天国への階段
第二章
だっておかしいじゃない。一月前に宮廷デビューしたばっかのあたしが、なんだってこんなきわどい人達ばかりからお手玉にされなくちゃいけないの。 黒太子といい、『正義』のリジョウ・キリオさんといい、皇太子といい。 あたし、話をそんなにおおごとにするつもりなんてなかったよ……! 「それが不思議だというのはの。わしに言わせれば、周囲が見えておらぬからじゃ。 言ったではないか。転ばぬように、ゆっくり歩けと」 まだ混乱覚めやらず、頭から渦巻きを幾つも飛ばしているあたしに、大理石のテーブルの上で小さなカードを繰りながら、ターリク師が言った。 つーか、とっくにバレてたみたいだ。あの手紙の本当の差出人は、あたしだって。 キリオさんは部屋からいなくなっていた。あたしの保護を修道院に知らせるために出かけていったんだ。 皇太子も外。広々とした青の部屋にはターリク師と、向かいに座る、あたしだけ。 「――顔を洗って、少しは落ち着いたかの? 薬湯も残らず飲んだかの? よろしい、ではご覧。白馬の民に古来より伝わるこのカードで、おぬしが何をしていたか説明して進ぜよう。 常々申しておるのだが、『階段の十一星』という呼称の定着ぶりには、言い出しっぺのこのムハンマド・ターリク自身も驚いておる。最初はただ小さな会の余興で、このカードを使い、この宮廷の状況を表現してみようと試みてみただけだったのじゃがの。 この無造作な定着ぶりには、『階段』の意志を感じる。わしもいつか手ひどい仕打ちを受けるやもしれぬ――。 さて、まず宮廷の中心には『星』がある。これこそ『アステリオ』の中の『アステリオ』。かの皇太子殿下テオバルド殿じゃ。 国王陛下は既に事実上引退しておられるので、『国王』のカードは外に。左に『戦車』。右に『恋人』を置く。 それぞれ誰のことか、分かるかの? 『戦車』は第四王子、テイル・キンレイ黒太子。『恋人』はおぬしの雇い主、ナネッタ・ヴァルディ公女じゃ。 早くも先行きが不安な顔をしておるの。黒太子=『戦車』は妥当でも、ナネッタ公女=『恋人』は不可解かの? それがものを知らぬということじゃ、ミカエラ。 皇太子とナネッタ公女は婚約をしておる。家同士の内約ではあるが、契約書が残っており、完全に正規のものじゃ。 公女が十八歳になった暁には、すなわちあと一年後には、挙式が行わればならぬ。 しかしながら、ここに一つ問題が。 ナネッタ・ヴァルディは幼時、親によって結ばれたこの婚約を良しとしておらん。なんとか破棄に持っていこうと様々に画策し、大胆にも殿下の顔に泥を塗ろうとしておる。 だからこの二者はかなりの緊張状態にあるのじゃ。『恋人』のカードは逆さまにしておく。 では次に『戦車』じゃ。車軸にさえ刃物を擁し、犠牲者めがけて戦場をひた走る車。 テイル・キンレイ殿はあらゆる意味で、慈悲を知らぬお方じゃ。ヴァルディ公女にはまだ人間らしい愛情や仲間を求める心があるが、この方にはない。すべての人間は道具じゃ。 彼は王子としては第四位。だが、本当は皇太子よりも二つも年上で、生年で言うなら長男であった。それが母親の身分が低かったために他の王子に負け、四位に甘んじておる。 彼は王位を狙っており、それを隠そうともしておらぬ。これまで起きた幾つかの皇太子暗殺未遂事件の裏では、彼が糸を引いておった。誰もが知っておる。 だが彼は実に悪知恵の働く男で、中々しっぽをつかませぬ。犯罪にも度々手を染めながら、今の今まで生き延びておる――『階段』の申し子とも言えるであろう。 だからこの兄弟の間にも、王位をめぐる極度の緊張があるじゃ。よろしいの。 この三者の周囲を我ら別の七星が取り巻いておる。空位であったりほとんど影響を及ぼさぬ星もあるが、これがひとまず現状じゃ。 さ、この舞台でおぬしがなにをやったか、見てみようではないか。 おぬしは『恋人』ナネッタ・ヴァルディ殿の新しい部下じゃ。ところが周囲の緊張状態を知りもせず、あちこち動き回っては不作法かつ物騒な質問を、誰彼かまわず小石のようにぶつけまくった。 そのような目立つ真似をすれば、目をつけられて当然じゃて。それでも皇太子殿下は配慮からおまえの顔を知っておこうとなさっただけであったが、黒太子は違う。 あの男は自分の犠牲者を見つけることにかけては天才的じゃ。迂闊で、無知で、自分が見えておらぬ者は男であろうが女であろうが一瞬で見抜いてしまう。 憎い皇太子の暮らすこのヴェルデ宮で、その婚約者である公女の新しい部下を無惨に殺す。それがどれほどの悪魔的な喜びを彼にもたらすか、今のおぬしになら分かるであろう? 今回はたまたま、殿下が見つけてくださったからおぬしは助かった。だが、今頃この顛末を聞いて黒太子は怒っておろうし、その恨みを引き受けるのは殿下じゃ。 おぬしが殿下に助けられたとあっては、公女もバツが悪かろう。その気まずさをかぶるのも、殿下じゃ。 ――自身がなにをしでかしたか、少しは分かったかの、ミカエラ・フィオーリ。 いかに自らを正当化しようが、無知、無鉄砲は罪じゃ。おぬしの愚かしさのために、お優しいテオバルド様がどれほどの迷惑を被ったか、よく考えるがよい」 にぎわう広間を見下ろしていた皇太子が、外から戻ってきた。テーブルの脇に立つと、その見事な水色の目を、金のふちで細めて優しく微笑む。 「カードか。爺のお説教はキツかったかな?」 「まだまだ生ぬるいほどでございまする。自分の弟子ならまさかこんな程度では済ませませぬが、人の持ち物では致し方ござらぬ。 ヴァルディ公女も教育の悪い。いったい今年はいかがなされたのか」 「そうだな。アントン・ジーメ。タイラン・ツェッカ。リザベッタ女史。ナネッタは人間を見抜く直感のある人だ。聖マグダラも本来こんな騒ぎを起こすような院ではない。 今年はたまたまじゃじゃ馬が一頭紛れ込んだか。それとも何か、理由があるのかな? まともな若い娘がこんなにも――投げやりなで危険な行動を採るような、理由が」 皇太子の目が、あたしの上に注がれる。恥ずかしくて、顔が赤くなった。 「君はまだ『階段』を上り始めたばかりだろう。何があった? よければ話してごらん。気持ちが軽くなるかもしれない」 ……なんだろう。何だかこの人といると、『お兄ちゃん』という言葉が自然に胸に湧く。 皇太子なのに、この世の天頂なのに。人間的で、すごく寛大で、面倒見がいい感じ。 あの黒太子と兄弟だなんて、信じられない……。 「……で、でも……。もう今更、何を言っても、それは言い訳でしか……」 「馬鹿者が。ここで遠慮してどうなるのじゃ。それこそもう面倒事は起きてしもうたわ。 迷惑ついでにせめて我等に事情くらい説明して行かぬか」 「そっ、そうですよね。すいません……。 ――……あの、あたし……。特待生です。自分で志願して、選考を受けました。 でも、合格したその瞬間に、何もかも分からなくなってしまったんです」 気配で、皇太子とターリク師が視線を交わしたのが分かった。 あたしは二人に、選考で起きたことを話した。包み隠さずに全部。もう小手先の技術を使う余裕なんかなかった。話し始めたら、全部出た。 ああ。あたし、ずっとこれを、誰かに話したかったんだ。 「では、おぬしが選ばれることは、もう初めから決まっておったわけか。なるほどの」 「……おかしいですよね。 あたし、いい目、見たんです。えこひいきしてもらった。ラッキーだって思って、そのままナネッタのお気に入りの部下にしてもらえばよかった。 でも、なんだかあたし、全部を奪われたような気分になって。『夢をかなえただろう』って言われても、逆に、行ってみたら、目的地が全部焼けてたみたいな感じで――。 もうこれ以上奪われるのは嫌。自分のことだけ考えよう。全部秘密にして、人の話は信用しちゃいけない、って、アントンが色々説明してくれるのも、ろくに聞いてなかったです。聞かないようにしてた。だからこんなことに、なっちゃったんだ」 ターリク師がふむ、と息を吐く。 「公女も悪気があった訳ではなかろうが、罪なことをなさる」 「何よりも、アントンが……」 「…………」 「彼がグルだったのが、悲しくて。 あたしはそれまで、とにかく一人が最強だって、思ってたんです。でも、そうじゃない。誰かと一緒にいることで違ってくることがあるんだって、初めて教えてくれたのが、彼だったんです。 でも、あたしにとっては奇跡だったあの事件も、本当は全部計算ずくで、万事がナネッタに捧げるために用意されたものだったんだと思ったら、本当にワケが分からなくて。 何とか、何とか彼に……、この気持ちが、伝わって欲しくて……」 馬鹿なことばかり、した。 まばたきすると、思いがけなくぼつり、ぼつりと膝の上に涙が落ちた。 「あッ……ご、ごめんなさい……!」 慌てるあたしの前に、白い布が差し出される。皇太子だった。いい香りがして、泥だらけのあたしが使うには、もったいないような純白。 あたしは途轍もなく躊躇したけれど、彼は年下の兄弟を思いやるような、それでいて半分やれやれと思っているような笑みを浮かべて、ついに受け取らせてしまう。 ハンカチを頬に当てて、俯くあたしを少し眺めた後、彼は静かな声で、呟いた。 「底抜けにありふれた、月並みな話だね」 驚いたあたしは目を上げて、笑う彼の顔を見る。 「涙する君には申し訳ないが、ひいきによる人選も、結果のねじ曲げも、感情の操作も、この『階段』ではごくありふれた悪事だよ。 それに対する君の、怒りと失望という反応も、大変に一般的なものだ。 君は大人と子供。建前と本音。現実と理想。その二つの世界の間で迷っている。感情を無視して実利を取るか、自分の良心に従って有力者と敵対し、不利益を被るか。 何万人もの手垢にまみれた葛藤だよ。君のその涙にしても、『階段』の底辺あたりに、無価値な真珠のようにいくらでも転がっている月並みな、月並みな、涙だ。 だが、私も月並みな人間だ」 「――……」 「今日のところは、院に戻りなさい。ミカエラ。だが、ナネッタの怒り収まらず、また望まぬ仕事を無理やりさせられそうになったなら、ここへ来るといい。 君の身柄は私が預かろう。取次ぎにそのハンカチを見れば、私に会えるはずだ」 「え。え。でも……」 「若様」 「一度手を出したら最後まで面倒を見なさい。昔、亀を飼い始めた時、お前にそう教わったぞ」 「……むう」 あたしの戸惑いにも構わず、皇太子は口の端をちょっと上げて笑うと、またゆっくり部屋の外へ出て行ってしまった。 ていうか、本当に、なんて金髪なんだろう。暗闇の中でも光を集めて、最上級の絹糸みたいにつやめいてる。 「ありがたく、殿下の好意を頂くがよい。わしは後悔しておる。あの貴公子を、あのように慈愛深く、正しき人に育ててしまったことを。このように残忍な世界の中で」 ターリク師は小さなため息を吐くと、テーブルの脇にまとめてあった残りの札を手に取り、それをまた新しい形に並べ始めた。 「いま少し、このカードについて話をしておこうかの、ミカエラ。 よいか。十一枚のカードはの、それぞれ対となる一枚を持っておる。例えば『正義』の対は『暴力』。『希術師』の対が『落雷の塔』というように。 これは一人の人間の、明るく生産的な面と、それを支える暗く破壊的な面を示しておる。誰にも影があるように、世界は昼と夜の両面でできておる。あたら闘いを好む黒太子=『戦車』のように、もとから破壊的な性行のお方もおる。 『十一星』が一様に闇に傾けば、宮廷は荒れ、国の将来も危ういであろう。 したが、問題はの。誰も、悪い人間になろうと思ってなるわけではないということじゃ。自らを知恵者の策謀から守ろうとして、あえて愚か者になってしまったおぬしのように、みな自分らしく生きようとして危険な存在になってしまう。 例えば、公女じゃ。公女ナネッタ・ヴァルディのカードは『恋人』。だがこの背面にあるのは『死神』。 彼女に悪気はない。だが、自らを守ろうと必死じゃ。彼女は『階段』と陰謀渦巻くこの宮廷の空気を、子供の頃から当たり前に吸って育った少女。無邪気な策謀家として成長し、この宮廷に混乱を撒こうとしておる。 彼女は、これだけはおぬしが知らぬのも無理はないが――、皇太子を廃し、別に新しい王を立てて、その妻になろうとしているのじゃ」 「――え」 えええええっ?! という続く絶叫を口に当てた手に吸い込ませた。このハンカチ、役に立つなあ。 「代わりって! 一体、誰を?」 「分からぬか? よく考えてみよ」 「…………」 そんな。分かるわけないでしょう。あたしはこのおじいちゃんみたいに頭がよくないし、知ってることも少ない。国王の子供が全員で十二人? とかだっけ? そのうち皇太子と黒太子以外、顔も名前も知らないし。 ……黒太子? まさか。 ナネッタがあの男との結婚を望むとは思えない。 だいたいあの子は、誰ともさほど親しくしていないじゃない。宮廷にはろくに出ないし、出ても大抵控え室にこもりっぱなしで。 そうだよ、いつも身内で話してばっかり……。 「え?」 あたしは、頭の中に、青い目のライオン頭が出てきたんで自分でも当惑した。 いやいや、違うでしょ。そうじゃなくて、知らないけどもっと可能性のありそうな、貴族とか、王族とか…… 「……なんで?」 なんでまたアントン・ジーメが出てくるの? 「分かったかの?」 「そ、それは、いくらなんでも違うと思いますけど、ターリク様。 だってそんなの……。無理でしょう?」 「それは宿題じゃ。自力で解を見つけよ。 ――さて、ここから先は、まじめなお願いじゃ。ミカエラ。 おぬしが、このような騒動を引き起こした理由は、よく分かった。おぬしの取った行動は弁解の余地もなく愚かなものではあったが、おぬしの心情は、分からぬでもない。 もし、おぬしに悪を憎む心があり、八百長で選ばれた自分を恥ずかしく思うプライドがあり、果てしなく続く残酷な争いを憐れに思う情けがあるのなら、このようなところで立ち止まっていてはならぬ。 強くなりなさい。今すぐ。少々のことでは動じぬ強さを身につけて――、どうか皇太子殿下を支える一人になって欲しい。 人は安易に流れる。身の程以上の僥倖を求めていつも正道を捨てる。 テオバルド様は人の安易と闘う『星』。 旗色は、常に悪い。 おぬしはまだ若く、たいそう未熟じゃ。が、性根はよい。 現世に戻り、おぬしの場所でおぬしの戦いを真摯に務めよ。それが世界に光をもたらすこと、皇太子殿下をお支え申し上げることになるのじゃ。 これは、老い先短い爺の、若い人へのお願いじゃ。分かってくれたかの」 「…………」 あたしはその時、あのサーシャが、このおじいさんに惚れ込んでいる理由が、少し分かったような気がしたんだ。 やがて皇太子が外から戻って来た。もうさっきのことなどなかったみたいに、のんびりとしている。 「迎えが来たようだぞ。キリオが、アントン・ジーメと戻ってきた」 「……若様。よもや公女には秘密なのではないでしょうな」 「こんなことで年下の少女相手に点数を稼いでもしょうがあるまい」 「やれやれ。いささかお人柄が過ぎますぞ。爺めは心配でございまする。殿下が忍耐に次ぐ忍耐の果てに、いつか大爆発なさる日が来るのではないかと……」 「来た」 段を上る足音が響いて、あたしもいつの間にか立っていた。すると今いる部屋の窓から、広間の様子がすっかり見えるのが分かった。ドアの先の通路からなら、もっとよく見えるだろう。 そうか。皇太子はいつもここから下の世界を見つめているんだ。それこそ天頂の『星』のごとくに。そして今日はたまたまあたしの姿を見つけ、助けてくれたんだ……。 「殿下。戻りました」 あっという間に足音が近づいてきて、ドアが開いた。リジョウ・キリオが夏用の外套を羽織ったアントン・ジーメを先に通し、背後でドアを閉める。 あたしの顔を見て、真っ先にアントンが言った。 「ミカエラ……!」 あたしはその時までどうしよう、どうしようと思っていたのだけど、名前を呼ばれた瞬間、もう逃げも隠れもできなくなって、頭をべこっと下げた。 「すいませんでした……!」 今更泣いて謝ることだけはしまいと、歯を食いしばる。 アントン・ジーメは、冷静だった。とりあえずあたしの顔を見てほっとした様子だったけれど、あたしとは違ってこの場における自分の立場を正確に理解していた。 すぐに、傍に立つターリク師に懇切な礼を述べる。 「私どもの部下が、ご迷惑をおかけいたしました」 「全くじゃの。もっとよく監督なされ」 「お詫びの申し上げようもございません」 「ジーメ殿。このたびの一件はすべて、皇太子殿下お一人のお心から出たこと。彼女の拐かしについても、殿下が見ておられねば、わしらは気づかぬことであった。 それにの、殿下はその女子の災難を、看過なさることもできたのじゃ。ヴァルディ公女の殿下に対する平素の振る舞いを考えれば、それも十分あり得たこと。 殿下のたぐいまれなるご厚情に、お礼を申し上げなされ。 それに、これまで直接言葉を交わす機会も――、満足になかったのではないかの」 「……?」 少し不思議な思いで見ているあたしの前を通って、アントン・ジーメが皇太子の前に出た。 ひざまずいて、深々と頭を垂れる。それから色んな言葉でお礼だの、お詫びだの、した。 それを見ながら、あたしは思ってた。 変なの。直接話をする機会なんて、なくて当然じゃない。だって、アントンは一介の『グランデ』で、ナネッタの部下ってだけの男よ? 皇太子と会話なんて、するはずがない――。 一通りの言葉を終えて、彼は立った。まるでそれを引き止めるみたいに、皇太子がゆっくり口を開く。 「アントニオ。『兄』と呼んではくれないのか」 アントンは、いつかの時と同じように、静かにまぶたを閉じた。 「もはや私には、その資格がございませんゆえ」 宿題の答えを得て絶句するあたしに、ターリク師がカードの入った布包みを持たせる。 それからあたしは、アントン・ジーメに伴われ、階段を一段ずつ下って、地上へ降りた。 見上げれば、その場所は天の高みとも見えた。あたし達は酔いつぶれた貴族や、あちこちで眠りこけている使用人の間を通って、ヴェルデ宮を後にした。 馬車が駆ける道はまだ薄暗かったけれど、空は東から少しずつ明るくなり始めていた。 アントン・ジーメはあたしを御者台に乗せて、自分で手綱を取った。もう他に誰もいなかったから、自分一人で動かして来たのだと彼は言った。 「タイラン先生は……? ……ひょっとして」 「ええ。彼はここにあなたを探しに来たんです。でも、ちょうど入れ違いになったらしい。 さっき会ったので先に帰らせました。サーシャも一緒に。 あなたはもう、ひとかどの有名人ですね。昼の部でも、夜の部でも」 トラブルメーカーとしてね。 「……すいません」 「何があったか、だいたい聞いています。怪我がなくて、なによりです」 もう急ぐこともないと思ったのか、アントン・ジーメは並足でゆっくり馬を進ませた。寝静まる王都の道を、あたし達は山から流れてくる心地よい風を受けながら、長い時間をかけて走っていった。 静かで、さわやかで、平和だった。隣には、彼がいる。 こんな時なのに、懲りないあたしは、一瞬すべてを忘れて、幸福を感じそうになった。 でもその思いを、彼の言葉が、乱す。 「院に着いたら、公女殿下に謝れますね」 「……『謝る』?」 「ええ。そしてもう二度とこんなわがままは言わないと、約束してくれますね」 「…………」 『わがまま』。 確かにそうだ。 けれどあたしは、その言葉に、素直に服従してしまっていいんだろうか。 顎を落とすと、膝の上にハンカチと、カードの包みが目に入った。風が、あたしの前髪を跳ね上げ、ほの白い空を透かす。 「あなたは、誰なんですか。アントン・ジーメ」 「……『誰』」 「さっき、皇太子が、『兄と呼んでくれないのか』って」 「弟です」 思わず、まじまじと相手の横顔を見てしまう。波うち、後ろになびく茶色のライオンヘア。天の甘い水のように、青い青い瞳――。 「とは言っても、正史には登場しない弟です。 私の母はそれこそ王宮で働く下働きの『コリフェオ』で、国王の気まぐれなご寵愛を受けただけなので。 ……まあ一時期は後宮に住むことを許されたりもしましたが、追放されましたし、王子としてカウントされることなど永久にない存在です。気にすることはないですよ」 ナネッタもそう考えているの? 「どうして皇太子とは、知り合いなの?」 「――昔、後宮で一緒に遊びました。キンレイ王子は私をいじめましたが、殿下はいつもお優しくて、戦争ごっこでは副官にして頂いたものです」 「仲良しだったの」 「大好きでした。尊敬していました。お別れするのが、つらかったものです」 「……それでも今は、ナネッタ・ヴァルディにつくの?」 「…………」 「ナネッタが、皇太子を殺して、あなたが王位につくようにって画策してても?」 「それは実現の見込みのない、荒唐無稽なおとぎ話ですから……」 「……そう」 しばらく、轍の回る音だけが耳に響いた。やがて、彼の方から口を開く。 「怒らないんですか」 「…………」 「前のあなたなら、怒って、私に手を上げたでしょう」 「そうね。……でも今は、それがあなたの選択なんだって、思うから」 「…………」 「ごめんなさい、ジーメ先生。あたし、ナネッタに謝るかもしれないけど、本心じゃないです。こんな騒ぎは二度と起こさないけど、今後もきっと、彼女が望むのとは別の方向へ行きます。 ターリク師と、約束したんです。皇太子を助けるために、強くなるって。 あなたも、同じ方向を向いてくれたらとても嬉しいけど。もしそうでなかったら――」 あたしはぎゅっとハンカチを握り締める。 「あたしはあなたを置いて、先に行きますから」 山の端から純白の太陽が現れた。薄雲の浮いた天球が、青に染まる。 「きれい」 あたしは心から言ってその日の最初の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 アントン・ジーメは、何も言わなかった。ただ手綱を持ったまま、じっとあたしの横顔を見つめていた。 ◆ 「……ミカエラ……。おめ、大丈夫だか? 胃袋」 「平気! あたし、あなたを見習って、ちょっとくらい太ってもちゃんと食べることに決めたの! 体力勝負だもん! あたしは強くなるの!」 「へへへ。なーんか、おめ、元気になっただな。 一応、ナネッタも許してくれて、よかったべな。一時はどうなることかと思ったべ」 「あはは。あたしもそー思った!」 「ガガガガ。そーだべか!」 「ねえ、サーシャは『階段の十一星』の中だったら誰になりたい?」 「えー。そらまー『希術師』だべかな。ターリク師みたいに」 「あたしは『太陽』かな。『階段の太陽』! 素敵じゃない?」 「ミ、ミカエラよ。おめ、前から思ってたけど、けっこーいい性格だべ。恥ずかしくないのけ? がんばって『太陽』目指してけろ」 「うん!」 こんなうぬぼれた会話をしながら、食堂でムシャムシャ――というよりガツガツ食事をするあたし達を、ナネッタが遠く離れた席から、すーごく冷ややかな目で睨んでいた。 でも、くつくつ笑うタイランの隣にいるアントン・ジーメだけは少し憧れる目で、あたし達の方を見ていたような気がする。 これもきっと、『いい性格』故の思いこみだと思うけど。 白いハンカチをお守り代わりに胸のポケットにしまって、あたしは今日も、『階段』に挑むために、仕事に行く。 三章につづく |
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