Jan. 7



 やっと館に帰って来た。
 小雪のちらつく中を走って戻った。
 ひどい咳が出た。
 外套のままベッドに倒れこみ、何時間か眠って、そして、目が覚めた。
 珈琲を淹れてやっと手先が温もったので、ペンをとっている。



 結局、九日間、あの館に閉じ込められていた。
 あのハレイ中尉はもちろん、館の使用人たちまで全員ぐるになって自分を監視し、どこに行くにも人が着いてきた。
 虐待されたわけではない。
 手厚いもてなしを受けた。
 この小部屋に入って、あの館がどれほど暖かったか――どれほど膨大な燃料が惜しげもなく使われていたか分かる。清潔な寝台。からりと乾いたシーツ。贅沢な食事と嗜好品と、楽器、楽譜、五線譜の束。書籍や遊具も。
 何不自由なかった。
 たぶん、たった一つのこと以外は要求すればすべてかなえられただろう。
 たった一つのこと。
 家に帰りたいということだ。



 なんだかおとぎ話でも書いている気がする。こういう童話がどこかになかっただろうか?
 夢のようなお城に夢のようなおやつ。ただし、主人公が『帰りたいな』と思った瞬間、すべて泡沫と消える。



 自分が要求したのはそれだった。
 ずっとそのことだけを要求し続けた。
 二日前までは、『でも、お仕事は今、冬休みでしょう』と言われた。確かにそうだった。
 だが明日から、その仕事も再開するのだ。C嬢の家へ行かねばならない約束だ。
 一昨日、そう主張して、いい加減帰してくれと言ったら、あのバセヴィ嬢は失笑して、『馬鹿な生徒たちのことなんて放っておいでなさい』と言った。



 その時、令嬢が、季節に関係なく自分を閉じ込めるつもりなのを知った。



 自分は動揺して、令嬢に抗議したが、令嬢は笑うばかりだし、主治医が割って入ってむしろ自分を寝室へと連れて行った。
 その言い方がおかしかった。
 『まあまあ、落ち着いて』と、自分の方をなだめるのだ。不当な目に遭っているのはこっちなのに! まるで興奮する自分がいけないみたいに。



 館の中では、この医者が一番好ましい人物に思えた。落ち着いていて、上品で、同じ帝国人で、年齢も比較的近かった。大学出で、頭がよく、教養ある人物だと思われた。
 だがそんな彼さえも、令嬢の味方だった。


 ――何か、不便がありますか?


『不便とかじゃない。家へ戻してください』


 ――寒くて、人目の行き届かない部屋へ? ここにいたほうが快適です。


『仕事があるんです!』


 ――それほど、大切な仕事ですか?


 どうだろう。
 ピアノ教師はそれほど大切な仕事だろうか。
 だが、それを言われた瞬間、自分は、またしても頭に血が上った。
 不思議なくらいだった。


『生活がかかっているんです』


 ――生活の面倒は、バセヴィ嬢が見ますよ。あなたは好きなだけ、好きなことをして暮らせばいいのです。


『何を言っているのか分かっているんですか? 一度のわずかな遅刻でピアノ教師は首を切られます。私は身一つで信用を積み重ねてきた。それを放り出せというのですか。なんだか知らないが、金持のお嬢さんの気まぐれのために?』


 ――気まぐれ


『なんなんですか。いつでもお望みの時に楽器を弾いてくれる人間でも傍に一人欲しいんですか。それなら、もっと別の人間を探してください。いくらでもいる。低い賃金で無数の約束に縛られている、ピアノ教師ではなくて!』


 いきなり、主治医の手が肩に触った。
 自分はいつもの通りに――他人に触られる嫌悪感に震え、それから、奇妙な抗えなさに押されて、静かに喉が締まった。
 主治医は、あの中尉とは違って、知的でやわらかい黒い目をしていて、女性からも厚く信頼されそうだった。
 彼は言った。


 ――もう、蟻のように働かなくてもいいのだと、言われたら、どうします。
 あなたが混乱するのは当然です。バセヴィ嬢は賢いが、賢すぎて人の気持ちが分からないのです。だから、説明しないと分からないことも説明しないことが多い。
 これはつまり、こういうことなのです。
 令嬢は、あなたの生活のすべての面倒を見ます。あなたは、仕事をやめていいのです。
 働かなくていいのです。好きなことをすれば。
 あなたがひとこと『うん』と言えば、家のものがすべての後始末をします。もちろん必要なものは運び込まれるでしょう。あなたの望むとおりの生活を、送っていい。バセヴィ嬢には、それだけの財産があります。


 歯のつけ根が、震えたが、おとぎ話のせいなのか、主治医の掌のせいなのか、怒りのあまりか、分からなかった。
 ただ、それでもじわじわと、彼の言葉は理解へ落ちてきた。


『――意味が、分かりません。なんだって私がそんなわけのわからない目に遭うんですか。そんなのは、悪魔の誘惑に決まっている』


 ――では、乗ってみてはいかがですか。あなたの予想が本当かどうか分かる。


『私には仕事があるんだと言ったでしょう。そんな遊びのために、投げ出すことはできない!』


 ――そうでしょうか? 想像もできませんか? あなたがレッスンをすっぽかす。生徒とその親は怒る。それはあなたが、この十年間、決して起こしてはいけないと思っていたような事態かもしれない。悪口がばらまかれる。悪評が立つ。抗議の手紙があなたの部屋に殺到する。
 それで、どうなりますか?
 誰かが、死にますか?
 永久に何か、失われるものがありますか?
 一月が流れる。あなたの生徒たちの傍らには、新しい教師がいるでしょう。彼らの人生はなんの支障もなく続いていきます。
 私はあなたを、侮辱するつもりは毛頭ない。でも、本当にそれだけのことではないでしょうか。
 社会にあなたの代わりは大勢いる。だが、令嬢が指差したのは、あなただけなのです。


 暖かい、心地よい、自分にあてがわれた寝室の中で、自分は、主治医と見合った。
 自分は言った。


『私の珈琲に何か入れたのは、あなたですか』


 彼は、小さく笑った。







 我慢がならなくなった。
 自分はついに今朝、食卓で令嬢に宣言した。
 帰る。と。
 コートと帽子を要求した。召使たちがどこかに隠しているのだ。
 バセヴィ嬢は――、いつもそうだが、東洋の巫女のように、目を上げてこちらを見ただけだった。
 次第に分かって来たのだが、彼女はほとんど何もしない。彼女に仕える者たちが、彼女の希望を即座に読み取って、行動するのだ。
 この時も、主治医と、例の中尉が、彼女自身の代わりに非難するように自分を見た。だが、構わなかった。
 我慢の限界だった。
『返していただけないのなら、それでも結構です。このまま帰ります』
 主治医が令嬢に目くばせした。それはいけない、とでも言うように。


 ――落ち着きなよ、先生。雪が降り始めてるんだよ。
 まして、ここがどこだか分かってんの? 街に着くまでに、死んじゃうよ。


 初めから、議論をするつもりはなかった。
 何があっても帰ると決めていた。
 自分は立ち上がると、食卓を捨てて部屋の出口に向かった。使用人の一人が、自分を引き留めようとしたが、彼自身、食器を持っていたから腕の一振りで振り払えた。
 なんて乱暴なことをしているんだろう。
 自分でもめまいがした。
 でも限界だった。
 それ以外に、言葉はない。


 主治医が、執事を呼んで、コートを取り出すよう命じた。
 背中で一斉にいろいろ動く気配がした。それを断ち切るかのように、部屋から飛び出して廊下をたどり玄関へ向かった。
 玄関口で横合いから小走りでやってきた執事に止められた。彼はコートと帽子を持っていたから、つい、立ち止まった。
 今、馬車を用意しておりますから、お待ちください。外は雪でございます。
 執事がそう言ったが、自分はただ、外套を羽織って、帽子をかぶって、外へ出ようとした。
 その時だ。
 いきなり、誰かが割って入って来たかと思うと襟元をつかまれ、力任せに引きずり戻された。間髪入れずに今度は斜めにぐんと振られ、右手の指先が誰かの服をこすったと思ったら、後頭部に冷たい壁が衝突した。
 眼鏡が飛ぶかと思った。実際鼻の上でずれた。喉がずいぶん痛かった。固い、金属の銃口を強く押し付けられていたのだ。
 脅しとしても、本気だった。自分は、やっと薄目を開けた。


 ――だから、『いる』って言ったのに。


 青い目の中尉は、怒りすぎて平板になったような顔で、こちらを見ていた。顔色はむしろ青ざめていたように思う。


 ――身に着けないで部屋に置くなんて、持ってないも同然だよ。


 それから、特有の、癖のある英語で続けた。


 ――大人しくしなよ、先生。あんたもいい加減、分からない人だね。馬鹿なの?


 周囲に続々と人の集まって来る気配と足音がした。


 ――あんたはね、おとなしくここにいりゃいいんだよ。戸惑って、どうしよう、どうしようって、おろおろしている間に、梯子を外されて、戻れなくなりゃいいんだよ。俺らみたいに。
 戻りたいほどの生活でもねえだろ?


 銃口で喉が潰れて、次第に呼吸が苦しくなってきた。見える世界が赤くなっていく。それでも、中尉の手を両手でつかんだ。引きはがそうとした。
 中尉の眉根がひどく歪んで、その中で、きらめく青い瞳が、三角形になった。


 ――何が、不満だ? 先生。


 ――これほどたくさんの人間が、あんたのことを、構ってるじゃないか。


 ――あんたに親切にしてくれて、あんたの生活の面倒をみてくれて、そして、あんたに注目し、あんたに気を遣い、あんたの癇癪に全面的に付き合って、なんとかなだめようとあたふたしている。この俺もだ。


 彼の瞳の中に自分が写っていた。自分の瞳にも彼が写っていただろう。


 ――これまでこんな厚遇を受けたことがあるか。
 これがお前の望みじゃないのか。
 一体これ以上、何が欲しいと言うんだ。




 鷲に掴まれたねずみのように、自分は暴れた。もう逃れようがないのに手足をばたつかせるあの要領で、暴れた。
 多分、中尉が少し力を抜いたのだと思う。やっとのことで呼吸を取り戻しながら、自分は、言った。
 犬が吠えるみたいに。


『――帰る!!』






 空気が変化した。
 それは、自分が叫んだからではなくて、令嬢が現れたからだと思う。
 この時も、言ったのはたぶん主治医だった。


 ――中尉。もういい。


 滞在中からうすうす知れていたことだが、中尉は主治医があまり好きでないらしかった。気取ったやつだと思っているらしいし、そういう態度を隠しもしなかった。
 それでも中尉は、やがて、自分を放した。
 解放されて自分が爪先立ちになっていたことに初めて気が付いた。体中の健が強張って悲鳴を上げていた。
 今、車を。という執事の言葉を手を振り切って、ドアを開けて外へ飛び出した。



 雪が降っていた。
 どことも知れぬ、茫漠とした枯草の平地に、雪が降っていた。
 自分は走り出した。道も分からぬまま、がたつく体を抱えて。
 安い外套はすぐに外の冷気を身内に伝え始めたが、頭も、心臓も沸騰するかのように熱かった。
 斜めに伸びた木の幹に手をついて、突き上げてきた咳を放った。
 後ろを振り向く。館があった。
 大勢の使用人がいて、暖かく、豊かに運営されている、バセヴィ嬢の夢の館が。






 それから自分は、逃げに逃げて、ようやく街道らしきものを見つけ、通りかかった馬車に乗せてもらい、街へ戻った。
 下ろしてもらった場所から、さらに半時間近く歩かねばならなかったが、ついにここにたどり着いた時には、嬉しかった。
 部屋は寒く、火を起こす気力も湧かず、すぐ使える水もなかったけれど、それでも、体がこなごなになるかと思うくらい、満ち足りて幸せだった。




 胃の中身が空っぽだが、館で飽食気味だったからちょうどいい。
 眠ろうと思う。
 明日から、レッスンが始まる。





(了)




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