Feb. 26


 一月。家に帰るたびに待ち伏せている中尉を無視し続けた。
 一月で、耐えきれなくなって近づき、『いいかげんにしろ』と言った。
 中尉は手紙を持参していた。主治医の手紙だ。
 主治医は乱暴な対応を全面的に謝り、自分が嬢を管理して、二度と同じようなことはさせないと保証していた。
 さらに半月。自分は中尉を無視した。
 半月で、耐えきれなくなって近づき、『いいかげんにしろ。近所の噂になっている。あなたは嬢の奴隷か何かか。互いの貴重な時間をどれほど無駄にしているか考えたことがあるのか』と文句を言った。
 中尉は、顔に銃の弾が当たったみたいに笑い、英語で

 ――同情するなら、一緒に来てくれ。

 と言った。

 ――俺は立場がない。全然成果を上げられないから。
 俺はあんたを連れて行く係。あの医者は、あんたをもてなす係なんだ。

『ほんとうに、あなたはバセヴィ嬢のなんなんだ。夫なのか?』

 ――愛する女の願いをかなえてやりたいっていうだけさ。

『じゃあ……、君と嬢は……?』

 中尉は、馬車の暗がりの中でふふ、と笑った。

 ――褥を共にする仲さ。



 この一語が、自分を強く強く安心させた。
 なんだ。やはりそうだったのか。
 ――だったら、大丈夫だ。
 自分の身には、何の被害も及ばないはずだ。
 嬢は極端な性格だ。主治医は手紙の中で、それを認めていた。


 ――あなたの評判を耳にし、なんとか館に泊まってもらいたいと思ったようなのです。音楽家にふさわしい快適な食事、快適な住まい、快適な生活を享受してもらい、自分の手元で、心行くまで作曲に専念してもらいたいと思ったようなのです。
 召使に命じ、あなたの珈琲に薬を入れさせたのも令嬢で、私はきつく叱責し、令嬢も反省しています。
 令嬢は見た目とは違い、幼い心の持ち主です。
 うさぎをむやみにかわいがる少女を想像してください。うさぎに菓子を食べさせようとし、服を着せようとし、のべつまくなしに抱っこして、本人はまさかそれがうさぎを衰弱させているとは思いもよらないのです。
 ただ、令嬢は愚かではありません。私の説明を理解し、今後はすべて私に任せると申しております。
 どうか、令嬢の芸術奉仕の心情だけは汲み取って頂きたいと思います。そして、お手すきの時には是非、館に食事にお越し下さい。



 ――毎晩、家に帰って寝るだけだろ?

 中尉が言った。彼は一月半、雪の日も雨の日も毎日ここへ通っていたので、よく分かっている。
 自分が答える前に、中尉は闇の中で体を奥へずらした。

 ――どうぞ。







 前と同じに、令嬢は全然感情を表に出さなかった。
 終始、召使と同じくらいに黙ったまま自分を迎え、食事をし、小鳥のように、ごく少量の酒をついばんだ。
 むしろ、周囲の人間達が、彼女の周りでせわしなく動くのだ。どこか慌てたように、汗をかきながら、しかも多幸感をもって。
 自分は前にたびたび、彼女を『巫女』のようだと書いているが、この図式のせいだ。
 ただ、一月半の効果か、主治医のもてなしか――あるいは、中尉の告白のせいか。今日はただ一人の若い女性に見えた。
 女性は、たとえ高貴な生まれでも、世間知らずで、愚かなことが多い。直観には優れていても、物事を筋道立てて考える訓練ができていないのだ。
 まず最初に彼女の積極的な言動にひどく面喰ってしまったために、自分はその前提を、すっかり忘れていたようだ。
 ただの、わがままで、気まぐれな、お嬢さんだ。
 恋人もいる。結婚もするだろう。『ゲイジュツ』にずいぶん憧れて、バカげた行動もとるが、そのうち家族が一番大切になる。
 典型的な、ふつうの、お嬢さんなのだ。


 そう分かってやっと落ち着きを取り戻すことが出来た。
 まったく。人騒がせなことだとは思ったが。

 ――お越しいただいてありがとうございます。

 令嬢は話さなかった。代わりのように主治医が言った。

『毎日、家の前にいられると迷惑ですから、やめて頂けますか』

 ――では、一週間に一度程度ではいかがですか? どうかわたくし共に、先生の晩餐を提供させて下さい。

『もっとほかの方も探されてはどうですか。そのほうが飽きませんし、喜ぶ方もいるでしょう』

 ――令嬢が応援したいのは、あなたなのですよ。

『……なぜ』

 ――先生の曲が好きなのです。

『どの曲です?』

 主治医はとっさに令嬢のほうを見た。令嬢は、答えなかった。
 答えられなかったのだ。
 これが自分の確信を深めた。
 ほら、やはりそうだ――。
 音楽愛好家だ、自分のファンだなどと言いながら、曲名を覚えていない。つまり、『ゲイジュツ』そのものに、大雑把な憧れがあるだけなのだ。それと関わり合いがあるふりをしたいのだ。
 成金が、やたら金銭価値の高い悪趣味な買い物をするのと同じ。『崇高なる』『別次元の価値』に対する、的外れな憧れがあって、それを買収したいのである。
 正体が見えて、かえってほっとした。
 付き合い方も分かった気がした。

 ――ご気分を、害された?

 ふいに、令嬢が口を開いたので、手元の皿から彼女のほうへ、導かれるように目を移した。
 主治医や、中尉の目も同じように彼女にくぎ付けになっていた。
 ほぼ完全に球形の見える茶色い目が自分をうかがうように見ていた。心配しているようだった。

『いいえ。少しも』

 自分は答えた。むしろ、自分も楽になりながら。

『そうですね。月に二度程度でしたら、お伺いできると思います』

 令嬢は苦しげな顔をした。
 明らかにそれでは足りない、という表情だった。
 だが、それももう自分を脅さなかった。
 令嬢には中尉という恋人がいる。だから異性愛的な興味をこちらに向けているはずがない。
 だったら安心だ。
 心の底から、安心だ。
 自分は、疑っていたのだ。まさかそんなことがあるはずはない。そんな疑いをかけるのはかえって恥ずかしいことだと分かっていたから、その疑いさえ疑っていた。
 この循環は、自分が知る限りもっとも手近な地獄である。何がまともか分からなくなる――。
 誰か一人くらいは、自分を弁護してくれるのではないだろうか。
 薬を盛ったり、寝ている間にシャツを脱がしたり、軟禁されたりしたら、いくら男でも、少しは身の危険を感じてぞっとするものだろう。
 本当に、人騒がせな。


 令嬢は主治医に目を向けたが、主治医は首を振った。仕方がないでしょう、とでも言うように。
 それから、静かに食事に戻りながら言った。

 ――先生は独身でいらっしゃるのですね。私もですが。ご結婚はならさないのですか。

『私は恋愛したり、家族を増やしたりすることは苦手です。その仕事は他の方々にお任せします』



 ずいぶん、えらそうなことを言ったと思った。
 安心していたからだ。
 恐れがなくなって、何かに勝ったような気持ちさえしていたせいだ。
 でもそれが素直な気持ちだった。
 あなた方は、できるんだろう。
 相手のことを理解するよりも先に愛したり、いい気分になって自分のもっとも無防備な姿をさらしたり、一人、二人、三人と、子供を作ったりということが。
 自分にはできない。
 絶対にできない。
 そんなことをしたら、自分はこなごなに破壊されてしまう。





 気が付いたら、令嬢や主治医、中尉までがじっと自分を見ていた。
 自分は生徒に対するように、いつもの作った微笑みを返した。




(了)




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