トーキョー・アバンドン
1.After You've Gone






「明治通りのほうだったのか。結構賑わってんじゃん」
「ここ半年のことですよ。三年前には、草木一本生えてなかったんですから。
 一年前、UNMITが本格常駐してから、やっとまともに表が歩けるようになって。停戦ラインの外は、まだまだ荒れ放題です」
「ふーん。しかし、いろんなもんが高いな。あれ、砂糖が一袋二八〇〇円だって」
「渋谷区は配給が混乱してるので…。
 先生は大丈夫でしょう。ご自宅のある文京区は政府機関が移って以来、生活状態がいいので有名ですよ」
「ああ。なんか自宅ねえ、知らん間に売却されたみたいよ。金持ちそうな女が住んでた」
「ええっ…?! そんな馬鹿な!」
「不動産会社が勝手に転売したんだろ。まあ、ローンの途中だったしな」
「――なんてことを…! 政府に財産の回復請求をなさるべきです」
「いや、もういいよ。面倒くせえ。いまさらでかい家があったってしょうがねえし。俺、もともとあの家好きじゃなかったんだ」
「しかし、奥さんはどうするんです? 帰る家がないんじゃ…」
「別れてきた」
「へっ?」
 相変わらず反応が面白いなあ生来。美形なのに、と思いながら高月は続ける。
「東京に帰る、帰らないで喧嘩になってさ。しょうがないから別れて帰ってきた」
「…奥さん。帰りたくないって言ったんですか」
「荒れる故郷にいまさら帰ってもしょうがないって。このまま海外で暮らして行くんだって」


『――いっそ、しらがみがなくなったと思えばいいんじゃない?』


「……」
「女は強いやね。俺は、どうしてもこっちが気になって、一人で戻ってきちった」
「…そうでしたか。じゃ、どこかホテルを取ってるんですね? それとも、坂本先生のお宅がある鎌倉にでも?」
「いや。ここに住もうと思って」
「――は?」
 あっけに取られる生来に、高月はほこりだらけの、壊れた道に広がる闇市を示した。
「だって住んでる奴もいっぱいいるんだろ? サバイバルで、楽しそうじゃん」
 しばし沈黙があった。その横を、牛乳ビンを積んだリヤカーがゴトゴト重たげに通った。子供がばたばた通った。猫がにゃーと通った。蝶々も。
 生来の眉間に深い深いしわが寄り、顔が無茶をいさめる部下のそれになる。
「…何を考えてるんです、先生。…ここは旧政府軍、新政府軍、白土軍が三方から噛み合って分割統治された、地雷原のまさにど真ん中ですよ。
 宮沢賢治じゃありませんが、三匹の猫の額がコツンとぶつかり合って残ったねずみの胴体部分です!
 毎日なにがしか事件が起きて人が死んでる…。そんなところに住むとおっしゃるんですか?!」
「だってお前もここに住んでるんだろ?」
「僕は通いです! 代々木にある職員用の特別区域に住んでるんですから!
 そりゃ、忙しくて住み込みの時もありますが、第一ここはケミカルハザードの一級汚染地域で――治安状態も最悪――ドラッグの取引の――、とにかく、じょうだんじゃありません――」
 頭脳の許容範囲を超えたらしい。元来インテリの生来は顔を押さえて、地団太を踏みだした。
「ダメです…! 絶対にダメです!
こんなところに、金の鳩国際文学賞作家をおいとくわけにいきますか!
 お宅のことはなんとかしますから、今すぐ鎌倉に行ってください!  もし、ここであなたに死なれでもしたら、一体僕は坂本先生や奥さんになんと説明したらいいか――」
 その時だった。
いきなりドオンという轟音がして、大地が縦に揺れた。
 きゃーという近くの悲鳴が遠く聞こえたのは、音響が激しすぎて一瞬難聴になったからだ。
 反射的に伏せた顔を上げると、今、自分達が歩いてきた方角から、もうもうと砂色の煙が上がるのが見えた。カラスが鳴く。空気がかすみ、ぽそぽそと砂塵が降ってきて唇にはり付きそうになった。
「…なんだありゃ」
「また、何か起きたな…!」
 生来が顔をしかめる。同時に腰で無線が鳴り始めた。
「おお、トランシーバかよ。レトロ」
「携帯電話はダメなんです。電力がないし、基地局はすぐ壊されるし……もしもし!」
『生来さん! 坂上で両軍また小競り合いのようです! 至急仲裁願います!』
「…了解。――先生!」
 仕事なのだろう。まじめな生来はもう半分以上向こう側に引っ張られつつ、大きな懸念をもって高月を振り向いた。
「いいですね。僕は行きますが、気が済んだらすぐにここから立ち去って下さい!
 もうすぐ夕方です。今はまだなんとか平和ですが、夜になったら治安状態はUNMITでも保証が出来なくなります。
 お願いですから、ここから出てください! 政府機能の及んでいる地区にいてください!
 お願いしますよ! あ。これ、今の僕の名刺です。
それでは!」
 言いたいことを全部言って、生来晴海は忙しそうに走って行った。
 暇な高月の手には「UNMIT 渋谷事務所事務官 生来晴海」と書かれた名刺だけが残る。
 雑な紙に、雑な印刷。鼻を近づけて、懐かしい粗悪インキの匂いを楽しんだ後、背に負ったかばんの外ポケットに放り込んだ。
 そして歩き出した。二時間に一本のバスの停留所とは真反対の方角。
それどころか、さらに街の深部へと向けて。




 彼、妻原高月――本名妻原孝志にとって、渋谷は庭である。
まず大学があった。安い店で一晩中よく遊んだ。
 卒業前からは高い店で遊ぶようになった。デビュー作の装丁を手がけたデザイン事務所も渋谷にあった。
 初めて取材を受けたのもここだった。ブランド物で上から下まで一揃え、初めて自腹で買ってみたのもここだった。
 初めて職質を受けたのも。『ちょっと署まで』と言われたのも。薬物検査のために採尿されたのも。無罪放免されて中指を立てて戻ってきたのも。女にねんごろに慰めてもらったのも。
 つまり、彼は渋谷をよく知っていて、自分の一部とみなし、愛していた。
 三年の空白の果てに戻ってきたそこは、廃墟になっていた。
昔、テレビを通して気の毒になあ、と眺めていた紛争地帯の街の有様がそっくりここにある。
 今になって、やっと分かった。ああいう街も、初めから何も無かったわけじゃないのだ。破壊されたから、あんな空っぽな、生活観のない場所に見えたのだ。
 今の渋谷はまさにそれだった。
静かで、ほこりっぽく、貧しく、天気は悪い。どこを見ても希望の持てる光景など落ちていない。
 高月はサックを背負ったまま、狂った土地勘に悩みながらあちこちを訪ね歩いた。
 知り合いの靴屋。よく行ったカフェ。デザイン事務所。ブーケを買った花屋。結婚式の二次会で使った店。
義父の喪中はがきを頼んだコンビニ。
 全てなくなっていた。ビル自体がなくなっている場合も、硬いシャッターが下ろされてその前に派手な焦げ跡が残っている場合もあった。路地に高月の足音だけが響いていた。時折、ねずみが走っていった。
 アテがすべて空振りに終わり、腹が減った、一休みしたい、と思うようになった時、辺りは既に夕暮れだった。
 高月は明治通りに帰ろうと思った。そこで、何か食べ物を出している露店があったのを見ていたのだ。
 ところが戻ってみると、闇市は既に終わって、跡形もなくなっていた。
 高月は撤収のあまりの見事さに、かえって感心してしまった。一切合財、車にでも乗せて去って行ったらしい。
 それにしても、引けの早い。まだ六時になったばかりだというのに…。
 だが、事実その頃が雰囲気の変わり目らしかった。健全な露店が姿を消した場所に、入れ替わるように目つきの怪しい、いかにも胡散臭い男達が、早くもちらほら出現していたのだ。
 ぼんやりしている高月に一人が言った。
「女はいらないか? いい『星屑』もある」
「……」
「これから手に入りにくくなるぜ」
 遊び人だったから、これくらいのことでは驚かなかった。
さっさとその場を立ち去った。




 さて、困った。
渋谷が滅んだというのは本当だ。あれだけひしめいていた店はもう一軒も稼動していないらしい。あるのは明るい間だけどこからともなくわいて出る闇市だけ。
 店どころか、まともな住民がいるのかどうかも怪しい。明治通りから離れて以来、すれ違うのはヤバそうな連中ばかりだ。
 これは危ない。高月はまじめに考え出した。
この状態で長い夜をうろつきまわるのはぜんぜんよくない。殺されに戻ったわけじゃない。飯は諦めるにしても、とにかくどこか、安全そうな場所へ行かなくては。
 幸い、彼には大きなアテがあった。
大学だ。
 不真面目だった彼はかえってその広大な敷地の隅から隅までを知り尽くし、目立たない場所でよく講義をサボって寝ていたものだ。あそこなら、たとえ校舎が全壊していてもどうにでもしようがある。
 思いもよらない不測の事態が起きているかもしれないが、もうそうなったら開き直るしかない。どっちにしても危険なことには変わりが無いのだ。
 ――それに、大学にいたる道の途中には、あの店がある。
訪ねておこう。
 あそこは地下だし、店主は殺しても死にそうにない妖怪だった。ひょっとしたら、こんな渋谷の中でも一人飄々と商売を続けていないとも限らない――。
 暗い路地を歩いて、目的のビルを見つけた。地下に続く階段の手前に、やる気があるのかと疑われるくらい地味なプレート。
店の名前は「うさぎ屋」。
 そうだ。ここだ。
階段は昔のままだった。真っ暗だが、ここは前から真っ暗だった。むしろ、いとしい暗さだ。
 行き着いた先のドアを押してみる。
開く。
 これ以上は期待できないほどの漆黒が、高月を飲み込んだ。
砂くさい空気を呑みながらポケットを探って、ジッポを取り出す。
 そこに浮かび上がった店の様子が、今までのどの光景より、高月の心を刺した。
 店は、完全に破壊されていた。壁際に追いやられ、とげとげしいけばを立てる机と椅子。笑えるくらいからっぽの棚。
床でごみと化しているスピーカー。
 カウンターを覗き込めば、悪寒がするほど大きな黒いしみが、床一面に広がっていた。
 枯れた花束が落ちていた。
カードには、R.I.P(安らかに眠れ)とある。
 思わずジッポの蓋を閉めた。
暗闇。





 高月は、痛む足を引きずるようにして、大学に向けて歩いた。
お願いだから帰ってください、と言った生来の顔を思い出しながら、荒れた坂道をのぼり、やっと校門の前に立つ。
 東京人文学術大学・渋谷緑校舎。
みんな面倒くさいから「緑校」とか「渋谷校」と言っていたキャンパスだ。ちなみに神奈川と東京西部にもキャンパスがある。そっちは今も使われているかもしれない。
 案の定、正門は思い切り封鎖されていた。分厚い鉄柵が中央でがっちりと合わさり、鎖が巻きつけられ、その上には巨大な南京錠が三つ。ご丁寧に有刺鉄線まで張り巡らされている。
 しかし、こんなもの終電を逃して何度も校舎に忍び込んだ歴史を持つ元・堕落生徒には役に立たない。正門を避けて緑が深いほうへと進むと、三メートルほどの高い壁が現れるのだ。
 よもやここは上れないと思われがちだが、ツタを押しのけて探せば、ちょうど足がかりになるくぼみが、変わらぬ姿で笑っている。
 まずサックを放り入れ、それから深呼吸して意を決し、壁に取り掛かった。
 予想以上にてこずった。勘を取り戻すまで、五度ほどやり直した。
 思えば例の下らない文学賞を在学中に取ってしまって以来、壁越えなんて後ろめたい真似はとんとしないで済んでいた。
 なにもかも、思いもよらないことだったのだ。
大地震も。大事故も。内乱も。破壊も。
国が滅ぶなんて。
 思いもしなかったから肉体は衰えるに任せていた。海外から取り寄せられたいわゆる山海の珍味の甘やかすままに。
 利息で膨らんだその借金を盛大に取り立てられ、ようやく壁を越した時には、高月は汗だくのへとへとになっていた。ドクダミの葉が冷たく揺れる地面で、体力の回復を待つ。
 それから、やっと投げ込んだサックに手を伸ばし、立ち上がった。
 高月がいたのは、運動部が使っていたグラウンドの脇だった。砂地はもうすっかり雑草に覆われていた。腰までの高さの草の海を、がしがしと掻き分けながら進む。
 荒れ放題の道にたどり着いた。西の空が雲をはらんで薄赤く染まっていた。それをバックに、緑校記念講堂の屋根が、真っ黒な影となって浮かび上がる。
 昔のままだ。昔のままの姿だ。
ようやく――ようやく、見慣れたものを発見できた。
 なぜかマグリットの連作『光の帝国』を思い出していた。きっとこいつがジョサイア・コンドルの弟子だかが作ったヨーロッパ式の古い建物だからだろう。
 皮肉なもんだな。と、高月は疲れた足で立ち尽くしながら思う。
昔は、大時代なこの建物が大きらいだった。これを自分の学歴のシンボルとしてやたらめったら誇りにする連中をあざ笑っていた。
 ところが夕暮れを背にしたこの建物を見て、高月は今、心から感謝している。
 これは「よすが」だ。
滅んだ渋谷の過去と現在を、からくもつなぐ――。
 冷えて行く風の中でしばらく講堂を見つめていた高月だったが、ふと、視界の端におかしなものがひっかかるのに気づいて、視線を引きおろした。
 講堂の脇の、緑の中に、黒い扉がある。あれは…、第十三号講義室だ。
 中途半端に古い上に、番号が不吉なので忌諱されていた、べったり平屋のコンクリ打ちの講義室。あれも残ったのか。
 もっぱら演劇部の練習場として利用され、高月も数回しか中に入った記憶がない。
 まぼろしだろうか。
その閉められた扉に、小さな白銀のプレートがかかっている。まるで、つい一時間前に、誰かが引っ掛けたように。
 高月は瓦礫から離れて、歩き出した。講義室に近づくにつれ、小さな音楽が耳に届く。
 夢か。
高月は思った。
 だってこれはピアノの音だ。本当に幻聴でないなら間違いない、曲は、「ブラック・スモーク」だ。
 うそだろ。これは白兎の魔法だ。
目がくるくる回る。心臓が高鳴り、呼吸も苦しい。
 高月はその講義室の古めかしい銅のドアノブを握った。
「jazz bar うさぎ屋」と書かれた銀のプレートがカツンと金具にぶつかった。




 ドアを開けた途端、音は倍の大きさになって高月を包んだ。
中は、酒場になっていた。
 夢ではない。そこには粗末ながら椅子や机が並べられ、奥にはろうそくの揺れるカウンタが作られていた。
 並ぶ洋酒のビン。
脇には、見覚えのある二台のプレイヤー。そして、もろく重く懐かしいアナログレコードやCD。古いジャズのポスター。
 ピアノは壁際にあった。コンパクトなボディのグランドピアノ。
その前に、髪の長い女が座って高月の登場にも構わず曲を続けている。
 カウンタには、どこかの山男みたいなひげだらけの若い男が一人。そして、その向こうには、いまどき白いシャツに黒のベスト。蝶タイをつけたハゲで不気味なちびウサギが…
「マスター」
 高月の声も、いい加減平板だったが、うさぎ屋のマスター、兎会(トカイ)も感動がなさ過ぎだった。
「またえらくむさ苦しい姿で戻ってきたもんだな、小ざかしい旧日本のクルッポー作家が。座れよ。水割りでいいな?」
 昔と同じように嫌味を言って、ごそごそ酒の用意にかかるのだ。
「――…」
 高月は不安に襲われ、反射的に躊躇した。
現実を確かめるように一度後ろを向くと、そこは闇であった。
 静かにドアを閉めて、進んだ。
高月が席に着くと、女は少し変則を加えて、もう一度同じ曲を弾き始めた。






「生きてたのか」
「こっちの台詞だ。店に行ったぜ。花なんか放り込んであるから、くたばったかと思った」
「偽装だよ」
「は?」
「混乱に巻き込まれていっそ死んだことにしたんだ。借金取りが来なくなる」
 アルコールで燃え上がる喉元を楽しみながら、高月は思わず苦笑した。
 このウサギめ。国が滅んだってのに。
「関東大震災の時にも、避難所で三味線の練習してたって奴がいるがなあ」
「お前は何しに戻ってきたんだ? てっきり海外で暮らしているのかと思ってたよ。奥方はどうした」
「別れた。事務所のことやら慰謝料云々で死ぬほどやりあったし、もういいっす。
 これから渋谷で暮らしていこうと思うんだが」
「相変わらず寝言の好きな男だな、お前も。
 今の渋谷を見ただろう? 何もない。それどころか、いつ停戦協定が破られてまたぞろドンパチ始まってもおかしくないぞ。
 街は荒れ放題。テロも起き放題。人は死に放題の荒野だ。
 旧日本じゃ本郷に住んでた甘やかされた金持ちがこんなところに住むってのか? 冗談言うな」
「家はもう手放したよ。気楽なもんだ。
 確かに外は危なそうだが、ここは治安が保たれてるようじゃないか。そういうあんたはどこに住んでる? ひょっとして学内じゃないのか?」
「『ウサギはフクロウやキツネといった天敵に見つからないように、昼間は草むらに身を潜めています。夜になったら活動します』」
「…ちえ。相変わらずケチなおっちゃんだな、あんた。
 ツマミあんの」
「落花生なら出してやる」
 兎会が小皿に落花生を盛っている間に、ピアノの音がやんだ。後ろから髪の長い、メガネの女がすっと高月の隣にやってきて、高椅子に座る。
「マスター。ジン・トニックちょうだい」
「はいよー。ちょっと待ってくれ」
「お。そんなものもあるのか」
「お前にはやらん」
「なんだよそりゃ」
「今の渋谷で、まともなアルコール類がどれほど貴重だと思ってるんだ。みんなそれが手に入らないから、『星屑』吸ってるくらいだぞ」
「おいおいおい」
「本当のことだ。特にジンは貴重品だ。国産品がほとんどないからな。
 てめーは水割りでもなめてろ。破産させるぞ」
「へんだ。だったら、この人はすごい財産持ちなんだな」
「そうだとも。このお嬢さんは、存在自体が黄金(こがね)だ。
何しろ、ピアノが弾けるんだからな」
 兎会はしごくまじめな顔で言いながら、グラスに透明の酒を注いでいく。
「――地震と戦争のせいでLPは割れる、CDはへしゃげる。プレイヤーはぶっ壊れる。電力不足でデータ音楽なんて再生の見込みもない。
 そんな中で毎夜、リクエストに応えて曲を弾いてくれるピアニストの存在がどれほど救いだと思う? どっかの薄汚い作家くずれの千倍は価値があらあ」
 高月が女性を見ると、女性は少し皮肉な感じでくすっと笑い返してきた。
 二十五歳くらいだろうか。美人とはいえないが、頭のよさそうな、印象的な女性だ。
「雪江ちゃんはすばらしいぞ。
 センスはいいし、古い曲もよく憶えているし、アレンジメントも上手。確実な技術で俺らの求めに応えてくれる。
 お前に彼女の真似が出来るか?」
「出来ませんねえ」
 高月はジャズが好きで若干のこだわりもあったが、消費する側でしかなかった。楽器は一つも弾けないし、歌も歌えない。
 つまり今となっては役立たず。待遇は低くなるわけだ。
「…そういや、昔うさぎ屋に出入りしてたバンドマン達はどうしたんだ。生来には会ったが、他の楽器の連中やらは――」
「みんな音信不通だ」
 コトン。と、女性の前に銀色のジン・トニックが。そしてナッツが高月に供される。
「震災後はまだ店に集まって演奏してたが、白土軍の侵入の大混乱でついに散り散りになった。噂じゃさっさと西へ逃げて達者でやってるって話だが」
「姫木は」
「――『姫』か。彼女もどこにいるやら知らないな。かなりがんばって渋谷に居残ってたんだが、店が白土軍にぶっ壊されてから、さすがに姿を見せなくなったよ。
 しかし渋谷にどっぷりな子だったからなあ。どうも他の土地に居つくってイメージじゃないな。
 とっくに戻ってきて、案外すぐ近場のどこかでのたくってるかもしれないぜ」
「あんたみたいにな――」
 兎会だってこれを期に借金取りから逃げると言うなら、ここから出て行けばよかった。場所を変えてもまだ渋谷にとどまっているのは、ここが彼の運命の地だからだ。
どこにも行けないからだ。
 何があっても留まるだろう。よそへ行っても戻るのだろう。
海の外から一週間がかりで、何もかもうっちゃらかして戻ってきた高月のように。
 だから、信じられるのだ。
きっと姫木もここで待てば、戻る。
「……」
「やっぱ俺、ここに住むわ。これ食ったら、ちょっと学内を探検してくる」
「――…アテはあるのか?」
「あるさ。サークル棟だ」
「……」
 奥の席にいた山男を含め、全員の視線がなぜか高月に集まった。
「俺、学生時代、家賃滞納して一ヶ月くらいあそこに住んでたことがあるからな。勝手は分かってるんだ。
 荒れてるかもしれないが、住める可能性が高くて、しかも一番居心地がよさそうなところだ。調べてくる。
 マスター。金払うから懐中電灯とペンチかしてくれよ。なければいいけど」
「――いや、金なんかいらないが…ペンチをどうする気だ?」
「どうせ封鎖されてるだろうから、カギ壊さなきゃ」
「それは困るわ」
 突然、隣に座るメガネの女性が口を挟んだ。
雪江。とその名前を反芻しながら、高月が彼女の顔を見る。
「どういう意味?」
 女性が腰からキーホルダーを持ち出すと同時に、奥で山男も黙ったまま同じように高々とキーを掲げた。
 じゃらじゃら。と音が二つ重なる中で雪江が言う。
「第二サークル棟ね。とっくに封鎖を取っ払って、私達が住んでるの。だからカギを壊されたら困るわ。
もし住みたいのなら、案内してあげる。空き室があるから。
 小説家の、妻原高月先輩――。よね。
私達、二人ともこの学校の卒業生。つまり後輩よ。よろしく」





 早朝。うさぎ屋が閉まるの待って、三人は明け染める道を歩き、サークル棟へと向かった。
 緑校舎の第二サークル棟は、緑のうっそうと茂る中庭の中に建てられた、これまた地味で古い、三階建ての建物である。部屋数は十一ほど。
 雪江の説明によれば、そこに現在五人の住人があるらしい。全員が大学の卒業生だそうだ。
「みんな考えることは一緒だな」
「そういうことね。
 それにサークル棟は地震にも不思議なくらい被害がなくて、上下水道がまるまる生きてるの。人は水がないところには住めないでしょう。当然集まっちゃうわけ。
 ちなみに一番の古株はこの人よ。私は三ヶ月くらい前に引っ越してきたばかり。さすがに女は私一人なんだけどね」
「物好きだな」
「あなたもね。さ、どうぞ」
 あっさりした気性であるらしい雪江は、気分を害した様子もなく、サークル棟玄関に取り付けられた三つの鍵を手早く開き、高月を中へと入れてくれた。
 そこには、懐かしくほっとする空気があった。さすがに、戦前のホテルやデパートのように清潔なわけではない。けれど、最低限人が住んでいるという手間と気配が感じられ、表の街の荒廃ぶりに比べたらほとんど天国だ。
「電気はないんだろうな」
 高月は言ったが、その口調に不平不満は少しもなかった。
「ええ。さすがに電気はないわ。ろうそくかランプ生活になるわよ。
 えーと、部屋は二つ空いてるんだけど、どっちがいい?」
「どっちがおすすめかな」
「うーん…。難しいとこね。ねえ」
 寡黙を通り越してさっきから一言も話さない山男は、雪江のまなざしにただ頷いた。
「両方見せるから、好きなほう選ぶといいと思うわ。
 先に上から行こうか。三階ね。
三階には部屋二つしかないの。で、そのうち東側を私が使ってて西側が空いてるの。
 最上階だし、日当たりはいいし、いいとこよ。ただアクセスがちょっとね――」
 彼女が連れて行ってくれた部屋は、三階の西側の部屋だった。直接つながる廊下や階段がないため、一旦屋上に出て、そこを歩いて向かうことになる。
「だからまあ、手間といえば手間なのよ。雨とか降ってると部屋の前で濡れちゃうしね。私は気にならないから住んでるんだけど、水場からも遠いし。
 あとねえ、ここは一年以上人が住んでないから、実質今は物置というか…」
 がらがらがら、と引き戸が開かれると、その奥に部屋の窓を覆い尽くすほどたくさんの荷物が置かれているのが見えた。
ものすごい量だし、埃をかぶってえらいことになっている。
 思わず高月はうなり声を上げた。
「……なぜにサスペンションライトとか?」
人の頭ほどもある業務用照明だ。
「あー。それは私のせい。私がいた部屋、元演劇部の倉庫だったんだよね。だから、そんなものがいっぱいあって。
 自分が半年前に入る時、いらないものは全部こっちに移したの。ごめん」
「ていうか、捨てれば…? もう使わないだろう?」
「でも、いつ何の役に立つか分からないわ。置いといたほうがいいわよ。
 今じゃ、鉄からガラスからあらゆる資源が足りないんだから、みんな昔みたいにぽんぽん捨てたりしないのよ。最悪、クズ鉄として売りに出せるしね」
「…ああ、まあ。そうかもなあ。
 しかしこりゃー…、大掃除をしないことには住めないな。ちょっと面倒くさいかな。もう一つの部屋もこんな調子?」
「いいえ。そっちはつい半月前まで人が住んでたからきれいよ。行きましょうか」
 部屋を後にして、鉢植えやらいろいろ置いてある屋上を歩き、階段へ入って二階へ降りる。
 確かにこの距離が手間といえば手間だ。空き部屋なのもこのあたりが理由だろう。
 しかし、次にやってきた二階の、階段脇の部屋はまったく趣が違っていた。質素ながら家具は揃っているし、大変きれいに整頓され、今すぐにでも住めそうだ。
「おお!」
 寝ていない高月は思わず長椅子に飛び込みそうになった。
「すごいな! こりゃいいや! ものすごい快適だ。部室とは思えないよ。前の住人が几帳面だったんだな」
「ええ。とってもきれい好きな人だったの。奥が寝室よ」
「へー! ちゃんと自作のパーティションで区切って! 凝ってるな!
 おっ…? こりゃ遮光カーテンか。部屋が真っ暗だ。開けてもいい?」
 あたりがよく見えない。足元においてある何かを蹴飛ばしそうになった高月は、思わず窓にかかったカーテンを手に取って、開いた。
 さっと寝室に光が入り、高月は今しがた自分が蹴りそうになったのが、花瓶と小さな額縁だということに気づいた。そしてその花瓶には、みずみずしい、白い菊。
「………」
「思えばさー、なんかちょっと参ってたんだよね。あの人。病的なきれい好きだったもん。
 なのに最後はいつもきれいにしてた部屋で、血みどろの首切り自殺なんかしちゃって…。みんなでがんばって血の跡きれいにしたんだけど、やっぱりまだちょっと匂いがするね」
 うんうん。と山男が頷く。
 いわく言いがたい感じのしみの残る床から額を取り上げてみると、誰かが鉛筆で描きこんだ、静かに微笑する悲しげな青年の絵だった。
 ちょっと、生来に似ている。
「………………」


「で。高月さん。どっちにする?」
 高月は絵を下ろすと、どっかの浮世絵みたいに首を曲げて見返った。
「上にしましょうか」
「はーい」





*





「――た、高月先生! まさか!」
 昼過ぎ。
人づての手紙で呼びつけられた生来晴海青年は、苦労して入り込んだ母校のサークル棟の屋上で、総出で行われている大掃除を目にして飛び上がった。
 当の高月は首からタオルを提げてお百姓さんのようにいい汗を拭きつつ、片手を挙げる。
「いよー。生来。来たか。手伝ってくれ」
「い、いきなり呼ばれたと思ったら一体なんの騒ぎですか、これは! この人達は、ひょっとして…。
 …まさか、先生…!! こんなところに住むって言うんじゃないでしょうね!」
「こんなところとはなんだ。お前の母校でもある大学のサークル棟じゃないか。先住者の方に失礼だぞ。
 みんないい人だぞー。家具とかいろいろくれた上に、部屋の整理も手伝ってくれる」
「いらっしゃい。お茶でもどうですか」
 雪江がぬるくなったお茶をすすめる。生来はぎくりとして湯飲みをつかんだ。
「…ちょ。この水。どこの水ですか?! まさか水道のじゃないでしょうね?!
 知らないんですか? 渋谷はまだWHOによる土壌・水質浄化完了の判断が出されていないんですよ! UNMIT事務所じゃ飲用水をわざわざ他の場所から運んで…!」
「ん? なんか言った?」
 振り向いた高月は生のきゅうりなぞをぽりぽりかじっている。生来は煙を吐いて倒れそうになった。
「せんせい、そのきゅうり…」
「うん。一人、全然しゃべらない山男みたいな人いるんだけどさ、その人にもらった。下に畑作って育てたんだって。
 すごいよなあ。お前も食うか?
生でも十分うまいぞ。トマトもあるぞ」
「………」
 生来は、ここにきてようやく理解した。
分かってやってるんだ。
 このふざけた無精ひげの元・小説家は、本気で渋谷に留まるつもりなのだ。血が凍った。
「――せ、先生…!!」
「おーい、高月さんとやら! なんか面白いもん出たぞ! 古ーい演劇の台本が一箱分! これ読むか?」
「おお! 読む読む! 面白そうじゃん! しばらく読み物に不自由しないよ!」
「あ。知ってます? 二階の元・文芸サークルの部屋、書庫になってますから」
「ほんと? いいね、それ。じゃ、このダンボールの中身、整理して入れとくよ」
「よろしくです。ちなみに、先生の著書もありますよ」
「それは焼き芋の燃材だな」
「せんせー。やっと窓出たよー。楠見える。ほとんど荷物はなくなったから、後は自分でやってよ! 疲れた」
「ありがとー! みんな、助かったよ。
 一杯おごるからさ、今夜八時にうさぎ屋に集合ねー!」
「おー! やった!」
「ごっつぁんです、先輩!」



「……」
 怒りを吐き出すことも出来ず立ち尽くす生来に、雪江は親切のつもりでもう一度お茶をすすめた。
「どうですか? 熊笹のお茶ですけど、結構おいしいですよ」
 振り向いた生来は長い迷路の半ばにでも立っているかのような顔つきだった。
 出口を探す目で、雪江を見た。






(つづく)


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