トーキョー・アバンドン
2.What A Difference A Day Made





 その日、渋谷に戻った妻原高月は、とある寂れた部屋で、婆ちゃんの話を聞いていた。
 それは前は渋谷区東と呼んでた界隈にある廃ビルの一室で、婆ちゃんの旦那はそこのオーナーだったらしい。
 爺ちゃんも婆ちゃんも元々このあたりの人だったそうな。で、八階建てのビルを建て、一階は店舗として貸し出し、二階から六階はマンションとして貸し出し、自分たちは息子夫婦・孫と一緒に七階から上に暮らしてたっていう、
「なんだそりゃ! ねたましいぞ!」
的な申し分ない状況だったわけだが、それも内乱でひっくりかえった。
 いきおい話は暗くなる。その上、重い。
何しろ、寂しさの神さまが四隅にお住まいなんじゃと思えるほど孤独な和室の中央に黒光りの仏壇。位牌が五つ。みんなで笑う写真は一杯。時折目頭を押さえながら、その不幸と死について淡々と語る上品な老婆。
 訥々と、静かにやられるのがかえって重い。
初夏の昼日中。空は晴れ上がってすがすがしく青いのに、室内はうっすら涼しい。
 高月はいっそ帽子を両手で押さえて全力で逃亡したかった。だが一応大人だ。我慢して畳の上に座っていた。
 薄くておいしくない配給品のお茶を手に語る老婆の顔が、じき、じわじわと不穏になってきた。
「アタシはもうねえ、あの人殺しの、物盗りの、野蛮人の白土の奴らが、大嫌いですよ。
 テロが起きるたびに、どう、ざまあ見なさいって思うの。手や足がもがれて苦しめばいい。粉々になって泣き叫べばいい。アタシの息子や孫達の無念を、思い知るがいい」
 …ぐぐ。
「あの人たちの、人情の感じられない、透けた目。血の気の薄い肌と白っぽい髪の毛を見るたびに、もう憎くて憎くてねえ…。
 目にもしたくないから、今じゃ滅多に外には行かないの。今日みたいに月二回の配給の時だけ。
 そして毎朝お供えをするたびに、おとうさん、はやくあいつらを地獄に追い払ってくださいね、ってお祈りするのよ」
 ぐぐぐぐぐ。
「だいたいね。前からアタシは嫌いだったんですよ、あの人達のことが。
 教養もない、品もない…。日本人とは大違い。外から入ってきて、日本でお金を稼いでるくせに、悪いことばかりして、勝手におおぜい子供をこさえてねえ。
 嫁は前、アタシがこういうことを言うと、眉をひそめて『そんなこと言ってはダメですよ、おかあさん』って言ってた。
でも、どう。アタシの言った通りだったじゃないの。
 日本がこんなになったのは、あいつらのせいですよ。こんなことならもっと早く、あいつらをみんな日本から追い出しておけばよかったのよ。ここは日本人の土地なんだから。そうすればこんなことには、こんなことには、こんなことにはならなかった。
 ねえ、あなたも日本人ならそう思うでしょう? あんな連中、一人残らず死ねばいいって、思うでしょう?」
「―――し、失礼しまあす!!」
 高月はいきなり絶叫するや椅子から飛び上がって一目散にとんずらした。
 老婆が始め呆気にとられ、やがて気を悪くしていると、十分ほどで舞い戻ってきた。困惑気味の雪江の手を引いて。
「おばあちゃん! これ、雪江ちゃん! 俺の仲間!」
「は、はい、そうですか?」
「ちょっと…、一体なに?」
 雪江は配給の列に並んでいたところをいきなり拉致られて、わけが分かっていなかった。胸の前には、既に手に入れた品を入れた麻袋を抱えている。
 高月は答えぬまま、二人の女性の間をすり抜けて隣の居間の隅へと向かい、蓋の上にカバーのかかった、アップライトのピアノの前に立った。
「婆ちゃん! このピアノ! この部屋の奥でほこりかぶってるピアノ! 誰が弾いてたの?!」
「あ、ああ…。嫁と、孫ですよ。嫁は音大出で、音楽教室で子供達に教えていたの」
「雪江ちゃん! 出番だ!」
「――はあ?」
「弾いて! なんでもいいから弾いて! あ、ここに楽譜もある! うわ、なんか埃が」
「ええ〜?! ちょっと、私は今、配給に並んで…」
「それは俺がなんとかするから! なんとかするから! ね! いっそラグタイムでもいいから!」
「…もー…。なんなの、一体…」
 ぐいぐい手を引かれて、雪江は仕方なく椅子に座った。高月が埃を払った楽譜を受け取ると、バイエルとチェルニーを放り出して「みんなのうたの本」を取る。
「実に君らしい選択だね」
「役立たずは黙ってなさい」
 やがて、ざっと譜面を見た後、雪江は弾き出した。
どれも知った曲とはいえ初見だ。よくやる。
 老婆はその間、目を丸くして和室との境に立っていたが、やがてピアノが鳴り出し、馴染み深い旋律が流れ出すと、少しずつその表情が和らげられていった。
 それはまさに童謡のオンパレードだった。「おばけなんてないさ」とか、「ドロップスのうた」とか、「とんでったバナナ」とか。聴くだけで血肉がうずいた。懐かしすぎる。
 しまいに「南の島のハメハメハ大王」が鳴りだすと、座り込んだ老婆までつられて歌い始めた。
 高月は窓を大きく開いて音を外に逃がした。
 雪江と婆ちゃんと、そして一番調子はずれな高月の声は、ひび割れた廃墟を抜けて一方は道行く人の頭に降り、もう一方は白雲の浮かぶ青空へと吸い込まれていった。




「まったくもう! なんなのよ! いきなり人を働かせて!」
 日が長いから帰る道はまだ明るかったが、もう六時すぎだった。結局あれから延々と曲を弾き続け、しまいには婆ちゃんから「早春賦!」とかリクエストが来る始末。
 お礼にとお茶とお菓子を頂いたものの、時間外労働の雪江はさすがにご立腹だった。彼女の荷物を半分持って大学までの道を歩きながら、高月。
「ごめんごめん。だってあんまり暗いんだもん。
 もうね、感情が下降の一途で地底で這いずるおたまじゃくし。もういい加減明るい話も聞けるかなーと思ったら横ばいに次から次へとネタが出てきて、エンドレスよ。かわいそうで息がつまって来ちゃって。
 あの家、婆ちゃんのぞいたメンバーが全滅してるんだって」
「それがなんなのよ。渋谷じゃ三年で十万人死んでるのよ。そんな話珍しくもなんともないわ。
 二度と勘弁してよね? あなたと違って私にはやること一杯あるんだから。月に二度の配給も終わっちゃたし!」
「代わりに婆ちゃんが配給品くれたじゃん」
「これも、もらってよかったの? お婆ちゃんはどうするのよ? 誰だってろくに物資がもらえてないのよ」
「いや。なんか死んだ家族の死亡届を出してないから、毎回全員分の配給品受け取ってんだって。余ってんだよ。会った時も両手一杯もの抱えてたもの」
「ああ…。そうやって商売してる人、いるわね。
 でもお婆ちゃん、闇市に出てるふうには見えなかったけど。余らせてどうするのかしら」
「物置に積んでるだけ。
 ――悔しいんだろ。諦めるのは。だからせめて品物だけもらうんだろ。よかったじゃん、下着と生理用品たくさんもらえて」
「さいてー! エロおやじ!」
 雪江は荷物の中からちゃんと固いものを取り出して高月の頭を殴った。
「ていうか、あのお婆ちゃんとどこで知り合ったわけ? あがり込んでお茶まで頂いて」
「配給所の辺りで、あまりにたくさん物資抱えてふうふう歩いてるから気になって。
 周りには目つきの悪いやつたくさんいたし、突き飛ばされて強盗されるなんて暗い結末待ってるよかお手伝いしようかなと。
 そしたら家に上げてくれたのよ。ま、そこから悲しい話が延々始まっちゃったんだけど」
「…なんか高月先生さ、思ってたより軟弱ってゆーかお調子者ってゆーか。作品とイメージ違うよね」
「えーそーお? 俺、昔から暗いの嫌いだよ?」
「…何言ってんのよ、あんだけスプラッターな小説書いといて」
 高月の作品は、処女作から三冊続けて無駄にバイオレンスな内容で有名だ。あるエッセイストが「タランティーノか妻原」と書いたことがあるが、つまりそれくらいに退廃的で狂った暴力が頻繁に出てくる。
 その種類も、なんかかっこいいようなものではなく、人が四方八方に吹っ飛ぶとか、思い切りつぶれて板になるとか実にグロで、それだから比較対象にあの顎のしゃくれた監督が出てくるのだ。
「だってせっかく小説読むのにわざわざ悲しい話とかつらい話はやでしょ。だからなんとか笑える形にしようと思うわけじゃん」
「…イヤなら悪いこと、書かなきゃいいじゃない」
「えー。だって殺人だって通り魔だって戦争だって、それ自体は実際あることだもん。無視するってわけにも。
 でも合理的かつ機械的に人が殺されたりするのは、なーんかただただ気分が悪くなって後味がよくないし。つーことでいっそ花火にして打ち上げてみたりするわけよ。
どどーんと。
 知ってる? 『パノラマ島綺譚』。人肉の雨が降るの。豪勢だよねー。どうせやるならあれくらいやらなくちゃ」
「……」
このヒゲ男とまともに話をしようと思った自分が莫迦だったと雪江は思ふ。


 ところで、その日はイベントの多い一日だった。
てくてくと大学の近くまで戻ってみると、そこでまた別の騒ぎが起きていたのだ。
 数人が集まった中央で、なにやら暴力が転がされている。
「――おい、やめろよ! やめてくれよ!」
 必死に声を上げて止めようとしているのは、見れば高月らと同じくサークル棟に住む数人。彼らの妨害を
「やかましいわ! すっこんでろ!」
と跳ね除けて乱暴狼藉を続けているのが、いかにもこわもての見慣れぬ兄さん達三人。
 そして、その足元に転げて足蹴にされている丸っこいのは、ジャズ・バー『うさぎ屋』のマスター、兎会だった。



「――ちょ、ちょっと! どうしたの?!」
 仰天した雪江が思わず飛び込む。
「一体、何よ! どうしてこんな乱暴をするの!」
「ゆ、雪江ちゃん…」
「なんだ、お前。また仲間か?! ああ?!」
 一歩遅れた高月は思う。ああこりゃ、ヤクザさんだな。
どうしてヤクザさんは崩壊前と崩壊後であまり見た目が変わらないのか。時空を越えた存在なのか。ユネスコ世界遺産か。
 同時に事態の見当もついた。
兎会のおやじは借金もちだ。国がつぶれた混乱を好機に、そいつをうやむやにするために行方をくらましたと言っていた。
「…だっさー。バレてんじゃん」
 借りた方はほくそ笑んでも、貸した方は忘れない。兎会は借金の取立てにとうとう居場所を悟られ、『出勤』の途中で不意打ちを食らったのだ。
 その騒ぎを目撃した仲間達が驚いて止めに入り、押し合いへし合い。そんなとこだろう。
「――やめてくれよ! こんな乱暴することないだろう!」
「こいつがナメた真似すっからだろ! 思い知ってもらわないとな!
 どうする? 勉強料で指の一本くらい切られてみるか? 二度と逃げようなんて考えないようによ!」
「…お、お前ら。誰だよ」
 地べたに押し付けられた兎会がやっと言って、咳き込んだ。
「俺はお前らなんか知らないぞ。…ゲホッ。俺はヤクザから金なんか借りてない!」
 その言葉に一人があろうことか、ベロを出した。
「おう。確かにそうだろうなあ。でもな、お前の債権、今はウチに移ってるんだわ。
 この戦争で、色んなものが高いところから低いところへこうツツーと動いててな。あいにくだな」
「――あ、あいつら、勝手に売りやがったな! 俺の借金」
「ま、そーいうこった。だからお前は俺らに金を払わなくちゃならねーんだよ。分かったか、このデブうさぎ!
 今日はとりあえず利息だけでも払ってもらおうか!」
「…か、金なんかない。分かるだろ。まともな商売が出来る状態じゃない」
「それがお前の答えか?! じゃ、なにか?! 首でもくくってくれんのか、オラァ!」
「やめろって! 無茶言うなよ! それでも同じ日本人か?!」
「おう! だから話が分かると思って日本語で説明してやってんじゃねーか! やるか、お前?! なんならお前の指でもいいんだぜ!
 その女を寄越すんでもいいけどな、男とるにゃちょっと色気が足りねーかな!」
「この野郎…!」
 挑発された手と挑発した手がぶつかり合い、軽い小競り合いになる。そこに高月は笑いながら踏み込んでいった。
「ちょっとちょっと。およしなさいって」
「なんだお前!」
「面倒と悲惨が嫌いな通りすがりです。
 やめよーよ。もうちょっと互いに歩みよろーよ。とりあえず店にいこーよ。いい音楽聴いて、お酒飲んでから話し合おーよ」
「なあにヘラヘラしやがってんだ。ムカツくな、この――」
 どうしてか、一番最後に入った、一番無関係な高月が、一番先にぶん殴られる。
 思うに、高月はけっこう殴られやすい顔をしているらしい。前もどれだけ渋谷に馴染んでも、陰謀的に繰り返し職質されたし、色んな相手から難癖もよくつけられた。なめられやすい顔なのかもしれない。
「…!」
 首が真横に曲がって視界に息を呑む雪江が見えた。でもぼやけていた。耳の後ろでカチン、という音。
メガネが、道に落ちたのだ。
「…いったあ…」
 高月は、渋い顔で自分を殴った若いヤクザさんを見た。彼は仕事を果たした、というのと、これから反撃が来る、というののごちゃまぜになった顔をしていた。
 高月も考えていた。どうしようかなあもう。
腹が立つから一発、殴っとこうか――。どうせ最後はボコボコにされるだろうけど。
 その時。
「――待て」
 若いのの派手シャツの肩に、節くれだった手が置かれた。その後ろから、しゃれたグラサンをかけた、ちょっとだけ上役ぽいのが出てくる。高月と同世代くらいの男だ。
 そいつはグラサンをずらして、印象の悪い細い目を更に細くして、高月の顔をじろじろ眺めた。挙句に、言った。
「…あんた、妻原高月、か? 物書きの」
「……そうだけど」
 痛みで別物みたいになってきた頬をさすりつつ、答える。
「いや、つーかコーヅキじゃなくてタカツキだけど。よく間違えられるけど」
「……『胎内の虹』の?」
「そう」
「?」
 周囲にはヘンな空気が流れた。そりゃそうだ。ヤクザの下っ端が『新文学』とか読んでてたまるか。
 でも高月の名前は、グラサンにはかなり効いた。男はまるで道で芸能人に会った時のように驚いて、それを隠そうとグラスを戻す。
「――マジモンか? 海外にいるって聞いたぜ」
「戻ったんだ。つい、二週間前。ここに来たのは、一週間前」
「…なに? ここに住んでんのか?」
「構内のサークル棟にいるよ。この人達の世話になってる」
 高月はメガネを拾って鼻の上に乗っけた。割ときれいな服を着ているグラサンは呆れたらしかった。
「おかしな男だな。大金持ちじゃないのか、あんた」
「そう、でも、ない。
 ――ところで、このうさぎの親父さんとは遺憾ながらつきあいが長くてね。出来れば、あまり無茶はしないでほしいんだけど。まあこれがあんたらのお仕事なんだろうけどね。
 仲間内で話し合っておくから、今日のところは待ってくれないかな」
「冗談言ってんじゃねえよ!」
 見せ場とばかりに出てこようとする下っ端をグラサンの掌が無言で戻した。
「――兄さん?」
「…まあ、少しくらいなら、待ってやってもいいがな」
「あ、ホント?」
「ただし、お前がちょっと顔かすならな」
「――…は?」
 どういうわけだか分からないが、目配せ一閃。高月はいきなり両脇をつかまれて連行され、近くに止めてあったヤクザの車に押し込められてしまった。
 雪江達はもちろん、鼻血を出した兎会も驚いてそれを見送る。最後の瞬間に、タイミングよく現れたのは生来だ。ちょうど車のドアが閉まる頃、坂下に現れてびっくり仰天して駆け上がってくる。
「ちょ、ちょっと待て! あんたら誰だ! その人をどうする気だ!」
 グラサンは気にもかけず高月の隣に乗り込むと、ドアを小気味よく閉て切った。生来は窓ガラスに手をかけてなにやら叫んでいたが、車が走り出すと一瞬で後ろに引き離されてしまう。
「……」
 高月は振り向いて一応手を振ったけれど、プラチナブロンドの青年は、ひきつった顔で路傍に立ち尽くしていた。
 それがどんどん小さくなっていって、しまいに角を曲がって見えなくなる。なんだか、犬でも捨てたような気持ちになった。
「どっかで見た顔だな」
 隣でグラサン。
「UNMITの事務官だよ」
「おう。そうだ。通訳やってる男だな。何度か仕事をしてるところを見たぜ。
 ――やるか?」
 問いかけるような声に視線を向けると、グラサンより先にタバコの箱が視界に飛び込んできた。思わず一本もらって、目の高さに持ち上げる。
「…こんなきれいに巻いてあるシガレット、久しぶりに見た」
「いい時代になったぜ。もう誰もタバコに目くじら立てたりしねえ。タバコよりも酒よりも、もっと悪いもんが渋谷中にうんとバラ撒かれたんだからな。
 健康とか長生きとかヒアルロン酸とか、今じゃもう誰も言わねえよ」
「白土軍は、正式には認めてないんだろ」
「あいつらは火事場泥棒の人殺しだ――。連中が二年前、渋谷で何をやったか、みんな知ってる」
「そんであんたらはその後の混乱につけこんで商売してる、ハイエナってわけだね」
 火の立つライターが、眼鏡のスレスレまで突きつけられた。前髪がちょっと焼けて嫌なにおいがした。
 高月のタバコに火がつくとグラサンは笑いながら手を下ろす。
「元気なんだよ。俺は元気なの。やりたいことがたくさんある。
 日本が滅んで、すっかり絶望しちまってウジウジしてる連中も大勢いるがな。俺はそうじゃねえ。
 人生五十年。結構じゃねーか。生きてやる。生き抜いてやるさ。せいぜい楽しくな」
「……」
 若いのが運転しながら問う。
「兄さん。事務所でいいんですか」
「おう。慌てるこたあない。ゆっくり行け」
 車は停戦合意ラインを超して青山通りを永田町方面に走り、電気の通った、明るい街の中央をのびのびと進んだ。
 七日間、灯りなし電気なしの生活を送った高月には、このぴかぴかの車も周囲の光景も、まるで遊園地か映画の別世界みたいに見える。
 あんまり美しいから、夢の中に入り込んだみたいで、昔のこともどんどん思い出し、今自分がチノパンにスニーカーなんて履いているのが不思議なくらいだ。
 頭の中には昼間に聞いた、みんなの明るい歌声。
遊び疲れてタクシーの中、うつらうつらしながら小説の筋を考えていたあの頃のようだ。
 ――さて、一体。と高月は味わい終えた煙草を灰皿に押し付けながら考える。
 これから何が始まるのでしょーか。






「…先生。大丈夫かしら」
 営業の始まったうさぎ屋のカウンターで、雪江がボソッと言った。
「あまり考えたことなかったけど、ここで先生に何かあったりしたら…、すごくヤバいんじゃない?」
「だから、再三鎌倉に行くように言ったのに…」
 責任感の強い生来はすっかり参ってしまって、さっきからずっと頭を抱えている。
「坂本先生になんと言ったら…」
「まあ、借金してるのは先生じゃないから、多分大丈夫だよ」
「でも。案外、青山墓地に埋められたりして」
「!!」
 全員にものすごい目で見られた兎会は思わず首をすっこめ、小さな声で謝った。
「すいませんでした」





 やがて車は、赤坂界隈と思しきとあるビルの横に着いた。入ってみれば、あの老婆の住むヒビの入った廃ビルとは大違い――よく掃除された床に電光がなめらかに滑る。それがそれだけで魔法のように目を奪う。
 高月はすっかり体内時計を狂わされ、子供みたいにあちこち見上げてきょろきょろしてしまった。
 やがて三階の部屋へ通された。ソファに座らされると、お茶やお菓子もなしに、いきなりヘンな写真を見せられた。
 半裸のグラサンが、やっぱり半裸の色白な女と、楽しそうにピースサインをしている。背景は湿気の多そうな、狭く薄暗くチープな部屋。
「……なんですか、これ」
「新橋のヘルスで撮った嬢との写真」
「……」
 いやもう、見たまんまだけれど。
「で?」
「分かんねーかな、高月さんよ。それ、元アイドルの、湖山ちえりだ」
「――え」
 思わず写真を引っつかむ。
「えええええええええ?!」
「今は二時間本番込みで三万五千のヘルス嬢だ。違う源氏名名乗ってるし、気づいてない客も大勢いるがな。
 しかし、薄情な男だな。お前は気づけよ。一度は付き合ってた女だろ。ましてや、こんな写真まで撮られた仲だろーが」
 顔を上げた高月の鼻先に、雑誌が突きつけられる。
 旧日本では大手だった有名写真週刊誌。高月自身にも見覚えのある記事とモノクロの写真が、目と記憶を突き刺す。

衝撃! 我らのC.K.ちゃん
深夜の渋谷ラブホ街でいちゃいちゃデート&ディープキス


「な、なんで…」
 と言ったのは、その写真には目伏せの処理が行われているからだ。当時、高月はまだデビュー前で、ただの不良大学生だったから出版社も配慮したのだ。
 なぜそれが自分だとバレている?!
雑誌を持つグラサンが、狂気漂う口元でにやりと笑った。
「――ファンの間じゃ、有名だったぜ。ただ、噂は噂だったからな。マジかネタかは分からなかったが、今のアンタの顔を見て分かった。
――マジだな? マジであいつとネタんだな?
 ちなみにな、当時無職でのたくってた俺は、この記事に激怒して、相手の男をぶっ殺すために和歌山の山奥から上京してきた。実際に、あんたの事務所近くをナイフ持ってうろうろしてたことも一度や二度じゃない。
 妻原高月さんよ。こんなところで、ついにお会いできて嬉しいぜ。写真の通りの顔だ。よく壁に貼ってボールペンでブスブスやったもんだぜ…」
 ひひひと笑うグラサンの見事なグラデーションを見ながら、高月は考えていた。
 ごめん、おばあちゃん。また遊びに行くって言ったけど。
もう二度とお会いできないかもしれません。





 その頃、廃ビルに住むその老婆は見知らぬ同世代の女性の訪問を受け、面食らっているところだった。
 その女性は、にこにこ笑いながら早く食べないと腐っちゃうからおすそ分け、と煮物の入った皿を彼女に差し出した。
「前から、何度かお姿をお見かけしていたんだけど、なんだか遠慮しちゃって。
 でも今日、配給からの帰り道に、懐かしい曲がたくさん聴こえてきて。なんだかどうしてもお話がしたくなっちゃって。
 あたしもね、このすぐ近くに一人で住んでるんですよ。お友達になっていただけないかしら」
「……」





「な。なんじゃこりゃああ!」
 ドアが開き、電気が点けられると、高月はどっかの俳優さんのような声を漏らして飛び上がった。
 無理もない。何しろ、私室とおぼしきその部屋には壁一面にポスター、ポストカード、ブロマイド。そして壁際には等身大のキャンペーン用フィギュアが、見えてるだけでも五、六体。
 陳列棚には無数のグッズが整然と並び、どこの美術館に入ったのかと思う。
 もちろんそれら全て、湖山ちえりのものだった。
「すげえだろう。俺は彼女をテレビで見た十五の夏から、自分の嫁さんにすると決めてたんだ」
 そう言いながらグラサンはすぐ電気を消して、私室のドアを閉める。
「ここには誰も入れねーんだ。ちえりを汚されたらたまらねーからな」
「…………」
 高月の背中をますます脂汗が流れていく。
「さー。高月さん。時間はたっぷりある。
 とりあえず、席に戻れや」
 うろたえものめ、なおれなおれ、そこになおれ。
「ていうか、今更つまらん言い逃れだけはやめとけなー。今、お前を取り囲んでる連中、ナイフどころか拳銃持ってるから。最近、身元不明死体なんか珍しくもないしよ」
 じょういであある。しんみょうにいたせい。
「……」
「じゃー、とりあえず一通り聞かせてもらおうかなあ。正直に白状しろよ。あんたが正直なら、俺もそんな大人気ないことしない、つもりだからよ。
 じゃ、まずなにから聞くかな。そうだな、湖山ちえりの――、趣味は何だ?」
「――は?」
 高月は、本気でテーブルにつんのめった。見れば、グラサン氏は至極真面目な顔で手帳とペンを構えている。
「…なんですか、それ」
「俺のちえり用ノート。
 メモるんだよ、ここに。忘れたらダメだろうが。見るか? 血液型とか誕生日とか星座とか全部メモってんぞ。
 あんたにゃこれから全部吐いてもらうからな。ちえりの好きな食い物とか服とか映画とか動物とか座右の銘とか、あんたの記憶がすっからかんになって、逆に全てが俺のものになるまで」
 唖然とする高月の代わりに、周りの弟分が一人、呆れて口を出した。
「…兄さん。いい加減にしましょーよお。
 今更あの女の好みなんか聞いてどーするんスか。今までだって散々高い食い物とか着るもんとか花束とか贈ってやってるじゃないですか。なのにあの女どんどん図に乗って、どんどんワケわかんない要求ばっかして…。
 相手はヘルス嬢ですよお? そんなことしなくても、店に金払ってどっかハコに入れちゃえば済むことじゃないですか!」
「バカヤロー! お前はまだそんなこと言ってんのか。そんなことして、何が楽しい?
 俺はな、口説きてえんだよ!
湖山ちえりを。真正面から口説いて口説いて口説きまくって、バカみたいな正道のプレゼント攻勢とデート攻撃で誠意を見せて、見事口説き落としてみせんだよ。
 あいつに『一緒に行くわ』って自分から言わせんだよ! それでこそ男として一人の女をものにしたってことだろうが。
 違うか? 高月さんよぉ」
「……」
 だからタカツキだって。
「うらやましかったねえ。この写真見たときは。東京に住んでるあんたが憎かったよ。
 だがあんたはちえり相手に札びら切ったわけじゃないだろう。徒手空拳で、あいつの心をつかんだんだろ。
 あんたに出来て俺にできないってことはない。俺はいつか、この写真の中に飛び込んでお前の代わりにちえりと路上で激写されんだよ」
 高月はおずおずと手を上げて、チンピラ達を指差した。
「…彼らがカメラマン役?」
「ま、そういうこった。
 けどな、今までちえりに言われたとーりにプレゼントやったり、いいレストランに連れていってやったり散々したが、いまいち喜ばねーんだよ。
 あいつ、ウソを言ってやがる。誕生石の指輪だとか、輸入物の最高級スイーツだとか、別にほしかねーんだ。てきとーなことを言ってやがるだけなんだ。俺を信用してねえ。
 だから俺はあいつの懐に飛び込んでやるんだ。そんで俺が本気だってコトをあいつに見せて、考えを変えさせてやるんだよ。
 高月さんよ。あんたが頼りだ。教えてくれ。あいつは何が好きな、どんな女の子なんだ」
「……」
 高月はしばらく、黙っていた。その間に、グラサン君の言い回しによれば、ゆっくり『考えを変え』ていたのだ。
「…好みが変わってるかもしれないよ?」
「いいんだよ。人間そんな極端には変わりやしねえ。データは多いほうがいい」
「…そうだな。食べ物でいうと、彼女、甘いものはあまり好きじゃなかった。どっちかって言うと塩っぽいくどい料理が好きで、あと度数の強いお酒も…」
「なに?! 俺には大の甘いもの好きだとか言ってやがったぞ! だましてやがったな?!」
「ていうかアイドル的答えだと思う」
「兄さんのプレゼントした菓子、多分店の他の女の子に流れてましたよ。俺、女の子から妙にうまいチョコもらったことあるもん」
「クソーッ! 憎たらしく愛しい女じゃねーか。今度、ウィスキーとジャーキーを差し入れてやる!」
「でも、意外に小物とか、キャラクターっぽいものが好きだったりしたな。それもなんか洋物が好きだった。タンタンとか、ケンケンとか」
「タンタン?」
「革靴履いた金髪のガキっすよ」
「そうそう。あとは――」
 だんだん、高月は面白くなってきた。このカマキリみたいなグラサンをかけた男が、恋愛に悩んでいて、自分の言葉に一喜一憂するのも面白かったし、彼がしようとしていることも愉快なら、いつかそれに取り囲まれた湖山ちえりが浮かべるであろう困惑の表情を想像するのも快かった。
 そして、おふざけが好きな高月は最後の最後になって、いたずらを我慢できなくなった。
いきなり手を打ち鳴らして、言ったのだ。
「あ、そうだ! 大事なことを忘れてた!
 ちえりは、もんのすごいおやじギャグが好きで、俺が何か言う度にちょーウケてた!」
「え? おやじギャグ?」
「そう。ダジャレを言うのはダレジャ。このレベルでOK。
『やーめーてー』とか言いながらげらげら笑い転げるから」
「だ、だじゃれを言うのは…」
「『かあちゃん、パンツが破れた!』『またかい?!』」
「――おい、お前ら。本屋行って、ギャグの本買って来い」
 そんなもんあるんですか。という顔の弟分たち。
「古本屋でも図書館でもなんでもいい! さっさと行って来いやボケェ!」
 ていうか今、もう午後八時とかなんですが。二人ばかりのチンピラが浮かない表情で部屋から出て行った。
「ジョークか。参ったな。俺はどうもそういうのは苦手だしキャラじゃねーんだがなあ」
 と、メモをしまいながらグラサン君。
「惚れた女のためとあらばしょうがねえ。ものにしてやるぜ」
「いいねいいね。男だねえ。
 俺、夜はまず毎日あの大学の中の『うさぎ屋』にいるからさ。相談においでよ。いつでも」
「――ありがとよ。お前、いいやつだな」
 じゃらりと腕時計が鳴って、手が差し出された。高月はそれをがっしり握って応え、やがて行きと同じ車で大学の脇まであっさりと送り届けられた。



「――兄さん! 神田の古本屋叩き起こして、『パーティーで受けるジョーク集』と『おやじギャグの真価・会話を楽しくする198のコツ』って本、買ってきました!」
「よおし、よくやった! 俺はこれから勉強するから、お前らこれでてきとーにやってろ」
「え? ええ?」
「に、兄さん。兎会の借金どうするんです?」
「うるせえ! そんなんは後回しだ! さっさと出てけ!」
「えええ?! ちょっと、兄さん!」
「いーー。――マジすか? マジすかああ…? もう…」




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