トーキョー・アバンドン
6.For All We Know






 そのふざけた紙きれは、本当にグラサンの事務所でコピーされ、四分の一にカットされ、夜のうちにうさぎ屋へもちこまれ、みんなの同意を得て、翌朝渋谷中に撒き散らされた。
 特にバンドのメンバー達はそれぞれかなりがんばって遠くに行き、ピアノ君などは代々木を過ぎて旧政府統治エリアにまで撒いてきたらしい。
 同時に高月達はライブの準備を始めた。
第十三講義室では会場が間に合わない。講堂が見下ろす中庭を会場として、椅子やテーブルを揃え、また草ぼうぼうのところを山男君の尋常でない労働力の助けを借りて、刈り取る。
 サークル棟のメンバーは、既に一人が荷物を持って故郷へ戻っていた。他二人も脱出の予定だが、ライブが終わってからにする、と言って準備を手伝ってくれる。




 大学の構内でそんなことが行われている間にも、渋谷からは着々と人が消えていった。もはや闇市も機能していない。町に出て出会うのは野ざらしの廃墟と緑、そして兵隊だけだった。
 避難民のなかには、構内で一休みしている間に騒ぎに気づいて、ぽけーっと彼らの仕事を見ている人間もいた。
 一体何をバカなことをしているのだろう、こいつらは、とその頬に書いてあった。




 そして、当日。
天気はもった。昼過ぎには晴天になった。セミがじわじわ鳴く中、かなりハードに働いてきたメンバー達は白いテントの下で昼寝をしていた。
長い長い最後の夜に備えているのだ。
 高月も顔に帽子を載せたサックス氏とよだれをたらすピアノ君の間に寝ていたのだが、誰かに揺すり起こされて、目を開いた。
 グラサンだった。
真夏の太陽の下で見ると大体胡散臭い人間だが、今日は何故か、どこかの誠実そうな若者に見えた。着ている服が地味なのだ。そうするとメガネがクールだから、ただの二枚目に見える。
「…あれ。渋谷、出入り禁止じゃなかったの?」
 だから先日、フライヤーを受け取って別れる時、ワリと気合の入ったお別れをしたのだが。
『じゃ、ちえりのことは、任せたぜ! 涅槃で待つ!』
「…そーだよ。だからこんなダセエ格好だ。すぐ帰る。
 昨日、事務所の近くで、拾ってな」
 くしゃくしゃになったフライヤーだった。後ろにくたびれて寝ている彼らの、努力の結果だ。
 それからグラサンはあたりをぐるりと見回して、言った。
「負け惜しみの冗談だといいなんて思ってたが――。本気でやるらしいな?」
「うん。みんな全然普通にOKしてくれたよ。ルオンも、ホラ、あの通り。教授なんだけど、あの人。ホント一本気でいい奴だろ。ははは。
 君も、ありがとな。本当に色々助かった。持つべきものは、ヤクザの友達だよね」
 彼の笑いは空回りした。虚しく、青空に吸い込まれていった。
 グラサンはいつもと雰囲気が違い、高月に対して壁を作っていた。背後には、墓標のように聳える講堂。
 高月ははなから、前後を壁に挟まれている自分の立場に気がついていた。
 グラサンが、身体を揺すって、少し右足を引く。緊張した空気を逃がすように。それでも声はまだ真面目だった。
「…このまま、冗談づくで、あんたの手に乗ったまま、別れれば十分だと、思ってたんだ。
 あんたと遊ぶのは楽しかったし、俺だって社会の鼻ツマミ者だ。人に説教垂れられるような、お上品な人間じゃねーからな。
 ――あんたは作家だ。みんなが知ってるもの書きだ。チラシに『妻原高月』と書きゃあ、人が集まるだろうし自分でもそれが分かってる、いっぱしの男だ。アイドルだ」
「レアカードでもいいよ。ふふふ」
 偏光グラスのフチから八の字眉毛が飛び出す。
「ホントによ、あんたのその、フザけたいーかげんな態度にだまされて、いーかげんにいい気持ちにさせられて、いーかげんに遊ぶ毎日。
 楽しかったよ。そんなバカとつきあったこともあった。それでいいじゃないかって、思おうとしたさ。
 …でもな。昨日の夜、こいつが濡れた落ち葉みたいに俺の脚に引っかかってズボンを汚した時、なんだかいきなり、俺の中に蓄積されてたお前に対する憎悪が、いき値を越したんだよ」
 空は青。高月のシャツとグラサンのズボンは白い。雲も白い。
蝉が鳴いている。滅んだ渋谷に梢が揺れる。
額に汗が浮かぶ。
「――三日前には修羅場を演じておいて、同じ場所で、今日には楽しく、お遊戯ごっこか。
 渋谷で。
三十万が死んで、何十万人がその後遺症に苦しんでいるこの場所で、自分の名前で、どんちゃん騒ぎか。
 生きるか死ぬかって時に、みんな、お前にバカにされていると思うぜ」
 実際そうだった。
フライヤーを配りに行ったドラム君など、怒られて手持ちのチラシを破り捨てられてしまったこともあったらしい。
 だって腹が立つだろう。
妻原高月と言えば旧世界でもペラペラで軟派で嘆かわしいので有名だった男だ。
 努力とか誠実とか、小さな善行なんてことまるで意に介さない、自分勝手でモラルのない若造が、こんなふざけた、世の中をなめ切った、人々の悲劇をあざ笑うような騒ぎを起こして――、許しがたいではないか。
 ドラムを突き飛ばした初老の男は、『そんなヒマがあったら志願しろ!』と怒ったらしい。
 同じくらいの眼光で、グラサンは容赦を得ようとしてか、へらへら笑っている高月を睨む。
「言いたかない――だが、もうダメだ。言うしかねー。
 あんたはな、妻原コーヅキ…、不真面目だよ。
頭がおかしいよ。着いていけねーよ。
 何を考えてるんだ。ふざけんじゃねーよ。
あんたには恥ってもんがねーのか。節度ってもんがねーのか。人の気持ちが分からないのか。
 こんだけ人の人生狂わせておいて、まだ足りないってのか。
人が死ぬぞ。そこに寝てる連中。みんな死んだらどうすんだ。あんたにその責任が取れんのかよ。考えなしなんだろ。
 あんたは無責任だ。不愉快だ。バカにしてる。
あんたは――、軽薄だよ。
 どうしようもない。あんたは、どうしようもない。
どうしようもない、ろくでなしだ」
 それは、本当の言葉だった。
普通の男であるグラサンが、ためにためて、本当は言うことじゃないと分かっていながら遂に我慢できずに吐き出された言葉だ。
 だから、それは本当の言葉なのだ。先生が生徒を励ます時に使うような、技巧めいたものではない。
 さすがにそんな実弾を食らっては高月の笑顔も凍りつき、血の気も引く。しかしグラサンの顔だって蒼白だった。
蝉の声が遠かった。
 やがて、内側から氷を溶かして、高月の笑みが、自由を取り戻す。
「それでも、俺は絶望したくない」
 背後に墓標のような講堂の威圧を感じながら。それを体内から、押し返すように笑いながら。
「そのためには、なんでもする。
 なんでもする」
 知恵が進歩したと言うのなら、教えてもらいたいものだ。絶望とは、一体なんなのか。
 人の頭に取りつく、あの暗い、重い、その虚無に耐え切れずじき簡単に死にたいと転ぶあの黒いものの主成分は、何なのか。
解析していただきたいものだ。
 そうしたらそいつをレーザーで焼いたり化学的に殲滅したり遺伝子から除去したりできるだろう。
 でもそうはできないから、ありとあらゆる手を使うのだ。
遊び歩いてみたり、人がバラバラに爆発する小説を書いて笑ってみたり、いい音楽を聴いてみんなで騒いだり。
 自分はそんなことのために、音楽を聴いたり小説を書いたりはしない?
それは結構。高月はそうなのだ。
 絶望と闘うこと。
それが高月の――多分、運命なのだ。
 死に物狂いの戦いに、モラルなんてない。申し訳ないけれど、自分としては、こうするより他に仕方がないのである。
「――…」
 グラサンは突然、かくりと顎を引いた。
見たことのない姿だったが、すぐ、立ち直った。
 話が変わった。
「…ちえりが、とうとう、俺の用意したマンションに入ってくれることになった」
「おお。そう! おめでとう。さすが色男!」
「まあ戦争がおきている間だけって釘は刺されたけどな。
 ――あんたのおかげだ」
「違うよ、実力だよ」
「いや。ちえりが言うには、自分を手に入れようと格好をつける男はいっぱいいるけど、こんなに格好悪くなったのは俺だけだったんだとよ」

 ――だからこの先も、自分はどれだけ格好悪くなっても、私を大事にしてくれそうな気がするわ。

「おやじギャグが好きなんて、嘘だろ」
「あははは。いや、つい」
「でも、あんたのおかげだ」
「違うよ。実力だよ。あはははは」
 ひとしきり、二人はへらへら笑って身体を揺すりあった。
別れの時が近づいていることを、互いが察していた。
「…また、会おうや」
「そーだね。また会おう。こないだ名刺ももらったし」
「あと、最後にこれな」
 グラサン君が渡してくれたのは、修理済みの眼鏡だった。
 なじみのフレームに、新しいグラスがはめ込まれて、見る限りそれも戦前と同じく超薄型の高級レンズだった。
「…お代は」
「次に会った時までにツケとくぜ」
 さすがに、その好意には絶句しそうになった。必死で冗談を探った。
「…違法金利なんだろ?」
「だからさっさと俺を見つけるこった」
「どうも、ありがとう。じゃ――」
「じゃあな。死ぬなよ」
「もちろん。君も!」
 握手をして、別れた。
手がしびれていた。


 去っていく彼を、高月が新しい眼鏡のレンズ越しに眺めていたら、むっくりと兎会が起き上がった。
 いつごろからか目を覚ましていたらしいが、二人とも何も言わなかった。



 やがて、グラサンが去っていった正門の方角から、人々が、少しずつやってきた。
 夕方が近づくにつれ、その数は次第に増え、やがて中庭は、当の高月達まで驚くような人数になった。
「すげえな。何人いる?」
「えーと、百人くらいかな…。だってテーブルもう一杯だよ。
 シート敷いてピクニックしてる奴らもいる」
 うち何人かは、主催者として名前のある高月に挨拶に来た。みんな一様に、彼の粗末な格好には驚いていたが、話してみるとだいたい想像通りの人だと言った。高月も彼らにどこから来たのか聞いてみた。すると渋谷の外からやってきたという人間の方が多かった。
 うさぎ屋の元客もいて、マスターとの再会を喜ぶ一幕もあれば、ジャズは知らないが来たという若者も多かった。
「チラシを見たときは冗談かと思いましたー。まさか今の渋谷でイベントなんてー。
 お母さんに嘘ついて遊びに来たの。夢のような一夜を期待してまーす」
 ツメを派手に塗った女の子はそう言って、赤い唇でにっこり笑った。
 少しの緊張と、本番の喜びがメンバー達の顔つきを変えていく。
 やがて、赤い太陽が西の森に消えた頃、最初の曲が始まった。 『ジャングル・マッドネス』。




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