Jan. 3



 どうしてこんなことになったのだろうか。
 落ち着いて、もう一度、考えてみよう。


 まず、最初に、声をかけられたのは生誕祭の直前だった。街に出かけがてら、版元のマイヤー氏に挨拶に行った時、『君に会いたがっている人がいる。今、時間はあるか』と尋ねられたのだ。
 生誕祭の期間であったことがいけなかった。
 買い物の用事はあったが、まあ後回しにすればよかったので、つい応じてしまった。
 マイヤー氏は上着を着込んで馬車を拾い、あるお屋敷に自分を連れて行った。
 貴族の館ではなかった。X氏と同じように、大富豪の家だった。それにはほっとした。
 貴族の方々は何を考えているか分からないので、自分は苦手だ。どれだけ向こうがへりくだって自分に合わせてくれても、同じ生物という感じがどうしてもしない。
 商人なら、たとえ規模がかけ離れていても究極は同類で、嵐のような、化け物のような市場を前に、身一つで対峙して来たという点で分かり合える気がする。
 ともあれ、まあびっくりするような、お金持ちだった。
 混み合う市内でよくもまあと呆れるほどの豪邸だった。
 娘か息子でもいて、レクチャーの依頼だろうかと思っていたら、そうではなかった。
 その家に客人がいた。
 パリからやって来た、大富豪の娘だった。



 背の低い女性で、茶色い目に黒い髪。二十五、六だろうか。
『ラシェル・バセヴィ』と名乗った。ユダヤ系の名前だ。
 彼女は――後から自分がさんざんその冷笑を拝むことになる、若い、頑健な、頬に傷のある男を侍らしていた。
 その男は、自分の目から見ても美男子だったけれど、態度が悪かった。
 馬鹿げて不作法で、甘やかされた貴族の子供のように両足を前に投げ出してふんぞり返っていた。
 バセヴィ嬢はその男を『エイブラハム・ハレイ中尉』と紹介した。
 その時点で完全に話の筋を見失っていた。一体自分は何のためにここに呼ばれたのか分からなかった。バセヴィ嬢がX氏の名前を持ち出すまで。


 ――あなたは、X氏のお嬢さんの先生でいらっしゃるでしょう。私たちのことを、聞いていらっしゃらない?


 それで、思い出した。年末にかけて、X氏の知り合いの女性がパリから引っ越してくると聞いていた。
 そう、ちょうどこの日記を数ページめくるとそこに書いてもいる。
 それでは、この女性が、X氏の言っていた、あの女性なのか。
 いったい何の用事だろう。


 バセヴィ嬢が妙に光る眼でこちらを見るので、自分は、なんだか居心地が悪くなってきた。
 ――生誕祭のご予定は?
 ミサに行きます、と、目を伏せて自分は答えた。
 ――年末のご予定は?
 仕事をしていると思います。
 ――ご家族は?
 おりません。
 ――ご実家には?
 帰りません。
 ――ご友人とは?
 会いません。
 ――ご旅行は?
 いたしません。
 ――一度も?
 今のところは。


 盛大に息を吹き出させた後、中尉が笑い出した。
 ――なんだい、こいつは。
 と、青い目で自分を見ながら彼が言った。英語だ。
 自分に英語が分からないと思ったのかもしれない。


 バセヴィ嬢は笑いもしなければ、中尉をたしなめもしなかった。彼女はあまり感情の表出のない女性で、自分より明らかに若いのに、一家の主みたいで、しかもなにか東洋の巫女のような落ち着きがあった。一体、どこの生まれの女性だろう?
 ――私たちは、郊外に館を持っています。今日までこのお屋敷に泊めていただいて、明日はその館に移るのです。まだがらんとしていて、何もない館ですが、休暇を過ごしにいらっしゃいませんか。
 自分は、帽子を手にしたまま、呆気にとられた。
 金持ちは鷹揚だ。何の理由もなく気まぐれで館に人を招いたりもする。簡単に旅行を勧め、費用は持つよ、などとうけがったりもする。
 だから自分ももうそんなことで驚いたりはしないで、丁寧に、上手に断る術を心得ている。
 そんな腰ぎんちゃくな身分の自分にしても、初対面の人間からいきなり休暇中の招待を受けるのは初めてだった。
 しかも、聞いた話と違って未婚らしい女性である。
 指が空なのだ。何を考えているのだろう。
 どのみち断るわけだが、それにしても、異例だった。


『仕事がありますので』


 ――お仕事は館でもできますよ。私は音楽愛好家で、楽器もありますし、それ以外に必要なものも揃えられます。


 商店がのきなみ休業の年末に?
 そんなことを言っても虚しいだけだ。相手はうなるほどの金持ちで、実際不可能なことは少ないに違いない。


『せっかくですが、一人で仕事がしたいのです。人のお宅にいると、どうしても遊んでしまって集中できませんから』


 相手が目を伏せたので、自分は少しどきりとした。傷つけただろうかと思ったのだ。
 バセヴィ嬢はすうと音を立てて息を吸い込んだ後、再び目を開いた。


 ―― 一日だけでも、お越しになれませんか?


『申し訳ありませんが』
 強く戸惑いながら、一度咳をしてから自分は断り切り、そのまま、その館を後にした。
 帰りの馬車で、マイヤー氏に困惑を吐露した。
 一体何なんだと。
 マイヤー氏には冷やかされた。先生のファンなんじゃありませんか。
 そんなことを言っても、会ったこともないし、生徒でもない。ファンも何もないだろう。自分が出版しているのは初心者向けの教則本ばかりで、自分で言うのもなんだが、修道院の経本に近い内容だ。そんなことは当のマイヤー氏がよく知っていることだろうに。
『いやいや。世の中には好事家ってものもいますよ。それに先生、あなたも昔は花形演奏家だったことがあるじゃないですか。その頃あなたを知ったのでは?』


 確かに昔、自分は演奏家だった時期がある。
 十歳から、二十三歳までだ。
 あの頃、この街は好景気で、文化の最盛期で、どの分野においても、おびただしい数の『天才少年』『天才少女』が現れては短命で消えていった。
 だが自分は早々とピアノ教師に転向し、それ以来ほとんど人前で演奏しないし、大体、子供のころでさえ、演奏旅行と称するものは一度もしたことがない。
 この街の、中小のホールをぐるぐる回っていただけだ。
 移民の両親は、地理的にも、金銭的にも、冒険を嫌った。
 だから、あんなパリから来たような若い女性が、自分のファンだなんてあり得るはずがない。


 誰か他の人間と間違っているのかもしれない。
 あるいは、謝った評判でも聞いて、自分のことを大物だと勘違いしたのでは?


『いや。別に先生は、それなりの存在ですよ。それに、演奏家としてなさっていた時は、本当に素晴らしかったですよ』


 マイヤー氏は言うが、自分の評価は変わらない。
 本当に素晴らしかったならば、今、このように枯渇するはずがないのだ。
 自分は、永久に枯渇もしなかったし、最後まで凄まじい作曲と演奏の才を示し、世間からも惜しまれて死んでいった音楽家を何人も知っている。
 自分の価値は自分で一番よく分かっている。
 マイヤー氏は世渡り上手なのだ。





 これが、生誕祭の前で、問題は、生誕祭の後だ。
 静かな生誕祭が終わって、数日後、人気のない道を歩いていたら、いきなり馬車が横にやってきて、ハレイ中尉が降りてきた。
 まぶしいほどの金髪と、青い瞳。
 チェック人であり、容貌に自信のない自分は、こういう人間の前に出るといたたまれない。
 だが、中尉はお構いなしで、妙に馴れ馴れしく、やたらと腕を組んだり肩を叩いたりして、後ずさる自分を逃がすまいとした。
 日記だから、正直に書くが、自分はこういう身体的触れ合いが、昔から非常に苦手である。イギリス人は再会のキスをしないと聞いてイギリス人になりたいと思ったことがある。今でも逃げ出したい自分を押さえつけながら無礼にならないように最低限度の接触をするが、世の中には逆に、そういう接触が好きで、自分から慣例以上に他人に触れて友好の証とする人間もいる。
 そして、日記だから、本当に正直に書くが、そういう度を越した接触は、はじめは嫌だが、一定の期間が経過してしまうと、確かに、どこか心地よくなってくる。
 相手の馴れ馴れしさにあきれつつも、それほどの馴れ馴れしさを示してくれる事実に、いつか気が緩んでしまうのだ。
 これは、自分が本当は他人と仲良くしたいくせに普段『もったいぶっている』ことの証かもしれない。自分が嫌いで自分を疎外していながら、人から愛される数少ない機会を捨てることのできない意地汚さの証明かもしれない。
 とにかく、この男が、美辞麗句を連ね、千言を尽くして自分を招待しようとするのだ。情熱をこめて、一歩も引かず、がっちりと自分の肩を抱き、あらゆる手で自分を持ち上げ、ご機嫌を取り、勢いに任せて、自分を例の、不可解なお嬢さんの館へ連れて行こうとするのである。


 なんなんだ。
 自分は思った。
 あまりに見えすいたお世辞の数々に笑ってしまいもした。
 この男は詐欺師だと思った。この間の態度と、あまりにも違いすぎる。
 定めし、あのお嬢さんに命令されてやって来たに違いないが、少しは取り繕ったらどうなのだろう。
 なんて恥知らずで、向こう見ずで、軽薄なんだろう。まるで、ごますりのお追従言いの宿屋の主だ。


 この侮りが、油断を生んだ。
 自分は、こんな若僧が相手なら、まあ大丈夫かと思ってしまったのだ。
 実のところ、自分には大した予定はなかった。暇だった。
 もちろん、休暇中に作曲をするつもりではあった。普段、忙しくてできないから。
 だが、実際にその日になってしまうと、何もしないでだらだらと過ごして一日を無駄にしてしまうことも多かった。
 どこかで前にも書いた気がするが、すでに自分にとって本職は教師で、作曲は、どうしてもせねばならないものではなくなっている。
 意志が弱いことは言うまでもない。
 だが、契約や金銭的理由に寄らない作曲は、結局霊感任せということになる。
 霊感がどうしても湧いてこない瞬間もあるのだ。


 しょうがないから、午後の珈琲を飲むだけ、という約束で招待に応じた。
 そのまま馬車に乗って、かなり長い時間走り続け、郊外の、美しい杉林の果てに立つ館へと連れて行かれた。
 その頃にはもう、うっかりしたなと後悔していた。
 館は、予想以上に巨大で、夢にも見ないくらい、桁外れに高級だった。もし自分がこの家に住んでいる場面を想像しろ、と言われたら、使用人用の屋根裏部屋を選ぶに違いない。
 館は森閑としていた。
 中尉によれば、使用人の他は、彼本人と、バセヴィ嬢、それに嬢の主治医、このたった三人で住んでいるらしい。
 空間の無駄としか言いようがない。


 バセヴィ嬢が静かに、でも確かに嬉しそうに微笑んで自分を出迎えた。主治医を紹介された。眼鏡をかけた、物静かで賢そうな青年で、自分をかなりほっとさせた。
 それでも、綱渡りのようなかみ合わない会話の果てに、やっと珈琲が配られた。自分はとにかく義理を果たして、さっさとお暇しようとそればかり考えていたから、待ち侘びていた。
 一口飲んで、変な味がするな、と思った。
 でもまさか、人に出されたものを残すわけにはいかない。
 呑み終わってしばらくすると、手足が異常に熱くなってきた。やがて体全体がポカポカして、激しい眠気に襲われ、気が付いたら、自分は、意識を失っていた。







 目を覚ましたら、真っ暗だった。
 心地よい寝台の上に寝かされていて、はっと目覚めた瞬間、「しまった」と思った。
 深い睡眠をとった後に特有の妙な体のだるさ、そして甘いような満足感。こめかみで血管がズキズキしていた。よだれまで垂らしていた。
 信じられない。とっさに指で拭って、身を起こした。
 まだぼうっとする頭で、辺りを見回す。すでに夜で、変な時間だということは分かった。
 腹が空いている。この感じには覚えがあった。
 子供の時分、妙な時間に眠り込んで妙な時間に目を覚ますとこういうことになる。
 規則を破った感じ。非日常に踏み込んでしまった感じ。
 そして寝汗と――、寒気。
 次第に目が闇に慣れてくる。広い寝室だ。多分客間だろう。暖炉には消し炭。
 ふと目を横にやったら、椅子の背に、自分の上着がかかっているのに気が付いた。
 羽織ろう。
 体を動かしたその時、シャツの感触がいつもと違うことに気が付き
 心臓が、凍り付いた。


 たぶん、誰かが、一度自分のシャツを全部出した。それから、元に戻すために自分のズボンに押し込んだ。
 さして乱暴にされていたわけでなく、むしろ几帳面だったけれど、それは――女がやったのかもしれない――とにかく自分が最後に手を触れた時とは、違っていた。





 そこから先、細かいことはよく覚えていない。
 頭に血が上った。
 待て。と、理性が最後の歯止めをかけていた。
 これは医者のしたことかもしれないと。
 自分が何故か昏倒したので――何故、昏倒なんかする?――、寝室に運び込んで、診察をしたのかもしれない。
 だが――。
 だが誰がそんなことを頼んだ?!
 誰がこんなところに来たいと言い、そんなことを頼んだのか?!!!



 待て。待て。と誰が誰を押しとどめているのか分からないままに上着を羽織り、靴を探し出し、扉を押した。
 体の中でその場所が分かるくらいに胃が痛み、心臓が一拍ごとに喉元を押して呼吸が苦しかった。


 この時、自分はまだ分からなかった。
 自分が、情けない被害妄想にとりつかれた愚かな男なのか、それとも実際、いてはならない犯罪的な場所に関わってしまったのか。
 二つの、どちらも疑わしい予想が並走して葛藤していた。
 とにかく、廊下で使用人か誰かに会って、主たちのいる部屋へ案内してもらったように思う。



 葛藤していたといいながら、逆上していたのは間違いない。
 火の燃える暖かい、明るい部屋に入ると、自分は寛いでいる三人の前に立って、いきなりこう言ったからだ。
『失礼だが、起きたら着衣がはだけていたのだが、誰か、私に触りましたか』
 談話室(というのかどうか知らないが)は、しんとなった。三人が三人ともふくろうのような目をこちらに向けていると思った。
 ――私ですよ。
 と、主治医が言った。
 ――ご気分が悪そうだったので、軽く診察しました。
『ああそうですか!』
 そう言った時にはもう、自分は自己嫌悪のかたまりになって、それでも抑えることのできない声に、自分で恐れおののいていた。
 自分は自分を抑えなければならなかった。
 さもなくば、変に、思われる。
 変に思われる。




『帰ります。足を用意してくださいますか』
 多分この時、自分は顔が真っ赤だったと思う。
 館の人間たちは誰も少しも動じていなかった。
 みんなふくろうみたいな目をしていた。



 ――遅い時間ですから、泊まっていらしたら。夜食を用意させます。


『帰ります』


 ――まあまあ、とりあえず、座りなよ。寝癖もひどいよ。先生。


『帰ります』


 ――えー? でも、どうせ、帰っても一人なんだろ? 部屋も寒いよ。ここにいなよ。ほら、温かいワインでも


 自分は、中尉の手を振り払って激怒して叫んだ。


『帰ります!!』





 その自分の顔に、突きつけられたのは拳銃だった。
 信じられないほど熱くなっていた頭にざっと冷水が降った。
 中尉がにっこり笑うと、頬の傷の跡が皺の間で歪んだ。


 ――こないだまで、新大陸で戦争してたの知ってる?
 
 
 と、彼は英語で言った。
 
 
 ――俺って退役軍人なんだよね。戦は負け戦だったけれど、俺は北軍の連中を、何人も殺したぜ。あの時使ってたのはこんなチャチなもんじゃないが、まあこれでも、これだけ至近なら、外れることはねえや。


 ――そう、きゃあきゃあ喚きなさんなよ、先生。女じゃあるまいし。こちとらいい加減、頭に来てんだ。あんまり嬢をてこずらせると、俺、戦争始めちゃうよ?





 ――やめなさい、中尉。


 医師の言葉に従ったというより、自分の凝固が伝わったのだと思う。
 中尉はやがて拳銃を下ろして、あーくだらないというふうに肩をすくめながら脇に退いた。そして、どすんと八つ当たりするように自分の椅子に戻った。


 代わりに、自分の正面に改めて現れたのはバセヴィ嬢だった。
 微動だにしていなかった。
 小柄な体を椅子に埋めて両手を膝の上できれいに重ねていた。
 東洋の巫女みたいな、不思議な笑みを浮かべて言った。


 ――来て下さって嬉しいわ。先生。どうかゆっくりご滞在になって。






 それから、今日で五日。
 館に閉じ込められたままでいる。






(了)




<<戻