トーキョー・アバンドン
5.Body And Soul





 生来さんのことですね。彼と初めてUNMITで一緒に仕事をした日のことを憶えています。
 大きなダンボールを持って、駅から事務所まで狭い坂道を往復しました。他にも大勢働いているスタッフがいて、道も事務所内も混雑していました。
 生来さんは一度も誰ともぶつからないんです。前から人がやってきたときはもちろん、後ろから誰かが自分を追い越そうとしている時も、気配を感じるとすうっと道を開いて相手を通し、知らぬ間に障壁になっているようなことは一度もありませんでした。
 荷物を持って、振り向きもしないのにそうなんで、私は『この人の背中には目がついている!』と思いました。
 その後、何度か仕事を一緒にしましたが、その度ごとに同じ印象はますます強くなりました。
 彼は、常に大変な気遣いを以って周囲を観察している男性です。心根は繊細でいつも弱者の立場に立ちます。
 だから大抵ワリを食っていました。
国連職員だって全員が全員、有能なわけでも人間的に優れているわけでもありません――


 銀座事務所に配置換えになったのが、悔しくてたまりません。
もし一緒にいたら、こんな事態は絶対許しませんでした。
 私は彼の苦境を放置した渋谷事務所の全スタッフを批難します。










 偽 日 本 人
 国 へ 帰 れ
 死 ね













 この世に不思議なことはなにもない。啓かれた頭脳で考えれば、全ては単純なこと。
分からないのは、この心と身体だけ。


 自分がどうして目の敵にされるのか分かっていた。
人は誰でも得体の知れないものをよそ者扱いしたい、指さして彼岸扱いして、同時に同岸の仲間と結合したいという欲求を持っている。深い混血にも関わらずいきなり先祖帰りしてしまった自分と姉は、その卑小かつ自然な人間性に、おあつらえ向きの外貌を持っていた。
 同時に本国の人間にとって、外地に住む白土人は常に彼岸の存在である。彼らは我々を受け入れる振りをしているが、心底では軽蔑している。信用ならぬ裏切り者だと思っている。
 にもかかわらず、それを隠して公平に振舞おうとするので、ねじれたものが降ることになる。
 姉が暴漢に集団で撲殺され、焼かれた時、自分はまだ怒る権利を持っていた。
 しかし白土軍が日本に侵入し、神奈川から京浜地方を狂ったように荒らしたことで、その権利は暴落した。
 それを主張すれば果てしない水掛け論に足を踏み入れることになった。
 お前達が殺したのが悪いのだ。違う。お前らが人殺しだから殺したのだ。
 その二つの極論の中で我々家族は沈黙していた。我々の考えることはただ一つ。姉を返してくれということだけだった。
 姉が帰ってこないことは分かっていた。
例えばもっとつらい矛盾の中に突き落とされ苦しんでいる日本人だっているのだということも分かっていた。
 分からないのは、この心と身体だけだ。



 あれは幻聴だったのだろうか。それとも本当に聴いたんだろうか。
 ある夜のステージが終わった後、一見客の二人連れが帰る背後に居合わせた。
 彼らの背中がこう言った。
『このご時世に、何考えているんだろう、この店は』
『気分悪い。やっぱり白土人は歌も腐ってるな』
 既に白土軍の侵攻が始まっていた時だった。
彼らは白土人を認める心理にはなかったのだ。それでいて分かりやすい外見の自分はそれと分かったが、日本人にしか見えないマスターについては白土系と気づくこともなく帰って行った。
 渋谷や『うさぎ屋』にはそぐわない客だ。
迂闊だ。偽善だ。心無い。勝手だ。野暮だ。二度と来なくていい。
 そう分かっていたのに、その晩からいきなり歌えなくなった。
歌いだそうとすると強いめまいがして酔った。



 破壊されていく渋谷。破壊されていく社会。
何が起きているか、全部分かっていた。
着いていけないのはこの心と身体だけ。
 この二つは狂うと一風変わった食事を要求する。
いつしか自分は自分をいじめ始めた。そうすると気が休まった。
やがて自分が何を目指しているのか分かっていた。
 死だ。
自分は自分を、滅ぼしてしまいたがっている。
この世から立ち去りたがっている。
 それさえ分かる。なのに止められない。
言うことをきかない。
理性だけが両目を見開いて自分の愚かな行いを見ている。
 くたびれた。
本当にもう限界だ。
 戦いに終止符を打つのは正しさではなく運命である。自分は、あまりにくたびれたので、心と身体が勝利を収めればいいと、この理性を破壊し尽くせばいいと、そう願っている。









「どうだ、ドクター」
「継続的な加療の必要な、極度に衰弱した患者ですな」
「そんなことは見れば分かる。とにかくすぐ食事を摂るようにさせろ。二日間、飲まず食わずで、このままでは満足に聞き取りも出来ない」
「…根深い心理的問題を抱えた人間に対して、短絡的なアプローチは禁物です、大佐。
 彼の本心は幾重にも積み重なった秘密と悲惨の奥底に隠されている。それを一つ一つ解きほぐして解決してゆかねば、本来の回復は有り得ません。
 …自傷行動を起こさぬよう、よく監視することです。また信頼できるカウンセラーを用意して絆を与え、彼を全面的に保護してください。それ以外に、彼を長丁場の国際法廷までもたせる術はありません」
「君はそんなことを言いに来たのか? 少しは患者を説得したらどうだ。
 彼には白土側の幅広い不法行為を告発してもらわねばならない。全ては平和と正義のためなのだ」
「…彼は極めて知能の高い、思慮深い患者です、大佐。
 恐らく正義感に訴えて説得しても、すぐに見抜くでしょう。相争う二つの勢力の間で、自分という不運な存在が利用されているだけだと――」
「存在が利用されない人間が、この世に存在するか?
 あなたは一度も利用されたことがないのか? だとすればあなたは誰にとっても、世界にとっても、用無しだということだ」
「…では、その当然の力関係を受け入れることさえできないほど、現在の彼は草臥れ果て、気力を失くしているのです。
 大佐。あなたはお強い。だから、お分かりでないかもしれませんが、心がくじけてしまって、前にも後ろにも進めなくなるということが、人間にはあります。そんな状態の患者を攻撃しても、病状は悪化するだけです。
 ――何かありましたらすぐ呼んでください。心療心理士を探しておきます。幸か不幸か、この内戦で日本における現場のスキルは飛躍的に進化しました。お役には立てると思います。
 但し、半年から一年は、当たり前に覚悟してください。
失礼します」



「ひ弱な日本人め。――いっそ、滅亡してしまえ」







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