<<戻



エピローグ


 二ヶ月後。
 白尾友行は唯一の悪癖であるタバコを口に、アパートの廊下の欄干によりかかり、ドアの開け放たれた隣室を眺めていた。
 部屋の中から出てきた三足剛は、中に残る不動産業者に挨拶を済ますと、ドアを閉め、子供みたいに踵をとんとんとやってようやく靴に足を入れ込んだ。後ろでまとめた髪の毛とエスニックな鞄が揺れる。
「やー、済んだ済んだ。世話になったねえ、友ちん。荷出しも手伝ってもらっちゃって――」
 三足剛は今日でこのアパートの部屋を引き払ったのである。新しい住居は二つ隣の駅の付近にあり、三足は今度は荷物の受け取るために、そこへ急いで向かわねばならない。
「……本当に、引っ越すんだな、お前」
「ははは。なに、今更。言ってたでしょ、前々から」
「…………」
「今月から婆ちゃんとこへ通うことになったから、駅から近いのがいいし、兄貴からの仕送りも額がカットされて、家賃削らないとやばいんだ。
 ――それに、俺はまだ、全然未熟だ。あまり近くにいすぎると、迷惑がかかる。
 強くなりたいんだよ。
 それを全部、自分でやりたいんだ。友ちん」
 分かっている。この話を聞いた時から、三足が何を考えているのかは分かっていた。
「…………本当に、困った時には、連絡よこせよ」
「うん。そうだね。ありがとう」
「……じゃあな」
「うん。じゃあまた、学校で!」
 あれから、人見教官の根回しで三足はなんとか後期の履修登録を済ませることができた。呪いも解消されたので毎日登校できるようになり、爬虫類めいて生態がつかめず、周囲から不気味がられているのは相変わらずだが、彼なりに普通の学校生活に戻っていた。
 ところがそんな矢先、彼は突然引越しをすると言い出したのだ。物件はすぐには見つからないから、おそらく騒動の直後から自分で探していたのだろう。
 友行は何故か、水でもぶっかけられたような思いを味わったが、引き止める立場にないことは分かっていた。
 彼の代わりに碧が大声を出して、猛烈に彼に抗議した。
「どーして?! どーして?! え――ッ?! も――――。
 あたし、二人が隣同士ってすごい好きだったのに――!!」
 三足はやさしく苦笑したが、それでも勤勉に手続きを進め、今日ついに、出て行ったのである。
 友行はアパートの二階の鉄柵に腕をつけて、一人静かに道を行く彼を見送りながら、これまでここで起きたさまざまなことを思い出していた。
 ありきたりなこと。とんでもないこと。色々あった。
 夢のようだ。
 がんじがらめの縁のなかで、一緒にもがき苦しみ、憎悪と呪術と生と死の物語を紡いだ。
 それが悪さも良さも、美しさも醜さもないまぜにして、どれほど彼の心に大きな価値を締めるに至っているとしても、すべてを解き放つことが、彼の役割である。
 正しいと思うことを果たすことが、自分の、価値である。
 それでもねじれた吸殻を手に、部屋の中に戻った。
 居間に足を踏み入れた瞬間、三足が「おきみやげ〜」と称して置いていったあの恐ろしい聖母子像とふと目が合って、一人、苦笑いした。



 秋が過ぎ、冬が来て、三人は遂に念願の食事会なぞを果たした。繁華街の飲み屋を舞台に、ローカルな話、古い話をもう嫌になるほど尽くし、苦しいくらいに満腹になって、そしてそれぞれの家へ帰った。
 正月休みが来て、友行は帰省したが、碧はバイトがあるので帰らないと言い、三足は兄と一緒にアメリカの父親に会いにいったらしい。
 年明けて友行も塾講師のバイトを始めると途端に忙しくなり、碧とも三足ともほとんど遊べない日が続いた。
 孤独めいた、しかし平穏無事で彼らしくスマートな数ヶ月を経たある日。どうも体調が優れないと昼から停滞気味だった友行は、碧からたいそう泡を食ったメールを受け取った。


『ミツタリ君、失踪!!! 電話にも出ないし、部屋にもいないよう!!! どうしよう、友行!!!』


「………………」
 机についていた友行は、スマートフォンを持った手を前に投げ出して、しばし、痙攣的に笑ってしまった。
 そうだよ。そうだよな。
 遠慮しいのあいつが、直接俺にヘルプなんて投げて来られるはずがないんだ。
 碧を通して。いつも、彼女の気持ちが、二人をつなぐ。
 どれほど離れていてもさだめは不可分だ。
「……死ねばいいのに」
 友行はメールの返事を打った。


『心配するな。すぐに、見つけてやる』


 そして完全武装をした後、小雪のちらちらと舞う、明るく白い世界へと、ドアを開いて、出かけていった。





<<戻 次>>