heaven's candy -1-
2012/04/09





「――こんなことは、これきりにしてもらいましょう。子爵」
 男が言った。
 血に濡れもしない、長剣を鞘に収めて。
 横に倒れた視界に、すっきりと鍛えられた無駄のない下半身と、それを出迎える、太めな、よい靴を履いた中年男のがに股が重なった。
「無論だとも無論だとも。それにしてもあなたは素晴らしい。あなたの従者も素晴らしい」
「少しも嬉しくありません――。このような、一方的な仕合に勝っても」
「勝利は勝利だよ。さあ、手順はきちんと踏まなくては。徽章を。我が息子のために」
 いまいましげな沈黙の末に、男はざっと靴を鳴らして身を反転させた。
 数歩で間合いを詰めると、砂利の上に、倒れて息をしているトウマの傍に跪き、手を伸ばして、制服の胸に縫いつけてある徽章を毟り取る。
 いつも思うことだが、心臓を持って行かれるほうがマシだった。
 労わるように、男は横向きの彼の腕をたたき、囁く。
「恥じることはない。青年。君は勇敢に戦った。騙し討ちにされたようなものだ。恨んでくれて構わない。強くなって、いつか私を倒しに来たまえ。君からの再挑戦は、いつでも受けよう」
 そうですか。それはどうも――。
 片膝をつく男の向こうに、白衣の子どもが立っていて、賢そうな瞳で、横たわるトウマを見ていた。背が小さいせいで、両者の目がぴたりと合う。その邪気のない、全てを見通すような澄んだ眼差しに耐えられず、トウマは、瞼を伏せた。
 男が膝を伸ばして立つ気配がした。礼儀正しく、静謐な、けれど震えるほど強いその男の足音が遠のいて行く。入れ替わりに、それほど美しくないものが、けれども、馴染み深いものが来た。
「これに懲りて身の程を知るのだな! たかが、守備兵の一人が、手柄欲しさに若様を狙うとは! 思い知れ!」
 無慈悲な靴の先が二度ほど腹に蹴りこまれた。既に立てない状態だったトウマは呻き、虫のように、地上で身をよじる。
 余裕に満ちて幸せそうな笑い声が靴を止めた。
「まあまあまあ。それくらいにしておきなさい。――目の付けどころは、よかったね、若い守備兵君。けれども、一見たやすそうに見える場所にこそ、恐ろしい罠が潜んでいるものなのだよ。勉強になったろう」
 ほくほくした声。やがて衣擦れの音がして、頬にぺたりと、つめたくて金属くさいものが置かれた。
 目を開くが、見る前に、それが何か、分かっていた。銅貨だ。
「徽章を、新調したまえ。すぐに手に入るだろう。君程度の階級なら。そして、その金を受け取ったなら、誰にも、今日のことを言ってはいけないよ。分かるだろうね。なんといっても、息子は君の上官だし、私はいざとなれば、どんな強い人間でも連れてきて、君の腕や足をへし折り、一生をめちゃめちゃにしてやることが出来るのだから」
 色白の、ぽっちゃり太った中年の子爵は、青い目で楽しそうにトウマを見下ろしていたが、ふと、その口髭を嘲りに歪める。
「……それにしても、つくづく妙な色の髪の毛だなあ。下々の者には、珍種がいるものだ。全ての人間が、我々ほど神に愛されて生まれるわけではないという証左だね。――では、軍曹……だったかな? これからの君の人生に、幸大からんことを」
 ご満悦の高笑いに、取り巻き連のお追従の笑い。挨拶代わりの蹴りや、悪罵や、唾が続けざまに投げつけられた後、馬車の立ち去る音がして、辺りはようやく、場に相応しく、静かになった。
 木立が風に揺れて、ざわめいてる。しばし、脱力してさやかな葉音を聞いていたトウマはやがて、思い切るように四肢に力を込め、体をひっくり返して地面に手をついた。膝を折って立ち上がろうとした時、ぎくりと右足が強張り、痛みに顔をしかめる。
「っくそ……」
 あの静寂の剣士は、一度も彼を武器で傷つけなかった。その代わり、的確に――まるで神のように的確に、骨を蹴り、筋肉を痛めつけ、重心を突き崩して幾度も地面に倒れさせた。
 若いトウマが、疲労困憊し、無残な敗北を自覚して、起き上がる力の最後のひとかけらを失うまで。繰り返し。
 圧倒的な力量差だった。お話にならなかった。壁を相手に戦っているような気がした。
 トウマは、秋の葉っぱに埋もれていた我が剣を探し出して、苦労して取り上げると、腰の鞘に戻した。それから、土埃と小枝と枯葉だらけになった自分の全身を、平手で払う。
 最後に、髪の毛を触ったが、彼の頭はねこっ毛で、一度細かいごみが入り込んだら、とてもじゃないが取りだせなかった。
 トウマは、中肉中背で、これといって特徴のない男だった。まあ顔は、人によったら目に愛嬌があって、好きな顔だと言ってくれるかもしれなかった。だが、「美形」だとか「上品」だとかは決して分類されない、十人前の造作だった。
 ただ一つ、髪の毛だけは、異常だった。彼は、赤毛だった。それも、まるで、苺のような、赤だった。
 人は皆、彼に会うとまず呆気に取られて頭を眺め、その髪の毛は地毛か、それとも何かに狂って染めたのかと尋ねるのだった。
 どういたしまして。生まれた時からこの色の、正真正銘の地毛だ。このピンク色のせいで、彼は軽薄な人間と見られ、そして実際にそうなった。
 首都の守備隊という、ギリギリ公務員、けれど実態は軍の最底辺で、大半の隊員が名前負けという商売につき、勤務していない時にはほぼ飲み屋にいる。酒が好きで、酒場が好きで、女が好きな、およそ親の自慢やこどもの手本にならないような、二十五の孤独な青年だった。
 彼は、仕合を始める前に、岩の上へ放り出しておいた自分の外套を取ると、よろけながら、歩きだした。群生するススキが、彼に踏まれるたび、音を立てて不恰好に揺れた。
 一度、重心を支えきれずに倒れた。右足の打撲が、思った以上に効いている。
 それでも、何とか再び立ち上がって、彼は、歩き続ける。あの立派な男や、子どもや、子爵達が乗って去った、馬車の轍の後を辿って。
 秋の空は、広く、青く、何の悲しみも知らぬように、隅々まで晴れ渡っていた。トウマはその下を、病気の犬のように、左右に振れながら進み、やがて、高い城壁に守られた市門に通じる街道の石畳へ、たどり着く。





 門を抜けて市内へ入ると、夕方が近いということもあって、往来はひどく混雑していた。
 子どもをつれ、買い物籠を持った奥さんやら女中やら、商売道具をやぐらに積んで声を張り上げる行商人。しゃれた身なりの晴れ晴れしい伊達男。集団で行く坊さん。尼さん。お使いの小僧やら、きれいな姐さんやら、役人風の男やら。それぞれが忙しく喋り、行き交い、働き、蜂の巣の中のような大騒ぎだった。
 総人口十二万を抱えるチンマーワルド公国の首都、アルブランは石灰質の白い城壁に囲まれた古い街だ。ここ四十年ばかり疫病も流行らず、平和な時代が続いているために、狭い城内で人口が増大し、殊に下町は過密気味だった。
 朝と、夕方はさらにひどい。注意していても肩と肩がぶつかってしまうような混雑具合の場所に、荷馬車やら乗り合い馬車までが強引に割り込んできて、田舎者や老人、病人、――それに足を怪我しているような人間にとっては、ことのほか優しくない殺人的な場所になるのだった。
 ただ、惨敗者のトウマにとっては、この混雑ぶりがいつも、救いでもあった。皆が他人に無関心な都会だからこそ、こんな苺色の頭もさしてどうこう言われずに済む。
 守備隊の制服を来た男がボロボロになって、徽章をつけていなくても、そそくさと建物の陰を進んで、徽章屋の店内に滑り込むことが出来るのだ。
 徽章屋の親父もまた、都会育ちの商売人だから、「こんどは誰にやられたんだ」などと言って、徒にトウマを傷つけたりはしない。黙って上着を受け取ると、「十分待ってろ」と言い捨てて、作業場へ引っ込んだ。
 トウマは、おなじみの木のベンチに腰を下ろして、痛む足を存分に前に投げ出し、ふーっとため息をついた。背中を壁にもたれさせると、耳元の窓から漏れ伝わってくる、往来の雑踏に意識を任せて、じっとしていた。
 いきなり、店のドアがばん! と、勢いよく開いた。一人の、黒髪の剣士がつかつかと入ってくると、可否も尋ねぬまま彼の足をまたぎ、まるで体をぶつけるような勢いで、ベンチの隣に腰を下ろす。
「……ジギー」
 トウマは首を捻じ曲げ、相手の名前を呼んだ。
 ジギスムンドは、隊の同僚で、友達だった。身長が高く、世慣れて物知りで、短いあごヒゲなんかがまあまあ格好よくて、何かと頼りになる男だ。
 彼はその黒い目で、トウマの髪の毛やら、そこに紛れ込んだ枯れ葉やら、冴えない表情やら白いシャツを見やった後、口を開いた。
「ダメだったのか」
 トウマはその飾り気ない口調に、かえって相手の気遣いを感じ、苦笑する。
「……うん、まあ。考えが甘かったってことだろうな。こてんぱんに、やられたよ」
 ジギスムンドは眉根を寄せて疑念を示した。
「あの、公妃殿下の飼い猫みたいに肥え太った、万年事務所で座り仕事の、名ばかり大尉が、お前をこてんぱんにしたって?」
「そうさ。身の丈六フィートほどの、知的な黒髪の美丈夫に変身してな」
「ああ?」
「これ以上は、言えない。これから俺は店の払いに、奴の親父からもらった銅貨を使うからな」
「……」
 ジギスムンドはしばらく、立ち上がってびっこを引きつつカウンターへ向かうトウマの姿を見ていた。親父が出てきて、お義理にたたんだ上着を差し出し、銅貨を受け取る。
 トウマは上着のポケットに戻ってきた小銭をじゃらじゃらと落とし込んで、再びびっこを引き、店の出口に立って、友を待った。
 ジギスムンドも立ち上がり、二人は一緒に、店を出る。
「――替え玉だな?」
 ざわめく往来で、ジギスムンドは言った。トウマは前を向いたまま答えなかったが、彼は、正確に事態を察して、ため息を吐いた。
「なるほど。そういうことか。道理で、誰もああいう親の七光り連中に手を出さないわけだ……。金とコネで解決かよ。くそ、腹が立つな。それもダメだとしたら、俺らは一体、どうやって点数を稼いだらいいんだ!」
 二人は、寸刻もじっとしていない人ごみに足をとられながら、苦労して歩いた。どこへに向かっているのか、どちらも知らなかった。
「ジョンはどうした。ナビゲーターの。雇って連れて行ったんだろ?」
「逃げたよ。一回戦が終わった時に振り向いたら、もうとっくにいなかった」
「……あの、全身刺青男が。今度見つけたら、カーネルと大食い競争させてやる」
「まあ、あいつがいようがいまいが、俺の負けは、最初から決まってただろうけどな」
「そんなことはないだろう!」
「――いや、そうさ」
 トウマは、ジギスムンドに言わなかったことがあった。
 仕合を申し込んだ相手の身代わりに、現れたあの男は、ナビゲーターさえ連れていなかった。おつきの少年を一人、脇に侍らせて、外套を持たせていただけだ。
 それでも負けた。最初から全ての行動を、当たり前のように見透かされて封じられ、しまいに、こちらのナビゲーターは逃走した。
 それほどの、実力差だったのだ。友達相手であっても、恥ずかしくて、とても口には出せなかった。
「負けて悔しいのは分かるが、自分をあまり卑下するなよ、トウマ。お前は、俺達の中じゃ、一番筋がいいんだ。一番、女癖が悪くもあるが」
 は、と笑うトウマに追いすがるようにしてジギスムンドは励ます。
「条件が揃えば、近衛兵にだって負けるもんか。腐っちゃダメだ。俺も、お前も、決して実力や才能がないわけじゃない! 望みも抱けないような人間じゃない。ただ、運が悪いだけなんだ」
「そうか?」
「そうさ! 俺は魚屋の息子に生まれたりしないで、法律家の息子に生まれてたら、今頃弁護士になってた。お前は、粉屋に生まれたまでは、よかったな。大店で、親は金持ちだ。けど三男坊ってのが、運のツキだ」
 ……だな。
 トウマは胸の中でこくりと頷く自分を感じた。
「あの、親が貴族だってだけで、楽な軍職に就いて、ぬくぬく高給を取って、毎日うまいメシを食ってやがる二世連中の持ってる強運のうち、ほんの一かけらでも、俺達のところへ落ちて来たらなあ! 俺らは、こんな暮らしから抜け出せるのに! それくらいの資格はあるのに!」
 往来で、大声で叫ばれたそれは、若者にありがちな、思いあがった、歯ぎしりだった。周囲の人々も、一瞬驚きはするものの、彼らの顔を見た後、みな冷やかすような微笑を浮かべては身を翻し、流れていく。本気にされることなどない。
 いつの世でも、若くて無分別な、軽はずみな人間ほど、こうして我が身の不運を嘆いて来たのに違いなかった。そしてきっと、こうやって派手に大言する人間ほど、実際は大したことがないのだろう。
 トウマも、ジギスムンドも、嫌になるほど、それを知っていた。けれども同時に、これはやっぱり彼らにとって真剣な問題なのだった。
 彼らは、これまでうまく人生を操ってこられなかった。今ある位置に、満足できなかった。親や、知り合いや、例えば結婚を考える女の子に、これが自分です、さあ見てくださいと堂々と言える人間に、なりたかった。
 だからみっともなく、こそこそと足掻いているのだ。すっかり何もかもを諦めた隊員達から、煙たがられ、憎まれながらも、闇の中に剣を突きだし、出口はないかと、地中に住むねずみのように探し回っている。
 トウマは今日、ひとすじ光の見えそうな穴から、勇気を出してちょっと顔をのぞかせてみた。そうしたら、でっかいとんかちを持った黒髪の剣士と、ばっちり目が合ったというわけだ。
 人とすれ違う弾みに、トウマの上着のポケットの中で、銭がじゃらりと鳴った。このばらばらの、どうにも中途半端な額の貨幣と、打撲した右足の痛みが、彼の要求と挑戦とに対して、世界がよこした返答の全てだった。
「トウマ。へこたれるな。お前はよくやったよ。また、気を取りなおして次の手を考えよう!」
 背後からのジギスムンドの言葉に、トウマは思わず失笑した。
 『次の手』。ねえ……。
 あるのか。そんなもの。
「足、大丈夫か? かなり痛そうだぞ。もし金があるなら、今のうちに医者に行っとけよ。変にこじらせると面倒だぞ」
 彼が言うが、トウマは前を向いたまま赤い頭を振った。
「いいよ。どうせ、温湿布を貼ってしまいさ。面倒くさい――カーネルはどうした?」
「あいつなら、シフトを終えて、とっくに二葉亭さ。今頃、十本目のポークチョップにかぶりついてでもいるだろうよ」
 ジギスムンドは少々の揶揄をまじえて答えるが、その話はトウマの耳には魅力的に聞こえた。
「そうか。じゃあ、俺らも合流するか。喉も乾いたしな」
「おい。本当にいいのか? 医者は」
「いいって言ってるだろう。そんな気分じゃない」
 トウマは息を深く吸い込んだ後、行き交う人々の中で足を止め、表情を曇らせて先に立ち止まった友人を振り返った。
「……悪い。ありがたくは思っているんだ、ジギー。励ましてくれて。でも、俺は今日は、もうダメだ。前向きな話はまた明日に頼む。次の手がもし――あるなら、考えといてくれ。頼りにしてるぜ」
 ジギスムンドは数秒の間、彼の顔を見つめていたけれど、やがてため息を吐きながら、笑った。それに応えるようにトウマも寂しく笑い、近寄ってきたその肩に腕を回す。
「エール一杯おごるよ。カーネルにもな。そうだ、ローラにも付き合ってもらおうぜ。今日の俺は、小金持ちだからな」
「まったく、無駄づかいだな」
 混み合う道で二列横隊は歩きにくかったけれど、構わなかった。二人はそのまま互いの体重を支え合うようにしながら、混み合う流れの中を、進んで行った。





 こうして、店を出てから行き先も決まらずに漂っていた二人も、やっと一所を目指して歩き始めた。目的地は下宿先より長い時間入り浸っている、馴染みの酒場である。
 首都アルブランに飲み屋街は数あるが、彼らが向かうのは下町の、ランク的には下から数えたほうが早い、庶民的で安い店の並ぶ寂れた界隈だ。しかも彼らは原隊で浮いているため、行きつけは職場から一番近い地区ではなく、隣の地区にある『二葉亭』という店だった。
 ここからは、大通りをさらに東進して、ヘイブリッジを渡り、南へ折れることになる。
 道が夕陽に染まり始め、往来はいよいよ賑やかだった。勉強を終えて遊びに出かけようとしている楽しそうな私塾帰りの若者達。家族のために家路を急ぐ紳士や主婦。結婚したばかりなのか、仲睦まじく手を絡めて歩いて行く身なりのよい恋人達。そんなものが、次々と茶色い目から入って、トウマの意識を通過して行った。
 あんまり見ていたためだろう。若夫婦のうち、女性のほうが、トウマを見て、「まあ!」と笑った。
 トウマはすぐ視線を反らす。そして、右足の痛みを踏みつけるように無視して、友と共にどんどん歩いて行った。まるで年中カーニバルの、首都の大通りを。
 ヘイブリッジにさしかかった。首都で三番目に大きな橋だ。石造りの堅牢なもので、上にも店が続き、衣料品や食料品、またつまらないおもちゃなんかが売られている。緩やかな石段を昇って、ちょうど橋の一番高い位置へ、来た時だった。
 トウマの目に、木箱に入った、色とりどりの不気味な生物が飛び込んできた。掌に載るくらいの大きさで、青や緑や苺色をしていて、箱の中で、うごうごしている。
 そのどうしようもなく人目を惹く安っぽさと、懐かしさが、思わず、トウマの足を止めさせた。
 売り手の、帽子を被った日焼けした中年男が、粗末な椅子に座って、今日もてきとうなことを言っている。
「さあさ、北の森で見つかった怪物だよ。見たこともない、宇宙生物だよー」
「なにが、宇宙生物だよ……」
 首をしめられてしょうことなしに立ち止まったジギスムンドが、トウマの見ているものに気付いて、苦笑いする。
「色をつけた仔兎じゃないか」
 けれど、その前には、色とりどりのかわいらしい小動物とその売り言葉に魅了された子ども達が、背中をまるめて座りこんでいた。
 トウマ達にも当然、身に覚えのある光景だ。
「俺らの時代にはヒヨコだったがなあ」
「あれも、困るんだよな。よく食うし、大きくなると、朝にカッコドゥルドゥーとか言い出して」
 五歳くらいの、割とちゃんとした身なりの男の子が、欲しい欲しい欲しいと地団駄を踏んで、母親の手を引っ張っていた。上品そうな母親はだめ! と叱っている。
「ママが正しいぞ、坊主。早まるな」
「な。道に落ちてるものを、むやみに拾っちゃいけないんだ」
 とはいえ、小憎らしい都会の子どもも、こういうところはかわいいものだ。
 二人が笑い合って、気分よく橋を降りようとした、その時だった。座りこんで、『怪物』を一匹膝に抱いていた子どもの一人に、おやじがこう声を掛けた。
「嬢ちゃん。あんた、かれこれ一時間だぜ。買うの、買わないの。買わないなら、帰りな。おじさんも、迷惑だからよう」
 そう言われたのは、黒髪の、おかっぱ頭の、女の子だった。綿の、きれいな、修道士見習いが着るような服を着ていて、周囲の子とはちょっと雰囲気が違っていた。
 おやじは、きっとこれは寺の子どもで、自分が自由になるお金なんか持っていないと思ったのに違いない。ところが、少女は、小首を傾げて尋ねたのだ。
「お金、いるの、ですか? いくら?」
「白い、小っさいお金があるだろ。あれ一枚だよ」
 少女は、膝と腹の間にピンクの兎を挟んだまま、ポケットを探った。そして、右手を無造作に突き出す。
「白って、これ?」
 視界の、最後の、最後の切れ端にその輝きが引っかかり、トウマはぎょっと、振り返った。
「ぐえっ――」
 少女の、小さな掌の上にあるのは、公国の小額硬貨である十ワルズのニッケル貨ではなかった。
 銀貨だった。しかも、外貨だ。
 チンマーワルド公国は銀の産出量が極端に少なく、流通している銀貨はほとんど全て、南の大海運国家アクロティリ共和国のものだ。共和国貨は極めて良質で信用が高く、国際市場では実質価値が数倍に跳ね上がる。
 大金持ちの貿易商が、自分の財産を保証するためにストックし、ここぞという取引の際に惜しみなく使って名を上げるような、そういう特別な貨幣だ。そんなものが、夕方の町中に、突然奇跡のように出現したのだから、トウマが仰天したのも道理だった。
「なんだよ、どうしたんだ? トウマ」
 同じ光景を見ていても、ジギスムンドはワケが分からずに首を押さえている。物知りの彼も、目したことがないらしい。こんな場違いな、大金は。
 もちろん、怪物行商のおやじだって、初対面だったに違いない。が、その目が、ふっと細くなると、小ずるくなって光った。
「お嬢ちゃん。それじゃちょっと、足りないかもなあ。同じの、他に、持ってるの?」
「――」
 金に苦労して来た人間の本能で、なにか、価値の高いものに違いないと勘付いたようだ。
 してみると、この子どもは修道院の子どもなどではなく、どこかの金持ちの子どもなのだ。ぽんと世の中に遊びに出てきて、自分が持っているものの価値も分かっていない。色をつけた仔兎一匹で、とんだ大もうけが出来るかもしれない。
 次第におやじの目の色が、変わって、待ちきれぬように掌が差し出された。女の子はポケットに手を突っ込んで、探すように動かしている。
 一瞬、トウマは世界の全てから断絶されて、無音の世界に、いた。
 そこで、何かの巨大な知恵が、トウマの耳に、水のように冷たいことを囁いた。
 しかし、一瞬だった。
 その闇を振り切った時には、トウマはもうジギスムンドの肩から腕をするりと抜き、進み出ていた。足の痛みも感じなかった。女の子の真後ろに立つと、おやじの汗ばんだ掌の上に、自分のポケットから取り出した十ワルズのニッケル貨を、一枚落とす。
 おやじが、はっとしたように、トウマを見た。女の子も、びっくりしたように、身をよじって上を見た。その腹の下で仔兎が潰れそうになっている。後ろではジギスムンドが、呆気にとられて立っていた。
「この子の、兄だ。悪いな。世間知らずで。さあ、行くぞ」
 しゃがみこんだ足の下に腕を回して、まるで荷物でも抱え上げるみたいに子どもを持ち上げた。
 さすがに、踏み込んだ足がきしんだが、この期に及んでは格好をつけ通すほか、ない。
 小脇に、おかっぱ頭の女の子と、ピンク色の怪物を抱えて戻ってきた友を見て、ジギスムンドは呆れたように言った。
「何をやってるんだ、お前は」




-




 同じ頃、首都アルブランの中央にある、とある大きな、古代風の建物の中で、修道服を着た大勢の男女が、聖像の立ち並ぶ回廊や庭、また広い建物の中をあわただしく走り回っていた。
 彼らは、みな狼狽した様子で顔に手を当て、一様に、一人の女の子の名前を呼んでいた。
「ニーナ! ニーナ!! どこにいるの?! 返事をしなさい! ニーナ!」
 建物の四階廊下には、三人の男女が立っており、その背後で扉が空しく開けっぱなしになっていた。定めし、人々が血相を変えて探している少女は、その部屋から逃走したのに違いなかった。
 やがて、一人の青年が、階段を昇って走ってくると、腕組みをして憤然と立っている女性の前に膝を折り、報告する。
「リッカ様。寮内をくまなく捜索いたしましたが、ニーナは見当たりません。外に出たのではないでしょうか」
 女性の言葉は手厳しかった。
「そんなはずがないでしょう! 門の衛兵は見ていないと言っているのだから、中にいるはずです! もう一度、よく探しなさい!」
「は、はっ……!」
 大声で極めつけられて、どうしようもなく、青年は頭を下げると再び走って行った。緊張した、気まずい空気が漂い、それを、脇に立つ男の甘ったるい声が、のんびりとかき回した。
「まあそう、カッカするものじゃないよ、リッカ。犬の子じゃあないんだ。満足すればそのうち、勝手に帰ってくるさ。歴史の授業は、また来週すればいい」
「――あなたは一体さっきから、なんなんですの、ファイサル様!」
 女性はかえって逆上して、腕を解き、相手を睨み付ける。
「自分が神から任されている子どもがいなくなったというのに、その態度は! 私達にだけ探させておいて、自分は何もしないで見ているだけ! 南方の方はいい加減とはお聞きしておりましたけれど、まさかここまでとは存じませんでしたわ! ニーナが反抗的に育つはずですわ!」
 彼らはみな、一見同じような長い衣を着ていたが、上着の色や、装飾品で上下関係が規定されているのが分かった。
 怒る女性の後ろに控える青年や、建物の中でウロウロしている男女らは、白色の平板な服を着ていた。リッカと呼ばれた若い女性の衣には、紺色の太い縦線が二本加わり、のんびりした中年の男は、その比率が逆転して、紺地に生成の縦線が入った衣を身に着けている。
 その服装の与える印象から言っても、年齢から言っても、また手にはまったいくつかの指輪を見ても、明らかに男の方が職級的には上と見えた。だが、おそらくそのために、女性はかえって倍増しに激しく、怒っているのだった。
「言っておいたじゃないか。ここに来てからずっと、ニーナは街を歩いてみたがっていた。近いうちに連れていってやれと。それが二ヶ月間も、このぴかぴかのお城に閉じ込められっぱなしだ。よく我慢したほうだよ」
「あなたがそうやってこれまで、さんざんニーナを甘やかしてきたから、今私達が苦労しているのでしょう!!」
 叩きつけるようなその言葉に、青年僧は身を縮め、ファイサルと呼ばれた男は目を丸くする。どうやら、この二ヶ月の間、我慢をしてきたのは、ニーナ一人ではないようだ。
「あなたは、私達、チューターの使命というものを、何だと思っておいでなのですか! あの子は、神童です! 神の命を受けて生まれた、ナビゲーターなのですよ?! 丹精を込めて立派に育て上げ、その導くべき勇者の許に送り届けることこそ、私達の職務ではありませんか! それが、ニーナときたら、お風呂は嫌がる、野菜は食べない、おもちゃは欲しがる、外で遊びたがる、勉強は嫌がる、ミサでは寝る……」
「十歳だからなあ」
「ナビゲーターは、普通の子どもとは違います!!」
 女性は拳を振って言い切った。
「アクロティリではいざ知らず、このアルブランでは、そのような無責任なことは許されません! どうするおつもりなのですか。もし、このまま、ニーナが、戻らなかったら!」
「……」
「いいえ。もし街で、ニーナがどこかの馬鹿なごろつき剣士でも見つけて、無分別にも、考え無しに、その相手と『契約』を結ぶようなことをしたら! ――一生が、台無しですわ! あの子は、神意を無にするという、許されない大罪を犯すことになるのです! わたしもあなたも、その犯罪に加担することに! 恐ろしいことですわ! 私は、この一件をアイリス様にご報告しますからね! あなたの不真面目な態度も余すところなく! 過去にいかなる功績のあろうとも、あなたのような方は、チューターという地位から永遠に追放されるべきです!」
 リッカと呼ばれた女性は、身を翻して、去って行った。いなくなった後も絶叫と靴音の余韻がしばらく周囲に残った。
 ようやく、緊張が解けて、若者が吐息をつく。そして疲れた目で、中年男を見やるが、彼は相変わらず、のんびりとしたものだった。
「……おやおや、行ってしまったねえ。あんなにぷんぷん怒って。くたびれるだろうに。アルブラン支部の方は、みなさんいささか、気短かだね」
 青年僧は信じられないというような表情を浮かべた。まだそんなことを言っているのか、という顔にも、だめだこいつ、という顔にも見えた。
 ファイサルは、両目を瞼で潰すようにして笑うと、彼に背を向けて廊下の端に立ち、手を後ろで組んだ。暮れなずむ西の空と、その下で明るく光る川。彼方に広がる広大な首都を見やり、誰に言うともなく、呟く。
「だって、まさか生きた人間に鎖をつけて、つないでおくわけにも、いくまいに」



-




 馴染み深い二葉亭の扉を勢いよく開くと、最初に目に飛び込んできたのは、いつもの席に陣取って、旺盛な食欲のままにポークチョップにかぶりついているカーネルの姿だった。
 二葉亭は、せいぜい十五人入るのが限界の、狭い店だ。カーネルの方も、すぐにトウマの来訪に気付き、それから、怪訝な顔をした。
「お前、脇に何を抱えているんだ」
「どこぞのお屋敷のお姫さんと、北の森で見つかった、宇宙生物だ」
「……はあ?」
 店の奥から看板娘のローラも顔を出し、妙な顔をする。その時、トウマの右の脇で誰かの腹がぐうーっと鳴った。
 みんなの視線が集まる。兎を抱いてぶら下がった少女が、ものすごく熱い眼差しを、カーネルのポークチョップに注いでいた。
 とりあえず、みんな揃って席につき、料理を注文することにした。食い意地の張ったカーネルがチョップを分けることを拒否したので、少女にはアップルパイを、男二人はエールを、兎に、サラダを。
 トウマは前に座るジギスムンドに謝る。
「悪い。エール代、なくなった」
「うん。分かってた」
「それで、一体これはどこの子どもなんだ。トウマ。誘拐は、大罪だぞ」
「アップルパイって、何ですか?」
 沈黙する一座の中で、カーネルが少女を再び指す。その顔は、『宇宙生物?』と、言っていた。
 ジギスムンドが事情を話してくれた。小麦色の髪をして、食べるのが大好きな、太めのカーネルは、チョップを平らげた後の指を舐めながら、感心したような、呆れたような顔をした。
「バカだなあ。そんな金持ちの子どもなら、放っておきゃいいじゃないか。損したって、親がなんとかしてくれるさ」
「俺もそう思う」
 トウマは蝿でも払うかのように手を振った。
「うるさいな。いいじゃないかよ。どうせ、さっさと捨てなきゃ気持ちの悪いあぶく銭だったんだから」
「お前はいいよ。俺はエールがフイになったぞ」
「女の前でケチくさいことを言うな」
「女って……」
 ジギスムンドとカーネルは、同時に女の子を見た。そしてそれぞれに呆れ果てて嘆く。
「……ビョーキだな。お前は。ほんと、ビョーキだよ」
「雌熊の前でも格好つけるんじゃないか。女は撃てん、とか言って。雌熊に食われて死んでしまえ」
 何と言われても、トウマは平気だった。いいではないか。ちょっとくらい、格好をつけたことをしても。
 どこかの育ちのいい子どもさんが、街をうろついて危ないから、欲しいというものを買ってあげて、おやつを食わしてやって、それから、お家へ送り届けるのだ。
 嫌なことのあった日だ。女の子ひとり喜ばして、自尊心を満足させるくらい、罪のないことじゃないか。
 トウマは普段から割合にこういった性向だった。おせっかいで余計なことをしがちだ。
 ジギスムンドが言う。
「お前の女癖の悪さは、いつかお前を滅ぼすよ」
 エールと、アップルパイと、サラダが運ばれてきた。兎は下に下ろされて、青菜がその前に積まれた。
 少女は本当にアップルパイというものを見たことがなかったらしく、まるで魔法の国の食べ物でも見るような、きらきらの目で、しばし、皿の中の黄金色の、葉っぱ型をした包みパイを見つめていた。
「食べたら? ナイフと、フォークで、口に入る大きさに、切るんだよ」
 トウマの指図に、顔を上げ、こくんと頷くと、小さな手にはいかにも大きな食器をぎゅっと握る。そして、意外と上手にパイを切り取ると、そのかたまりを、口に運んだ。
 少女の口は小さく、切り取ったパイは大きかった。或いは、少女は自分の口のサイズを誤解しているのかもしれない。ともかく、やっと口が閉まってもぐもぐやり始めた時には、頬はパイくずだらけになっていた。
 表情の変化は、劇的だった。二度、三度と元気良く咀嚼するうち、少女の頬は真っ赤に染まり、目からは火花でも零れ落ちそうな騒ぎだった。りんごでいっぱいになった口の中で何か、悲鳴のようなものが吐かれたが、多分
「おいしーい!」
 と、言いたかったのだろう。
 トウマは、すっかりご機嫌になって、エールを飲んだ。他の男二人も毒気を抜かれて、やれやれ、しょうがねえなあ、という顔だ。
 小賢しいことを言っても、彼らもトウマと友人なのだ。彼が弱いものには、彼らも少なからず、弱かった。
「それ食ったら、お家に帰ろうな、……。えーと、名前、なんだっけ」
「……ヒイナ」
「はい?」
 女の子は食べているものを飲み込んでから繰り返した。
「ニーナ」
「ニーナか。かわいいじゃないか。ニーナの家はどこ?」
「……」
 途端に、少女の目がうつろになった。思考に気を取られて、手が止まる。
「覚えてないの?」
「……白い、お家」
「黒いお家よりいっぱいあるわぶっ!」
 突っ込むカーネルの顔を、トウマがテーブル越しにどつく。
「今日は、家から、どうやって来たの? 馬車? 誰かと一緒?」
「ひとり。歩いて、来たの」
「脱走だな」
 ジギスムンドが顎を押さえる。
「じゃあ、来た道を帰れば、分かる?」
「……多分」
「じゃ、それを食ったら、帰ろう。な」
 ニーナはこくんと頷いた。帰りたくないわけではなさそうだと知って、ジギスムンドの顔に、露骨な安堵が浮かぶ。
「そういや、お前。仕合の結果はどうだったんだよ」
 カーネルが言い出す。トウマは顔をしかめてエールに口をつけた。
「いやなことを思い出させるなよ。――だめだった」
「えー……」
 不審げな顔をするカーネルを、ジギスムンドがなだめる。
「詳しくは話せないんだ。が、とにかく、ダメだった。事務屋貴族の襟章を狙うのは無理だ。連中には金もコネもある。びっくりするような方法で、逆襲される」
「じゃ、どうするんだよ、俺達は。同じ守備隊の同僚を相手に仕合を続けたら、角が立つ。一人の徽章を手に入れたら、十人の敵が出来るって始末だ。危なくて通常の仕事が出来たもんじゃない。かといって近衛隊相手じゃ、何百回申し込んだって仕合を受け付けてもらえない。あいつら、俺達守備隊なんか軍と思っちゃいないからな。相手にしたら恥だと思ってるんだ」
「まだ、傭兵隊が、いるがな」
「やつらは外国人だぞ! 仕合のルールや慣習ってもんを、まるで分かってない。目玉の一つや二つ、平気で潰しに来るぞ」
「ならやっぱり、レオンタインの鉱山に行くか?」
 カーネルは、ぷっくりと太った手をやたらと振った。
「冗談じゃない。武装した山賊相手に、夜も昼も殺し合いして、一年もいたらすっかり人が変わっちまうって話だぜ。募集係はいいことばかり言うが、実際にレオンタインに行って、出世した奴が、どこにいる? 血と賭博と酒におぼれて、肺を患って、戻れなくなるのがオチさ」
「そうさな」
 ため息を吐いて、ジギスムンドは硬い椅子の背に、肩甲骨を押し当てた。
「――だったら、このままでいるしかないだろうな。一生、安月給で、安い服着て、安っぽい上司に、安っぽい命令されて、つまんねえ仕事を、嫌々しているしか、ないだろうよ」
「いやだあああ」
 カーネルは両腕を前に投げ出してテーブルに伏せた。ジギスムンドは手を伸ばし、さっと自分のエールを、避難させる。
「というか、食ってばかりいるお前が、そうやって真面目に嘆くのが俺には不思議だが」
「違うぞ! 俺は、先の望みのないことが悲しくて、食い始めたんだ。はじめから食い気だったわけじゃないんだ! 間違えるな!」
「ああ、そうかよ。悪かったな」
 男達の会話の一部始終を、ニーナと名乗った少女は、パイをもくもくと食べながら、大きな黒い瞳で不思議そうに見つめていた。
「悪いね、世知辛い話をして」
 足を組んだトウマが笑って声を掛ける。口からはみ出したパイ生地を、指で押し込みながら、ニーナは言った。
「『仕合』って、なんですか?」
「うん。決闘のようなもの――決闘、分かるかな。兵隊二人が、得意の武器で、戦うの。十分間の勝負を三回繰り返してね、勝った方が、相手の徽章――これね(トウマは自分の胸の飾りを示した)――これを、獲る。たくさん勝負してたくさん勝つと、徽章がたまるだろう? 一年ごとに、それを上役に提出すると、評価が上がって、いずれは昇格できるわけ。つまり、エラくなれるって仕組みなの。制度上はね」
 ニーナは、ぽかんとした表情で、聞いていた。小首が傾げられ、くせのない真っ黒の髪の気が揃って斜めになっている。そこに蝋燭の灯りが滑っている。
 きれいな髪の毛だ。トウマは、うらやましかった。
「そうでなくても、軍人は、年に三回の仕合が義務付けられてる。よほどの理由がない限りは、やらなくちゃいけないんだ。戦場を忘れないためだってさ――。やる気のない連中はね、仲間うちで仕合したことにしちゃうんだ。一度は負けて、一度は勝って、一度は引き分けしたことにする。そうしたら、お互い楽だし、都合がいいだろ? エラくはならないけど、落ちこぼれもしない。褒められはしないけど、叱られもしない。大体みんな、そうやって一生やり過ごすつもりみたいだ。でもねえ――」
 机の下で、ご飯を食べ終えた兎が動き回っているのが分かった。トウマの長靴にとりつき、紐をかじっている。
「俺らはもうちょっとだけ、ましなものに、なりたいんだ。この暮らしも、そりゃあ悪くはないけれど、でも、何も出来ない。毎日を生きてるだけだ。足し算が出来ないんだ。家も持てない。結婚も出来ない。永遠に雇われで、永遠に、底辺だ。騎士だの、将軍になりたいだのとまで、高望みしているわけじゃないよ。でもせめて、近衛隊くらいになれたら、最高だよなあ」
 トウマは身を屈めて、仔兎を捕まえると、膝の上に抱き上げた。本来白いのであろうその毛は、安物の染料に浸けられて苺色に染まっている。その額を撫でてやりながら、トウマは言った。
「お前は、運がいいよ。お金持ちのお家に拾われて、幸せに暮らしな。――さあ、そろそろ、行こうか? もうすぐ七時になる。それ、食べちゃいな」
 ニーナはこくんと頷くと、残りのパイを切り取り始めた。確かに外はもう暗い。少女の家の者も心配しているだろう。
 なんだか色々あった一日だったが、おしまいは少女のおかげで、楽しかった。当座は、それでよしとしよう。そしてこの味気ない日々をもう少し、耐えよう――。
 トウマが思った、その時だ。店のドアが開いて、守備兵の制服を着た、体の大きな男が一人、のそりと店内に入ってきた。それを目にした途端、三人ともの顔が、一斉に曇る。
 男は、トウマ達の姿を見つけると、にやりと口を歪めて卑しげに笑い、大股で彼らのテーブルへ近づいてくると、いきなり拳を、トウマのグラスのすぐ隣に叩きつけた。
 どん! と音がして、食器が、食い終わった骨が、エールが、そして、ニーナと、兎が跳ねる。
「よお、トウマ。トウマ・リーダス兵長。あんたに、仕合を申し込むぜ。立会人は連れて来てる。今すぐやろうぜ、外でよ」



 目と目が、合う。理屈では収まらない敵意が高まり、一瞬で、抜き差しならなくなる。
 この巨漢――インターベアは、トウマと同じ隊の同僚で、因縁の間柄だった。常日頃から、百戦錬磨を自慢していたから、仕合を申し込んだら、トウマが勝った。
 そうしたら、その一週間後に数人がかりで闇討ちされた。たまたまジギスムンドとカーネルが助けに駆けつけてくれて助かったが、以来、ずっとこの男は、トウマをつけ狙っている。
 彼ら三人が原隊から浮くきっかけを作った男とも言えた。
「インターベア。今はダメだ。トウマは今日、仕合をして来たばかりで疲れている」
 ジギスムンドが言うが、インターベアはそちらを見もしない。
「ああ、そうだってな。犬みたいに、惨めに、負けたって? なんでも、ものすごい強いのに、こてんぱんにされたそうじゃないか」
 恥の感覚は、不思議だ。思考よりも早い。何が恥かは体が決める。トウマは、顔に血が昇るのを感じた。
「どこで聞いた」
「ナビゲーターのジョンに、会ったのさ。ついさっき、そこでな」
 あの野郎……!
 恥に怒りが注ぎ込まれる。
「残念だったなあ。大一番だ。身銭を切って、ナビゲーターを雇ったのに、小指一本で吹き飛ばされたってな! 貴族に手を出しちゃあいけねえんだ。そんなことも、知らなかったんだな。馬鹿が。身の程をわきまえねえから、そんなことになるんだよ。お前みたいな、虫けらはなあ……! 虫けららしく、地面を這いつくばって砂を舐めていりゃ、いいんだよ!」
 ――やめておけ。
 剥き出しにされ、見せつけられた、犬のような黄色い歯を眺める背後で、理性が、そう、囁いた。
 お前は、今、冷静じゃない。疲労もしている。酒も飲んだ。なにより、利き足の肉と骨を、打っている。
 相手はそれを承知で、挑んできているのだ。挑発に乗るな。乗ったら危険だぞ。負けるぞ。
 だが、こういうありきたりな卑俗さを、充満する低劣さを、忍従できないからこそ、トウマは、苦しいのだ。一体いつまでこんなものに、耐えなければいけないんだと思うのだ。
 俺は、こんな腐ったものと、同じじゃない。断じて仲間じゃない。俺はもっと、ましな人間だ。
 親にたよりきりの卑怯な上司。弱みにつけ込むハイエナのような同僚。
 ――もう、嫌だ。この先も、こんな奴らに悩まされ続けるのは、我慢がならない!
 トウマが退けなかったのは、また、女の前だったからかもしれなかった。その場には、酒場のローラがいたし、彼の隣には、ニーナが座っていた。
 負けたくなかった。相手を打ちのめして、女達に微笑んでもらいたかった。彼はこういう勝負にこそ、勝ちたかった。
「表で、待ってろ」
「……!!」
 ジギスムンドが手で額を覆って壁を向いた。彼はいつも正しい。三人の中の頭脳代表だ。彼はトウマが負けることを知っているのだ。
 しかし、賽は投げられていた。一度受けた仕合は、降伏を認め徽章を差し出すまでは、もはや止めることは出来ない。
 インターベアはにやりと笑って、空中で指をぽきぽき鳴らしながら、先に店を出て行った。扉が開いた時、壁側に座っていたカーネルの眉間の皺が一層深くなった。
「おい! 見間違いじゃなければ、あいつ、ナビゲーターを連れてるぞ。ジョンじゃない、別の奴だ」
「なんだと?! わざわざ、手負いのトウマを叩きのめすために……? なんて奴だ!」
 トウマは、兎をそっと持ち上げると、ニーナに渡した。
「悪いな、ニーナ。お家へは、ジギーと一緒に、帰ってくれ」
「おい、トウマ! 止めろ! 聞こえただろう、あっちにはナビゲーターまでいるんだぞ! 本式に右足がいかれたら、もう兵隊として終わりだぞ……! 格好をつけてる場合か! どれだけスジが良くても、本当に、終わりだぞ!!」
 席を立ったジギスムンドが珍しく、本気で彼を諌めた。顔色が蒼白になっている。
 当然、トウマの心情は、揺れた。けれど、もう、どうにもならなかった。
「本当に、俺が、虫けらなら。いいじゃないか、それで」
「……なに?」
「いっそ、今ここで、何もかも、終わればいい! 馬鹿馬鹿しい! 俺はもう、たくさんだ! ごくつぶしの俺には、相応しい末路だろうよ!」
「トウマ……!」
 ジギスムンドだけでなく、カーネルも、無言のまま顔を歪める。
「自棄になるな! ダメだ……! 止めろ!」
 もう遅い。
 トウマは、確かに、自棄に近い心境だった。グラスを掴んで、残ったエールまで呷った。立ち上がろうとしたその時、小さな手が、自分の肘を押さえるのに、ふと気がつく。
 ニーナだった。
 彼女は、これだけ周囲の空気がささくれ立っていても、遠い国の住人のように、一人、何一つ変わらない顔をしていた。黒い大きな瞳で、トウマの顔を真正面からのぞきこむと、言う。
「あの、……仕合、なの?」
 トウマは、苦い笑いを浮かべた。
「ああ。多分、最後の、な」
「……負けそう、ですか?」
 トウマは口を結ぶので精一杯だった。答えられなかった。
 ニーナは首を傾げて、尋ねた。
「勝ちたい、ですか?」
 彼女は、舌ったらずな口調で喋る、小さな子どもだった。それなのに、その一瞬、まるで母親のような深い空気を発した。トウマは、驚いて、頭が真っ白になる。
「ならば、導きます。心を開いて、私を、使ってください」
 ――えっ?
 表情を作り損ねている間に、少女は椅子の上に立ち上がった。兎を抱いたままだったから、一度ぐらりとよろめいて、男達がひやっとする。
 思わず、手を出しそうになったトウマの、前かがみになった額に、少女は、キスをした。
 視界に星が散った。さすがの女好きのトウマにしても、これにはいささか、面食らった。
 少女はそうでなかった。ぴょん、と椅子から飛び降りると、呆気に取られている大人達を放って、一人で戸口のところまで行き、振り向いて、促すように、トウマを見た。
 その時、トウマは初めて、少女の服装が、今日、荒野で仕合をした男が連れていた、少年のそれに、よく似ていることに、気がついた。
「……え?」
 少女は、まるで、言っているようだった。
 ――さあ、どうぞ、トウマ。
と。


 俺は一体、道端で何を拾ったんだ。


 トウマは、導かれるように、進んだ。
 扉の外では、騒ぎを聞きつけた野次馬達が、喧嘩騒ぎで楽しもうと大勢集まり、声を上げ、足を踏み鳴らして、まるで英雄でも待ちわびるかのように、彼の登場を、待ち詫びていた。


 



 仕合は一人以上の立会人を要し、十分を一区切りに、三回戦われる。それまでに片方が力尽きて降参すれば、そこで終わる。もし三回戦を戦い終えても勝敗がつかなければ、引き分けとなる。
 ちなみに、昼間の戦いでは、二回戦の終わりで、トウマが動けなくなった。一回戦負けというわけではないものの、やはり完敗である。
 公開仕合は、ルールが保たれるという利点がある反面、リスクが伴う。いかに正々堂々とした仕合であり、それが国から命じられた義務だとしても、武人にとって完敗というような不名誉は耐えがたいものだ。それを大勢の人間に見られれば、打撃は倍になる。
 だから、位の高い軍人ほど、室内や郊外といった人目のないところでの仕合を望む傾向がある。また仕合の場所や開始時刻については、階級が高いほうに指定権が認められている。そこにどんな落とし穴があるのか――トウマは今日、思い知ったばかりだ。
 無論、インターベアが往来での仕合を選んだのは、公正を期すためなどではない。トウマをぎたぎたに痛めつけ、血祭りにあげることによって、自分がいかに強くて格好いいのか、天下に知らしめるためだ。
 トウマは、ニーナに見送られて一歩、外へ踏み出した時から、奇妙な感覚に、捕らわれていた。
 静かだ。
 そんなはずがないのに、
 辺りが、少しも騒がしくない。
 静かなのだ。
 経験したことのない場所に立っている。もし、そんなものがあるのだとしたら、宇宙の生まれる場所。海の生まれる場所。蒼みがかって、不思議な奥行きのある場所に、彼は立っていた。
 いや。意識を集中すれば、自分がいるのは飲み屋街の裏通りだとすぐに分かるのだ。建物と建物は迫っていて、道幅は五メートルもない。そこに大勢野次馬だ。自分もいて、立会人がいて、そして、相手もいる。騒音も感じる。
 でも、ちょっと気を緩めると、青と無音が世界を埋め尽くす。その中に、光の球が浮いている。あめだまくらいのサイズだ。人の体の中央にひとつ。光の球。
 それがふわふわ近づいてくる。と、思うや、ばちんと音がして頬が張られた。
 踏ん張れず転倒する。どっとばかり、周囲がさんざめく。
 後ろに手をついて見上げると、インターベアが特徴のある犬歯を剥き出しにして、こちらを威嚇しつつ、笑っていた。
「…………」
「立て、野郎! 寝るには早いぞ! これから貴様には、たっぷり地獄を見せてやるんだからな!!」
 それからインターベアは分厚い胸と背中に支えられた大きな腕を振り上げて、野次馬達に向かって、アピールを始めた。
「さあさあ、お立会い! 我が名は、栄えあるアルブラン守備隊所属の軍曹インターベア! よんどころない事情により、これより同隊の同僚と仕合いたすことにあいなった! 諸君ら、どちらが強く、どちらが弱いのか! この真人間の私と、呪われた赤毛の小鬼、どちらが正しく、どちらに非があるのか! とくとその目で見届けていただきたい! そして、勝敗の結果が決まったなら! その結果を、善人の名と、悪人の名を! 世間に広く知らしめて頂きたい! よろしいな!」
 なにがなんだか分からないが、野次馬達は盛り上がった。
 やろうとしていることは喧嘩だ。善悪とは関係などないのに、インターベアは、勝利を確信して、便乗させられそうなものは何でも載せようとしていた。
 立ち上がったトウマは、やっと、人心地を取り戻したところだった。なぜかもう、額にびっしりと汗をかいていた。
 後ろを振り向く。ジギスムンドと、カーネルが。そして、酒場の娘のローラの前に、苺色の仔兎を抱いたニーナが立っていた。
 ニーナの心臓の音が聞こえる。馬鹿な。違う。これは自分の心臓の音に違いない。でも、二つ聞こえる。なんだ? 一体、これはなんだ? 額が、熱い。そこから、何かが全身に流れ込んでくる。
 ひどい、状態だ。全身の神経が湧き立ち、熱にうなされているみたいだ。
 こんなので、戦えるのか? 危ない。ほら、奴はもう、剣を抜いたぞ。奴には、ナビゲーターもついてる(へっ! なんだあのどじょうヒゲは)。お前も、抜刀しろ。武器を構えろ。負けたら。終わるぞ。
 誰かの、望みどおりに。
 突然、意識からすうっと全ての青が抜けた。そして、トウマは、平静になった。
 剣の柄を握る。左手で鞘を押さえ、引き抜く。金属の鳴る音。不思議なほど、研ぎ澄まされた五感。
 そして、知らぬことだったが、その時、戸口のところで、ニーナが、まるで準備が整ったとでもいうように、瞼を閉じたのだった。
「よっしゃ、いくぞ、おらああああ!」
 下品な掛け声と共に、巨体が突っ込んでくる。武器が振り上げられる。意識を集中すると瞬時に、空白が、見える。
 トウマは一瞬でその間を潜り抜けて、インターベアの背後に出た。
 ぶうん! と大振りの音がした後、
「――あ?」
 気の抜けた声が、漏れた。
「後ろだ! 軍曹、後ろだ!」
 どじょうヒゲが、叫ぶ。インターベアが振り向くが、とても、のろのろしていた。
 トウマは、二つの感情を同時に抱いた。ああ、遅いな、という物足りぬ思いと、これは、一体、なんだという恐怖だ。
「な、なんだ?! なんだ、貴様!」
 その恐怖はインターベアにも感染した。彼はしゃにむに攻撃を繰り出した。その全てを、トウマは避けた。右足を引きずりながら、簡単に、踊るように避けた。
 野次馬達が怒る。だが、そんなもの、耳には届かない。感覚だけの世界にいる。その中で、インターベアの巨体はまるで、ぬいぐるみだ。
 隙が見える。いくらでも隙が見える。このまま千年でも逃げ回っていられる。或いは、ちょっと剣をひっくり返して、柄で打ってやってもいい。そら、背中がガラガラだ!
 びしっ!
 泳いだ巨体の、真ん中を殴られて、インターベアは重心を失い、八百屋の前に積んであった木箱に頭から突っ込んだ。
 埃が舞い立ち、わあっ! と野次馬が湧く。
 なんだこれは。なんだこれは。
 地面に悠然と立ちながら、トウマは冷や汗を流していた。怖かった。やろうと思えばもっといくらでも出来る予感があったが、怖くてそれが出来なかった。
 これは、自分の力じゃない。自分の力じゃない……!!
 一体、何が起きているんだ?!
 恐ろしいほどに長い十分が過ぎて、ようやく、一回戦が終わり、三分の休憩が取られた。
 トウマは物足りないぞ、ちゃんとやれ、と喚く野次馬の怒声に見送られて、店主が外に出してくれた二葉亭のベンチに、腰を下ろした。



 どうにも狼狽しているのは、仲間達も同じだった。カーネルはびっくりしながら、寧ろ健闘を称えたが、ジギスムンドはまるで、別人でも見ているかのような、戸惑った視線を、トウマに向けた。
 ローラに差し出されたグラスの水を乾して、感謝して返した後、トウマは、ジギスムンドの襟元を捕らえて、声を潜め、困惑を吐露した。
「何が起きてるのか、分からない」
 彼の向こうに、ニーナがいたが、トウマはなぜか、そっちを見るのを避けた。
「一体、どうしちまったんだ。目も、耳も、嗅覚とか、触覚とかもだ、異常に、膨らんでる。拡大してる」
「……なに?」
「今は大丈夫だ。今は。でも、戦いに戻ると、集中すると、奴の動きが、当たり前みたいに、読めるんだ。おかしい。変だ。ジギー。俺は、妄想にとり憑かれてる。頭が、どうかした」
「落ち着け」
 ジギスムンドは、彼の腕を強く押さえて、パニックに陥りそうになった彼をなだめた。
「落ち着け。……落ち着いて、今は勝負のことだけ、考えろ。……インターベアの顔を見ろ。死人みたいに真っ青だ。奴も動揺してる。お前は、あいつをへこませることだけ考えればいいんだ。何が起きているかは、俺が考える。だから、安心して戦え。いいな」
「……分かった」
「なあ。お前がおかしくなったのは……キスされてからか、ニーナに」
 びくりと、トウマの体が勝手に震えた。ジギスムンドは幾度も小刻みに頷き、それから、首を返して、ニーナを見た。
 彼の体がねじれたので、トウマにも彼女が見えた。
 ニーナは、苺色の仔兎と、遊んでいた。
 二回戦が始まった。




 同じことが起きた。とにかく、インターベアがのろくてのろくて仕方がない。彼は元々、速攻の肉弾戦が本分なのだ。持久力に乏しく、壊し屋だが疲れ易い。
 前に戦った時も、その弱点のために、トウマが勝った。けれどそれは、三回戦の終わりであったし、このような馬鹿げた力量差によるものではない。辛勝だったのだ。
 トウマは次第に、この拡大された感覚に、慣れ始めた。逃げ回るのに、退屈してきた。それで、ちょいちょいと、相手を攻撃するようになる。
 その全てが、完全な隙を突いて行われるから、出すたびに面白いように当たった。彼の集中は途切れなかった。インターベアはまさかの敗北の予感に取り乱し、野次馬達の前で体面を気にし、何とかこの悪夢を叩き返そうともがいていたが、トウマには、そのようなことは、全てどうでもよかった。足もやっぱり痛かったが、今は、どうでもよかった。水に潜っている時のように、遠くにしか感じなかった。
 別人になったみたいだ。
 と、トウマは考えた。
 まるで、今日、死神の使いのように自分の前に現れた、あの黒髪の、静かな男にでも、なったみたいだ。
「――ナビゲーターだ!!」
 その時だ、背後で、ジギスムンドがとんでもない大声で叫び、トウマの意識を破った。
 トウマも、インターベアも、彼を見る。ジギスムンドは、ニーナを前に置いて、その両肩を、掴んでいた。
「トウマ、分かったぞ!! ニーナは、ナビゲーターなんだ!! 彼女も、そうと認めた! パイがおいしかった。兎も買ってもらった、だからお前を、ナビゲートしてるんだそうだ!」
「――はああ?!」
 トウマは素っ頓狂な声を上げて、否定した。
「違う! だって、ナビゲーターって、こんなんじゃないぞ! 仕合の最中、剣士に付き添って、相手の戦略を読んだりして、アドバイスをくれる奴のことだろう。ジョンだって……!」
「そいつは、俺らが知ってる『ナビゲーター』だろう! 街にいるような奴らは――俺らが雇えるような奴らは、大して才能のない三流か、丸きりペテン師なんだ! それ以上の奴に会ったことがあるか? あるか? ないだろう? 聞いたことがあるんだ。近衛隊や上級の国軍士官に付くような、本物の、有能なナビゲーターは、ものも言わないんだと。彼らは相手の感覚に寄り添って、自分の感覚を上乗せし、それによって相手を勝利に導くんだと! 剣士のためにものを言うようなナビゲーターは、寧ろ、低級なんだってな!」
 トウマは口ごもる。
「で、でも……ほんの、子どもじゃないか!!」
「そうだ! 最高級のナビゲーターは、みんな教会の管理で、残らず! 子どもなんだ!!」
 トウマの脳裏に、昼間、戦った男が、傍に連れていた白衣の少年の姿が、蘇る。
 彼は、立っていただけだ。なんらのアドバイスらしきこともしていなかったから、てっきりただの、おつきの少年かと、思っていた。
 あの、聡明な、光る二粒の瞳。全てを見通す宝石のような。
「俺も、話で聞いたことしかなかった。でも、そうなんだ! ニーナは自分の家を、『白いお家』と言ったな。トリニティ・カレッジだ! ホワイトクロスにある、あの教会付属の学寮だよ! 間違いない。この子は、正真の、ナビゲーターだ!」
「――じゃあ、あの、武人が連れていたガキも、ナビゲーターだったのか?! それで負けたのか?!」
 ジギスムンドは興奮しすぎて赤白斑な顔をしていた。それが、さらにヒステリックに歪む。
「なんだってぇ?! お前、子どものナビゲーターを連れた武人と戦ったのか?! ならな――それはお前、『騎士』だぞ!! お前は、騎士と戦ったんだ! 貴い血の、公室に仕える最高の武人と!! ただ、守備隊の兵長の分際で!!」
「えええ?!」
 カーネルが目を見開いて驚く。野次馬達も次第に何事かと思い始めている。
「まったくお前は、すごいよ! 次から次へと! 一体、どんな手を使ったらそんな真似が出来るんだ?! 俺は発狂しそうだ!! ――カーネル! ここに、座れ!」
 カーネルがすっ飛んできてベンチに座ると、ジギスムンドはニーナを持ち上げ、彼の広い肩に両足を置いて立たせた。それで、小さな彼女も、のっぽのジギスムンドより高くなる。
 ニーナは、きょとんとした顔で兎を抱いたまま、自分に集まった人々の視線に、応えていた。
「おーい。これって……」
「演台は喋るな! ――さあさあさあ、皆の衆!! 今宵は誠に稀有な勝負に立ち合った! ここにあるは、守備隊兵長、トウマ・リーダス! まだ二十五歳の若輩だ!! しかれども、ただの若輩ものにあらず!! 粉屋の三男坊の身の上から、いずれ公室の騎士にも肩を並べる、つわものになるさだめの男だ! それが証拠に、見ろ! 神の子が、彼を支える!!」
 どよどよ、と大勢の目が、薄闇の中に立つ、少女の姿を見た。その白い衣は裏通りの光を集めて、全身をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「この子は本当の、神の御使い! 正義の騎士に寄り添う、穢れなき導き手。ありもしないことを囁いて、兵士を惑わせる似非いつわりのナビゲーターなどとは違うのだ!! 弱く正しき者の味方にて、悪くしぶとい者を挫く! さあ、言いたいことがあるなら言うがいい、偽ものめ! じき未曾有の神罰が、お前を打つぞ!」
 彼に指差された途端、ひいっと引きつった声を上げて、どじょうヒゲのナビゲーターが逃げ出した。一回戦の途中でいなくなった、あの、ジョンのように。
 野次馬達はさらにどよめいた。そして、インターベアの顔から、最後の血の気が引いた。絶体絶命の、石みたいな凍りついた顔で、トウマを、見る。
 ――まるで、半日前の自分を見ているようだと、トウマは思った。野望を抱いた。自分を利口だと思った。そして、やめとけばよかったと、思った。
 よく通る、弾むようなジギスムンドの声が、彼を押した。
「さあ、やってしまえ、トウマ! その男に、他人を見くびり、弱い者をいびろうとした思い上がりに相応しい天罰を、くらわしてやるのだ!!」
 言われて、トウマは、剣を支える腕に力をこめ、体の前に、構えた。



 奇しくも、二回戦の終わりという、昼の勝負と全く同じ形で決着がついた。へばったためと、恥のために立ち上がることもできないインターベアの胸から徽章が、切り取られた。
 野次馬達は、右足を痛めていながら素晴らしい動きを見せ、相手をほとんど寄せ付けなかったトウマに拍手喝采を浴びせた。
 いっぱいおごらせてくれ、一皿食いなよ、と見知らぬ連中から好意で施される酒やら、ツマミやら。二葉亭も満員になって、ローラはトウマの頬に惜しみのないキスを浴びせた。
 彼は人からこんな扱いを受けたことはなかった。
 あっという間に夜が更けて、気がついたら、店の隅に置いてあるベンチの上で、ニーナが丸くなって寝ていた。その隣に、仔兎は体を横長にして、ひくひく鼻をうごめかしている。
 そのふたつを見つめるトウマの肩に、興奮のあまり珍しく酒に酔ったジギスムンドが腕を回す。
「とんでもない拾い物をしたな、トウマ!!」
 ここぞとばかり、腹いっぱい料理を詰め込んでいるカーネルも、幸福そうにうんうんと頷いた。
「すごいぜ、俺達は、とんでもない幸運に恵まれたのかもしれないぜ!」



-つづく-





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