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-5-




 商業ビルの立ち並ぶ北口とは違って、南口は古くからの商店街が残る味のある界隈だ。せいぜい三階建ての古いビルが並ぶ通りに立てば、その十二階建てのマンションはうっそりと、その場で一番図体のでかい生き物のように煮えた夕焼けを後ろにして立っている。
「逢魔が時だな」
「お、初めて聞いた。友ちんからオカルト用語」
 そんなことを言った後、三足剛も視線を上げ、彼が見ている同じ建物に遠い眼差しを投げた。空は焦げ、赤やピンク、煙のような灰色までが混ざって、まるでマンションそのものが燃えているように見える。
「築浅。鉄筋コンクリート。エレベータ完備。駐車場つきの超優良物件だね」
 友行はげんなりして肩を落とす。
「お前の口から不動産用語聞くのも、相当変だな。
 ……間違いなく、オートロックだぞ。どうする?」
「いざとなったら友ちんが開けてくれるでしょ」
「俺は鍵屋じゃねえ!」
 友行は本気だったが、三足は心配している素振りもなく、スタスタと歩いて行く。果たしてマンションの入り口へ立つと、友行は呆気に取られることになった。
 引越し作業の最中だったのだ。大きなトラックが横付けされ、作業員が青い保護材ですっぽりくるまれた戸棚か何かを運び出している。
 作業のために表の玄関は開錠され、廊下にも床にも養生のための素材がびっちりと敷いてあった。
「普通、もっと明るい時間にするもんだけどね。時間が押したか、何か事情があったんだろうね」
 三足が静かに言う。
「……『物語』が味方をするって、こういうことだよ」
 玄関周りには人もいなかった。友行は内心恐れおののきながら、いかにも住人です。という歩調を装ってエレベーターへ進んだ。
 管理人の視線。引越し業者の動き。他の住民の帰宅。全ての『筋』の間をすり抜けている有り得ない手ごたえが、背筋を一度ぞくりと撫ぜる。
「ポスト見たか」
「うん。『鳥羽』は、六〇七号室だ」
 と、ボタンを押した後、三足は灰色の瞳でエレベーター内の防犯カメラを見上げた。
「こいつだけは、どうしようもない。穏便に済ませたいね。友ちんもいることだし」
 そうか。と友行は思った。玄関にも防犯カメラはあり、映ったはずだ。
 もし、これから敵の家に乗り込んでそこで人死にが出でもしたら、事件になるかもしれない。まっさきに自分達が疑われるだろう。
 もう自分達は後戻りのできない筋に乗ってしまっているのだ。友行は口元を引き締めた。
「つまんないことを考えるなよ。何が起ころうと二人して、帰るからな。碧とも約束したんだ」
 三足はびっくりしたように振り向いた。
「なんの約束?」
「事件が片付いたら三人でメシを食いに行く。俺らのおごりで」
「…………」
 ふわりと、三足の頬に赤みが差したんで友行は心ひそかに仰天した。三足は文字盤の方へ顔を逸らし、口調だけは従来どおりに嘯いた。
「あ。そう。だったら、がんばらないとねえ。友ちん」
 友行の心は、瞬間的に、夕焼けのように燃えた。
 この。『遠慮しい』が。
 この、大馬鹿馬鹿馬鹿野郎が――。
 愛着と、憎悪と、困惑と、嫉妬をひとつの箱に閉じ込めて、二人は上階へと上がって行った。
 ドアが開くと、廊下が伸び、いくつかの部屋の玄関が並んでいる。奥の方から奇妙に生臭い冷気が流れてくると思ったその時、三足の手が友行の胸の前へ伸ばされる。
 伺うように視線を向けると、三足は自分の高い鼻梁と眼差しで、それを示した。
 彼の見ている先に、一つの玄関。ドアの脇のスペースに、かっこいい自転車がある。そして傘が二本ある。問題はその下だ。
 鳥かごがあるのだ。無論、空っぽだ。
「…………」
 二人はその前に立ち、標識を見た。「鳥羽」とあった。自然と、そのドアを二人で挟んで立った。
 三足が普段の洒脱もさっきの一瞬もすっかり捨てて、もの凄い顔をしている。友行の意識からも余分なものは吹っ飛んだ。
 閉じたドアの向こうから滲み出してくる濃厚な、どうにも出来ない、まがまがしさ。
 ここに、ある。
 斎場が。呪い師の仕事場が。ここで小鳥は屠られ、死神が呼ばれ、三足は呪われた。
 それは許しがたい犯罪行為だった。法律なんかとは関係ない。分かるのだ。あってはならないことだということが。
「……どうする。鍵、開けてみるか」
「いや、まず。インターフォンを鳴らそう」
「……そうするのか」
「ああ」
 鬼気迫る形相をしながら、三足はそれでも手順を踏んだ。ドアベルを鳴らす。幾度か音がして、やがて、スピーカーが通じるガチャ。という音がした。
 三足が口を寄せて言った。
「三足剛です。用件は分かるでしょう。
 ――話し合いに来ました。開けてください」
 しばし待ったが、返答は、なかった。いつの間にか通話も切られたようだ。
「開けてみるか?」
「…………」
 友行の提案に、壁に手を突っ張っていた三足は諦めたように頷き、体をどかした。
 友行は入れ替わるように前に出て、ドアノブに手を伸ばす。
 瞬間、ばしっとぶん殴られたかのような痛みを感じて、眼球から冗談でなく火花が散った。
「つ……ッ!!」
 右手を押さえて、飛び退る。静電気を十倍激しくしたような衝撃に、皮膚が痺れた。
 毒が!
 毒が塗られている……。そんな、感じだった。
 三足がますます表情を険しくさせて、ドアをにらんだ。
「どうしても…………」
 覚悟のこもった暗い声で獣のように呟く。
「最後まで、やる気か…………」
 ちらりと蛇の眼光がこちらを見た。
「友ちん」
「な。なんだよ」
「昨日からずっと、考えてた。なんとか、平和裡にフラグを解消する方法を。
 でもそれは、相手の協力がないと無理だ。
 殺しちゃうかもしれない」
 夜に向けて沈み始めた世界の中で、彼の声は廊下に冷たく響いた。
「ごめんな。もし、そうなったら俺は、食事会に行けない」
「ば、馬鹿……!」
 友行が動揺したその時だ。ガチャリ。と、ドアの錠が外される音がした。それから、トン! と、チェーン代わりのドアバーが立てられる。
 息を呑む二人の前で、白色のドアが、静かに、静かに開かれた。
 友行はぞおっとした。そこにいるのは、確かに人見だった。しかし、全身に倦怠と闇をまとって、存在がまるで違って見えた。
 これが、昨日会ったあの男と、同じ人間だ、とは。
「こんにちは、人見先生」
 三足は普段のだらしなさが嘘のように、油断ない口ぶりではっきりと言った。
「俺はあなたの彼女に話があります」
「………………」
 人見は、くたびれ切った目で三足を見、それから首を返して友行を見た後、視線を落とした。
 泥のような沈黙の末に、彼は、意外な事を言った。
「助けてくれ……」
 突然、その体ががくりと崩れ、ドアを押し開けながら床に落ちた。三足は一度は下を見たが、すぐさま鼻梁に皺を寄せて、部屋の奥を睨み付ける。
「先に行く……!
 そいつを中に入れて、鍵を閉めてくれ!」
 言うや、人見の体を飛び越えて、中へと入って行った。友行も慌ててその後に続き、それから、完全に昏倒している人見の足を引っ張って体を引き入れ、なんとか、ドアを閉めた。



 瀟洒なマンションだった。家具や照明がいちいちきれいに配置され、このままインテリア雑誌に載っても問題ないくらいハイセンスだ。
 けれど、そんなものも、飾られた絵も、花も、全て無駄だ。こんな穢れた、腐った空気が充満しているのでは。
 鼻がもげそうだった。これは現実の匂いではない。分かってはいたが、生理的な反応が起きるほど、その場の空気はよどんでいた。
 友行は靴のまま、その汚濁の中心点を探して居間を横断し、開かれたドアを通って奥へと入る。
「…………!」
 そして、ギョッとして足を止めた。
 それは、本来はおそらくウォークインクローゼットとして使われるべき小部屋だった。カーテンが閉まり、電灯の明かりどころか器具の設置さえもない、真っ暗な部屋だ。
 床に白いチョークでさまざまな模様が書かれている。廊下の僅かな光を吸って、生き物のように闇の中に浮かび上がっている。
 そこに女が、髪の毛を振り乱してうつぶせに倒れていた。その脇に、三足が屈みこんでいる。
 三足が下に長い腕を差し入れ、その体をひっくり返した。
 友行は思わず、とんでもない悲鳴を上げそうになった。とっさに手で口をふさいでこらえたが、ひどかった。
 あの美しい女医の顔は、フラグに侵されて真っ黒に爛れていた。
 今更、いつか誰かが言っていた言葉を思い出していた。
 呪い手の死に様は、端的に言って、ひどいものだと。
 その通りだ。ひどい。こんなものは見たことがない。三足のもひどかったが、これはその比ではない。生きながらの腐敗。そんな感じだ。
 友行は『世界』の怒りの苛烈さ、凄まじさを思い知り、激しい懼れに打たれた。
 悪いことはやめよう。心からそう思った。
「……し、死んでるのか?」
「……いや。まだだ。でも今夜中には、死ぬだろうな」
「頼む……」
「うわっ!」
 いつの間にか、背後に人見が立っていた。彼には斑はないが、真っ青な顔をして、どう考えてもまともではない。
 それでも彼は邪魔な友行を手で押しのけると崩れるようにひざまずき、片膝を立てた三足に取りすがった。
「頼む……! 永子を助けてやってくれ……!」
 顔を歪める三足の代わりに、友行が逆上して怒鳴った。
「今更なんです?! ……どうしてこんなことになる前に止めなかったんですか!」
「…………愛してるんだ」
 やってられない。
 友行は全身の力が抜けるような気がした。逃亡犯をかくまう身内もこんなことを言うんだろうか。
 三足も目の下に皺を寄せて人見を見る。
「それで、ご丁寧にタンクの役割まで引き受けたんですか。そんなことをしたら諸共破滅すると、分からなかったんですか?」
「何度も、止めた。何度も言ったさ!
 でも……、彼女は、どうしても、どうしても許せないと…………」
「…………」
 その女はまるで憎悪そのもののような姿になって、三人の男の真ん中に倒れている。
「君の母親に、大好きだった父親を、目の前で殺されたと。
 家族全員が狂わされ、人生が激変した。長い長い苦しみの果てに、ようやく大人になったと思ったら、そのカタキの息子に巡り会った。
 目の前に入学書類までがある。相手は何も気付いていない。
 こんな誘惑を差し出されて、抗えるはずがないと」
 母さん――。歯を食いしばった三足の苦しげな横顔が無言でそう呟いていた。
「君には、ひどいことをした。
 でも一緒に、何か成し遂げていることが、嬉しかった。このまま、五年でも十年でも、協力してもいいと思ってた。
 だが永子は、隠してたんだ。俺は知らなかった。ただ、君を陥れるんだと。大学から追っぱらってやるんだと聞いてた。
 殺すなんて、まさか!! あんな、ことが、起きるなんて……!!」
 人見が言っているのは、学務棟の爆発のことだろう。友行は間近で見ている。
 確かにあの時、彼は本気でたまげていた。
「昨日から、永子の体が真っ黒になってきた。呪いに失敗したからだと言った。相手が自分を押し返そうとしているんだと。
 俺は、びっくりして、今度こそ彼女を問いただした。それでやっと知ったんだ。本当は彼女が何をしようとしていたのか。
 ――頼む……! 許してくれ。永子を、助けてくれ!
 あいつも逃げられなかったんだ! 自分自身から。そして自分の、一族から……!」
「本当に…………」
 三足の灰色の瞳が、暗い部屋の中で人見にひたと据えられる。
「本当に、彼女を愛している?」
「…………」
「おしまいまで?」
 人見は、何かがとり憑きでもしたかのように、懸命に繰り返し頷いた。眼鏡の下から涙が幾筋も落ちて、鼻水と一緒に青白い顔を汚した。
「…………」
 三足は、乱れる気持ちを静めるように目を閉じると、ため息を吐いた。それから、膝の上に女の頭を載せて、猫でも抱く手つきで、その首筋に指を置いた。
「…………友ちん」
「……あ?」
 その時まで、友行は、ほとんど壁になっていた。ただただ呆然と、目の前の光景を見つめていた。
 三足は床の上から彼を見上げた。
「ちょっと行ってくる」
 その手が女の脈を握っている。
「俺の体を置いていくから、戻ってくるまで、番を頼むよ」
「……大丈夫なんだろうな」
「冒険だね。したことのないことだから。
 でも俺は、この人を、殺したくないんだ。俺の母親がこの人の父親を奪ったように、人見さんから恋人を奪いたくないんだ。
 そんな話を続けるのは、嫌なんだ。罠から逃れて、俺ごのみの『物語』を、紡ぎたいんだ」
 耳の真横で大声で言われたような気がした。頭の芯がしびれて、手足がぼうっとなり、もう約束とか、未来のこととか何も考えられぬままに、口だけが動いた。
「……そうか。だったら、行って来い」
 それは、選択だった。彼は蝶を放った時のように間違いなく、一つの分岐を越した。
 何故だか涙が出そうになった。
「うん。ありがとう。友ちん」
 三足は病人を抱えたままにっこり笑った。
「行ってくる」
 三足はミリタリージャケットのポケットから例の、携帯用のアルミボトルを取り出すと、蓋を開いて周囲に撒いた。
 濃厚な酒精が一瞬辺りの悪気を祓う。最後に一口、喉に流し込むと、彼は締まりのない女の体を自分の方へ引き寄せて、しっかりと抱き直した。
 脇の下から伸びた手が、女の手首をつかみ、腹の前で交差する。
 女の首筋に鼻先を埋めて、三足剛はスーと息を吸った。それから、目を閉じる。
 友行はまるで性行為をはたで見ているような気分にさせられた。
 やがて前も聞いた、異国の言葉が三足の唇から吐かれたかと思うと、二人の体が小刻みに揺れ、やがてクッと、三足の表情から手ごたえが無くなった。
 外はとっくに夜になっているだろう。
 物音一つしない、鉄筋立てのマンションの中で、友行は額に滲む汗を感じながら、人見と共に、その場に立ち尽くしていた。



 三足剛は、地上ではいつでも地面に足を取られるが、地下では自由自在だった。
 まるで水に放り入れられた魚のように、着水の瞬間から正しい姿勢ですぐ泳ぎ出すことが出来た。
 門神レグバはそんな彼を愛していた。実に二回目からいささかの犠牲も受け取らずに彼を通した。
 基点の四辻から、彼は少し女の記憶を探った。人見が言ったことを全部鵜呑みにして、騙されるわけにはいかないからだ。
 けれど、ほどなく彼は嘘つきではないことが分かった。
 延々と続く、苦痛と忍耐の記憶。その狭間に現れる人見との泥沼めいた交歓の記憶。
 激しい後悔。血みどろの儀式。最後の日の前にはことさらに美しく見えた可憐なカナリヤ。
 葛藤の日々。そして、自分。何も知らぬ、不真面目な、だらしのない、なめた横顔の、仇の息子。
 現在から過去へとさかのぼるその跳躍をさらに続ければ、その先に、彼女の辿ってきた狂おしい前半生があったのだろうが、止めておいた。
 それは自分が知るべきことがらではない。必要があれば、人見が担う領域だろう。
 『読み手』にとって知ることは善だ。だが知らないこともまた、善なのだ。
 三足は易々と身を翻して、長い髪の毛を尾のように引きながら元の辻へと戻った。
 女は気を失って目を閉じている。だから、そこは暗かった。
 三足は闇の中で神を呼ぶために詞を繰り始めた。自分の寿命を数年犠牲にして、この女の筋に、ある呪いをしかけようとしたのだった。
 その時だった。
 いきなり首筋をわしづかみにされて、三足は驚いて目を開いた。
 自分の顎の下に、長くたくましい腕が見えた。まるで蛇が噛み付くように、その大きな掌が彼の喉の骨を押す。
 呪文は当然途中で止まった。三足は、本気で窒息しかかりながら、自分を苛むその人間の顔を見た。
 眉が歪み、その答えが喉の奥でつぶれた。
「――兄さ……!!」
 殺気のこもった眼差しを眼鏡の下に光らせ、怒りのあまりに青ざめた顔でそこに立っているのは、三足素直だった。



 様子がおかしい。友行がそう思い始めたのは、彼がダイブして十分か十五分程経った頃だった。
 三足の体がぎくりと震え、平衡を失い始めたのだ。唇は引き締められ、顔は緊張に引きつり、眉間には苦しみの表情がありありと現れている。
 友行と人見は思わず顔を見合わせた。明らかに何か、起きている様子だ。だが、どうしたらいいのか分からない。
 彼らは自分達が事実上、その場に置き去りにされていることに気付いて、焦るしかなかった。
 そのうち、まるでぶつっと糸でも切れたように大きな衝撃が三足の体に走り、とうとう彼は、鳥羽の体もろとも横に倒れてしまった。
「三足……!」
 それでも、しっかりと結ばれた手と手は解けなかったが、一切の反応が無くなった。
 それまでは、半分眠った人間のように意識は潜っていても体は半分起きていたのだ。ところが、今ではそれがない。
 呼吸はしているし、体温は普通なようだが、人形が転んでいるようだ。からっぽの、抜け殻のような体だけが、そこにある。
 友行は悪寒に打たれた。これはやばいと思った。彼の友連れとしての本能が、友の身に異常があったと教えていた。
 だが、どうしたらいいか分からない。揺さぶり起こしていいのかさえ分からない。次の瞬間にも呼吸が止まりそうで、友行はすっかり動転してしまった。
 もっと動揺したのは人見だ。感情のままに三足につかみかかろうとするので、友行は慌てて彼の腕を押さえた。
「どっ、どうしたんだ?! 何があったんだ?!」
「………………」
 答えは出ない。ただ、冷えて固まった額をだらだら汗だけが流れて行く。
 窮地に陥った友行の耳に、その時、しわくちゃの声が響いた。はっとして、ポケットを探る。
 スマートフォンを耳に当てた。
『――ええ、さっさと応答せぬか! この、役立たずの出来損ないの奴婢風情が!!
 寿命が縮まったわ!!』
 友行は、その声のあんまりの懐かしさに涙が出そうになった。



「お、お婆ちゃん……!」
『犬が何を鼻を鳴らしておるか! しゃんとせい! しゃんと!』
「――三足が、おかしいんです!」
『そのようなことは、分かっておるわ! 見ておったのじゃからの! スナオが干渉してきおったのじゃ!』
「え、ええ?」
『近くにたれもおらぬ。力を貸せ! ゴウの使った神酒があるであろうが! さっさとそれを煽り、ゴウの手首を持て!』
「え。え? それって、俺もダイブするってことですか?
 無理ですよ! 俺には、どうしたらいいか、分からない」
『黙って、言う通りにせい!! ゴウを滅ぼしたいか!!』
 友行はひったくるようにして床の上のアルミボトルを取ると、中身を煽った。
 予想以上に多量に残っていて、口の中がアルコールで派手に焼けた。甘い匂いが鼻に抜ける。
 そして、倒れた三足達の前に這って行って、その手首を取った。最後にやっと人見のことに気が回って、首を反らす。
「すいません。ちょっと、行ってきま――」
 次の瞬間。ぐいっと手首をつかまれて、まるでプールサイドから転落するように、彼は地下へ引きこまれた。


 そこには、婆ちゃんがいた。
 相変わらず派手な格好で、飾りがひらひらしている。けど、気のせいか、洞窟で見た時よりもかわいく見えた。
 周囲は、完全な闇だった。彼らは宙に浮かんでいた。
「お婆ちゃん! なんです、これは?! どうしたんです?!」
「スナオがゴウをさらって行った!」
「は――はあ?!」
「あの愚か者は、弟が地下にもぐると踏んで待ちうけておったのじゃ! ゴウが人に害を為そうとしたと思いこんでおるのじゃ!
 追うぞ。着いて参れ!」
「え、わあああああっ!」
 着いて参れも何もない。まるで鎖でつながれているかのように、彼は無理矢理上天へ引っ張り上げられた。その力点になっているのは明らかに首で、友行は飼い主に逆らって首輪が取れそうになっている犬の気持ちが分かった。
 すぐに世界は曇りの日の昼間の明るさになり、どこへ目をやっても奇妙に広かった。飛行しながら、いくつもの半透明の筋を通り抜ける。
 それで彼は自分が、完全に基本の位置を離れて、自由飛行していることを知った。
 恐怖が全身を打ち、鳥肌が立った。前は、三足剛の筋を辿れば話は済んだ。だが今、自分は縦横に移動させられている。
 一体、どこにいるのだろう?
 戻れるのだろうか?
「け、結局、何があったんですか?!」
「まだ分からぬのか、痴れ者が! ゴウは、あのロワゾの女の筋に呪いを掛けようとしておったのじゃ。
 ゴウの言うところの『治癒神ロコ』を恃む保全の呪いじゃ。そうすればどうなる?!
 『物語』は、ゴウの味方じゃ。彼を救うために女を攻撃しておる。ところが、その女を守るためにゴウが呪いをかければ、世界が呪えば呪うだけ、本来守ろうとしておったゴウが弱るという無駄で奇妙な循環が起きるのじゃ。
 『物語』はいずれその矛盾に気付き、攻撃を緩めるじゃろう。そうして時間を稼ぐ!
 よう考えたものじゃ!! 余程天才ある狂人でもない限り、こんな荒唐無稽な手は思い付かぬ!! 畜生めい!」
「…………」
 自慢?
 ものすごい速度で引っ張り上げられながら、友行は思った。
「ところが、あのスナオはゴウが女を殺そうとしておると思いこんで、それを止めるために力づくで筋から引き剥がしおった!
 それを我が見咎めた故に、飛んで逃げおったわ! 道理をわきまえぬ未熟者めが! 筋から離れて移動するのは、いかにも危険じゃと言うに……!!」
 以前、三足が言っていた言葉が脳裏に蘇る。
『道に迷って失踪することもある』。
「スナオさんは、それを知らないんですか?!」
「知ってはおろう。が、とにかく逃げたい一心なのじゃ。さだめからの!
 しかし解せぬ。ゴウには、小夜子の護符を与えてある。何故このように簡単に位置を動かされるのじゃ。あれさえあれば、これほどは……」
「………………」
「……何故、おぬしがそれを持っておるのじゃ」
 胸から下がるオーナメントを手にした友行を振り向いて、お見合いをした後、老婆は爆発した。道理で重いと思ったと、聞くに耐えない悪口の限りを尽くしてこの世の全ての若造を罵倒した挙句、速度を上げた。
 友行はその力に翻弄されて目を回した。けれどようやく、何が起きたか理解していた。
 あの眼鏡を掛けた美丈夫が、自分の信条に基づいて三足を――自分の友を妨害しているのだ。
 老婆は、見ていてくれたのだ。そして自分が極力手を出さないで済むように、友行を引っ張りいれてくれたのだ。
「どいつもこいつも大馬鹿者めが!! 悪疫!! 悪虫!! 穀潰しッ!!」
「…………」
 最終的な心情はともかく。
 はためく自分の前髪の間から、友行は遥か前方を見た。自分達と同じように、筋の狭間を疾駆している二つの魂が見える。
 三足をつかんで放さない、大烏のような、死神のような黒い影。
 それは上へ上へと飛んでいたが、少しずつ迫る背後の気配を感じでもしたのか、突如ぐんっと曲がって下へと方向を変えた。
 友行らもそれを追って、果てしない下降を始める――。
 透明の筋を幾度も貫通した。その度ごとに他者の記憶が水しぶきのように肌に弾けて行った。
 そうして果てしなく、果てしなく、果てしなく下降しながら、友行の脳裏にはいつしか、昔のことばかり浮かんでいた。
 なぜだろう。ここは、あの朝に似ている。あの湿った霧に飲まれた故郷の朝に似ている。
 大勢の人の気配。膨大な量の家族と人生。それでいて、白い道には誰もいない。
 もう一度、俺はあいつと逢うのだろうか。
 距離は徐々に縮まっていた。死神が大烏なら、婆ちゃんはコンドルだ。スケールが違う――。
 やがて死神の体の斜め下あたりに、太い腕にがっちりと押さえ込まれた三足の顔が、見えた。
 ――真っ黒だった。
 再び、勢いを盛り返したフラグに顔半分が覆われていた。
 灰色の目が、友行を見る。悔しそうに。だが諦めをはらみ、助けを乞うように。
 それを目の当たりにした瞬間、憤りとも、悲しみとも、嫌悪の吐露ともつかぬ咆哮が、友行の口の奥からほとばしった。
「三足ぃッ!!」
「うおっ」
 びっくりしたのは婆ちゃんだ。そして、死神だ。体をびくりと痙攣させたかと思うと、顔が横を向いた。
「三足!! 逆らえ!! 暴れろ! 抜け出せ!! 俺が拾ってやる! どこへ落ちても、俺が見つけてやる!!」
 斑点に彩られた灰色の目が、開く。そして、雷に打たれたように、彼はその、腕の束縛から逃れようと暴れ始めた。
「剛……!!」
 素直は落ちながら腕に力を入れ、ものわかりの悪い弟を抱き直した。
「やめなさい。これが、お前のためなんだ。お前は、あの人のようになってはいけない。
 お前は悪い。お前はお前であってはいけない。人の社会に戻るんだ」
「――嘘だ!! 諦めるな、三足! もう少しだったじゃないか。もう少しで、お前はたどりつくところだったんじゃないか! お前の話に!」
 呪った奴も呪われた奴も、誰も死なない。傷やひょっとすると一生ものの後遺症を抱えながら、みんながバツの悪い思いをして、隣り合って生きてく。
 そんな不自由な、窮屈な、彼らしくなあなあで生煮えな話だ。
 けれど、それは彼自身が考えた『筋』なのだ。彼が作ろうと心血を注いだ『筋』なのだ。人からどんなくだらない話に見えようとも、自分で世界を作って、自力で行くことは、唯一無二なことなのだ。
「――明け渡すな!! 抵抗しろ!! これが最後の障壁だ!!
 さあ、来い! その男を跳ね除けろ! お前だって、男だろう!!」
「!!」
 ぎゅっと三足の目が絞られた次の瞬間。
「がッ……!!」
 素直が潰れた声を上げて身をよじった。何が起きたか遠目には分かりにくかったが、老婆は見ていた。
「ほッ。噛みつきおったわ」
 口の前に回っていた腕を噛んだらしい。素直は大幅に失速しながら、顔を歪めた。
 そして、次の瞬間には右のこぶしを握って弟の顔に叩きこんだ。
「…………!」
 それは、これまでの暴力沙汰を物語る、迷いのなさだった。友行の頭が、怒りに煮える。
「やめろ、素直……!!」
 だが殴られても、三足は慣れているのか、へこたれなかった。ほころんだ糸を必死で手繰り、穴を拡大しようとする。
 素直は手こずった。顔が焦りに染まり、移動もままならなくなる。
「よし、今じゃ!」
 婆ちゃんが片手で友行の首輪を引いてブレーキをかけながら、何事かぐちゃっと呟いた。
 突如、素直達が落ちていく先の空間に『場』が出来た。友行達には十分な間があったが、彼らはそれを感知できず、背中から派手に落ちて、跳ね返った。
「ぐっ!」
 一つだった影が二つに分かれた。兄の体をクッションにして一拍早く立ち上がった三足の、灰色の瞳が空を見上げた。
「友行!!」
 友行は返事の代わりに手を伸ばした。三足が傾いだ場を走って、飛び上がる。振り上げられた腕が中空で伸ばされ、友行のそれへ届きそうになった、その時。


 突如横合いからまっしろい光が飛び込んできて三足剛の体をさらった。


「?!」
 びしいッ!! という鼓膜に対する圧迫。
 彗星のごとき光はそのまま右へ飛び去る。三足の体を、持ったまま。
「………………」
「――な、なッ……?!」
 友を横取りされて、ぽかんとする友行の背後で、老婆がうろたえた声を出した。
 彼女だけではない。ようやく自分を取り戻した素直も、呆気にとられて場に立て膝をついている。
 やがて、ゆるやかな落下の末に、老婆と友行も、その場所へ着地した。
 友行は足場を得るやすぐ、光の消えて行った天を振り仰いだが、その名残はもう、どこにもなかった。




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