキッとしたなー。
 また車がかわいいんだよね。プジョーのミニ。さすがクォーター」
 友行は思わず、前を歩く碧の肩をつかんで引きとめた。番号札を吐き出す機械に進もうとしていた碧はびっくりしたように振り向く。
「な、なに?」
「どうして、そんなことを、知ってる?」
「え。プジョー? うちの父さん車好き……」
「違う。クォーター? あの女医さんが?」
「――鳥羽先生? そうだよ。顔立ちがちょっと違うでしょ。
 前からそうだろーなって思ってたけど、やっぱり……。ああ、そうだ。ちょうどここに、書いてあるんだよ」
 と、碧は胸元の封筒の口から、再び校内雑誌を取り出した。ぱらぱらとページをめくって、後半で止める。
 友行の目の前に差し出されたそれは、恒例のインタビューページだった。
『今回のゲストは鳥羽・ジャンヌ・マリ・永子先生!
 日本、フランス、ハワイ、ハイチなど多彩なルーツを持つ神秘的な美女の素顔に迫る!』
 友行は頭をぶん殴られたように思った。
 すぐ傍に、目の前の書架に、あったのに。
 バックナンバーにだけ気を取られて、最新号には注意すら払わなかった。
 頭に血が上って、世界が白くなった。全身に力が爆発し、友行はすんでのところで、碧を抱き上げるところだった。
「ありがとう! 碧、ありがとう!」
 でも、勢いが止まらなくて、大声で言った後彼女の肩をつかんでゆすぶってしまった。
 髪を乱した碧は、今度こそぽかーんとした顔で、興奮した友行を見ている。もちろん、順番待ちの皆さんも目を丸くして見ている。
「分かった……! 碧はいつも、俺達の足りないところを補ってくれるんだ。
 あいつは遠慮しいだし、俺はものすごいバカで、いつも真実の真隣にいながら気がつかないから!! 碧がつないでくれるんだ! そういうめぐり合わせなんだ!! 前もそうだった!!」
「……は?」
「君は俺達二人共の守り神だよ! 大好きだ! 一生、崇め奉るよ!
 ちょっと待ってて! コンビニでコピーしてくるから!!」
 びっくりしたのと、恥ずかしいので、身の置き場もなくなっている碧をその場に置き去りにし、友行は雑誌を手に近所のコンビニに駆け込んだ。
 途中で自転車に轢かれそうになったが怖くもなんともない。
 戻ってきたら、碧は大きな柱の影にいた。なんでそんなところにいるのかと友行は思ったが、彼のせいでロビーにいられなかったのである。
 碧の恨めしそうな顔にさえ気付かぬまま、友行は雑誌を彼女に返した。
「ごめん、碧! 俺、帰るな!」
「…………こんな目に遭わされるの、初めて……」
「え? なに?」
「――今度は、高いお店でおごってもらうって言ってるの! 友行のバカ!」
「おごるおごる。ごめんね、じゃ!」
「友行!」
「はい?」
「……あたしのこと好きだってほんと?」
 今度は、友行が耳まで真っ赤になる番だった。確かに言ったような気がするが、冷静に繰り返されると我が事ながら、目がくらむ。
 碧は、返事を待たなかった。
「あたし、友行に嫌われてると思ってた」
「な、なんで……」
「だってあたし、自分勝手だったから。ミツタリ君のことで、ひどいこともいっぱい言ったし。きっと、迷惑な女の子だと思われてるなって」
 友行は、言葉が出なかった。
 今、彼の胸を満たしている気持ちをどうやったら彼女に伝えることが出来るか、見当もつかない。
 彼はただただ、首を横に振った。
「とんでもない」
「……よかった」
 碧は本当にほっとしたようにうなだれた。三足が手を出した理由が分かる。かわいい。かわいくて、どうしようもない。
「――碧。俺ら、ちょっと今、つまんない騒動に巻き込まれてるんだ。
 碧がそれに関係してなくて、本当によかった。
 それも、もうすぐ終わるから。全部、片付くから。
 色んなことが元に戻ったら、どこかに遊びに行かないか。三人で、一緒に」
「……う、うん」
「約束するよ。その時には、俺らで全部おごる!」
「も、もう。それはいいよ! 行って。連絡、待ってるから!」
「うん。じゃあ、また!」
 友行は、街を走った。放たれた犬のように、小学生のように、本当に走った。
 老婆がすれ違いざま、まああぶない。と言ったけれど、気にしなかった。
 健やかな肉体を持つ若い彼は、暗く長く、辛い罠の出口を目指してひたすらに走り、やがて、大学を越して自分の住むアパートへと、たどりつく。
 二階に駆け上って三足の部屋へ飛び込んだ。どうやら今日も鍵はかかっていたらしいが、知ったことではない。
 長髪を揺らし、半ば呆れた様子で振り向いた三足だが、差し出された記事のコピーを見て、顔つきが変わった。
「どうだ?」
「ごめん……」
 返事より先に謝罪が来た。
「……どうして気付かなかったんだろう……」
 友行には、その理由が少し分かるような気がする。
 碧が気になって仕方がなかったからだ。今日のように疑いと好意とに引き裂かれながら彼女といたのでは、他のことはどうでもよくなってしまう。
 友行だって今日の会計がいくらだったか憶えていない。
 しかも、二回目に彼女と会った時は事故の直後で、三足は声を掛けるのも難しいくらい意気消沈していた。無理もないし、そんな細かいことは、もうどうでもいい。
「……トバは、通り名だな?」
「厳密には違う。でも間違いない。ロワゾっていうのは、『鳥』のことなんだ。
 ……人見さんの、恋人……。くそ。そういうことか。
 健康診断か、入学した時か、名前で、俺が誰だか気が付いたんだな……。しかし、それにしても……。
 住まい、どこだって?」
「駅の南口のマンションだ。やたらデザイナーズで、かっこいいんですぐ分かる」
「すぐ行かないと……。……一緒に来てくれるか? 友行」
「当たり前だ!」
 三足が髪を結び、上着を羽織るや否や、二人は揃って暮れ始めた世界へと飛び出した。





(つづく)
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